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万葉講座(猪名川万葉の会 公開講演会) [2018年09月03日(Mon)]
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 昨日、お隣の川辺郡猪名川町で万葉集の講座を開かれている「猪名川万葉の会」(代表野々村さん)主催の公開講演会があり出かけてきました(上の写真は1階ホールで展示されていた「兵庫の万葉歌」パネルより)。

 今回の講師は影山尚之先生(武庫川女子大学教授)で、「川を越える万葉びとー猪名川・武庫川ものがたりー」と題して講演されました。
 講演の様子
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 ここでは、講演前半の「万葉びとの川渡り」で触れられた歌の中から、いくつかを載せておきます。
行路難渋の例から
【歌】 武庫川の 水脈(みを)を速みと 赤駒の 足掻く激(たぎ)ちに 濡れにけるかも(巻七・1141)
【口語訳】 武庫川の流れが速いものだから、赤駒が足掻く水しぶきのために衣が濡れてしまった。
妻問いの例から
【歌】 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 年にもあらぬか(巻四・525 大伴坂上郎女)
【口語訳】 佐保川の小石を踏み渡り、(ぬばたまの)黒馬の来る夜が、一年中ずっとあればよいのに。
【歌】 千鳥鳴く 佐保の川門の 瀬を広み 打橋渡す 汝が来と思へば (巻四・528 大伴坂上郎女)
【口語訳】 千鳥の鳴く佐保川の渡り場の瀬が広いので、板橋を渡します。あなたが来ると思うから。
 ここで、作者の大伴坂上郎女を訪ねてくる相手は藤原麻呂(不比等の第四子)。
決意の渡河の例
【歌】 人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る (巻二・116 但馬皇女)
【口語訳】 人の噂がしきりなので煩わしく思って、私の生涯まだ渡ったことのない、朝川を渡ります。
 題詞には、「但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、ひそかに穂積皇子と関係を結び、そのことが露見してお作りになった歌」とあり、『新編日本古典文学全集 萬葉集』の頭注では、「川を渡るということは、止み難い恋の冒険、思い余って異性と情を通じるという寓意が認められる」と解説されています。
【歌】 世間(よのなか)の 女(をみな)にしあらば 我が渡る 痛背の川を 渡りかねめや (巻四・643 紀女郎)
【口語訳】 世の常の女であったら、私の渡るあなせの川を渡りかねることなどありましょうか
 題詞に「紀女郎の怨恨(うらみ)の歌」とあり、紀女郎は安貴王(あきのおほきみ)の妻と注記。
『新編日本古典文学全集 萬葉集』の頭注には、「作者はなまじ身分があるばかりに今のところ誘惑にかろうじて耐えているというのであろう」とあります。『萬葉集全歌講義』では、「通常の女性であったら自分の恋を成就させるために実行するであろう行為を、自分は踏み切れず自制してしまう悔しさを詠む」とあります。
   
Posted by katakago at 15:51
平成29年度 瀬戸内海文化を考える会 [2017年09月20日(Wed)]
 台風通過直後の18日から2日間、今年の「瀬戸内海文化を考える会」が開催されました。
 前日から台風の影響が気がかりでしたが、夜中に通り過ぎ交通機関への影響は気になったもののひとまずホッとしました。ただし、2日間留守にするため畑や裏山(民家のそばの立ち木)の様子が心配で、4時半頃まだ暗い中、懐中電灯を手に見回りに出掛けました。ざっと見まわったところ、レモンの木が倒れていたので支柱を立てて応急処置を行いました。この他これから収穫時期を迎える中生の栗(銀寄)のイガが青いまま落ちてしまっているのではないかも気になりましたが、暗くてよく分かりませんでした(帰ってから見てみると落ちてはいたものの思ったよりは軽微で一安心)。

 当日は岡山に8:30集合で、山陽新幹線の運行が心配でした。ジパング倶楽部で利用できる列車は限られるのですが、幸い予定どおり到着できました。集合場所では、この5月に植物園に来ていただいた大村先生はじめ呉市からの方々にも再会できました。
 今回のテーマは「古代瀬戸内海の旅と万葉歌」で、文化フォーラムとバス・クルーズ船による万葉ツアー(熟田津への旅)が行われました。

 <1日目>
岡山駅→「狭岑の島」(坂出市沙弥島)→「久米官衙遺跡」(松山市来住町)→道後温泉ホテル椿館 文化フォーラム(講演会)、湯神社・伊佐爾波神社参拝、懇親会

 台風一過の明石海峡大橋(沙弥島で)
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 沙弥島の柿本人麻呂碑で
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 なお、「狭岑の島」関連記事は次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1172


 久米官衙遺跡(松山市来住(きし)町)で柴田昌児先生(愛媛大学准教授)による解説
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 久米官衙遺跡群の説明パネル(松山市教育委員会)より
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 この回廊状遺構は7世紀後半に造られた大規模な区画施設で、このころの地方官衙(役所)で造られる例はほとんどなく、斉明天皇が筑紫に向かった際に立ち寄った石湯行宮(いわゆのかりみや)と関連付ける説もあるとのことです。
 久米官衙遺跡から出土した回廊状遺構の説明パネル
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 一日目午後の文化フォーラム(於 道後温泉 ホテル椿館本館)は、お二人の先生による講演会で、柴田昌児先生(愛媛大学准教授)が「古代瀬戸内海の海上活動と準構造船」と題して、坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長でこの会の代表)が「山部赤人の伊予の温泉の歌」と題して講演されました。 
 柴田先生による講演の様子
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 瀬戸内海地域の前期古墳は海上から見える場所に造られている(神戸の五色塚古墳など)との話は、同じく神戸の東求女(もとめ)塚古墳、処女(おとめ)塚古墳、西求女塚古墳と合わせて興味深いものでした。この三基の古墳は、海岸沿いにほぼ等間隔に築かれ、海に前方部を向けた中央の処女塚古墳に対し、東西の求女塚古墳はそれぞれ前方部を処女塚古墳に向けている(廣川晶輝著『死してなお求める恋心―「菟原娘子伝説」をめぐって―』より)。海上で船から見た光景を基に「葦屋(あしのや)の菟原娘子(うないおとめ)伝説」が生まれ、高橋虫麻呂、田辺福麻呂、大伴家持らが歌に詠んでいます。
 講演では、弥生時代後期から中世にかけての丸木舟とそれに舷側を付けた準構造船の話がありましたが、坂本先生から、万葉歌に「棚なし小舟」や、「船棚打ちて」などと詠まれている例があることを紹介されました。
【歌】 いづくにか 船伯てすらむ 安礼(あれ)の崎 漕ぎたみ行きし 棚なし小舟 (巻一・58 高市連黒人)
【歌】 奈呉の海人の 釣する船は 今こそば 船棚打ちて あへて漕ぎ出め (巻十七・3956 秦忌寸八千島) 
 船棚は船の舷側の横板で、「船棚打つ」は豊漁を願った呪術か(坂本先生)。

 坂本先生による講演の様子
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 とりあげられた歌は、題詞に「山部宿祢赤人、伊予の温泉(ゆ)に至りて作る歌一首并せて短歌」とある次の歌です。
【長歌】 天皇の 神の命の 敷きいます 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宜しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変はらず 遠き代に 神さび行かむ 行幸所(いでましどころ) (巻三・322)
【反歌】 ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく (巻三・323) 
 作者山部赤人の出自から始まり、解釈の定まってはいない「伊予の高嶺」についてや、赤人が想起し偲んだ故事についてなど解説されました。

 フォーラムが終わって夕食までの時間を利用して、近くの湯神社と伊佐爾波(いさにわ)神社に参拝しました(写真は神社に向かう階段)。
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 懇親会の会場で挨拶される坂本先生
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 <2日目>
ホテル出発(8:00)→愛媛県護国神社(額田王の万葉歌碑)→軽太子(かるのおおみこ)・軽大郎女(かるのおおいらつめ)をまつる「軽之神社」(松山市姫原)→「久枝神社」藤原純友の駒立岩および「額田王の万葉歌碑」(松山市古三津)→三津埠頭より乗船→御手洗島散策→大三島「大山祇神社」参拝→三原港

  額田王の熟田津(にきたつ)の万葉歌碑
 熟田津の所在についてはいくつかの説がある中で、その一つの御幸寺(みきじ)山麓付近に比定する説に基づき、近くの護国神社境内(松山市御幸)に歌碑が建立されている。 
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 古三津(ふるみつ)・三津浜説に基づき、久枝神社境内(松山市古三津)に建立された歌碑
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【歌】 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許芸乞菜 (巻一・8)
【読み下し文】 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
【口語訳】 熟田津で 船出をしようとして 月の出を待っていると 潮も幸い満ちて来た さあ漕ぎ出そうよ
 「潮もかなひぬ」は、この辺りは潮流が変化する所で午後11時ごろに転流し、西海への航行に都合のよい潮の流れになったとする説がある(坂本先生の講演で)。 
 なお、左注には、『類聚歌林』を引用し、「斉明天皇七年(661)正月6日、天皇の船は海路筑紫に向かって出発した。船は伊予の熟田津の石湯(いわゆ)の離宮に泊った。天皇は夫君舒明天皇と来られた時の風物が昔のまま残っているのをご覧になって、すぐ懐かしく思われた。そこで歌を作られ悲しみの気持ちを表された」とあり、この歌の作者を斉明天皇とする説もある。  
 久枝神社に奉納された熟田津船出の絵 
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 古事記歌謡(84,87)の歌碑 
 『古事記』允恭天皇条では、軽太子と軽大郎女の恋物語は、太子の穴穂皇子(後の安康天皇)との皇位争いの敗北の裏側にあったものとして語られる(『新編日本古典文学全集 古事記』の頭注より)。物語では、軽太子が同母妹との密通発覚で捕らえられ伊予の湯(道後温泉)に流される。離れ離れになった軽大郎女は太子の後を追って伊予の国に行くが、最後はそこで一緒に死んでしまう。この歌碑に採られた軽太子の歌は、
【歌】 天飛ぶ 鳥も使そ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね (84)
【口語訳】 空飛ぶ鳥も言通わす使いなのだ。鶴の声が聞こえる時は、私の名を言って私のことをお尋ねください
軽大郎女の歌は、
【歌】 君が往き 日長くなりぬ 造木(やまたづ)の 迎へを行かむ 待つには待たじ (87)
【口語訳】 あなたがお出かけになってずいぶん日がたちました。(造木の) お迎えに参りましょう。これ以上待ちません。
 軽之神社(松山市姫原)奥にある歌碑 
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 歌碑の前で坂本先生の解説を聴く
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 なお、『万葉集』には、磐姫皇后の歌として、次の歌が載せられています。
【歌】 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ (巻二・85)
【口語訳】 君の行幸は 久しくなりました 山を尋ねて お迎えに参りましょうか ひたすら待ちましょうか


 松山を離れる前に、道後温泉にもふれておきます。
 道後温泉本館
朝食前(午前6時ごろ)に訪れましたが、早くも入浴客が見られました。
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 道後温泉本館にある湯釜銘に関する資料(道後温泉本館にて入手) 
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 松山には平成7年(1995)に休暇を利用して日帰りで訪れたことがあります(退職するまでは横須賀に住んでいました)。その時、市内にある万葉歌碑を捜し歩き、道後温泉本館の湯にも浸かったことがあります。
 当時の搭乗券半券と道後温泉入浴券
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 道後温泉本館 神の湯男 東側浴槽湯釜の絵ハガキ(当時購入したものが残っていました)
昨日坂本先生の講演で取り上げられた、山部赤人の伊予の温泉の歌(巻三・322、323)がこの湯釜に刻載されています(当時入浴時に見ることが出来ました)。
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 11時ごろチャーター船で三津埠頭を出発、御手洗島に立ち寄り昼食と散策の後、大三島の大山祇神社へ向かいました。
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 大三島の宮浦港へ到着
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 大山祇(おおやまづみ)神社
参拝した後、国宝館・海事博物館を観覧しました。
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 拝殿
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 御朱印
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Posted by katakago at 21:42
「死」と「葬儀」を考える(岡本寺 二十五三昧会) [2017年08月28日(Mon)]
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 昨日、観瀧山 岡本寺(川西市平野、曹洞宗)で、第49回二十五三昧会の講演会があり参加しました。これまでは妻が岡本寺護持会の会員として何度か参加していましたが、私は今回初めて参加しました。「死と葬儀を考える」と題して、住職の平田信活 師(川西市仏教会会長でもある)が”講演されました。私自身70歳を過ぎてから”終活”を意識するようになり、今回の話題は大変関心がありました。
 講演では、住職ご自身の看取りの体験を話され、また、事前に行われたアンケート結果(参加者の親を看取った時の体験や自身の葬儀についての考えなど)もいくつか紹介されました。

 ”終活”とは、現在では「人生のエンディングを考えることを通じて自分を見つめ、今をよりよく自分らしく生きる活動」の事と言われています。これを機に自分に与えられた時間(あと何年生きられるかは分かりませんが)をどのように過ごすかあらためて考えてみようと思っています。差し当たっては、10年ほど前に始めた猪名川万葉植物園の活動記録を形あるものにしておきたいと思っています。そして、3人目の孫が生まれその成長を見守りたい思いがあります。




Posted by katakago at 15:49
全国万葉フォーラム in 飛鳥 2017 [2017年07月30日(Sun)]
  昨日(7/29)から、奈良県明日香村で全国万葉協会主催の万葉フォーラムが開催されました(昨年は鞆の浦で)。一日目はシンポジウムと万葉交流会、翌日は万葉故地探訪バスツアーです。今年は都合でシンポジウムのみに参加しました(会場は奈良県立万葉文化館)。
 シンポジウムでは「万葉の文化力 現代に生きる万葉集」をテーマに、藤原茂樹先生(慶應義塾大学名誉教授)と坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)のお二人が講演されました。 

 藤原先生は「遊びと日本人ー万葉びとの遊びと競技」と題して話されました。『日本国語大辞典』より遊びの語義について述べられ(思うことをして心を慰めること。狩猟、遊宴や行楽、遊戯などで楽しむこと。詩歌、管弦、舞などを楽しむこと。)、和歌森太郎著『遊びの文化史』についても紹介されました(古代には、神ゴトー宗教的信仰、呪術や占いとかかわりを深くもちながら、いわゆる遊びとといわれるものが行われていた)。万葉歌関連で紹介された中で、ここでは次の打毬(うちまり)と鵜飼について触れておきます。
打毬について】
 巻六・948・949の歌の左注に、「右は、神亀四年正月、数(あまた)の王子(みこ)と諸臣子等、春日野に集ひて打毬の楽(たのしび)を作(な)しき。その日、忽ちに天陰り雨降り雷電(いなびかり)し、この時に、宮の中に侍従と侍衛となかりき。勅して刑罰を行ひ、皆授刀寮に散禁して、妄りに道路に出づること得ざらしむ。時に、悒憤(いふふん)して即ちこの歌を作りき。作者未だ詳らかならず。」(春日野で打毬に興じ、宮中に侍ることを怠った罪で、多くの皇族・臣下が授刀寮に軟禁された時に、そのうちの誰かが作った歌)とあります。 
鵜飼について】
【歌】 もののふの 八十伴の緒の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 渋谿の 崎たもとほり 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮けすゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群騒き 島廻には 木末花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥 二上山に 延ふつたの 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと (巻十七・3991 大伴家持)
 「鵜川立ち」は鵜飼をするの意で、一人一鵜使いの徒歩による徒歩鵜(かちう)で、夏季に限らず、夜間にも限らなかったようです。
講演される藤原先生
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 坂本先生は、「万葉文化と現代」と題して講演され、その中で、『万葉集』という古典作品についての理解はあまりなく、特に若者の古典離れを危惧されていました。その理由として、古典文法教育による古典離れ、受験勉強による古典教育の軽視などが挙げられていました。
 私は、10年ほど前に『手づくり 万葉植物園の四季』を自費出版した際に、植物を通して万葉集に親しんでもらえればと、近隣の高等学校数校に本を寄贈したことがありますが、一校のみ校長から礼状のハガキがあった他は、何の反応も無かったことを改めて思い出しました。
 

 鼎談の様子(万葉衣装で登壇された、左から富田万葉協会会長、坂本先生、藤原先生)
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 万葉協会役員の発声で次の万葉歌六首を犬養節で朗唱しました。
@ 采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたづらに吹く (巻一・51 志貴皇子)
A 石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (巻八・1418 志貴皇子)
B 山川も 依りて仕ふる 神ながら 激つ河内に 船出せすかも (巻一・39 柿本人麻呂)
C み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも (巻四・496 柿本人麻呂)
D 春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子 (巻十九・4139 大伴家持)
E 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (巻一・8 額田王)
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Posted by katakago at 18:11
立命館大阪プロムナードセミナー(7/3) [2017年07月05日(Wed)]
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 立命館大阪梅田キャンパスでは大阪・京都文化講座が開講されており、前期のテーマは「大阪・京都の『一大事』ー災害・動乱・革新ー」で、一昨日はその最終回(第8回目)が開催され受講しました。今回の演題は「大塩事件ー鎮圧にかかわった武士ー」です(演者は京大人文科学研究所の岩城卓二教授)。

 大塩事件は、天保八年(1837)二月、大坂町奉行所元与力大塩平八郎が大飢饉に対して有効な策を講じない幕府に怒り、その門人らとともに挙兵するも幕府軍によって鎮圧された事件です。

 一昨年に『木田家のルーツを尋ねるー石碑の銘文に導かれてー』を自費出版した後も、関連情報の収集を続けていますが、その中で、大坂の両替商(鉄屋)がこの大塩の乱で被害に遭った記事を見つけていました(「長濱屋八之助が見聞の記」『浮世の有様 4(国史叢書)』)。「豪富の大家を目掛け、數十ケ所大筒を打込み廻候」とある中で、今橋通りの鴻池善右衛門・天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛などと共に、船場の鐵屋庄右衛門の名も出ています(鉄屋9代目の木田重興の頃か)。そのようなわけで今回の話題には関心がありました。

 この講演では、鎮圧で武功を立てその後の人生が大きく変わったひとりの武士ー水野正左衛門ーに焦点が当てられました(事件前の大坂鈴木町代官所の元締手代から反乱鎮圧後の天保8年10月には御勘定所普請役格(手付)に昇進、嘉永7年に亡くなった時は箱館奉行支配組頭永々御目見以上に昇進、嫡男が水野家を相続)。
 東京都文京区白山の蓮華寺には、「箱館奉行支配組頭水野君墓表」が建てられておりその履歴が刻まれているとのことです。大塩事件とこれに影響を受けて能勢郡で起こった一揆(能勢騒動)の鎮圧に水野が関わった仔細は、水野が書き残していた手紙の解読により明らかにされました(岩城教授のご研究)。水野は大坂鈴木町代官所に異動する以前は石見大森代官所の手代として赴任しており、その折り知り合った石見大森の商人熊谷三左衛門に宛てた手紙に大塩事件の事が書かれており、一次史料としての手紙を用いての講演は大変興味深いものでした。

Posted by katakago at 18:30
川西市仏教会の「法話の会」 [2017年06月24日(Sat)]
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 一昨日、川西市仏教会主催の講演会があり参加しました。この会は、高野山真言宗・真言宗御室派・真宗大谷派・浄土宗・浄土真宗本願寺派・日蓮宗・法華宗真門流・曹洞宗・臨済宗妙心寺派の計33ヵ寺からなる宗派を超えた仏教ネットワークで、全国的に見ても珍しいとのことです。
 木田家のルーツを調べる過程で、先祖の一人木田種重が白隠禅師(臨済宗中興の祖と呼ばれている)を信奉し参禅していたことが分かり、これまで白隠関係のシンポジウムにも参加し、それがきっかけで広く仏教関係の講演にも興味を持つようになりました。
 今回は第11回目で、法話は「絵巻で見る親鸞聖人の生きた時代」(講師は浄土真宗本願寺派 常忍寺の葛野公明 師)と「忘れ去られた郷土の偉人 忍性菩薩」(講師は真言宗御室派 常福寺の向井恵峰 師)の二題でした。
 二つ目の話題の忍性(にんしょう)は、建保五年(1217)生まれの鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧で、房名(通称)は良観、嘉元元年(1303)に死去、嘉暦三年(1328)に後醍醐天皇により忍性菩薩の尊号を勅許された。貧民やハンセン病患者などの社会的弱者の救済に尽力したことで知られる。
 今年は生誕800年にあたり、映画「忍性」の上映も予定されています(9/20 みつなかホール文化サロン)。
 当日配布の資料によれば、15歳で仏門に入り後に西大寺叡尊の弟子となり(22歳)、42歳の時鎌倉幕府に請われ極楽寺を創建、建治元年(1275)58歳の時摂津多田院別当に就任し復興に努めたとあり、地元の多田院(現 多田神社)にも関係のある人物であることを知りました。
 
 秋には(10/25)、「みんなで歩こう川西市寺院めぐり」(多田盆地の東半分を歩く)が計画されており、スケジュールが合えば参加してみたいと思います。
Posted by katakago at 20:02
万葉講座(猪名川万葉の会 公開講座) [2017年06月11日(Sun)]
 昨日参加した万葉講座(猪名川万葉の会主催)の記事を載せておきます。猪名川万葉の会(代表は野々村さん)では、岡本三千代さん(犬養万葉記念館館長)を講師に、毎月定例の講座が開催されていますが、今回は公開講座として、服部保先生(兵庫県立大学名誉教授)による講演会が開催されました。演題は、「万葉集の植物・植生と『ゐな』について」です。
 万葉歌には160種ほどの植物が生育地の記録と共に詠まれており(約1650首)、その解析(植物相、同じ歌に詠まれている種の組み合わせ、植物と生育地の組み合わせなど)により、植物生態学の視点から万葉時代の植生景観について考察しようとする内容で、大変興味深く拝聴しました。
  
 講演会場の様子
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Posted by katakago at 15:08
大阪府立大学公開講座(万葉の道を歩く 18) [2017年06月06日(Tue)]
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 先日(6/3)、大阪府立大学でシリーズ「万葉の道を歩く」の18回目の講演会があり聴講しました。「万葉の神々ー神話と歴史のあいだを読むー」と題して、村田右富実先生(この四月から関西大学教授)が講演されました。
 実質的な「万葉の時代」は、舒明天皇(即位は629年)から天平宝字三年(759)の大伴家持最後の歌までのほぼ130年間とされています。講演では、この間、「神」がどのように歌われているか、柿本人麻呂歌集(万葉歌の中でも古い歌が載っている)歌で詠まれた神(庶民の崇める自然神・地祇)について、人麻呂作歌の神(天皇神格化表現ー大君は神にしませばー)について、人麻呂の吉野讃歌(持統天皇の吉野行幸時)と笠金村の吉野讃歌(聖武天皇の吉野行幸時,725年)の表現の比較、万葉末期(家持の時代)に詠まれた神について、それぞれの歌を取り上げて解説されました。

 講演会場(なかもずキャンパスUホール白鷺)の様子
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 柿本人麻呂の天皇神格化表現についてのメモを残しておきます。
【歌】 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも (巻三・235)
では、天皇神格化表現として「大君は神にしませば」とあり、他の作者も含めほかに4例(巻二・205、三・241、十九・4260、十九・4261)あり、その対象はいずれも天武・持統天皇と天武天皇の皇子(忍壁・長・弓削皇子)に限られています。
 持統天皇の吉野行幸の際の人麻呂の吉野讃歌(巻一・36〜39)に関し、『新編日本古典文学全集 萬葉集』の頭注によれば、「天武天皇の代に至って、天皇の政治的地位を高め、現人神として天下を支配する力を万民に認めさせるため、自ら天つ神の直系の子孫と称し、庶民の崇める自然神・国つ神(地祇)より上位に置いて、宗教面でも絶対的な地位にあることを示そうとした。この歌は、供奉する者の代表とその立場から、国つ神の奉仕するさまを述べて帝徳を讃えた柿本人麻呂の代表的な作品」とあります。
 人麻呂の「やすみしし我が大君神ながら神さびせすと(わが大君が神であられるままに神らしく振る舞われるべく)」から、聖武天皇の吉野行幸時の笠金村の吉野讃歌(巻六・920〜922)では天皇の行為を叙しその威徳を讃美する表現はなく、歌われている「神」も「天地の神をそ祈る」と天地の神(この世のすべての神様)に戻っています。

 
Posted by katakago at 11:09
第一回とっとり弥生の王国シンポジウムー倭人の食卓 [2017年03月20日(Mon)]
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 18日付けの日本海新聞朝刊で、第一回とっとり弥生の王国シンポジウム「倭人の食卓」がこの日の午後に開催されるとの記事を見つけ、折角の機会でもあり出かけてきました(鳥取県埋蔵文化財センターの主催)。鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(紀元前4世紀頃〜紀元3世紀の弥生時代)から出土した食材(植物種子、動物や魚の骨)を基に弥生人の食に関して講演とパネル討議が行われました。
 
 佐々木 由香さん(とっとり弥生の王国調査整備活用委員会調査研究部会委員)による「倭人の食卓ー弥生の青果」と題して行われた講演では、古人骨に残存するコラーゲン(タンパク質の一種)の化学成分分析により、何からタンパク質を得ていたかを判断できるとの発表は大変興味がありました。炭素と窒素に含まれる元素の同位体は食物の種類によって割合が異なる(海産物には重い同位体が多く、草食動物やイネなどのC3植物は少ない)。この分析手法によると、青谷上寺地遺跡の人々の食生活は、C3植物・草食動物と海生魚類の間に位置する(陸の資源と海の資源をバランスよく摂取していた)とのことでした。 

 シンポジウムの様子
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Posted by katakago at 20:22
近世呉服商経営(阪大21世紀懐徳堂講座) [2017年02月27日(Mon)]
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 昨日(2/26)、大阪大学21世紀懐徳堂講座が、「近世呉服商経営のダイナミズム〜ただ金銀が町人の氏系図になるぞかし」と題して開催され参加しました。自費出版本の執筆で江戸時代の両替商について調査したことがあるので、興味がありました。
 公開講座では、鈴木敦子さん(阪大大学院経済学研究科)が、「空前絶後の大安売りー三井越後屋改鋳奮戦記ー」と題して講演され、その後、鈴木さんと高田 郁さん(作家、著書に『銀二貫』,『あきない世傳 金と銀』等)による公開対談が行われました。

