吹上の偉人 新井章吾の生涯 [2009年02月13日(金)]
新井章吾の生涯
幼少期〜青年期(章吾少年は向学心に燃えていた)
新井章吾は安政4年(1857年)に吹上村の豪農新井四平治の長男として生まれた。少年時代から向学心に燃え、吹上藩の『日就館』で漢学を修め廃藩置県で日就館が閉館したのち、壬生の『育英舎』で英学を学ぶ。少年時代から眼を海外に向けていたようである。幕末から明治維新期の動乱を眼の当たりにした新井少年は読書や史学の勉強を通じて社会に向けたと思われるが、隣同士であった8歳上の塩田奥造に陰に陽に影響を受けたと推測される。
その才が認められて明治9年若干20歳で吹上村の戸長、翌10年には風野村、新井村、泉川村、大皆川村の戸長となり村治に勤めたが、郡区編成がなる12年まで続けた。戸長になると結婚話が持ち上がり、栃木県権参事柳川安尚の長女タネと翌年結婚。
一大転換〜国会開設運動に奔走
明治12年は23歳の新井にとって一大転機となった。戸長をやめると『天下の志士と交わり、大いに為す所あらんと欲し』、父母や妻子を捨て上京したが、一旦家に連れ戻されるが13年父四平治の死を機に、家業を捨てて政治に没頭するようになる。
この年吹上村正仙寺において塩田奥造らと『教育勧業演説会』を開いたが、これ以降、栃木県の自由民権運動は高揚期に入る。その時は拠り所となったのが栃木新聞であった。栃木新聞は幾多の変遷を経るが、新井はこの栃木新聞で論陣を張ったが、県内では民権家たちの意見がまとまらず、統一した運動とはならなかった。
明治14年25歳の時、国会開設詔勅発布後の新情勢に対応するため自由党が結成されると新井は入党し、塩田らとともに党勢拡張に尽力し、自由党の常議員になる。自由運動会での演説が問題視され、一年間政談演説を禁止されたが、それに屈せず再度政府批判をした為、初めて8ヶ月の刑を宣告された。
明治17年、刑に服していた間に、国内の政治情勢は急進化しており、関東各地で挙兵の動きが出てきた。栃木でも鯉沼九八郎の『テロリズム』と新井の説く『義兵』が対立したが、間もなく上告していた刑が確定し再び入獄。この間、加波山事件・秩父事件など自由党の激化事件の続発やそれに伴う自由党の解体を牢獄で見ることになる。これ以降、自由民権運動は行き詰まり転機を迎えることになる。
民権から国権へ
18年2月(29歳)に出獄したが、前年の朝鮮をめぐる日清両国の対立で、甲申事変を機に国内で反清感情が高まっていた。このような情勢の中で新井は大井憲太郎らと朝鮮の改革派と手を結び独立させ、同時に国内改革を行うなという計画を立てたが、実行する前に新井や大井らも一斉に検挙された(大阪事件)。この結果、予審、上告を経て重懲役9年の刑が言い渡された。大阪事件について評価は今でも史家の間では定まっていない。
22年末(33歳)憲法発布の大赦により出獄した新井は直ちに政界に復帰。23年3月に栃木県会議員、7月に第1回総選挙で第2区から立候補し最高点で当選し衆議院議員となり中央政界に進出した。この間解党した自由党の再建を目指したが、紆余曲折を経て大井らと立憲自由党を組織した。新井は『自由平等経論』や『民権新聞』を発行し、条約改正と欧化政策を進める政府を厳しく批判した。
25年の第2回総選挙にあたり、星亨と激しく対立し、【熱い戦争】が展開されるが、これ以降新井は微妙にスタンスを変えていく。星―陸奥宗光―長州閥に対抗して薩摩閥と手を握り、政権奪取を図ったといわれる。その後薩摩閥の陸相高島鞆之助に接近し、政府の海軍拡張予算案に賛成したため、次第に盟友からも孤立して自由党を脱党した。
政治から実業の世界へ
この後、新井は模索を続けるが30年高島鞆之助の斡旋により拓務省北部局長(代議士兼任)に任官したが、官制改革でたった3日で退官を余儀なくされたというエピソードもある。35年(46歳)の第7回総選挙で初めて落選を経験した。37年(48歳)の総選挙で政友会に所属し、再び議席を獲得したが、新井は政治よりも実業に意を注ぐようになり、宇治川水力電気株式会社の創立委員として大阪に出発しようとした日の朝、脳出血で急死。明治39年10月16日、49歳8ヶ月の波乱の生涯であった。
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Posted by
いぶきの里 ほのぼの
at 00:10
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