CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

さしも草の生育 [2009年04月04日(Sat)]


暖かい日、善応寺(伊吹山)に寄ってみた。
昨年植えた「さしも草」が気になって。
もうすっかり根付いている様子で緑の葉を大きく広げていた。
もう少し経つときっと立派なもぐさとして「草もち」になるのか?・・・と。


寺全体に柵もつけられ、収穫が楽しみ。


 


吹上の偉人 塩田奥造の生涯 [2009年02月13日(Fri)]

 

吹上地区の偉人


▼ 塩田奥造の生涯を見る

▼ 新井章吾の生涯を見る



▼ 塩田奥造・新井章吾の生涯をPDFでダウンロードする(146kb)

▼ 塩田奥造・新井章吾の生涯年表をPDFでダウンロードする(19.5kb)





 
塩田奥造の生涯

幼少期〜青年期(奥造が育った吹上藩)

 塩田奥造は嘉永2年(1849年)に吹上村に生まれた・同年生まれでは乃木希典・西園寺公望などがいる。4年後の1853年にペリーが浦賀に入港し開国を迫った。
 この頃吹上地方は大麻の特産地として豊かであった。
奥造は吹上藩校「明倫学校」で学ぶ。15歳の時に水戸天狗党が太平山に立て籠もった時に偵察に出た。18歳の時に出流山天狗事件が発生した時に各藩とともに追討に当った。ちなみに吹上藩は譜代大名である。19歳(慶応4年・明治元年)吹上藩は新政府側に付く事を決め、奥造は正使について中山道を行き新政府東山道軍総督である岩倉具定(岩倉具視の息子)に吹上藩の帰順を告げた。その後奥造は新政府軍について4月22日の安塚の戦いを始め会津戦争まで参戦した。この安塚の戦いで吹上藩は65名を出兵させている。この戦いに参戦した藩は土佐藩・松本藩・忍藩・壬生藩などである。午前5時吹上藩の砲弾を合図に一斉射撃が始まった。藩士2名・平民2名が戦死し、この4人が旧吹上村役場跡に立っている忠魂碑の最初に刻まれている。
 21歳で大庄屋に任命された(大庄屋とは庄屋の上に立ち数ヵ村から十数ヵ村の取りまとめをする役目)。22歳(明治4年)の廃藩置県では事務取扱となって吹上藩の幕を下ろした。この頃東京に出て政治・法律・英学等を学んだ。
 26歳(明治8年)吹上他32ヵ村の区長を務めた。28歳(明治10年)下都賀学区取締に任命され下都賀郡内の学校の設置をした。
明治の初期から有る小学校はこの時に設置場所が定められ、現在に至っている。(吹上小学校がそうである。)

青年期から中年期(県議から国政へと活躍の場を広げた)

 31歳(明治13年)吹上村正仙寺において新井章吾らと「教育勧業演説会」を開催した。これが栃木県における最初の自由民権運動の演説会である。ちなみに正仙寺は塩田家の菩提寺である。 
 3月栃木町の近龍寺において塩田を座長として国会開設請願の大集会が開催された。同年県会議員当選 11月塩田ら2名の名で太政大臣に民選議院設立請願書を提出したが却下された。この頃隣家の新井章吾らと自由民権運動に熱心に取り組み全国で活躍した。明治15年自由党の全国の党員の1割は栃木県そのほとんどは下都賀郡在住者であった。栃木においては明治16年に運動会の名目で3度にわたり集会を開き党勢拡大を図ったが弾圧により幹部が逮捕された。明治16年塩田は投獄された。栃木市万町のかな半旅館を拠点に活動した。
39歳(明治21年)県議に返り咲き副議長になる、この時の議長は自由民権運動の同志である田中正造である。明治22年に明治の大合併で10ヵ村が合併して吹上村となった。
 41歳1890年(明治23年)第一回衆議院選挙で栃木第4区(塩谷・那須)から立候補して当選(この時栃木県で当選した5人は全員平民で、全国でも非常に珍しい事であった。)
1892年       2月第2回     当選
1894年       3月第3回  当選 7月日清戦争開戦
1894年       9月第4回     落選
4回目で落選すると東京で実業家となり、東京火災(現在の椛ケ害保険ジャパンの前身)取締役となった。東京火災は日本で最初の損害保険会社であり、奥造はこれからの社会での保険の必要性をいち早く認識していた。その他東京米穀取引所理事などを歴任し その後京浜銀行支店長となり、1900年(明治33年)に京浜銀行ハワイ支店長としてハワイに渡った。