 鈴木さんの講演では、江戸中期(元禄〜元文期)の幕府による貨幣政策(度々貨幣改鋳が行われた)のもと、商業活動がどのように営まれたか、三井越後屋(呉服と両替)を例にして、どのように対応したかについて話されました。その一例をあげておきます。元文元年(1736)の改鋳では、増歩(ましぶ)が古金100両 → 新金100両+65両増歩となり、新旧貨幣の引き換えが始まる6月15日に、三井越後屋は現銀掛け値なしのセールを行った(この時、江戸・大坂で大量の配り札(チラシ)が配られ各店大盛況)。三井越後屋にとっては、販売で古金を多く回収できればその分、増歩で利益が得られることになる。大変興味深いお話でした。

 後半の対談は、水野晶子さん(MBSアナウンサー)の進行のもとに行われました。高田さんの時代小説は、入念な取材に基づいて時代考証がなされており、最新作の『あきない世傳 金と銀』も話題に、創作と学術的な研究活動について語られました。
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白隠禅師シンポジウム(2/18 東京) [2017年02月20日(Mon)]
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 一昨日(2/18)、東京で「白隠禅師シンポジウム」が開催され出かけてきました(大手町 日経ホール)。今年は日本臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師250年遠諱にあたり、昨年も記念行事(京博と東博での特別展や龍雲寺でのシンポジウムなど)が開催され参加してきました。今回は「白隠さんと私」をテーマに、芳澤勝弘先生(花園大学国際禅学研究所顧問)が漢文語録の『荊叢毒蘂』について、横田南嶺老師(臨済宗円覚寺派管長)が仮名法語の『夜船閑話』について解説され、その後、細川晋輔師(龍雲寺住職)の司会でお二人の講師の対談が行われました。
 白隠禅師は本来の仏教の教えとされる「いかに生きるべきか」を示すために、一般庶民に向けては多くの禅画(1万点を超えるとも)を描き、弟子たちには漢文語録を残しています。
 以前の記事にも書いていますが、祖先の一人木田種重(鉄屋の六代目)が初代鉄屋庄左衛門(木田院月桂秋圓居士)の100年忌にあたり、白隠禅師に石碑の銘文を書いてもらっています(石碑は大阪谷町9丁目の大仙寺にある)。その碑文(木田院碑)が『荊叢毒蘂』の巻七に掲載されており、その訓読・口語訳についてこれまで芳澤先生にご教示いただいてきました(それらの内容は自費出版本『木田家のルーツを尋ねるー石碑の銘文に導かれてー』に掲載)。そのご縁で今回の講演も興味がありました。
 生前に自らの語録を出版し、それをテキストとして講義した例は白隠以外には例がないそうで、『荊叢毒蘂』の初版(含章亭蔵版)には、講義を聴いた人の書入れが残されており、芳澤先生によるとこれが訓読・口語訳する上で非常に役立ったとのことです。講演ではいくつか具体例を解説していただきました。

 横田管長は、江戸時代にわが国で初めて「健康」という語句を用いた(初出は『於仁安佐美(おにあざみ)』)白隠禅師の仮名法語の『夜船閑話(やせんかんな)』をもとに、「内観の法」について話されました。
(以下、2/26追記)
 白隠禅師は『夜船閑話』序で、「もしこの法によっていくら長生きしたところで、ただ生きているだけならば、死骸のごとき肉体の番をしている幽鬼のようなものではないか。ふる狸が穴の中で眠りこけているようなものではないか。(中略) それよりは、四弘誓願による菩提心を奮い起こし、仏法の教えを説き、不生不滅、不退にして金剛堅固の真の法身を成就しようではないかと。」と述べています(芳澤先生の訳注より)。

なお、白隠禅師関連の記事は下記のURLに載せています。
自費出版本については、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1060 
京博特別展の記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1103
龍雲寺でのシンポジウムの記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1178
白隠禅師の書については、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1194


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講演会(万葉の道を歩く 17) [2017年01月28日(Sat)]
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 一昨日(1/26)、6年前から大阪府立大学で始まった講演会「万葉の道を歩く」の第17回目が開催され参加しました(会場が狭いため午前午後の二回に分けて開かれ私はその午前の部に出席)。今回は、「柿本人麻呂の亡妻挽歌をよむ」と題して、村田右富実先生(大阪府立大教授)が講演されました。
 題詞に「柿本朝臣人麻呂、妻が死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首」とあることより、「泣血哀慟歌」と呼ばれ、第一歌群(巻二・207〜209)、第二歌群(210〜212)、第二歌群の異伝(213〜216)からなり、この歌群は多くの万葉研究者に取り上げられているようです(研究者の人気投票をするとNo.1にあげられるとのこと)。この歌群については、これまでも何人かの先生方の講演を聴いていますが、今日の講演では、第一歌群(長歌と反歌)を中心に詳しく分かり易く解説していただきました。

 講演会場の様子
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 今回の講演会では、本題とは直接関わらないのですが、前段で、万葉歌の表記と訓に関連する韓国の玩具「樗蒲(かりうち)」を紹介されました。
 写真は講演中に回覧された盤上遊戯「樗蒲」に使用される裏表のある4本の棒
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万葉歌では、「折木四、切木四」と書いて「かり」、「諸伏」と書いて「まにまに」、「一伏三起、一伏三向」と書いて「ころ、ごろ」、「三伏一向」と書いて「つく、づく」と読み解かれており、これは写真の4本の棒の目の出方に基づく。「万葉歌の表記と韓国の玩具 柶戯(ユンノリ)」について、以前(2015/1/28)の記事に載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/950

 『和名類聚抄』にある「樗蒲(ちょぼ、和名 かりうち)」は、現在も韓国で遊ばれているゲーム「ユンノリ」と関係が深いと考えられています。2年前の新聞記事(2015/5/22)は、平城京跡南側の遺構で1989年に見つかっていた土師器の皿(8世紀前半)が、その「ユンノリ」に似たゲーム盤に使われていた可能性があるとの、奈良文化財研究所の発表を報じています。万葉歌の研究成果と合わせ、古代日本に「樗蒲」というユンノリに似た盤上ゲームが行われていたと推定されています。詳細は、奈良文化財研究所ホームページの『古代の盤上遊戯「樗蒲(かりうち)の復元』に載っています。
http://repository.nabunken.go.jp/dspace/handle/11177/5571

Posted by katakago at 15:30
講演会「猪名川上流域の遺跡」 [2016年12月28日(Wed)]
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 先日(12/25)、「新発見 猪名川上流域の遺跡ー新名神高速道路調査成果から―」と題して、講演会とミニシンポジウムが開催され(於 川西市中央公民館)、聴講しました。
 写真は「ヤマト政権成立時における猪名川ルートの重要性」と題して基調講演される福永伸哉先生(大阪大学大学院教授)。4世紀〜6世紀にかけて、猪名川流域とその近傍(長尾山丘陵、池田、待兼山丘陵、豊中台地、猪名野)には多数の首長墓が存在し、ヤマト政権はこれらの勢力と連携して、摂津から北上して日本海に至る南北ルート(半島から鉄を入手する経路として)を開拓していた可能性について触れられた。考古学的知見では、猪名川流域で突線鈕式銅鐸が多く出土しており(川西市の栄根遺跡からは1mを超える銅鐸が出土)、同じ形式のものが北近畿の由良川や円山川流域からも見つかっているとのことです。そこでこれらの地域は弥生時代後期から既に交流があったのではないかとみられています。今後、これらの中間にあたる丹波地方などでも銅鐸が発見されるか注目されます。
 
 新名神高速道路建設に伴う発掘調査は、(公財)兵庫県まちづくり技術センターにより続けられてきており、2年前にも途中経過の報告が川西市で行われています。調査地区が川西市北部と猪名川町にまたがることより、今回は両市の教育委員会の共催で開催されました。
 調査報告で興味があった点は、
・猪名川町の広根遺跡西側の観音寺遺跡から石器(刃器、石鏃)が出土(猪名川町最古の人類の痕跡)・・・報告は別府洋二氏
・石道才谷・堂ノ後遺跡が奈良時代に存在した官営牧場の「畦野牧」の可能性について・・・報告は久保弘幸氏(前回報告記事にも掲載)

 シンポジウムに参加された方々
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2年前の講演会の記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/893
福永先生の関連講演の記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/676
Posted by katakago at 19:34
平成28年度 瀬戸内海文化を考える会 [2016年11月15日(Tue)]
 先週後半(10−12日)、今年の「瀬戸内海文化を考える会」の行事(文化フォーラムと万葉ツアー)が、長崎県対馬市と壱岐市で開催され出かけてきました。一昨年の淡路島、昨年の太宰府市に続いての参加です。帰って翌日は来月10日に控えた尺八演奏会のリハーサルがあり、記事を書くのが遅くなりましたが、以下写真とメモを残しておきます。
【1日目 文化フォーラム】
  対馬交流センターで開催された文化フォーラムでは、お二人の先生が講演されました。
 山田洋嗣先生(福岡大学教授)の演題は「対馬宗家文庫本『歌枕名寄』の不思議」。『歌枕名寄』は、『万葉集』以下の和歌に詠まれてきた地名のすべてを網羅して作られ、対馬宗家文庫本のそれは、奥書によれば室町時代末の永禄十二年(1569)に書写されたもので、対馬の地名が詠まれた歌には、対馬の地誌を実地に知っている江戸期とみられる人の書入れがあり興味深いお話でした。
 内田賢徳先生(京都大学名誉教授)の演題は「壱岐・対馬の万葉集歌」。『万葉集』巻十五の前半には遣新羅使人の歌145首が置かれ、壱岐で詠まれた歌9首(3688〜3696)、対馬で詠まれた歌21首(3697〜3717)があり、それらの歌について解説されました。この時の遣新羅使は天平八年(736)で、壱岐島で一行の一人雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が悪病に罹って亡くなり、新羅では使いの旨を拒否されるという侮辱的な扱いを受け、帰国途中に大使阿倍朝臣継麻呂が対馬で亡くなり、副使の大伴宿祢三中は病気に感染して入京が遅れた(『続日本紀』)。
 翌日以降の万葉ツアーでは、壱岐で詠まれた雪連宅満の死を悼む挽歌の歌碑や宅萬の墓とされる場所を訪れ、対馬でも歌が詠まれたゆかりの地と歌碑を訪ねました。 
 内田先生の講演の様子
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【2日目 万葉ツアー 対馬】
 万関橋北詰の萬葉歌碑(対馬市美津島町久須保)
【歌】 潮干なば またも我来む いざ行かむ 沖つ潮さゐ 高く立ち来ぬ (巻十五・3710)
【口語訳】 潮が干たら またわたしは帰って来よう さあ出かけよう 沖の潮鳴りも 音高くなってきた
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 万関橋からの眺め(この橋は旧日本海軍が明治33年に掘削した人工の瀬戸に架かり対馬の上下島を結ぶ)
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 竹敷の宇敝可多山(うへかたやま)の歌碑(対馬市美津島町竹敷)
【歌】 竹敷の 宇敝可多山は 紅の 八入の色に なりにけるかも (巻十五・3703 少判官)
【口語訳】 竹敷の 宇敝可多山は 紅染めの 八(や)しおの濃さに 染まったなあ 
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 平舘英子先生(日本女子大学名誉教授)による解説の様子
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 竹敷の浦の万葉歌碑(対馬市美津島町 上見坂展望台)
【歌】 竹敷の 浦廻の黄葉 我行きて 帰り来るまで 散りこすなゆめ (巻十五・3702 大判官)
【口語訳】 竹敷の 湾内の紅葉よ わたしが新羅へ行って 帰って来るまで 散ってくれるな決して
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 竹敷の浦に停泊した時に詠まれた歌は18首あり、これら2首の前に次の副使の歌がある。
【歌】 竹敷の 黄葉を見れば 我妹子が 待たむと言ひし 時そ来にける (3701)
【口語訳】 竹敷の 紅葉を見ると いとしい妻が お待ちしていますと言った その時が来たのだなあ
 他にも秋の帰国が予定されていたことを示す、「秋さらば相見むものを」(3581)や「秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ」(3586)ながあり、いまだ新羅に向けて渡海できないでいるうちにその時が来てしまったことを嘆いている。

 対馬グランドホテル玄関そばの万葉歌碑(対馬市美津島町鶏知甲)
【歌】 百船の 泊つる対馬の 浅茅山 しぐれの雨に もみたひにけり (巻十五・3697)
【口語訳】 多くの船が 泊る津の島ー対馬の 浅茅山は しぐれの雨で 紅葉してしまった
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 和多都美(わたづみ)神社(対馬市豊玉町仁位) 御祭神は彦火々出見尊と豊玉姫命
 珍しい三角形の鳥居と後方に社殿
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 海の中の鳥居
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 和多都美神社の奥にある磐座(いわくら)
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 万松院(対馬市厳原町)
対馬を統治した宗家の菩提寺で、寺号は19代義智(よしとし)の法号万松院に因る。
 墓所に至る石段(百雁木と呼ばれる)
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 中興の祖とも評される21代(三代藩主)義真(よしざね)と夫人の墓
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 壱岐に向かうフェリーから見た夕日
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【壱岐】
 2日目の夕食会場の様子
 懇親会の席では会の代表の坂本信幸先生が司会をされ、大村一郎氏(神奈川県立横浜第一中学校時代に犬養先生の授業を受けられた)や、星野和央氏(犬養先生の著書『万葉の旅』の編集担当者)などがそれぞれの思い出を話される中、私も坂本先生から指名され猪名川万葉植物園のPRをさせていただきました。参加者から見学希望の申し出もいただきました。
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【3日目 万葉ツアー 壱岐】
 壱岐島内を巡りました(萬葉公園の歌碑、雪連宅満の墓、河合曾良の墓、岳の辻展望台、折口信夫の歌碑)。
 萬葉公園の歌碑(壱岐市石田町本村触)
【歌】 石田野に 宿りする君 家人の いづらと我を 問はばいかに言はむ (巻十五・3689)
【口語訳】 石田野(いわたの)に 旅寝する君よ ご家族に どうしたのですかと 尋ねられたら何と言おうか
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 折口信夫(釈迢空)の歌碑(壱岐市郷ノ浦町 岳の辻展望台そば)
民間伝承採訪のため来島(大正10,13年)した折の作とされる。
【歌】 葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり
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 壱岐から博多へ(ジェットフォイルで約一時間)
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一昨年(淡路島)と昨年(太宰府)での記事は次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/918
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1057

Posted by katakago at 10:40
白隠さんと出会う(東京世田谷の龍雲寺で) [2016年10月23日(Sun)]
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昨日(10/22)は、21日から東京世田谷の龍雲寺(臨済宗妙心寺派)で2日間限りで開催された企画展とトーク講座「白隠さんと出会う」の2日目に参加してきました。翌日は地元の秋祭りのため日帰りの旅行でしたが、充実した一日でした。
 今年は臨済宗を開いた臨済義玄禅師の1150年遠諱(おんき)、来年は臨済宗中興の祖とされる白隠禅師の250年遠諱にあたり、特別展「禅ー心をかたちに」が春には京博で開催され、東博では現在開催中で、これに合わせて龍雲寺所蔵の白隠の書画52点の展示と講演会が企画されました。
 私は、昨年自費出版した本『木田家のルーツを尋ねるー石碑の銘文に導かれてー』の調査執筆過程で、祖先の一人木田種重(鉄屋庄左衛門 寂堂萬翁元照居士)が白隠を信奉し、白隠の漢文語録『荊叢毒蘂』の刊行に際し資金援助したことを知り、以来白隠に関心を持つようになりました。白隠と種重との関係について教えていただいたのは芳澤勝弘先生(当時花園大学教授)で、今回のトーク講座の講師のお一人でした。

 なお自費出版本については次のURLに載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/1060 

 大澤山 龍雲寺の山門(世田谷区野沢)
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 本堂での講演 「白隠禅の声をきく」と題して講演される住職の細川晋輔師)
「衆生本来仏なり」で始まる「白隠禅師座禅和讃」について解説されました(自身のうちに宿る「幸せな心」に気付くための白隠からのメッセージ)。
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 「白隠禅の声をきく」と題して講演される芳澤勝弘先生
 白隠は禅の教えを説くために多くの墨蹟を残していますが、その画を通して何を訴えようとしているか素人にはなかなか分かり難い。この講演では、四つの画(雷神図、鳥刺し図、布袋お福を吹く図、布袋渡河図)を取り上げて解説されました。
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 布袋渡河図
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 龍雲寺所蔵の白隠書画(先代の住職細川景一師が収集された52点)はガラス越しではなくまじかに鑑賞できるように展示されており、有り難い事にはこの種の展覧会には珍しく写真撮影も自由でした(いくつか掲載させていただきます)。
 床の間に掛けられている様子
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 「達磨」
 画賛の「直指人心 見性成仏」は、「まっすぐに自分の心を見つめ、自身の心が仏心にほかならないことに気づきなさい」という達磨大師の教えを説いたもの  
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 「人丸」
 人丸は柿本人麻呂で、衣には文字絵で和歌(ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 嶋かくれゆく ふねをしぞ思ふ)がかかれている。左の画賛には、「焼亡は かきの本まで 来たれども あかしと云へは 爰(ここ)に火とまる」とある。
 歌聖とされた柿本人麻呂は平安時代末期には人丸影供(えいぐ)が行われていた(歌会に際し人麻呂像をかかげこれに香華供物を備える儀式)。また、「人丸=火止まる」から、人丸は俗信で火伏の神ともなった。
 芳澤先生は、『花園』(第66巻 9号)で、この画について解説されており、この火除けの賛はおまけで、大事なのは和歌だと次のように述べられています。「ほのぼのとしていて、見ることも聞くこともできない、それでいて、確かに在る”こころ”、本有の自性のありようを表したものが、人丸像です」と。
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Posted by katakago at 18:03
萬葉学会公開講演会(10/8) [2016年10月09日(Sun)]
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 昨日(10/8)から奈良大学で第69回萬葉学会全国大会が開催されています。初日の公開講演会に出席しお二人の先生の講演を聴講しました。
 鉄野昌弘先生(東京大学大学院教授)は、結節点としての「亡妾悲傷歌」と題して話されました。大伴家持は天平十一年(739)、22歳で妾(おみなめ)を亡くし、その悲しみを歌った歌群が「亡妾悲傷歌」(B-462〜74)と言われています。これらの歌には、先行作品(大伴旅人の亡妻挽歌、山上憶良の日本挽歌、柿本人麻呂の泣血哀慟歌や大伴坂上郎女、余明軍、沙弥満誓の歌)に類似した表現があることより、先人に導かれながらの習作との評価がされがちだが、本格的に過去の和歌史に向き合ってこの歌群を制作し、その先へ進もうとする家持の意欲を見て取るべきとの見方を示されました。
 講演される鉄野昌弘先生
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 寺崎保広先生(奈良大学教授)は、「木簡と文書の世紀」と題して話されました。日本古代の木簡出土点数は30万点を超え、時代によって大きな偏りがある。1万点に満たない飛鳥時代から、藤原宮期には出土量が増え(3.8万点)、奈良時代には平城宮・京跡で激増(28万点)しており、長岡京では減少に転じ、平安京では極端に少なくなるとのことです。大宝元年(701)に大宝律令が制定され律令国家がスタートし、それを支えたのが官僚の作成した文書による支配(文書行政)で、これと連動して木簡使用も増加したと考えられています。その一例として紹介された「考選制度」に関して、長屋王家に仕える下級役人の勤務評定の実例など興味深い話がありました。

 
Posted by katakago at 13:03
万葉講座(古代の猪名・万葉の猪名) [2016年09月04日(Sun)]
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 今日の午後、隣町の川辺郡猪名川町で活動されている「猪名川万葉の会」主催の万葉講座があり出かけてきました。講師は大阪府立大学の村田右富実先生で、「古代の猪名・万葉の猪名ー山・川・野・みなと―」と題して話されました。
 最初に『住吉大社神代記』(平安時代初期の成立とみられる住吉大社の縁起)に記された河辺郡(かはへのこほり)の為奈山(ゐなやま)と為奈河(ゐながは)について解説され、そのなかで為奈河と武庫川の女(めがみ)が住吉の大神を巡って争った話が出てきました。万葉では一人の女性を巡って複数の男が争うのが通例ですが、この『住吉大社神代記』に出てくる話は古代では稀な例のようです。
 万葉関連では、猪名山、猪名川、猪名野、猪名のみなとが詠まれた歌を解説していただきました。それらの歌を載せておきます。
【歌】 しなが鳥 猪名山とよに 行く水の 名のみ寄そりし 隠り妻はも (J-2708)
【歌】 かくのみに ありけるものを 猪名川の 奥を深めて 我が思へりける (O-3804)
【歌】 我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ (B-279 高市連黒人)
【歌】 しなが鳥 猪名野を来れば 有間山 夕霧立ちぬ やどりはなくて (F-1140)
【歌】 大き海に あらしな吹きそ しなが鳥 猪名のみなとに 舟泊つるまで (F-1189)



Posted by katakago at 18:30
大阪府立大学公開講座(万葉シンポジウム) [2016年08月28日(Sun)]
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 昨日(8/27)、大阪府立大学の公開講座(万葉シンポジウム)があり聴講しました。テーマは「額田王に向き合うー万葉表現の基層ー」で、三人の先生が講演された後、会場からの質問にも答えるかたちで額田王について討論がなされました。
 先ず、身ア 壽先生(北大名誉教授)が、「雑歌を通して見た歌人額田王」と題して基調講演され、続いて廣川晶輝先生(甲南大教授)が「額田王と相聞歌」、村田右富実先生(大阪府大教授)が「額田王と挽歌」と題して講演されました(ちなみに村田・廣川両先生は北大出身で共に身ア先生の門下)。
 身ア先生の講演を聴講するのは今回が初めてです。斉明朝に詠まれた「宇治のみやこの歌」(@-7)、「熟田津の歌」(@-8)、と中大兄称制時の「三輪山惜別の歌」(@-17,18)はいずれも左注に、山上憶良の類聚歌林にはそれぞれ大御歌、天皇の御製、御歌とあり、この時期の歌(いずれも雑歌)は、天皇の意を体して天皇になり代わって詠まれたとする見方があります(代作歌人)。天智朝になって(代作歌人から脱皮して)歌の内容が変わってきており、身ア先生は、額田王の作品・表現から、鮮明な個性の輝きを持つ一つの表現主体の存在をみとめ、額田王を和歌史における初めての歌人誕生とみられています。
 
 シンポジウムでの様子
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Posted by katakago at 17:57
平成27年瀬戸内海文化を考える会 [2015年11月16日(Mon)]
 この週末(14,15日)、太宰府市で平成27年度瀬戸内海文化を考える会が開催され、昨年に引き続き参加しました。
 1日目は午後から太宰府館まほろばホールで三人の先生方の講演があり、夕方、博多港に移動しレストランシップ”マリエラ”で、夕食をとりながら博多湾のクルージングを楽しみました。
 2日目は万葉バスツアーで、太宰府メモリアルパーク(万葉歌碑、水城遠望)→ 鎮懐石八幡宮(万葉歌碑)→ 唐津虹の松原 → 鏡山「領巾振山」(万葉歌碑)→ 玉島神社(万葉歌碑)を訪れました。万葉ツアーのための資料は、佐野 宏先生(京都大学准教授)が作成され、今回初めてお話を聴く機会を得ました。上記のコースは以前個人で出かけたこともありますが、坂本先生、影山先生に加え、前職は福岡大学とのことで地元の地理も詳しい佐野先生を講師陣に、充実した万葉故地巡りをすることが出来ました(この日は天候にも恵まれました)。
 以下、2日間の様子を写真を中心に記録しておきます。
【1日目】
 太宰府を訪れるのは久しぶり(6年ぶり)だったので、講演が始まる前のわずかな時間を利用して、太宰府天満宮に参拝しました。境内には「梅花の宴」で詠まれた万葉歌碑が二基あるのですが、そのうちの一つの写真を載せておきます。
 太宰府天満宮(以前来た時よりも境内は混み合っていました)
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 境内の万葉歌碑
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【歌】 万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲き渡るべし (筑前介佐氏子首 D-830)
【口語訳】 千万年 年は過ぎても 梅の花は 絶えることなく 咲き続けるでしょう

講演会
 会長の坂本信幸先生は、「博多湾の万葉歌」と題して、香椎(かしい)、荒津、能古(のこ)、韓亭(からどまり)、也良(やら)、志賀島が詠まれた歌を解説されました。
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 平舘英子先生(日本女子大教授)は、「韓亭の歌ー月光と旅情ー」と題して講演されました。題詞に、(遣新羅使人が)「筑前国志麻郡の韓亭に着いて、停泊して三日経った。この時秋の夜の月の光は、白白(しらじら)と空に流れている。折からこの月華(つき)の光に対して、旅愁がわいてきた。そこで各自思いを述べて、とにかく作った歌六首」、とある万葉歌を取り上げて解説されました。
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 檀 太郎氏(CFプロデューサー、父は檀 一雄)は現在、かつて父が暮らしていた博多湾内の能古島で、晴耕雨読の生活をされています。「”檀流”父の背中を見て育つ」と題して講演されました。
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 博多湾クルージング(船中でのディナーの前に主催者の挨拶と乾杯の様子)
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 船上からの夜景(ヤフオクドーム)
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 船上からの夜景(荒津大橋) 
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【2日目】
万葉バスツアー

 メモリアルパークにある山上憶良の「日本挽歌」の歌碑(坂本先生揮毫)
歌碑の後方に水城(天智朝に大宰府防衛のために造られた土塁)や大野山を望める
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【歌】 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うちなびき 臥やしぬれ 言はむすべ せむすべ知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家ならば かたちはあらむを 恨めしき 妹の命の 我をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心そむきて 家離りいます
(山上憶良 D-794)
【口語訳】 大君の 遠い政庁の (しらぬひ) 筑紫の大宰府に 泣く子のように 慕って来られて 一息さえ 入れる間もなく 年月も まだ経たぬうちに 死なれるなど夢にも 思わない間に ぐったりと 臥してしまわれたので 言うすべもするすべも分からず 石や木に 尋ねることもできない。 家にいたら 無事だったろうに 恨めしい 妻が このわたしに どうしろという気なのか にほ鳥のように 二人並んで 夫婦の語らいをした 誓いを反故にして 家を離れて行ってしまわれた

