吹上地区の偉人
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塩田奥造の生涯幼少期〜青年期(奥造が育った吹上藩)
塩田奥造は嘉永2年(1849年)に吹上村に生まれた・同年生まれでは乃木希典・西園寺公望などがいる。4年後の1853年にペリーが浦賀に入港し開国を迫った。
この頃吹上地方は大麻の特産地として豊かであった。
奥造は吹上藩校「明倫学校」で学ぶ。15歳の時に水戸天狗党が太平山に立て籠もった時に偵察に出た。18歳の時に出流山天狗事件が発生した時に各藩とともに追討に当った。ちなみに吹上藩は譜代大名である。19歳(慶応4年・明治元年)吹上藩は新政府側に付く事を決め、奥造は正使について中山道を行き新政府東山道軍総督である岩倉具定(岩倉具視の息子)に吹上藩の帰順を告げた。その後奥造は新政府軍について4月22日の安塚の戦いを始め会津戦争まで参戦した。この安塚の戦いで吹上藩は65名を出兵させている。この戦いに参戦した藩は土佐藩・松本藩・忍藩・壬生藩などである。午前5時吹上藩の砲弾を合図に一斉射撃が始まった。藩士2名・平民2名が戦死し、この4人が旧吹上村役場跡に立っている忠魂碑の最初に刻まれている。
21歳で大庄屋に任命された(大庄屋とは庄屋の上に立ち数ヵ村から十数ヵ村の取りまとめをする役目)。22歳(明治4年)の廃藩置県では事務取扱となって吹上藩の幕を下ろした。この頃東京に出て政治・法律・英学等を学んだ。
26歳(明治8年)吹上他32ヵ村の区長を務めた。28歳(明治10年)下都賀学区取締に任命され下都賀郡内の学校の設置をした。
明治の初期から有る小学校はこの時に設置場所が定められ、現在に至っている。(吹上小学校がそうである。)
青年期から中年期(県議から国政へと活躍の場を広げた)
31歳(明治13年)吹上村正仙寺において新井章吾らと「教育勧業演説会」を開催した。これが栃木県における最初の自由民権運動の演説会である。ちなみに正仙寺は塩田家の菩提寺である。
3月栃木町の近龍寺において塩田を座長として国会開設請願の大集会が開催された。同年県会議員当選 11月塩田ら2名の名で太政大臣に民選議院設立請願書を提出したが却下された。この頃隣家の新井章吾らと自由民権運動に熱心に取り組み全国で活躍した。明治15年自由党の全国の党員の1割は栃木県そのほとんどは下都賀郡在住者であった。栃木においては明治16年に運動会の名目で3度にわたり集会を開き党勢拡大を図ったが弾圧により幹部が逮捕された。明治16年塩田は投獄された。栃木市万町のかな半旅館を拠点に活動した。
39歳(明治21年)県議に返り咲き副議長になる、この時の議長は自由民権運動の同志である田中正造である。明治22年に明治の大合併で10ヵ村が合併して吹上村となった。
41歳1890年(明治23年)第一回衆議院選挙で栃木第4区(塩谷・那須)から立候補して当選(この時栃木県で当選した5人は全員平民で、全国でも非常に珍しい事であった。)
1892年 2月第2回 当選
1894年 3月第3回 当選 7月日清戦争開戦
1894年 9月第4回 落選
4回目で落選すると東京で実業家となり、東京火災(現在の椛ケ害保険ジャパンの前身)取締役となった。東京火災は日本で最初の損害保険会社であり、奥造はこれからの社会での保険の必要性をいち早く認識していた。その他東京米穀取引所理事などを歴任し その後京浜銀行支店長となり、1900年(明治33年)に京浜銀行ハワイ支店長としてハワイに渡った。
ハワイの事
日本最初の海外移民は1868年(明治元年)ハワイ移民153名で、日本とハワイはお互いを重要視していた。(咸臨丸のハワイ寄港にハワイの人々は大いに感銘を受けていた。)
1881年(明治14年)カラカウア王が海外元首として初めて来日 明治天皇に面会 移民協定締結 カイウラニ王女と山階宮との婚姻を協議 政府内で検討をした結果丁重に断った。
1884年(明治17年)ハワイに日本領事館開設
1885年(明治18年)初の官約移民
日本において、1884年(明治17年)に自由党が解党すると1885年から1887年にかけて多数の自由党員が新天地を求めてアメリカに渡った。そしてサンフランシスコで機関紙「新日本」を発行し、日本政府の攻撃を行った。これがアメリカにおける最初の邦字紙である。
ハワイの日本人には参政権が与えられていたが明治20年(1887年)のハワイの憲法改正で参政権は剥奪されてしまっていた。明治26年(1893年)にハワイ王朝が崩壊すると、日本人の参政権回復運動が起こり、ちょうどその時にハワイ王朝の再建を果たそうとした王党派はアメリカに渡り、サンフランシスコの旧自由党員達の結社に助力を願った。旧自由党員達は王政復古に共鳴し、日本人の参政権回復運動支援を図り、日本人たちの権益保護の為大挙してハワイに渡り、邦字紙の発行を行った。(当時ハワイの人口は約154,000人で、その内日本人移民の数は約64,000人であった。従って人口の約4割が日本人であった。)
奥造は明治33年(1900年)京浜銀行ハワイ支店長として、ハワイに渡った。京浜銀行は移民の預金管理・法的代行などを行った。
京浜銀行支店長として活躍する傍ら、現地に「塩田バンク」を設立し産業振興に寄与した。
1900年1月にペスト焼き払い事件が発生し日本人家屋176軒が焼失した。この事件の解決に当たって日本人が団結し損害賠償をハワイ州政府から勝ち取った。1901年にアメリカ丸事件が発生し人権蹂躙であると在留邦人が激昂し、8月2日にホノルル日本人小学校において、在留民大会を開催した。2000人の日本人が集結し、最初に塩田奥造が熱弁を奮いハワイ日本人会を組織することを決めた。事件解決後日本人会は解散し、新たに日本人の統一団体として1903年に「中央日本人会」が誕生した。その発会式の時塩田奥造(肩書は京浜銀行ハワイ支配人)は議長を務めた。
8日間にわたる協議の末斎藤総領事を会長とするハワイ全島統一代表団体「中央日本人会」が誕生した。
1905年に日本外務省の命で移民会社代理人制度が廃止され、銀行業務が大幅に縮小されたため、やむなく奥造は明治38年に帰国した。この間1904年から1905年にかけて日露戦争があった。
1908年ハワイへの新移民が禁止された。
中年期〜晩年
奥造は帰国後積極的に経済界に進出していった。
明治39年東洋精糖設立 玉川電気鉄道取締役(現在東急世田谷線として一部が残っている) 段通梶@東京生肥 千代田製粉梶@帝国実業梶@帝國大理石梶@日本陶磁器梶@明治石油梶@各役員などを歴任。
昭和2年79歳で死去
戒名「清輝院殿義彰道徹壽翁大居士」
妻 マス 大平町牛久新村家から 昭和15年没 90歳
大正3年に養子鋭次に家督相続 鋭次は大正12年に吹上村長に就任した
墓所入り口に「日本三体米山薬師 塩田一族之墓入口」とある
東京での住まいは最初小石川 後西巣鴨(現在のJR山手線大塚駅北方癌研病院近く)
新井章吾より8歳年長
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