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飛鳥京跡苑池の第13次調査現地説明会に参加(8/10) [2019年08月11日(Sun)]
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 昨日(8/10)、明日香村岡の飛鳥京跡苑池(7世紀、国史跡・名勝)で、今回新たに北池で見つかった石組みの溝と石敷き遺構の現地説明会があり出かけてきました。上の写真は出土遺構の現場。
 万葉歌に詠まれた植物を栽培しているので、当時の宮廷庭園遺構には興味があり、以前に(2013/11/24)、南池の発掘現場の説明会にも参加しています。その時の記事は、次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/739
 南池は、五角形の池の中に中島があり松の根も見つかっていました。池の南東の高台には、掘立柱建物が2棟見つかっており、苑池を上から眺めるための施設と考えられ、南池は観賞用の池とみられていました。

 現場での説明に先立ち、パネルを用いて解説(奈良県立橿原考古学研究所所員による)
開始の⒑時にはすでに多くの方々が集まっていました。
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 発掘場所での現地説明会の様子(炎天下にも拘らず熱心に見学する参加者)。
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 今回見つかった流水施設
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 写真中央奥の湧水点にある枡(堰板は凹状に加工)から上澄みが石組み溝(写真中央)に流れる仕組みとなっており、清浄な水を流すことに意味があったとみられています。
 さらに、護岸の一部(写真左上)で階段状に石が積み上げられており、護岸から下りて池に親しむ機能があったと見られています。
 9日付け朝日新聞朝刊には、木下正史先生(東京学芸大名誉教授)の次のような見解が載っていました。「一帯は聖なる空間で天皇らが水を使った祭祀を行った可能性が高い。中国古来の苑池の思想に日本古来の自然崇拝の考えを融合させた日本文化の原点と言える場所なのではないか」。
 今回の調査で、北池からは流水施設が見つかったことより、飛鳥京跡苑池は、南池と合わせ性格や意匠が異なる二つの池によって構成されることが明らかになりました(現地説明会資料まとめより)。
  
 なお、湧水部から溝に水を流す遺構としては、酒船石遺跡(苑池から訳400m北東)の亀形石造物があり、以前に訪れたことがあります。関連記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/23
また、木下正史先生の案内(飛鳥を愛する会の現地講座)で新羅の王京を訪れた際、雁鴨池で類似の導水石造施設を見学したことがあります。関連記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/208

Posted by katakago at 16:34
久しぶりの万葉ウォーク [2019年01月23日(Wed)]

 先日(1/20)、「万葉の大和路を歩く会」番外第一回目が開催され参加しました。今回は、神戸市内にある三つの古墳を訪れ、その後、敏馬神社にある万葉歌碑を訪ねました。更にこの時期は新酒のシーズンでもありルートの途中にある灘五郷の酒蔵(菊正宗、白鶴、神戸酒心館)にも立ち寄り、昼食とお酒の試飲も楽しみました。

 この三基の古墳は、海岸沿いに西から西求女塚古墳(築造は3世紀後半と推定)、処女塚古墳(同 4世紀前半と推定)、東求女塚古墳(同 4世紀後半)の順で、海に前方部を向けた中央の処女塚古墳に対し、東西の求女塚古墳がそれぞれその前方部を処女塚古墳の方へ向けており、海上で船から見た光景を基に「葦屋菟原娘子(あしのやのうないおとめ)伝説が生まれたと考えられています(廣川晶輝著『死してなお求める恋心ー「菟原娘子伝説」をめぐってー』より)。
 摂津国菟原郡の東部、葦屋の辺りに住んでいた菟原娘子が二人の男(小竹田壮士と菟原壮士)から求婚されますが、いずれかを選ぶともう一方が悲しむので、自らは自殺したというものです。古墳の名前もこの物語にちなんで付けられているようです(西から菟原壮士、中央が菟原娘子、東が小竹田壮士の墓として)。 この物語を題材にして万葉歌人の高橋虫麻呂、田辺福麻呂、大伴家持が歌に詠んでいます。さらに平安時代の『大和物語』の「生田川」に取り上げられ、室町時代には謡曲「求塚」が作られています(観阿弥作)。

 この場所は、以前にも「飛鳥を愛する会」の現地講座で訪れ、これを題材にした音楽劇も鑑賞したことがあります。また、大伴家持が詠んだ歌の反歌にツゲが詠まれており、以前の記事に取り上げています。関連の万葉歌も載せていますので、それらのURLを参考までに記しておきます。
「飛鳥を愛する会」現地講座関連
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/316
大伴家持の歌関連
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/354
音楽劇「綺譚 生田川」関連
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/621

 以下、上記の記事にはなかった関連の写真を載せておきます。
求女塚之碑(神戸市東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳で)
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 処女塚古墳(神戸市東灘区御影塚町2-1)東側の登り口で説明を聞く
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 田辺福麻呂の万葉歌碑(処女塚古墳)
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【歌】 古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ (巻九・1802) 
【口語訳】 古(いにしえ)の 小竹田壮士(しのだおとこ)が 求婚した 菟原処女(うないおとめ)の 墓なのだこれは

Posted by katakago at 21:11
五島列島への旅ーその1(三井楽万葉フォーラム) [2018年09月26日(Wed)]
 先週21日から4日間、「万葉の大和路を歩く会」主催のツアーで五島列島に出かけてきました。今回の旅行の狙いは、一つは五島市三井楽で開催の「全国万葉フォーラム in みいらく 2018」への参加と、もう一つは、7月に世界遺産登録が決定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を訪ねることです。ここでは、万葉フォーラム関連の記事を載せておきます(二つ目は続報で)。
 三井楽町で地域起こしの活動をされている谷川さん(今回の実行委員長でもある)とは、万葉植物の種子(ヒオウギ、ムラサキ)をお送りしたり、数年前からメールの交換などもしていました。栽培されている植物の様子も写真を添付して知らせてもらっていました。関連記事は、次のURLに掲載しています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/874
 そのような経緯もあり、機会があれば是非一度三井楽を訪ねたいと思っていました。今回のツアー参加でようやく念願を果たせました。
 次の写真はフォーラムの会場となった三井楽町公民館入り口で撮影(主催者側から会場内の写真撮影は行わないようにとの放送が何度も流されていたので写真はこれだけです)。
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 フォーラムでは、坂本信幸先生が「三井楽と万葉歌」と題して基調講演され、続いて、坂本先生と女優の檀ふみさん(NHKの「日めくり万葉」の語り)によるスペッシャル対談(五島を訪ねて)が行われました(写真を掲載できないのが残念です)。最後のパネルディスカッション(五島列島と古代文学)では、野口 五島市長も参加されていました。
  
 フォーラムの後、「遣唐使ふるさと館」で開催された交流会では、地元の三井楽小学校の児童(2〜5年生)による万葉歌の朗誦が披露されました。
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 夕食は地元の食材を用いた料理(地魚のお刺身、鬼鯖寿司、五島うどんなど)を味わいながら、全国から集った万葉の仲間が語り合う場となりました(私も愛媛や三重、東京からの参加者に万葉植物園のPRができました)。
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 フォーラムに先立って訪れた白良ケ浜万葉公園の写真を載せておきます。
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 この時期、植栽されたヒガンバナが見事に咲いていました。
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 ハマユウもまだ咲いている株が見られました。
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 谷川さんにヒオウギの植栽場所を案内してもらいました(もうこの時期、花は終わっていましたが)。
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 犬養先生揮毫の万葉歌碑(除幕式は1989年9月16日))
この歌は、万葉フォーラムの坂本先生の講演でも解説されました。
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【歌】 王之 不遣尓 情進尓 行之荒雄良 奥尓袖振 (巻十六・3860)
【読み下し文】 大君の 遣はさなくに 賢しらに 行きし荒雄ら 沖に袖振る
【口語訳】 大君の 仰せでもないのに わざわざ志願して 行った荒雄は 沖で袖を振っている
 左注によれば、官命を受けたのは筑前国宗像郡の宗形部津麻呂だったが、代わりを頼まれた滓屋郡志賀村の海人荒雄が送粮船に乗って対馬に向かい遭難した時のことが全10首詠まれており、この歌はその一首目。妻子らが思いに耐え切れずこの歌を詠んだとある(別伝では山上憶良が妻子の悲しみに同情して、思うところを述べてこの歌を作ったとある)。左注に、「肥前国の松浦県 美祢良久(みねらく)の崎より船を発(い)だし、ただに対馬をさして海を渡る。」とあり、出港地として美祢良久(みねらく)の地名(現在の三井楽)が出ています。  

 五島列島の南西部に位置する福江島の三井楽は、遣唐使船の最後の寄港地として知られ、遣唐使の母の歌の歌碑が柏崎公園(三井楽町柏848付近)にあります。 
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【歌】 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群 (巻九・1791)
【口語訳】 旅人が 仮寝する野に 霜が降ったら 我が子を羽でかばってやっておくれ 天翔ける鶴の群よ
 この歌については、私が受講している坂本先生の6月の万葉講座(朝日カルチャー中之島教室)で詳しく解説していただいていました。
 
 この万葉歌碑の近くには、延暦23年(804)の遣唐使で請益生(しょうやくしょう)として最澄とともに渡唐した空海の「辞本涯(日本の最果ての地を去る)」の碑があります。 
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Posted by katakago at 16:31
巨勢・吉野宮滝方面を訪ねて [2017年11月03日(Fri)]
 昨日は、梅花万葉集友の会の屋外講座で、巨勢・吉野宮滝方面に出掛けてきました。会の世話役のご尽力によってバスツアーとなり、講師の市瀬先生を含め20名が参加しました。
 行程は、近鉄橿原神宮前駅集合(10:00) → 水泥(みどろ)古墳 → 巨勢(こせ)寺跡 → 阿吽寺、巨勢山口神社 → 吉野歴史資料館 → 桜木神社 → 夢(いめ)のわだ → 中荘小学校前の歌碑 → 世尊寺(比曽寺跡) → 橿原神宮前駅(解散)

 水泥北古墳の内部を見学
西尾氏邸内にある直径約20mの円墳で両袖式の横穴式石室を有する(6世紀中頃の築造で石棺は現在はない)。
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 なお、水泥古墳、巨勢寺跡、阿吽寺(万葉歌碑がある)については、4年前の飛鳥を愛する会の現地講座で出かけており、その折の記事は次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/583

宮滝に向かうルートの途中で土砂崩れ(台風21号の影響か)が発生しており通行止めになっていました。迂回して吉野歴史資料館に向かったため思わぬ時間がかかってしまいました。

 吉野離宮の復元模型を前に池田 淳館長から説明を聞く。
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 吉野離宮の復元図
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 航空写真のパネルで位置関係を説明(宮滝、三船山、象山(きさやま)など) 
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 資料館2階から眺めた三船山(写真左)と象山(きさやま)
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 資料館前にある万葉歌碑(揮毫は上野誠先生)
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【歌】 かはづ鳴く 吉野の川の 滝の上の あしびの花そ 端に置くなゆめ (巻十・1868)
【口語訳】 蛙の鳴く 吉野の川の 滝のほとりの あしびの花だよ 隅に置くではないぞ

 桜木神社(歌碑の前で)
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 山部赤人の歌碑
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【歌】 み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも (巻六・924 山部赤人)
【口語訳】 み吉野の 象山(きさやま)の谷間の 梢には こんなにもいっぱい鳴き騒いでいる 鳥の声よ

 神木のスギの前で記念写真
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 同じ場所での53年前の写真(犬養先生の万葉旅行に参加して)
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 万葉故地を訪れたのがこの時初めて(当時大学一年)で、わたしにとって、吉野は万葉故地めぐりの原点です。これまでも機会あるごとに出掛けてきました。このブログに掲載しているものは次のURLです。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/233
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/736

 夢(いめ)のわだ(象川が吉野川に注ぎ込む付近、写真左)
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大宰帥であった大伴旅人に「夢のわだ」を詠んだ次の歌があります。
【歌】 我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもありこそ (巻三・335)
【口語訳】 私の筑紫暮しも もう長くなかろう 夢のわだは 瀬にならないで 淵のままであってくれ  

 柿本人麻呂の万葉歌碑(揮毫は武田祐吉、吉野町宮滝の柴橋のたもと、中荘小学校校門左脇)
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【歌】 やすみしし 我が大君の 聞こし食す 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 船競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす みなそそく 滝のみやこは 見れど飽かぬかも (巻一・36)
【歌】 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む (巻一・37)

 宮滝郵便局近くの万葉歌碑(揮毫は上野先生)
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【歌】 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む (巻一・37) 

 世尊寺に向かう頃には日が沈み始めました(車中から眺めた吉野川)。
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 世尊寺で住職の説明を聞く
五時を過ぎていましたが到着を待っていて下さり、詳しく説明していただきました。
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なお、世尊寺に関しては5年前に訪れた際の記事を次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/497

Posted by katakago at 17:26
飛鳥を愛する会 秋季現地講座(淡路・讃岐・吉備の旅) [2016年10月06日(Thu)]
 10月2日から3日間、飛鳥を愛する会の現地講座に参加しました。今回は南海道の淡路国・讃岐国と、吉備南部の万葉故地と史跡を巡りました。
 以下主な見学の行程と、見学地の写真を簡単なメモとともに載せておきます。
【1日目】
 新大阪 → 大川公園・貴船神社遺跡(淡路市北淡町)→ 五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(国史跡、淡路市黒谷)→ 飼飯の海 万葉歌碑(南あわじ市松帆)→ 淡路国分寺塔跡(国史跡、南あわじ市八木国分)→ 淳仁天皇陵(南あわじ市賀集)→ 南あわじ市福良泊
【2日目】
 富田茶臼山古墳(国史跡、さぬき市大川町)→ 石清尾山(いわせおやま)古墳群(国史跡、高松市鶴市町ほか)→ 屋島城(やしまのき)跡(高松市屋島)→ 讃岐国分寺跡(国特別史跡、高松市国分寺町)→ 網の浦 万葉歌碑(香川県綾歌郡宇多津町)→ さみねの島 万葉歌碑・柿本人麻呂碑・ナカンダ浜遺跡(坂出市沙弥島)→ 岡山県玉野市渋川泊
【3日目】
 神島 万葉歌碑(笠岡市神島(こうのしま))→ 行路死人歌 万葉歌碑(日光寺、笠岡市神島外浦)→ 箭田大塚古墳(国史跡、倉敷市真備)→ 多麻の浦 万葉歌碑(瀬戸内市邑久町、道の駅「一本松展望園」)→ 新大阪

【1日目】 
 貴船神社遺跡(弥生時代末期から奈良時代の製塩遺跡)
万葉歌にも、「名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど ・・・・」(E‐935 笠金村)とある。公園内の野島海人像(写真右後方)の台座正面にこの歌が張り付けられている。
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 五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(弥生時代後期の国内最大級の鉄器製作遺跡)
写真中央の小屋は復元された鉄器工房(手前の田んぼには古代米が稔っていました) 
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 復元された建物内の様子(直径10.5m、柱の数は10本の大型建物)
工房跡の地面中央には、高熱で赤く変色している炉跡が発見されている。
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 飼飯(けひ)の海 万葉歌碑(南あわじ市松帆)
柿本朝臣人麻呂の羇旅の歌八首のうちの最後の歌 
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【歌】 飼飯の海の 庭良くあらし 刈り薦の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船 (B‐256 柿本人麻呂)
【口語訳】 飼飯の海は 良い漁場らしい (刈り薦の) 乱れて漕ぎ出すのが見える 海人の釣り船が

 1日目は、夕食後10時過ぎまで約2時間の講義がありました(この旅行は密度が濃い)。
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【2日目】
 富田茶臼山古墳
四国最大の前方後円墳(写真左が後円部、右が前方部で全長139m、築造は4世紀末と推定されている。
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 石清尾山(いわせおやま)古墳群(石清尾山の尾根上に築かれている、時期は4世紀中ごろから後半)
 石船積石塚(古墳の全長は約57mの前方後円墳)を見学。安山岩角礫を積み上げて築かれており積石塚と呼ぶ。後円部墳頂に刳り抜き式割竹形石棺(写真中央)があり、棺身には造り付けの枕がある。
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 後方部で岡崎先生の説明を聞く。
積石塚の築造年代は古墳時代で、香川のほか徳島・長崎・長野・山梨の一部地域に分布
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 屋島城(やしまのき)
『日本書紀』天智6年(667)11月条に、「倭国の安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国の山田郡の屋嶋城・対馬国の金田城を築く」とある。白村江の敗戦後、中大兄皇子は唐・新羅軍の侵攻に備え、北部九州から瀬戸内海にかけて多くの山城を築いた。
復元整備された城門地区 
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 復元された城壁の前で木下先生の解説を聞く。
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 讃岐国分寺跡
講堂跡に建つ現本堂の手前には32個の金堂の礎石群が残る。
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 境内に残る塔礎石(中央が心礎)
心礎の中央には約40pの枘(ほぞ)穴が穿たれ、礎石の配置と心礎の大きさから、4間(約10m)四方の七重塔であったと推定されている。 
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 当時の伽藍配置は、中門・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門と金堂を結ぶ回廊で囲まれた区画の東側に塔を置く「大官大寺式」(写真は高松市教育委員会設置の説明板より)。南海道諸国の国分寺では、春の講座で訪れた紀伊国分寺も同じ大官大寺式(塔は七重塔と推定されている)。
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 僧房跡(覆屋内で露出展示されている)
東西88m、南北16mで国分寺僧房としては最大級
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 網の浦 万葉歌碑(綾歌郡宇多津町、うだつ臨海公園内)
讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸せる時に、軍王(いくさのおほきみ)、山を見て作る歌
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【長歌】 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むら肝の 心を痛み ぬえこ鳥 うらなけ居れば 玉だすき かけの宜しく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に かへらひぬれば ますらをと 思へる我も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひそ燃ゆる 我が下心 (@‐5)
【反歌】 山越しの 風を時じみ 寝る夜落ちず 家なる妹を かけて偲ひつ (@‐6)
 この歌については、1日目の夜の講義で坂本先生から詳しい話がありました。特に、長歌の「かけの宜しく」の「カク」の解釈に関して解説されました。集中の「口にかける」用例(6首7例)と「心にかける」用例(22首24例)をあげられ、「カク」の表現として「口にかく」に比べ「心にかく」のほうが一般的な表現であることを指摘され、特に「玉だすき かけの宜しく」のように「玉だすき」という枕詞で導かれる「カク」の用例は、「心にかく」の例(上記24例の中の11例)にしか見られないことより、ここの解釈は通説の「口にするのが好ましい」ではなく、「心にかける」意と解すべきであるとされました。この個所、当日の理解不足を坂本先生が書かれた「軍王の山を見る歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第一巻』を参考に補いました。

 さみねの島の万葉歌碑(坂出市沙弥島)
歌碑の前で坂本先生の解説を聞く 
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 歌碑の拡大
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題詞に、讃岐の狭岑の島にして、石(いは)の中の死人を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷せて短歌 とある。
【歌】 玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月と共に 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺を見れば 白波騒く いさなとり 海を恐み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 繁き浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは (A‐220)
反歌二首
【歌】 妻もあらば 摘みて食げまし 沙弥の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや (A‐221)【歌】 沖つ波 来寄する荒磯を しきたへの 枕とまきて 寝せる君かも (A‐222) 

 柿本人麻呂碑(上記の歌を記念して建てられた)
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 沙弥ナカンダ浜遺跡
弥生時代後期から古墳時代後期にかけての製塩遺跡として知られる。岡崎先生から説明を聞くころには日没近くとなりました(17:24)。
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 瀬戸中央自動車道の与島(よしま)PA
きれいな夕焼けを見ることができました(17:54)。
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【3日目】
 神島の万葉歌碑(遣新羅使人歌、笠岡市神島)
 この歌碑は、先月参加した全国万葉フォーラム(鞆の浦)のショートクルーズでは船上から遠望しました。
 歌碑の前で坂本先生の解説を聞く
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 歌碑の拡大
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【歌】 月読の 光を清み 神島の 磯廻の浦ゆ 船出す我は (N‐3599)
【口語訳】 月の光が 清らかなので 神島の 磯辺の浦から 船出するよわれわれは

 日光寺の行路死人歌の歌碑(歌の解説を坂本先生が書かれている)の前で
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 箭田大塚古墳(倉敷市真備町)の横穴式石室内を見学
 両袖式横穴式石室で、石室の全長は19.1m、玄室は長さ8.4m、幅3m、高さ3.5〜3.9m(石舞台古墳の巨大石室と遜色のない規模)。奥壁(写真中央奥)は1枚の巨石(鏡石と呼ばれる)で構築されている。
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 多麻の浦の万葉歌碑(遣新羅使人歌、瀬戸内市邑久町)
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【歌】 ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり (N‐3598)
【口語訳】 (ぬばたまの) 夜が明けたらしい 玉の浦で 餌を求めて鶴が 鳴いて飛んでいる

Posted by katakago at 11:46
鳥取の万葉歌碑 [2016年05月22日(Sun)]
 せっかく鳥取まで来たので、因幡万葉歴史館や万葉歌碑・国庁跡・国分寺跡などを巡ってきました。
 鳥取市国府町庁195付近の万葉歌碑(大正11年建立) 
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 天平宝字三年(759)正月一日に、大伴家持(当時42歳)が因幡の国守として、国庁で国や郡の役人たちを饗応した宴のおりに詠んだ歌 ー『万葉集』最後の歌
 この饗宴は、規定による公的な行事で、儀制令に「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率(ひき)ゐて、庁に向ひて朝拝せよ。訖(をは)りなば長官、賀を受けよ。宴設くることは聴(ゆる)せ」とある(岩波文庫『万葉集』より)。
【歌】 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰 (S‐4516)
【読み下し文】 新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 
【口語訳】 新しい 年の初めの 正月の 今日降る雪のように もっと積もれ良い事
 この日は19年に一度の歳旦立春にあたり、正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。
 歌碑拓本の複製(国府文化協会より購入)の写真
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 因幡万葉歴史館中庭にある同じ歌の歌碑(揮毫は犬養先生)
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 因幡万葉歴史館では自転車の無料貸し出しがあり、これを利用して国庁跡や国分寺跡も巡りました。
 因幡国庁跡(正面の山は面影山)
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 因幡国分寺跡の礎石
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Posted by katakago at 22:07
奈良市内の万葉歌を訪ねて [2016年05月16日(Mon)]
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 先週の土曜日(5/14)は、毎日文化センターの学外講座(講師は市瀬雅之先生)でした。今回のコースは、近鉄新大宮駅 → 佐保川沿いの万葉歌碑を見学 → 聖武天皇陵・光明皇后陵 → 奈良県庁屋上(展望・昼食)→ 猿沢池・采女神社 → 元興寺極楽坊(万葉歌碑) → 元興寺塔跡(万葉歌碑)→ 近鉄奈良駅
(上の写真は、佐保川緑地公園の万葉歌碑での解説の様子)

 前半の佐保川沿いのコースは3/27に参加した全国万葉協会のお花見行事と重なるので、後半の万葉歌碑についてメモを残しておきます。
 奈良県庁屋上からの展望(左端に東大寺大仏殿、中央に若草山、その右に春日山、その手前が御蓋山、右端が高円山)
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 元興寺極楽坊本堂(国宝)の屋根瓦(飛鳥時代の瓦も残っている)
和銅三年(710)の平城遷都により、飛鳥の地にあった法興寺(飛鳥寺)が養老二年(718)に移転され元興寺となった。
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 境内にある万葉歌碑  元興寺の僧が自ら嘆いた歌(旋頭歌)
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【歌】 白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば 知らずともよし
 (E-1018)
【口語訳】 白玉は 人に知られぬ 知らなくてもよい 知られなくても わたしさえ知っていたら 知らなくてもよい 
この歌の左注には次のようにあります。「右の一首は、元興寺の僧で、独覚多識の者があった。世間に知られなかったので、人々が軽んじ侮った。そこでその僧はこの歌を作って、わが身の才の空しさを嘆いた、ということである。」

 元興寺東塔跡の万葉歌碑(大伴坂上郎女が元興寺の里を詠んだ歌)
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【歌】 故郷の 明日香はあれど あをによし 奈良の明日香を 見らくし良しも (E-992 大伴坂上郎女)
【口語訳】 故郷の 明日香の元興寺はそれなりによいが (あをによし) 奈良の明日香の新元興寺を 見るのは格別によいものだ  