 歌碑の前で坂本先生による解説
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「太宰府万葉の会」の松尾セイ子さんによる歌碑の説明(長歌の左側には5基の反歌の歌碑が並ぶ)
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五首の反歌を次に載せておきます(写真は省略)
 家に行きて いかにか我がせむ 枕づく つま屋さぶしく 思ほゆべしも (D-795)
 はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ (D-796)
 悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを (D-797)
 妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに (D-798)
 大野山 霧立ち渡る 我が嘆く おきその風に 霧立ち渡る (D-799)

 長歌の歌碑の右側にある「凶問に報ふる歌」の歌碑
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【歌】 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり (大伴旅人 D-793)
【口語訳】 世の中は 空しいものだと 思い知った今こそ いよいよ益々 悲しく思われることです

 鎮懐石八幡宮
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 万葉歌碑(安政六年(1859)建立の九州最古の万葉歌碑)
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 歌碑の拓本写真(八幡宮で販売されていた)
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【長歌】 かけまくは あやに恐し 足日女 神の尊 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし ま玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇し御魂 今の現に 尊きろかむ (山上憶良 D-813)
【口語訳】 口にするだに あまりにも恐れ多いことながら 神功皇后さまが 新羅の国を 平定なさって 御心を 鎮められるため お手に取って たいせつに祭られた 球状の 二つの石を 世の人に お示しになって 万代に 語り伝えよと (海の底) 沖つ深江の 海上の 子負の原に お手づから お置きになって 神として 祭られている 霊妙な石は 今もそのまま 尊くあることだ 
【反歌】 天地の 共に久しく 言ひ継げと この奇し御魂 敷かしけらしも (D-814)
【口語訳】 天地と 共に久しく 語り伝えよとて この霊石を 置かれたのであろう 

 佐野 宏先生(京都大学准教授)による歌碑の解説
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 鏡山で影山尚之先生(武庫川女子大学教授)による解説
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 鏡山展望台より唐津湾を望む
海岸沿いに虹の松原が続き、海上右端には神集(かしわ)島がみられた。
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 鏡山の万葉歌碑ー1
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【歌】 行く船を 振り留みかね いかばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫 (D-875)
【口語訳】 行く船を 領巾を振っても留めきれずに どんなにか 恋しかったろう 松浦佐用姫は 

 鏡山の万葉歌碑ー2(犬養孝先生揮毫)
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【歌】 麻都良我多 佐欲比売能故何 比列布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎々都々遠良武 (山上憶良 D-868)
【読み下し文】 松浦潟 佐用姫の児が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ
【口語訳】 松浦潟の 佐用姫が 領巾(ひれ)を振った この山の名ばかりを 聞いて見にも行けないのか 

 「万葉の里公園」(唐津市浜玉町浜崎)の万葉歌碑−1
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【歌】 足日女(たらしひめ) 神の尊の 魚(な)釣らすと み立たしせりし 石を誰見き (山上憶良 D-869)
【口語訳】 神功皇后さまが 魚をお釣りになるとて お立ちになった 石をいったい誰が見たのでしょうか 

 「万葉の里公園」の万葉歌碑ー2
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【歌】 松浦川 玉島の浦に 若鮎釣る 妹らを見らむ 人のともしさ (大伴旅人 D-863)
【口語訳】 松浦川の 玉島の浦で 若鮎を釣る 娘たちを見ているそうな 人の羨ましさよ 

 なお、来年は11月10日から2泊3日の予定で、壱岐・対馬での開催が決まっています。是非参加したいと思っています。
Posted by katakago at 16:39
古代史シンポジウム「騎馬文化と前方後円墳の拡がり」 [2015年06月29日(Mon)]
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 昨日(6/28)、古代史シンポジウム(発見・検証 日本の古代)の第二回目が大阪(御堂会館)で開催され(主催:角川文化振興財団、共催:朝日新聞社)、聴講しました。
 今回のテーマは、「騎馬文化と前方後円墳の拡がり」でした。古代遺跡から出土した馬具に関しては、これまで、韓国では大成洞古墳博物館(金官加耶の遺跡出土品)や国立慶州博物館(新羅の馬具)で、国内では、橿原考古学研究所付属博物館(藤ノ木古墳出土馬具)で展示物を見る機会があり、このシンポジウムには興味がありました。
藤ノ木古墳関連記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/962

 プログラムは、基調講演2題、3つの基調報告と討論(うち2つは韓国の研究者による)および全体討論で、午前10時から午後5時までの長丁場でした。

 戦後間もなく(1948年)、江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝説」を提起されましたが、今では過去の一学説となっています。ここでは、白石太一郎先生の基調講演と配布資料からメモを残しておきます。
・古墳時代前半期の倭国には馬の文化は認められず、後半期になって初めて成立
 (5世紀の王墓級の大型前方後円墳やその陪塚だけでなく各地の中小規模の古墳にまで広く馬具が副葬)
・馬匹生産のための大規模な牧も5世紀段階には営まれたとみられる(九州から関東地方に至る各地)
 (牧近接地に営まれたこの時期の小古墳に馬の犠牲土壙を伴うものが知られている)
・長野市大室古墳群などに百済に起源するとみられる合掌形石室を持つものが認められる
 (馬匹生産のために北信濃に定着させられた渡来人が営んだとみられる)
・4世紀末葉から5世紀にかけて馬の文化を伝えたのは百済やその影響下にあった加耶諸国であったとの見解
 それでは、なぜ百済が倭国に馬文化を伝えたのか?
・ 4世紀になって始まった東アジアにおける民族移動が契機
 中国北方や西方の遊牧騎馬民族が中国本土に大挙侵入
 前燕(五胡の一つ鮮卑が建国)による高句麗侵攻、高句麗の南下政策
 百済は武力で高句麗に対抗 → 360年代後半に百済は倭国と同盟
 倭国が半島に出兵して高句麗と戦うために、百済や加耶諸国から渡来人が倭国に送られ、馬具の生産技術や馬匹の生産方法を教えたとみられる
・この時期王権のリーダーシップを握るようになったのが大阪湾岸の和泉北部や南河内の勢力
 (この時期に大規模な古市・百舌鳥古墳群が営まれる)

なお、シンポジウムのまとめは、3回目(9/27、東京)が終わってから、朝日新聞社より報告されるとのことです。


Posted by katakago at 20:34
飛鳥を愛する会ー講演会と現地見学(4/25) [2015年04月30日(Thu)]
 先日(4/25)、飛鳥を愛する会の27年度総会と記念講演・現地見学会があり参加しました(於 明日香村中央公民館)。

 記念講演では、西光慎治氏(明日香村教育委員会)が、「都塚古墳の発掘調査」と題して話されました。
 都塚古墳は、昭和42年(1967)の発掘調査で、埋葬施設は両袖式の横穴式石室(石舞台古墳などと同じ形式)で、玄室中央にくりぬき式の家形石棺(二上山の凝灰岩を使用)が安置されていたことが分かっていますが、平成25年度からの墳丘部分の調査(明日香村と関西大学)で、新たな発見がありました(昨年夏に現地説明会)。
 演者の西光氏はこの発掘調査の担当者であり、調査時の写真を交えながら発掘成果について話されました(講演後の現地見学でも説明された)。
・墳丘の規模が一辺40mを越える大型方墳
・墳丘部分は5段以上の階段状に石を積み上げた構造(国内では他にあまり例がない)
・築造時期は6世紀後半頃(前方後円墳から定型化した大型方墳出現までの過渡期に現れたとみられている)
 多段築の積石塚は、高句麗の将軍塚(中国吉林省)や百済の石村洞(ソクチョンドン)古墳群(韓国ソウル)が知られており、その影響を受けている可能性にも触れられました。
 なお、百済漢城時代の石村洞古墳群(上限は4世紀初頭)の積石塚は、木下先生講師の「韓国歴史の旅」(2011年秋)で訪れています。その時の写真は次の記事に載せています。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/220

 都塚古墳は、石舞台古墳(7世紀前半、蘇我馬子の墓とする説あり)を望む場所にあり、蘇我稲目の墓とする説もあるようです。

 西光慎治氏(明日香村教育委員会)の講演の様子
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 都塚古墳の現地説明(講師は西光氏)
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 玄室内で家形石棺を見学
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Posted by katakago at 10:17
エドヒガン群生林整備記念講演会(国崎クリーンセンター) [2015年03月23日(Mon)]
 昨日(3/22)、国崎クリーンセンターの啓発施設 ”ゆめほたる”で、利用者10万人達成とエドヒガン群生林整備を記念して「北摂の原風景」と題する講演会があり万葉仲間を誘って聴講しました。

 石田弘明氏(兵庫県立大学教授)が「エドヒガン群生林の価値と保全」について話されました。
 エドヒガン(絶滅危惧種)は本州・四国・九州に広く分布するも自生地は限られ、兵庫県下では、猪名川上流域・但馬・西播磨などに限られるとのことです。猪名川上流域に立地する国崎クリーンセンターの敷地に広がる里山には250本もの群生が見られるとのことです(国内トップクラスの密度)。川西市内ではこのほか、国崎地区(一庫公園)、黒川地区(大槌・妙見ケーブル横・桜谷)、多田地区(水明台)に群生地があり、桜谷と水明台の群生地は市の天然記念物に指定されています。
 エドヒガンの生育適地は、明るい場所(陽地)、適湿の地(谷の斜面下部など)とされ、国崎クリーンセンターのある里山がエドヒガンの群生地となった要因について解説されました。
 クヌギやコナラなどの夏緑樹からなる里山林では、燃料を得るため年毎に場所を変えて輪伐が行われる(伐採年度の異なる林がパッチワーク状に)。国崎・一庫・黒川地区は利休・秀吉の頃からクヌギの炭(菊炭)の生産地であり、また、この地域にはかつて銀や銅の鉱山があり(間歩と呼ばれる採掘するための抗道が残っている)、製錬用の燃料としても里山林の伐採が行われ、明るい環境が継続してつくり出されてきたことをあげられた。
 保全の取り組みとしては、エドヒガンや林床の日当たりを良くするためにヒノキの間伐や蔓植物の除去、鹿の食害対策などで、国崎クリーンセンターではエドヒガンの種子を採取し地域性苗づくりも行われているそうです。

 なお、私の万葉植物園にも、4年ほど前に「エドヒガンを守る会」代表で市議の津田さんに苗木2本の植樹をしていただき大分大きくなっています。花が咲くようになるのが楽しみです。

 前川善一郎氏(京都工芸繊維大学特任教授)は、「里山の衣文化~繊維が語る歴史と風土」と題して、古代から江戸時代に至る衣料の歴史について話されました。
 日本の衣文化を支えた三つの天然繊維材料として、@苧麻(ちょま、縄文から室町時代の庶民の主たる繊維材料)、A木綿(江戸時代から現代までの庶民の主繊維材料)、B絹(縄文時代からの国産技術の真綿と弥生時代にもたらされた渡来技術の絹糸、いずれも上流・富裕層の繊維材料)について、繊維を取り出す作業工程や繊維の特性にも触れられた。
 養蚕や機織(はたおり)技術が呉の国から伝えられた(弥生時代末期)のに関連して、お隣の池田市には、呉織媛(くれはとりひめ)を祀った呉服(くれは)神社と穴織媛(あやはとりひめ)を祀った伊居太(いけだ)神社があります。あらためて訪ねてみようと思いました。
 染色の技術は弥生時代に里山で生まれた草木染めが始まり(汁液や花などを繊維に刷り込む摺染)で、古墳時代に明礬や硫酸鉄を使用する媒染(ばいせん)の技術が伝来し草木染めの技術が確立されたようです。万葉歌にも、染色に関わるものがかなり見られます。茜草(あかね)、紫草(むらさき)、紅(くれなゐ)、山藍(やまあゐ)、榛(はり)、鴨頭草(つきくさ)などの植物が詠まれています。
 江戸時代の木綿の栽培法に関しては、水田に立てられた畝の部分に木綿を、畝と畝の間の谷の部分に水稲を交互に植える方法が行われていたそうです(半田法という)。
 野間村(現在の伊丹市)の豪農 巽屋左衛門の農事日誌(1862~1872)の話も含め、これまで聴講する機会の少なかった分野の話で大変興味深いものでした。
 
 対談に先立ち、服部先生からは、万葉歌に詠まれた植物を植物群集・群落(植生)の視点から解析して、万葉時代の植生景観を眺めてみたらどうなるかについて話され、坂本先生からは、万葉集に詠まれた北摂関連の歌を紹介されました。
 講演(万葉集に描かれた北摂)される坂本先生
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 対談されるお二人
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 なお、服部先生については、以前にも兵庫県立人と自然博物館のセミナーでお話を聞いたことがあります。その時の記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/171


Posted by katakago at 16:28
藤ノ木古墳(発掘30周年)に関する講演会 [2015年03月17日(Tue)]
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 橿原考古学研究所付属博物館では、藤ノ木古墳発掘30周年を記念して、特別陳列「大和の豪族たちと藤ノ木古墳」が開催中です(3/22まで)。一昨日(3/15)、同研究所で関連の講演会があり聴講しました。

 昨年5月に、国史跡に指定されている藤ノ木古墳を訪れ、近くの斑鳩文化財センターで埋蔵物(レプリカ)の展示を見学しており、今回の展示と講演会には興味がありました。昨年の記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/827

 今回博物館では、講演に先立ち、未盗掘状態で発掘された古墳の埋蔵物(家形石棺内出土品は国宝に指定)を見ることが出来ました。撮影可能であったパネルと展示物の写真の一部を次に掲載。
 家形石棺内にファイバースコープ(内視鏡)を挿入して内部を観察した後、開棺された(1988年)内部の様子(パネルより)
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 このような未盗掘の古墳の墓室の埋葬状況を模型で展示されていたのを、韓国の宋山里古墳群を訪れた際、模型館で見学したことがあります(2011年秋)。このケースでは同時に出土した墓誌により被葬者が確定しています(百済の斯麻王(謚号は武寧)とその妃)。関連記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/214

 石棺内出土品(左から金銅製飾履(しょくり)、金銅製冠、金銅製筒形品) 
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 石室の奥壁と石棺の間から出土した金銅製馬具の鞍金具後輪(しずわ) 
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 開演30分前でも既に研究所の講堂内は大勢の参加者のために満席で、講堂外にも座席が設けられていました(準備された資料も足りずに急遽増刷中でした)。博物館で見学後会場に来たので外の席からの聴講となりました。
 写真は開演前の会場の様子
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 講演会では、先ず、今回の展示の責任者である小栗昭彦氏(橿原考古学研究所主任学芸員)が「大和の豪族たちと藤ノ木古墳」と題して話されました。
藤ノ木古墳の被葬者を探るためのヒントとして次の点をあげられました。
@ 石室(両袖式横穴式石室)の構造(平林式に相当)や出土須恵器の型式(TK43に当たる)から築造年代を推定(575~600)し、古墳の主丘径(主たる埋葬施設の場所の径、藤ノ木古墳は円墳で50m)より、王墓に次ぐクラス(4分類の階層II位)に位置付け。
A 斑鳩地域にはこれまで大型古墳はなく、この時期に突如藤ノ木古墳が出現するも、次世代の古墳では大きく地位を落とす。
B Aの動向は、北葛城地域の牧野古墳も同様(それぞれの被葬者の地位や負っていた役割が似ていたとみられる)。
C 主丘径50mは、この時期(575~600)の階層II位の規格(70m級)よりは小さく、次世代の600年前後の時期のII位の規格に相当 → この時期(575~600)の被葬者で最も遅く死亡したため、次世代に採用される古墳の規格を真っ先に適用された。
 以上、藤ノ木古墳の被葬者を考える上で重要なポイントを、これまで得られている知見を整理して分かりやすく解説して頂きました。

次いで、発掘調査を担当された前園実知雄氏(奈良芸術短期大学教授)が、「藤ノ木古墳の被葬者像」と題して講演されました。
 被葬者の候補として、穴穂部皇子(物部守屋の推した皇位継承者候補)と宅部皇子をあげられた(『日本書紀』の死亡記事では、いずれも用明二年(587)に殺されている)。牧野古墳の被葬者は押坂彦人大兄皇子か(この点については今回詳しく話されなかったので改めて知る機会があればと思っています)。

 
Posted by katakago at 08:53
古代出雲文化フォーラムIII [2015年03月09日(Mon)]
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 島根大学主催の「古代出雲文化フォーラム」が東京、広島に続いて大阪で3回目が開催されました(3/8)。事前申込制で定員1000人に対し1800名の応募があったそうですが、私は幸いにも参加することが出来ました。

 今回のフォーラムでは、『「くにびき神話」と古代出雲・伯耆の成り立ち』をテーマに、第一部のシンポジウムでは、島根大学の地質学、考古学、歴史学の4人の研究者が下記の演題で講演され、第二部では、千家和比古出雲大社権宮司と小林祥泰島根大学学長による鼎談が行われました。
シンポジウム演題と講師をあげておきます。
「地質学的にみた古代出雲世界の舞台〜島根半島・ラグーン(宍道湖。中海)の形成」
 入月俊明教授(総合理工学研究科)
「考古資料が物語る古代出雲成立以前の朝鮮半島と山陰」
 平郡達哉准教授(法文学部)
「東アジア世界の中の古代出雲ー「国引き神話」・新羅・渤海ー」
 大日向克己教授(法文学部)
「『出雲国風土記』と遺跡からみる広域交流」
 大橋泰夫教授(法文学部)

 『出雲国風土記』の「国引き神話」は、意宇(おう)郡の由来として記されています。少し長くなりますがその要旨を勝部 昭著『出雲国風土記と古代遺跡』(日本史リブレット13)より以下に引用しておきます。
 八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が「八雲立つ出雲国は狭い布のような若い国である。縫って大きくしよう」とおっしゃった。そして志羅紀(しらぎ)の三埼をみて国の余りを、三本をより合わせた綱をたぐってもそろもそろに「国来(くにこ)・国来」と引いてきて縫ったのが八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼である。この時の杭は佐比売山(さひめやま)、綱は薗の長浜である。次に、北門(きたど)の佐伎国の余りを引いてきて縫ったのが狭田(さだ)国である。次に、北門の良浪(よなみ)国のあまりを引いて縫い合わせたのが闇見(くらみ)国である。最後に、高志(こし)の都都(つつ)の三埼の余りを引いてきて縫ったのが三穂(みほ)埼である。持って引いた綱は夜見嶋(よみのしま)、杭は伯耆国の火神岳(ひのかみたけ)である。意宇杜に御杖をついて、「意恵(おえ)」とおっしゃった。それで意宇と言う。
 志羅紀は朝鮮半島の新羅、支豆支は島根半島西橋の出雲大社のある杵築(きづき)あたりの地域、佐比売山は三瓶山、薗の長浜は出雲市大社町から多伎町に至る砂浜、佐伎国は隠岐国、都都は能登半島の珠洲市、三穂埼は松江市美保関町美保の岬、夜見嶋は鳥取県境港市・米子市にまたがる弓ヶ浜、火神岳は鳥取県の大山とみられています。

 日本列島も昔はユーラシア大陸の一部であったのが、約3000万年前に盛んな火山活動で大陸が分裂を始め、その後日本海が拡大し、1450万年前に現在の位置に移動した(島根半島には、朝鮮半島と地質学的に同じ凝灰岩、安山岩、流紋岩がみられるとのこと)。その過程で国内最大の汽水湖(宍道湖・中海)が形成され、その変化に富む地質学的基盤が、出雲文化の形成へと導いていったとみられています。
 そこで、島根大学では、国引き神話のような大地の変動が記録されているその島根半島の歴史や文化を有機的に結び付けジオパーク化をめざす、「くにびきジオパーク」プロジェクトを立ちあげているとのことです(今回のフォーラムもその活動の一環とのこと)。

 島根にはこれまで万葉の故地巡り(人麻呂ゆかりの地)や、飛鳥を愛する会現地講座で遺跡を訪ねる機会がありました。
飛鳥を愛する会で訪れた時の記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/724
Posted by katakago at 15:23
シンポジウム「難波宮と大化改新II」 [2015年02月24日(Tue)]
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 先日(2/22)、大阪市立大学杉本キャンパスで、「難波宮と大化改新II」と題してシンポジウムが開催されました(昨年に続き2回目で前回の記事は下記を参照)。
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/777

 4人の講師と演題を上げておきます。
「孝徳朝のめざしたもの」 磐下 徹(大阪市立大学講師)
「条里制と地方行政区画」 岸本直文(大阪市立大学准教授)
「難波の宮と京の設計方法」 市川 創(大阪文化財研究所学芸員)
「前期難波宮と唐の太極宮」 村元健一(大阪歴史博物館学芸員)

 ここでは、磐下氏の講演より、大化改新により孝徳朝(宮は難波長柄豊崎宮、前期難波宮)が取り組んだ支配関係の重層構造解消に関連した考古史料(木簡)について載せておきます。
 部民制(磐下氏の配布資料より写した次の図を参照)は、6世紀代に成立したとされるヤマト政権の支配制度(先ず中央豪族と地方豪族の支配関係があって、それを介して大王が地方豪族を支配する重層構造)で、孝徳朝はこれを解消して中央集権化を目指した。
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 二つの「五十戸」木簡(五十戸は里になる前の名称)
・飛鳥京遺跡跡出土木簡(649〜664年)
  白髪五十戸(アは部でここはシラカベ五十戸)
  部+五十戸は部民制の特徴であるのに対し、
・石神遺跡出土木簡(乙丑665年)では、
  (表)乙丑年十二月三野国ム下評
   (裏)大山五十戸造ム下ア知ツ
  と、国+評+地名+五十戸と部がなく、部民制に基づかない支配体制がこの三野国(美濃国)では行われていたことを示すと考えられています(後には、国ー郡(700年までは評)−里となる)。但し、665年は天智(中大兄の称制)の時代であり、これがどこまで(孝徳朝まで)遡れるかは明らかではないが、少なくとも庚午年籍(670年)以前に部民制に拠らない「国ー評ー五十戸」制が存在したとみられています。


なお、部民制に関わる初見史料としては、岡田山一号墳(島根県松江市)出土の大刀銘「各田卩臣」(額田部臣)が知られており、この古墳は2年前に訪れたことがあります。「額田部」は額田部皇女(後の推古天皇)の養育に携わる部民で、額田部臣はその支配豪族(出雲にのみ見える)。その時の記事は、
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/724
 
Posted by katakago at 07:10
講演会「有間皇子と紀伊国」 [2015年01月29日(Thu)]
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 更新が遅れましたが、今月中旬(1/15)、大阪府立大学で「万葉の道を歩く」第12回目の講演会がありました。村田右富美先生が「有間皇子と紀伊国〜万葉と歴史のはざま〜」と題して講演されました。

 有間皇子に関しては、『日本書紀』では斉明天皇四年(658)条に、天皇が紀温湯(きのゆ)に行幸中の留守の間に皇子が謀反の決意を蘇我赤兄に漏らし(十一月三日)、その直後赤兄の手に捕えられ(同五日)紀温湯の中大兄皇子のもとに送られ(同九日)、十分な詮議もなく藤白坂で絞首刑となった(同十一日)ことが記されています(事件の急展開の一方、斉明天皇の帰京は二カ月近く経ってからの翌斉明五年(659)一月三日)。この事件については、中大兄の指示による有間皇子抹殺のための赤兄による挑発とする説もあるようです。


 『万葉集』では、斉明四年紀伊行幸時の歌が巻一の雑歌に4首(巻九にも1首)ありますが、いずれも事件とは関係のない旅の中での明るい歌です。
 有間皇子関係の歌としては、巻二の挽歌に皇子が自ら悲しんで松の枝を結ばれた時の歌二首に続き、後の人が結び松を見て皇子を偲んで詠んだ歌が載っています(巻九にも1首)。
まず有間の皇子の歌は、
【歌】 岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む (A-141)
【口語訳】 岩代の 浜松の枝を 引き結んで 幸い無事でいられたら また立ち帰ってみることもあろう
【歌】 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (A-142)
【口語訳】 家に居れば 器に盛る飯を (草枕) 旅にあるので 椎の葉に盛るのか

 長忌寸意吉麻呂が結び松を見て悲しみ咽んで作った歌二首(大宝元年の行幸時の作とみられている)
【歌】 岩代の 崖の松が枝 結びけむ 人はかへりて また見けむかも (A-143)
【口語訳】 岩代の 崖の松の枝を 結んだという 有間皇子は立ち帰って また見たことであろうか
【歌】 岩代の 野中に立てる 結び松 心も解けず 古思ほゆ (A-144)
【口語訳】 岩代の 野中に立っている 結び松 その結び目のように心も解けず 昔のことが思われる

 山上臣憶良の追和する歌一首
【歌】 翼なす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ (A-145)
【口語訳】 御魂は鳥のように 行き来しながら 見てもいらっしゃるだろうが 人には分からないだけで 松は知っていよう

 大宝元年、紀伊国に行幸があった時、結び松を見て作った一首 (柿本朝臣人麻呂歌集の中に出ている。大宝元年(701)九月十八日に文武天皇が紀伊に行幸) 
【歌】 後見むと 君が結べる 岩代の 小松が末を また見けむかも (A-146)
【口語訳】 後に見ようと思って 皇子が結んでおいた岩代の 小松の梢を また見たであろうか

 大宝元年(701)十月に、太上天皇(持統)と大行天皇(文武)とが紀伊国に行幸された歌13首(雑歌の部)の中に、
【歌】 藤白の み坂を越ゆと 白たへの 我が衣手は 濡れにけるかも (H-1675)
【口語訳】 藤白の み坂を越えるとて (白たへの) わたしの衣手は 濡れてしまった

 大宝元年は有間皇子事件から43年後ですが、悲劇的な最期を遂げた皇子の事は当時の人々にも伝承されており、紀伊行幸途中に岩代を通る際には、皇子の結び松と伝えられる松を見て皇子を偲んで歌が詠まれたようです。
 岩代や藤白の地は20年ほど前に訪れたことがありますが、今回の講演を機にあらためて現地に出かけてみたいと思っています。

