韓国歴史の旅4日目その5 [2011年10月31日(Mon)]
4日目(10/26)最後の見学地は、陵山里古墳群(王宮の東3km、羅城外の東側)と陵山里寺跡を見学しました。 この古墳群の中で、東下塚は、扶余唯一の壁画古墳で、玄室の四壁に、四神・蓮華文・飛雲文が描かれている(6世紀後葉から7世紀前半の貴重な百済壁画古墳)。写真は古墳群の様子。 陵山里寺跡は、羅城と陵山里古墳群の間の谷間に立地し、伽藍配置は、南から中門・塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ一塔一金堂式(写真はその模型)。塔心礎上出土の石製舎利龕の銘文には、塔が567年に、聖王の菩提を弔う寺院として発願されたと記されている。次の写真は、国立扶余博物館図録から転載。次の写真はこの寺から出土した百済金銅大香炉です(国立扶余博物館展示)。蓮の花と山の峰で象徴される百済の精神世界を具現したもので、この時代最高の傑作と評価されている。 この香炉の出土状態の写真が同博物館図録にありましたので、転載しておきます。その状況からみて、唐の侵攻から隠すために埋められたかと推定されます。
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韓国歴史の旅4日目その4 [2011年10月31日(Mon)]
次いで、扶余にある定林寺跡を見学しました。 百済末123年の都邑期を通して残っている唯一の百済遺跡とされている。典型的な一塔一金堂式の伽藍配置で、南から中門・石塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門からの回廊が北で講堂に結ばれる(案内図の写真参照)。 五層の石塔には、その初層塔身に「大唐平百済国碑銘」の課題のある碑文が刻まれている(平百済塔(ピョンペクチェタブ)の呼称がある)。唐が百済国を平定したことを記念して刻まれた碑文で、冒頭に、660年の百済滅亡年に建てるとあり、続く本文には唐の司令官などの名が刻まれ、功績をたたえている(百済の人にとっては屈辱の碑)。
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韓国歴史の旅4日目その3 [2011年10月31日(Mon)]
4日目(10/26)午後は、扶余に戻りまず扶蘇山城に登りました。 538年、百済は熊津(公州)から泗沘(サビ)へ遷都。扶蘇山城はその王京を守る重要な山城の一つ。平時には宮の庭園となり、戦争の時には最後の防御城として利用された。扶蘇山南斜面の官北里・双北里一帯が王宮跡の有力候補地とされる。660年に、唐の侵攻でこの都は灰燼に帰した(この時三千の宮女が節操を守るため身を投げたと言われる落花岩が、扶蘇山城山頂付近の白馬江に面した所にある)。 城内遺構の軍倉(食料を保存した)跡(次の写真)まで登りました。 この付近からは、白馬江(白村江)を望むことが出来ます(白馬江は古代中国・日本と交易路の役割を果たした)。
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katakago
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韓国歴史の旅4日目その2 [2011年10月31日(Mon)]
益山(イクサン)では、次いで王宮里寺跡を訪れました。伽藍配置は、木塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ。木塔は後に現存の五層の石塔に建て替えられた(写真)。石塔の解体修理に伴い、第一層屋蓋上面と心礎から舎利函・舎利具が発見されています。下層から石垣による区画をもつ大規模な遺構が発見されています(王宮関係の遺構か)。王宮関係の施設を寺院としたものと推定されています。
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at 15:01
韓国歴史の旅4日目その1 [2011年10月31日(Mon)]
25日夜、扶余のホテルに到着しましたが、4日目(10/26)は朝一番に益山(イクサン)にある弥勒寺の見学に出かけました。武王の時に益山に遷都したかとの見方もあるようです(但し扶余が都として廃されたわけではなく副都であったか)。 弥勒寺は百済で最大のお寺で、武王代(600〜641)に創建と伝承されている。伽藍配置は南北一直線に並ぶ中門・塔・金堂の組み合わせを東西に3つ並べ(西院、中院、東院)、その背後に講堂を一つ置く特異な伽藍構造を持つ(次の模型写真参照)。現存する西塔(石塔)は韓国最大で、現在解体修理中でした。修理の様子は見学できるようになっていました。東塔は九重塔に復元されていました(次の写真)。 西塔内部の心柱石から舎利荘厳が発見され(2009年)、舎利内壷・外壷・舎利奉安記等が見出されました。その様子の写真を、弥勒寺跡遺物展示館のパンフレットから転載しておきます。沙宅王后(佐平沙宅積徳の娘)が伽藍を造立し、已亥年(639)正月九日に舎利を奉安したと記されています。