関連記事(3/27開催の全国万葉協会のお花見)は、次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1091
Posted by katakago at 20:11
萬葉学会一日旅行ー明日香を巡る [2016年05月08日(Sun)]
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 昨日は、萬葉学会主催の一日旅行があり出かけて来ました。上の写真は、集合場所(橿原神宮前駅東口広場)で挨拶される学会代表の坂本信幸先生。その右は学会誌『萬葉』編輯委員長の上野誠先生。
 講師陣には萬葉学会編輯委員の著名な先生方が同行され、学生(東大、奈良女子大、皇学館大、関西大)の参加もあり総勢80名程でした。萬葉学会は研究者だけではなく万葉愛好家なら誰でも入会できる開かれた学会で、特に若い方の参加が期待されています(10月には奈良大学で第69回全国大会が開催予定)。

 この日のコースは、橿原神宮前駅 → 剣池 → 甘樫丘 → 雷岳 → 飛鳥寺 → 伝板蓋宮跡 → 石舞台古墳 → 酒船石 → 万葉文化館で、各場所毎に同行の講師の先生から解説して頂きました(資料も配布)。

 剣池では、垣見修司先生の解説を聴きました。剣池が詠まれた万葉歌は、
【歌】 み佩かしを 剣の池の 蓮葉に 溜まれる水の 行くへなみ 我がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を な寝ねそと 母聞こせども 我が心 清隅の池の 池の底 我は忘れじ 直に逢ふまでに (L-3289)
【口語訳】 (み佩かしを) 剣の池の 蓮の葉に溜まっている水玉が どこへも流れて行けないように 私がどうしていいか分からないでいる時に 逢うのが定めだと逢ったあなたなのに 一緒に寝てはいけないと お母さんはおっしゃるけれど (我が心) 清隅の池の 池の底のように清らかに澄んだ深い思いなの 決して私は忘れないわ あなたにじかに逢うまでは
 剣池は、橿原市石川町の「石川池」(孝元天皇剣池島上陵の周囲の池)で、北堤には辰巳利文揮毫の万葉歌碑があります。
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【歌】 軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに (B-390 紀皇女)
【歌】 軽の池の 岸辺を泳ぎ廻る 鴨でさえ 藻の上で ひとり寝しないのに

 甘樫丘へは、村田右富実先生の解説・小休止の後登りました。
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 甘樫丘の上では大和三山や飛鳥の地を眺望しながら上野先生の解説を聴きました。
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 犬養先生揮毫の最初の歌碑(先生の還暦記念に昭和42年に建立された)
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【歌】 婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久 (@-52 志貴皇子)
【読み下し文】 采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたづらに吹く
【口語訳】 采女(うねめ)らの 袖を吹き返していた 明日香風は 都が遠のいたので むなしく吹いている
 歌碑の前で歌われる坂本先生と岡本三千代さん(作曲は黛敏郎、譜面は次に載せる)
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 犬養先生の還暦記念に黛敏郎により作曲された「萬葉歌碑のうた」(志貴皇子のうたによる)の譜面(黛敏郎は犬養先生の、神奈川県立横浜第一中学時代の教え子)
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 雷岳(いかずちのおか)では鉄野昌弘先生の解説を聴きました(東大教授でお話を聴くのは今回初めて)。次の写真に示した歌碑の歌は、持統天皇が雷の岡に出遊なさった時の人麻呂の作で、「大君は神にしませば」という表現は、壬申の乱以後に生まれてきた天皇神格表現。
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 明日香村雷の万葉歌碑(揮毫は犬養先生)
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【歌】 皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨 (B-235 柿本朝臣人麻呂)
【読み下し文】 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも
【口語訳】 わが大君は 神でいらっしゃるので 天雲の 雷(いかずち)の上に 仮宮を造っていらっしゃる

 飛鳥寺に到着(蘇我入鹿の首塚前)。ここでは乾 善彦先生の解説を聴きました。
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 飛鳥寺境内にある山部赤人の万葉歌碑(佐佐木信綱揮毫)
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【長歌】 みもろの 神奈備山に 五百枝さし しじに生ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ 古思へば (B-324)
【反歌】 明日香川 川淀去らず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに (B-325)
【口語訳】 明日香川の 川淀を離れず 立つ霧のように すぐ消えうせるような わたしの恋ではないのだ

 伝飛鳥板蓋宮跡に到着し、ここでは村田右富実先生による解説
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 明日香村岡の万葉歌碑(揮毫は犬養先生)
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【歌】 大口能 真神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有国 (G-1636 舎人娘子)
【読み下し文】 大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに
【口語訳】 (大口の) 真神の原に 降る雪よ ひどくは降らないでおくれ 誰もいないのに 

  奈良県立万葉文化館に到着し、毛利正守先生(今回で編輯委員を退任される)の話
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 解散後に、岡本三千代さんが館長をされている犬養万葉記念館に立ち寄り、咲き始めたアサザの花を見て帰りました。

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「飛鳥を愛する会」春季現地講座ー紀路の万葉故地と史跡を巡る [2016年04月25日(Mon)]
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 先週末、「飛鳥を愛する会」の総会・記念講演会(4/23)と現地講座(4/24)があり、出かけて来ました。上の2枚の写真は、近鉄飛鳥駅から総会会場(明日香村の健康福祉センター「たちばな」)に向かう途中(欽明天皇陵近く)で見かけたレンゲ畑です(私の住んでいる所では見かけなくなりました)。

 総会後の記念講演は、相原嘉之氏(明日香村教育委員会 文化財課長補佐)が「飛鳥・藤原地域における近年の調査成果」と題して、大島信生先生(皇学館大学教授)が、「大宝元年(701)紀伊行幸歌群を巡って」と題して講演されました。

 2日目は、橿原神宮前駅 8:30出発で橿原に前泊しました(昨年までは2日間、明日香村に通っていたのですが)。万葉の真土(まつち)山、落合川をまたぐ飛び越え石、紀ノ川沿いの万葉の妹背山、国史跡 紀伊国分寺跡、国史跡 大谷古墳、特別史跡 岩橋(いわせ)古墳群などを訪ねました。
 以下に写真と共にメモを残しておきます。
 
【真土山】
 飛び越え石
真土山の山裾を流れる落合川の両岸にある(自然がつくった畳一枚ほどの平たい浸食岩)。二つの石をはさんで奈良県と和歌山県に分かれる(左が五條市、右手前が橋本市)
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 落合川古道の渡り場(飛び越え石)西岸にある歌碑の歌
【歌】 いで我が駒 早く行きこそ 真土山 待つらむ妹を 行きてはや見む (K-3154)
【口語訳】 さあ駒よ 早く行ってくれ 真土山 待っているであろうあの娘を 行ってすぐ見たい

 真土山が詠まれた歌碑(橋本市隅田町真土)
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【歌】 橡の 衣解き洗ひ 真土山 本つ人には なほ及かずけり (K-3009)
【口語訳】 橡(つるばみ)の 衣を解き洗って 又打ちー真土山の もとつ人ー古女房には やはり及ぶものがない

 石上乙麻呂卿が土佐の国に流された時に詠まれた歌の歌碑(橋本市隅田町真土)
(犬養先生の生前の原稿に拠る)
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【歌】 石上 布留の尊は たわやめの 惑ひに因りて 馬じもの 繩取り付け 鹿じもの 弓矢囲みて 大君の 命恐み 天離る 夷辺に罷る 古衣 真土山より 帰り来ぬかも (E-1019)
【口語訳】 石上 布留の君は たおやめ故の 迷いのために 馬のように 縄を掛けられ 鹿のように 弓矢で囲まれ 大君の お咎めを受けて (天離る) 遠くの国に流される (古衣) 真土山から すぐに帰って来ないものか

 犬養先生揮毫の万葉歌碑(橋本市隅田町真土)
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【歌】 朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母 (@-55 調首淡海)
【読み下し文】 あさもよし 紀人ともしも 真土山 行き来と見らむ 紀人ともしも
【口語訳】 (あさもよし) 紀伊の人が羨ましい 真土山(まつちやま)を いつも行き来に見ているであろう 紀伊の人が羨ましい

 犬養先生の生前の原稿をもとに立てられた歌碑(橋本市隅田町真土)
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【歌】 あさもよし 紀伊へ行く君が 真土山 越ゆらむ今日そ 雨な降りそね (H-1680)
【口語訳】 (あさもよし) 紀伊へ行くあの方が 真土山を 今日あたり越えているはず 雨よ降らないでおくれ

【妹背山】 
妹背山を眺めて村瀬憲夫先生の解説を聴く(写真右の山を妹背山とする説(村瀬先生)と、右の山を背山、紀ノ川をはさんで左の山を妹山とする説がある)。
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 万葉歌には15首詠まれており、そのうちの一首を載せておきます。
【歌】 我妹子に 我が恋ひ行けば ともしくも 並び居るかも 妹と背の山 (F-1210)
【口語訳】 愛妻を 恋しく思いながら行くと 羨ましくも 並んで寄り添っているよ 妹と背の山は

【国史跡 紀伊国分寺跡】
 紀伊国分寺跡の塔の基壇上で木下正史先生の解説を聴く(各堂塔の基壇を瓦積みで化粧する瓦積基壇は紀伊の古代寺院の特徴)
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 史跡紀伊国分寺跡歴史公園そばの紀の川市歴史民俗資料館展示の古瓦(創建時の軒瓦は興福寺軒瓦が採用された)
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【国史跡 大谷古墳】 
大谷古墳の墳丘上で岡崎晋明先生の解説を聴く(全長約70mの前方後円墳で、鉄製馬冑や金銅製馬具などの副葬品が出土)
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【紀伊風土記の丘】
 特別史跡「岩橋(いわせ)千塚古墳群」(800基を越える古墳が集まる全国屈指の群集墳)の保存を目的に開設された(博物館には日本初例の両面人物埴輪・翼を広げた鳥形埴輪をはじめ、力士埴輪などの出土品を展示)。万葉植物園も併設されている。
 岩橋千塚古墳群では、緑泥片岩板石を持ち送りして積み上げ、石棚や石梁を架して大板石で天井を覆った特徴的な石室構造(岩橋型横穴石室と呼ばれる)を持つ。
 紀伊風土記の丘資料館に移築された前山B36号墳の石室(岩橋型横穴石室の特徴を持つ)
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 前山A46号墳
前山A地区最大の円墳。玄室は石棚と4枚の石梁があり、内部に入りその岩橋型横穴石室の構造を見学できる。
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Posted by katakago at 21:20
万葉の大和路を歩く会ー宇治川・平等院 [2016年03月14日(Mon)]
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 昨日(3/13)は、「万葉の大和路を歩く会」の451回目の例会があり参加しました。今回は「もののふの八十宇治川と平等院」で、講師は影山尚之先生です。
 コースを次に載せておきます。JR宇治駅を出発点に、橋姫神社 → 宇治橋下の宇治川河原 → 平等院・ミュージアム鳳翔館(見学・拝観)→ 中ノ島・朝霧橋 → 宇治神社 → 宇治上神社 → 源氏物語ミュージアム(拝観)→ 菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)皇子御墓 → 京阪三室戸駅 →(乗車)→ 京阪木幡駅 → 木幡神社 → JR木幡駅で解散(上の写真は宇治橋下の宇治川河原で影山先生の解説を聴いている様子)

 宇治川右岸の朝霧橋東詰の万葉歌碑
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【歌】 宇治川は 淀瀬なからし 網代人 舟呼ばふ声 をちこち聞こゆ (F-1135)
【口語訳】 宇治川には 淀瀬がないと見える 網代人が 舟を呼ぶ声が あちこちに聞こえる

 仏徳山登り口広場(宇治上神社から源氏物語ミュージアムに至る途中)の万葉歌碑
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【歌】 そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背の 管木の原 ちはやぶる 宇治の渡り 岡屋の 阿後尼の原を 千年に 欠くることなく 万代に あり通はむと 山科の 石田の社の 皇神に 幣取り向けて 我は越え行く 逢坂山を (L-3236)
【口語訳】 (そらみつ) 大和の国の (あをによし) 奈良山を越えて 山城の 管木(つつき)の原を過ぎ (ちはやぶる) 宇治の渡しの 岡屋(おかのや)の 阿後尼(あごね)の原を 千年も 欠けることなく 万代まで 通い続けようと 山科の 石田(いわた)の社の 神様に 幣(ぬさ)を捧げて 私は越えて行く 逢坂山を

 宇治川の堤防に植えられた桜の木にヤドリギ(落葉高木の幹や枝に寄生)が見られました。万葉歌では、”ほよ”として詠まれています。
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 ヤドリギの拡大写真
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 平等院鳳凰堂(国宝)
平等院は、関白藤原道長の別業(宇治院)を子の関白頼通が永承七年(1052)に寺院としたもので、翌年の天喜元年(1053)に、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、現在鳳凰堂と呼ばれている。
 鳳凰堂中堂の内側の長押(なげし)上の小壁には52体の雲中供養菩薩像が懸け並べられており、その一部を鳳翔館で見学できました(楽器を奏でる像が28体あり、楽器の種類は、琵琶・琴(きん)・竪箜篌(たてくご)・横笛・縦笛・洞簫(どうしょう)・笙(しょう)・排簫(はいしょう)・鼓・腰鼓(ようこ)・揩鼓(かいこ)・羯鼓(かっこ)・太鼓・鐃(にょう)・鉦鼓(しょうこ)・拍板など)。
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 平等院境内の源頼政の墓(宝篋印塔)
源頼政は保元・平治の乱で武勲をたて、源氏として初めて従三位に叙せられた(源三位頼政と称された)。治承四年(1180)に以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて平家追討の兵を挙げたが、宇治川で平知盛軍の追撃を受け、平等院の境内で自刃した。
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Posted by katakago at 18:25
万葉の大和路を歩く会ー恭仁京跡・紫香楽宮跡(12/6) [2015年12月09日(Wed)]
 先日(12/6)、万葉の大和路を歩く会の今年最後の行事があり参加しました。近鉄奈良駅前からバスで次のコースを訪ねました(講師は影山尚之先生)。木津川・恭仁大橋(いずみ公園) → 山城国分寺跡 → 恭仁宮大極殿跡 → 安積皇子墓、活道ケ丘公園 → 甲賀寺跡 → 紫香楽宮跡宮町遺跡 → ミホミュージアム→奈良駅(今回は万葉以外にミホミュージアムもコースに入っていました)

 大伴家持の万葉歌碑(木津川恭仁大橋北詰)
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【歌】 今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし (E-1037)
【口語訳】 今造営中の 久邇の都は 山も川も すがすがしいのを見ると ここに都を造られるのも当然であろう
 (天平十五年(743)に内舎人の家持が久邇の京を讃めて作った歌)

 山城国分寺跡 
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 恭仁宮大極殿跡
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 茶畑の間を安積皇子墓に向かう(相楽郡和束町、神上山の上に築かれた円墳)
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 影山先生による解説
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 聖武天皇には、藤原氏出身の光明皇后の生んだ安倍内親王(天平十年に立太子、後に孝謙天皇)と基王(神亀五年に夭折)、夫人(ぶにん)県犬養広刀自が生母の安積皇子がいたが、皇子は17歳で急逝した(天平十六年)。反藤原氏で結ばれた橘・大伴両氏は安積皇子に期待を寄せていたようで、皇子の死は家持にとって打撃であり、一連の挽歌(B-475ー480)を詠んでいます。
 そのうちの長歌と反歌を載せておきます。
【歌】 かけまくも あやに恐し 言はまくも ゆゆしきかも 我が大君 皇子の尊 万代に 食したまはまし 大日本 久邇の都は うちなびく 春さりぬれば 山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走り いや日異に 栄ゆる時に 逆言の 狂言とかも 白たへに 舎人よそひて 和束山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ 臥いまろび ひづち泣けども せんすべもなし (B-475)
(この歌に和束山が詠まれ、上の2枚の写真の場所が安積皇子の和束墓とされている) 
 大伴家持の万葉歌碑(相楽郡和束町、活道ケ丘公園)、上の長歌の反歌
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【歌】 我が大君 天知らさむと 思はねば 凡にそ見ける 和束杣山 (B-476)
【口語訳】 わが皇子が 亡くなられようなどと 思わなかったので 気にもとめずに見ていた あの和束の杣山を

 なお、活道(いくぢ)の岡に登り、一本松の下に集って宴会をした時(天平十六年正月)に歌が二首詠まれています(市原王と大伴家持)。その一首(市原王の作)を故犬養孝先生の色紙(昭和59年4月1日喜寿記念に書かれた)で載せておきます。
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【歌】 一松 幾代可歴流 吹風乃 声之清者 年深聞 (E-1042 市原王)
【読み下し文】 一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも
【口語訳】 一本松よ おまえは何年経たのか 吹く風の 声が清らかなのは 長い年月を経たからなのか
家持の歌は、
【歌】 たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとそ思ふ (E-1043)
【口語訳】 (たまきはる) 自分の寿命は分からないが 松の枝を 結ぶ心は 命長かれと願ってのことだ

 甲賀寺跡(大正十五年に紫香楽宮跡として国の史跡に指定されていたが、発掘調査の結果東大寺式の伽藍配置をとる寺院遺構であることが明らかとなっている)
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 紫香楽宮跡の宮町遺跡(現在は水田が広がる)を前に影山先生の解説
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 この宮町遺跡からは多数の木簡が出土しており、その中に次の万葉歌が書かれたとみられる物が見つかっています(平成20年)。
【歌】 安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに (O-3807)
Posted by katakago at 21:47
山の辺の道を歩く(梅花万葉集友の会) [2015年11月07日(Sat)]
 昨日は、梅花万葉集友の会の屋外講座で山の辺の道のウオーキングを愉しみました(案内は講師の市瀬雅之先生)。今回のコースは、JR櫟本駅(集合)→ 和爾下神社 → 和爾下神社古墳 → 柿本寺跡 → 赤土山古墳 → 和爾座赤坂比古神社 → 楢神社 →(上ツ道)→ 天理市役所(歌碑)→ 石上神宮 → 布留の高橋 → 天理駅(歌碑)
 このコースは、今年の三月にも奈良学文化講座で出かけており、その時はあいにくの雨天でしたが、今回は天候にも恵まれ11月にも関わらず汗ばむほどの気温の中、2万歩以上の万葉ウオーキングでした。
 前回の記事は次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/959

 ここでは、主に万葉歌碑の写真を掲載しておきます。
 和爾下神社境内の万葉歌碑
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【歌】 刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従来許武 狐尓安牟佐武 (長忌寸意吉麻呂 O-3824)
【読み下し文】 さす鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ
【口語訳】 さす鍋で 湯を沸かせ皆の者よ 櫟津(いちいつ)の 檜橋(ひばし)からコンと鳴いて来るであろう 狐に浴びせてやろう
 この歌の左注には、「右の歌一首は、言い伝えによると、ある時大勢集まって宴会をした。その時、時刻も十二時ごろ、狐の声が聞こえた。そこで一同奥麻呂(意吉麻呂)をそそのかして言うには、『この鍋類に、雑器、狐の声、河の橋などの物に関連させて何か歌を作られよ』と言ったところ、即座にその注文に答えてこの歌を作った、ということである」とあります。巻十六には
このような物の名を詠み込んだ歌(物名歌)が載っており、意吉麻呂はこのような歌を得意としたようです。
 
 和爾下神社参道途中にある『日本書紀』武列天皇即位前期にある歌謡の碑の前で(歌碑の詳細は前回の記事に記載)
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 天理市役所構内にある万葉歌碑
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【歌】 吾妹児哉 安乎忘為莫 石上 袖振川之 将絶跡念倍也 (K-3013)
【読み下し文】 我妹子や 我を忘らすな 石上 袖布留川の 絶えむと思へや
【口語訳】 いとしい妻よ 私を忘れないでおくれ 石上(いそのかみ) 袖振るー布留川のように なんでわたしは途絶えるものか
「石上袖布留川の」のソデは、袖を振る、の意で布留川のフルに掛けた序詞的用法(布留川の流れが絶えないように、の意で第五句を起こす序)。

 石上神宮境内で
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 石上神宮参道北側の柿本人麻呂の歌碑の前で
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【歌】未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者 (柿本朝臣人麻呂 C-501)
【読み下し文】 娘子らが 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我は
【口語訳】 乙女が 袖を振るという名の布留山の 年を経た神垣のように 久しい前から 思っていたのだよわたしは
 「娘子らが袖布留山の瑞垣の」は、年を経ても変わらぬことを譬えた比喩の序で、更に、「娘子らが袖」がまた袖を振る、の意で地名「布留」を起こす序となっている。

 石上神宮外苑公園入り口の歌碑
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【歌】 石上 振乃神杉 神備西 吾八更々 恋尓相尓家留 (I-1927)
【読み下し文】 石上 布留の神杉 神びにし 我やさらさら 恋にあひにける
【口語訳】 石上の 布留の神杉でなないが 年古りた わたしがこの年になって あなたに恋をしてしまったよ
 石上神宮の神杉
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 この歌は、次の歌との問答歌
【歌】 春山の あしびの花の 悪しからぬ 君にはしゑや 寄そるともよし
【口語訳】 春山の あしびの花のように 悪しくない あなたとのことでならままよ 言い騒がれてもかまいません

 石上布留の高橋で
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 天理駅前の歌碑(石上布留の高橋が詠まれている)
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【歌】 石上 振之高橋 高々尓 妹之将待 夜曾深去家留 (K-2997)
【読み下し文】 石上 布留の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜そ更けにける
【口語訳】 石上の 布留の高橋の 高々にーまだかまだかと あの娘が待っているに違いない 夜は更けてしまった
 「高々に」は、人の来訪をしきりに待ち望む気持ちを表す副詞(『新編日本古典文学全集 萬葉集』)。
Posted by katakago at 16:51
越中万葉の旅 [2015年11月01日(Sun)]
 先週末は、カルチャーセンターの万葉講座の受講者有志で富山県に出かけて来ました。半年前から計画を立て、小宮山氏の尽力によりようやく実現できました。講座の講師である坂本信幸先生は高岡市万葉歴史館の館長をされており、歴史館では直接先生に館内を案内して頂きました。更に、越中万葉故地の資料を用意して下さり、2日目は同行して現地の案内もして頂きました。
 『万葉集』編簒に大きく関わったとされる大伴家持は、天平十八年(746)に越中守として高岡市伏木にあった国庁に赴任し、天平勝宝三年(751)に少納言となって都に帰るまでの五年間に越中国で223首の歌を詠んでいます。今回の旅行では、射水市、高岡市、氷見市にある歌に詠まれたゆかりの地を訪れました。以下訪問場所の写真とメモを残しておきます。 

【1日目の見学場所】
 午後からジャンボタクシーをチャーターして故地を巡りました。放生津八幡宮 → 二上山 → 正法寺万葉植物園 → 氣多神社 → 越中国守館跡(高岡市伏木気象資料館)→ 勝興寺(越中国庁跡)→ 高岡市万葉歴史館 

 放生津(ほうじょうづ)八幡宮(射水市八幡町)
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 境内にある佐佐木信綱揮毫の歌碑
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【歌】 あゆの風<越の俗(くにひと)の語(ことば)に東の風をあゆのかぜといふ> いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ (大伴家持 P-4017)
【口語訳】 あゆの風(越の方言で東風をあゆのかぜという)が激しく吹いているらしい。奈呉の海人の釣りする小舟が、漕ぎ隠れるのが見える。
 『新編日本古典文学全集 萬葉集』には、「日本海沿岸の各地に「あゆの風」(または「あいの風」)という風位名が現在も残っており、その多くは北東ないし北西の方角から吹く北寄りの風をいう。この歌のそれも海から吹いてくる北寄りの風をさすのであろう。」とあります。
 奈呉(なご)之浦の碑(越中万葉名勝地) 奈呉の浦は高岡市伏木から放生津潟一帯にかけての海浜。 
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 二上山から眺めた小矢部川(万葉歌では射水川) 
富山、石川両県の大門山に源を発し全長は68Kmにおよぶ。下流部は複雑に蛇行する緩流河川。
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 二上山の大伴家持像
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 正法寺(高岡市伏木一宮)万葉植物園の万葉歌碑 
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【歌】 雄神川 紅にほふ 娘子らし 葦付<水松(みる)の類>取ると 瀬に立たすらし (大伴家持 P-4021)
【口語訳】 雄神川が紅色に輝いている。乙女らが葦付(水松)を採ると、瀬に立っているらしい。
 雄神川は現在の庄川。葦付は清流に自生する緑褐色で塊状の寒天様藻類とされており、『万葉集』のこの歌にのみただ一度登場する越中のことば(孤語)。
 
 氣多神社(高岡市伏木一宮)の万葉歌碑
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【歌】 馬並めて いざ打ち行かな 渋谿の 清き磯回に 寄する波見に (大伴家持 P-3954)
【口語訳】 馬を並べて、さあ揃って出かけよう。 渋谿の清らかな磯辺に寄せる波を見に。