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マチカネワニ・サミット2014(大阪大学シンポジウム) [2014年11月17日(Mon)]
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 大阪大学豊中キャンパスの理学部建設現場から、大型ワニ「マチカネワニ」の化石が発見されて今年で50年になるのを記念して、昨日(11/16)、「大阪大学シンポジウム マチカネワニ・サミット2014」が開催され参加しました(場所は豊中市立アクア文化ホール)。

 発見されたのはちょうど大学に入学した年(教養部は同じ敷地内)でしたが、関心もなかったのか当時の記憶はほとんどありません。
 昨年、大阪大学総合学術博物館の展示を見る機会があり、40万年も前の大阪の地に、このような大きなワニ(体長6.9〜7.7m、体重1.3t)が生息していたことに興味を持ちました。それと、命名(Toyotamaphimeiya machikanensis)が『古事記』の神話に出てくるワニの化身とされる豊玉琵売に由来するのも関心を持った理由の一つです(神話のワニはサメと解釈されていますが)。
 昨年の関連記事は
     ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/753

 この日のシンポジウムでは、講演者は全て大学院生から准教授の第一線の若手研究者でした。第1部で、クリストファー・ブロシュー博士(アイオワ大学准教授)が、「日本で発見されたトミストマ亜科マチカネワニの古生物地理学と進化における重要性」と題する基調講演をされました。久しぶりの外国人の講演でしたが、小林快次博士(北海道大学准教授)が分かりやすく通訳されたので、興味深く聴くことが出来ました。
 最古のトミストマ亜科は、ヨーロッパで5000万年〜5500万年前の始新世の地層から発見され、いくつかの原始的なトミストマ亜科は、アメリカの東海岸からも発見されており、海を渡る能力があったと考えられるとのことでした(この点は大変興味深く思われます)。

 第2部の林 昭次博士(大阪市立自然史博物館学芸員)の「骨の内部組織から探るマチカネワニの謎」と題する講演では、骨の内部にその動物の進化や生態を知るための情報が見られるとのことでした。骨を輪切りにするとその成長線の数より年齢が、その間隔から成長の速度を、ワニのうろこの骨の渦巻き状の有無よりオス・メスが分かるようです。ちなみに阪大のマチカネワニは、オスで、43歳くらいで死亡したと推定されるとのことでした。

 主催者によると、ワニは恐竜に比べ人気が低いのでどの程度の参加者があるか心配したとのことですが、小学生から年配者まで幅広い年代の多くの参加者が見られました。

 ロビーではマチカネワニの下あごの化石のレプリカが展示され、手で触れるようになっていました。
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 マチカネワニは、その後日本の各地で発見されており、その場所がパネルで展示されていました。
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 同じ大阪府内の岸和田市からは、マチカネワニと同じキシワダワニが1994年に発見されています(マチカネワニより約20万年古い)。
Posted by katakago at 20:20
11月になり行事が続いています [2014年11月05日(Wed)]
 今月に入ってから行事が続いています。3日を除き(この日は農作業)、1日は大阪歴史博物館で開催された、斎藤秀喜氏(佛教大学教授)による「古事記1300年の謎と伊勢・大和・出雲」と題する基調講演とパネルディスカッション「記紀を訪ねて〜伊勢・大和・出雲〜」に参加しました(申し込み先着順)。2日は、武庫川女子大学の奈良講座「記紀万葉」で、中西進先生による講演「海と大和」を聴講することが出来ました。こちらは高名な先生(昨年文化勲章を受章された)で応募多数のため受講が危ぶまれましたが、仲間の申し込んだハガキが当選したことにより参加できました。
 4日は、夕方から始まる芦屋のカルチャー(尺八講座)の前に、奈良まで出かけて現在開催中の「正倉院展」と「大古事記展」を見学しました。「大古事記展」は先月も観覧の機会がありましたが、今回は実物の国宝 七支刀(しちしとう)を見ることが出来ました。石上神神宮伝世品で、27文字が金象嵌の技法で刻まれ、泰和4年(369)に百済王世(子)が倭王のためにこれを造ったと解されています。
 5日は午後から、朝日カルチャー(中之島)の「古代学の新潮流」の3回目の講座があり出かけました。瀧浪貞子先生は「古代の女帝」をテーマに、古代の女帝6人のうち、推古天皇(なぜ女帝が誕生したのか)、持統天皇(皇位継承を変えた女帝)、孝謙・称徳天皇(なぜ女帝が終わったか)を取り上げて話され、大変興味深い内容でした。

 6日と8日は万葉ウォークがあり、山の辺の道と忍坂・宇陀方面に出かける予定です。9日は、平城宮跡で「家持上京の旅」の到着セレモニーがあり、坂本先生の講演「家持と越中万葉」もあるのでこれにも出かける予定です。

以下、関連写真をいくつか掲載しておきます。
 講演終了後、女子学生より花束を受けられた中西進先生
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 正倉院展会場(奈良国立博物館)
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 地下廊下で正倉院展ポスター(S.22〜S.63)を展示中、写真は第二回目(昭和22年)のポスター
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 真福寺本『古事記』の複製本(昭和20年6月発行)古本屋より入手したもの
 「大古事記展」会場でも複製品(実物は国宝)が展示されていた
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Posted by katakago at 22:04
平成26年度瀬戸内海文化を考える会(10/25−26) [2014年10月27日(Mon)]
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 「瀬戸内海文化を考える会」の5周年記念事業が兵庫県立淡路夢舞台国際会議場で開催され今回初めて参加しました(上の写真は開演前に訪れた百段苑、右後方がウェスティンホテル淡路)。

 この会は、設立趣意書によれば、「瀬戸内海に関係する文化施設や団体等を軸に、瀬戸内文化圏の枠組みによる文化の共有と情報発信を目的とするコンソーシアム設立を目標に、瀬戸内海の将来にわたる文化振興、地域振興について考えることを目的とする」とあります。

 会の代表の坂本信幸先生による挨拶
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 会の設立の背景には、新不老橋(あしべ橋)建設にかかわる和歌浦景観保全訴訟や鞆の浦景観保全訴訟とも関係があるようです。前者は万葉学者の故犬養孝先生も原告側の証人として出廷されるも、平成6年に原告請求を棄却する判決となりました(但し、歴史的景観に初めて言及)。後者は、平成21年に原告勝訴の判決が出されました。当時の朝日新聞の記事(2009.10.13)には、判決の骨子にふれて、「鞆の景観の価値は私法上保護されるべき利益であるだけでなく、瀬戸内海における美的景観を構成するものとして、また文化的、歴史的価値を有する景観として、いわば国民の財産ともいうべき公益である」とあります。この日の会には、鞆の浦景観保全運動に中心的に関わられた戸田和吉さん(鞆の浦万葉の会代表)も出席されており、懇親会の席上で当時を振り返り現在の課題にも触れて挨拶されました。

 第一部の基調講演「兵庫の海と歴史・文化」では、影山尚之先生が「万葉集における兵庫と海」と題して、大森亮尚先生が「畿内と畿外・都と鄙」と題して話されました。 
 
 第二部の「座談会 ー 兵庫の歌と文化」には、女優の檀ふみさん、歌人の佐佐木幸綱先生、龍短歌会代表の小見山輝氏とコーディネーターの坂本信幸先生が参加されました。ちなみに、檀ふみさんは、かつて坂本先生らが監修されたNHKのテレビ番組「日めくり万葉集」に出演されたことがあります。
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 檀ふみさんによる柿本朝臣人麻呂の覊旅歌八首の朗唱
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 これらの歌について、檀さんの質問に坂本先生が応える形で歌の解説がなされました。
次いで、佐佐木先生が、畿内・畿外の境界としての明石大門、藻塩焼く松帆の浦や伝説の地として印南が詠まれた万葉歌の解説をされました。訓詁解釈とは別の歌人としての話で興味深く聴きました。小見山 輝氏は、淡路島の歌人 川端千枝の歌について話されました。

 懇親会の会場で(ウェスティンホテル淡路)
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 ゲスト出演者として挨拶される檀ふみさん
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 2日目はバスで淡路島の記紀・万葉の故地を巡り、日本丸に乗船して鳴門の渦潮を見学しました。
 見学場所は、石屋神社 → 絵島(車中より)→ 天王の森(伝 崇道天皇埋葬地)→ おのころ島神社 → 淳仁天皇陵(車中より)→ 伊弉諾神宮
 
 天王の森(伝 崇道天皇埋葬地)にある常隆寺
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 延暦4年(785)に藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となり、淡路への配流の途中で亡くなった桓武天皇の同母弟早良親王(延暦19年に崇道天皇と追称)の怨霊を慰めるために桓武天皇の勅願により建立(延暦24年)されたそうです。

 おのころ島神社で影山先生による説明
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 おのころ島の比定地としては、沼島(三原郡南淡町)、絵島(津名郡淡路町)、沖ノ島(和歌山県)などの諸説があるようです。

 うずしお観潮は、日本丸に乗船するも途中でカメラが故障し、肝心のうずしおの写真を掲載できません(次の二枚は陸上から見た大鳴門橋と日本丸)。
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Posted by katakago at 17:25
大古事記展特別講演「出雲と大和 ー 神々のはるかな原郷 ー」 [2014年10月20日(Mon)]
一昨日から大古事記展が奈良県立美術館で開催されています。
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 これに関連した各種行事(関連講座・神楽の公演・ワークショップなど)も順次開催されます。昨日(10/19)は、千田稔先生の特別講演があり聴講しました。これに参加するには、大古事記展の観覧券の提示が必要なため、午後からの講演に先立ち見学しました。但し、今回の目玉の一つである国宝七支刀の展示は10/25〜11/24で、この日はレプリカだったため、あらためて本物を見るため月末からの正倉院展と併せて再度出なおすつもりです。

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 千田先生の『古事記』についての話は今回で3回目となり、「出雲と大和 ー 神々のはるかな原郷 ー」と題して講演されました。仮説設定型の話であると前置きされて(仮説を立てて研究しないと学問の新たな進展はないとも)、出雲神話と道教との関連、天照大御神がなぜ伊勢神宮に祀られたか、高天原について等、自説を展開されました。
 『古事記』は、以前に別の講座で通読したことがありますが、このような視点での話は大変興味深く、先生の著書『古事記の宇宙(コスモス)− 神と自然』(中公新書)を読み始めたところです。

 前二回の関連記事は次のURLを
    ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/908
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/911


Posted by katakago at 16:55
奈良講座「記紀万葉」第5回(10/12) [2014年10月14日(Tue)]
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 6回のシリーズで開催されている奈良講座『記紀万葉」の5回目を聴講できました(写真は抽選に当たった聴講券と配布資料の表紙)。
 千田先生による『古事記』に関する講演は、先日(10/8)に続き2回目となります。先生によれば、「大古事記展」の関連企画として奈良県文化会館小ホールで行われる講演(10/19)と併せて三部作になるとのことでした。

 今回の講演で興味のあった点をメモしておきます。
(なぜ、天照大神が皇祖神として伊勢の地に祭られるようになったのかには関心がありました)
・『古事記』では天之御中主(あめのみなかぬし)の神が重視されている。天之御中主神は宇宙の中心の神(道教の太一、天皇大帝などに相当。天武天皇は道教に傾倒)。
・『伊勢国風土記』逸文に、「伊勢の国は、天之御中主の尊の十二世の孫である天日別命(アメノヒワケノミコト)が平定された所」とある。 → 伊勢の地はかなり古い時代から道教の影響を受けていたらしい。
・『日本書紀』垂仁天皇25年3月条には、「美濃を廻りて、伊勢国に至る。時に天照大神、倭姫命に誨(をし)へて曰く、『是の神風の伊勢国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ』とのたまふ」とある。常世は中国の仙人の不老不死の国(神仙境)であり、道教の影響を受けていたその地に伊勢神宮が創始されたとみられている(天武朝に式年遷宮が定められ、持統4年に実施)。

 次回の講演も聴講して、千田先生の説の理解を深めたいと思います。
 

Posted by katakago at 10:24
第67回萬葉学会公開講演会(10/11) [2014年10月13日(Mon)]
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 一昨日から第67回萬葉学会全国大会が天理大学で開催され、初日(10/11)は、一般も対象の公開講演会で聴講しました。
 「よみを問う、ことばを探る」と題して奥村悦三先生(奈良女子大学名誉教授)が、「天理と万葉歌」と題して坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)が講演されました。

 奥村先生の講演は、「上代語をどう捉えるか、上代文献をどうよむか」について、多数の資料を取り上げて話されましたが、専門的な内容でこの日の講演だけで理解を深めるには難しすぎました。ただ、「万葉集の歌がなぜ訓(よ)めるか」については、カルチャーでの万葉講座では原文のテキストを用いて講義されており、この部分は馴染みのあるところです。訓示表記をどう訓(よ)むかについては、類似の内容や似た表現を一字一音式(いわゆる万葉仮名)で表記したものと比較(用例を集めて検討)することにより、訓(よ)みが確定されています(未だに訓めていない難訓歌もありますが)。

 以下は坂本先生の講演と配布資料よりのメモ書き
 人麻呂とその妻の墓と推定されている場所が天理市に在るが、その出自・来歴は不明で、人麻呂歌集の略体・非略体歌における所出地名の調査より、生まれ育った場所は奈良盆地東南部では無かったと推定された。
 また、天理市には日本最古の神社の一つとして大和(おおやまと)神社、石上神宮がある。大和神社の祭神の倭大国魂神が『万葉集』では山上憶良の「好去好来歌」に一回だけ詠まれています。憶良は大宝二年(702)に遣唐少録として渡唐しており、天平五年(733)に遣唐大使に任命された多治比真人広成に旅の安全を祈念して贈られた歌です。遣唐使船の舳先には住吉大神を祭る社殿が設けられ(万葉歌R-4245)、倭大国魂も住吉の神と同様に航海の神としての性格を有していたとみられています。

 講演される坂本先生  
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 石上神宮や大和神社は以前に、坂本先生講師の万葉ウォークで訪ねたことがあります。その時の記事は次のURLに載せています。
      ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/501
Posted by katakago at 14:50
大古事記展記念講演会「古事記 ー 海と剣の大ロマン」 [2014年10月09日(Thu)]
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 今月18日から開催される「大古事記展」を記念して、昨日(10/8)講演会があり、幸い抽選にあたって参加できました。千田 稔先生(奈良県立図書情報館館長)が「古事記 ー 海と剣の大ロマン」と題して講演されました。定員200名のところ800名以上の応募があったそうです。
 『古事記』は読み手(国文学者、歴史学者ほか)によって、いろいろな読まれ方をするようですが、最初に、『古事記』に書かれた神話に歴史的投影をを読みとるとすると、何か新しい発見があるか、と問題提起されました。
 以下、興味のあった点をメモに残しておきます(誤りがあれば私の理解不足です)。
 大八嶋国の生成では、最初に生まれるのが淡道(あはじ)の穂の狭別島(淡路島)で最後に大倭秋津島が生まれる。千田先生は、「なぜ淡道が最初なのか」に注目され、淡路島を聖地とする海洋民による連合組織が存在したのではと考えられた。次いで、邇々芸命の天孫降臨神話から海神宮神話(火遠理命と豊玉毗売命との結婚)への転換では、「創世降臨」神話を持つ北方アジアや朝鮮半島の文化の影響を受けた勢力と、中国江南地方の海洋文化の影響を受けた勢力が融合して、初期大和政権が誕生した(海洋民による緩やかな連合組織 → 出雲宗教国家 → 初期大和政権)との仮説を提唱された。

 この「語り継ぐココロとコトバ 大古事記展」(五感で味わう、愛と創造の物語)は、奈良県立美術館で12月14日まで開催されます(主催は奈良県と朝日新聞社)。今回、石上神宮(奈良県天理市)の神宝「七支刀」(国宝)が展示されることになっています(実物展示は10/25~11/24まで)。今回の講演会参加者には、2名の無料観覧の特典があり、月末から始まる正倉院展と併せて出かけようと思っています。
Posted by katakago at 20:25
第27回濱田青陵賞受賞記念講演・シンポジウム(9/20) [2014年09月21日(Sun)]
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 万葉集から始まって、古事記・日本書紀や最近は考古学の分野にも関心の領域が広がり、関連の講演会や現地見学会にも参加する機会が増えました。
 昨日(9/20)は、岸和田市出身の考古学者 濱田耕作(号 青陵)の業績を記念して設けられた濱田青陵賞の27回目の受賞記念講演とシンポジウムがあり聴講しました。
 今年の受賞者は、「百済を中心とする朝鮮半島墳墓の研究と古代日朝関係史、朝鮮考古学の研究」が評価された吉井秀夫氏(京都大学大学院教授)で、受賞記念講演は、「日本列島の古墳と朝鮮半島の墳墓 ー その築造過程からみた比較 ー」と題して行われました。

 講演される吉井秀夫氏
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 講演の中で興味があった「墳墓の築造過程の違いとその意味」について、当日の配布資料とパワーポイントの画面(以下の2枚の写真)より、メモを残しておきます。
 墳丘先行形墳墓の例(日本の前方後円墳)
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 墳丘先行形墳墓の場合、被葬者を棺に安置する葬送儀礼は、埋葬施設が位置する墳丘上面で行われる(墳丘が一連の葬送儀礼が行われる舞台であったとの見解)。
 それに対し、新羅と加耶諸国が位置する洛東江流域の墳墓の場合、地下に埋葬施設を造りその中に被葬者・埋葬品を安置してから墓壙全体が埋め戻され、その後地上に墳丘が造られた(墳丘後行型墳墓)。
 古墳時代(朝鮮半島では高句麗・百済・新羅・加耶諸国の三国時代)には、朝鮮半島との交流があり、地域毎の墳墓の構造や規模の相違については、当時の人々はある程度知っていたにもかかわらず、独特な墳墓が築造され続けたのは、吉井氏によれば、それぞれの地域毎に、墳墓築造の基本原理と葬送儀礼の伝統が守られてきたからとみられています。

 朝鮮半島と日本列島の王墓の規模の比較
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 この図では大仙古墳が朝鮮半島の墳墓に比べ異常な大きさであるが、図中の赤丸部分が葬送儀礼の空間で、このレベルで比較するとあまり違わないとのことでした。
 ちなみに、この図に示された皇南大塚は、3年前の韓国歴史の旅(飛鳥を愛する会の秋季現地講座)で皇南洞古墳公園を訪れた際にその外観を見学しました。

 後半は、「波涛をこえて ー 古代東アジアの交流史 ー」と題して、受賞者の吉井氏と4人のパネリストによるシンポジウムが行われました。
 パネリストによる講演の様子
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 参考までに昨年の記事は
      ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/702

韓国歴史の旅で皇南大塚を訪れた時の記事は
      ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/209

Posted by katakago at 17:50
川西市の新発見遺跡の報告講演会(9/7) [2014年09月08日(Mon)]
 川西市の遺跡として、市内南部に位置する弥生時代中期の加茂遺跡(約20ヘクタールの大規模集落、一部は国史跡に指定)が有名ですが、今回、新名神高速道路建設に伴う発掘調査により、市内北部でも新たな遺跡が発見され、その報告講演会が開催されました(9/7)。
 写真は会場(中央公民館)に掲示されたパネル
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 @西畦野下ノ段・井戸遺跡とA石道才谷・堂ノ後遺跡の発掘成果が、それぞれ担当された中川渉氏(遺跡@)と久保弘幸氏(遺跡A)から報告されました(両氏は共に公益財団法人兵庫県まちづくり技術センター所属)。

 遺跡@については、市内初めての縄文時代前期・中期の土器が出土し、3世紀の集落跡から重圏文鏡が見つかり、平安~鎌倉時代の建物跡群も発見されました(長期間にわたり人々の生活の場になっていた可能性)。

 遺跡Aについては、奈良時代の建物跡と旧河道が見つかり、墨書土器や木簡・木製祭祀具(斎串)が出土し、何らかの役所に関連する遺跡とみられています。さらに、多量に出土した製塩土器(製塩現地からそのまま土器に入れた状態で運ばれてきた)も注目されています(家畜の飼育には塩が必須で、特に多量の汗をかく馬には塩が必要であったとのこと)。
 『日本後紀』平城天皇大同3年7月条(808年)に、「摂津の国川辺郡の畦野牧を廃す」とあり、上記のような状況証拠から、この遺跡が奈良時代に存在した官営牧場「畦野牧」である可能性が示唆されており、出土遺物の継続的な分析結果が待たれます。

 
 なお、市内の加茂遺跡関連記事は次のURLに載せています。
    ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/676  


Posted by katakago at 06:04
奈良講座「記紀万葉」第3回(9/6) [2014年09月07日(Sun)]
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 先月末から11月初めにかけて、6回のシリーズで奈良講座「記紀万葉」が開催されています(上の写真は武庫川女子大学中央キャンパス正門前の立て看板)。
 阪神電車なんば線(神戸三宮から尼崎経由で大阪難波からは近鉄奈良線に乗り入れて奈良まで直通)の開業5年周年を記念して、阪神電鉄が主催し武庫川女子大学(奈良方面からの学生も増えているとのこと)の共催で実施されています。この講座に参加するには事前の申し込みが必要で、応募者多数の場合は抽選となります(現時点では申し込みは締め切られている)。

 第三回目(9/6)は、影山尚之先生(武庫川女子大学教授)による「万葉の歴史と風土 ー 聖武天皇と奈良・難波・播磨 ー」と題する講演です。私は先生のご配慮により参加できましたが、万葉仲間の4人が申し込んだところ、1名のみがあたり(4名まで参加可)で、かろうじて一緒に聴講できました(200名の定員に対し700名以上の応募があったようです)。
 抽選にあたった人に発送された招待ハガキ
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 これまで、朝日カルチャー中之島の瀧浪貞子先生(京都女子大学名誉教授)による「歴史の中の藤原氏」の講座で、不比等の外孫としての首(おびと)皇子・女帝と藤原氏・聖武と光明子などの話題が取り上げられ、二人の女帝(元明。元正)を中継ぎに天武直系の男帝として即位(24歳)した聖武天皇に関する講義を興味深く聴いて来ました。
 今回、その聖武天皇が万葉の歴史と風土の視点で語られるので関心がありました。以下講演と配布資料よりメモを残しておきます。
 影山先生によると、紀貫之が書いた『古今和歌集』仮名序にある「ならの御時」・「ならのみかど」は聖武天皇を擱いて他になく、その時代(神亀・天平期)に和歌が興隆し、聖武自身『万葉集』に短歌10首長歌1首を留める、まさに「歌の心をしろしめ」す天皇であった。
・即位直後に紀伊国行幸・吉野行幸が行われ、柿本人麻呂以来の行幸供奉讃歌が復活した(山部赤人・笠金村・車持千年らの宮廷歌人が活躍)。
・天武朝に焼失した難波宮(前期難波宮)の再興事業が行われ(後期難波宮)、難波宮周辺が賑わいを取り戻した(金村・千年・赤人らの供奉讃歌)。
・播磨国は聖武天皇即位の大嘗祭の際に須機(主基)国になった関係で行幸が行われ、金村・赤人が歌を詠んでいる(名寸隅・印南野・藤江の浦・辛荷の島・都太の細江・敏馬の浦・須磨などの地名が詠み込まれている)。


Posted by katakago at 16:43
シンポジウム「万葉集と記・紀・風土記」(8/2) [2014年08月05日(Tue)]
 先日(8/2)、「万葉集と記・紀・風土記」をテーマにシンポジウムが開催され参加しました(会場は大阪府立大学I-site なんば)。
 前半は三人の先生方による下記テーマの講演、後半はそれらの内容について会場からの質問にも答える形式で行われました。講師とテーマは、
@「古事記の夢・万葉の夢」 菊川恵三先生(和歌山大学教授)
A「『日本書紀』と『万葉集』ー中大兄三山歌からー」 上野誠先生(奈良大学教授)
B「逸文『伊予国風土記』と万葉集」 村田右富美先生(大阪府立大学教授)

 以下にメモ書きを残しておきます。
 万葉歌には100首余り夢が詠まれていますが(多くは相聞歌)、今回の講演では初期万葉の挽歌(天智挽歌A-150)が取り上げられました。
 『古事記』では、中巻に5ヶ所の夢の記事(神武記、崇神記、垂仁記(2ヶ所)、仲哀記)があり、いずれも、大きな危機に直面した時にどうすればよいか、天皇が神にお伺いを立てています(神が夢の中にあらわれて、いずれの神の祟り(怒り)であるか、その神をどのように慰めるか(どのようにお祭りするか)を告げる)。崇神記には、疫病が蔓延した時、天皇が神託を受けるための床におやすみになった夜に、大物主大神が夢の中にあらわれて、自分の祭りと祭主(意富多々泥古)を指示する記事があります(当日配布の資料より)。 

 万葉歌には、題詞や左注に『日本書紀』の引用(他の資料もある)がなされています。講演では巻一の中大兄三山歌(@-13〜15)を例に、編纂者が『日本書紀』を引用(どのような時の歌かなど歌を理解する上で必要な情報を提供)することにより、歌の解釈にレールを敷いてくれているとの考えを述べられました(巻一、二は自分たちの歴史を歌で語ってゆく”心の歴史”とも)。

 風土記と万葉歌については、昨年、毎日文化センターの12回の講座(講師は梅花女子大学の市瀬先生)を受講しました(今回取り上げられた話題も含む)。今回の講演を機にあらためて当時の講座もふり返ってみようと思います。 

 会場での様子
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Posted by katakago at 14:01
難波宮発掘60周年記念シンポジウム(7/5) [2014年07月06日(Sun)]
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 昨日(7/5)大阪歴史博物館で難波宮発掘60周年記念シンポジムがあり出かけて来ました(2月にも講演会があり聴講)。今回は4人の講師(考古学の専門家3名、建築史の専門家1名)が参加され、先ずそれぞれのテーマで話された後、博物館学芸員(李陽浩氏)の司会により、パネルディスカッションが行われました(1枚目の写真)。
講師とテーマを下記に記しておきます。
「難波宮の歴史的意義」 積山 洋(大阪文化財研究所)
「小墾田宮と飛鳥宮」 相原 嘉之(明日香村教育委員会)
「藤原宮と平城宮」 箱崎 和久(奈良文化財研究所)
「長岡京と平安京」 網 伸也(近畿大学文芸学部)