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katakago
at 14:15
韓国歴史の旅3日目その4 [2011年10月31日(Mon)]
宋山里古墳群は、百済熊津の王京時代の王と王族の墓が群集している場所で、武寧王(461〜523)陵と古墳群模型館を見学しました。武寧王陵は、1971年に、宋山里5〜6号墳の排水路工事中に偶然発見されたそうです(世紀の発見とされる)。 模型館にある玄室の内部を木下先生の説明を聞きながら見学です。 盗掘を免れ墓室内の遺物は完全な状態で残っており、埋葬状況が判る稀有な例であり、武寧王と王妃の墓誌が出土したことより被葬者が確定されています。次の写真は、模型館に展示の埋葬状況です。手前が王妃(左側)で奥が王(右側)で、木製頭枕と木製足座に置く伸展葬。王は装身具に、金製冠飾、金製耳飾り、金製首飾り、金銅製飾履等を身に付け、単龍文環頭大刀を佩用。副葬品は、頭部に獣帯鏡、足部に方格規矩鏡。 墓誌の写真を国立公州博物館の図録から掲載しておきます。寧東大将軍百済斯麻王は62歳で亡くなり(523年)、525年に大墓に埋葬とあります(武寧は謚号)。この墓誌はこの王陵から発見された最も重要な遺物で、裏面には墓地を地神から買い取る記録が刻されている(買地券)。王妃の墓誌も出土しています。 武寧王と王妃の木棺材について興味深い事実があります。樹種は世界的に1科1属1種だけである高野槇であり、当時百済と倭との交流過程で、日本からもたらされたものである事が分かっています。次の写真は、国立公州博物館展示の木棺です。
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at 06:41
韓国歴史の旅3日目その3 [2011年10月30日(Sun)]
ここからは見学場所が慶州から公州に移動しました。 前期百済の王京はソウルにあったが、475年に高句麗の攻撃により一旦滅亡。文周が熊津(公州)に逃れて即位し、百済を再興。公山城(コンサンソン)は、文周元年(475)〜聖王16年(538)まで5代63年間の王城。この山城は、北に錦江(白村江)が流れ(次の写真)、海抜100mの稜線に位置する天恵の要塞で、城壁は東西に約800m、南北に約400mの長方形を成している。百済時代の土塁が南東部に部分的に残っている。木下先生の説明を聴きながら見学。
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at 22:09
韓国歴史の旅3日目その2 [2011年10月30日(Sun)]
統一新羅時代の王陵で東南部にある掛陵を訪ねました。元聖王(798年没)陵かと見られている。標高100mほどの丘陵南斜面に立地している(風水思想の典型例)。外護列石は切石を立てて並べ、十二支像(武器を持ち鎧を着た武人像)が陽刻されている(次の写真はその一例)。周囲に石欄干を巡らし、正面に石床が置かれている。
参道の両側には二対の石獣と二対の文武の石人像が配置されている(武人像は胡人の容貌)。
次の写真は参道から王陵を見た様子。
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katakago
at 21:35
韓国歴史の旅3日目その1 [2011年10月30日(Sun)]
3日目(10/25)は、まず慶州市にある仏国寺(世界遺産に指定されている)を見学しました。751年(景徳王10年)に、当時宰相であった金大城が創建した寺です。秀吉の壬辰の倭乱で建物が焼失し、石造物のみ残っていたが、1973年に復元された。中心伽藍は長さ92mの石壇上に築かれ(伽藍自体が仏国を象徴)、登壇するには二つの石階(青雲橋、蓮花橋)を登る。石階の下には精巧なアーチ型通路がある。伽藍配置は統一新羅の典型的な双塔式伽藍で、大雄殿(金堂に当たる)の前に、多宝塔(東塔)・釈迦塔(西塔)、北には講堂に当たる無説殿が配置されている。 次の写真は、釈迦塔その次は多宝塔(石組技術を凝らした精緻な作り) 安養門の奥(西区)にある極楽殿(準金堂に当たる)の額裏に金色の豚(韓国では十二支の亥は猪ではなく豚)の像が掛けられていました。現地のガイドさんによると、韓国では十二支の中で豚が一番で、600年(10運)毎に巡って来る亥年は大変おめでたい年(直近では4年前)で、この年に生まれた子供はお金に恵まれるとのことで、前年は結婚ラッシュであったとの事でした。
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at 16:05
