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公開講座「邪馬台国は出雲勢力の立てたクニ」 [2013年07月27日(Sat)]
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(写真は、岩波新書のカバーと朝日カルチャーの広告記事より)
 『出雲と大和 ー 古代国家の原像をたずねて』(岩波新書)の著者である村井康彦氏(国際日本文化センター名誉教授)の公開講座があり参加しました(7/26、朝日カルチャー芦屋教室)。演題は「邪馬台国は出雲勢力の立てたクニである」で、従来の古代史研究とは異なる観点から話されました。

 これまで、「万葉」から始まって古代史に興味が広がり、『古事記』・『日本書紀』や「魏志倭人伝」の講座も聴講し、纒向遺跡や吉野ヶ里遺跡も訪れて来ました。その中でいくつかの関心事がありました。
@邪馬台国はどこにあったか(畿内説、九州説)
A邪馬台国と大和朝廷との関係(連続説、非連続説)
B『記・紀』に邪馬台国や卑弥呼がなぜ登場しないのか

 今回の講演は、これらの点に答える内容で大変興味深く聴かせていただきました。
 邪馬台国についての根本史料である「魏志倭人伝」をあらためて読み解き、これまで見落とされていた個所に注目されました。
 次にその要点を載せておきます。

 邪馬台国の場所について、村井氏の見解は畿内説(最近注目されている纒向遺跡ではなく唐古・鍵遺跡を想定)で、「不弥国から水行20日(出雲)、水行10日(丹後)・陸行1ケ月で邪馬台国に至る」とある水行は、日本海ルートを想定されています。

 「魏志倭人伝」に記される邪馬台国の「四つの官」について新たな考えを出されています。伊支馬(イコマ)・弥馬升(ミマス)・弥馬獲支(ミマキ)・奴佳鞮(ナカト)は、それぞれの官が管領していた領域と推測され(順に生駒山ほか奈良西北部、奈良西南部の葛城一帯、三輪山の麓、奈良盆地中央部)、中央部を囲む三区域には、北に物部氏、西南に鴨氏、東に大神氏の豪族がおりこれらはいずれも出雲系の氏族であることから、邪馬台国は出雲系氏族連合によって擁立された王朝であると考えられています。

 邪馬台国と大和朝廷の関係については、非連続説を採られています。その理由は、『記・紀』に邪馬台国や卑弥呼の名は一度も登場しないことに拠る(卑弥呼が大和朝廷の祖先であれば皇統譜に載せられるはず)。ただし、「倭の女王」として神功皇后紀に「魏志倭人伝」の卑弥呼にかかわる記述が引用されている個所がある(『日本書紀』の編纂者は「魏志倭人伝」により邪馬台国とその女王卑弥呼の存在を知った上で、あえてその名を出していない)。

 『記・紀』には、神武天皇東征説話が載せられていますが、その大和侵攻の状況が、邪馬台国の「四つの官」体制に対応している(大和朝廷に逆らった賊がいた場所はこの「四官」の位置と一致する)ことから、この神武東征説話は十分に検討に値するとの考えでした。

 

Posted by katakago at 05:16
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