 講演される積山 洋氏(スライドは前期難波宮の遺構配置図)
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 前期難波宮は乙巳の変後即位した孝徳天皇の宮で、王宮プランはこれまでの宮とは以下の点で大きく異なる。
・内裏における公私の分離→内裏前殿(正殿)の成立(後(藤原宮)の大極殿につながる)
・大規模な朝堂院(中国・朝鮮半島には見られない)の成立(王権のもとに管理された官人制)
・内裏前殿(北側)を基点とする南北軸線構造 

 
 大阪歴史博物館では、「大阪遺産 難波宮」の特別展が開催中で(8/18まで)、シンポジウムの前に見学しました。
 鴟尾の破片(大阪歴史博物館展示)
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 昭和28年(1953)11月、法円坂住宅第13号棟建設工事中に地下約1.2mから発見され、宮殿の存在を確信させる物的証拠となった。これをきっかけに、山根徳太郎博士の主導のもと、昭和29年(1954)2月20日から難波宮跡の第一次発掘調査が開始された。

 前期難波宮内裏西方官衙の倉庫の遺構展示
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 大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の地下には内裏西方官衙の倉庫の遺構が展示されており、今回初めて博物館ボランティアの案内により見学することが出来ました。

なお、先(2/23)に行われた関連の記念講演会の記事は次のURLに載せています。
      ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/777

Posted by katakago at 15:52
講演会「瀬戸内の万葉歌」 [2014年05月16日(Fri)]
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 昨日(5/15)午後、大阪府立大学で、講演会「万葉の道を歩く」の第10回目が開催され出かけて来ました。今回は、「万葉の旅・人麻呂の旅〜瀬戸内の万葉歌〜」と題して、村田右富実先生が講演されました。
 室の浦(兵庫県御津町室津付近)、牛窓(岡山県瀬戸内市牛窓付近)、玉の浦(岡山県倉敷市玉島付近)、鞆の浦回(広島県福山市鞆付近)、長門の島(広島県呉市倉梯島付近)、鳴門(山口県大島郡屋代島と柳井市との間の海峡)、熟田津(愛媛県松山市付近)が詠まれた歌(これらの地はいずれも以前に訪れたことがあります)と、人麻呂の羇旅歌八首について解説されました。
 講演の最後に、大伴旅人が大納言となって大宰府から帰京の途についた時に詠んだ歌も紹介されました。旅人は大宰帥として筑紫に赴任して直後に同道した妻を亡くしており、筑紫への往路で共に見た鞆の浦の”むろの木”を帰京の折りには一人で見ることになった悲しみが詠まれています。
【歌】 我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき (B-446)
【歌】 鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも (B-447)
【歌】 磯の上に 根延ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか (B-448)
 この3首は、左注に「鞆の浦に過(よき)る日に作る歌」とあり、あえてその地に立ち寄り、亡き妻のことを思いやって詠まれた歌々です。

 むろの木は、ひのき科のネズとする説があります(イブキとする説も)。植物園ではネズを植えています。
 裏山に植えているネズの写真
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ネズについて以前に紹介した記事は次のURLに載せています。
      ↓
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/113
Posted by katakago at 15:42
難波宮発掘調査60周年記念講演会 ー 難波宮と大化改新 [2014年02月24日(Mon)]
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 今年は難波宮発掘調査が始められて60年にあたります(山根徳太郎博士が大阪市立大学退官後に調査を始めたのが1954.2.20)。これを記念して、昨日講演会とシンポジウムが開催されました。主催者(大阪市博物館協会・大阪市立大学・なにわ活性化委員会)によると、定員250名のところ1000人ほどの申し込みがあり参加者は抽選となったそうです。幸い私は抽選で選ばれて参加することが出来ました。
 4名の研究者による演題は次の通りです。
「大化改新と孝徳朝」 磐下 徹 氏(大阪市立大学講師)
「大化の薄葬令と古墳の終末」 岸本 直文 氏(大阪市立大学准教授)
「大化改新と宮殿建築の新しいカタチ」 李 陽浩 氏(大阪歴史博物館学芸員)
「周辺部の発掘成果からみた前期難波宮」 高橋 工 氏(大阪文化財研究所調査課長)

 難波宮の所在地は戦前までは不明であったが、それを突き止めたのが故山根徳太郎博士です。1953年、大阪城南側の法円坂住宅工事現場から鴟尾(しび)が発見されたのをきっかけに、1954年から発掘調査が行われました。宮殿遺跡は重なった2期のものに分かれ、地層の上下関係や遺構の重なり具合から先に作られた宮殿を前期難波宮、後の宮殿は後期難波宮と呼ばれています。前期難波宮は飛鳥時代(7世紀)中頃に造営され、後期難波宮は奈良時代(8世紀)前半に造営が開始されたと考えられています(大阪歴史博物館編『前期難波宮』より)。
 前期難波宮の北限の谷から見つかった木簡には、「戊申(ぼしん)年」と書かれ(国内最古の紀年銘木簡)、同じ場所から出土した土器が7世紀中ごろのものであることより、この年は648年と考えられ、前期難波宮は大化改新(645年)後の650年に造営が開始された、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮であると考えられています。孝徳天皇の崩御(654年)により都は飛鳥に戻りますが、天武天皇の時代(天武十二年,683)に複都制の詔が出され難波宮が複都とされます。朱鳥元年(686)に、難波大蔵より出火・宮室罹災の記事が『日本書紀』に記されています。ここまでが前期難波宮で、後期難波宮は、聖武天皇が神亀三年(726)に難波宮再建に着手してから、延暦三年(784)に桓武天皇が長岡京へ遷都のため難波宮殿舎を解体、移築するまでとされています。

 講演内容未消化ながら、興味があった内容について当日の資料も参考にしながら以下メモに残しておきます。
(磐下氏の講演から)
「大化改新」は、645年6月の蘇我氏本宗家の滅亡(乙巳の変)に端を発する一連の国政改革で、大宝律令完成(701年)に象徴される中央集権国家体制成立の起点とされています。20世紀の「大化改新」論では、天智天皇や天武・持統天皇を8世紀の律令国家の起点として高く評価する一方、孝徳朝の評価は低くみられていました。
 その後新たな検討材料(王宮の遺構や一次資料としての木簡)をもとに、21世紀の「大化改新」論が展開されることになった(以下はその研究基点)。
・公民制の成立
 石神遺跡出土乙丑年(天智四年,665)木簡
  釈文:乙丑年十二月三野国ム下評
     大山五十戸造ム下ア知ツ 従人田ア児安
 →孝徳朝(大化五年,650)に全国的な「国ー評ー五十戸」制が施行(8世紀の国ー郡ー里制に通じる律令制的人民支配が成立)
・官僚制の成立
 前期難波宮(孝徳朝)の遺構に見られる整然とした朝堂・曹司域
 →「難波朝廷之立礼」等を実行した儀礼空間、執務空間の存在(冠位制、官司・官職大系の存在)

(岸本氏の講演から)
 薄葬令(646年の旧俗改廃の詔)は改新諸政策の一つで、考古学的な立場から改新の実態解明に迫ろうとするもの。
 最有力墓(斉明天皇陵とみられる牽牛子塚古墳など)は別として、7世紀前葉の墳丘規模は12〜40尋(1尋=1.5m)で、7世紀中頃以降はほぼ15m以下になるとのことでした(薄葬令が実行されているとの見解)。

(李氏の講演から)
 『日本書紀』には数多くの造営記事がありますが、建物の姿にまで言及したものは難波長柄豊碕宮で、「秋九月に、宮を造ること已に訖りぬ。其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず(その姿は言葉に出来ないほど素晴らしい)。」と記されています。建物や配置計画には、先進的・画期的な要素が認められるとのことです。以下はその特徴的な点。
・天皇の居住域(内裏)と官人達が参集し政務や儀式を行う空間(朝堂院)を明確に分離
 内裏は軒廊で繋がれた前殿と後殿からなり、このような配置は「工字殿」ともいわれ(東アジア的にみても最も早い部類)、天皇の出御方法と関連するとみられています。朝堂院は、中央に広大な庭(ここで儀式が行われ)と、その周囲に14堂(あるいは16堂)の朝堂があり場所ごとに建物規模が異なり、その規模の違いは着座する官人の冠位の違いを示している可能性があるとのことでした。
・中軸線(南北軸)と左右対称の建物配置
中軸線上に重要な建物が集中し、この線上を通ることが権力の中枢を通ることを意味し、空間的ヒエラルキーが政治的ヒエラルキーへと転化する様子を読み取れると述べられていました。
・建物類型(ビルディングタイプ)
古代建築・宮殿での最古の例として、八角殿・大型門・複廊(翼廊)・軒廊等
 孝徳天皇崩御後、都は飛鳥に戻りますが、そこでの宮殿はこのような先進的な考えは用いられておらず、藤原宮で継承されてゆくことになったようです。

 講演の後行われたシンポジウムの様子
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 後期難波宮大極殿の復元基壇と礎石(難波宮跡公園にて)
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 復元基壇と難波宮跡公園(大阪歴史博物館10階から撮影)
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 大阪歴史博物館は内裏西方官衙跡の上に建てられており、難波宮跡の傍には大阪城があります。
 博物館10階より眺めた大阪城(お城を上から眺めるには絶好の場所)
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 なお難波宮発掘60年記念行事はこのほか、大阪市立大学公開講座(「難波宮発掘60年と山根徳太郎博士」,3/3)や大阪歴史博物館の特別展(「大阪遺産 難波宮 ― 遺跡を読み解くキーワード ー」,6/21〜8/18)が予定されています。


Posted by katakago at 16:45
冬の明日香を訪ねて(2/1) [2014年02月02日(Sun)]
 万葉文化館の講演会(2/1)に出席するため、明日香村に出かけました。午後からの講演まで時間があったので、橿原神宮前駅から歩いて行くことにし、途中甘樫丘に立ち寄り、山頂で大和三山を眺めながら昼食をとりました。この日は気温も上昇し、散策には好都合でした。
 大和三山(左から畝傍山・耳成山・香具山、写真は2枚をつなぎ合わせた)
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 講演会は統一テーマ「風土記1300年記念」の最後(3回目)で、「『豊後国風土記』と大和王権」と題して、竹本 晃氏(万葉文化館主任研究員)が講演されました。次の三つの課題を設定して話されました。
@『日本書紀』景行天皇条で、なぜ豊後を取り上げる必要があったのか。
A同条では、豊後地域のどういう取り上げ方が目指されたのか。
B『豊後国風土記』は、なぜ『日本書紀』を利用したのか。
以上の点について、7〜8世紀の豊後地域における社会状況と照らし合わせながら見解を述べられました。
 NHKカルチャーで受講している「日本書紀の講座」では、ちょうど景行天皇条を読み始めたばかりで、今回の『豊後国風土記』にかかわる講演内容も参考にしながら読み進めればと思っています。
Posted by katakago at 17:20
府立大で講演会(1/30) ー 近江遷都と額田王 [2014年02月02日(Sun)]
 先月末は行事が続きました。ここでは1月30日に大阪府立大学で開催された「万葉の道を歩く第9回講演会」についての報告です。村田右富美先生(府立大教授)が、「近江遷都と額田王」と題して講演されました。
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 額田王は、『万葉集』には行幸・遷都・大殯(たいひん)などの宮廷儀礼や、肆宴(しえん)等での歌全13首(重複歌1首)を残しています。『日本書紀』天武天皇二年(673)二月条に、「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶りて、十市皇女を生む。」とあり、即位前の天武(大海人皇子)との間に十市皇女が生まれています。天智朝で十市皇女は大友皇子(天智天皇の皇太子)の妃となり、葛野王が生まれ(額田王にとっては孫)ますが、後にかつての夫大海人皇子と娘(十市皇女)の夫である大友皇子が争う壬申の乱が起こっています(672年)。近江遷都は『日本書紀』天智天皇六年(667)三月条に、「三月の辛酉の朔にして己卯に、都を近江に遷つす。」とあります。白村江の敗北(663年)の後、大陸政策と国内体制の再編のため畿外の地近江に都が遷されました。この時、百姓(おおみたから)は動揺し、放火や批難の童謡(わざうた)が多かったと、『日本書紀』に記されています。

 今回の講演で取り上げられた歌の中から、三輪山惜別歌と春秋判別歌を載せておきます。
先ず題詞に、額田王、近江国に下る時に作る歌、とある長歌と反歌、
【歌】 味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや (@-17)
【歌】 三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや (@-18)
 三輪山は大和盆地の南東に位置する山で、西の葛城山とともに 大和の守護的な山で、その山をあとに都遷りするに際し、丁重に別れを惜しみ地霊を慰撫する必要があったと考えられています。

 次は、題詞に、「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山万花の艶と秋山千葉の彩とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王、歌を以て判る歌」とある、春秋判別歌、
【歌】 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りも取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は (@-16)
 「春山万花の艶」と「秋山千葉の彩」を詩歌で競わせた時に、廷臣たちが漢詩で応えや中で、額田王が歌で応じたもので、秋山が良いと詠っています。


 なお、今回取り上げられなかった蒲生野遊猟の際の、額田王と大海人皇子との贈答歌については、以前のムラサキの記事に歌の解説も載せています。
         ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/57






Posted by katakago at 17:14
講演会&新年会(万葉の大和路を歩く会) [2014年01月20日(Mon)]
 昨日、「万葉の大和路を歩く会」の講演会(於 奈良県立文化会館)と新年会(於 北京料理 百楽)が開催され出かけて来ました。
 講演会での演者は、歩く会の講師もされている影山尚之先生(武庫川女子大学教授)で、演題は「万葉集 歌のちから、歌ことば」でした。
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 講演では、はじめに光明皇后の次の歌を取り上げられて万葉歌の「ひとり」と「ふたり」について話されました。
【歌】 吾背児与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思 (G-1658 冬相聞)
【読み下し文】 我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし
【口語訳】 大君(聖武天皇)と 二人で見るのでしたら どんなにかこの降る雪が 嬉しいでしょう
 万葉集中、「ひとり」が72例、「ふたり」が24例あるとのことです。
「ふたり」の用例には、二人ではない一人を不充足な状態として嘆くもの(次の例)と、
 【歌】 行くさには 二人我が見し この崎を ひとり過ぐれば 心悲しも (B-450)
理想的な二人の状態を歓迎するもの(次の例)がみられるようです。
 【歌】 馬買はば 妹徒歩ならむ よしゑやし 石は踏むとも 我は二人行かむ (L-3317)
 一方、「ひとり」の用例は、二人でその行動をしたいのに、一人であるためにそれが出来ないことを嘆く歌(次の例)にみられるようです。
【歌】 妹と来し 敏馬の崎を 帰るさに 一人し見れば 涙ぐましも (B-449)

 講演では、「『ふたり』共に何かを行うことを前提とし、それが不可能であるとき、萬葉人は『ひとり』という言葉を用いる。すると、そもそも共に在り、『二人』共に行うことが常態であり、そうできない非常事態が『ひとり』何かを行う情況であるということになろう。」、という哲学者の解説も紹介されました(川井博義著『人間存在と愛ーやまとことばの倫理学ー』)。

 
 新年会の会場で挨拶される坂本信幸先生(右は影山先生)
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 会場は近鉄奈良駅ビル8階の角部屋で、大変眺めのよい場所でした(写真後方中央には若草山)。中華料理とお酒をいただきながら、40名ほどの参加者全員が一人ひとり”万葉”への思いを語り合いました。参加者の中には、北海道や東京からも来られていました。この会のお世話をされている富田さんの資料によると、犬養孝先生が作成された12のコースをもとに昭和56年に1回目がスタートし、先生が亡くなられてからも継続され今回が428回目にになるそうです(総参加者数は70,874人とのこと)。歌を鑑賞する場合、歌が詠まれた歴史と風土に身を置いてが、先生の教えであったように思います。これからもこのような企画を続けていただければと思います。私は退職後関西で暮らすようになって、この会の行事にはこれまで9回参加していますが、カルチャーの仲間にも参加を呼びかけてゆきたいと思っています。
Posted by katakago at 16:56
万葉文化館で講演会 ー 播磨国風土記と飛鳥 ー [2013年12月25日(Wed)]
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 統一テーマ「風土記1300年記念」の3回にわたる講演会の2回目が23日に開催され出かけて来ました。
 1回目(「出雲国風土記と古事記」)は次のURLに掲載しています。
         ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/728

 今回は、「播磨国風土記と飛鳥」と題して、小倉久美子氏(万葉文化館主任技師)が講演されました。『播磨国風土記』は現存する五つのうちの一つで、平安時代の写本(三条西家本)が残っています(現在は天理図書館蔵)。長く秘蔵されていたため江戸時代になって初めて見ることが出来るようになったとのことです。
 現存する五つの風土記に記される天皇を調べられたところ、『播磨国風土記』は最も多く、孝昭から天武のほぼ歴代の天皇が登場するようです(これに次いで数が多いのが『常陸国風土記』)。なお、五つに共通してあらわれるのは景行天皇です。
 『播磨国風土記』で最も回数が多いのが品太(ほむだ)の天皇(応神天皇)で43回にのぼるようです(うちいくつかは地名起源説話で登場)。
 賀毛の郡の条には、即位前の顕宗・仁賢天皇(哀奚・意奚二はしらの皇子)の物語が載っています(関連記事は下記のURLを参照)。
      ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/615

 揖保の郡の条には、次のような地名起源説話がが載っています。
「上岡の里。本は林田の里なり。土は中の下。出雲の国の阿菩の大神、大倭の国の畝傍・香山(かぐやま)・耳梨の三つの山闘ふと聞きたまふ。此に諌め止めむと欲して、上り来ましし時に、此処に到るすなはち闘ひ止むと聞かして、その乗らす船を覆へして坐しき。故れ、神の阜(をか)と号く。阜の形、覆へしたるに似たり。」(三山の争いを聞いた出雲国の阿菩の大神は、それを仲裁しようと播磨国まで来たところ、争いが終わったことを聞き、乗ってきた船をひっくり返して鎮座した。そこで、そこを神阜(かむおか)と名づけた)。
 『万葉集』には、中大兄(なかのおほえ)の三山の歌があります(読み下し文は『新潮日本古典集成 萬葉集』による)。
【長歌】 香具山は 畝傍を愛(を)しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき (@-13)
【反歌】 香具山と 耳成山と 闘(あ)ひし時 立ちて見に来し 印南国原 (@-14)
この歌の解釈については注釈書によって諸説あり、下記のURLに関連記事を載せています。     ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/328 

 なお、『萬葉集釈注』によれば、「古代では、旅して通過していく土地についてうたうことは、その土地の地霊をたたえることを意味し、そうすることで無事なる旅が続けられるという考えがあった。中大兄も、眼前の印南国原を見はるかしつつ、この地の伝説に思いを致すことで、先行きの幸を祈ったのであろう」とあります。
  

Posted by katakago at 20:40
大坂洋学事始 ー その萌芽と成熟(適塾記念講演会) [2013年12月15日(Sun)]
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 昨日(12/14)、大阪大学適塾記念講演会がありました。今年は、阪大の知的源流とされる適塾創設の175周年、また緒方洪庵没後150周年にもあたり、総合学術博物館でも「緒方洪庵・適塾と近世大坂の学知」と題する特別展が開催中です(12/27まで)。
 適塾は、幕末に蘭医学研究の第一人者とされる緒方洪庵が開いた塾で、我が国蘭学塾の唯一の遺構として今も残っており(国指定重要文化財)、現在は阪大適塾記念センターで管理されています。 

 今回は、「大坂・京都のキリシタン ー キリスト教受容と知的交流 ー」(演者は関美穂子東大史料編纂所助教)と「緒方洪庵の薬箱由来生薬の本草学的意義と東西融合医療」(演者は高橋京子阪大総合博物館准教授)の二題の講演が行われました。

 二つ目の講演の「緒方洪庵の薬箱」は、蘭方医学を取り入れ実地医療に貢献した洪庵の薬物治療観を現代に伝える重要な医療文化財と考えられています。本講演の研究目的は、当時蘭方と漢方の東西医学を融合させ、実践した洪庵の臨床経験の知識を本草学の視点から検証しようとするものです。収納薬袋には、植物・動物・鉱物由来の59種の生薬名が記載されており、これらの生薬名について国内外の生薬資料標本と比較検討がなされました。含有パターンを主成分分析により解析された結果、和漢薬系の資料、戦後局方と蘭方系の資料、戦前局方がそれぞれクラスターを形成し、薬箱収載生薬はこれらのクラスターの中間に位置し、薬箱の生薬は漢方・蘭方双方の特徴を反映していることが明らかにされました。實芰(ジギタリス、強心配糖体を含有)も用いられていた可能性も示され、大変興味深い内容でした。
Posted by katakago at 15:25
万葉の道を歩く第8回講演会ー万葉の花 [2013年11月08日(Fri)]
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 昨日(11/7)大阪府立大学で「万葉の道を歩く」の第8回目の講演会があり出かけて来ました。今回は、廣川晶輝先生(甲南大学教授)が「万葉の花」と題して講演されました。私設の万葉植物園を開設し、ブログで四季折々の植物の写真を発信していますので、この演題には興味がありました。講演では大変わかりやすく解説していただいた歌の一部を載せておきます。
1.挽歌に詠まれた遺愛の花
万葉第三期・四期の歌人の挽歌には、遺愛の花(下記の歌では太字で表記)が詠まれたものがあります。

【歌】 妹が見 の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに (D-798)
 山上憶良の日本挽歌の5首ある反歌の一つで、左注には「筑前国守山上憶良上(たてまつ)る」とあり、大伴旅人の妻を失った立場に同情し、旅人になり代って詠み、献上したことがうかがわれます。

【歌】 妹として 二人作り 我が山斎は 木高く繁く なりにけるかも (B-452)
【歌】 我妹子が 植ゑの木 見るごとに 心むせつつ 涙し流る (B-453)
 大伴旅人(大宰府で妻を亡くした)が大宰府での任を終え、奈良の都へ帰還した時に詠んだ亡妻挽歌。

【歌】 秋さらば 見つつ偲へと 妹が植ゑ やどのなでしこ 咲きにけるかも (B-464)
 題詞には、「大伴宿禰家持が亡(す)ぎにし妾(をみなめ)を悲傷して作る歌」とあり、庭に咲く遺愛の花(なでしこ)を愛おしい存在として歌に詠みこまれています。
 なお、講演では、上記の歌ではいずれも、「妹が見」、「二人作り」、「我妹子が植え」、「妹が植ゑ」と、直接経験の過去を表す「」が用いられていることが指摘されていました。

2.相聞歌に詠まれた花と恋ごころ
【歌】 朝咲き 夕は消ぬる 月草の 消ぬべき恋も 我はするかも (I-2291)
 月草はツユクサで、朝には咲いて夕方にはしぼんでしまう月草のように、身も心も消えてしまいそうな切ない恋が詠われています。

【歌】 恋ふる日の 日長くしあれば 我が園の 韓藍の花の 色に出でにけり (I-2278)
 韓藍はケイトウで、恋しく思う(愛しい男性が来ないので)日が重なったので、色鮮やかなあの韓藍の花のように、私の恋心が表に出てしまった、と詠まれています。「恋ふる」は、相手が眼前にいないために惹き起こされる感情を表す語で、『万葉集』の原文表記が「孤悲」と表記される例が30例ほどあるようです。




Posted by katakago at 15:47
明日香の万葉文化館を訪ねて [2013年11月04日(Mon)]
 今年は和銅六年(713)に風土記編纂の命が出て1300年目にあたります。奈良県立万葉文化館では、統一テーマ「風土記1300年記念」と銘打って、3回のシリーズで講演会(万葉古代学講座)が予定されており、昨日(11/3)はその一回目があり出かけて来ました。
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 今回の演題は「出雲国風土記と古事記」で、井上さやか氏(万葉文化館主任研究員)が講演されました。先月「飛鳥を愛する会」で島根県を訪れたこともあり、この演題に興味がありました。
 『続日本紀』元明天皇和銅六年五月二日条に、「畿内と七道との諸国の郡(こほり)・郷(さと)の名は、好(よ)き字を着けしむ。その郡の内に生(な)れる、銀・銅・彩色・草木・禽(とり)・獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目を録し、土地の沃塉(よくせき)、山川原野の名号の所由(しょいう)、また古老の相伝ふる旧聞・異事は、史籍に載して言上せしむ。」とあります。
 『出雲国風土記』は現存する5つの内の一つで唯一の完本とされる。九郡。郷は六十二とあり、その郡や郷の名の謂れに関連して多くの神が登場します。その一例として、総記には、「出雲と号くる所以は、八束水臣津野命(やつかみずおみづのみこと)、詔りたまひしく、『八雲立つ』と詔りたまひき。故れ、八雲立つ出雲と云ふ」とあります。今回の講演では56の神名が挙げられました。
 意宇郡(おうのこほり)母理郷(もりのさと)の個所で登場する所造天下大神大穴持命(あめのしたつくりまししおほかみおほなもちのみこと)は、『古事記』上巻では、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)の五世孫である大国主神(おほくにぬしのかみ)の五つある亦の名の一つとして、大穴牟遅神(おほあなむぢのかみ)が出て来ます。他の三つは、葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)・八千矛神(やちほこのかみ)・宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)です。なお、『古事記』で語られる稲羽素兎神話や八千矛神神話などの出雲神話は、『日本書紀』には出てきません。

 万葉文化館の前庭の木々も大分紅葉が見られるようになりました(写真左手前はヤマボウシ(みずき科)。
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Posted by katakago at 10:41
第26回濱田青陵賞受賞記念講演会(市 大樹氏) [2013年09月22日(Sun)]
 濱田青陵賞は、岸和田市にゆかりの考古学者濱田耕作(号 青陵)博士の業績を称えるとともに、考古学の研究で業績のあった新進の研究者や団体を表彰するもので、1988年に岸和田市と朝日新聞社によって創設されたものです。今回の受賞者市 大樹氏(大阪大学准教授、42歳)の受賞理由は、「考古学と木簡などの研究を重ね、古代国家の研究を大きく前進させた」となっています。市氏は、2009年に阪大に移られるまでは、奈良国立文化財研究所(飛鳥・藤原宮跡発掘調査部)に勤務され、出土して間もない多数の木簡の整理研究に従事されてこられました。
 市氏については、これまで二度講演を聴く機会がありました。一回目は朝日カルチャーの阪大中之島講座(木簡を読む ー 飛鳥時代の木簡 ー、2010.1.19,26))、二回目は今年(5/27)の立命館大阪プロムナードセミナー「災害・戦災の歴史 − その教訓に学ぶ」(日本古代の災異と復興)です。そこであらためて今回の受賞講演も聴講したく岸和田市まで出かけました(9/21)。