韓国歴史の旅2日目その4 [2011年10月30日(Sun)]
武烈王陵を見学しました。武烈王の没年は661年。「太宗武烈大王之碑」と書かれた石碑によって、その陵墓が武烈王のものであることが判明している数少ない例です。次の写真はその武烈王陵碑です。亀型の台の上には、本来あったはずの碑身(王の業績が書かれる)が無くなっていますが、その上の部分には、「太宗武烈大王之碑」という文字が陽刻されています。王陵墓の写真です。自然石による外護烈石があるが、この時期は未だ十二支像を持っていません。次に鮑石亭跡を訪れました。ここは新羅王室が祭事を執り行った場所で、現在は、曲水宴の痕跡である石の溝が残っています(次の写真)。 次に訪れた九政洞方形墳は、統一新羅時代の方墳としては特異なもので、外護烈石は、長方形切石を三段に積んで葛石を乗せ、束石に十二支像が陽刻されています(写真)。 2目の日程の最後に四天王寺の発掘現場を通り、下車して道路沿いで見学する機会を得ました。写真手前は、碑石の亀型台座(この上に碑身が乗る)。
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at 10:17
韓国歴史の旅2日目その3 [2011年10月30日(Sun)]
皇南洞古墳公園(大陵園)は、5世紀を中心とした金氏一族の王陵群(味鄒王陵、皇南大塚、天馬塚、金冠塚、瑞鳳塚など23基)が密集しています(次の写真は表示板より)。 味鄒王陵の写真。 皇南大塚の写真。 次の二点は王陵出土の金冠で、いずれも国立慶州博物館に展示されていました(ストロボを発光しなければ写真はOK)。山字形金冠は新羅の特徴。 一点目は、瑞鳳塚出土の金冠。次は、金冠塚木棺内より出土の金冠。
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at 09:48
韓国歴史の旅2日目その2 [2011年10月30日(Sun)]
新羅の王京の施設を見学しました。月城(ウオルソン)は新羅の王宮で、低い丘陵上にあり、南側は南川に沿って屈曲し半月状になり、「半月城」とも呼ばれる。次の写真は鶏林から見た月城です。 雁鴨池は、674年に新羅の文武王が半島統一を記念して宮内に造られた園地です(次の写真)。出土品は、国立慶州博物館内の雁鴨池館に展示されていました。 ここには、日本の飛鳥京園地の石造水槽とよく似た導水の石造施設があります(次の写真)。 瞻星台は月城の北にある石造の建築物で、天体観測と関連した施設と考えられています(次の写真)。善徳王時代(632〜647年)に築かれたようです(「授時頒暦は天子の大権」)。なお、パンフレットには、積み上げられた石の数は361個で陰暦の1年の日数と同じとありました。 この地区一帯は世界遺産に指定されています。
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at 08:58
韓国歴史の旅2日目その1 [2011年10月30日(Sun)]
2日目(10/24)は、新羅が存続していた間ずっと都があった慶州(新羅千年の都)の遺跡を訪ねました。写真掲載の制約(1ブログにつき5枚)があり、何回かに分けて報告します。
寺院関係では芬皇寺跡と皇龍寺跡を見学しました。 芬皇寺は、善徳王3年(634)創建で、創建時の遺構は次の写真の石塔のみです。中国の磚塔を模倣して、壇上積基壇上に安山岩板石を積み上げて造られた石塔です(この中に舎利函が納められていた)。現在は三層に復元されています。 芬皇寺の隣にある皇龍寺は、新羅仏教上、最重要で最大の寺院(完工は566年)で、再建伽藍は一塔三金堂式(中金堂、東西金堂、九重塔、中門、回廊、講堂)。次の写真は、中金堂基壇中央に残る丈六三尊像の石造台座と、木下先生による説明の様子です。 次の写真は幢竿支柱
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at 08:01
韓国歴史の旅1日目(10/23) [2011年10月29日(Sat)]
10月23日から4泊5日の旅程で、「飛鳥を愛する会」主催の秋季現地講座(韓国歴史の旅 − 金海・慶州・公州・扶余・益山)に参加してきました。同行講師は、「飛鳥を愛する会」会長の木下正史先生(東京学芸大学名誉教授)で、事前に訪問予定先に関する資料が配布されており、現地ではこれをもとに詳しい説明をして頂きました。 筆者は、万葉集歌の鑑賞から入って当時の歴史にも興味をいだき、『古事記』、『日本書紀』の講座を受講し、更に「魏志倭人伝」を読み解く講座にも参加してきました。『万葉集』にも唐や新羅に派遣された人の歌が残されていますが、時代をさかのぼって更に古い時代から、中国大陸や朝鮮半島の国々との交流が行われてきました(倭国の時代の国内遺跡からその影響を受けたものが多く出土しています)。 今回は、金官伽耶、新羅、百済の遺跡と、その出土品が展示されている博物館(慶州・扶余・公州・中央の各国立博物館)を訪れました。行程順にブログで紹介して行こうと思います(自らの知識の整理のためにも)。