 越中国守館跡(現在、高岡市伏木気象資料館がある)の碑
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 越中国守館跡の万葉歌碑
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【歌】 朝床に 聞けば遙けし 射水河 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人 (大伴家持 R-4150)
【口語訳】 朝の寝床で聞くと、遙かに聞こえてくる。 射水川を朝早く漕ぎながら唄う舟人の声だ。 

 勝興寺(高岡市伏木古国府)
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 境内の越中国庁跡の碑
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 境内の万葉歌碑(その一)
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【歌】 安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽 (大伴家持 Q-4136)
【読み下し文】 あしひきの 山の木末の ほよ取りて かざしつらくは 千年寿くとそ
【口語訳】 (あしひきの) 山の梢の ほよを取って 髪に挿したのは 千年の命を祝う気持ちからです
 ”ほよ”はやどりぎ科の常緑小高木ヤドリギの古名(落葉高木に寄生する)。『新編日本古典文学全集 萬葉集』によれば、「冬の間、落葉樹の林の中でこのやどりぎだけが鮮やかな色で茂っているさまに、永遠の生命を認めて、信仰の対象とする習俗が世界各地にある。ここもやどりぎの神秘的呪力を信じてこれを身に付けたのであろう」とあります。
 なお、ほよ(ヤドリギ)の写真は、次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/948

 境内の万葉歌碑(その二)
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 陸奥国(みちのくのくに)に金(くがね)を出(い)だす詔書を賀(ほ)く歌(長歌)の一部
【歌】 ・・・ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ ・・・(大伴家持 Q-4094)

 ”かたかご”の万葉歌碑(犬養先生揮毫)
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【歌】 もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花 (大伴家持 R-4143)
【口語訳】 (もののふの) たくさんの乙女たちが入り乱れて水を汲む、寺井のほとりのかたかごの花よ。

 高岡市万葉歴史館(高岡市伏木一宮)で
館長の坂本信幸先生に館内を案内して頂きました
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 記念の集合写真
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 敷地内にある犬養先生揮毫の万葉歌碑(二上山の賦)
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【読み下し文】 射水川 い行き巡れる 玉櫛笥 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 皇神の 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒磯に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく 古ゆ 今の現に かくしこそ 見る人ごとに かけてしのはめ (大伴家持 P-3985)

【2日目の見学場所】
 越中国分寺跡 → つまま小公園 → 雨晴海岸 → 田子浦藤波神社 → 柳田布尾山古墳 → 十二町潟水郷公園(布勢の水海)→ 布勢神社 → 英遠の浦 → 松田江
越中国分寺跡(つままの大木が見られた)
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 つまま小公園(高岡市太田) ”つまま”は、くすのき科の常緑大高木のタブノキ
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 万葉歌碑 富山県内で最古(安政五年、1858)の歌碑
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【歌】 礒上之 都万麻乎見者 根乎延而 年深有之 神左備尓家里 (大伴家持 R-4159)
【読み下し文】 磯の上の つままを見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり
【口語訳】 磯の上の つままを見ると 根を張って 年を久しく経たらしい 神々しくなっている

 雨晴海岸で立山を眺望(この日は残念ながら見ることは叶わなかった)
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 田子浦藤波神社
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 フジの古木
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 大伴家持卿歌碑(この角柱の裏側に歌が刻まれている) 
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 万葉歌碑
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【歌】 藤奈美乃 影成海之 底清美 之都久石乎毛 珠等曽吾見流 (大伴家持 R-4199)
【読み下し文】 藤波の 影なす海の 底清み 沈く石をも 玉とそ我が見る
【口語訳】 藤の花が影を映している水海の底までが清く澄んでいるので、沈んでいる石も、玉だと私は見ることだ。

 柳田布尾山古墳(日本海側最大の前方後方墳)の展望台から二上山を遠望
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 萬葉布勢水海之跡の碑(犬養先生揮毫)
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 十二町潟水郷公園(布勢の水海)  
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 布勢神社の大伴家持御遊覧之地の碑
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 布勢神社境内奥の万葉歌碑
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【歌】 明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも (大伴家持 Q-4043)
【口語訳】 明日の日の 布勢の浦辺の 藤波に もしや来鳴かないで みすみす散らしてしまうのではないでしょうか

 英遠(あを)の浦(氷見市阿尾)
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 万葉歌碑
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【歌】 英遠の浦に 寄する白波 いや増しに 立ちしき寄せ来 あゆをいたみかも (大伴家持
 Q-4093)
【口語訳】 阿尾の浦に寄せる白波の立つのがいよいよ増して、しきりに寄せてくる。東風が激しいからであろうか

 松田江(渋谿の崎と氷見の江の間の長い砂浜) 
萬葉故地 「麻都太要能 奈我波麻」の碑(犬養先生揮毫) 
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 再び立山を遠望(?)
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今回は、海越しの立山連峰を見ることが出来なかったのですが、昨年訪れた時の記事と写真は次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/940


Posted by katakago at 18:43
田原の里から柳生街道、春日野へ [2015年06月22日(Mon)]
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 昨日は、「万葉の大和路を歩く会」の444回目が開催され参加しました。
 今回のコースは、近鉄奈良駅前からバスで田原・ヘリポート前へ(万葉歌碑)→ 春日天皇陵(志貴皇子墓)→ 峠の茶屋 → 春日奥山・柳生街道滝坂道(下り石畳道)→ 首切り地蔵 → 朝日観音 → 夕日観音 → 寝仏 → 春日野・ささやきの小道 → 飛火野

 田原・ヘリポート前の万葉歌碑(犬養孝先生揮毫)
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【歌】 牟佐佐婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都尓 相尓来鴨 (志貴皇子 3−267)
【読み下し文】 むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟夫に あひにけるかも
【口語訳】 むささびは 梢を極めようとして (あしひきの) 山の猟師に やられてしまった
 なお、この歌には寓意(高い地位を望んで身を滅ぼした人々のこと)が込められているとの説もあるようです

 春日天皇陵(志貴皇子墓)前で坂本先生から笠金村の挽歌の解説を聴く
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 志貴皇子(天智天皇の皇子)は、光仁天皇の父にあたり、光仁天皇即位後、春日宮天皇と追尊された(宝亀元年,770)。光仁天皇の田原東陵に対し田原西陵と呼ばれる。
 題詞に、「霊亀元年九月に、志貴親王が亡くなった時に作った歌一首と短歌」とある笠朝臣金村歌集(金村の作とみられている)の長歌は、 
【歌】 梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挟み 立ち向かふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何かと問へば 玉桙の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白たへの 衣ひづちて 立ち留まり 我に語らく なにしかも もとなとぶらふ 聞けば 音のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 天皇の 神の皇子の 出でましの 手火の光そ そこば照りたる
(A‐230)
 反歌は、
【歌】 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (A−231)
【歌】 三笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに (A‐232)

 柳生街道滝坂道の磨崖仏(朝日観音)
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 朝日に良く映えるので朝日観音の通称があるが、中央が弥勒菩薩で左右が地蔵菩薩で、文永二年(1265)の刻銘(写真は午後に撮影したもの)。柳生街道は四十数年前に訪れたことがありますが、峠の茶屋は今でも営業されていました(名物の草餅は完売)。
 雨に濡れた石畳みの坂道を、足元を気遣いながら下りました
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 コースの最終地点(飛火野)に到着して
春日山(春日・御蓋・若草などの山々)を背に、坂本先生から春日野が詠まれた歌の解説を聴く
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【歌】 春日野の 浅茅が上に 思ふどち 遊ぶ今日の日 忘らえめやも (I‐1880)

Posted by katakago at 16:50
飛鳥を愛する会現地講座(4/26)−近江の史跡と万葉を巡る [2015年04月30日(Thu)]
 飛鳥を愛する会の二日目は「近江の史跡と万葉を巡る」現地講座に参加しました。JR大津駅からの参加で、コースは、
(国史跡)茶臼山古墳 → 瀬田唐橋 → (国史跡)近江国庁跡 → 柳ケ崎(万葉歌碑) → 近江神宮・大津京錦織遺跡(万葉歌碑) → (国史跡)百穴古墳 → 唐崎 → JR大津駅(昼食も移動中の車中でとると言う濃密な行程でした)。

 このコースのうち、万葉関連は以前にも訪れたことがありますがこの季節は初めてであり、また考古学関連の史跡にも興味がありました。以下、当日の資料と現地説明よりメモを残しておきます。
【膳所茶臼山古墳】
4世紀末頃の造営で、近江第2位、湖南地方最大の前方後円墳(全長122m)。

【瀬田唐橋】
古代の勢多橋は東山道に架けられた橋で、壬申の乱では近江朝廷側と大海人軍側が最後の決戦を行った場所。近年その当時の勢多橋跡が発見された(高度なラーメン構造の橋脚)。

【近江国庁跡】
律令制下の近江の国は東山道に属する大国(租税徴収の基準となる本田数では第4位、鉄鉱石を産出)で、畿内中枢部と東山道、東海道、北陸道諸国を結ぶ交通・軍事の要衝。
近江国庁の特徴は、
・三つの郭(中央の政庁郭と東西の郭)を配置(宮城中枢部のミニチュア版、他に例がない)
・国庁や国府関連施設に瓦葺礎石建物を採用
・全国的に見て傑出した規模と内容(歴代の国司に藤原氏の一族が)
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 木下先生の説明の様子
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【柳ケ崎】 
犬養先生揮毫の万葉歌碑(琵琶湖湖畔)
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【歌】 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念 (柿本朝臣人麻呂 3−266)
【読み下し文】 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ
影山先生の資料にも転載されていた犬養孝著『万葉の旅 中』から、一部を載せておきます。
「また心ある人にとって、湖畔大津の宮の興亡の悲史も忘れ去ることができない。この歌も近江の湖畔で懐古の感懐をうったえたものである。目の前には広大茫漠とした淡海の海がある。近景には夕方のさざ波に群れとぶ千鳥がある。もうそれだけでもたえきれない作者の懐古の慕情は、千鳥に呼びかけて、”千鳥よ。おまえがそんなに鳴くと心もしおれるほどに昔のことが思われてくるよ”とうたっている。」
 影山先生からは、「いにしへ思ふ」の集中用例について、この歌の他8例いずれも旅先で詠まれているとの解説がありました。
 この歌碑の前で坂本先生と犬養節で朗唱
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【大津京錦織(にしこうり)遺跡】
大津宮は天智6年(667)造営、壬申の乱(672)後廃都となる。中枢部の復元図(北側に内裏、その南に朝堂院を配置。内裏正殿とその南門、内裏の一郭を取り囲む回廊や塀など)によれば孝徳天皇の前期難波宮と類似の配置が見られる(木下先生)。
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人麻呂の近江荒都歌の万葉歌碑(坂本先生揮毫)
題詞に「近江の荒れたる都に過(よき)る時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」とある。
歌の配列の様相から、持統朝初期の詠とみられている(壬申の乱から十数年後)。 
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【歌】 玉だすき 畝傍の山の 橿原の 聖の御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮所 見れば悲しも (@−29)
 なお、この歌の解説は、歌碑の揮毫者でもある坂本先生が行われる予定でしたが、先生の御都合で柳ケ崎までの参加となり残念でした。
 新潮日本古典集成『萬葉集』頭注には、「都の荒廃を嘆くことで、地霊を慰めようとする、鎮魂の心を込めた歌。荒都を歌った作品として最も古い。なお、この歌では天皇が神と呼ばれているが、これは、壬申の乱後のこの時期における、宮廷人の熱烈な天皇讃美の感情が生んだ特殊な呼称である」とあります。
 
【百穴古墳群】
 天井が高くドーム状になる特徴的な構造をもつ横穴式石室(1400年ほど前の古墳時代後期)で、中国・朝鮮半島からの渡来系(志賀漢人)の古墳とみられている(145基程の円墳が群集)。
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 岡崎先生による説明の様子
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Posted by katakago at 15:24
小山田遺跡現地説明会(1/18) [2015年01月19日(Mon)]
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 1/15午後記者発表があり、翌日の朝日新聞朝刊には一面のトップに「飛鳥 未知の大古墳か」の見出しの記事が掲載されていました。
 明日香村川原の小山田遺跡(県立養護学校の敷地内)で、学校の建て替え工事に伴う発掘調査(橿原考古学研究所)で、石材を張り付けた巨大な掘割(約50m)が見つかりました。発掘担当の橿原考古学研究所の見解では、7世紀中頃の築造で規模(50m以上の方墳)や立地、特異な構造(墳丘に結晶片岩と榛原石を積み上げる)などから、舒明天皇(593〜641)が最初に葬られた「滑谷岡(なめはざまのおか)」の墓かとみられています。『日本書紀』皇極天皇元年(642)十二月条には、「壬寅(21日)に、息長足日広額天皇(舒明天皇)を滑谷岡に葬りまつる」とあります。次いで、皇極天皇二年九月条には、6日に押坂陵(おしさかのみさざき)に葬りまつった(改葬された)とあります(押坂陵は桜井市の段ノ塚古墳と考えられている)。

 昨日(1/18)その現地説明会があり出かけて来ました。10時からの開始予定でしたが、9時半ごろ現場に着くと校門の外まで行列ができており、説明も時間を繰り上げて開始されていました。
 現場の見学に先立ちパネルを用いて発掘担当者から説明を聴きました。
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 積み石の様子
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 150人づつ時間を区切って見学
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 現地説明会に参加して後、久しぶりに明日香の地を散策(一人でしたが)することにして、見学地から川原寺の方に廻り明日香川沿いに甘樫丘へ、小墾田宮(をはりたのみや)跡を通って橿原神宮前駅に向かいました。その途中、小墾田宮跡近くの田んぼの中の一本の木にヤドリギを見つけました(写真後方は畝傍山)。ヤドリギは落葉高木の幹や枝に寄生するので、この時期遠くからでも見つけられます。私の植物園では見られないのでここで取り上げました。
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 ヤドリギの拡大写真
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 万葉歌には、ほよ(原文は保与と表記)として次の一首のみ詠まれています。
【歌】 あしひきの 山の木末の ほよ取りて かざしつらくは 千年寿くとそ (大伴家持 Q-4136)
【口語訳】 (あしひきの) 山の梢の ほよを取って 髪に挿したのは 千年の命を祝う気持ちからです
 題詞に、「天平勝宝二年(750)の正月二日に、国庁(越中)において諸郡司たちに饗応した宴での歌一首」とあり、『新編日本古典文学全集 萬葉集』では、「冬の間、落葉樹の林の中でこのやどりぎだけが鮮やかな色で茂っているさまに、永遠の生命を認めて、信仰の対象とする習俗が、世界各地にある。ここもやどりぎの神秘的呪力を信じてこれを身に付けたのであろう」と解説されています。




Posted by katakago at 06:52
蒲生野探訪(万葉の大和路を歩く会) [2014年12月08日(Mon)]
 昨日(12/7)は、「万葉の大和路を歩く会」の第438回目の行事に参加して、万葉の故地「蒲生野」(滋賀県東近江市)に出かけて来ました。今回のコースは、
京都駅(8:40頃出発)→老蘇の森・奥石(おいそ)神社・・・中山道・鎌若宮神社→雪野山歴史公園→船岡山万葉公園(万葉歌碑)→市辺押磐皇子墓→太郎坊宮・阿賀神社→市神神社(万葉歌碑)→近江鉄道八日市駅→京都駅(17:40頃到着)
 講師は影山尚之先生(武庫川女子大学教授)で、大型バス2台の参加者がありました。蒲生野は天智七年(668)五月に薬狩が行われた場所で(『日本書紀』にも記載)、『万葉集』には、その時詠まれた有名な額田王と大海人皇子の贈答歌があり、万葉ファンなら一度は行ってみたい所です。参加者の中には今回初めての人もいれば5回以上訪れたことのある方も居ました。私は今回が3回目です(21年前は3月に一人で、6年前は5月に数人の仲間で)。船岡山万葉公園では、地元の方からここで栽培されているムラサキの種を分けていただきました。植物園で栽培してみます(今の時期に蒔くのが良いとのことでした)。

 船岡山万葉公園に在る陶板壁画(当時の薬狩の様子が描かれている)
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 陶板壁画の前で影山先生の解説を聴きました
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 船岡山の万葉歌碑の前で影山先生による解説の様子
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碑面の文字は『元暦校本万葉集』から採られていますが、ここには読み下し文を載せておきます。
 天皇、蒲生野に遊猟(みかり)する時に、額田王の作る歌
【歌】 あかねさす 紫草(むらさき)野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(@-20)
 皇太子の答ふる御歌 明日香宮に天の下治めたまひし天皇 諡を天武天皇といふ
【歌】 紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我(あ)れ恋ひめやも (@-21) 

 太郎坊宮からの蒲生野眺望
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 なお、関連記事は、ムラサキの花を取り上げた以前のブログにも載せています。
     ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/57

 市神神社の万葉歌碑(揮毫は犬養孝先生) この場所は今回初めて訪れました。
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【歌】 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹 (額田王 C-488)
【読み下し文】 君待つと 我(あ)が恋ひ居れば 我(わ)が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く
Posted by katakago at 17:49
忍阪・宇陀を歩く(毎日文化センター学外講座) [2014年11月10日(Mon)]
 一昨日(11/8)、毎日文化センターの万葉学外講座(講師は市瀬雅之先生)があり参加しました。月一回の講座で、うち年二回の学外講座があります。
 コースは、近鉄大和朝倉駅(集合10:10)→ 忍坂山口坐神社 → 忍坂坐生根神社 → 玉津島明神 → 舒明天皇陵 → 鏡王女墓 → 大伴皇女墓 → 忍坂〜大宇陀(奈良交通バス) → 大宇陀道の駅(昼食)→ 阿騎野・人麻呂公園(中之庄遺跡)→ 万葉公園(かぎろひの丘)→ 阿紀神社 → 神楽岡神社 → 大宇陀〜榛原駅(奈良交通宇バス)→ 墨坂神社 → 近鉄榛原駅(16:40頃到着)

 
 忍坂の舒明天皇陵に向かう途中、大宇陀の方向を望む
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 生根神社の歌碑  
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【歌】 隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒巻惜毛 (L-3331)
【読み下し文】 こもりくの 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山の 出立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも
【口語訳】 (こもりくの) 泊瀬の山の (青旗の) 忍坂の山は 裾引きの 好もしい山で たたずまいの 見事な山だ もったいない この山の 荒れてゆくのが惜しい

 舒明天皇陵を過ぎて鏡王女墓に向かう山道で
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 鏡王女の万葉歌碑(揮毫は犬養孝先生)
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【歌】 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曾益目 御念従者 (鏡王女 A-92)
【読み下し文】 秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそまさめ 思ほすよりは
【口語訳】 秋山の 木陰をひそかに 流れて行く水のように わたくしの方こそ深く思っているでしょう あなたが思ってくださる以上に
 作者の鏡王女は、従来額田王の姉かとされたが、舒明天皇陵の域内に在ることより舒明天皇の皇女ではないかとする説があります。初め、天智天皇に愛されたが、のちに藤原鎌足の正室となっている(ちなみに興福寺の前身山階寺は鎌足病気のさい王女の発願により開基)。鎌足と結婚する前に、天智天皇との歌の贈答があり、これはその答歌で、天智天皇の歌は、
【歌】 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを(A-91) 
【口語訳】 あなたの家だけでも いつも見られたらよいのに 大和の国の 大島の嶺に あなたの家がありさえすればよいのに


 大宇陀では、柿本人麻呂の安騎野の万葉歌碑を巡りました。
 阿騎野・人麻呂公園で(写真後方中央は馬上の人麻呂像)
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 この場所(中之庄遺跡)は、平成7年度(1995)の発掘調査によって、弥生時代、飛鳥時代、中・近世の三時期にわたる遺構が見つかり、飛鳥時代のものとしては掘立柱建物跡(11棟以上)、竪穴住居跡(3棟)等が見出されています(遺構の時期は出土土器から7世紀後半〜末)。古代の狩猟の地であった安騎野の重要施設と推定されています(園内には掘立柱建物の復元と馬上の人麻呂像も)。
 
 万葉公園(かぎろひの丘)で
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 以下は軽皇子が安騎野に宿られた時に柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌(歌碑の写真とともに)
 万葉公園(かぎろひの丘)の歌碑(長歌) 
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【歌】 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃
 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而 (@-45)
【読み下し文】 やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に はたすすき 篠を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古思ひて
【口語訳】 (やすみしし) わが大君の (高照らす) 日の神の皇子軽皇子は 神であるままに 神らしく振る舞われるべく 天皇のいらっしゃる 都をよそに (こもりくの) 泊瀬の山は 真木が茂り立つ 荒い山道だが 岩石や 邪魔な木を押し倒し (坂鳥の) 朝越えられて (玉かぎる) 夕方になると 雪の降る 安騎の大野に すすきの穂や 小竹を押し伏せて (草枕) 旅寝をなさる 日並皇子がここに来られた時のことを偲んで
 犬養孝著『万葉の旅 上』には、「草壁皇子(日並皇子)は、母持統天皇の三年四月に亡くなられた。この歌はその後に草壁皇子の遺児軽皇子が、宇陀の安騎野に狩に行かれたときお供をした人麻呂の作である。草壁皇子は生前、同じ宇陀に狩に出られた(巻二-191)。軽皇子の安騎野行は、けっしてただの狩猟ではなくて、「古思ひて」ともあるように、父君追慕の狩の旅である。時は、巻一の配列の順序から考えて、持統六年(692)の春以後、その年の冬の頃と推定される」とあります(六年とすると軽皇子は当時10歳で、15歳の時に持統が譲位して文武天皇となる)。 

 万葉公園(かぎろひの丘)の歌碑(反歌) 揮毫は佐佐木信綱(昭和15年建立)
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【歌】 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ (@-48)
【口語訳】 東方の 野にかげろうの 立つのが見えて 振りかえって見ると 月は西に傾いている
 『万葉の旅 上』には、「この歌は、山野の草枕での回想に夜を徹してしまった荒涼と寒気と悽愴の黎明の感慨として理解されなければならない。(中略) このような事情のなかでの山野の夜明けであって、それだけに凄みも増し、東方の薄明るい光と、西方のまだ黒々とした中の薄暗い月光とのコンポジションは、かえって作者の感慨を拡大させ、遠くはるかに深々としみとおらせてゆくものがある」とあります。
 この歌に取材した壁画の作者中山正實氏は、この景観にあらわれる日時を中央気象台に問い合わせ、実地に攻究し、持統六年十一月十七日(692年12月31日)とし、その暁方、かげろひが東に立ち(日の出前1時間)、月が西に傾く時を、午前5時50分と推定した(澤瀉久孝著『萬葉集注釋』より)。

 阿紀神社の歌碑(反歌)
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【歌】 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 去部念尓 (@-46)
【読み下し文】 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眠も寝らめやも 古思ふに
【口語訳】 安騎の野に 仮寝する旅人は くつろいで 寝てなどいようか 故皇子のいらした当時を思うと 

 神楽岡神社の歌碑(反歌)
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【歌】 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曾来師 (@-47)
【読み下し文】 ま草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君の 形見とそ来し 
【口語訳】(ま草刈る) 荒れ野ではあるが (もみち葉の) 今は亡き皇子の 形見の地としてやって来られた

 反歌は次のもう一首があります(この歌の歌碑は今回のコースには無かった)。
【歌】 日並の 皇子の尊の 馬並めて み狩り立たしし 時は来向かふ (@-49)
【口語訳】 日並の 皇子の尊が 馬を並べて 狩りを催された 同じその時刻になった

 なお、この「安騎野のかぎろひ」に関しては、以前に和田萃先生の講演の記事で触れています。
      ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/472


Posted by katakago at 15:40
山の辺の道ウォーク(万葉集友の会) [2014年11月07日(Fri)]
 昨日(11/6)、「万葉集友の会」の秋の屋外講座として、山の辺の道ウォークに出かけました(講師は市瀬雅之先生)。
 コースは、近鉄桜井駅(10時出発) → 仏教伝来の地 → 海柘榴市 → 八坂神社 → 崇神天皇磯城瑞籬宮伝承地・志貴御県坐神社 → 平等寺 → 大神神社 → 神坐日向神社 → 若宮社 → 久延彦神社 → 狭井神社 → 玄賓庵 → 檜原神社(元伊勢) → 箸墓古墳 → 巻向駅(15:20着)

 初瀬川(三輪山の裾をめぐって流れる。三輪山麓付近では三輪川と称される)
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【歌】 夕去らず かはづ鳴くなる 三輪川の 清き瀬の音を 聞かくし良しも (I-2222)