 記念講演をされる市氏(演題は「木簡から日本古代国家の形成過程を考える」)
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 講演の中で、「木簡研究の醍醐味は、木簡の出土した遺跡・遺構との関わりの中で、木簡の資料的価値を最大限に引き出し、既存の文献資料と照らし合わせることによって、新たな史実を掘り起こすことにある」と述べられていました。以下講演の中で興味のあった個所のメモを資料も参考にして残しておきます。
 7世紀の日本は朝鮮半島から多大な影響を受けていたが、7世紀末に藤原不比等が台頭すると、新羅路線から唐風化路線への転換が図られ、701年には大宝律令が制定され、約30年ぶりに遣唐使も任命され、最新の中国制度を直接摂取しようとする志向が強くなった(朝鮮半島方式から中国同時代方式へ)。こうした転換は、木簡からもうかがえるとのことでした。その一例として、701年の大宝令施行をうけて、コホリの表記は朝鮮系の「評」から中国系の「郡」に一斉に切り替えられたことが、出土木簡の調査から明らかになった。
 日本古代国家の地方行政区分は、クニ ー コホリ ー サトという重層構造をとっていましたが、藤原宮跡から出土した木簡には「己亥年十月上捄国阿波評松里」と書かれていました。その己亥年は699年にあたる(この年に「評」字が使われていたことを示す同時代資料)。その後、藤原宮跡からは、700年に相当する「庚子年」の荷札木簡も出土し、現在まで多数の木簡が出土しているが、地方行政区分のコホリは、700年までは「評」、701年以降は「郡」で例外は全くないとのことです。『日本書紀』の改新の詔(646年に出された)の記述は、大宝令の知識にもとづいて「郡」と表記されたことが明らかになり、郡評論争に完全に決着が付けられた(以上、市 大樹著『飛鳥の木簡ー古代史の新たな解明』より)。


 受賞講演の後、記念シンポジウム「解き明かされる国家の原像」が行われることになっていましたが、夕方に明日香村で行われるイベントに参加するため途中退席しました。
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 後ほど、配布資料でパネリストの方々の資料を見ましたが、そのうちのお一人の千田 稔氏(奈良県立図書情報館館長)の、「国家という幻像 『古事記』から読む」は興味深い内容で、あらためて聴く機会があればと思いました。
Posted by katakago at 15:20
近つ飛鳥博物館の講演会(9/8) [2013年09月09日(Mon)]
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 『日本書紀』推古天皇条に、「二十一年の冬十一月に、掖上池・畝傍池・和珥池を作る。また、難波より京に至るまでに大道(おほち)を置く。」とあります。
 今回の大阪府立近つ飛鳥博物館主催の講演会(9/8)は、この推古二十一年(613)の難波〜飛鳥間大道設置1400年にちなんで、「大阪が古代史で果たした役割を考える」と題して開催されました(於 りそな銀行大阪本店地下講堂)。参加募集定員500名に対し700名ほどの応募があったそうです。実は今回の講演受講券はカルチャーセンターでの受講仲間から頂いたものです(当人が都合が悪くなったとのことで)。万葉集を始め日本書紀や古代史関連の講座を受講しているので、それぞれの講座の受講者から知らない情報も教えてもらえ有り難いです。

 白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)の演題は「国土開発の時代ー推古朝の再評価ー」で、考古学からみた推古朝(593〜628)について話されました。6世紀の終わりごろには、それまで約350年間ほど造り続けられてきた前方後円墳の造営が停止され、その後は大型の方墳と円墳が造られるようになった(その時期が推古朝に当たる)。この変化は、これまでの畿内の大首長の首長連合によるヤマト政権(古い政治体制)から、新しい中央集権体制への移行ととらえられています。当時の東アジア情勢は、589年に隋が中国全土を270年ぶりに統一し、その後高句麗に攻め入り、朝鮮半島諸国や倭国にとっても大きな脅威となっていた時代で、政治体制の変化を促したとみられています(律令体制の礎が築かれた)。
 畿内地域で大規模開発が実施され(溜池・古市大溝などの灌漑設備・道路や古代寺院の造営)、直線道路網が形成されたのは推古朝で、難波〜飛鳥間大道は、丹比道(竹内街道)ー当麻道ー横大路がそれに当たるとみられています(岸俊男説を支持)。「難波から大和への道」と題して講演された和田萃先生(京都教育大学名誉教授)もほぼ同じ見方でした。この大道は当時の外交の窓口である港(難波)と飛鳥を結ぶもので、外交窓口の掌握は権力維持に必須であったとみられています。
 和田先生の講演の中で、推古二十一年以前の飛鳥への主要路は、難波から船で河内湖を経て大和川を遡るルートが想定されるとのことでした。但し、大和川途中にある亀瀬岩は難所でここで一旦船を下りて再び船で飛鳥に向かったとみられています(『日本書紀』推古天皇十六年条に記される、隋の使者裴世清が難波から海石榴市(桜井市)に向かったのはこのルートと想定される)。この水運ルートに代わる陸路として整備されたのが、推古二十一年の「大道」と考えられています。なお、この「大道」については、別の説(渋河道ー竜田道ー太子道)も紹介されました(柏原市立歴史資料館館長の安村俊史説))。

 なお、大阪府立近つ飛鳥博物館では、秋季特別展として「考古学からみた推古朝」が開催される予定です(10/5〜12/8)。
 


Posted by katakago at 15:50
第5回やまとフォーラム基調講演(9/1) [2013年09月02日(Mon)]
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 昨日(9/1)は、畿央大学(奈良県北葛城郡広陵町)で開催の「第5回やまとフォーラム」で、基調講演を坂本信幸先生が行われるというので出かけて来ました。畿央大学を含む学校を運営する学校法人冬木学園の主催で、地域貢献事業の一環として行われています。今回のフォーラムでは教育・文化・健康などの分野で13講座が設けられていました。私は基調講演のみを聴講しました。

 畿央大学は西方に葛城連山を臨む万葉ゆかりの地にあり、坂本先生の基調講演は「葛城の万葉歌と大伯皇女の歌」と題して行われました。以下に講演メモを残しておきます。
 講演の前半では、葛城の地名が詠みこまれた歌が紹介されました。地名としては、大坂(大和から河内へ越える坂道で二上山の北側を行く穴虫越えと考えられる)、二上山(ふたがみやま)、城上(きのへ)、百済の原・百済野、広瀬川、片岡、葛城山です。ここではそのうち次の一首を載せておきます。
【原文】 春楊 葛山 発雲 立座 妹念 (柿本人麻呂歌集 J-2453)
【読み下し文】 春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしそ思ふ 
【口語訳】 (春柳) 葛城山に立つ雲のように、立ってもすわっても、ずっとあの娘のことばかり思う。
 原文は十文字で表記され(助詞・助動詞・活用語尾などが省略)、万葉集短歌では最小の文字数の歌です。柿本人麻呂歌集歌で、このように省略した表記の歌は略体歌、そうでない歌は非略体歌と呼ばれています。

 講演の後半は、大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌が取り上げられました。
 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首
【歌】 うつそみの 人なる我(われ)や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我(あ)が見む (A-165)
【歌】 磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに (Aー166)
 作者の大伯皇女は天武天皇の皇女(母は大田皇女)で、斉明天皇七年(661)百済救援の途中備前国大伯(大伯海)で生まれたと『日本書紀』に記されています。天武天皇二年(673)に伊勢斎宮となり、朱鳥元年(686)十月に、弟の大津皇子の謀反が露見して皇子が死を賜った後、十一月に帰京した(『日本書紀』)。万葉集には6首の短歌を残しています。上の2首を含めいずれも弟大津皇子を思って詠んだ歌です。
 残りの4首も次に載せておきます。
 大津皇子、竊かに伊勢神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首
【歌】 我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし (A-105)
【歌】 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ (A-106)
 大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首
【歌】 神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに (A-163)
【歌】 見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに (A-164)

 万葉歌ではこの場合のように、歌が詠まれた事情が題詞や左注に説明されている場合も多く、その歴史的な背景も踏まえて読むと、一層味わい深いものとなります。


 なお、大津皇子関連の講演は次のURLを
         ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/528


Posted by katakago at 16:35
桜井市夏季大学(8/25) [2013年08月29日(Thu)]
 この一月ほどブログの写真アップの操作が快適に行われなくなり(8/23までは何回か試みてやっと掲載)、ここ数日は何度試みてもうまく出来なくなり、また写真添付のメールも送信されなくなりました。そこでプロバイダーのJ:COMに電話して原因を調べてもらいました。上りの速度が規定値を大きく下回っていることが分かり、屋外のケーブル接続箇所の点検で、経年劣化した接続箇所を交換をしてもらったところ、上記の不具合が解消されました。毎日使用するパソコン操作が不調だと気分も滅入りがちでしたが、原因も分かってこれでまたブログも更新してゆけます。

 8/25に大神神社(大礼記念館)で第52回桜井市夏季大学が開催され参加してきました。坂本信幸先生が「万葉歌のはじまり桜井」と題して、午後からは木下正史先生が「よみがえる古代磐余の世界」と題して講演されました(お二人は「飛鳥を愛する会」の副会長と会長でもある)。あいにくの天候でしたが主催者によると130名ほどの参加者があったそうです。
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 坂本先生の講演では、桜井の地との関連で、巻一冒頭の次の歌を中心に話されました。以下は当日の講演と資料より、内容未消化ながらメモを残しておきます。
 泊瀬朝倉宮に天下治めたまひし天皇の代 大泊瀬稚武天皇
  天皇の御製歌
 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は 押しなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ居れ 我こそば 告らめ 家をも名をも (@-1)
 大泊瀬稚武天皇は雄略天皇で、泊瀬朝倉宮はその皇居のあった所で、桜井市脇本遺跡灯明田地区と推定されています。「家告らせ 名告らさね」は求婚の意思の表明。
 『万葉集』巻一の一番歌では「告る」、二番歌では「見る(国見歌)」、三番歌では「聞く(豊かな狩りの祈り)」が詠まれ、いずれも天皇の国土支配儀礼の歌が巻一の初めの部分に置かれていることを指摘され、その最初の歌の作者が雄略天皇に仮託された理由について解説されました。
 「名を告る」は、『古事記』の雄略天皇条の葛城の一言主大神との出会いの場面でのみ登場します。童女に名を問う話は、雄略記に引田部赤猪子の話が載せられています。「采女」については、同じく雄略記に「三重の采女」の話が出て来ます(采女の制度が始まったのは雄略朝か)。地方豪族から貢進される采女の手によって、御饌が供進される服属の証としての儀礼があったと推定されています(岡田精司『古代王権の祭祀と神話』)。祈年祭(としごいのまつり)の祝詞にも「・・・この六つの御県に生り出づる、甘菜・辛菜を持ち参ゐ来て、皇神孫の命の長御膳・遠御膳と聞し召すが故に・・・」の一節があります。雄略天皇以外に「告る」歌の作者はいなかったとのお考えです。

 木下先生の講演では、磐余池堤跡の発掘、吉備池廃寺の発掘(寺名は百済大寺と確定)、山田寺跡の発掘などの成果について話されました。山田寺について、1982年に最古の回廊建物が発見され、その時出土の連子窓を含む復元回廊が飛鳥資料館に展示されています。
 

 前日(8/24)から待望の雨が降り、この日は阪神地区に大雨警報が出ていました。早朝に家を出て大神神社には9時前に到着できました。講演会開始まで十分時間があったので久しぶりに訪れた境内を散策しました。
 大神神社拝殿(後方の三輪山が神体山)
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 巳の神杉(大物主大神の化身の白蛇が棲むとことから名付けられたご神木)
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 日本書紀歌謡の歌碑(揮毫は故和田嘉寿男先生)
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【歌】 此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久 (15)
【口語訳】 この神酒は私が醸造した神酒ではありません。倭国を造られた大物主の醸造された神酒です。幾世までも久しく栄えませ、栄えませ
 『日本書紀』崇神天皇八年十二月条にでてくる歌謡です。神託により大田田根子に大物主大神を祭らせると、それまでの疫病も途絶え、五穀も稔り百姓は豊穣になったとあります。この歌は、大神神社の社殿で祝宴が催された時に、大神の掌酒(さかびと:神酒を神に献る職掌の人)活日(いくひ)が神酒を天皇に献上して詠んだ歌です。
Posted by katakago at 11:56
シンポジウム「邪馬台国時代の摂津と播磨」 [2013年08月05日(Mon)]
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 私が住んでいる川西市には、弥生時代中期の加茂遺跡(約20ヘクタールの大規模集落)があり、ことし開館20周年の川西市文化財資料館では「邪馬台国時代の摂津と播磨」をテーマに特別展が開催されています(7/6〜9/1)。
 昨日は、これを記念してシンポジウム「邪馬台国時代の摂津と播磨」が開催され参加しました(於 川西市中央公民館)。講演者の顔ぶれからか、主催者によると東京や岡山からの参加者もあったとのことです。

 4人の講師が基調講演を行われた後、会場内からの質問にも答える形で討論が行われました。基調講演では、まず岡野慶隆氏(市教育委員会)が「邪馬台国時代の川西とその周辺」について、森岡秀人氏(日本考古学協会)が「邪馬台国時代とその前史〜摂津と播磨の集落や人々・品々の動き」について、福永伸哉氏(大阪大学教授)が「邪馬台国時代の主流派 ー 摂津3地域と播磨 ー」について、最後に石野博信氏(兵庫県立考古博物館長)が「邪馬台国時代のヤマト・纒向王宮」について話されました。

 次の図は福永氏の配布資料(弥生後期の地域連合のシンボル)より
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 福永氏の講演では、女王卑弥呼が共立される邪馬台国以前の地域連合段階(1〜2世紀)では、地域ごとに政治連合が生まれ、特徴ある器物や墳墓などをシンボルとしたとされる。近畿・東海の政治連合では、「突線鈕式銅鐸」をシンボルとした。その他の地域では、九州の「広形銅矛」、吉備の「特殊器台」、出雲の「四隅突出型墳墓」が挙げられています(上図参照)。
 川西市内の加茂遺跡は邪馬台国時代をさかのぼる200〜300年前に営まれていた環濠に囲まれた集落跡で、近くの栄根(さかね)遺跡からは近畿連合のシンボルである突線鈕銅鐸(復元高114cm、東京国立博物館所蔵)が出土しています。この銅鐸は摂津3地域(三島・西摂・六甲)では、三島と西摂で出土が見られ、特に西摂の猪名川流域では、上記の栄根銅鐸の他、満願寺銅鐸、如意谷銅鐸、利倉・利倉南銅鐸片などが知られ、畿内北部における集中地の一つとなっており、大きな南北河川を持つ西摂は畿内地域連合の中で重要な位置を占めていたと考えられています。


 なお、邪馬台国について福永氏は大和説で邪馬台国がヤマト政権に発展していったとの見解でしたので、先月聴講した村井康彦氏の説についてはどのように考えられるのか質問メモを提出したところ、シンポジウムで簡単に触れられました。福永氏の説では、邪馬台国政権段階での政治的シンボルは、突線鈕式銅鐸に代わって画文帯神獣鏡(中国鏡)で、もし出雲勢力が邪馬台国を樹立し、それを九州の勢力が攻めてヤマト政権を立てた(神武東征説話)とするなら、その勢力の出身地である出雲や九州でも画文帯神獣鏡が出るはずが今のところ見られないとのことでした。邪馬台国論争については、考えの異なる研究者による討論を聞く機会が今後もあればと思っています。

 村井氏の公開講座の記事は次のURL
       ↓
 http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/672



Posted by katakago at 17:01
シンポジウム「万葉の七夕歌」 [2013年07月28日(Sun)]
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 大阪府立大学では、これまでシリーズ「万葉の道を歩く」の講演会が開催されており何度か聴講してきました。今回は、「万葉の七夕歌」をテーマにシンポジウムが企画され参加しました(7/27、於 大阪府立大学 I-site なんば)。

 各講演のなかから、いくつかメモとして以下に記しておきます。
 牽牛星と織女星が年に一度7月7日の夜に天上の河で逢うという中国古来の伝説が日本にも伝えられ、それを題材にした漢詩や和歌が作られ『懐風藻』や『万葉集』に載せられています。
 牽牛・織女の伝説を詠んだ中国の漢詩(庾信『玉台新詠』巻八「七夕」ほか)や日本の漢詩(『懐風藻』)では、織女が乗り物(仙車や鳳駕)に乗って牽牛に逢いに来るのに対し、ほとんどの万葉歌では、牽牛が天の川を船に乗って織女の元を訪ねると詠まれています。これは当時の妻問い婚の風習が反映されているものとみられています。

 万葉集の七夕歌は132首(短歌127首、長歌5首)で、作者が限られています(柿本人麻呂・山上憶良・湯原王・市原王・大伴家持など)。特に巻十の秋の雑歌には、七夕98首が載せられています。うち柿本人麻呂歌集から38首で、その末尾の歌に詠まれた年代(庚辰年で天武9年に当たる)が記されています(年代の分かる一番早い七夕歌)。
 これらの七夕歌は、牽牛・織女への感情移入の著しいものから、天上の恋を地上から第三者の立場で歌うものが多くなる傾向があるようです。

 
 七夕詩宴が史書にあらわれるのは『続日本紀』天平6年条(聖武天皇)で、「秋七月丙寅(七日)、天皇、相撲の戯を観す。是の夕、南苑に徒り御しまして、文人に命せて、七夕の詩を賦せしめたまふ。禄賜ふこと差有り。」とあります。なお、『日本書紀』持統天皇五年条の7月7日に「公卿に宴したまふ。仍りて朝服賜ふ」とあるのも、初期の七夕の宴の記録とみられています。


Posted by katakago at 11:50
キトラ古墳壁画発見三十周年記念シンポジウム [2013年07月14日(Sun)]
 今秋、キトラ古墳の壁画が発見されて30周年を迎えるのを記念して、「1300年前の国際交流 ー キトラ古墳からのメッセージ ー」と題して、シンポジウムが開催されました(7月13日、於阪急梅田ホール)。
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 シンポジウムの詳細は、主催団体のひとつの朝日新聞社からいずれ報告されるものと思われますが、ここでは、百橋明穂氏(神戸大学名誉教授)の講演(「キトラ壁画と東アジア」)から、壁画の十二支像について触れておきます。次の図は配布資料の該当箇所です。
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 同じ明日香村で発見された高松塚古墳の壁画には無かった十二支像で注目されました。立位の全身像で、顔が獣で体は人の形をしており、獣頭人身像と言われています。中国では隋の時代(7世紀初め)からみられ、文官の姿(武器は持たない)であるのに対し、キトラの十二支像は武器を持っている。一方、朝鮮半島では、壁画ではなく8世紀半ばの統一新羅時代に造られた墓の外護列石に十二支像の陽刻が見られます(こちらは武器を持つ)。これは一昨年秋、「飛鳥を愛する会」の現地講座で韓国を訪問した折りに見学しました(次の写真はその時撮影したもの)。
 キトラ古墳の築造は7世紀末頃と考えられており、その十二支像はどのようにして日本に伝わったか興味深く思われます(百橋氏は朝鮮半島経由ではなく遣隋・遣唐使が伝えたとする考え)。
 金庾信将軍(没年は673年)の墓(8世紀中葉に築造)の外護列石の十二支像(部分)
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 統一新羅時代の掛陵の外護列石の十二支像(部分、武器を持ち鎧を着た武人像)
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 韓国での現地講座の関連記事は次のURLを参照ください。

URL http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/206
http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/212


 なお、高松塚古墳壁画発見40周年記念講演会は昨秋開催され、次の記事に載せています。
             ↓
  URL http://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/504




Posted by katakago at 13:55
講演会「難波の万葉歌」 [2013年04月26日(Fri)]
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 昨日(4/25)、大阪府立大学で「万葉の道を歩く」の7回目の講演会が開催され聴講しました。今回は村田右富実先生が「難波の万葉歌 ー 大和の表玄関を詠む −」と題して講演されました。

 村田先生の講演配布資料より当時の難波宮に関する事項を以下に引用しておきます。、難波は瀬戸内海の最奥に位置し、大和川・淀川水系が交わるその地理的位置から内外交通の要衝の地として重視されてきた。大化元年(645)に始まった「大化の改新」に伴って行われた難波遷都で、白雉三年(652)に完成した「難波長柄豊崎宮」は、孝徳天皇崩御後、都が飛鳥に遷った後も難波の地に存続し、天武十二年(683)の複都制の詔によって飛鳥と並ぶ都となったが、朱鳥元年(686)失火により全焼した。その後、聖武天皇の即位〜行幸を機に、神亀三年(726)、藤原宇合が知造難波宮事に任じられ、難波宮の再建が本格化した。

 講演では、神亀二年に聖武天皇が難波宮に行幸された時に、当代の宮廷歌人(笠金村・車持千年・山部赤人)が詠んだ長反歌(巻六928〜934)を中心に解説されました。万葉歌の掲載順に、金村は難波宮を讃える歌を詠み、千年は遊覧の地である住吉(すみのえ)の風光を讃え、赤人は「御食(みけ)つ国」としての淡路の奉仕の様を詠んでいます。
 なお、『萬葉集釈注』でも、当代宮廷歌人が主題を分担して織りなした一連の作であるとみられています。
 




Posted by katakago at 18:10
天皇陵の成立ー八角墳成立の意味するもの [2013年02月18日(Mon)]
 朝日カルチャーセンター芦屋教室で、白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)による、「天皇陵の成立ー八角墳成立の意味するもの」と題する講座があり聴講しました(2/16)。白石先生の講座は、一昨年(2011.12.1)の「考古学からみた斉明天皇陵」も聴講していましたので、興味がありました。

 次は、当日の配布資料より、『延喜式』巻二十一の諸陵寮の関連個所
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 右から順に、押坂内陵(舒明天皇)、大坂磯長陵(孝徳天皇)、越智崗上陵(皇極・斉明天皇)、山科陵(天智天皇)、檜隈大内陵(天武天皇)、同大内陵(持統天皇を合葬)、眞弓丘陵(草壁皇子、後に岡宮天皇と追尊)、檜前安占岡上陵(占は古の誤り、文武天皇)が記されています。

 陵の場所については宮内庁と学界で見解が異なるもの(舒明・斉明・文武など)がありますが、舒明陵となっている段ノ塚古墳(桜井市)、斉明陵と考えられる岩屋山古墳と牽牛子塚古墳(明日香村)、天智陵となっている御廟野古墳(京都市山科)、天武・持統陵とされている野口王墓古墳(明日香村)、文武陵と考えられている中尾山古墳(明日香村)はいずれも八角墳です。なお斉明天皇陵については、白石先生は、岩屋山古墳は天智時代に造営されたもので(『日本書紀』天智四年条の記事)、牽牛子塚古墳は文武時代に修造されたもの(『続日本紀』文武三年条の記事)と考えられています。
 上記のように7世紀中葉から8世紀初頭までの間の大王墓は、不明な点の多い孝徳陵(大阪府太子町上ノ山古墳)を除きいずれも八角墳が採用されていますが、その意味するところについても話されました。
 7世紀までの大王は首長連合の盟主的存在で、墳墓の形式は規模は違っても同じ前方後円墳であったのが、推古朝以降律令制の中央集権国家が樹立される過程で、一般の豪族層から超越した存在として、墳墓の造営においても違いを示すため大王(天皇)の墓ー八角墳が造られるようになったとのお考えでした。また、これら八角墳を造営した天皇は舒明から文武まで、蘇我氏とは関係のない(反蘇我または非蘇我系)勢力の天皇であったとの指摘もあり注目されます。
 
 八角墳をイメージするため天武・持統陵墳丘復元図(当日の資料にもありました)を掲載
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 白石太一郎編『天皇陵古墳を考える』に今尾文昭氏が「天武・持統陵(野口王墓古墳)の意義」と題する一章を載せられていますが、その中で、「八隅知之 我(吾)大王乃(之) やすみしし わがおほきみの」と詠われた万葉歌についても触れられています。その最初の例は、舒明天皇が宇智の野で狩りをされた時に、中皇命が間人連老に奉らせたもの(@-3)です(ほかにも持統天皇の吉野行幸時に柿本人麻呂が詠んだ長歌(@-36,38)などがある)。天皇の支配ー治政が国土の隅々(八隈)まで及ぶことを意味して詠われており、その最初の例が大王墓における八角墳採用の最初である舒明天皇に奉られた歌であることに注目されています。

 参考までに白石先生の前回の記事(2011.12.2)は
            ↓
URL http://blog.canpan.info/inagawamanyo/daily/201112/02


Posted by katakago at 14:30
講演会「大津皇子の見た夕陽」 [2013年02月01日(Fri)]
 昨日(1/31)、大阪府立大学で「万葉の道を歩く6」の講演会があり聴講しました。今回は、村田右富実先生(大阪府立大学教授)が、「大津皇子の見た夕陽」と題して講演されました。講演会では。『日本書紀』、『懐風藻』、『万葉集』で大津皇子に関わるすべてを取り上げた資料も配布され、4首残されている大津皇子の万葉歌を関連の歌と共に解説していただきました。