1日目は、午後に金海空港到着後、まず金海大成洞古墳を訪れ、木下先生の説明を受けながら、大成洞古墳博物館を見学しました。 [倭国との交流を示す事例] 金官伽耶(狗邪国)は洛東江周辺の鉄鉱床を利用して早くから製鉄業を発展させ、紀元3世紀ころには、楽浪や帯方、馬韓、倭などに輸出していたようで、大成洞古墳群の木槨墓から出土している鉄鋌と同類のものが、弥生後期の西日本各地で出土しているとの事です。 大成洞1号出土の馬冑と類似のものが、和歌山県大谷古墳から出土しているとの事です。 広形銅矛は、弥生時代の倭国(北部九州)では祭祀具として用いられるのに対し、良洞里遺跡では、広形銅矛が墳墓に副葬されており使用例が異なるが、半島と接する対馬でのみ副葬例がありこの地域との関係の深さが示唆されています。 その後慶州に移動し、金庾信将軍墓を見学しました。金庾信は、660年に、唐・新羅連合軍が百済の王都(扶余)を攻撃し、陥落させた新羅の将軍です(この年に百済滅亡)。金庾信は673年に79歳で薨じた。 墓の全体写真と外護列石および護石に陽刻された十二支神像の一つを示しておきます(新羅のお墓の特徴)。
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at 17:10
韓国歴史の旅(お知らせ) [2011年10月22日(Sat)]
明日より「韓国歴史の旅」に出かけます。「飛鳥を愛する会」の秋季現地講座で、金海・慶州・公州・扶余・益山を訪れることになっています。 旅行の様子は、帰国後来週末より報告の予定です。
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at 11:07
サネカズラの実 [2011年10月22日(Sat)]
サネカズラの花は8/17に掲載していますが、今は写真のような実(液果)を付けています。来月下旬頃には赤く色づくと思われます。
花が咲き終わった草花は、いま実が出来ています。 ヘクソカズラ(花は7/25)の果実です。 アカネ(花は9/14)の液果です。 ヤブマメ(花は9/26)の莢です。 ハマユウ(花は8/3)の刮ハです。
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at 10:16
マツタケ(その2) [2011年10月21日(Fri)]
今週は奥の山に二度(18,20日)出かけましたが、昨日はカラ振りでした。写真は18日に見つけたものです。先週掲載(14日)のものは、やや白っぽかったのですが、一週間後に見つけたものは茶色がかってきました(出初めは白いようです)。 奥の山は、地元の方に管理をお願いしていたものですが、退職後こちらに帰って来たのを機に、筆者が直接見廻ることになりました。初めの年は、何度か一緒に場所を教えてもらいながら山の中を歩きましたが、初めの頃は独りで行くと、山の下り口が分からなくなって山中で迷うことになるのではと、ずいぶん気にしながら通ったものです。何度か通ううちに最近は、自分なりのルートを設定して回れるようになりました(山全体からするとごく限られたエリアですが)。朝6時過ぎに車で出かけ、7時前から山に入りこれはと思われる場所を3時間ほどかけて歩き回ります。かなり急な斜面を登り下りする(下から見上げるようにして探す)ので、大変な運動量になります。見つかれば疲れも吹っ飛びますが、空振りの時はがっくりして戻って来ることになります。 折角出ていても、不法侵入者(木の枝を折って目印を付けているようです)に先に取られたり、猪・鹿による食害も多くて、最近は見つけられる数がずいぶん減ってしまいました。
先週見つけたセンブリが花を咲かせていました。 山裾の一角でススキの原が広がっていました。植物園で一株だけ植えてある(10/16)のとはずいぶん趣が違います。 この山には、万葉植物として、他にマツ・クヌギ・アセビ・ネズ・クリ等の樹木や、クズ・ヨメナ等の草本がみられます。
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at 19:03
コウヤボウキの花 [2011年10月20日(Thu)]
