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韓国歴史の旅4日目その5 [2011年10月31日(Mon)]
 4日目(10/26)最後の見学地は、陵山里古墳群(王宮の東3km、羅城外の東側)と陵山里寺跡を見学しました。
 この古墳群の中で、東下塚は、扶余唯一の壁画古墳で、玄室の四壁に、四神・蓮華文・飛雲文が描かれている(6世紀後葉から7世紀前半の貴重な百済壁画古墳)。写真は古墳群の様子。



 陵山里寺跡は、羅城と陵山里古墳群の間の谷間に立地し、伽藍配置は、南から中門・塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ一塔一金堂式(写真はその模型)。


塔心礎上出土の石製舎利龕の銘文には、塔が567年に、聖王の菩提を弔う寺院として発願されたと記されている。次の写真は、国立扶余博物館図録から転載。


次の写真はこの寺から出土した百済金銅大香炉です(国立扶余博物館展示)。蓮の花と山の峰で象徴される百済の精神世界を具現したもので、この時代最高の傑作と評価されている。

 この香炉の出土状態の写真が同博物館図録にありましたので、転載しておきます。その状況からみて、唐の侵攻から隠すために埋められたかと推定されます。

Posted by katakago at 17:08
韓国歴史の旅4日目その4 [2011年10月31日(Mon)]
 次いで、扶余にある定林寺跡を見学しました。
百済末123年の都邑期を通して残っている唯一の百済遺跡とされている。典型的な一塔一金堂式の伽藍配置で、南から中門・石塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門からの回廊が北で講堂に結ばれる(案内図の写真参照)。



 五層の石塔には、その初層塔身に「大唐平百済国碑銘」の課題のある碑文が刻まれている(平百済塔(ピョンペクチェタブ)の呼称がある)。唐が百済国を平定したことを記念して刻まれた碑文で、冒頭に、660年の百済滅亡年に建てるとあり、続く本文には唐の司令官などの名が刻まれ、功績をたたえている(百済の人にとっては屈辱の碑)。

Posted by katakago at 16:27
韓国歴史の旅4日目その3 [2011年10月31日(Mon)]
 4日目(10/26)午後は、扶余に戻りまず扶蘇山城に登りました。
 538年、百済は熊津(公州)から泗沘(サビ)へ遷都。扶蘇山城はその王京を守る重要な山城の一つ。平時には宮の庭園となり、戦争の時には最後の防御城として利用された。扶蘇山南斜面の官北里・双北里一帯が王宮跡の有力候補地とされる。660年に、唐の侵攻でこの都は灰燼に帰した(この時三千の宮女が節操を守るため身を投げたと言われる落花岩が、扶蘇山城山頂付近の白馬江に面した所にある)。


 城内遺構の軍倉(食料を保存した)跡(次の写真)まで登りました。

 この付近からは、白馬江(白村江)を望むことが出来ます(白馬江は古代中国・日本と交易路の役割を果たした)。
Posted by katakago at 15:43
韓国歴史の旅4日目その2 [2011年10月31日(Mon)]
 益山(イクサン)では、次いで王宮里寺跡を訪れました。伽藍配置は、木塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ。木塔は後に現存の五層の石塔に建て替えられた(写真)。石塔の解体修理に伴い、第一層屋蓋上面と心礎から舎利函・舎利具が発見されています。


下層から石垣による区画をもつ大規模な遺構が発見されています(王宮関係の遺構か)。王宮関係の施設を寺院としたものと推定されています。

Posted by katakago at 15:01
韓国歴史の旅4日目その1 [2011年10月31日(Mon)]
 25日夜、扶余のホテルに到着しましたが、4日目(10/26)は朝一番に益山(イクサン)にある弥勒寺の見学に出かけました。武王の時に益山に遷都したかとの見方もあるようです(但し扶余が都として廃されたわけではなく副都であったか)。 
 弥勒寺は百済で最大のお寺で、武王代(600〜641)に創建と伝承されている。伽藍配置は南北一直線に並ぶ中門・塔・金堂の組み合わせを東西に3つ並べ(西院、中院、東院)、その背後に講堂を一つ置く特異な伽藍構造を持つ(次の模型写真参照)。


現存する西塔(石塔)は韓国最大で、現在解体修理中でした。

修理の様子は見学できるようになっていました。

東塔は九重塔に復元されていました(次の写真)。

 
 西塔内部の心柱石から舎利荘厳が発見され(2009年)、舎利内壷・外壷・舎利奉安記等が見出されました。その様子の写真を、弥勒寺跡遺物展示館のパンフレットから転載しておきます。沙宅王后(佐平沙宅積徳の娘)が伽藍を造立し、已亥年(639)正月九日に舎利を奉安したと記されています。

Posted by katakago at 14:15
韓国歴史の旅3日目その4 [2011年10月31日(Mon)]

 宋山里古墳群は、百済熊津の王京時代の王と王族の墓が群集している場所で、武寧王(461〜523)陵と古墳群模型館を見学しました。武寧王陵は、1971年に、宋山里5〜6号墳の排水路工事中に偶然発見されたそうです(世紀の発見とされる)。
 模型館にある玄室の内部を木下先生の説明を聞きながら見学です。


 盗掘を免れ墓室内の遺物は完全な状態で残っており、埋葬状況が判る稀有な例であり、武寧王と王妃の墓誌が出土したことより被葬者が確定されています。次の写真は、模型館に展示の埋葬状況です。手前が王妃(左側)で奥が王(右側)で、木製頭枕と木製足座に置く伸展葬。王は装身具に、金製冠飾、金製耳飾り、金製首飾り、金銅製飾履等を身に付け、単龍文環頭大刀を佩用。副葬品は、頭部に獣帯鏡、足部に方格規矩鏡。

 墓誌の写真を国立公州博物館の図録から掲載しておきます。寧東大将軍百済斯麻王は62歳で亡くなり(523年)、525年に大墓に埋葬とあります(武寧は謚号)。この墓誌はこの王陵から発見された最も重要な遺物で、裏面には墓地を地神から買い取る記録が刻されている(買地券)。王妃の墓誌も出土しています。

 武寧王と王妃の木棺材について興味深い事実があります。樹種は世界的に1科1属1種だけである高野槇であり、当時百済と倭との交流過程で、日本からもたらされたものである事が分かっています。次の写真は、国立公州博物館展示の木棺です。
Posted by katakago at 06:41
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