 配布資料から大津皇子について要約しておきます。大津皇子は天武天皇の第三皇子(母は天智天皇の皇女である大田皇女)で、斉明七年(661)百済救援のため斉明天皇が筑紫に出陣した際(斉明はその年、九州で崩御)、天智二年(663)に娜の大津(現在の福岡県博多港)で生まれたと考えられています(二歳年上の姉に大伯皇女)。天武の十皇子中の序列は(生母の身分も考慮し)草壁皇子に次いで第二位であったが、天武崩御後、大津皇子の謀反が発覚し関係者ら三十人余りが捕えられ、大津皇子は訳語田(をさだ)の家で死を賜った(24歳、妃の山辺皇女も殉死)。逮捕された者のうち、帳内(とねり)の砺杵道作と僧行心を除き程なく赦免された(以上『日本書紀』より)。このようなことから、大津皇子による謀反計画は、事実無根の可能性も高く、仮に何らかの計画があったとしても、天武の皇后(後の持統天皇)を中心とする草壁皇子擁立派により、大津皇子抹殺の為に利用されたとの見方もあります。
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 以下、当日の配布資料にそって、大津皇子に関わる万葉歌を載せておきます。
『万葉集』の編者が意図した歌の配列から、万葉集が描き出す”大津皇子事件”の真実性をどこまで汲み取ることが出来るか。
ここに登場する歌の作者
・大伯皇女:大津皇子の姉、斎宮として伊勢にあったが事件後解任され京へ
・大津皇子:謀反の罪で死を賜る
・石川郎女:大津皇子と密会、歌を交わす。草壁皇子も心を寄せていた(字を大名児)。
・草壁皇子:天武の皇太子(日並皇子尊) 
@ 大津皇子がひそかに伊勢神宮に下り、帰って来る時に、大伯皇女が作られた歌二首
  我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし (A-105)
  二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ (A-106)
A 大津皇子が石川郎女に贈られたお歌一首
  あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに (A-107)
B 石川郎女が唱和した歌一首
  我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
C 大津皇子がひそかに石川郎女と関係を結んだ時に、津守連通がそのことを占い顕したので、皇子が作られた歌一首
  大船の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて 我が二人寝し (A-109)
D 日並皇子尊(草壁皇子)が石川女郎に遣わされたお歌一首
  大名児を 彼方野辺に 刈る草の 束の間も 我忘れめや (A-110)
E 大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流して作られた歌一首
  百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (B-416)なお、これは後人仮託の歌と見られている。
F 大津皇子が亡くなった後に、大伯皇女が伊勢の斎宮から上京した時に作られた歌二首
  神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに (A-163)
  見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに (A-164)
G 大津皇子の遺体を葛城の二上山に移葬した時に、大伯皇女が悲しんで作られた歌二首
  うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (A-165)
  磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに (B-166)
 

なお、大津皇子関連の記事は一昨年の12/17の載せています。
           ↓
URL http://blog.canpan.info/inagawamanyo/daily/201112/17
Posted by katakago at 21:23
講演会「万葉の道を歩く5」ー 飛鳥・藤原京・平城京 ー [2012年12月07日(Fri)]
 昨日(12/6)大阪府立大学で、「万葉の道を歩く5」の講演会があり聴講しました。大学の地域文学研究センター・上方文化研究センター・生涯教育センター主催、入江泰吉記念奈良市写真美術館共催で、廣川晶輝先生(甲南大学教授)が「飛鳥・藤原京・平城京ー空間・時間・人ー」と題して講演されました。
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 この講演でとり上げられた歌の解説では、その歌のイメージに合った写真(入江泰吉撮影)をスクリーンに映しながら話されました。
 藤原京の歌では、柿本朝臣人麻呂が、その妻が死んだ後に泣き悲しんで作った歌(泣血哀慟歌)がとり上げられました。ここでは、二組の挽歌の最初の長歌と反歌を載せておきます(なお、2/5、12/3の記事に述べた歌は第二群の長歌A-210)。
【歌】 天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の なびきし妹は もみち葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使ひの言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべ せむすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば 我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 泣く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行き人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖そ振りつる (A‐207)
短歌二首
【歌】 秋山の 黄葉を繁み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも (A‐208)
【歌】 もみち葉の 散り行くなへに 玉梓の 使ひを見れば 逢ひし日思ほゆ (A‐209)
長歌では、「人目を憚って妻のもとを訪ねないでいるうちに、思いがけず妻が亡くなったとの知らせを受ける。恋の思いの千分の一でも慰められないかと、生前の妻がよく出ていた軽の市にやって来て、耳を澄ましてみても、妻の声は聞こえず、誰一人として妻の姿に似た者は見かけない。せっかく軽の市に出かけて来たのに気持ちは少しも癒されず、思わず妻の名を呼んで袖を振った」と歌われています。廣川先生は、「軽の市の雑踏の中で愛しい人の名を呼ぶ情景は、現代の映画やテレビドラマの映像にも通じる」と指摘されていました(現代にも通じる手法を、人麻呂は1300年以上も前に歌の表現に用いていた)。
 反歌の一首目では、妻の死を認められない、認めたくない夫の心情が詠まれています。「妻は死んだのではない。紅葉した秋の木々の葉が繁っているので山に迷い込んだ」と夫は歌う(スクリーンには入江泰吉の「三輪山遠望秋日」が映し出されていました)。
 反歌二首目の解説では、「色づいた木々の葉が散りゆくちょうどその時に、以前の使いを見かけ、妻と遭ったあの日のことが思われ、次の瞬間、心の中に積み重なっていた哀しみが、どっと噴出する」と述べられていました(スクリーンではモミジが散り敷く「晩秋の談山神社付近」が映されていました)。なお、「もみち葉の 散り行くなへに」について、「なへ(に)」の集中の用例は25例ある中で、上の言葉に「行く」が付く例は他に無く、この歌では時の経過が一層強調されている、と述べられていました。
 
Posted by katakago at 10:41
摂津の酒 ― 池田と呉春をめぐって ― [2012年11月24日(Sat)]
 大阪大学総合学術博物館では今、創立10周年を記念して第15回企画展が開催されています。「ものづくり上方”酒”ばなし ― 先駆・革新の系譜と大阪高工醸造科 ―」と題して、日本の酒造りを牽引してきた上方および大阪大学(前身は大阪高工醸造科)の位置について、技術・社会・文化など多方面にわたって各種資料が展示されています。
 次の写真はそのチラシです(会期は来年1/19まで)。
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 今日はこの特別展にちなんで特別講演会が開催されました(於大阪大学会館講堂)。冷泉為人氏(冷泉家時雨亭文庫理事長)が「摂津の酒ー池田と呉春をめぐってー」と題して講演されました。
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 江戸時代に池田(大阪府池田市)は酒と炭で大いに栄えたと言われています。得られた経済力でいわゆる壇那衆が生まれ、彼らが文人墨客の支援者となりました。この壇那衆の中には酒造家もあり、呉春は池田の酒造家では荒木李渓・山川星府、神戸大石灘の松岡士川(蕪村の弟子)らと交流することになります。。
 呉春は金座年寄役であった松村家の長子(1752年生れ)で、20歳前後で与謝蕪村に入門したと考えられています。30歳の時に師蕪村の勧めで、池田の川田田福(蕪村の俳諧の弟子)のもとに寄宿するようになり、翌年、池田の古名「呉服(くれは)」に因んで姓を「呉」とし、春に改名したので名を「春」として、姓名を「呉春」としたそうです。次の写真はその当時に画かれたものです。 
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 呉春の画風が文人画の蕪村風から応挙風(四条派)に変わってゆくのをスライドで説明して頂きました。
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 ところで、池田市には「呉春」の銘柄の酒造会社(呉春酒造株式会社)が一社だけ残っています。
Posted by katakago at 21:50
記紀フォーラム ― 壬申の乱と神武伝承、記紀が語る藤原京 [2012年11月24日(Sat)]
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 今年は古事記編纂1300年にあたり、これまでいくつかの記念行事が開催されています。昨日(11/23)も橿原市とクラブツーリズム(株)主催で記念イベントがあり(於かしはら万葉ホール)、午後から出かけて来ました。第一部は和田萃氏(京都教育大学名誉教授)による「壬申の乱と神武伝承」と題する講演、第二部は「記紀が語る藤原京〜天武天皇が目指した都〜」をテーマに和田氏と菅谷文則氏(橿原考古学研究所所長)との対談が行われました(コーディネーターは玉城一枝氏)。

 壬申の乱については、『日本書紀』巻二十八の天武天皇 上 に詳しく記されています。西暦672年に、天智天皇の弟である大海人皇子と天智の長子である大友皇子(近江朝廷側)とが天智死後の皇位継承をめぐって争った古代史上最大の戦乱です。大海人皇子が勝利して翌673年に飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となりました。
 大規模の戦闘範囲は近畿から東海地方のかなりの地域に及び、講演では『日本書紀』の記事やこれをもとに作成された大海人・近江(大友)両軍の行動図を参考にしながら話されました。
 吉野を出発してからの大海人軍の進路は場所と月日が記載されており、菅谷氏はかつて実際にこのルートを荷物を担いで歩く実地調査を行って移動の日程を確認されたそうです(対談で話されてました)。
 『万葉集』にも、天武天皇の長子である高市皇子が全軍を指揮して戦った様子が、柿本人麻呂により高市皇子の挽歌に詠まれています(A-199)。
 また、『日本書紀』によれば、この戦いのおり美濃国安八磨評の湯沐令(ゆのうながし)の多臣品治が、大海人軍の指示により不破道を塞ぐ役割を担ったとあります。なお、品治は『古事記』を撰上した太安万侶の父にあたるとされています。

 藤原京は持統天皇が694年に遷都してから、710年に元明天皇が平城京に遷都するまでのわずか16年間の都でしたが、京域は大和三山を取り込む広大な区域で、都大路によって区画された日本最初の都城とされています。
 『万葉集』には、藤原宮の造営に関わる儀礼歌(藤原宮の役民が作る歌@‐50)が載せられています。この歌からは、宮殿造営の木材を近江の田上山(たなかみやま)から伐り出し、それを宇治川に流して運んだことが分かります。『萬葉集全歌講義』によれば、田上山からの木材運搬経路は、大戸川→瀬田川→宇治川→木津川(泉川)・・・佐保川→泊瀬川→明日香とみられています。 
Posted by katakago at 19:48
高松塚古墳壁画発見40周年記念講演会 [2012年11月18日(Sun)]
 高松塚古墳石槨内部の漆喰上に描かれていた極彩色の壁画が発見されて今年で40年になります。これを記念して、発掘や保存に携わった関係者による講演とパネルディスカッションが、昨日(11/17)明日香村中央公民館で開催され出かけて来ました。
 なお、この講演会の詳細は、主催団体の一つの朝日新聞社が今月25日の紙上で報告するとのことです。
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「高松塚を見守り続けて」と題して講演される猪熊兼勝さん(京都橘大学名誉教授)
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 石槨内部の漆喰上に描かれていた壁画は、天井部の星宿(星辰)図と壁石に描かれていた日月像、四神と人物像です。四神は北壁の玄武(亀に蛇がからむ動物図、星宿の北の方向を表す)、白虎(星宿の西の方向を表す)、青龍(東の星座を示す動物図)で、南壁の朱雀は盗掘により残されていない。人物像は東西の壁の男子群像と東西の壁の女子群像で、特に西壁女子群像は多くの書籍や教科書にも掲載され記念切手にもなって「飛鳥美人」として有名です。

パネルディスカッションでの様子
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 発掘・調査には末永雅雄先生(発掘を指導)・網干善教先生(調査を指揮)をはじめ橿原考古学研究所・関西大学考古学研究室のグループが関わり、学生もたくさん参加したそうです。パネリストの一人森岡秀人さんも当時文学部史学科2回生で発掘調査に加わり、詳細な調査日誌を記されています。1972年3月21日の壁画発見に立ち会った時のことを熱く語って頂きました。

 「高松塚古墳調査の意義」と題する末永雅雄先生(当時、関西大学名誉教授・橿原考古学研究所所長)の記事が掲載された『関西大学通信第29号特集号』(昭和47年5月20日)の復刻版が当日会場で配られていました(写真の絵は石槨内西壁に描かれた女子群像)。末永先生はこの記事の中で、「今回の調査における学生の情熱的な研究態度を見るにつけて、関西大学将来のために、高松塚古墳調査で私が感じた、考古学とは別な大きな意義は実はここにある」と述べられています。
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 現在の高松塚古墳(墳丘に生えていた竹などは除かれ芝生で覆われている)
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 この日は墳丘前で、CGで復元された石槨内部の様子を360度のパノラマ映像で見ることができるバーチャルガイドが行われており、私もゴーグル型のヘッドマウントディスプレイで体験させてもらいました。明日香村では、このようなバーチャルガイドツアーが今月は甘樫丘展望台で予定されています。
 今回のパネリストとして参加された明日香村の森川村長は、文化財を活かした地域づくりとして「五感で感じる明日香まるごと博物館づくり」を進められています。

 壁画は発見後30年以上を経て劣化が見られたため、平成19年に石槨解体作業が始まり、仮設修理施設に移されて修理作業が行われています。古墳に隣接する高松塚壁画館では、石槨内部の模型と壁画の模写・模造が展示されています。
 墳丘と壁画館は午後からの講演会に先立ち見学してきました。

Posted by katakago at 14:10
万葉古代学公開シンポジウム(歌木簡) [2012年09月29日(Sat)]
 午後から明日香村の奈良県立万葉文化館で公開シンポジウムがあり出かけて来ました。
 テーマは、「声から文字へ − 木簡に記された詩歌と古代東アジアの詩歌の場 − 」で、4人の研究者が発表されました(それぞれの演題は下記のチラシを参照)。

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 シンポジウムに先立ち、和田萃先生による「安騎野の”かぎろひ”」と題する基調講演が行われました。とり上げられた歌は、東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ(@-48)で、題詞には、軽皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌とあり、長歌と反歌4首からなる歌群の三首目の反歌です。軽皇子の安騎野の旅宿りは、この一連の歌から、即位を前にして亡くなった父草壁皇子(日並皇子)の追悼慰霊にあったとみられています。ところでこの”かぎろひ”は、晴天の冷え込んだ夜が明ける前、東の空が赤く染まる現象(オーロラのように)とされ、東京天文台によってこの歌が詠まれた時期が持統6年(692)11月17日午前5時50分ごろと算出されているそうです。これに基づき毎年「”かぎろひ”を見る会」が大宇陀かぎろひの丘で開催されているそうです。和田先生によると、はっきりと見えたのは40回ほどのうち2回ほどだったそうです(地元の方によると2月頃の方がよく見えるとのこと)。

 近年、万葉歌が書かれたとみられる木簡が発見され(石神遺跡、宮町遺跡、馬場南遺跡出土の3点)、これまでも関連シンポジウムが開催されています。京都府木津川市馬場南遺跡出土(2008年8月)の歌木簡に関するシンポジウムには出席し、昨年8/20の記事の中でもふれています。
 今回の研究報告は、万葉古代学研究所の委託共同研究(『万葉集』と歌木簡ー東アジアにおける詩歌の場と記録メディアの展開ー)の成果発表です。
 興味深かったのは、秋田城遺跡出土の『文選』木簡と呼ばれているものです。『文選』巻十九に収められる「洛神賦」の一部が書かれたものです。当時の軍事的拠点であった秋田城から、極めて高尚な中国の文学作品を書写した木簡が出て来た理由については、次のような考えが示されました。当時の日本海側は、中国・朝鮮半島・渤海国といった文化の進んだ国々との玄関口で、出羽国は、対蝦夷の最前線であると同時に、海外交渉の窓口の一つでもあり、そのため当時の東アジアの共通言語である中国語に堪能な人材も派遣されていたとみられています。外国使節が漂着することもあったようです。『続日本紀』巻三十九延暦5年(789)9月甲辰条に、海難に遭った渤海国の大使が出羽国の海岸に漂着したと記されています(国際日本文化研究センター・多田伊織氏の報告より)。

 明日香路はヒガンバナが真っ赤に咲いていました。写真はシンポジウムが始まる前に橘寺方向に向かって撮影したものです(後方右が橘寺)。

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Posted by katakago at 22:46
「大出雲展」と関連シンポジウム(ヤマト王権と出雲) [2012年07月29日(Sun)]
 京都国立博物館では、昨日より、「大出雲展」(古事記1300年、出雲大社大遷宮記念の特別展覧会)が開催されています。今日の午後には、関連のシンポジウムが国立京都国際会館で開催され、その参加に先立ち午前中は展覧会を見学しました。
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 出品物では、『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』の古写本や、本居宣長の『古事記伝』などの史書類と共に、出土点数では他に類を見ない神庭荒神谷遺跡出土(1984年)の銅剣(358本中の42本)・加茂岩倉遺跡出土(1996年)の銅鐸(39個中の14個)も見ごたえがありました。また、2000年の発掘調査で出雲大社遺構から出土した、杉の大材三本を合わせて一つの柱にした宇豆柱(うづばしら)も展示されていました。

 午後のシンポジウムでは、上田正昭先生による「出雲古代史の魅力」と題する基調講演に続き、パネルディスカッション「ヤマト王権と出雲 ー検証・神々の国ー」が行われました。

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 『古事記』や『日本書紀』に掲載される大国主神の「国譲り神話」では、国譲りとの交換に巨大神殿の造営を求める件があります。『古事記』には、「此の蘆原中国は、命の随に既に献らむ。唯に僕が住所のみは、天つ神御子の天津日継知らすとだる天の御巣の如くして、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて、治め賜はば、僕は、百足らず八十くま手に隠りて侍らむ」と記されています。その巨大神殿(出雲大社)の大きさについては、970年に書かれた『口遊(くちずさみ)』に、「雲太 和二 京三(出雲大社が一番で、二番目が大和の大仏殿、三番目が平安京の大極殿)」とあり、高さ15丈の大仏殿よりも大きかったたようです(パネリストの一人辰巳和弘先生)。
 次の図面は、往時の出雲大社本殿の平面図とされる「金輪御造営差図」(「大出雲展」図録より)で、巨木三本を一組とする直径一丈(約3m)の柱が描かれ、従来は信憑性が疑われていましたが、2000年に出雲大社境内から図面通りの巨木三本を一組にした柱が出土(今回展示)したことより再評価されるようになりました。またこの図面には「国御沙汰」とあり、造営遷宮が国家としての事業であったようです。
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 次の写真は今回展示の宇豆柱(「大出雲展」図録より)。
理化学的手法による年代測定と造替の記録などから鎌倉時代(1248年)遷宮の本殿の柱材とみられています。

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Posted by katakago at 22:20
古事記学会公開講演会 [2012年06月16日(Sat)]
 今日(6/16)から、古事記学会大会が奈良県新公会堂能楽ホールで始まりました。今年は「古事記撰録千三百年記念大会」として開催されています(6/17は研究発表会)。同時に今日から一ヶ月間、奈良国立博物館で、特別陳列「古事記の歩んできた道」の展示が行われています。今日は、その特別陳列の観覧と、午後の公開講演会を聴きに出かけました。

 公開講演会では、三人の先生が話されました。
まず、毛利正守先生(皇学館大学教授・大阪市大名誉教授)が、「古事記の文体 ― 変体漢文の見直しを中心にして ―」と題して講演されました。『記紀』はいずれも漢字で書かれていますが、正史である『日本書紀』は漢文体で書かれているのに対し、『古事記』は日本語文を目指して書かれており(変体漢文ではない)、漢字に倭語を当てて(訳読・翻読し)、訓字として日本語文が記されています。これを毛利先生は「倭(やまと)文体」(平安朝以降の和文体とも違えて)と提唱されています。

 山口佳紀先生(聖心女子大学名誉教授)は、「『古事記』歌謡における人称転換と自敬表現」と題して話されました。八千矛(やちほこ)神が高志(こし)国の沼河比売(ぬなかわひめ)と結婚しようとお出ましになった時に歌われた歌(古事記・歌謡2)など、人称転換が認められる古事記歌謡を中心にとりあげて検証されました。歌謡における人称転換(三人称→一人称)は、貴人の発言は多くは伝言者によって伝えられるという習慣が、歌謡の形式として利用されたもので、人称転換後に現れる一人称に対する自敬表現は、伝言者の敬意が反映したものと考えるのが適当との見解でした。

 上田正昭先生(京大名誉教授)は、「『古事記』成書化の歴史的意義」と題して講演されました。こんにち『古事記』偽書説がありますが、それぞれの説に対し具体的に反証を述べられた上で、『古事記』の独自性(『日本書紀』にある日本版中華思想は一切書かれていない)と文学性(特に『古事記』にしか書かれない神話)について話されました。『古事記』があるからこそ、日本文学の素晴らしさ、日本の古代の歴史と文化の豊かさが分かる、と強調されていました。写真は講演される上田先生です。

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Posted by katakago at 22:23
講演会「万葉の道を歩く3」 [2012年05月31日(Thu)]
 大阪府立大学で、「万葉の道を歩く3」の講演会があり参加しました。大学の地域文化学研究センターと生涯教育センターの主催で、講師は坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)で、「越中万葉の世界」と題して講演されました。
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 以下講演の概要を記しておきます。万葉歌所出地名で、畿内を除いて多いのが富山県(95)であり、それは、『万葉集』編纂に大きく関わった大伴家持が越中守として5年間滞在し、その風土を歌に残したからです。家持は越中で223首の歌を詠んでいます(『万葉集』全体では473首)。この家持の歌も含め5年間のの歌(巻17-3927〜巻19ー4256)を一まとめにして「越中万葉」と称されます(巻16の能登国歌、越中国歌を含め計337首)。

 家持は国の守として、越中国内巡行の旅に出かけ、都では目にすることがなかった越中の風土や景物を歌に詠んでいます。渋谿の清き磯回(17-3954)、渋谿の「つまま(タブノキ)」(19-4159)、寺井の上の「堅香子(カタクリ)の花」(19-4143)、雄神川の「あしつき(ねんじゅも科の一種、食用となる)」(17-4021)、射水川で唱う舟人(19-4150)、越中の二上山(ふたがみやま)に鳴く鳥(ホトトギス)(17-3987)、布勢の水海の藤波(19-4199)、長浜の月(17-4029)などの歌について、パワーポイントで映像を交えながら、分かりやすく解説して頂きました。

 10月初めには、毎年高岡市で「越中万葉まつり」が開催されますが、今年は、久しぶりに出かけられればと思っています(平成16,17年には出かけました)。

Posted by katakago at 22:35
葛城氏とヤマト政権 [2012年03月06日(Tue)]
「5世紀史の謎を探る − 葛城氏とヤマト政権 −」と題して、朝日カルチャーセンター芦屋教室で講演会があり参加しました(3/5)。

 日本書紀の受講者有志で、気候が良くなったら「葛城古道」を歩く計画があり、また、『万葉集』に、葛城襲津彦の名を詠み込んだ歌もあることより、今回の講演は興味がありました。

 その万葉歌は、巻十一の次のような、弓に寄せる恋の歌三首の一つです。
【歌】葛城の 襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が 我が名告りけむ (J-2639)
【口語訳】葛城襲津彦の使う真弓の 強い新しい木のように 私を妻として頼りにしてくださるので わたしの名をお洩らしになったのでしょうか (『万葉集全注』による)
 『新編日本古典文学全集』では、「恋人の名を他人に打ち明けるのは禁忌なのに、それを破った相手の男に、自分をそれほど頼もしく思ってのことか、と詰問するような語調がある」と解説されています。この歌で、強弓の使い手として名があげられている葛城襲津彦は、『古事記』や『日本書紀』によれば、建内宿禰の子で、仁徳天皇の皇后磐姫の父とされています。

 今回の講演会では、文献史学の立場から塚口義信氏(堺女子短期大学名誉学長)が、考古学の立場から白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)が話されました。

 まず塚口氏の講演では、『記紀』による系図では、葛城襲津彦の子は、磐媛のほか葦田宿禰(→黒媛(履中天皇の皇后)、→蟻臣)の系統と、玉田宿禰(→円大臣→韓媛(雄略天皇の皇后))の系統の二つが知られる。玉田宿禰や円(つぶら)大臣の名は地名に由来すると考えられ、御所市玉手(小字の一つを「たまんだ」と称した)と、御所市柏原の「ツブラ」の地名より、このあたりを本拠とした可能性を指摘された。付近には、葛城地方最大の前方後円墳として知られる室宮山古墳や掖上鑵子塚古墳などがある。一方、葦田宿禰系の葛城氏については、上牧町に「葦田」の地名が残り、王寺町に「芦田池」があり、この地域は東西を馬見丘陵と片岡山に挟まれた場所で、葦田宿禰の名は、この地名に基づくと考えられた。同様に、蟻(あり)臣についても、大和高田市に「有井」があり(本来の地名は「有」か)、この地名に由来すると考えられ、この系統の葛城氏は、現在の北葛城郡、香芝市、大和高田市に相当する地域と関係があったと推定された。文献資料からは、少なくとも二つの系統の葛城氏の存在を指摘されました。

 白石氏の講演では、葛城の地域には北から馬見古墳群の北群、中央群、南群、新庄古墳群、室・国見山古墳群などに見られる、4世紀後半から5世紀後半までの古墳群について解説されました。次の図は、当日配布された白石氏の資料の一部です。出土した円筒埴輪により編年されています。

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 葛城地域における大型古墳の編年(白石太一郎氏の資料より)

 この図により、大王墓に準ずる巨大古墳(墳丘長200m級)は、葛城各地の古墳群に分かれて営まれ、造営時期も少しずつずれていることが指摘されました。これらの巨大古墳(一小地域の首長墓とは考えられない)からは、葛城各地の有力首長たちは、地域的政治連合(葛城連合)を形成し、その連合の盟首には、構成する各有力集団の首長たちが持ち回りでその地位に就いていた、との見解です。
 葛城氏がヤマト王権(畿内政権)に影響力を持つようになったのは4世紀後半以降で、当時の東アジア情勢(高句麗の南下、倭国も百済と同盟を結んで朝鮮半島に出兵)と関係しているとの見方です。この時期、大和の勢力(宗教・呪術的性格の強い)に代わって、大阪湾岸の河内・和泉の勢力(以前から王権内部で外交・交易を担当)が王権を掌握することになり、その際葛城氏の勢力が河内政権の最も有力な協力者としての役割を担った、とのお考えでした。

 室宮山古墳からは、朝鮮半島南部の伽耶の船形陶質土器が出土し(近年、台風による倒木があり、その根元から)、葛城氏と朝鮮半島の結びつきが指摘されています。『日本書紀』神功皇后摂政五年の条には、新羅を攻撃した葛城襲津彦は、そこから多くの俘人(とりこ)を連れ帰り、この時の俘人が、桑原・佐糜・高宮・忍海の四つの邑に住んでいる漢人(あやひと)の始祖である、と伝えられています(これらの地名は全て葛城氏の勢力圏の中心部に集中)。
 なお、お二人とも、室宮山古墳の被葬者は葛城襲津彦と考えられるとのことでした。
 

 



Posted by katakago at 10:03
「旅」−歴史と文学 [2012年02月16日(Thu)]