コウヤボウキ(きく科)の花が咲き始めました。万葉歌で、たまばはき(原文は多麻婆波伎・玉箒と表記)として詠まれています。次に示す歌の玉箒は、コウヤボウキの茎を束ねて作られたものです(その材料となるこの落葉低木も「たばばはき」とよばれたようです。 【歌】 初春の 初子の今日の 玉箒 手に取るからに 揺らく玉の緒 (大伴家持 S-4493) 【口語訳】 正月の 初子の今日の 玉箒 手に取るだけで ゆらゆらと鳴る玉の緒よ 題詞によれば、 天平宝字二年(758)春正月の三日(初子の日、太陽暦の二月十九日に当たり、家持41歳)に、侍従、豎子(じゅし)、王臣たちを召して、玉箒(たまばはき)を下されて宴が催され、内相藤原仲麻呂が勅を受けて、「諸王卿らよ、自分の能力、自分の思いのままに歌を作り、合わせて詩を賦せ」と仰せられたとあります。この歌は、右中弁大伴家持の作ですが、左注には、大蔵省の勤務の都合で、奏上できなかったとあります。 中国では周漢時代から 正月初子の日に、帝王躬耕(きゅうこう)・后妃親蚕(しんさん)の儀式が行われ、この時、玉箒が辛鋤(からすき)とともに飾られた(玉箒は実用的には蚕の床を掃くためのもの、辛鋤は農耕用)。日本にも、孝謙天皇の頃にその習俗が伝わって宮廷の年中行事の一つになったようです。 現在、正倉院南倉に、目利箒と手辛鋤が残っており、その玉箒には雑玉(諸種の色ガラス)が付いています。これら二点は、2009年の正倉院展に出品されました。辛鋤の裏面と、玉箒の袋に、天平寶字二年正月の墨書が残っています(次の写真は図録から)。まさに万葉集に記されている初子の日の宴で飾られた可能性のある品が、1250年後の今日も残されているのは大変興味深いことです。 なお、正倉院宝物の呼称には、「子日目利箒(ねのひのめとぎぼうき)」とあり、素材がメドハギ(まめ科)と見なされたことによるものですが、調査の結果、実際はきく科のコウヤボウキの茎が束ねられていることが判明しています。茎が写っている写真を次に載せておきます。
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at 13:15
ヒマワリの生育状況 [2011年10月19日(Wed)]
万葉植物ではありませんが、晩秋にも花を咲かせようと、9月初旬に播いたヒマワリが畑の一角で育ってきています(前回は9/30に紹介)。写真のように蕾を付けています。草丈は夏の時期に比べかなり低いですが、来月下旬には花を咲かせるものと思われます。
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at 10:03
アサザが今も咲いています [2011年10月18日(Tue)]
アサザ(みつがしわ科)の写真と万葉歌は、6月4日に掲載していますが、ビオトープ池では今も花を咲かせています(数は少なくなりましたが)。花は一日花ですが、地下茎は水底の泥の中を横にはって伸び、いくつか花茎を水面に伸ばしています。 ビオトープ池の現在の様子です。 蓮池の現在の様子です。ハスの葉が池全面に広がっています。 池の堤では、イヌタデの花が咲いています。
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at 13:07
秋の待兼山を訪ねて(10/16) [2011年10月17日(Mon)]
大阪大学21世紀懐徳堂主催の、秋の里山散策(第6回植物探検隊@秋の待兼山を訪ねて)に出かけて来ました。阪大豊中キャンパスの待兼山(豊中市、池田市、箕面市に広がる)は、普段は一般に開放されておらず、里山の自然がそのままの状態で残されているとのことです。講師の栗原佐智子さん(『キャンパスに咲く花』の編著者)の案内で、あらかじめ講師が下見をしておいた見どころを中心に説明を聴きながら、約一時間半にわたって散策しました。筆者が万葉植物園で栽培管理している植物では、クヌギ、エゴノキ、ツガ、アラカシ、イヌビワ、エノキ、マユミ、テイカカズラ、アカマツ、モチツツジ、コウヤボウキ、ヤマハギ、クズ、ススキ、ヨメナ、ヤブラン等を見ることが出来ました。植物園では実際の植生とは関係なく植えているものもあるので(自生のものもありますが)、本当はこのような里山で実際に自生している様子を見ながら万葉歌を鑑賞するのが良いかと思いました。
草を押し分け、待兼山の中へ入って行きます。 ゲンノショウコの花が咲いていました。 ここは待兼山の三角点(77.3m)です。 アオギリの実が生っていました。『万葉集』では巻五の大伴旅人の歌(D-810、811)の題詞に、「梧桐(ごとう)の日本琴(やまとごと)一面」として出てきます。アオギリは未だ植物園には植えていません。種を少し貰って来ましたので、発芽するか試みて見ようと思っています。
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at 06:00
ススキ [2011年10月16日(Sun)]