 崇神天皇磯城瑞籬宮伝承地(志貴御県坐神社境内)
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 志貴御県坐神社境内の万葉歌碑の前で市瀬先生の説明を聴く
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【歌】 磯城島の 大和の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ (L-3249)
【口語訳】 (磯城島の)大和の国に あなたのような人がほかにも あると思ったら なんで嘆きましょう

 古事記歌謡の歌碑
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【歌】 狭井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす (20)
【口語訳】 狭井河から雲が広がり、畝傍山の木の葉がざわざわと音を立てはじめた。風が吹こうとしている。
 『古事記』中巻では、神武天皇の死後、当芸志美々命(神武天皇と阿比良比売との間の子)の企て(三人の異母弟の皇子を殺して皇位を奪おうとする)に、皇后(伊須気余理比売)がこの歌で自分の皇子たちに異変を知らせた(反逆は失敗に終わる)。
 狭井河は狭井神社付近を流れる川で、『新編日本古典文学全集 古事記』によれば、「狭井河から雲が出てくるのは、そこが皇后伊須気余理比売の本拠地だからであり、その地に住む神霊が異変を予告しているのである」とあります。

 三輪山(井寺池付近で)
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 額田王の歌碑(長歌と反歌)
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【歌】 味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
 (@-17)
【歌】 三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや (@-18)


 川端康成揮毫の歌碑(古事記歌謡)
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【歌】 倭は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し (30)
【口語訳】 大和は国の中でももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている大和は、美しい。
 『古事記』中巻で、景行天皇の皇子倭建命が東征からの帰途、大和に至り得ずに望郷の思いで詠んだ歌。

 箸墓古墳(宮内庁の陵墓指定では倭迹迹日百襲姫命の墓とされている)
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 このコースは以前にも歩いたことがあります(萬葉学会の一日旅行)。その時の記事は次のURLに載せています。
     ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/350 
Posted by katakago at 17:18
越前 ー 悲恋の里 味真野を訪ねて(万葉の大和路を歩く会) [2014年07月16日(Wed)]
 先日(7/13)、万葉の大和路を歩く会主催の故地探訪(越前 ー 悲恋の里味真野、鹿蒜)に出かけて来ました。講師は山内英正氏(兵庫歴史教育者協議会会長)。
 『万葉集』巻十五は、前半が遣新羅使人達の渡航記録であり、後半が配流になった夫と都に残された妻の贈答歌群となっています。今回訪れたのはその配流先の越前味真野です。

 以下、当日配布の資料・山内講師による解説と主に『新編日本古典文学全集 萬葉集』より関連部分を載せておきます。
 『万葉集』の目録の記事には、中臣朝臣宅守は蔵部(くらべ)の女嬬(にょじゅ)狭野弟上娘子を娶った時に、勅断によって越前国に配流され、二人は別れがあっけなく再会が困難なことを嘆き、悲しみの心を詠み交わした、とあります(その歌が63首)。
 『続日本紀』の聖武天皇天平十二年条の大赦の記事には、「・・・・中臣宅守・・・は赦の限りに在らず」とあり、翌十三年の「京都(みやこ)新たに遷れるを以て天下(あめのした)に大赦す」とあることより、この時に赦されて都に戻ったとみられています(但し配流された時期は不明)。
 流罪になった原因についても、具体的な記述がないため不明ですが、自業自得と諦めているような歌があります。
【歌】 世の中の 常の理 かくさまに なりに来にけらし すゑし種から (N-3761)
【口語訳】 世間の 常の掟で こんな風に なってきたのだろう 自ら蒔いた種がもとで

 平城京から味真野へのルート(味真野資料館のパネルより)
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 今回訪れた万葉歌碑を掲載しておきます。
@越前の里 味真野苑 
比翼の丘の万葉歌碑(揮毫は犬養孝先生、中臣宅守の歌碑と狭野弟上娘子の歌碑が向かい合って建てられている)
参加者がそれぞれの歌碑に別れて、それぞれの歌を犬養節で朗誦しました。
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 中臣宅守の歌碑
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【歌】 知里比治能 可受尓母安良奴 和礼由恵尓 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐 (N-3727)
【読み下し文】 塵泥の 数にもあらぬ 我故に 思ひわぶらむ 妹がかなしさ
【口語訳】 塵や泥土のように 数にも入らない わたしのような者のために、あなたが落胆しているであろうと思うと、あなたがいとしくてたまらない。

 狭野弟上娘子の歌碑
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【歌】 君我由久 道乃奈我弖乎 久里多々祢 也伎保呂煩散牟 安米能火毛我母 (N-3724)
【読み下し文】 君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも
【口語訳】 あなたが流されていく 長い道のりを、手繰り重ねて焼き滅ぼしてしまう、天の火があればよいのに。

 渓流傍の万葉歌碑 中臣宅守の歌碑と読み下し文
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 狭野弟上娘子の歌碑と読み下し文
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A小丸城址の万葉歌碑
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 右から順に、宅守の歌2首と娘子の歌2首が『西本願寺本萬葉集』より採られています。歌(読み下し文)と口語訳を載せておきます。
 宅守の歌2首
【歌】 我妹子に 恋ふるに我は たまきはる 短き命も 惜しけくもなし (N-3744)
【口語訳】 あなたを 恋い慕ってわたしは (たまきはる) 短い命も 惜しくなどない
【歌】 天地の 神なきものに あらばこそ 我が思ふ妹に 逢はず死にせめ (N-3740)
【口語訳】 天地の 神々が在(いま)さぬもので あったとしたら 諦めてわたしの思う人に 逢わずに死のう (天神地祇の加護を信ずればこそ、いつかは逢えようと思ってかろうじて生きているのだ)
 娘子の歌2首
【歌】 命あらば 逢うこともあらむ 我が故に はだな思ひそ 命だに経ば (N-3745)
【口語訳】 命があったら 逢えもしましょう わたしのことで ひどく思い悩まないでください 無事でさえあったら
【歌】 天地の 底ひの裏に 我がごとく 君に恋ふらむ 人はさねあらじ (N-3750)
【口語訳】 天地の 隅のその裏側にだって わたしほど夫君に恋する 人は絶対にいないでしょう 

B城福寺の万葉歌碑
 歌碑の前で山内講師の解説を聴く
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 この歌碑も『西本願寺本萬葉集』より、娘子の歌と宅守の歌が一首づつ採られています。
娘子の歌一首
【歌】 春の日の うら悲しきに 後れ居て 君に恋ひつつ 現しけめやも (N-3752)
【口語訳】 春の日の もの悲しい時に 都に残っていて あなたを恋い慕っていて 正気でいられましょうか
宅もりの歌一首
【歌】 向かひ居て 一日も落ちず 見しかども 厭はぬ妹を 月渡るまで (N-3756)
【口語訳】 向き合って 一日も欠けず 見ていても 飽きなかったあなたを 幾月も見ないで

C万葉歌碑揮毫の道標(灯籠) 
 豪攝寺(ごうしょうじ)門前で(写真中央の石柱に次の歌が刻まれている)
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【歌】 味真野に 宿れる君が 帰り来む 時の迎へを 何時とか待たむ (N-3770)
【口語訳】 味真野に いらっしゃるあなたが 帰って来られる 時がくるのを いつを目当てに待てばよいでしょうか
 因みに、63首の贈答歌群の中で、味真野の地名が詠みこまれているのはこの一首だけです。

 このような万葉歌碑揮毫の道標が、万葉ロマンの道(越前の里 味真野苑・・・小丸城址)に63基建てられています。

 次の歌に詠まれた可敝流(かへる)や五幡(いつはた)は、宅守・娘子の贈答歌群には出て来ませんが、可敝流は当時の旅人にとって都と越路を隔てる難所(越中から見て可敝流は山のこちら側、五幡は山の向こう側)で、越路に旅した者にとっては忘れられない地名であったようです(犬養孝著『万葉の旅 下』より)。 
D鹿蒜神社境内(南越前町今庄帰)
ここでは2台のバスに分乗した参加者が集合して、山内講師の解説を聴きました。
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【歌】 可敝流回の 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ 我をし思はば (大伴家持 Q-4055)
【口語訳】 あなたが可敝流(かえる)のあたりの道を帰って行かれる日には、五幡(いつはた)の 坂で袖を振ってください。あとにのこる私を思ってくださるならば。(『万葉の旅 下』より) 
 これは、家持が越中国守として赴任していた時に、都からやって来ていた田辺福麻呂(橘諸兄の使者)をもてなした宴の時の歌で、『万葉の旅 下』によれば、「可敝流(かへる)は“帰る”に通じる。北国にとりのこされる家持の寂寥と羨望との交錯した心情がよみとれる」とあります。

Posted by katakago at 11:59
茨木・高槻の古代を歩く(5/24) [2014年05月25日(Sun)]
 昨日(5/24)、万葉集友の会(代表世話人:市 忠顕さん)の野外講座があり参加しました。講師は市瀬先生(梅花女子大学教授)で、次のコースを巡りました。
JR摂津富田駅(9:00) → 鴨神社 → 太田茶臼山古墳 → 太田神社 → 新池遺跡(ハニワ工場公園) → 今城塚古代歴史館・今城塚古墳 → 素戔鳴尊神社 →(芥川廃寺跡)→ 嶋上郡衙跡 → JR高槻駅

 太田茶臼山古墳:継体天皇三島藍野陵とも呼ばれ宮内庁により第26代継体天皇陵とされているが、古墳の築造年代は墳丘の形状や円筒埴輪の年代測定より5世紀中頃と考えられており、継体天皇の没年(531年)より一世紀ほど古いものとみられています。

 今城塚古墳:築造年代は6世紀で、考古学界ではこちらが継体天皇陵であると考えられています。

 この記事では今城塚古墳関係の写真を掲載しておきます。
 
 今城塚古代歴史館では出土した形象埴輪が展示されており撮影はOKでした。
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 石棺片(阿蘇ピンク石)
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 後円部から、3種類の石棺片が見つかっており(3基の家形石棺が存在した可能性)、それらは熊本県の阿蘇ピンク石(写真)のほか、兵庫の竜山石、二上山白石です。

 阿蘇ピンク石(馬門石)が海上を運ばれたルートを示すパネル 
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 2005年に読売新聞西部本社や日本財団の協力のもと、「大王のひつぎ実験航海」が実施されました。熊本県宇土市から継体大王のひつぎ(石棺)を載せた台船を曳いて、手漕ぎの古代船で大阪南港を目指すもので、7月24日に宇土マリーナ口之津港を出発し、34日かかって8月26日に大阪南港に到着した記録が、『大王のひつぎ海をゆく』(2006年、海鳥社)に載っています。

 はにわバルコニーから、200点以上の形象埴輪(レプリカ)が並べられた埴輪祭祀場を展望できます。
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 埴輪祭祀場では中に入って、家・人物・動物等の埴輪(レプリカ)をまじかで見ることが出来ます。
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 宮内庁の陵墓指定ではないので、自由に墳丘に立ち入ることが出来ます。
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 後円部の墳丘上で説明を聴く。
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 これまでの関連記事は次のURLに載せています。
     ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/39
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/466
Posted by katakago at 20:38
斑鳩・龍田を訪ねて(カルチャーの現地講座) [2014年05月11日(Sun)]
 昨日(5/10)は、毎日文化センターの万葉講座(市瀬雅之先生)の現地講座があり参加しました。半年に一度の行事で、今回は斑鳩・龍田方面に出かけました。
 JR法隆寺駅を起点に、龍田神社・斑鳩文化財センター・藤ノ木古墳・法隆寺・上宮遺跡公園を巡った後、三郷駅から磐瀬の森・神奈備神社・龍田大社も訪れました。法隆寺では百済観音の他、夢殿本尊特別開扉中で、救世観音も拝観することが出来ました。
 以下、藤ノ木古墳関連と万葉歌碑の写真を掲載しておきます。

 
 整備された国指定史跡の藤ノ木古墳(6世紀後半の築造とみられている)
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 石室入り口の扉前では人感センサーにより石室内に照明が灯り、ガラス越しに内部を見ることが出来ます(中央奥に石棺)。 
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 近くの斑鳩文化財センターでは古墳の遺物(レプリカ)の展示が行われています。学芸員の説明も聴くことが出来ました。展示品はレプリカであるため写真撮影はOKでした。
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 金銅製鞍金具(後輪)のレプリカ
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 石室の奥壁と石棺の間からは、龍・鳳凰・象等の絵が施された金銅製鞍金具など、装飾性の豊かな馬具が出土している。3年前に韓国を訪れた際、国立中央博物館でも類似の馬具を見た記憶があります。

 石棺内遺物出土状況の復元展示  
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 未盗掘であったので、2体の人骨や多数の副葬品(刀剣類・玉類・金銅製筒形品・金銅製履・冠など)が埋葬当時の状態で発見された(1988年)。

 斑鳩文化財センター前庭の説明パネルより(石棺の模型が展示されている)
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 上宮遺跡公園(飽波宮伝承地)で見つけた万葉歌碑(揮毫は犬養先生、平成4年建立)
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【原文】 斑鳩之 因可乃池之 宜毛 君乎不言者 念衣吾為流 (K-3020)
【読み下し文】 斑鳩の 因可の池の 宜しくも 君を言はねば 思ひそ我がする
【口語訳】 斑鳩の 因可(よるか)の池の 宜しいように あなたを人が言わないので わたしは思い悩んでいます

 磐瀬の森の万葉歌碑(生駒郡三郷町)の前で市瀬先生による説明の様子
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【歌】 神奈備の 磐瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋増さる (鏡王女 G-1419)
【口語訳】 神奈備の 磐瀬の森の 呼子鳥よ そんなにひどくは鳴いてくれるな 恋しさが増すから (呼子鳥はカッコウとする説もあるが不明)

 犬養先生の龍田万葉歌碑(生駒郡三郷町、昭和60年建立)の前で市瀬先生による説明の様子 
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【原文】 吾去者 七日者不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落 (高橋虫麻呂 H-1748)
【読み下し文】 我が行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし
【口語訳】 われわれは 七日以内に帰ってまいります 龍田の神よ どうかこの花を 風で散らさないでください

 龍田大社(生駒郡三郷町)境内の坂本信幸先生揮毫の万葉歌碑(平成19年4月建立)
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【歌】 島山を い行き巡れる 川沿ひの 岡辺の道ゆ 昨日こそ 我が越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに 尾の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる杜に 風祭りせな (高橋虫麻呂 H-1751)
【口語訳】 島山を 行き巡っている 川沿いの 岡辺の道を つい昨日 わたしは越えて来たばかりなのに たった一泊 しただけなのに 尾根の 桜の花は 滝つ瀬を 散っては流れている あなたがご覧になる その日までは 山おろしの 風を吹かせ給うなと 竜田道を越えて行って 風の神として名高い社で 風祭りをしよう
 難波で一泊し翌日平城京に戻って来た時、高橋虫麻呂が詠んだ歌で、「君」は藤原宇合とみられています。「名に負へる社」は龍田神社(現龍田大社)で、穀物に風害の無いように祈る風神祭を行う神社として有名。
Posted by katakago at 18:42
姫嶋神社の万葉歌碑 [2014年03月28日(Fri)]
 『古事記』の応神記や『日本書紀』の垂仁天皇条には、新羅の王子アメノヒボコ 天之日矛(古事記では)またはツヌガアラシト 都怒我阿羅斯等(日本書紀では)が日本に渡来した伝承が伝えられています。『古事記』には、アメノヒボコから逃れた妻が祖先の国に行くといって難波に逃げ渡って来てここに留まり(難波の比売碁曾社に坐して阿加流比売神と謂う)、アメノヒボコは妻の後を追ったが、渡りの神に遮られて難波には上陸できず、多遅摩(但馬)国に移った、と記されています。『摂津国風土記』逸文には、応神天皇の御代に新羅の女神が夫のもとを逃れて筑紫国の伊波比の比売島(大分県の姫島)に暫く居たがが、さらに摂津国に移り住み、もと居た島の名をとってその地を比売島と名づけた、とあります。
 大阪市西淀川区姫島4-14にある姫嶋神社の略記によれば、神社のある地(古代難波八十島の一つであった比売島)が、阿加流比売が留まった地にあたるとの伝えがあるようです(姫嶋神社の御祭神は阿迦留姫命と住吉大神)。

 この神社の境内には、題詞に、和銅四年(711)、河辺宮人が姫島の松原で若い娘の死体を見て、悲しみ嘆いて作った歌とある万葉歌の歌碑があります。今日はカルチャーセンターの講座が始まる前に神社を訪れました。
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【歌】 妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松が末に 苔生すまでに (A-228)
【口語訳】 この娘子(おとめ)の名は 千代にも伝わろう 姫島の 小松の梢に 苔が生えるほどに
 なお、この歌については、坂本信幸先生の論文(「伝説歌の形成ー姫島の松原の娘子の歌ー」『万葉集研究』第19集ほか)があり、高岡市万葉歴史館より取りよせ勉強中です。

高岡市万葉歴史館の図書室には万葉関係の書籍・論文が集められており、ホームページで検索して読みたい論文を実費で複写して送ってもらえます。

 姫嶋神社全景
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Posted by katakago at 19:36
伊勢神宮に特別参拝(3/18) [2014年03月21日(Fri)]
 式年遷宮後の伊勢神宮参拝は、昨年(11/9、12/7)に続き3回目です。今回は日本書紀の講座(NHKカルチャー)受講者有志で、講師の今井先生とご一緒に出かけました。崇敬会会員のほか神楽殿で資金献納(ひとり千円以上の寄付)手続きを済ませて参宮章を受け取れば、内宮・外宮で特別参拝出来ます。豊受大神宮(外宮)では、特別参拝者は旧正宮内に参入して社殿をまじかに見ることが出来ます(今月末まで、内宮は不可)。今回の伊勢行きの第一の目的は、普段は立ち入ることが出来ない場所で正殿をはじめとする社殿をじっくり見学することです。
 下図の左半分は神宮司庁の外宮のチラシ(部分)より、右半分は『別冊太陽 伊勢神宮』の外宮図面より合わせて作成したもので、特別参拝位置は外玉垣内の中重鳥居手前(右下の橙色部分)です。お祓いの後、神職の案内により外玉垣南御門内に参入してこの位置で参拝しました。その後、新正宮右側にある旧正宮(図面の古殿地)で正殿を中心とする社殿を見学しました。20年経つとかなり傷みが見られる所(萱ぶき屋根など)もありましたが、実物を目の当たりにすることが出来、この時期(次は20年後)ならではの貴重な体験でした(せんぐう館には正殿東側面部の原寸大模型が再現されていますが)。
 これらの建物は4月から解体され、その建材は東日本大震災で被害に遭った神社の復興に利用されるとのことです。
 豊受大神宮(外宮)の正宮図面(特別参拝の位置も図示)
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 皇大神宮(内宮)でも特別参拝し、その後、荒祭宮(祭神は天照大御神荒御魂、荒御魂とは活動的な神霊)も参拝しました。内宮の別宮が十宮ある中で、この荒祭宮は第一別宮として重きを置かれている。ここでは真新しい社殿をまじかに見ることが出来、写真撮影も可能でした。
 皇大神宮(内宮)正宮の階段下で記念撮影
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 荒祭宮(内宮第一の別宮)
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 せんぐう館(伊勢神宮と式年遷宮について分かりやすく展示されている)は昨年も訪れていますが、今回は見学時間を十分とり職員による解説も聴くことが出来ました。また、前2回の訪問では来れなかった神宮徴古館(伊勢神宮の歴史と文化を伝える総合博物館)にも立ち寄りました(こちらは時間の関係で駆け足の見学となりましたが)。 

 これまでの伊勢神宮関連記事は滝のURLに載せています。
     ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/732
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/749
 

 
Posted by katakago at 10:23
葛城古道を歩く(万葉の大和路を歩く会) [2014年03月17日(Mon)]
 昨日は、「万葉の大和路を歩く会」の平成25年度最後の行事(第430回)があり参加しました。講師は影山尚之先生(武庫川女子大学教授)で、葛城古道を歩きました。今回のコースは次の通りです。
 近鉄大和高田駅(9:30集合) →(バスで移動)→ 風の森 → 風の森神社 → 高鴨神社 → 朝妻 → 高天彦神社 → 橋本院庭園 → 極楽寺 → 名柄神社 → 一言主神社 →(バスで移動)→ 近鉄大和高田駅(16:30頃) 徒歩約8.5km

 葛城古道はこれまで同好者数人で訪れたことがありますが、今回は講師の先生の説明も聴ける(資料も配布される)ので再び出かけました。天候には恵まれましたが、コースの途中にはスギ林がありこの時期花粉飛散の最盛期でもあり(予想されたことではありますが)、花粉症の私にとっては快適なウォーキングとはなりませんでした(翌日は目の痒みに悩まされました)。

 以下、いくつかの訪問個所を載せておきます(高鴨神社、一言主神社についてはこれまでの記事に掲載)。

 朝妻(高鴨神社から高天彦神社に向かう途中の眺望の良い場所)で影山先生の説明
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 この写真は、「歩く会」役員の荒川さんから昨夜送っていただいたもので、折角ですので使用させてもらいました。
 地名の朝妻が詠まれた歌は柿本人麻呂歌集に次の二首がみられます。これらの歌は、井手 至先生の万葉講座(NHKカルチャー)でも解説していただいていました。もう一度見直し、いくつかの注釈書も参考にして、当日の説明をふり返ってみました。
【歌】 今朝行きて 明日は来なむと 言ひし子を 朝妻山に 霞たなびく (I‐1817)
【口語訳】 今朝は帰って 今晩はまたやって来ますよ とわたしが言ったあの子 今朝のあの子(朝妻)ではないが その朝妻山に霞がたなびいている
【歌】 児らが名に かけの宜しき 朝妻の 片山崖に 霞たなびく (I‐1818)
【口語訳】 (一晩一緒に過ごした娘(こ)だから)妻の名前として呼び掛けるのにふさわしい名の その朝妻の 山の斜面に 霞がたなびいている
 一首目では三句までが、二首目は上二句が地名の朝妻(山)を起こす序と解されています(当時は通い婚でこの朝妻は早朝帰り行く男を見送る妻の意)。
 当日の資料によれば、『日本書紀』天武天皇九年九月九日状に、「九月の癸酉の朔にして辛巳に、朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄社に看(みそこなは)す。乃ち馬的(うまゆみ)射させたまふ」の記事が見られます。

 高天彦神社に向かう山道(スギ林の坂道、今回のコースでは一番きつい登り、途中で一回休憩)
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 高天彦神社(写真左奥に”ひもろぎ”が見られる、次にその拡大写真を掲載)
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 『古事記』冒頭には、「天地の初めて発れし時に、高天原に成りにし神の名は、天之御中主神。次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に、神産巣日神。此の三柱の神は、並に独神と成り坐して、身を隠しき。」とあり、この二番目の高御産巣日神が高天彦神社の主祭神。背後の白雲峰(694m)を神体とするという。「高天」は「高間」で、金剛山東斜面の高所の平坦地を指したものとみられ、万葉歌にも「葛城の高間の草野・・・」と詠まれ(下記の歌碑の写真)、高天彦はこの地名に由来する名と考える説もあるようです(当日の解説と資料より)。

 神籬(ひもろぎ、神が依り憑くところ)
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 橋本院庭園での説明の様子(庭には多数のミツマタが植えられていた))
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 万葉歌碑(橋本院駐車場入り口にある)
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【歌】葛城の 高間の草野 はや知りて 標刺さましを 今そ悔しき (F‐1337)
【口語訳】 葛城の 高間の萱野を もっと早く知って 標(しめ)をすればよかった 残念なことをした(比喩歌で、愛していた女が他人のものとなったことを惜しんだ歌)。


なお、葛城古道関連記事は次のURLに載せています。
    ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/321

Posted by katakago at 20:36
瀬戸内万葉の旅 ー 家島・鳴島 [2014年02月17日(Mon)]
 昨日(2/16)、万葉の大和路を歩く会主催の第429回万葉旅行に参加して、家島(姫路市家島町)や鳴島(相生市金ケ崎)方面を訪ねました。前日とは打って変わって天候にも恵まれ、講師の坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)による解説を聴きながら、70名余りの参加者は瀬戸内の万葉の旅を愉しみました。

 姫路港では早めの昼食を済ませ、チャーター船(写真左)で西南18km沖にある家島に向かいました(家島本島の真浦港に到着)。
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 遣新羅使が帰途に詠んだ歌5首のうちの一首に、家島が詠まれておりその歌碑が家島神社に建立されています。
 天平八年(736)夏六月、大使阿倍継麻呂ら一行は武庫の浦を船出、瀬戸内海を西航し、苦難の末に新羅に到達したものの、彼の地では冷遇され、失意のうちに帰路につき、翌九年一月大使を対馬に失って入京。万葉集巻十五の前半に、往路の歌百四十首、帰路の歌五首が収められている(副碑より)。

