記者の目:東日本大震災 陸前高田市で=竹内良和(東京地方部)
◇息遣い消えた街に立ちつくす
道端に無数の亡きがらが寝かされていた。風が吹くたびにかけられた布団や毛布がめくれ上がる。最期の表情や姿がのぞく。東日本大震災の発生3日後の14日午後、私は岩手県陸前高田市の市街地で、ただぼうぜんと立ちつくしていた。2万3000人の息遣いがあったはずの街は驚くほど静かで、いまいましく吹く風の音ばかりが響いていた。
◇道端、広場に無数の亡きがら
地震発生直後、車で東京を出発し、18時間かけ仙台市に着いた。8日間にわたり宮城、岩手の被災地を歩き、数え切れない生と死を目の当たりにした。今も気持ちの整理はつかない。
陸前高田市の中心部へ通じる道は封鎖されていた。「津波が来るかもしれない。本当に危ないですよ」。警察官に警告されたが、この目で「現場」を見たい。地元住民に迂回(うかい)路を聞き、徒歩でたどり着いた街の姿にあぜんとする。かすむほど遠くまで泥とがれきが埋め尽くしていた。
重機で切り開かれた作業路に遺体が並ぶ。やがてその道も途切れた。言葉もなく長靴でがれきを踏みしめながら進む。すると、駐車場であったであろう広場に20体ほどの亡きがらが寝かされていた。後を追ってきた同僚が両手で頭を抱える。
会社の制服、青い作業着、エプロン……。今にも起き上がり、元の生活に戻っていきそうなほど、みな暮らしのにおいにあふれていた。死は決して遠くにあるものではないと実感し、恐ろしさで身が縮む。手を合わせることしかできない。記者11年目。火災や事故などの死亡記事を数え切れないほど書いてきた。新聞人としての甘さや不遜さに改めて気づく。
翌日、市街地には肉親や知人を捜す人たちの姿があった。がれきを廃材の棒でつつきながら歩いていた菊田白世(しろせ)さん(62)。長男と二手に分かれ、勤務先の市内のJAで被災した長女の小槌有花さん(24)を捜しているという。有花さんは避難時に妊娠8カ月。私にできることが思いつかず、ともにがれきの街を歩かせてもらうことにした。
菊田さんは、有花さんが小学1年生の時、妻と離別。漁船に乗りながら男手で2人の子どもを育てた。被災時は千葉県の銚子港におり、燃料切れのランプが点灯する車を飛ばし岩手に戻った。遺体安置所を回り、がれきの街を歩くなかで、有花さんが職場の同僚たちと避難したとの情報を得た。だが、有花さんと一緒に逃げたという同僚の男性職員は遺体で見つかった。「結婚して2人目の子どもが生まれるときだったのに」。菊田さんは、がれきの山を見つめた。
記事を書こうにも、あまりに重い被災の実相に、キーボードを打つ動きは鈍る。宿舎に戻っても亡きがらの表情がまぶたに焼き付き、明け方まで寝付けない。部屋の照明を消すのが無性に怖い。ラジオを流しながら、気を紛らわせて目をつぶった。
無力感にさいなまれながらその後も三陸海岸沿いの被災地を歩いた。ある町の役所を訪ねると、突然、窓口の男性職員に「記者さん、どこでガソリンを売ってくれるんですか」と話しかけられた。私と同い年ほど。無精ひげを生やし、支援に来た行政職員に応対し、ひっきりなしに訪れる市民の相談に乗っていた。手があくとパソコンに向かい必死に何かを打っている。
震災前は広報誌担当としてカメラを手に町内を駆け回っていた。大津波が街を襲ったときは取材で高台にいて無事だった。同僚の中には避難所に配置され津波にのまれた人もいる。彼はどこかで自分を責めているかのようだった。
葛藤を抱えながら窓口に立つ中で、彼は気づく。「取材には出られないけど、ここならいろんな人から情報が入る」。地震発生1週間後、生活情報を満載した広報誌をA4判で復刊させた。彼は自身の置かれた環境で精いっぱいに生きている。私よりもずっと記者らしいと思った。
◇「どう生きるか」 重い問いかけ
ひとまず東京に戻り、命を落とし、泥だらけの布団で冷えた地面に横たわった多くの人々を改めて思う。私と同じように家庭や暮らしがあったはずだ。「あなたはどう生きるのですか」と、問いかけられているように思えてならない。
未曽有の大津波と原発事故による放射能汚染で、この国は深い闇の底に沈もうとしているのだろうか。生ある者は何をすべきなのか。私は被災地に立って精いっぱいペンを走らせようと思う。