山上憶良が詠んだ「秋の七種(くさ)」の一つ、ススキが穂を出しています。万葉歌には、すすき(原文は須為寸などと表記)または、をばな(尾花)として詠まれています。 【歌】 めづらしき 君が家なる はだすすき 穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも (石川朝臣広成 G-1601) 【口語訳】 懐かしい あなたの家の 花すすきが 穂に出る秋の 過ぎて行くのが惜しまれます 秋の雑歌の部に、家持の歌と並べて載せられています。家持と広成が共に内舎人であった久邇京で詠まれたと見られています(天平15年(743))。原文の皮須為寸(はだすすき)は、古写本では、「波奈須為寸(はなすすき)」とあり、穂が出たすすき(花すすき)と解されています。なお、万葉歌で「すすき」とあるものは18首、尾花としているものが18首あります。
ススキ以外の秋の七種については、既に掲載していますが、今日現在植物園で咲いている写真を載せておきます。フジバカマ以外は、花が咲いたのち茎を切り、その後側枝が出てきて花を付けています。 キキョウ(あさがほ) カワラナデシコオミナエシフジバカマ
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at 10:20
マツタケ(秋の香) [2011年10月14日(Fri)]
この季節、農作業やカルチャーセンターに通う合間に、親から相続した山に出かけます。車で40〜50分のところにある山林で、運が良ければマツタケにも出会えます。写真は、12日に見つけたものです。 万葉歌にも一首だけ、あきのか(原文は、秋香と表記)として詠まれています。 【歌】 高松の この峰も狭に 笠立てて 満ち盛りたる 秋の香の良さ (I-2233) 【口語訳】 高松の この峰狭しと 笠を突き立てて 満ち溢れている 秋の香りのまあ良いこと 「芳(か)を詠む」の一首として出てきます。高松は、高円(たかまと)のこととみられています(高円山は奈良の春日山の東南)。峰一面に生えているマツタケの芳香を詠んだ歌ですが、現在では、このような光景を見ることは出来ません。 なお、万葉歌には、他の茸類を詠んだ歌はありませんが、『日本書紀』応神天皇十九年の条に、吉野の国樔が、土地の産物の栗・菌(キノコの意)・年魚等を貢上したと記されています。
山の中で、センブリ(りんどう科)を見つけました(まだ蕾でしたが)。
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at 10:57
古代学講座(3回目) [2011年10月12日(Wed)]
「古代学講座 − 東アジアの中の倭国を考える」の3回目は、「新羅と倭 - 古代韓日交渉史研究の新たな展望」と題して、朴天秀先生(慶北大学考古人類学科教授)が講演されました。 三国時代(高句麗・百済・新羅)は三国が対立関係にあった分、倭国は新羅に対して有利な立場で武力衝突もあったようですが、朴先生によると、考古学的に見て倭国が新羅を武力で制圧したような形跡は認められないとのことでした。倭国が新羅と交渉を持った理由は、当時新羅は韓半島では鉄器を生産できる唯一の国であり、ここから先進技術を導入するためと見られています。5世紀前半の日本の遺跡から、新羅産の鐵鋌が出土しています((愛媛県出作遺跡、岡山県窪木薬師遺跡、大阪府野中古墳、奈良県大和6号墳など)。一方、新羅王陵から金冠が多く出土しており(皇南大塚ほか)、その飾りに翡翠の勾玉が付けられているものもあり、翡翠の勾玉は全体では5000点以上も出土しているとのことです。朴先生によると、これらは日本の糸魚川産の翡翠とのことでした。朴先生は、鉄鋌を得る見返りに翡翠が贈られたのではないかと考えられています(倭国は新羅王権との交渉により先進技術の導入を図った)。 また、5世紀前半の日本の古墳から新羅産の金工品が出土しており、6世紀後半の奈良県藤ノ木古墳からは、新羅に特有の3本足の鞍金具も出土しています。
百済の役後の天智七年(668)以降、両国から相互に使いが派遣されるようになります。『万葉集』にも、天平八年(736)に派遣された遣新羅使人の歌が145首載せられています(巻15)。
今月23日より、4泊5日の旅程で、「飛鳥を愛する会」主催の韓国歴史の旅(金海・慶州・公州・扶余・益山)に出かける予定です。現地での遺跡見学を楽しみにしています。
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at 17:54
合奏団”京浜東北線の世界” [2011年10月11日(Tue)]