 この時の遣新羅使については、『続日本紀』の聖武天皇条に次のような記事が記されています。
天平8年2月28日:従五位下阿倍朝臣継麻呂を遣新羅大使とす。
天平9年正月26日:遣新羅使大判官従六位壬生使主宇太麻呂、少判官正七位大蔵忌寸麻呂ら、京に入る。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂、津嶋に泊りて卒しぬ。副使従六位下大伴宿禰三中、病に染みて京に入ることを得ず。
天平9年2月15日:遣新羅使奏すらく、「新羅国、常の礼を失ひて、使の旨を受けず」とまうす。
天平9年3月28日:遣新羅使副使大伴宿禰三中ら卅人拝朝す。

 万葉歌碑の前で坂本先生による解説
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 遣新羅使人の万葉歌碑(犬養先生揮毫)
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【原文】 伊敝之麻波 奈尓許曽安里家礼 宇奈波良乎 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久尓 (N-3718)
【読み下し文】 家島は 名にこそありけり 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに
【口語訳】 家島は名前だけであったよ。長い海の旅の間、私がずっと恋しく思いつつ来た、その妻もいないのだもの。
 瀬戸内海を航行する当時の旅人は、家族を意味する「家」の語をもったこの島の名を聞くだけで、家郷を思い妻を懐かしんだようです。
 題詞に、「筑紫に廻り来り、海路にて京に入らむとし、播磨国の家島に至りし時に作る歌五首」とある内の一首です。

 犬養先生揮毫の歌碑原本
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 割烹旅館「志みず」さんで、犬養先生揮毫の歌碑原本を見せていただきました。先代(高島軍治氏)が建立者で、現当主から歌碑除幕式(昭和61年7月19日)の様子なども聞かせていただきました。

 家島神社境内の白梅が咲き始めていました。
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 家島神社境内からの眺望(家島群島の一つの男鹿(たんか)島、砕石のため断崖絶壁が多い)
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 家島での散策の後、宮港より姫路港に戻り、バスで室津方面に向かいました。
相生市金ケ崎(万葉の岬)では、まず縄の浦の万葉歌碑に向かいました。
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 澤瀉久孝先生揮毫の万葉歌碑の前で坂本先生による解説
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 万葉歌碑の碑面(亡くなられてから毛筆原稿より採字して平成二年に建立)
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【原文】 繩浦従 背向尓所見 奥嶋 榜廻舟者 釣為良下 (山部赤人 B-357)
【読み下し文】 縄の浦ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 漕ぎ廻る船は 釣りしすらしも

 次いで、今回最後の目的場所である「HOTEL万葉岬」横の椿園にある鳴嶋万葉歌碑を訪ねました。
 歌碑の前で坂本先生による解説
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 海上には辛荷の島(左から地の唐荷・中の唐荷・沖の唐荷)とその後方右には家島群島がうっすら写っています。

 鳴嶋万葉歌碑(犬養先生揮毫)
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【原文】 室之浦之 湍門之埼有 鳴嶋之 礒越浪尓 所沾可聞 (K-3164)
【読み下し文】 室の浦の 瀬戸の崎なる 鳴島の 磯越す波に 濡れにけるかも

 鳴島(現在の君島、金ケ崎の「HOTEL万葉岬」前から眼下に臨む)
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なお、室の浦関連の歌碑の記事は次のURLに載せています。
      ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/538

ほかに遣新羅使人歌関連記事は、次のURLにも載せています。
      ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/260
Posted by katakago at 18:27
飛鳥京跡苑池の第8次調査現地説明会 [2013年11月24日(Sun)]
 11月21日(木)の朝刊には、「飛鳥京 五角池に曲線の島」(朝日新聞)、「日本庭園の元祖? 全容解明 奈良・飛鳥京跡苑池の南池」(日経新聞)の見出しの記事が出ていました(いずれも社会面)。この飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村、7世紀後半の遺跡)は、1999年に見つかり、これまでに南北二つの人工池や噴水用石造物が出土しています。2010年度より、史跡・名勝飛鳥京跡苑池の保存整備・活用事業が始まっており、現在、苑池の整備復元にむけた発掘調査(第8次)が行われています。
 今日はその現地説明会があり、明日香村まで出かけて来ました。今回の説明場所は南池(南北約55m、東西約65m)の発掘現場で、橿原考古学研究所の発掘担当者から準備されたパネル(写真掲載)前で説明を聴きました。五角形の池の中に、東西約32m、南北約15m、高さ1.3mの中島が確認され、松の根も見つかっています。池の中で見つかった柱の上下の色の違い(写真参照)より、水深は約30cmであったとみられています。南池の南東の高台上では、掘立柱建物が2棟検出されており、苑池を上から眺めるための施設であったと考えられています。
 この飛鳥京跡苑池は、宮殿に付属する庭園として造られており、飛鳥時代の天皇が饗宴や祭祀を行う際に使用された特別な施設と考えられています(現地説明会資料より)。
 
 飛鳥京跡苑池は、今後平城京の東院庭園のように整備復元されるようです。

 現地説明会会場(説明開始の10時前には大勢の方が来られていました)
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 南池の全景(右後方は甘樫丘)
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 説明パネル
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 パネル前で担当者から説明
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 南池の中に作られた中島で見つかった松の根(写真中央の係員のいる処)
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 池の中から見つかった2本の柱(柱の途中で変色)
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 出土した須恵器類
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 苑池のイメージ図(橿原考古学研究所作成のパネルより)
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Posted by katakago at 18:06
水たぎつ吉野宮滝ウォーク(11/17 万葉の大和路を歩く会) [2013年11月18日(Mon)]
 昨日(11/17)は、「万葉の大和路を歩く会」の第426回目の歩く会(吉野宮滝)が開催され参加しました。以前にも書きましたが、吉野は万葉集を学び始めて最初に訪れた故地です。退職後関西に戻ってからも吉野へは何度か訪れていますが、今回のコースは、49年前の学生時代に初めて参加した犬養先生の万葉旅行の時とほぼ同じで、その時の追体験ともなる小旅行でした。
 近鉄吉野駅(集合10:00)→ 金峯山寺蔵王堂 → 桜本坊(ここで昼食)→ 稚児松地蔵 → 喜佐谷・・・象の小川 → 桜木神社 → 宮滝 → (バス) → 近鉄大和上市駅(到着17:00頃)
 今回の講師は影山尚之先生(武庫川女子大学教授)で、コースのポイント毎で解説をしていただきました。

 このコースで足元を注意しなければならないのは、稚児松地蔵から喜佐谷を下って行く所ですが、今回不安材料が一つありました。3日前に三輪山登拝した際に、下山を急いだためか(用意されていた竹の杖は使用したが)左膝を痛め前日まで様子を見ていました。最終的には、膝にサポーターを着用しステッキを準備して出かけることにした次第です。案の定、喜佐谷を下る道は濡れており滑り易くなっていましたが、ここではステッキが役立ちました。幸いにも足を引きずることもなく全行程を無事終えることが出来ました。以下スナップ写真と万葉歌をいくつか掲載します。
 
 紅葉し始めた木々を眺めながら山道を登る(ロープウェイには乗らずに)
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 桜本坊では影山先生による昼食前の小レクチャー
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 稚児松地蔵を目指して午後のウォーク開始
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 途中(吉野山弓場)で一休みと解説、金峯山寺蔵王堂を遠望
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 象谷(喜佐谷、きさだに)の途中で一休みと解説
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【歌】 昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも (大伴旅人 B-316)
【口語訳】 昔見た 象(きさ)の小川を 今見ると いちだんとすがすがしく なってきたことよ

 桜木神社境内で影山先生による説明の様子(神木のスギは樹齢7〜800年とも言われる)
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 境内にある山部赤人の万葉歌碑
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【歌】 み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも (E-924)
【口語訳】 み吉野の 象山(きさやま)の谷間の 梢には こんなにもいっぱい鳴き騒いでいる 鳥の声々よ

 柴橋から吉野川下流を望む
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【歌】 山高み 白木綿花に 落ち激つ 滝の河内は 見れど飽かぬかも (笠金村 E-909)
【口語訳】 山が高くて 白木綿花のように 激しく渦巻き流れる 滝の河内は 見飽きることがない
【歌】 皆人の 恋ふるみ吉野 今日見れば うべも恋ひけり 山川清み (F-1131)
【口語訳】 皆の人が 慕う吉野に 今日来てみると 慕うのも無理はない 山も川も清いから

 宮滝付近の吉野川大岩盤に降りて影山先生の解説を聴く
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【歌】 馬並めて み吉野川を 見まく欲り うち越え来てそ 滝に遊びつる (F-1104)
【口語訳】 馬を連ねて み吉野川が 見たくなり 山を越えて来て 滝に清遊した

 同じ場所での49年前の記念写真(昭和39年7月の犬養先生の万葉旅行で)
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 この時は10〜20代の学生が90名ほど参加しました。現在ではこのような若者の参加の光景は全く見られなくなってしまい残念です。


吉野宮滝万葉旅行の関連記事は次のURLに載せています。
       ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/233
Posted by katakago at 17:35
式年遷宮の伊勢神宮を訪ねて(11/9) [2013年11月11日(Mon)]
 この週末は行事が続きました。11月9日(土)は、毎日文化センターで受講している「万葉の講座」の半期に一度の現地講座で、講師の市瀬先生の案内で伊勢神宮を訪ねました。

 伊勢の国に関し、万葉歌では、持統天皇が天武天皇崩御後8年目の御斎会の夜の夢の中で詠んだと題詞に書かれた次ぎの歌があります。
【歌】 明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も なみたる波に 塩気のみ かをれる国に うまこり あやにともしき 高照らす 日の皇子 (A-162)
【口語訳】 飛鳥の 清御原の宮で 天下を お治めになった (やすみしし) わが大君の (高照らす) 日の御子である先帝は どのように お思いになってか (神風の) 伊勢の国は 沖の藻も なびいている波に 潮の香が 立ちこめている国に (うまこり) たまらないほどお逢いしたい (高照らす) 日の御子
 壬申の乱(672年)に際し、大海人皇子(後の天武天皇)は伊勢の神風に援けられ勝利を得た。大海人皇子の挙兵後吉野から伊勢路を経た時の行路には、妃の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)も夫大海人皇子に従っており、「神風の伊勢の国」はそこからの連想があったとみられています(岩波文庫『万葉集(一)』)。
 「神風の」は伊勢にかかる枕詞で、伊勢の大神のいます国で、風の激しい国であるところからかかるとされる。記紀歌謡中の久米歌(記13、紀8,78)のほか、垂仁紀25年条の伊勢神宮の起源を伝える記事や、『伊勢国風土記逸文』にも見え、万葉以前から伊勢に冠する賞辞として用いられたとみられています(『萬葉集全歌講義』)。

 今回訪問の伊勢神宮は、万葉以前の『古事記』、『日本書紀』、『伊勢国風土記逸文』の世界です。日帰りで巡ったのは次のルートです。
五十鈴川駅集合(11:00)→(バス)→伊勢神宮内宮参拝(11:30)・おかげ横丁で昼食→猿田彦神社・佐瑠女神社参拝(13:40)→(徒歩)→月讀宮参拝→(バス)→伊勢神宮外宮参拝・せんぐう館見学→伊勢市駅(16:30)

 伊勢神宮は、天照大神を祀る皇大神宮(内宮)と、食事等を司る豊受大神を祀る豊受大神宮(外宮)の両正宮、さらには別宮、摂社・末社、所管社の計125社の総称で、今年は62回目の式年遷宮が行われました(新正殿に御神体を移す遷御の儀は10/2に内宮、10/5に外宮で行われた)。この二十年に一度の式年遷宮では、宮処(御敷地)を改め、古例のままに御社殿や神宝をはじめ一切が一新されます(全てを清らかにあらためることにより、国も人も共に若返るとされる)。

 『日本書紀』垂仁天皇二十五年条に、「天照大神を豊耜入姫命より離ちまつり、倭姫命に託けたまふ。爰に倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の筱幡に詣り、更に還りて近江国に入り、東美濃を廻り、伊勢国に至る。時に天照大神、倭姫命に誨へて曰はく、『この神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。是の国に居らむと欲ふ』とのたまふ。故、大神の教の随に、其の祠を伊勢国に立て、因りて斎宮を五十鈴川の上に興てたまふ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。」とあります。

 以下訪問場所の写真を掲載しました。

 内宮の宇治橋鳥居(宇治橋では大勢の参拝者が列をなしていました)
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 五十鈴川御手洗場
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 真新しい正宮へ参拝 
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 遷御が終わった後のこれまでの正宮(20年経つとかなり傷みが目立ちます)
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 内宮前のおかげ横丁(大勢の人ごみの中昼食場所を求めて散策) 
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 皇大神宮別宮月讀宮(市瀬先生による説明の様子)
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 『日本書紀』神代巻第五段の正文では、月讀尊は伊奘諾尊・伊奘冉尊二神から天照大神に次いで生まれたとある。
 月讀宮以下四別宮(左から伊佐奈弥宮、伊佐奈岐宮、月讀宮、月讀荒御魂宮)
現在隣の敷地で新しい建物が建設中でした。
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 外宮(豊受大神宮)参拝(写真手前がこれまでの正宮、奥が新正宮)
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 新しい正宮へ参拝  
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 遷御後のこれまでの正宮(奥まで見通せるようになっていました)
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 最後に訪ねた「せんぐう館」では、神宮と式年遷宮について分かりやすく展示されていました。また館内に、外宮正殿東側の四分の一部分が原寸大で再現されていました。今回時間の都合で立ち寄れなかった「神宮徴古館」も機会があれば見学したい所です。




Posted by katakago at 15:52
「飛鳥を愛する会」現地講座(石見から出雲を巡る)その3−出雲大社公式参拝 [2013年10月29日(Tue)]
 現在の出雲大社本殿は延享元年(1744)に造営され、前回の修造遷宮は昭和28年(1953)で、今年は60年ぶりの「平成の大遷宮」が5月10日に行われました。
 今回の旅行では、新しく遷座された出雲大社への公式参拝(本殿瑞垣内での参拝)も目的の一つです(実現に際しては会長の木下先生が尽力されたそうです)。以下写真で出雲大社の紹介をします。なお、島根県立古代出雲歴史博物館では、展示物の写真撮影はストロボ不使用で許可されていましたので、関連の写真を掲載しました。

 出雲大社の参拝に向かう(この時あいにく雨が降ってきました)
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 新しくなった檜皮葺(右の建物が本殿、高さ24m)
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 公式参拝に向かう(襷をかけて)
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 瑞垣内で神官から遷宮の意味についても説明を受けました。本殿(国宝)をはじめ諸建造物の修造など形に表れること(技術継承も含め)にとどまらず、その形に籠もる先人より受け継がれてきた日本の心を継承し、後世に継ぎ伝えてゆくこととされています。
 代表参拝者(木下先生)に合わせて、2拝4拍手1拝で参拝しました(瑞垣内の撮影は禁止)。

 公式参拝記念品(本殿大屋根の檜皮古材)
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 発掘された宇豆柱(13世紀前半ごろのもの、古代出雲歴史博物館展示)
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 一本の直径が約1.35mのスギ材を3本組にしたもの、さしわたし約3mもある。

 宇豆柱跡の位置(赤い丸印)
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 巨大本殿の柱の図面(金輪御造営差図、古代出雲歴史博物館展示)
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 出雲大社の宮司を務める千家国造家に伝わる絵図で、境内出土の巨大柱と規模・構造・配列に共通する部分があり注目されています。

 平安時代中頃(970年)に書かれた『口遊(くちずさみ)』には、当時の大きな建物として雲太(出雲大社本殿)、和二(大和の大仏殿)、京三(平安京の大仏殿)が挙げられており、大仏殿の高さは15丈(約45m)で、出雲大社の本殿はそれ以上であったとみられています。

 復元模型の一つ(博物館展示)
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出雲大社関連記事(大出雲展と関連シンポジウム)は下記のURLに載せています。
       ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/415


 2日目の夕食は懇親会の場となりました(写真は全員で乾杯)。
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 「飛鳥を愛する会」の行事には出来るだけ参加するようにしています。今回は悪天候にもかかわらず46名の参加があったようです。神奈川・東京・茨城や九州からの参加者もあり、ホテルで同室の方とも知り合え、訪問場所の見学だけではなく充実した3日間でした。
 カルチャー仲間にも入会を呼びかけています。宿泊を伴う現地講座はこれまで同宿となっているようですが、若い人も気軽に参加できるように一人一室も考慮していただければと思っています。 

Posted by katakago at 10:07
「飛鳥を愛する会」現地講座(石見から出雲を巡る)その2−考古学編 [2013年10月29日(Tue)]
 この記事では考古学関連の見学場所について写真を中心に報告します(2,3日目)。なお、島根県立古代出雲歴史博物館ではストロボ不使用で展示物の写真撮影が許可されていましたので適宜掲載しました(見学場所を整理する上で大変ありがたいことです)。
 考古学関連の見学場所では、木下先生・岡崎先生から詳細な図面付きの資料とともに解説していただきました。
2日目(10/26)は、荒神谷遺跡・荒神谷博物館 → 出雲弥生の森博物館 → 西谷墳丘墓群
3日目(10/27)は、今市大念寺古墳 → 上塩冶築山古墳 → 岡田山古墳群・島根県立八雲立つ風土記の丘の資料館 → 山代二子塚古墳 → 山代郷北新造院跡

 島根歴史年表と訪問場所(筆者作成)
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 これは島根歴史年表(博物館図録を参照)に訪問遺跡の年代を重ねて作成してみました。弥生時代後期の荒神谷遺跡(多数の銅剣が埋納)・西谷墳丘墓群(巨大四隅突出型墳丘墓)から古墳時代後期の今市大念寺古墳・上塩冶築山古墳(出雲市)や山代二子塚古墳・岡田山一号墳(松江市)、さらに7世紀末から8世紀初めの山代郷北新造院跡を巡りました。

【荒神谷遺跡】
 荒神谷遺跡で木下先生の説明
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 銅剣358本ほか銅鐸・銅矛などの青銅器が埋納されていた。製作年代は弥生中期後半とみられ、使用痕跡がなく製作後期間を経ず埋納されたとみられています(その意味については未だ定説は無いようです)。

 銅剣の埋納状況(再現)
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 銅鐸・銅矛の埋納状況(再現)
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 出土銅剣の展示(島根県立古代出雲歴史博物館)
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 銅剣展示の拡大写真(同博物館)
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【西谷墳丘墓群】 
 四隅突出型墳丘墓の模型(出雲弥生の森博物館展示)
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 四隅突出型墳丘墓の形態は、方形墳丘の四隅を舌状に突出させ斜面には貼石がなされている。巨大四隅突出型墳丘墓は弥生後期後半(2世紀後半ごろ)出雲で突如として出現し、「出雲型銅剣」をシンボルとした出雲の社会に大きな変革が起こったとみられています(木下先生資料)。

 西谷墳墓群3号墓
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 墳丘上での説明(岡崎先生)
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 西谷墳墓群2号墓(復元)
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 6世紀中ごろ、出雲西部と出雲東部で大型古墳が出現(二大勢力が成立)。
  西部勢力:出雲市の今市大念寺古墳(91mの前方後円墳)
  東部勢力:松江市の山代二子塚古墳(94mの前方後方墳、出雲最大)
 その後、7世紀前半ごろ東部勢力が優位を占め、西部勢力を打破した可能性が強く、東部勢力の首長が出雲唯一の突出した首長へ成長し、以後東部勢力が盟主となって出雲が統一され、出雲国造としての地位を占めるようになったとみられています(以上、木下先生資料より)。

 【今市大念寺古墳】
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 石室内を見学(懐中電灯で照明)
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 【上塩冶築山古墳】
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 石室内の見学
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 【岡田山1号墳】
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 6世紀後半に造られた二段築成の前方後方墳で、東部勢力の王墓に次ぐ有力古墳とみられています。ここからは象嵌銘文の銀装円頭大刀が出土しています(1979年)。文字は「額田部臣」と読め、部民制の存在を示す最古の史料とされる。「額田部」は額田部皇女(後の推古天皇)の養育に携わる部民で、額田部臣はその支配豪族(出雲にのみ見える)。岡田山一号墳出土の大刀銘文からは、出雲の豪族がヤマト政権の支配組織に組み込まれつつ成長していったことがよみとれる(以上、木下先生の資料より)。

 墳丘前で岡崎先生の説明
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 石室内の様子
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 埋葬状況の説明板
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 【山代二子塚古墳】
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 墳丘上で岡崎先生の説明
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 墳丘の様子(前方後方墳)
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 【山代郷北新造院跡】
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 733年に完成した『出雲国風土記』意宇(おう)郡条には、山代郷(現在の松江市南郊)に南北2か所の新造院があったとあり、発掘調査の結果新造院跡と確かめられています。
 


Posted by katakago at 10:04
「飛鳥を愛する会」現地講座(石見から出雲を巡る)その1−万葉編 [2013年10月28日(Mon)]
 この25日から3日間、「飛鳥を愛する会」秋季現地講座に参加して、柿本人麻呂ゆかりの石見から出雲の史跡を巡ってきました。万葉編、考古学編と出雲大社公式参拝の三つに分けて報告します。
 ここでは万葉編の報告です(昨年9月にもほぼ同じ場所を訪れていますが)。
1日目(10/25)は、辛の崎 → 都野津柿本神社 → 高角山公園
2日目(10/26)は、浮布池 → 斉藤茂吉鴨山記念館・鴨山公園

 大崎鼻(江津市波子町)「辛の崎」万葉歌碑の前で坂本先生の説明
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 大崎鼻より海岸を臨む
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 都野津柿本神社境内の犬養先生揮毫の万葉歌碑の前で
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 高角山公園(江津市島の星町)の人麻呂と依羅娘子の像の前で
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 高角山中腹にある坂本先生揮毫の歌碑(昨年9月に除幕式)の前で
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以上の場所は昨年の記事にも載せていますので、歌の解説は下記を参照ください。
       ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/445
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/447

 浮布(うきぬ)の池(太田市三瓶町)の万葉歌碑(歌は次の柿本朝臣人麻呂歌集歌から)
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 写真後方の山は三瓶山(四峰からなる)
【歌】 君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし袖 濡れにけるかも (F-1249)
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 題詞に「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首」とある次の歌
【歌】 鴨山の 岩根しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ (A-223)
から、人麻呂終焉の地とされる「鴨山」は石見国にあるとみられていますが、その所在については古来より諸説があります。斉藤茂吉は昭和5年以後7度石見国を訪れ実地踏査を行い、湯抱(ゆがかい)(邑智郡美郷町)の地に「鴨山」を発見し、ここを人麻呂終焉の地に比定しました。その「鴨山」を望む近くの丘には茂吉が詠んだ歌の歌碑が建てられています。
 鴨山記念館前の茂吉の歌碑
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【歌】 夢のごとき 「鴨山」戀ひて われは来ぬ 誰も見しらぬ その「鴨山」を
この記念館は、「鴨山」探索に情熱を注いだ茂吉の偉業を顕彰するために平成3年に開館されました。
なお、斉藤茂吉は、「柿本人麿研究」の業績により帝国学士院賞を授与されています(昭和15年)。

 茂吉が昭和12年5月に初めて湯抱を踏査した時に詠んだ歌の歌碑
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【歌】 人麿が つひのいのちを をはりたる 鴨山をしも ここと定めむ 

 この歌碑が建てられた丘から、茂吉が「鴨山」とした峰(写真中央の山)を望みながら坂本先生による説明
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 ところで、この「鴨山」の地については、茂吉の湯抱説の他諸説(益田市高津の鴨島・浜田市城山(亀山)・江津市神村・江津市恵良・浜田市国府付近説)があります。

 1日目夕食後、午後8時から10時30分までホテルの会議室で勉強会がありました(この会の現地講座では恒例になっています)。
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 坂本先生は、笹の葉はみ山もさやに − 「乱友」 − と題して講演されました。人麻呂の次の歌の「乱友」の読みについては、これまでいくつかの説がある中で、「さやげども」と「みだるとも」が主な説でした。
【歌】 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆 (A-133)
 坂本先生は、「さやげども」と読む論拠について、澤瀉久孝『萬葉古径』の説を踏まえ、集中の多数の「とも」の用例と「ども」の用例を検討され、「とも」の終止は推量などの不確実な判断の呼応関係があり、「ども」は逆説の既定条件を示すもので、「我は妹思ふ別れ来ぬれば」という既定条件の結びと対応するとして自説を解説されました(30分では短かったのですが)。
【読み下し文】 笹の葉は み山もさやに さやげども 吾は妹思ふ 別れ来ぬれば
 先生揮毫のこの歌の歌碑は、あえて「さやげども」とひらがなで書かれています。

