新書 〈運ぶヒト〉の人類学 [2014年10月31日(Fri)]
川田 順造 (著)
「〈運ぶヒト〉の人類学」 (岩波新書) 720円(税抜き) アフリカで生まれ、二足歩行を始めた人類は、空いた手で荷物を運び、世界にちらばっていった。この〈運ぶ〉という能力こそが、ヒトをヒトたらしめたのではないか? アフリカ、ヨーロッパ、東アジアの三つの地点を比較対照し、〈運ぶ〉文化の展開と身体との関係を探る。人類学に新たな光を当てる冒険の書。 毎日新聞 2014年10月19日 の書評です。 ◇「道具の人間化」は白人型進歩への対照 アフリカで誕生した私たちの先祖である新人(ホモ・サピエンス)が、世界中に拡(ひろ)がって暮らすようになったのは「アフリカを出るとき、立って歩き、自由になった両手も使って、最低限のものだったにせよ、新しい土地で生きてゆくのに必要な道具を、運ぶことができたからだ」と著者は言う。そしてこれまで、作るヒト(ホモ・ファベル)、遊ぶヒト(ホモ・ルーデンス)など、人間の特徴をつかみ取ってつけられてきた綽名(あだな)にならい、運ぶヒト(ホモ・ポルターンス)を提案する。 直立二足歩行を始めたヒトが、大きな脳、分節された発声が可能な声帯(これで言葉が話せる)、自由な前肢を持つことによって、多様な生物の中でただ一種、文明を持つことになったことはよく知られている。自由になった手でさまざまなものを作ったことがそこにつながったとは誰もが考えるが、同じ手による「運ぶ」という行為の意味はこれまであまり議論して来なかったように思う。指摘されてみればなんとも興味深い切り口である。 人類学者である著者は、六〇年の長きにわたって日本、西アフリカ、フランスの三地域を往来し、三つの文化を比較してきた。ある文化を他の二つとの関係で見ることで自身の属する文化にもとづく主観を相対化できるこの方法を「文化の三角測量」と呼ぶ。 まず、各文化特有の考え方や自然条件を見た後、文化に条件づけられた身体の使い方、つまり「身体技法」としての運び方を比べる。長期にわたって撮りためたさまざまな写真と身体技法の効用と意味を整理した図とから、このテーマの面白さが見える。運搬に直接関わる身体部位は、頭頂部、前頭部、肩、肩から背の上部、腰、前腕などである。日常自分が物を運ぶ時、体のどこをどう使っているかを確かめながら身体と道具の関係を考えると楽しい。 西アフリカの黒人、フランスを中心とする地域の白人、日本人を含む黄人という形で捉えた三者の特徴を見ていく。黒人は四肢が長く骨盤が前傾しているために、深前屈、背をもたせかけない投げ脚が容易であり、頭上運搬が得意だ。荷物を頭に乗せ、上半身を直立して膝を伸ばし、外股でスタスタ歩く。一方、白人は立位と高座位の慣用で蹲踞(そんきょ)は困難、重心の高い背負い具を用い、籠を腕にかけたり腰で支えたりする。黄人は前頭帯による背負いでの運搬が多い。 つまり、黒人は運搬具をほとんど必要とせず「人体の道具化」をしている。一方、白人の運搬具は多様で、特定の目的をもつ。「道具の脱人間化」である。それに対し、黄人とくに日本人には、道具を巧みに使いこなす「道具の人間化」が見られる。その好例が棒を用いた運搬である。白人は、肩あてをつけた両肩に固い棒を渡し二つの壺(つぼ)を下げる。一方、日本の天秤(てんびん)棒は、しなやかな木を用い、肩と腕だけでなく腰を使い、棒を体の一部にしている。 道具の脱人間化は、誰がやっても同じ結果が得られるような工夫であり、人力を省き、家畜、水、風などのエネルギーを利用して大きな結果を得ようとする。現代の技術はまさにこれであり、それを進歩と呼んできた。しかし日本人としては、道具を人間化し、技を磨くやり方を評価したい。 「自分自身の身体を使って、身の丈に合ったものを選ぶという、ヒトの原点にあったはずのつつましさを思い出すこと」で、知恵あるヒトとして他の生きものたちと共に生きてゆく道を探るのがこれからだろう。 −「今週の本棚:中村桂子・評 『<運ぶヒト>の人類学』=川田順造・著」、『毎日新聞』2014年10月19日(日)付。 図版や写真が豊富で楽しく読みながら旅ができます。【KB】 |
Posted by
大阪手をつなぐ育成会
at 00:50