10月9日に神奈川芸術劇場(横浜市)で開催された、合奏団”京浜東北線の世界”(略称はWKTだそうです)の創立10周年記念演奏会に出かけて来ました。WKTのブログ(http://wkt2011.blog27.fc2.com/)によると、慶応義塾ワグネル・ソサィエティ・オーケストラの中でJR京浜東北線(根岸線)で練習後帰っていた仲間たちが中心となって結成された合奏団で、2001年の創立以来、毎年イギリス弦楽合奏曲やモーツアルトの曲を演奏して来ました。 今回はその10周年記念ということでモーツアルトの歌劇「魔笛」に挑戦することになったそうです。この合奏団には、息子のお嫁さんが創立以来のメンバーとして参加しています。1st Violinの一員としてだけではなく、演出家との打ち合わせや会場を借りる交渉等も担当し、会社勤めの傍ら、この日の演奏会に向け準備と練習に取り組んできたそうです。今回500名以上の方が聴きに来られ、演奏も歌も素晴らしく終わると盛大な拍手を受けていました(写真)。
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at 06:14
萬葉学会公開講演会(10/8) [2011年10月10日(Mon)]
この8日より、第64回萬葉学会が園田学園女子大学で開催されています。萬葉学会は、万葉集とそれに関連する各分野の研究を目的とし、200号を超える会誌『萬葉』には、厳しい審査を通った論文が掲載されています。一方で万葉集に関心のある者ならば会費を払えば誰でも入会できる、一般にも開かれた学会です。筆者も数年前から会員で、初日(8日)の公開講演会と懇親会に参加しました。 公開講演会では、「上代の形容詞」(蜂矢真郷 中部大学教授)と「万葉集の相聞の性格」(寺川眞知夫 同志社女子大学特任教授)の2題の講演が行われました。 最初の講演は、一般人には難し過ぎる内容で公開講演会向きではないように思われました。 2題目の「万葉集の相聞の性格」では、初期相聞から平安時代の古今集恋の部に続いてゆく、相聞歌の移り変わりについて寺川先生のお考えが紹介されました。初期相聞の典型的な例は、男女の一対一の歌で、男女が同じ場所にいて声を交わしたと見なされる歌や、声では歌い交わせない、距離の離れた二つの場所にいて交わされた歌がある。また、古代日本では人前で恋の歌の贈答も行われ(歌垣における対歌)、その流れが遊びとして宴席などでも行われたようです(例として、湯原王と娘子との間の贈答歌ほか)。さらに、相聞に分類されるもの中には、贈答を表現しない題詞の歌もあり、これらの中には贈答のペアを伴わないものが含まれる(贈答をしなかった歌、答歌を期待しない独詠歌、宴席で恋にかかわる題のもとに詠まれた歌など)。そして、古今集の歌との比較では、万葉集では思う人を「妹」と表現するのに対し、古今集では思う人を「人」で表現した歌(未だ恋人関係になっていない人を思う歌)が増えていることより、歌が実際の贈答から、恋をテーマにした歌に移って行ったことがみられ、万葉後期の歌人の歌にもこの萌芽がみられるとのことでした。 また、相聞に「死」の表現が多くみられること(万葉集全体の恋歌(相聞)の中に「死」の語が65例ほどある)にも触れられていました。万葉集以後の勅撰集にはこの現象はあまり見られなくなるのも興味深く思われました。
懇親会は尼崎市総合文化センター宴会室で行われ、80名近くの方が参加されました。次の写真は、挨拶される萬葉学会代表の坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長、奈良女子大学名誉教授)です。 立食で歓談しながらその場を楽しんでいたところ、宴席の半ばで司会者から、「猪名川万葉植物園」の木田さんと御指名があり、突然のことで一瞬うろたえましたが、この機会に植物園のPRもさせていただけました。
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katakago
at 19:01
ラッカセイの収穫 [2011年10月08日(Sat)]
ラッカセイの株を掘り上げました。一粒の種から写真のように地中で多くの豆果を付けていました。掘り上げたものはすぐに茹でるとビールのおつまみにあうようです。
9月中旬に定植したハクサイ、キャベツ、ブロッコリーの苗も大きく育ってきました。これらは、今回初めて取り組んでいる野菜です。 同じく、9月半ばに種イモを植え付けたジャガイモ(品種:アイノアカ)の様子です。
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katakago
at 10:04
春に向けて蕾が [2011年10月07日(Fri)]
ミツマタ(じんちょうげ科)が蕾を付けています。万葉歌にも、「春されば まづ三枝(さきくさ)の」と、「さきくさ」として詠まれています。3月下旬から4月上旬にかけて、枝先に束状の薄い黄色の花を咲かせます。今は写真のように葉を付けていますが、花が咲く頃には葉はなくなっています。
同じ頃咲くアセビ(万葉歌では、あしび)も蕾を付けています。 次の写真は、ヤブツバキの蕾です。2月中旬から3月下旬にかけて花を咲かせます。 先に紹介している、フジバカマ(9/19)とオケラ(9/28)の現在の様子も載せておきます。白のフジバカマも花を咲かせています。 オケラの花です。