  
Posted by katakago at 16:40
住吉大社から大仙古墳へ [2013年05月12日(Sun)]
 この四月から毎日文化センターで、市瀬雅之先生(梅花女子大学教授)の万葉講座(風土記との接点を探る)も受講しています。月一回の開催で今月は現地講座「摂津国風土記(逸文)と万葉歌を歩く」で、昨日(5/11)、住吉大社から大仙古墳までを巡りました(参加者15名)。
 集合が住吉大社鳥居前に10:30と時間的に余裕があったので、少し早めに家を出て今回のコースには入ってなかった南海電車粉浜駅前にある犬養先生揮毫の万葉歌碑を訪ねました。
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【原文】 住吉乃 粉浜之四時美 開藻不見 隠耳哉 恋度南 (E-997)
【読み下し文】 住吉の 粉浜のしじみ 開けも見ず 隠りてのみや 恋ひ渡りなむ
【口語訳】 住吉の 粉浜のしじみのように 心を打ち明けもせず こもってばかりいて 恋しつづけることか
 この歌の題詞には、春三月難波宮に行幸された時の歌(6首のうちの最初)とあり、『続日本紀』には、天平六年三月条に聖武天皇が難波宮に行幸された記事があります。6首はこの時の行幸に従駕した人々の歌ですが、この歌の作者は未詳。上二句の「住吉(すみのえ)の粉浜(こはま)のしじみ」は、「開けも見ず」を起こす比喩の序。粉浜は住吉大社の南を流れる細井川の当時の河口の辺りに擬する説があります。
 生前、犬養先生が西宮に転居されるまで粉浜に住んでおられた縁で、この場所に歌碑が建てられた(昭和59年)とのことです。

 今回の現地講座のコースは、住吉大社(集合10:30)→ 浅沢社 → 大歳神社 → 住吉公園歌碑(昼食)→  高灯籠 → 熊野街道 → 住吉東駅(南海高野線乗車)・・・ 堺東駅(下車)→ 堺市役所展望ロビー → 竹内海道 → 大仙古墳(伝仁徳天皇陵)→ 磐姫皇后歌碑 → 堺市博物館 → 百舌鳥駅(JR阪和線)16:00解散

 住吉大社正面(左鳥居後方に反橋)
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 第一本宮から第四本宮の4棟からなる本殿(住吉造り、国宝に指定)で、御祭神は、第一本宮:底筒男命・第二本宮:中筒男命・第三本宮:表筒男命・第四本宮:息長足姫命(神功皇后)です。
 神殿では結婚式が行われていました。
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 住吉大社の由緒には、筒男三神は住吉大神(すみのえのおおかみ)で、海上安全の守護神であり、遣唐使の発遣に際しては朝廷より奉幣がなされ、その海上無事を祈ったとあります。万葉歌にも、天平五年(733)の入唐使に贈った歌に、「住吉の我が大御神」が詠まれています。
【歌】 そらみつ 大和の国は あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 三津に船乗り 直渡り 日の入る国に 遣はさる 我が背の君を かけまくの ゆゆし恐き 住吉の 我が大御神 船舳に うしはきいまし 船艫に み立たしまして さし寄らむ 磯の崎々 漕ぎ泊てむ 泊まり泊まりに 荒き風 波にあはせず 平けく 率て帰りませ もとの朝廷に (R−4245)
【口語訳】 (そらみつ) 大和の国の (あをによし) 奈良の都から (おしてる) 難波に下り 住吉の 三津で船に乗り まっすぐに 日の入る国に 遣わされる わが君を 口に出して申すのも 憚り多い 住吉の わが大御神よ 船の舳先に 鎮座ましまし 船の艫に お立ちになって 寄航する 磯の崎々 停泊する 港々で 荒い風や 波に遭わせず つつがなく 導いて帰って来てください 元の朝廷に 

 反橋(太鼓橋)の左手前にあるモニュメント(金属板には計17首の万葉歌)
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 同モニュメントに記された万葉時代の住吉の地形
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 中央の赤い部分が住吉大社、左の黄色の部分は黄土(はに)の地層、右の緑色の部分は榛の樹林で、当時、住吉大社のすぐ前には海が広がっていたようです。

 浅沢社の杜若(かきつばた)
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 古来より杜若で有名な浅沢池の中にある社で御祭神は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)。万葉歌には「浅沢小野のかきつばた」が詠まれています。
【歌】 住吉の 浅沢小野の かきつはた 衣に摺り付け 着む日知らずも (F-1361)
【口語訳】 住吉の 浅沢小野の かきつばたを 衣に摺り付けて 着るのはさていつのことやら
(比喩歌で、いつになったら恋い慕っている女性に接することができるだろうか、の意)

 堺市市役所展望ロビー(21階)にある百舌鳥古墳群のパネル(右上方が大仙古墳)
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 天気がよければこの展望ロビーから古墳群を眺められたのですが、あいにく今回は午後も雨で期待した展望はかないませんでした。

 大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の周囲を一周しました。仁徳天皇の皇后磐姫の歌碑の前で、雨の中、市瀬先生の解説聴きました。
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 犬養先生揮毫の万葉歌碑
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【原文】在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置万代日 (磐姫皇后 A-87)
【読み下し文】 ありつつも 君をば待たむ うちなびく 我が黒髪に 霜の置くまでに
【口語訳】 このままで 君を待ちましょう 垂らしたままの わたしの黒髪に 霜が置くまでも
 巻二の巻頭四首に磐姫皇后の作として載せられた3首目の歌ですが、四首は本来別々の歌で作者不明の伝誦歌であったのが、磐姫皇后の伝説に結び付けられ、その作と見なされるようになったと考えられています。なお、磐姫皇后については、『古事記』や『日本書紀』には、嫉妬深い女性としての記事が載っています。


Posted by katakago at 13:02
真白き富士の山(二日目) [2013年01月21日(Mon)]
 二日目の行程は、沼津IC→大井松田IC→足柄神社(足柄峠と矢倉岳を眺望)→地蔵堂(見学)→足柄万葉公園(万葉歌碑)→足柄峠(足柄城跡/富士山眺望)→地蔵堂(昼食)→小田原(小田原城見学)→小田原駅16:08発ひかり)→京都
 当初の計画では、足柄峠から足柄古道を歩く事になっていましたが、積雪のため取りやめになりました。地蔵堂まではバスで登りここから先はチャーターしたタクシー6台に分乗して移動しました。道路は除雪されていましたが、万葉歌碑のある公園内はかなりの雪が残っていました。ここでは用意してきた軽アイゼンが役に立ちました。
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歌碑は次の4基を見ることが出来ました。防人歌(S-4423)の他はいずれも東歌(相模国の歌)。
【歌】 足柄の み坂恐み 曇り夜の 我が下延を 言出つるかも (M-3371)
【口語訳】 足柄の み坂の畏さに (曇り夜の) 秘めた思いを つい口に出してしまった
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【歌】 足柄の み坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも (S-4423 防人歌)
【口語訳】 足柄の 峠の上で 袖を振ったら 家にいるおまえは はっきり見てくれるだろうか
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【歌】 足柄の 和乎可鶏山の かづの木の 我をかづさねも かづさかずとも (M-3432)
【口語訳】 足柄の、私を心にかける、そのカケではないが、和乎可鶏山に生えているかづの木、そのカズというように、私を誘って下さいよ。穀を裂いたりしなくても (『萬葉集全歌講義』より、これでも意味が良くとれませんが)。
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【歌】 足柄の ままの小菅の 菅枕 あぜかまかさむ 児ろせ手枕 (M-3369)
【口語訳】 足柄の 崖(まま)の小菅の 菅枕など なんでなさるのか 娘さんわたしの手枕をしなさい
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 足柄峠からの富士山眺望
 雪に足をとられながらも展望場所に向かう
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 展望場所にたどりつくと一斉にカメラを構えます
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 雄大な富士山を眺めることが出来ました
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 今回の旅行では二日間ともに天候に恵まれ、心行くまで”真白き富士の山”を楽しめました。



Posted by katakago at 19:44
真白き富士の山(一日目) [2013年01月21日(Mon)]
 1月19日から一泊二日で「万葉の大和路を歩く会」主催の特別万葉旅行「真白き富士の山を見ゆー薩埵峠と足柄峠」に参加しました。同行の講師は影山尚之先生(武庫川女子大学教授)で、車内や目的地で解説して頂きました。実は昨年(2月下旬)にもこの方面には旅行会社のツアーで出かけましたが、その時はあいにくの天候で目的の富士山はほとんど見ることが出来ませんでした(記事は昨年の3/1に掲載)。今回は天気予報も晴れで期待して出かけました。万葉歌では、山部赤人や高橋虫麻呂が富士の山を詠んでいます。その雪をいただく富士の山を一日目は静岡県側から、二日目は神奈川県側から眺めるのが今回の旅行の目的です。

 一日目の行程は、京都駅(8:56発ひかり)→静岡駅→三保の松原(羽衣の松)→清水(昼食)→清見潟公園(万葉歌碑)→清見寺(拝観)→新興津川橋・・・(薩埵峠越え)・・・JR由比駅→ふじのくに田子の浦みなと公園(万葉歌碑)→沼津泊

写真は「三保の松原」でガイドさんから羽衣の松(羽衣伝説)の説明を聴いている様子
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 松林を通り抜け砂浜を海岸へ歩いてゆくと、雪をいただく富士山が期待通りの雄姿を見せてくれました。
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 富士山を見ながら影山先生の解説を聴きました。
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 次のビューポイントは薩埵峠からです。
峠道に植えられたヒカンザクラの蕾が早くもほころび始めていました(満開は来月とのこと)。
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 薩埵峠の道標(明暦元年(1655)朝鮮通信使を江戸に迎えるのに際し薩埵峠の新道が開かれたという)
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 薩埵峠から見た富士山(峠道を下りながら富士の眺めを何度も楽しめました)
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高橋虫麻呂の長歌の前半では、
【歌】 なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 奇しくも います神かも ・・・・・(B-319)
と、当時噴火していた富士山が詠まれています。

 山部赤人の長歌と反歌は、
【歌】 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は (B-317)
【口語訳】 天と地が 別れた時から 神々しくて 高く貴い 駿河の国の 富士の高嶺を 大空はるかに 振り仰いで見ると 空を渡る太陽の 姿も隠れ 照る月の 光も見えない 白雲も 進みかね 時ならず 雪は降っている 語り伝え 言い継いでゆこう この富士の高嶺は
【歌】 田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける (B-318)
【口語訳】 田子の浦越しに うち出て見ると 真っ白に 富士の高嶺に 雪が降っている
 この長歌と反歌の歌碑が、ふじのくに田子の浦みなと公園(現在整備中)に建てられています(以前は田子の浦のフェリー乗り場にあったのがここに移設されたようです)。到着したのが夕方で、かろうじて富士山を背にした歌碑の写真が撮れました。
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 薩埵峠越えをする前に、清見寺を拝観し近くの清見潟公園に在る万葉歌碑を訪ねました。万葉歌には、田口益人大夫が上野の国司に任ぜられた時に、駿河国の清見の崎で作った二首が載せられていますが、歌碑はそのうちの一首です。
【歌】 廬原の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし (B-296)
【口語訳】 廬原(いおはら)の 清見の崎の 三保の浦の 広々とした海を見ていると 何の屈託もない
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Posted by katakago at 18:48
記紀万葉の飛鳥を歩く [2012年12月03日(Mon)]
 昨日(12/2)は、奈良大学・古都飛鳥保存財団連携イベント「記紀万葉の飛鳥を歩く」(古事記撰上1300年記念企画)に参加してきました。
 コースは、橿原神宮前駅(9:30出発)→ 剣池 → 甘樫丘展望台 → 飛鳥寺 → 飛鳥坐神社 → 万葉文化館 → 伝飛鳥板蓋宮跡 → 下平田休憩所 → 飛鳥駅(14:30着)
 この場所はこれまで何度も歩いていますが、講師に上野誠先生(奈良大学教授)・井上さやか氏(万葉文化館主任研究員)が同行されるというので、先週に続き明日香を訪れました。今回の参加者は50名で、スタッフには財団以外に上野先生のゼミ学生8名も加わっていました。

 天候にも恵まれ、甘樫丘展望台からは大和三山(畝傍山・耳成山・香具山)や畝傍山の後方には二上山がくっきりと見えました。この展望台でのミニ講演会では、三山を眺めながら中大兄皇子(後の天智天皇)の三山の妻争いの歌を上野先生から解説して頂きました。なお、この三山の歌については、今年5/4の記事にも載せています。
 畝傍山とその後方には二上山
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 耳成山(左)と香具山(右)
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 甘樫丘中腹には、犬養孝先生揮毫の万葉歌碑があります。先生の還暦を祝し併せて大阪大学萬葉旅行百回を記念して昭和42年に建立されました(先生揮毫による第一号の歌碑)。
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明日香宮から藤原宮に遷った後に、志貴皇子が詠んだ次の歌です。
【歌】 婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久 (@-51)
【読み下し文】 采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたづらに吹く
【口語訳】 采女(うねめ)らの 袖を吹き返していた 明日香風は 都が遠のいたので むなしく吹いている
 歌碑の前では上野先生から歌の解説をして頂きました。
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 万葉歴史館の広場で井上さんから文化館の展示の内容を紹介して頂いた後、ここで昼食をとり館内の見学をしました。現在「冬の万葉日本画展」と企画展「万葉集を掘るー古代のことばとイマジネーションー」が開催中です。
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 伝飛鳥板蓋宮跡の大井戸を囲んで上野先生のミニ解説
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 川原寺前の万葉歌碑(揮毫は犬養先生、平成4年建立)
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【歌】 世間之 繁借廬尓 住ゝ而 将至国之 多附不知聞 (O-3850)
【読み下し文】 世の中の 繁き仮廬に 住み住みて 至らむ国の たづき知らずも
【口語訳】 世の中という 煩わしいことだらけの仮廬に 住み続けて やがて行き着く浄土の 様子も分からないことだ
 この世の無常を厭う歌二首のうちの一首で、もう一首は、
【読み下し文】 生死の 二つの海を 厭はしみ 潮干の山を 偲ひつるかも (O-3849)
【口語訳】生死の 二つの海が 厭わしさに 涅槃の山を 心に念じた
左注には、この二首は川原寺の仏堂の中の和琴の面に書いてあったものであると記されています。和琴は六弦の琴で、小形で膝の上にのせて弾かれたようです。
 『万葉集』には、このような仏教思想を歌ったものも収められています(11/26に紹介した橘寺の歌と同じく巻十六に)。

 
 橘寺付近にある坂本信幸先生揮毫の万葉歌碑(人麻呂の泣血哀慟歌 A‐210)の前で、上野先生の説明を聴きました。歌の中に羽易山(はがひのやま)と詠まれているのは、三輪山を頭部に、龍王山・巻向山を両翼のようにして、大鳥が天翔るように見える山の姿でこの場所から遠望できます(歌碑左側の副碑に図入りの説明がある)。
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 なお、この歌碑の写真は今年2/5の記事に載せています。
Posted by katakago at 17:25
石見万葉旅行(人麻呂ゆかりの地を巡る) [2012年09月04日(Tue)]
 この記事では、3日間(8/31〜9/2)に訪ねた人麻呂ゆかりの地を万葉歌碑と共に紹介してゆきます。

 柿本朝臣人麻呂は、生没年未詳。『万葉集』以外に所伝はなく、持統・文武朝に作歌活動があったとみられ、石見の国で死に臨んだ時の歌があります。持統天皇の紀伊・吉野行幸などに従駕し多くの行幸儀礼歌を詠んでいます。また、地方における歌も多く、下級官人として地方に下向したとみられ、石見国で死んだ折、「死時」とあり六位以下の官人であったと考えられています。『万葉集』には人麻呂作歌85首、人麻呂歌集歌約365首が載せられており、『古今和歌集』の仮名序にも「歌の聖なりける」とあり、和歌史上屈指の歌人と評されています。

 後に民間信仰では、「柿本」から「火気の元」に、「人麻呂」は「火止まる」に通じることより「火伏せの神」として、また「人麻呂」の音から「人生まる」の意味を派生し(安産の神としても)全国各地に柿本神社、人麻呂神社が建てられるようになったようです(全国万葉協会で調査中とのこと)。

 
 1日目(8/31)は、戸田柿本神社(宝物殿で人麻呂像拝観)/人麻呂生誕の地/遺髪塚 ⇒ 万葉公園(人麻呂展望広場/万葉歌碑) ⇒ 高津柿本神社(万葉歌碑) ⇒ 割烹鈴蘭別館(夕食) ⇒ 石見の夜神楽見学 ⇒ 浜田泊

 戸田柿本神社(益田市戸田) この地では古くから火伏せの神として信仰されている
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 島根県立万葉公園(益田市高津町) 柿本人麻呂や万葉歌人の詠んだ歌の歌碑がある
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 公園内にある稲岡耕二揮毫の万葉歌碑 
【歌】 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆 (A-133)
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 高津柿本神社(益田市高津町)
享保8年(1723)に朝廷から正一位柿本大明神の神位神階を贈られた(全国にある柿本神社の総本社)
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 高津柿本神社境内の万葉歌碑
柿本朝臣人麻呂が石見国にあって死期が近づいた時に、自ら悲しんで作った歌
【歌】 鴨山の 岩根しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ (A-223)
【口語訳】 鴨山の 岩を枕に伏している わたしなのに 知らずに妻は 待っていることであろうか
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 梅原猛が人麻呂の終焉の地と考えた鴨島を望む碑(万葉公園内の和風休憩所裏にある)
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 割烹鈴蘭別館での夕食
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 石央文化ホールでの夜神楽鑑賞(演目:大蛇、須佐之男命の八俣のおろち退治)
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 2日目(9/1)は、浜田城跡(鴨山説) ⇒ 伊甘神社(国府跡碑) ⇒ 大崎鼻(辛乃崎)万葉歌碑 ⇒ 石見国分寺跡 ⇒ 石見畳ケ浦 ⇒ 全国万葉フェスティバルinしまね ⇒ 浜田泊

 伊甘神社境内にある石見国府跡の碑(浜田市下府町)
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 大崎鼻(江津市波子町)「辛の崎」の万葉歌碑(人麻呂の石見相聞歌の部分、揮毫は澤瀉久孝)
【歌の読み下し文】 つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる いくりにそ 深海松生ふる 荒磯にそ 玉藻は生ふる 玉藻なす なびき寝し児を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は いくだもあらず 延ふつたの 別れし来れば 肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の もみち葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 妻隠る 屋上の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ ますらをと 思へる我も しきたへの 衣の袖は 通りて濡れぬ (A-135)
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 歌碑の前で坂本先生との記念写真(同行の仲間と一緒に)
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 3日目(9/2)は、高角山公園(万葉歌碑・人麻呂と妻依羅娘子の像) ⇒ 坂本先生歌碑除幕式 ⇒ 二宮(依羅娘子生誕伝承の里碑・万葉歌碑) ⇒ 恵良の里(万葉歌碑) ⇒ 都野津柿本神社(万葉歌碑) ⇒ 真島(角の浦)

 高角山公園(江津市島の星町)の人麻呂と妻依羅娘子の像の前で坂本先生の説明を聴く 
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 高角山公園内にある高木市之助揮毫の万葉歌碑
【歌】 石見のや 高角山乃 木のまより わがふる袖を 妹みつらむか (A-134)
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 依羅娘子誕生伝承地、恵良の里(江津市二宮町)の清水克彦揮毫の万葉歌碑(人麻呂の妻、依羅娘子が人麻呂と別れる時の歌)
【歌】 勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不恋有牟 (A-140)
【読み下し文】 な思ひそと 君は言ふとも 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ひざらむ
【口語訳】 思うなと あなたがおっしゃっても 今度いつ逢えると 分っていたら こんなにまでも恋しくは思いません
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 恵良の里より高角山を遠望
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 都野津柿本神社(江津市都野津町)境内にある犬養孝揮毫の万葉歌碑
【歌】 石見乃也 高角山乃 木際従 我振袖乎 妹見都良武香 (A-134)
【口語訳】 石見の国の 高角山の 木の間からも 私が袖を振るのを 妻は見ただろうか 
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 真島(江津市和木町)より、角の浦を望む
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 砂浜にはコウボウムギ(かやつりぐさ科)が群生する(この時期は枯れていた)。地元ではこれを筆に使用していたことがあり、それを人麻呂筆と呼んでいたそうです。
Posted by katakago at 07:17
石見万葉旅行(9/2万葉歌碑除幕式) [2012年09月03日(Mon)]
 今年は『古事記』編纂1300年に当たり、島根県では出雲大社周辺を主会場に、「神話博しまね」が開催されています(7/21〜11/11)。島根(石見)はまた、万葉の世界では柿本人麻呂のゆかりの地でもあります。今回「万葉の大和路を歩く会」主催の「人麻呂の石見と万葉フォーラム」の旅行に参加して出かけてきました(8/31〜9/2)。
 3日間にわたって人麻呂ゆかりの地を訪ねるとともに、江津市で開催された「全国万葉フェスティバルinしまね」にも参加し(2日目)、今回同行の講師坂本信幸先生(奈良女子大学名誉教授・高岡市万葉歴史館館長)が揮毫された万葉歌碑の除幕式にも参列しました(3日目)。
 これらの様子を写真を中心に3回に分けて報告します。

 まず、昨日(9/2)行われた万葉歌碑の除幕式の様子を紹介します。
場所は江津市内を一望できる展望のよい高角山の中腹です。歌碑の歌は、柿本朝臣人麻呂が、石見国から妻と別れて上京する時に詠んだ「石見相聞歌」と称される長歌(A-131)の反歌(A-133)です。副碑に原文、口訳、解説が書かれていますが、次に示しておきます。

【原文】 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
【読み下し文】 笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば
【口訳】 笹の葉は、山全体がさやさやと風に騒いでいるけれども、私はただひたすら妻のことを思う、別れて来たので。

 坂本先生、江津市長らによる除幕の様子

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 除幕後の歌碑と副碑
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 笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば
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 なお、原文の「乱友」の訓については、「さやげども」と「みだるとも」の説がある中、坂本先生は、これまでの諸説に論証を加えた上で、澤瀉久孝説(『萬葉古径』)の「さやげども」の訓によるべきと述べられています。歌碑の文面もひらがなで「さやげども」と書かれています。詳細は、先生の論文「笹の葉はみ山もさやに−『乱友』考 −」(『萬葉』二百七号、平成22年9月)に述べられています。



 副碑に書かれた坂本先生の解説文を掲載しておきます。「み山」という表現には、高角山に対する畏れと謹みがうかがえる。その畏怖すべき山全体がざわめき騒いでいる中で、ただ一筋に妻のことを思うのは人麻呂の愛情の強さゆえである。
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 歌碑の序幕を終え挨拶される坂本先生
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 地元の江津市立高角小学校1,2年生により、「石見相聞歌」長歌、反歌の朗唱が行われました。
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 この除幕式には、地元の方はじめ、万葉の大和路を歩く会(64名)、高岡市万葉歴史館万葉を愛する会(34名)など多くの参列者があり盛大に行われました。
Posted by katakago at 14:06
萬葉一日旅行「山の辺の道と三輪」 [2012年05月26日(Sat)]
 萬葉学会主催の「萬葉一日旅行」に参加しました。
 萬葉学会は、研究者に限らず、萬葉集の愛好者であればだれでも参加できる、開かれた学会です。数年前に入会し、これまで機会を見つけては公開講演会に出かけてきました。今回の萬葉一日旅行は、昭和43年以来途絶えていたのが再開されたもので、コースは以下の通りです。
 桜井駅(集合10:00)→ 泊瀬川 → 海石榴市 → 金屋石仏 → 志貴御県坐神社(崇神天皇磯城瑞籬宮伝承地)→ 大神神社(昼食)→ 狭井神社 → 大直禰子神社(若宮社) → 久延彦神社 → 大美和の杜展望台 → 玄寶庵 → 檜原神社 → 巻向川 → ホケノ山古墳 → 箸墓古墳 → JR巻向駅(16:20着)