 茨木市生涯学習センターで開催された講演会に参加しました。毎年この時期に、梅花女子大学と茨木市生涯学習センターの共催で講演会が開催されており、市外の者も参加できるのでこれまでも何回か聴講していました。

 
 今日は、「旅」−歴史と文学のシリーズの2回目で、「追体験 円仁が見た9世紀の大唐帝国」と題して、三木雅博先生(梅花女子大学教授)が講演されました。円仁は15歳で比叡山に登り、数年後に最澄に師事します。承和5年(838)45歳の時に遣唐請益僧(しょうやくそう)として唐に渡りました(19回目の遣唐使で、20回目は派遣されなかったのでこれが最後)。

 万葉歌人では、山上憶良が大宝2年(702)に遣唐少録(8回目の遣唐使)として在唐経験があります。また、憶良の好去好来歌も含め遣唐使を送る歌がいくつか載せられています。その関係で遣唐使に関する話には興味がありました。

 この時の遣唐使は、二度にわたる失敗を経て三度目に渡航に成功しています。円仁は承和5年から承和14年(847)まで唐に滞在し(この時、円仁は45〜54歳)、旅の一部始終を日記に記録しています。それが『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』で、外国の旅の記録としては、『東方見聞録』よりずっと古く、日記形式で記録も詳細で正確な点が高く評価されています。そこには、1200年も前の日中の民間人の交流や、唐の正史には語られない当時の唐帝国の生の実態が記録されています。。E・O・ライシャワー博士による英訳本と、その研究書『円仁 唐代中国への旅』(日本語訳は講談社学術文庫)が出版されています。

 円仁の旅の概要を以下に記します。
遣唐使とともに唐に入国してから、当初の目的の天台山への巡礼を申請するも許可されませんでした。揚州(遣唐使船の基地が置かれていた)滞在中に、もう一つの仏教の聖地である五台山への旅が可能となり、その巡礼の旅に出かけることになりました。五台山巡礼を果たした後、長安に行き、ここで青龍寺(空海も学んだ)など諸寺院で密教の奥義を学びました。そして帰朝の準備をする頃に、武宋皇帝による「会昌(かいしょう)の廃仏」に遭遇し、外国の僧にも強制還俗の命が出されました。唐の仏教者の協力を得て帰国許可証を手にした円仁は長安を逃れ、新羅の商人たちの協力で山東半島から黄海を渡り、新羅の沿岸を経由して無事に帰国できました。

 講演では、旅の途中のいくつかのエピソードを、『入唐求法巡礼行記』を読みながら話していただきました。

 円仁が旅したルートを示したのが次の地図です。



 山上憶良が唐に渡ったのは42歳の時(702年)で、帰国後、養老元年(721)東宮侍講として首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)の教育係となり、神亀元年(726)筑前守(67歳)に任じられ、『万葉集』にも異色の歌を残しています。

 円仁も45歳で唐に渡り10年間学び、密教についての体系的な学問を手にしました。また膨大な経典類と詩文や史書など(外典)ももたらしました。帰国後、62歳で天台座主に任じられ、71歳で没しています。

 当時の航海は大変な危険を伴うもので、19回行われた遣唐使の中では、途中で難破した船がいくつもありました。まさに命をかけた学問への情熱にはあらためて感動を覚えます。
Posted by katakago at 19:31
壱岐の古代史 [2012年02月10日(Fri)]

 二週にわたって、連続講座「古代史ぎっしり壱岐」と題する講演会に参加しました(主催は朝日カルチャーセンター中之島教室)。
 一回目(2/2)は、「魏志倭人伝に記された一支国 − 3世紀の壱岐を探る」(皇学館大学教授 荊木美行先生)で、二回目(2/9)は、「壱岐島の巨石墳と新羅外交」(国立歴史民族博物館教授 広瀬和雄先生)です。このあと更に二回予定されています。


 まず一回目は、3世紀頃の倭国の様子を記した中国側の文字資料(いわゆる「魏志倭人伝」)を読みながら、当時の壱岐(原文では、一大国または一支国)の実態を探ろうとするものです。なお、「魏志倭人伝」は、中国三国時代(220〜280)の正史『三国志』の一つ『魏志』の東夷伝倭人条の略称です。著者は晋の歴史学者の陳寿(233〜297)です。

 倭国に関する記述は全体で約2000文字の短いものですが、冒頭(以下読み下し文)、「倭人は帯方(たいほう)の東南の大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百餘国。漢の時朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所、三十国。」で始まり、狗邪韓国(くやかんこく)、対馬国に続き、一支国について57文字で次のように述べられています。すなわち、「また、南して一海を渡る千餘里、名づけて瀚海(かんかい)と日う。一大国に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの家あり。差(やや)田地有り、田を耕すも猶食うに足らず、亦南北に市糴(してき)す。」とあります。弥生時代は低湿地で水田には不向きな場所も多く、食料を求めて南北に交易しなければならなかったようです。原(はる)の辻遺跡やカラカミ遺跡からは朝鮮半島との交易で得たとみられる中国貨幣や・鉄製品・朝鮮半島の土器が多数出土しているそうです(平成22年に壱岐市立一支国博物館がオープン)。原の辻遺跡は、深江田原(ふかえたばる)に広がる大規模環濠集落で、遺跡からは東アジア最古の船着き場跡が発見されています。


 二回目は、壱岐島に多数ある古墳とその横穴式石室の考古学的調査に基づき、6世紀後半から7世紀前半頃の壱岐島と新羅との関係について広瀬先生の説をお聴きしました。
 まず、壱岐島の古墳分布と特徴について、小さな壱岐島に約300基もの古墳が存在(長崎県下の6割強、対馬にはわずかに10数基)すること、その大多数は6世紀後半〜7世紀前半頃のもので(石室の腰石の大きさ、その上の石積みの段数により編年される)、うち6基の大型横穴式石室(前方後円墳2基、大型円墳4基)の集中分布は九州全域でも突出している(大型のものは九州全体でも20〜30程度)とのことです。広瀬先生は、「このような古墳の爆発的増加は、壱岐島の中の在地的要因だけでは理解できない」、という問題意識からその背景を考えてみようとの立場です。
 6基の大型の首長墓と残りの多数の群集墳(中間層の小型古墳)の比較では、大きさや副葬品で格差はあるものの(首長墓の副葬品には新羅土器や、緑秞陶器なども)、その横穴式石室の構造は共通の形式が採用されていることから、首長層と中間層はその社会的階層を超えて共通意識・イデオロギー的一体性を保持していた集団と考えられ、古墳の出現も終焉も同時期であることから、6世紀後半頃、福岡平野の首長層による多数の中間層を率いての壱岐島への移住が行われたとみられています。その背景には、中央政権がこれらの首長らに新羅に対する軍事と外交を軸にした国境政策をあたらせたとの見解です。そして、これらの大規模な古墳造営の様子は新羅からの使者にも見せつける意図もあったのではとみられています。
 なお、この当時の状況について『日本書紀』には、崇峻4年(591)「二万餘の軍を領て、筑紫に出で居る」とあり、推古10年(602)「来目皇子をもて新羅を撃つ将軍となす。軍衆二万五千人を授く」などの記事が載せられています。



 壱岐には、三年前に出かけたことがありますが、その時は、『万葉集』の遣新羅使人歌に関心があり、そのゆかりの場所を訪ねるのが目的でした。遣新羅使は、天武4年(675)から開始され、『万葉集』には、天平八年(736)に派遣された人々の旅中の歌が合計145首も載せられています(巻15)。このうち壱岐関係では、壱岐の島に着き、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が思いがけなくも悪疫に冒されて死去した時に作った歌一首と短歌二首が載せられています。なおこの頃、痘瘡(天然痘)が次第に蔓延し、天平9年(737)には多数の死者を出しており、これが雪宅満の死因ではないかと考えられています。
【歌】 石田野に 宿りする君 家人の いづらと我を 問はばいかに言はむ (N-3689)
【口語訳】 石田野(いわたの)に 旅寝する君よ ご家族に どうしたのですかと 尋ねられたら何と言おうか

 次の写真は、その折写した一首目の短歌の歌碑です。


 この時の大使は阿倍朝臣継麻呂、副使は大伴宿禰三中で、途中、海難、伝染病(天然痘か)などのさまざまな苦難に遭遇しています。大使は帰途対馬で病没し、副使も発病のため拝朝が二カ月も遅れています。その帰朝報告では、「新羅の国がこれまで通りの礼儀を無視し、わが使節の使命受け入れなかったこと」が奏上されています(『続日本紀』)。
Posted by katakago at 15:02
万葉文化館講座 [2012年02月05日(Sun)]
 奈良県立万葉文化館友の会の講演会があり出かけました。今回は「シリーズ万葉の歌人たち」の最終回(15回目)でした。「大伴家持の越中の歌」と題して、坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)が講演されました。定員70名で満席の盛況でした。理解不足もあるかと思いますが、講演の概要を以下に記しておきます。
 万葉歌所出の地名分布が調べられていますが(犬養孝『万葉の旅』)、近畿圏(奈良県、大阪府、兵庫県、滋賀県、京都府)以外では、富山県が突出しています。その理由として、『万葉集』の編纂に大きく関わったとされる大伴家持が、天平18年(746)に越中守に任ぜられ、5年間そこに暮らし多くの歌を詠んだからと考えられています。家持は、万葉歌4516首中、473首もの歌を残していますが、そのうち越中で詠んだ歌は223首にも及びます。
 当時(8世紀半ば)の地方の出来事に関する情報が極めて少ない中にあって、家持が越中国で詠んだ歌々によって、当時の越中の風土・方言・孤語・風俗などを知ることができる − というのが話の中心でした。都から離れて越中で初めて目にした風土・景物・風俗を歌に詠んで、帰京した折には都人に「みやげ」とする意図があったとみられています。
 たとえば植物では、かたかご(カタクリ)、つまま(タブノキ)、あしつき(ネンジュモ)などは、それぞれ家持が越中で詠んだ歌にのみ(しかも一首のみ)でてきます。地理情報では、大和と同じ名の二上山(ふたがみやま、越中では射水郡)、布勢の水海(射水郡旧江村)、立山(新川郡)などを詠んだ歌があります。また、当時越中で鵜飼いが行われていたことも歌から知ることができます。講演では、それぞれ万葉歌を取り上げて解説していただきました。 越中の国府のあった高岡市には、これまで何度か訪れていますが、あらためて機会を見つけて訪ねてみたいと思っています。毎年10月の初めには、「高岡万葉まつり」が開催されており、それに合わせて計画してみようかと考えています。

 講演は午後からでしたが、せっかく明日香に行くので午前中は村内を歩いてみようと思って早朝から出かけました。
 飛鳥資料館では、冬期企画展「飛鳥の考古学2011」が開催されており見学しました(今日は入館料が無料でした)。展示物のなかには、一昨年来話題になった牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の出土品もありました。

 村内には万葉歌碑が多数建立されていますが、今日も何箇所か見て回りました。ここに紹介するのは、橘寺西門近くにある、坂本信幸先生揮毫の歌碑です。柿本人麻呂の妻が亡くなった時に泣血哀慟(きゅうけつあいどう)して作った歌(長歌A-210)です。歌の後半には、 ・・・・ 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易(はがひ)の山に 我が恋ふる 妹はいますと ・・・・ と詠まれていますが、副碑には、「大鳥の羽易の山」の解説が図とともに載せられています。この碑の北東前方に、三輪山を頭部に、龍王山・巻向山を両翼のようにして、さながら大鳥が天翔るように見える山の姿をいったものと記されています(羽易は鳥の両翼の重なり合う部分)。



 次の写真はその山の様子です(左から龍王山、三輪山、巻向山)。



 万葉文化館の近くに飛鳥坐(あすかにいます)神社がありますが、今日は「おんだ祭」の神事が行われる日ということで賑わっていました。五穀豊穣と子孫繁栄を祈るため、田遊びと結婚生活をリアルに演じる、西日本三大奇祭として有名だそうですが、講演の時間帯と重なったため今回はその様子を見ることはできませんでした。



 
Posted by katakago at 19:56
考古学からみた斉明天皇陵 [2011年12月02日(Fri)]

 昨日(12/1)、白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)による「考古学からみた斉明天皇陵」と題する講演会が、朝日カルチャーセンター芦屋教室であり聴講しました。

 昨年、明日香村教育員会による牽牛子塚古墳(明日香村大字越)の調査により、舌状にのびた丘陵上に版築で築かれた対辺約22mの八角墳であることが判明し、更にその約20m南東で新たに棺を納める石室が見つかり(越塚御門古墳と命名)、新聞紙上をを賑わせました。明日香村教育委員会配布資料より、牽牛子塚(けんごしづか)古墳の写真を掲載しておきます。なお、埋葬施設については、以前の調査で、築造当初から二棺埋葬を計画して造られた合葬墓と見られていました。
次の写真は明日香村教育委員会の資料(明日香村の文化財N,2010年9月)より


 舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、天武・持統天皇陵(野口王墓古墳)や文武天皇陵(中尾山古墳)など、当時の王墓は八角墳で、牽牛子塚古墳はこれまでも斉明天皇陵かと推定されていました(宮内庁指定は高取町車木の陵)。

 『日本書紀』天智六年(667)二月条に、「6年2月に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)とを小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬した」とあり、続けて「この日に皇孫大田皇女(みまごおおたのひめみこ)を、陵の前の墓に葬る」とあります(参考までに関連系図を掲載)。



 一連の調査結果により、牽牛子塚古墳が、上記『日本書紀』に記された斉明天皇とその娘間人皇女を葬った合葬墓であり、今回新たに見つかった越塚御門古墳が斉明天皇の孫大田皇女を葬った墓と考えられ、新聞でもそのように報道されていました。

 今回、白石先生は、牽牛子塚古墳の横口式石槨の構造が、上記『日本書紀』記載年代(667)に相当するものか、考古学の立場から検証を加えられました。
 白石先生は、横口式石槨の変遷としてI類からIII類まで分類され、牽牛子塚古墳の石槨は、中尾山古墳(707年に亡くなった文武天皇の陵)等と共に第III類に相当し(7世紀末から8世紀初め)、『日本書紀』の年代(667)にはあわないとされ、牽牛子塚古墳の築造年代は7世紀終わりと考えられました。そこで、この当時の『続日本紀』で、関連する記事を調べられました。文武三年(699)十月条に、越智山陵(おちのみささぎ、斉明天皇陵、大和国高市郡)と山科山陵(やましなのみささぎ、天智天皇陵、山城国宇治郡)とを造営するため、天下の有罪の人々を赦免した記事があり、その後の記事に、役人をそれぞれの山陵に派遣して修造させたとあります。この記事の時に造られたのが、牽牛子塚古墳であると考えるのが、考古学的に見ても年代があうとの見解でした。
 それでは、『日本書紀』に記された(667年)陵はいずれかと言うことになりますが、白石先生のお考えでは、近く(明日香村大字越)にある岩屋山古墳(方形の段の上に八角の墳丘がある)がその可能性があるとの事でした。文武三年の修造の際に、こちらから牽牛子塚古墳に移葬されたとの見方です。

 考古学の分野でも考え方が異なる専門家がおられるようなので、これらの方々を迎えてシンポジウムを企画していただければ有り難いです。


Posted by katakago at 10:15
古代学講座(3回目) [2011年10月12日(Wed)]


 「古代学講座 − 東アジアの中の倭国を考える」の3回目は、「新羅と倭 - 古代韓日交渉史研究の新たな展望」と題して、朴天秀先生(慶北大学考古人類学科教授)が講演されました。
 三国時代(高句麗・百済・新羅)は三国が対立関係にあった分、倭国は新羅に対して有利な立場で武力衝突もあったようですが、朴先生によると、考古学的に見て倭国が新羅を武力で制圧したような形跡は認められないとのことでした。倭国が新羅と交渉を持った理由は、当時新羅は韓半島では鉄器を生産できる唯一の国であり、ここから先進技術を導入するためと見られています。5世紀前半の日本の遺跡から、新羅産の鐵鋌が出土しています((愛媛県出作遺跡、岡山県窪木薬師遺跡、大阪府野中古墳、奈良県大和6号墳など)。一方、新羅王陵から金冠が多く出土しており(皇南大塚ほか)、その飾りに翡翠の勾玉が付けられているものもあり、翡翠の勾玉は全体では5000点以上も出土しているとのことです。朴先生によると、これらは日本の糸魚川産の翡翠とのことでした。朴先生は、鉄鋌を得る見返りに翡翠が贈られたのではないかと考えられています(倭国は新羅王権との交渉により先進技術の導入を図った)。
 また、5世紀前半の日本の古墳から新羅産の金工品が出土しており、6世紀後半の奈良県藤ノ木古墳からは、新羅に特有の3本足の鞍金具も出土しています。


 百済の役後の天智七年(668)以降、両国から相互に使いが派遣されるようになります。『万葉集』にも、天平八年(736)に派遣された遣新羅使人の歌が145首載せられています(巻15)。


 今月23日より、4泊5日の旅程で、「飛鳥を愛する会」主催の韓国歴史の旅(金海・慶州・公州・扶余・益山)に出かける予定です。現地での遺跡見学を楽しみにしています。
Posted by katakago at 17:54
萬葉学会公開講演会(10/8) [2011年10月10日(Mon)]

 この8日より、第64回萬葉学会が園田学園女子大学で開催されています。萬葉学会は、万葉集とそれに関連する各分野の研究を目的とし、200号を超える会誌『萬葉』には、厳しい審査を通った論文が掲載されています。一方で万葉集に関心のある者ならば会費を払えば誰でも入会できる、一般にも開かれた学会です。筆者も数年前から会員で、初日(8日)の公開講演会と懇親会に参加しました。
 公開講演会では、「上代の形容詞」(蜂矢真郷 中部大学教授)と「万葉集の相聞の性格」(寺川眞知夫 同志社女子大学特任教授)の2題の講演が行われました。
 最初の講演は、一般人には難し過ぎる内容で公開講演会向きではないように思われました。
 2題目の「万葉集の相聞の性格」では、初期相聞から平安時代の古今集恋の部に続いてゆく、相聞歌の移り変わりについて寺川先生のお考えが紹介されました。初期相聞の典型的な例は、男女の一対一の歌で、男女が同じ場所にいて声を交わしたと見なされる歌や、声では歌い交わせない、距離の離れた二つの場所にいて交わされた歌がある。また、古代日本では人前で恋の歌の贈答も行われ(歌垣における対歌)、その流れが遊びとして宴席などでも行われたようです(例として、湯原王と娘子との間の贈答歌ほか)。さらに、相聞に分類されるもの中には、贈答を表現しない題詞の歌もあり、これらの中には贈答のペアを伴わないものが含まれる(贈答をしなかった歌、答歌を期待しない独詠歌、宴席で恋にかかわる題のもとに詠まれた歌など)。そして、古今集の歌との比較では、万葉集では思う人を「妹」と表現するのに対し、古今集では思う人を「人」で表現した歌(未だ恋人関係になっていない人を思う歌)が増えていることより、歌が実際の贈答から、恋をテーマにした歌に移って行ったことがみられ、万葉後期の歌人の歌にもこの萌芽がみられるとのことでした。
 また、相聞に「死」の表現が多くみられること(万葉集全体の恋歌(相聞)の中に「死」の語が65例ほどある)にも触れられていました。万葉集以後の勅撰集にはこの現象はあまり見られなくなるのも興味深く思われました。

 懇親会は尼崎市総合文化センター宴会室で行われ、80名近くの方が参加されました。次の写真は、挨拶される萬葉学会代表の坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長、奈良女子大学名誉教授)です。


 立食で歓談しながらその場を楽しんでいたところ、宴席の半ばで司会者から、「猪名川万葉植物園」の木田さんと御指名があり、突然のことで一瞬うろたえましたが、この機会に植物園のPRもさせていただけました。
Posted by katakago at 19:01
古代学講座(2回目) [2011年10月05日(Wed)]


 川西市中央公民館主催の「古代学講座 - 東アジアの中の倭国を考える」の2回目の講演会に参加しました。演題は「三角縁神獣鏡をめぐって」で、講師は玉城一枝先生(奈良芸術短期大学講師)です。
 「魏志倭人伝」に、卑弥呼が銅鏡百枚を貰ったとありますが、三角縁神獣鏡がその銅鏡に当たるかについては、これまでいくつかの説が出されています。

 今年4月に開催された歴史講演会で福永伸哉先生(阪大教授)が示された資料より、これまでの説の概要を以下に整理しますと、
・富岡謙蔵説(1920)では、「銅出徐州 師出洛陽」とあり、この字が用いられるのは魏の時代であり、魏代の鏡であり、卑弥呼の鏡と推定。
・森浩一説(1962)では、中国大陸からの出土例は無く、国内産と見る。
・王仲殊説(1980年代)では、3世紀の神獣鏡は華北(魏)に少なく、華南(呉)に多い。「用青銅至海東」とあるのは、銅の原料を持って海東(倭)へやってきたことを示す銘文であり、呉の亡命工人が倭国内で製作した。
・福永伸哉説(1991)では、鈕孔の形状から魏の工人が作ったと見られている。景初三年(239)より前の太和元年(227)以前の神獣鏡の鈕孔は全て円か半円で、これは南の呉の領域で作られ、景初三年以降は、鈕孔は長方形で魏の工人(珍しいクセを持つある特定の工人群)が作った。甘露四年(259)以降の鏡(鈕孔は長方形)には、魏の官営工房である「右尚方」の銘文があり、長方形の鈕孔の手法が、魏の官営工房の技術につながっていったとみられている。

 これらも踏まえ、玉城先生のお考えが示されました。
・「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼が景初三年に使いを出して、半年ぐらいの間で倭国への特注の鏡を作る時間があっただろうか?
・景初四年銘の三角縁神獣鏡も出土しているが、魏ではこの年皇帝が変わり正始元年と改元されている。改元後に、魏で改元前の年号の銘の鏡が作られたとは考えられない(現皇帝に対し礼を失する)。
・景初三年銘の鏡と、景初四年銘の鏡の銘文には、「陳是作鏡」とあり、同じ工房で同じ人が作っている可能性がある。
・銅に含まれる鉛の同位体比の分析結果では、中国製が確実な鉛と三角縁神獣鏡の鉛の比較では、明らかなずれがある(新井宏 2007)。
 以上の点より、三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った銅鏡(魏鏡)には当たらないとの説でした。
 それでは、卑弥呼が貰ったとされる銅鏡は既に出土している鏡の中にあるかとの筆者の質問に対し、画紋帯神獣鏡がその可能性があるとのことでした。

 参考として、以下の写真を掲載しておきます。まず、「魏志倭人伝」の中の銅鏡百枚に関する記事の部分です


 次の写真は、筆者が7年ほど前に東大阪市にある銅合金鋳造「上田合金」で、銅鏡作りを体験した時に作製した鏡(三角縁三神五獣鏡)です。
Posted by katakago at 19:34
古代学講座(9/28) [2011年09月29日(Thu)]


 川西市中央公民館主催の「古代学講座 − 東アジアの中の倭を考える」(3回のシリーズ)の一回目がスタートしました。昨日(9/28)は、「高句麗・楽浪と倭」と題して、元北京大学教授永島暉臣愼(きみちか)先生による講演が行われました。この講座は毎年人気があるらしく、今回も定員100名に対し160名以上の申し込みがあったようです。
 演題には楽浪と共に高句麗があり、当日配布の資料にも高句麗壁画古墳(変遷、四神図)、キトラ古墳、高松塚古墳に関する項目も取り上げられてあり、こちらの方に興味があったのですが、今回は、楽浪古墳の分布と構造、楽浪文化と倭についての話が中心となりました。発掘現場の様子などパワーポイントで説明されました。いずれ機会があれば、残りの部分の話もぜひ聴きたいものです。

 2回目(10/5)は、「三角縁神獣鏡をめぐって」、3回目(10/12)は、「新羅と倭」です。


 来月下旬に、「飛鳥を愛する会」の秋季現地講座として、「韓国歴史の旅 − 金海・慶州・公州・扶余・益山を訪ねる」が企画されており、筆者も参加を申し込んでいます。飛鳥の文化の源流としての百済・新羅・金官加耶を訪ねます。同行講師は、この会の会長木下正史先生(専門は考古学・文化財保存学)です。通常のツアーでは訪れることのない見学地も多く設定されており楽しみにしています。
Posted by katakago at 05:02
万葉集の植物・植生 [2011年09月17日(Sat)]


 兵庫県立人と自然の博物館(三田市)で、「万葉集の植物・植生」と題して服部保先生(兵庫県立大教授・博物館部長)のセミナーがあり、万葉仲間を誘って参加しました。服部先生は、万葉歌に詠まれた植物を、植物群集、群落(植生)の視点から解析して、万葉時代の植生景観がどのようなものであったかについて研究されています。この研究に際しては、4516首からなる万葉歌全てについて、3回読み込まれたとのことでした。

解析結果の要約の一例
・同じ歌に詠まれた複数の植物の組み合わせについて、植生単位(採草草原、水田雑草群落など)毎に解析すると、現存植生の種組成の一部を反映した結果となり、万葉歌の写実性の高さを示している(例えば採草草原のススキクラスの構成種は、ハギ、ススキ、オミナエシ、チガヤ、クズ、カワラナデシコ、スミレ、キキョウ、フジバカマ、ナンバンギセル間での組み合わせ)。
・同じ歌に詠まれている植物と立地条件(田、里、野、丘、社、山、奥山、河原、川、河口、浜など))との対応に関しても、現存植生との一致が見られ写実性の高さが認められる(例えば田の立地条件に対して、イネ、セリ、イヌビエ、ヒルムシロ、コナギが対応)。
・植生単位(ススキ・チガヤ・シバ草原、庭園・緑化植物群など)毎にそれに属する植物が詠まれた歌の数を集計すると、ススキ・チガヤ・シバ草原の植生単位が最も多く、万葉人は開放的な草原景観を好んでいたようである。

 『万葉集』に関する講座や講演会で、このような視点での講演は初めてで、大変興味深く聴かせていただきました。5年前に、『手づくり万葉植物園の四季』を自費出版しましたが、将来その改訂版を出す機会があれば、このような研究成果も参考にしたいと考えています。


 なお、この博物館には丹波の恐竜化石が展示されています。セミナーが始まる前に館内を見ることが出来ました。

Posted by katakago at 19:22
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