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katakago
at 11:56
ハンノキ [2011年10月06日(Thu)]
ハンノキ(かばのき科)の雄花序の写真です。ハンノキの実や樹皮は黒色の染料に用いられたようです。万葉歌では、はり(原文では榛・針・波里と表記)として詠まれています。 【歌】 引馬野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに (長忌寸奥麻呂 @-57) 【口語訳】 引馬野の 色づく榛の原に なだれ込み 衣を染め給え 旅の証に 題詞によれば、持統太上天皇が三河国に行幸した時の歌です。『続日本紀』によると、大宝二年(702)十月十日(太陽暦十一月十八日)に、太上天皇(持統)が三河国に行幸し、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て翌月二十五日に還営した、とあります。 「にほふ」は、花や女の容姿の照り映えることをいう。新編日本古典文学全集『万葉集』によれば、榛は榛摺りという染色法があるので、おりから色づいた榛の木に触れたら、すぐ衣服が染まるように言いなした遊戯的な歌と見られています。古代の榛摺りは、ハンノキ類の実を焼いた黒灰で摺り染めが行われたようです。
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at 17:51
古代学講座(2回目) [2011年10月05日(Wed)]
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at 19:34
ヒオウギの種(その2) [2011年10月04日(Tue)]
ヒオウギ(あやめ科)の種の写真と万葉歌は、9/16にも掲載しています。万葉歌に詠まれている、ぬばたまは、このヒオウギの種と考えられています。全て、黒・夜・暗・夢などにかかる枕詞として用いられています。9/16には、「黒」と「夜」にかかる例を示しましたが、ここでは、夜との連想から「夢(いめ)」にかかる例を取り上げます。 【歌】 相思はず 君はあるらし ぬばたまの 夢にも見えず うけひて寝れど (J-2589) 【口語訳】 あなたは私のことを思って下さってはいないようですね 夜の夢にもあなたはお姿を見せません 神様にお願いしているのですが (『萬葉集全歌講義』より) 当時は、夢に恋しい人が見えるのは、その人がこちらを思っているしるしと考えられていました。夢に君の姿が見えないのは、相手がこちらを思っていないしるしと思い、嘆いている女の歌です。 次は、相手が夢に見えた場合です。湯原王と娘子との贈答歌の中の娘子の歌です。 【歌】 我が背子が かく恋ふれこそ ぬばたまの 夢に見えつつ 寝ねらえずけれ (4-639) 【口語訳】 あなたが こんなにまで思ってくださるからこそ (ぬばたまの) 夢にずっと見えて 眠れなかったのですね
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at 21:28
妻の水墨画 [2011年10月03日(Mon)]
夫婦で朝日カルチャーセンターに通っています。筆者は、万葉集(中之島、芦屋教室)と尺八(芦屋教室)を受講し、妻は、ボタニカルと水墨画(川西教室)を習っています。今回初めて、水墨画の講師(林芳辰さん)が主宰される「芳辰会」の合同水墨画展に出品することになりました。写真の蓮が今回の作品です。なお、落款は、中之島教室で万葉集を一緒に受講している方(書家で篆刻も)のご厚意で作成していただいたものです。 会場はエルおおさか(9F)で、10月5日までです。
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at 05:10
柿が色づく [2011年10月02日(Sun)]
果樹園のカキが色づき始めました。写真は次郎。その他、富有、太秋、禅寺丸、黒柿等を植えています。
クリは3品種植えています。早生の丹波は収穫を終え(写真は9/9掲載)、栗の渋皮煮も作ってみました。渋皮を傷つけないようにして鬼皮を剥き、濁りが出なくなるまで何度も水をとりかえては茹でてあく抜きを行い、最後に砂糖とブランデーで味付けを行う結構手間のかかる作業です。写真の品種は筑波で、このほか銀寄を植えています。そろそろ栗のいがも落下しそうです。 柑橘類は、デコポン(不知火)や、 温州ミカン(宮川早生)も沢山実を付けています。
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katakago
at 16:05
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