 講師の先生方は、学会の坂本先生(代表)、上野先生、毛利先生、影山先生で、上記ルートの関連資料も用意して頂いて、各所で丁寧な説明をしていただきました。

 次の2枚は、志貴御県坐神社での説明の様子と、この場所に建立されている万葉歌碑です。

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 【歌】 磯城島の 大和の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ (L-3429)
【口語訳】 この磯城島の大和の国に、あの方というお方が二人あると思うことができたら、何でこんなに嘆いたりなどしようか
『萬葉集釈注』には、「あの方は、この国、この世に二人といないかけがえのない人であるから、夜を通して溜息をつかずにはいられないというので、来ぬ男に焦がれる女の歌である」とあります。


 大神神社へ向かう道
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 大神神社で毛利先生の説明を聴きました。
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 大神神社の神木の杉で、万葉歌にも詠まれています(2/15の記事参照)。
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 大神神社境内の日本書紀歌謡の歌碑(和田嘉寿男先生揮毫)
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 【歌】 此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久 (15、崇神天皇八年十二月の条)
【口語訳】 この神酒は私が醸造した神酒ではありません。倭国を造られた大物主の醸造された神酒です。幾世までも久しく栄えませ、栄えませ


 大美和の杜展望台からは、大和三山が一望できます(写真左から、香具山、畝傍山、耳成山)。
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Posted by katakago at 21:59
二上山に登るハイキング [2012年05月14日(Mon)]
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 天気は夕方までは大丈夫そうだったので、二上山に登るハイキングに出かけました(近鉄企画のフリーハイキング)。上の写真は、近鉄の車中(当麻寺 ― 二上神社)から撮った二上山(にじょうざん)です。雄岳と雌岳からなり、万葉の頃は「ふたがみやま」とよばれていました。
 今日のコースは、二上山駅 → 春日神社 → 大津皇子の墓 → 葛木坐二上神社 → 雄岳山頂(517m)→ 馬の背 → 雌岳山頂(474m)→ 馬の背 → 祐泉寺 → 當麻山口神社 → 傘堂 → 中将姫の墓 → 當麻寺 → 当麻寺駅までの、約8kmのハイキングです(健脚向き)。
 春日神社を過ぎ、二上山登山口の道標から暫く(約1km)は、渓流沿いに緩やかな登り(写真)でしたが、その後は、大津皇子の墓まで急な上り階段が続いていました。

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 写真は雄岳山頂付近にある大津皇子のお墓です(但しこれは後のもので、大津皇子の墓所としては当麻寺近くの鳥谷口古墳が有力とされている)。大津皇子に関しては昨年12/17の記事に載せています。
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 雌岳山頂には万葉歌碑が建立されていました。
【歌】 大坂を 我が越え来れば 二上に もみち葉流る しぐれ降りつつ (I-2185)
【口語訳】 大坂を わたしが越えて来ると 二上山に もみじ葉が空を流れて散る しぐれが降り続いて
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 雌岳山頂からは、大和三山が眺められるとのことで探してみました。木の間より、5/4に登った畝傍山を望めました。

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 登山道のあちらこちらでモチツツジが咲いていました。
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 當麻寺に至る途中(旧たいま温泉跡)で、大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌の歌碑を見つけました。題詞には、大津皇子の遺体を葛城の二上山に移葬した時に、大伯皇女が悲しんで作られた歌二首とあり、これは一首目の歌です。
【歌】 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (A-165)
【口語訳】 この世の 人であるわたしは 明日からは 二上山を 弟として眺めるのか
 なお、この歌関連では、今年の3/29のアセビ(馬酔木)の記事の中で詳しく紹介しています。

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 今日5月14日は、當麻寺で練供養(聖衆来迎練供養会式)が午後4時から行われるので、大勢の参拝者がみえていました。これを見物するには3時間以上も待つことになるので、またの機会とすることにしました。



Posted by katakago at 18:00
大和三山ウォーキング [2012年05月04日(Fri)]
 大和三山のウォーキングに出かけてきました。近鉄企画のフリーハイキングで、大和八木駅を起点に(9時に出発)、耳成山 → 藤原京跡 → 天香具山 → 本薬師寺跡 → 畝傍山 → 橿原神宮前駅(13時着))までの約14kmのコースを歩きました(健脚向き)。このコースは、学生時代(42年前)に犬養先生の万葉旅行で一度歩いたことがあります。

 藤原京は大和三山に囲まれた日本最初の本格的な都(持統・文武・元明天皇の三代にわたる宮)で、以下の写真は、その藤原宮跡から撮った三山です。順に、耳成山(139m)、天香具山(152m)、畝傍山(199m)。
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 『万葉集』には、中大兄(天智天皇)の三山の歌が載せられています。
【歌】 香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしへも 然にあれこそ うつせみも つまを 争ふらしき (@-13)
【口語訳】 香具山は 畝傍山をいとしいといって 耳梨山と争った。 神代からこのようであるらしい。昔もこうであったからこそ、今、この世に生きている人も妻争いをするらしいよ。(『萬葉集全歌講義』より)
 この三山歌は、歌詞の解釈によって三山の性別が異なり、おおむね、@香具山(女)が畝傍山(男)を雄々しと思ってそれまで親しかった耳梨山(男)ともめるに至った、A香具山(男)が畝傍山(女)を愛(を)しと思って耳梨山(男)と妻争いをした、B香具山(女)が畝傍山(男)を雄々しと思って耳梨山(女)と男をとりあった、の三説があります。上記の口語訳は、Aの説ですが、この説を採用する『萬葉集全歌講義』には、このように解する方が、「いにしへも 然にあれこそ うつせみも つまを 争ふらしき」という長歌末尾の表現にかなっている、とあります。


 香具山が詠まれた、持統天皇の有名な次の一首も紹介しておきます。
【歌】 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山 (@-28)
【口語訳】 春が過ぎて 夏が来たらしい 真っ白な 衣が干してある あの天の香具山に
 この歌は『新古今和歌集』にも採られています。
この歌の歌碑(犬養先生揮毫)が、藤原宮跡近くの醍醐池の堤にありました。

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Posted by katakago at 22:00
葛城古道を歩く [2012年04月27日(Fri)]
 日本書紀の講座(NHKカルチャー)を受講する仲間で、葛城古道を歩いてきました。天候にも恵まれ、ウォーキングには最適の一日でした(但し今回の参加者は3名)。コースは当初設定のルートの逆回りで以下の順に巡りました(この方が上り道の距離が短くなるとの案内所の助言もあって)。近鉄御所駅(9:47)から「風の森」までバスで移動し、風の森 → 高鴨神社 → 高天彦神社 → 高天原伝承地 → 葛城一言主神社 → 猿目橋バス停(15:55) → 近鉄御所駅に戻りました(所要時間約6時間半、約27,000歩)。 

 田植え前の水田にはレンゲの花が一面に咲いていました。

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 高鴨神社は全国の加茂(賀茂・鴨)社の総本宮で、主祭神は阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)。奈良盆地から吉野の山野まで一望できるこの地は、古代豪族の鴨族発祥の地といわれています。写真は境内にそびえるご神木の杉。
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 次の訪れた高天彦神社の祭神は、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)で、ここで昼食をとりました。
 高天彦神社(御所市大字高天)から橋本院(御所市高天)に至る前方に広がる台地一帯が、『記紀』にいう高天原の伝承地といわれています。ここで万葉歌碑を見つけました。
【歌】 葛城の 高間の草野 はや知りて 標刺さましを 今そ悔しき (F-1337)
【口語訳】 葛城の 高間(たかま)の萱野を もっと早く知って 標をすればよかった 残念なことをした
 愛していた女が他人のものとなったことを惜しんだ歌(『新編日本古典文学全集 萬葉集』)。ここで、葛城山を背に集合写真(3人だけですが)を写しました。

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 葛城一言主神社の祭神は、葛城之一言主大神と大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと、雄略天皇)で、『古事記』に次のような伝承が記されています。雄略天皇が葛城山で狩りをしている時に、一言主大神が天皇と同じ姿で現れ、天皇がそれは一言主大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官の衣服を奉献した、とあります。写真は、ご神木の樹齢1200年のイチョウ(乳銀杏と呼ばれる)で、倒木を防ぐための支柱を立てる作業が行われていました。
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 境内に万葉学者櫻井満博士揮毫の万葉歌碑がありました。葛城地方は、古代葛城氏の本貫地で、その葛城氏の祖と仰がれ、四世紀末前後の英雄であったとされる、葛城襲津彦の名が詠み込まれています。
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 【歌】葛城の 襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が 我が名告りけむ (J-2639)
【口語訳】 葛城襲津彦の使う真弓の 強い新しい木のように 私を妻として頼りにしてくださるので 私の名をお洩らしになったのでしょうか (『萬葉集全注』による)
 なおこの歌関連は、3/6の記事に掲載しています。

Posted by katakago at 22:30
現地見学会(磐余池推定地) [2011年12月17日(Sat)]

 昨日(12/16)、朝日新聞朝刊の一面に掲載された記事です。

 古代の人工池「磐余(いわれ)の池」の推定地(橿原市東池尻町)で、池の堤跡と建物跡も出土したとのことで、今日、橿原市教育委員会により現地見学会が開催されました。磐余の池は、『万葉集』の歌にも詠まれており、現地を見に出かけました。

 次の写真は、建物跡の発掘現場の様子です。この建物については、新聞記事では宮殿関係の施設と推定する考えや、池の管理用の建物と考える説が紹介されています。



 次は、人工的に築かれた堤跡の発掘現場です。配布資料によれば、砂質土や粘土をほぼ水平方向に厚さ0.1〜0.3mの単位で深さ3.2m以上にわたり積み重ねられています。写真右側の工事用フェンスの右方向に池が広がっていたようです。


 『万葉集』には、大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流して作られた歌一首として、次の歌が載せられています。
【歌】 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (B-416)
【口語訳】 (百伝ふ) 磐余の池に 鳴いている鴨を 今日だけ見て 死んでゆくのか

 この間の事情について、『日本書紀』には次のような記事が載せられています。天武天皇崩御間もなく大津皇子の謀反が発覚し、逮捕され死を賜ったとあります。更に続けて、皇子は当時24歳で、妃の山辺皇女は髪を振り乱し、素足のまま駆けつけて殉死し、見る者はみなすすり泣いたと記されています。

 この歌の歌碑が近くの御厨司(みずし)観音手前の道路際に建てられています。次の写真は、この歌碑から発掘現場(上方中央部右寄り)を臨んだものです(新聞写真とは反対側から見たものです)。この辺り一帯が池であったと推定されています。

 ところで、この歌碑の碑面が汚されていたのが残念です。拓本を採るのに碑面に直接墨を塗りつけそのままにしてしまったようです(マナーが悪いし、方法も間違っている)。


 なお、大津皇子の人となりについては『日本書紀』には、「立ち居振舞は高く際立っており、言辞は優れて明晰である。成人してからは、分別があって学才に秀で、ことに文筆を好み、詩賦の興隆は、この大津に始まった」と記されています。
 漢詩集の『懐風藻』に、大津皇子の辞世の詩が載せられています。
  【読み下し文】
    金烏(きんう)  西舎(せいしゃ)に臨み
    鼓声(こせい)  短命を催(うなが)す
    泉路(せんろ)  寶主なし
    この夕  誰が家にか向ふ
  【口語訳】
    太陽は西に傾き
    夕べの鐘に短い命が身にしみる
    泉途(よみじ)を行くは一人の旅
    夕暮れはどこへ宿ろうとするのか
 この詩碑が吉備池そばの春日神社の境内に建てられています。



 『万葉集』には、大津皇子の屍を葛城の二上山に移葬した時に、姉の大伯皇女が悲しんで作られた歌が載せられています。
【歌】 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (A-165)
【口語訳】 この世の 人であるわたしは 明日からは 二上山を 弟として眺めるのか 

 この歌の歌碑が、吉備池の堤に二上山を背にして建てられています。
 
Posted by katakago at 18:15
吉野路ウォーク(11/23) [2011年11月24日(Thu)]
 昨日(11/23)は、「ウォーク万葉たまづさ会」主催の吉野路ウォークに参加しました。ルートは次のとおりです。近鉄吉野駅(集合10:00)→金峯山寺蔵王堂→吉水神社→櫻本坊(天武天皇像拝観、昼食)→吉野・宮滝万葉の道(喜佐谷・象の小川)→桜木神社(赤人の万葉歌碑)→宮滝(万葉歌碑)→奈良交通バス(15:43発)にて大和上市駅→阿倍野橋行き特急乗車(16:09発)
 吉野は、大学一年の時(今から47年前)に、初めて犬養先生の万葉旅行に参加した場所であり、思い出の地でもあります。退職後、関西に引き上げてからこれまで3度訪れていますが、今回万葉仲間と共にあらためて晩秋の吉野路ウォークを楽しみました。
 吉野に宮が営まれたことは、『日本書紀』応神天皇(15代)条、雄略天皇(21代)条に記されていますが、吉野宮造営については斉明天皇(37代)二年(656年)の条に初めて記されています。発掘調査により、吉野町宮滝の吉野川に臨む地が、宮の跡地と推定されています。
 吉野の地は、天智天皇の亡くなる直前(671年)、近江宮を脱出した大海人皇子(後の天武天皇)がここに隠棲し、翌年挙兵して大友皇子と皇位継承を争ったいわゆる壬申の乱ゆかりの地です。この時妃の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)も大海人皇子につき従いましたが、後に天皇に即位してから、在位中に吉野に31回の行幸を行っています。その吉野の行幸の折に柿本人麻呂が詠んだ歌(吉野讃歌)が『万葉集』に載せられています。 長歌では、「たくさんある国の中でも、山も川も美しい吉野に離宮が営まれたので、宮廷に仕える人々は船を並べて川を渡っている。その川の水が絶えないように、この山の高いように、永遠に高くそびえた吉野の滝の離宮は、いくら見ても見飽きない」と吉野の宮を讃美しています。反歌では次のように歌っています。
【歌】 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む (@-37)
【口語訳】 見飽きない 吉野の川の 常滑のように 絶えることなく また立ちかえって吉野を見よう
 次の写真は、宮滝付近の吉野川です。


 吉野は多くの万葉歌人によって詠まれていますが、大伴旅人が大宰府に赴任中に詠んだ次の歌に、「夢(いめ)のわだ」が詠まれています。次の写真の中央、左上から白く水が流れ落ちている所(象の小川が吉野川に注ぐ所)が「夢のわだ」と伝えられています。
【歌】 我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもありこそ (B-335)
【口語訳】 私の筑紫暮らしも もう長くなかろう 夢のわだは 瀬にならないで 淵のままであってくれ



 今回のルートでは、宮滝に到るには喜佐谷を下って行きました。

 喜佐谷を下る途中、象の小川の滝を見ることが出来ました。

 山部赤人は、次のように歌っています(この歌碑が桜木神社にありました)。
【歌】 み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも (E-924)
【口語訳】 み吉野の 象山(きさやま)の谷間の 梢には こんなにもいっぱい鳴き騒いでいる 鳥の声よ

 吉野はまた、山岳信仰の場としても知られ、金峯山寺は奈良時代の役行者が開いたと伝えられ、蔵王権現信仰の聖地とされています。次の写真は、金峯山寺蔵王堂(世界遺産に指定)の遠望です。

Posted by katakago at 18:11
韓国歴史の旅5日目その2 [2011年11月01日(Tue)]
 旅の最終日(10/27)の午後、国立中央博物館を見学しました。これまで訪れた史跡からの出土品も見ることが出来ました。いくつかの展示品の写真を掲載しておきます(写真掲載の制限から次の5点)。

   金冠 皇南大塚(北)出土 (見学記事は2日目その3)



   冠帽 金冠塚出土 (見学記事は2日目その3)


 冠飾 皇南大塚(南)出土 (見学記事は2日目その3)


 金製冠飾 武寧王陵出土 (見学記事は2日目その4)


 金銅製半跏思惟像(三国時代)
今回の見学対象には入っていませんが、半跏思惟像は、日本の中宮寺や広隆寺でこのタイプの像を見ることが出来るので、同一文化圏での共通点からも注目しました。
 




 今回の「飛鳥を愛する会」の秋季現地講座(韓国歴史の旅)には41名(他に添乗員と現地ガイド)の参加者がありました。皆さんは熱心にメモを取り写真に収めたりされていましたが、筆者にとっても充実した現地見学と学習の機会となりました。
 今回訪問した史跡は、よく整備されており、特に古墳は日本で見られるように墳丘上に樹木が生えているようなところは無く、写真に示したように綺麗に管理されていました。また、出土品も金製品を含め素晴らしいものが多数存在し注目されますが、特に武烈王の墓碑や、武寧王とその妃の墓誌(裏面には買地券)の発見により、被葬者が確定していることに感銘を受けました。
 日本では、宮内庁管理の陵墓は発掘が行われていませんが、このような成果を目の当たりにすると、あらためて、学術調査が進められるようにと願わずにはおれません。

 木下先生によると、次の現地講座の構想も立てられているようなので、今後の企画が楽しみです。
Posted by katakago at 11:10
韓国歴史の旅5日目その1 [2011年11月01日(Tue)]
 5日目(10/27)は、扶余からソウルへ移動し、最初に百済前期(漢城時代)の古墳群を見学しました。扶余からソウルまでバスで3時間くらいかかったかと思いますが、移動中のバスの中の様子です。木下先生や、現地のガイドさん(韓明姫さん)から車中でも話を聞かせてもらいました。


 百済漢城時代の古墳群は、ソウル市内の漢江南岸地域に集中しており、今回は、石村洞古墳群(上限は4世紀初頭)で復元された積石塚を見学しました。次の2枚は、いずれも方形基壇式積石塚です。木下先生によると、日本でも長野・群馬など渡来系の人が入植した所には積石塚が見られるとの事でした。




 次いで、朝鮮王朝の歴代王族の王陵を訪れました。朝鮮王朝は、李成桂が高麗を滅ぼし1392年に建国された。国政は仏教を排斥し儒教の朱子学を主軸に運営され、518年間存続した。この王陵は1408年〜1966年にかけて造営され、40基が世界遺産に登録されています。今回は宣陵(第9代成宗の陵)を見学しました。
 次の写真は紅門(ホンサル門)から見た宣陵丁字閣です(紅門の上部には矢のような飾りと太極の模様がある)。この参道を通って陵に向かいます。


 次の写真は朝鮮王朝第9代王の成宗大王の墓です。
屏風石の面石には雲文の中に十二支神、地台石と満石には蓮華文、引石にはヒマワリ文と牡丹文が彫刻されており、裳石および欄干石がある。

Posted by katakago at 05:50
韓国歴史の旅4日目その5 [2011年10月31日(Mon)]
 4日目(10/26)最後の見学地は、陵山里古墳群(王宮の東3km、羅城外の東側)と陵山里寺跡を見学しました。
 この古墳群の中で、東下塚は、扶余唯一の壁画古墳で、玄室の四壁に、四神・蓮華文・飛雲文が描かれている(6世紀後葉から7世紀前半の貴重な百済壁画古墳)。写真は古墳群の様子。



 陵山里寺跡は、羅城と陵山里古墳群の間の谷間に立地し、伽藍配置は、南から中門・塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ一塔一金堂式(写真はその模型)。


塔心礎上出土の石製舎利龕の銘文には、塔が567年に、聖王の菩提を弔う寺院として発願されたと記されている。次の写真は、国立扶余博物館図録から転載。


次の写真はこの寺から出土した百済金銅大香炉です(国立扶余博物館展示)。蓮の花と山の峰で象徴される百済の精神世界を具現したもので、この時代最高の傑作と評価されている。

 この香炉の出土状態の写真が同博物館図録にありましたので、転載しておきます。その状況からみて、唐の侵攻から隠すために埋められたかと推定されます。

Posted by katakago at 17:08
韓国歴史の旅4日目その4 [2011年10月31日(Mon)]
 次いで、扶余にある定林寺跡を見学しました。
百済末123年の都邑期を通して残っている唯一の百済遺跡とされている。典型的な一塔一金堂式の伽藍配置で、南から中門・石塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門からの回廊が北で講堂に結ばれる(案内図の写真参照)。



 五層の石塔には、その初層塔身に「大唐平百済国碑銘」の課題のある碑文が刻まれている(平百済塔(ピョンペクチェタブ)の呼称がある)。唐が百済国を平定したことを記念して刻まれた碑文で、冒頭に、660年の百済滅亡年に建てるとあり、続く本文には唐の司令官などの名が刻まれ、功績をたたえている(百済の人にとっては屈辱の碑)。

Posted by katakago at 16:27
韓国歴史の旅4日目その3 [2011年10月31日(Mon)]
 4日目(10/26)午後は、扶余に戻りまず扶蘇山城に登りました。
 538年、百済は熊津(公州)から泗沘(サビ)へ遷都。扶蘇山城はその王京を守る重要な山城の一つ。平時には宮の庭園となり、戦争の時には最後の防御城として利用された。扶蘇山南斜面の官北里・双北里一帯が王宮跡の有力候補地とされる。660年に、唐の侵攻でこの都は灰燼に帰した(この時三千の宮女が節操を守るため身を投げたと言われる落花岩が、扶蘇山城山頂付近の白馬江に面した所にある)。


 城内遺構の軍倉(食料を保存した)跡(次の写真)まで登りました。

 この付近からは、白馬江(白村江)を望むことが出来ます(白馬江は古代中国・日本と交易路の役割を果たした)。
Posted by katakago at 15:43
韓国歴史の旅4日目その2 [2011年10月31日(Mon)]
 益山(イクサン)では、次いで王宮里寺跡を訪れました。伽藍配置は、木塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ。木塔は後に現存の五層の石塔に建て替えられた(写真)。石塔の解体修理に伴い、第一層屋蓋上面と心礎から舎利函・舎利具が発見されています。


下層から石垣による区画をもつ大規模な遺構が発見されています(王宮関係の遺構か)。王宮関係の施設を寺院としたものと推定されています。

Posted by katakago at 15:01
韓国歴史の旅4日目その1 [2011年10月31日(Mon)]
 25日夜、扶余のホテルに到着しましたが、4日目(10/26)は朝一番に益山(イクサン)にある弥勒寺の見学に出かけました。武王の時に益山に遷都したかとの見方もあるようです(但し扶余が都として廃されたわけではなく副都であったか)。 
 弥勒寺は百済で最大のお寺で、武王代(600〜641)に創建と伝承されている。伽藍配置は南北一直線に並ぶ中門・塔・金堂の組み合わせを東西に3つ並べ(西院、中院、東院)、その背後に講堂を一つ置く特異な伽藍構造を持つ(次の模型写真参照)。


現存する西塔(石塔)は韓国最大で、現在解体修理中でした。

修理の様子は見学できるようになっていました。

東塔は九重塔に復元されていました(次の写真)。

 
 西塔内部の心柱石から舎利荘厳が発見され(2009年)、舎利内壷・外壷・舎利奉安記等が見出されました。その様子の写真を、弥勒寺跡遺物展示館のパンフレットから転載しておきます。沙宅王后(佐平沙宅積徳の娘)が伽藍を造立し、已亥年(639)正月九日に舎利を奉安したと記されています。

Posted by katakago at 14:15
韓国歴史の旅3日目その4 [2011年10月31日(Mon)]

 宋山里古墳群は、百済熊津の王京時代の王と王族の墓が群集している場所で、武寧王(461〜523)陵と古墳群模型館を見学しました。武寧王陵は、1971年に、宋山里5〜6号墳の排水路工事中に偶然発見されたそうです(世紀の発見とされる)。
 模型館にある玄室の内部を木下先生の説明を聞きながら見学です。


 盗掘を免れ墓室内の遺物は完全な状態で残っており、埋葬状況が判る稀有な例であり、武寧王と王妃の墓誌が出土したことより被葬者が確定されています。次の写真は、模型館に展示の埋葬状況です。手前が王妃(左側)で奥が王(右側)で、木製頭枕と木製足座に置く伸展葬。王は装身具に、金製冠飾、金製耳飾り、金製首飾り、金銅製飾履等を身に付け、単龍文環頭大刀を佩用。副葬品は、頭部に獣帯鏡、足部に方格規矩鏡。

 墓誌の写真を国立公州博物館の図録から掲載しておきます。寧東大将軍百済斯麻王は62歳で亡くなり(523年)、525年に大墓に埋葬とあります(武寧は謚号)。この墓誌はこの王陵から発見された最も重要な遺物で、裏面には墓地を地神から買い取る記録が刻されている(買地券)。王妃の墓誌も出土しています。

 武寧王と王妃の木棺材について興味深い事実があります。樹種は世界的に1科1属1種だけである高野槇であり、当時百済と倭との交流過程で、日本からもたらされたものである事が分かっています。次の写真は、国立公州博物館展示の木棺です。
Posted by katakago at 06:41
韓国歴史の旅3日目その3 [2011年10月30日(Sun)]
 ここからは見学場所が慶州から公州に移動しました。
前期百済の王京はソウルにあったが、475年に高句麗の攻撃により一旦滅亡。文周が熊津(公州)に逃れて即位し、百済を再興。公山城(コンサンソン)は、文周元年(475)〜聖王16年(538)まで5代63年間の王城。


