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考古学からみた斉明天皇陵 [2011年12月02日(Fri)]

 昨日(12/1)、白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)による「考古学からみた斉明天皇陵」と題する講演会が、朝日カルチャーセンター芦屋教室であり聴講しました。

 昨年、明日香村教育員会による牽牛子塚古墳(明日香村大字越)の調査により、舌状にのびた丘陵上に版築で築かれた対辺約22mの八角墳であることが判明し、更にその約20m南東で新たに棺を納める石室が見つかり(越塚御門古墳と命名)、新聞紙上をを賑わせました。明日香村教育委員会配布資料より、牽牛子塚(けんごしづか)古墳の写真を掲載しておきます。なお、埋葬施設については、以前の調査で、築造当初から二棺埋葬を計画して造られた合葬墓と見られていました。
次の写真は明日香村教育委員会の資料(明日香村の文化財N,2010年9月)より


 舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、天武・持統天皇陵(野口王墓古墳)や文武天皇陵(中尾山古墳)など、当時の王墓は八角墳で、牽牛子塚古墳はこれまでも斉明天皇陵かと推定されていました(宮内庁指定は高取町車木の陵)。

 『日本書紀』天智六年(667)二月条に、「6年2月に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)とを小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬した」とあり、続けて「この日に皇孫大田皇女(みまごおおたのひめみこ)を、陵の前の墓に葬る」とあります(参考までに関連系図を掲載)。



 一連の調査結果により、牽牛子塚古墳が、上記『日本書紀』に記された斉明天皇とその娘間人皇女を葬った合葬墓であり、今回新たに見つかった越塚御門古墳が斉明天皇の孫大田皇女を葬った墓と考えられ、新聞でもそのように報道されていました。

 今回、白石先生は、牽牛子塚古墳の横口式石槨の構造が、上記『日本書紀』記載年代(667)に相当するものか、考古学の立場から検証を加えられました。
 白石先生は、横口式石槨の変遷としてI類からIII類まで分類され、牽牛子塚古墳の石槨は、中尾山古墳(707年に亡くなった文武天皇の陵)等と共に第III類に相当し(7世紀末から8世紀初め)、『日本書紀』の年代(667)にはあわないとされ、牽牛子塚古墳の築造年代は7世紀終わりと考えられました。そこで、この当時の『続日本紀』で、関連する記事を調べられました。文武三年(699)十月条に、越智山陵(おちのみささぎ、斉明天皇陵、大和国高市郡)と山科山陵(やましなのみささぎ、天智天皇陵、山城国宇治郡)とを造営するため、天下の有罪の人々を赦免した記事があり、その後の記事に、役人をそれぞれの山陵に派遣して修造させたとあります。この記事の時に造られたのが、牽牛子塚古墳であると考えるのが、考古学的に見ても年代があうとの見解でした。
 それでは、『日本書紀』に記された(667年)陵はいずれかと言うことになりますが、白石先生のお考えでは、近く(明日香村大字越)にある岩屋山古墳(方形の段の上に八角の墳丘がある)がその可能性があるとの事でした。文武三年の修造の際に、こちらから牽牛子塚古墳に移葬されたとの見方です。

 考古学の分野でも考え方が異なる専門家がおられるようなので、これらの方々を迎えてシンポジウムを企画していただければ有り難いです。


Posted by katakago at 10:15
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