この山城は、北に錦江(白村江)が流れ(次の写真)、海抜100mの稜線に位置する天恵の要塞で、城壁は東西に約800m、南北に約400mの長方形を成している。

百済時代の土塁が南東部に部分的に残っている。

木下先生の説明を聴きながら見学。
Posted by katakago at 22:09
韓国歴史の旅3日目その2 [2011年10月30日(Sun)]

 統一新羅時代の王陵で東南部にある掛陵を訪ねました。元聖王(798年没)陵かと見られている。標高100mほどの丘陵南斜面に立地している(風水思想の典型例)。外護列石は切石を立てて並べ、十二支像(武器を持ち鎧を着た武人像)が陽刻されている(次の写真はその一例)。周囲に石欄干を巡らし、正面に石床が置かれている。

参道の両側には二対の石獣と二対の文武の石人像が配置されている(武人像は胡人の容貌)。

次の写真は参道から王陵を見た様子。
Posted by katakago at 21:35
韓国歴史の旅3日目その1 [2011年10月30日(Sun)]
 3日目(10/25)は、まず慶州市にある仏国寺(世界遺産に指定されている)を見学しました。

751年(景徳王10年)に、当時宰相であった金大城が創建した寺です。秀吉の壬辰の倭乱で建物が焼失し、石造物のみ残っていたが、1973年に復元された。中心伽藍は長さ92mの石壇上に築かれ(伽藍自体が仏国を象徴)、登壇するには二つの石階(青雲橋、蓮花橋)を登る。石階の下には精巧なアーチ型通路がある。

伽藍配置は統一新羅の典型的な双塔式伽藍で、大雄殿(金堂に当たる)の前に、多宝塔(東塔)・釈迦塔(西塔)、北には講堂に当たる無説殿が配置されている。
 次の写真は、釈迦塔


その次は多宝塔(石組技術を凝らした精緻な作り)

 安養門の奥(西区)にある極楽殿(準金堂に当たる)の額裏に金色の豚(韓国では十二支の亥は猪ではなく豚)の像が掛けられていました。現地のガイドさんによると、韓国では十二支の中で豚が一番で、600年(10運)毎に巡って来る亥年は大変おめでたい年(直近では4年前)で、この年に生まれた子供はお金に恵まれるとのことで、前年は結婚ラッシュであったとの事でした。

Posted by katakago at 16:05
韓国歴史の旅2日目その4 [2011年10月30日(Sun)]
 武烈王陵を見学しました。武烈王の没年は661年。「太宗武烈大王之碑」と書かれた石碑によって、その陵墓が武烈王のものであることが判明している数少ない例です。次の写真はその武烈王陵碑です。亀型の台の上には、本来あったはずの碑身(王の業績が書かれる)が無くなっていますが、その上の部分には、「太宗武烈大王之碑」という文字が陽刻されています。

王陵墓の写真です。自然石による外護烈石があるが、この時期は未だ十二支像を持っていません。


次に鮑石亭跡を訪れました。ここは新羅王室が祭事を執り行った場所で、現在は、曲水宴の痕跡である石の溝が残っています(次の写真)。


 次に訪れた九政洞方形墳は、統一新羅時代の方墳としては特異なもので、外護烈石は、長方形切石を三段に積んで葛石を乗せ、束石に十二支像が陽刻されています(写真)。


 2目の日程の最後に四天王寺の発掘現場を通り、下車して道路沿いで見学する機会を得ました。写真手前は、碑石の亀型台座(この上に碑身が乗る)。
Posted by katakago at 10:17
韓国歴史の旅2日目その3 [2011年10月30日(Sun)]
 皇南洞古墳公園(大陵園)は、5世紀を中心とした金氏一族の王陵群(味鄒王陵、皇南大塚、天馬塚、金冠塚、瑞鳳塚など23基)が密集しています(次の写真は表示板より)。

 味鄒王陵の写真。


 皇南大塚の写真。


 次の二点は王陵出土の金冠で、いずれも国立慶州博物館に展示されていました(ストロボを発光しなければ写真はOK)。山字形金冠は新羅の特徴。
一点目は、瑞鳳塚出土の金冠。


次は、金冠塚木棺内より出土の金冠。
Posted by katakago at 09:48
韓国歴史の旅2日目その2 [2011年10月30日(Sun)]
 新羅の王京の施設を見学しました。月城(ウオルソン)は新羅の王宮で、低い丘陵上にあり、南側は南川に沿って屈曲し半月状になり、「半月城」とも呼ばれる。次の写真は鶏林から見た月城です。


 雁鴨池は、674年に新羅の文武王が半島統一を記念して宮内に造られた園地です(次の写真)。出土品は、国立慶州博物館内の雁鴨池館に展示されていました。

ここには、日本の飛鳥京園地の石造水槽とよく似た導水の石造施設があります(次の写真)。


 瞻星台は月城の北にある石造の建築物で、天体観測と関連した施設と考えられています(次の写真)。善徳王時代(632〜647年)に築かれたようです(「授時頒暦は天子の大権」)。なお、パンフレットには、積み上げられた石の数は361個で陰暦の1年の日数と同じとありました。


 この地区一帯は世界遺産に指定されています。
Posted by katakago at 08:58
韓国歴史の旅2日目その1 [2011年10月30日(Sun)]
 2日目(10/24)は、新羅が存続していた間ずっと都があった慶州(新羅千年の都)の遺跡を訪ねました。写真掲載の制約(1ブログにつき5枚)があり、何回かに分けて報告します。

 寺院関係では芬皇寺跡と皇龍寺跡を見学しました。
芬皇寺は、善徳王3年(634)創建で、創建時の遺構は次の写真の石塔のみです。中国の磚塔を模倣して、壇上積基壇上に安山岩板石を積み上げて造られた石塔です(この中に舎利函が納められていた)。現在は三層に復元されています。



 芬皇寺の隣にある皇龍寺は、新羅仏教上、最重要で最大の寺院(完工は566年)で、再建伽藍は一塔三金堂式(中金堂、東西金堂、九重塔、中門、回廊、講堂)。次の写真は、中金堂基壇中央に残る丈六三尊像の石造台座と、木下先生による説明の様子です。


 次の写真は幢竿支柱


Posted by katakago at 08:01
韓国歴史の旅1日目(10/23) [2011年10月29日(Sat)]
 10月23日から4泊5日の旅程で、「飛鳥を愛する会」主催の秋季現地講座(韓国歴史の旅 − 金海・慶州・公州・扶余・益山)に参加してきました。同行講師は、「飛鳥を愛する会」会長の木下正史先生(東京学芸大学名誉教授)で、事前に訪問予定先に関する資料が配布されており、現地ではこれをもとに詳しい説明をして頂きました。
 筆者は、万葉集歌の鑑賞から入って当時の歴史にも興味をいだき、『古事記』、『日本書紀』の講座を受講し、更に「魏志倭人伝」を読み解く講座にも参加してきました。『万葉集』にも唐や新羅に派遣された人の歌が残されていますが、時代をさかのぼって更に古い時代から、中国大陸や朝鮮半島の国々との交流が行われてきました(倭国の時代の国内遺跡からその影響を受けたものが多く出土しています)。
 今回は、金官伽耶、新羅、百済の遺跡と、その出土品が展示されている博物館(慶州・扶余・公州・中央の各国立博物館)を訪れました。行程順にブログで紹介して行こうと思います(自らの知識の整理のためにも)。

 1日目は、午後に金海空港到着後、まず金海大成洞古墳を訪れ、木下先生の説明を受けながら、大成洞古墳博物館を見学しました。


 
[倭国との交流を示す事例]
 金官伽耶(狗邪国)は洛東江周辺の鉄鉱床を利用して早くから製鉄業を発展させ、紀元3世紀ころには、楽浪や帯方、馬韓、倭などに輸出していたようで、大成洞古墳群の木槨墓から出土している鉄鋌と同類のものが、弥生後期の西日本各地で出土しているとの事です。
 大成洞1号出土の馬冑と類似のものが、和歌山県大谷古墳から出土しているとの事です。
 広形銅矛は、弥生時代の倭国(北部九州)では祭祀具として用いられるのに対し、良洞里遺跡では、広形銅矛が墳墓に副葬されており使用例が異なるが、半島と接する対馬でのみ副葬例がありこの地域との関係の深さが示唆されています。



 その後慶州に移動し、金庾信将軍墓を見学しました。金庾信は、660年に、唐・新羅連合軍が百済の王都(扶余)を攻撃し、陥落させた新羅の将軍です(この年に百済滅亡)。金庾信は673年に79歳で薨じた。

 墓の全体写真と外護列石および護石に陽刻された十二支神像の一つを示しておきます(新羅のお墓の特徴)。




Posted by katakago at 17:10
東国万葉旅行(9/4その2) [2011年09月06日(Tue)]
 水沢観音近くで、昼食の水沢うどんを食した後、断続的に降る雨の中、最後の目的地子持山・子持神社(群馬県北群馬郡子持村)に向かいました。幸いバスを降りる頃には雨も止み、徒歩で片道1.5キロほどの子持神社を目指しました。


 子持神社に到着。

 この歌碑は、万延元年(1860)に建立されたものです。
この歌はモミジの若葉の写真と共に、5/14に紹介していますが、次に読み下し文と口語訳を載せておきます。
【歌】 子持山 若かへるての もみつまで 寝もと我は思ふ 汝はあどか思ふ (M-3494)
【口語訳】 子持山の 楓の若葉が 紅葉するまでも ずっと寝ようとわたしは思う おまえはどう思うかい


 歌碑の前で、坂本先生の説明を聞きました。この頃からまた雨が降り出し、笠をさしての下山となりました。


 今回の2泊3日の東国万葉旅行は、台風接近、西日本上陸という悪天候にも拘らず効率よく目的地を回ることが出来、また多くの万葉愛好者とも知り合え、大変有意義な故地探訪となりました。「万葉の大和路を歩く会」も今年で30周年を迎えましたが、今後もこのような企画を継続して頂きたいと願っています。機会を見つけては、参加して行きたいと思っています。
Posted by katakago at 12:46
東国万葉旅行(9/4その1) [2011年09月06日(Tue)]
 3日目(9/4)は明け方から激しい風雨で、バスを降りての散策が出来るか心配されましたが、出かける時間にも雨は止まず、雨合羽に笠をさしての移動となりました。伊香保温泉の「文学の小径」と伊香保神社境内にある万葉歌碑を見に出かけましたが、この天候では歌碑の写真も思うようには撮れません。まず、「文学の小径」内にある万葉歌碑の見学です。
【歌】 伊香保ろの 沿ひの榛原 我が衣に 着き宜しもよ ひたへと思へば (M-3435)
【口語訳】 伊香保嶺の そばの榛原の榛は わたしの衣に よく染まりつくよ ひとえだもの 上二句は、「着き宜し」を起こす序(榛の実は黒茶ないし黒色の染料に用いられた)。この歌は比喩歌で、『萬葉集全歌講義』では、「染色に用いられる榛原の木に女性を喩え、自分の衣服によく染まりそうだということで、私の妻に好適だという気持ちを表している」と解説されています(「ひたへ」は、一重の意。衣の縁語。女性の裏のない純粋な心を表す)。




 雨の中、急な階段を上って伊香保神社に着いたものの、歌碑の文字もはっきり読めない状況でした。写真は伊香保神社に参拝の様子。


 この後バスで榛名湖畔に向かいましたが、雨と霧のためお目当ての榛名富士の眺望は叶いませんでした。
 次いで、水沢観音(水沢寺、次の写真)付近にある万葉歌碑を目指しました。


 水沢寺駐車場の東端、道路沿いにある万葉歌碑です。
【歌】 伊香保ろの やさかのゐでに 立つ虹の 現はろまでも さ寝をさ寝てば (M-3414)
【口語訳】 伊香保の やさかの土手に 立つ虹のように 人目につくほど 寝られたからは (この下に、あとはどうなりとなれ、という成り行き任せの捨てぜりふが省略されている)


Posted by katakago at 11:40
東国万葉旅行(9/3その2) [2011年09月06日(Tue)]
 しもつけ風土記の丘(下野市国分寺付近、天平の丘公園)にある、故犬養孝先生の歌碑です。下野国の防人の歌で、読み下し文と口語訳は次のとおりです。
【歌】 松の木の 並みたる見れば 家人の 我を見送ると 立たりしもころ (S-4375)
【口語訳】 松の木の 並木を見ると 家人が おれを見送って 立っていたのとそっくりだ


 次は三毳神社(下都賀郡藤岡町)にある、コナラを詠んだ東歌の歌碑です。佐野市内にはこの歌の歌碑が他に三基ありますが、こちらが一番古いようです(昭和22年5月3日に日本国憲法制定を記念して建立)。この歌は、コナラの写真と共に5/15に紹介していますが、読み下し文と口語訳を載せておきます。
【歌】 下野 三毳の山の こ楢のす まぐはし児ろは 誰が笥か持たむ (M-3424)
【口語訳】 下野の 三毳の山の こ楢のように 可憐なあの娘は 誰に嫁ぐのだろうか



 次の歌碑は、佐野市栃本、唐沢橋西詰にある、「安蘇の川原」を詠んだ下野国の歌です。写真は歌碑の前で坂本先生による解説の様子です。
【歌】 下野 安蘇の川原を 石踏まず 空ゆと来ぬよ 汝が心告れ (M-3425)
【口語訳】 下野の 安蘇川の川原を 石を踏まずに 宙を飛んで来たよ おまえの気持を聞かせておくれ



 午後から雨が激しくなり、赤城山は断念し宿泊先のホテルの会議室での勉強会に変更となりました。この旅行用に作成されたテキストをもとに、坂本先生からこれまでの復習も兼ねて高橋虫麻呂の歌を中心に、約1時間ほど講義して頂きました。その後、参加者全員が自己紹介を行い、あらためて全国各地から参加されているのを知りました。コンベンションホールでの勉強会の様子です。

 夕食の席で、まず主催者の富田さん(全国万葉協会代表、万葉の大和路を歩く会事務局)の音頭で乾杯。引き続き楽しい食事と交流の場となりました。


Posted by katakago at 08:48
東国万葉旅行(9/3その1) [2011年09月06日(Tue)]
 2日目(9/3)は、大宝八幡宮(万葉歌碑)→しもつけ風土記の丘(万葉歌碑)→三毳(みかも)神社(万葉歌碑)→佐野市安蘇の河原(万葉歌碑)→赤城山・赤城神社(万葉歌碑)→伊香保温泉(泊)のコースです。
 まず歌碑がいくつか建立されている大宝八幡宮に向かいました。社伝では、大宝元年(701)の創建とされています。



 案内は、1日目に続き地元の大木さん(東歌研究会代表)にして頂きました。

 この歌碑は、昨日も坂本先生に説明して頂いた歌です。


 次の写真は、故犬養孝先生の書(昭和40年代頃?)をもとに最近建立された歌碑です。この歌はヒメサユリの写真と共に5/23に紹介していますが、読み下し文を次に掲載しておきます。常陸国の防人の歌です。
【歌】 筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも かなしけ妹そ 昼もかなしけ (S-4369)

【口語訳】 筑波嶺の さ百合の花のように 夜床でも いとしい妻は 昼間もいとしい


 このブログでは写真は一回に5枚までですので、続きは「その2」でお伝えします。
Posted by katakago at 07:57
東国万葉旅行(9/2その2) [2011年09月05日(Mon)]
 筑波山神社境内に万葉歌碑が建立されています。まず、宮司から神社の説明をして頂きました。写真は拝殿で、本殿は男体山、女体山山頂にあります。

次いで、地元の東歌研究会の代表である大木さんから境内の歌碑の説明をして頂きました(2枚目の写真)。


   筑波の岳に登りて、丹比真人国人の作る歌
鶏が鳴く 東の国に 高山は さはにあれども 二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を 冬ごもり 時じき時と 見ずて行かば 益して恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ我が来る (B-382)
【口語訳】 (鶏が鳴く) 東の国に 高い山は 数々あるが 男女二神の 貴い山で 並び立つさまの 見飽きない山だと 神代から 人が言い伝え 国見もする 筑波山を (冬ごもり) 国見の時節でないと 見ないで行ったら なお後悔するだろうと 雪解けの 山道なのに 苦労してわたしは来た



   筑波山に登る歌 (高橋虫麻呂歌集)
草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へは止みぬ (H-1757)
   反歌
筑波嶺の 裾回の田居に 秋田刈る 妹がり遣らむ 黄葉手折らな (H-1758) 
【口語訳】 (草枕) 旅のつらさが 紛れる こともあろうかと 筑波嶺に 登って見ると 尾花が風に散る 師付の田んぼに 雁も 来て寒々と鳴き始めたし 新治の 鳥羽の湖も 秋風に 白波が立っている 筑波嶺の この絶景を見ると 長い間 積もりたまっていた 不安は止んだ
(反歌) 筑波嶺の 裾の田んぼで 秋田を刈っている 女に遣るため 紅葉を折ろう


この歌碑は、故犬養孝先生の書をもとに最近建立されました。

 次の写真は、上記の歌に詠まれた「師付の田居」とされる場所で、坂本先生から解説して頂いている様子です。高橋虫麻呂は、仕えていた藤原宇合が常陸守になった時に東国に来ていた。この歌は、山讃めや国見系統の歌の様式に倣ったものであり、「わびしい否定的な景観、作者の、秋風落莫・孤独の心情を表すもの」とする見方(犬養孝)は、虫麻呂の時代として当たっていないとする考えを示されました。旅の憂いは、筑波嶺から見る見事な光景によって晴らされ、その反歌では、想像上の土地の女性が歌われています。

Posted by katakago at 19:08
東国万葉旅行(9/2その1) [2011年09月05日(Mon)]
 9月2日から2泊3日の旅程で、「万葉の大和路を歩く会」の特別万葉旅行に参加しました。筑波山(茨城県)、三毳・佐野(栃木県)、伊香保・赤城・榛名・子持(群馬県)方面の万葉故地を尋ねる旅です。久しぶりに出かけるので、農作業も早めに段取りをつけて楽しみにしていましたが、大型台風が接近する中での出発となりました。筆者は退職するまで長らく(三十数年)神奈川県横須賀市に居住していましたので、上記の万葉故地は、個人で訪れたこともありましたが、今回は、朝日カルチャーで受講している万葉講座の坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長、奈良女子大学名誉教授)が講師として参加される旅行でもあり、あらためて現地での解説を楽しみに出かけた次第です。「万葉歌を鑑賞するにはその歌が詠まれた風土と歴史に身を置いて」は故犬養孝先生の教えでもありました。
 台風にもかかわらず、全国各地(京阪神はもとより、北海道、広島、富山、広島、四国など)から計38名の参加者がありました。ここでは、まず1日目(9/2)に筑波山を訪れた様子をお伝えします。


 写真(2枚目は9/3撮影)は、車窓から見た筑波山です。山頂は男体山(約871m)と女体山(約877m)の二つの峰に分かれています。『常陸国風土記』には、「そもそも筑波岳は、高く雲中にそびえ、頂きの西の峰(男体山)はけわしく高く、雄の神といって登るのを許さない。ただ、東の峰(女体山)は四方が磐石で昇り降りはごつごつとしてけわしいけれども、その側を泉が流れていて冬も夏も絶えることがない。[足柄の]坂から東の国ぐにの男女は、春の花が開く時季、秋の木の葉の色づく時節に、手を取り肩を並べて続続と連れだち、飲み物や食べものを用意して持ち、騎馬でも登り徒歩でも登り、遊び楽しみ日を暮らす。」とあります(吉野裕訳『風土記』より)。当時筑波山では、特定の日に多数の男女が集まって、飲食・歌舞する習俗(性的解放を伴う)があり、これを嬥歌会(かがひ)といい(中央では歌垣といわれた)、筑波嶺に登って嬥歌会をした日に詠まれた歌(高橋虫麻呂歌集)も『万葉集』に載せられています。

 山頂へは、先ずつつじケ丘駅よりロープウェイ(幸いにも運行されていた)で女体山へ登り、徒歩で男体山に向かいました。


 山頂付近は一面の霧で、眼下に関東平野を望むことは叶いませんでしたが、記念の写真を同行の荒川さんに写してもらいました。
次の写真は女体山山頂の本殿です。


 女体山から、ガマ石(写真)を通り過ぎ、霧の中を男体山に向かいました。下山のケーブルの最終発車時間の関係で男体山の山頂には行けませんでしたが、筑波山へ登るというこの旅の当初の目的は達せられました。下山後、筑波山神社で、筑波が詠まれた歌の歌碑を前に説明を受けました。これは「その2」でお伝えします。
Posted by katakago at 17:00
今城塚古墳、古代歴史館 [2011年05月28日(Sat)]

 雨が本降りになる前に、高槻市にある今城塚古墳と高槻市立古代歴史館に出かけて来ました。もともと今日の午後に、梅花学園生涯学習センター特別企画(茨木観光協会と共催)の「茨木の歴史と文化ぶらり散歩」に参加して、茨木市内の太田茶臼山古墳(宮内庁はこれを継体天皇陵に指定)や高槻市の今城塚古墳などを訪ねることになっていました。ところが、9時過ぎに、大雨注意報が発令されているとのことで、この企画は中止になったとの連絡を受けました。そこで、折角予定していたこともあり一人で出かけた次第です。
 今城塚古墳は、淀川流域最大の前方後円墳で、日本最大級の埴輪祭祀場の跡が発見されています。『日本書紀』継体天皇条に、「藍野陵に葬りまつる」とあり(531年)、考古学界では、6世紀に造られた今城塚古墳が継体天皇陵だとされています。なお、太田茶臼山古墳は墳丘の形状や、円筒埴輪に含まれる石英の熱ルミネッセンス法による年代測定により5世紀の古墳と考えられています。


 古代歴史館には、出土した精巧な形象埴輪(高床の家・門・巫女・武人・水鳥・鶏・雄牛など)が展示され(写真撮影もストロボを発光しなければOKでした)、古墳公園として整備されている埴輪祭祀場では、復元埴輪で古代王権の儀礼の場が再現されています。


 
Posted by katakago at 17:05
初夏の飛鳥を巡る(5/17) [2011年05月18日(Wed)]
 昨日(5/17)、カルチャーセンターの日本書紀の講座を受講する仲間で、飛鳥に出かけました。このグループで“古代史ウォークに出かけるのは、前2回の山の辺の道に続きこれが3回目です(講師の先生も含め6名が参加)。今回は、行程の設定と現地での案内を担当しました。飛鳥へ出かけるのは、2月のMBSラジオウォーク、4月の若菜祭と今年になって3度目です。近鉄橿原神宮前駅に9:30集合で、まずバスで飛鳥資料館に向かいました。ここでは特別展「星々と日月の考古学」を見学しました。その後は、全て徒歩で、資料館→水落遺跡→甘樫丘(昼食)→飛鳥寺→伝飛鳥板蓋宮跡→亀形石造物→明日香民俗資料館(休憩)→石舞台→橘寺→亀石→鬼の俎板・鬼の雪隠→欽明天皇陵→近鉄飛鳥駅がゴール。途中、鬼の雪隠あたりで雨がぱらつき出したため、吉備姫王墓・猿石はスキップして、駅には16:15頃に到着。以下、いくつかの写真を掲載します。

 甘樫丘(標高148m)は、万葉ファンなら一度は訪れたことのある場所ですが、初めての方もいたのでここでは充分に時間をとりました。階段を登る途中に、犬養孝先生の最初の万葉歌碑(還暦を記念して建立)があり、ここで記念写真を撮りました。頂上からは、畝傍山・耳成山・香具山の大和三山をはじめ、畝傍山後方には二上山をのぞみ、東方眼下に、明日香村を一望できる素晴らしい場所です。周りの眺望を楽しみながら少し早めの昼食をとりました。歌碑の歌は、志貴皇子の、「采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたづらに吹く」 (@-51)です。
 


                  畝傍山、後方に二上山

                  東方、眼下に明日香村

 飛鳥寺は蘇我馬子が発願し、推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺(寺名は法興寺)。本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は、鞍作鳥(止利仏師)の作で、日本最古の仏像(火災により後補を受ける)。
 


 亀型石造物、小判型石造物は石槽となっており組み合わせて導水施設を構成。この遺構は斉明天皇の時代に造営、その後何度か改修された(身を清め国家存栄を祈念する祭祀の場か)。



 



 
Posted by katakago at 10:20
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