ハワイの事 

 日本最初の海外移民は1868年(明治元年)ハワイ移民153名で、日本とハワイはお互いを重要視していた。(咸臨丸のハワイ寄港にハワイの人々は大いに感銘を受けていた。)
1881年(明治14年)カラカウア王が海外元首として初めて来日 明治天皇に面会 移民協定締結 カイウラニ王女と山階宮との婚姻を協議 政府内で検討をした結果丁重に断った。
1884年(明治17年)ハワイに日本領事館開設
1885年(明治18年)初の官約移民
 日本において、1884年(明治17年)に自由党が解党すると1885年から1887年にかけて多数の自由党員が新天地を求めてアメリカに渡った。そしてサンフランシスコで機関紙「新日本」を発行し、日本政府の攻撃を行った。これがアメリカにおける最初の邦字紙である。
 ハワイの日本人には参政権が与えられていたが明治20年(1887年)のハワイの憲法改正で参政権は剥奪されてしまっていた。明治26年(1893年)にハワイ王朝が崩壊すると、日本人の参政権回復運動が起こり、ちょうどその時にハワイ王朝の再建を果たそうとした王党派はアメリカに渡り、サンフランシスコの旧自由党員達の結社に助力を願った。旧自由党員達は王政復古に共鳴し、日本人の参政権回復運動支援を図り、日本人たちの権益保護の為大挙してハワイに渡り、邦字紙の発行を行った。(当時ハワイの人口は約154,000人で、その内日本人移民の数は約64,000人であった。従って人口の約4割が日本人であった。)
 奥造は明治33年(1900年)京浜銀行ハワイ支店長として、ハワイに渡った。京浜銀行は移民の預金管理・法的代行などを行った。
 京浜銀行支店長として活躍する傍ら、現地に「塩田バンク」を設立し産業振興に寄与した。
 1900年1月にペスト焼き払い事件が発生し日本人家屋176軒が焼失した。この事件の解決に当たって日本人が団結し損害賠償をハワイ州政府から勝ち取った。1901年にアメリカ丸事件が発生し人権蹂躙であると在留邦人が激昂し、8月2日にホノルル日本人小学校において、在留民大会を開催した。2000人の日本人が集結し、最初に塩田奥造が熱弁を奮いハワイ日本人会を組織することを決めた。事件解決後日本人会は解散し、新たに日本人の統一団体として1903年に「中央日本人会」が誕生した。その発会式の時塩田奥造(肩書は京浜銀行ハワイ支配人)は議長を務めた。
 8日間にわたる協議の末斎藤総領事を会長とするハワイ全島統一代表団体「中央日本人会」が誕生した。
1905年に日本外務省の命で移民会社代理人制度が廃止され、銀行業務が大幅に縮小されたため、やむなく奥造は明治38年に帰国した。この間1904年から1905年にかけて日露戦争があった。
 1908年ハワイへの新移民が禁止された。

中年期〜晩年

 奥造は帰国後積極的に経済界に進出していった。
明治39年東洋精糖設立 玉川電気鉄道取締役(現在東急世田谷線として一部が残っている) 段通梶@東京生肥 千代田製粉梶@帝国実業梶@帝國大理石梶@日本陶磁器梶@明治石油梶@各役員などを歴任。

昭和2年79歳で死去
戒名「清輝院殿義彰道徹壽翁大居士」 
妻 マス 大平町牛久新村家から 昭和15年没 90歳
大正3年に養子鋭次に家督相続 鋭次は大正12年に吹上村長に就任した
墓所入り口に「日本三体米山薬師 塩田一族之墓入口」とある
東京での住まいは最初小石川 後西巣鴨(現在のJR山手線大塚駅北方癌研病院近く)
新井章吾より8歳年長

 
△TOPに戻る
 
吹上の偉人 新井章吾の生涯 [2009年02月13日(Fri)]


 
新井章吾の生涯
        
幼少期〜青年期(章吾少年は向学心に燃えていた)

新井章吾は安政4年(1857年)に吹上村の豪農新井四平治の長男として生まれた。少年時代から向学心に燃え、吹上藩の『日就館』で漢学を修め廃藩置県で日就館が閉館したのち、壬生の『育英舎』で英学を学ぶ。少年時代から眼を海外に向けていたようである。幕末から明治維新期の動乱を眼の当たりにした新井少年は読書や史学の勉強を通じて社会に向けたと思われるが、隣同士であった8歳上の塩田奥造に陰に陽に影響を受けたと推測される。
その才が認められて明治9年若干20歳で吹上村の戸長、翌10年には風野村、新井村、泉川村、大皆川村の戸長となり村治に勤めたが、郡区編成がなる12年まで続けた。戸長になると結婚話が持ち上がり、栃木県権参事柳川安尚の長女タネと翌年結婚。

一大転換〜国会開設運動に奔走

明治12年は23歳の新井にとって一大転機となった。戸長をやめると『天下の志士と交わり、大いに為す所あらんと欲し』、父母や妻子を捨て上京したが、一旦家に連れ戻されるが13年父四平治の死を機に、家業を捨てて政治に没頭するようになる。
この年吹上村正仙寺において塩田奥造らと『教育勧業演説会』を開いたが、これ以降、栃木県の自由民権運動は高揚期に入る。その時は拠り所となったのが栃木新聞であった。栃木新聞は幾多の変遷を経るが、新井はこの栃木新聞で論陣を張ったが、県内では民権家たちの意見がまとまらず、統一した運動とはならなかった。
明治14年25歳の時、国会開設詔勅発布後の新情勢に対応するため自由党が結成されると新井は入党し、塩田らとともに党勢拡張に尽力し、自由党の常議員になる。自由運動会での演説が問題視され、一年間政談演説を禁止されたが、それに屈せず再度政府批判をした為、初めて8ヶ月の刑を宣告された。
明治17年、刑に服していた間に、国内の政治情勢は急進化しており、関東各地で挙兵の動きが出てきた。栃木でも鯉沼九八郎の『テロリズム』と新井の説く『義兵』が対立したが、間もなく上告していた刑が確定し再び入獄。この間、加波山事件・秩父事件など自由党の激化事件の続発やそれに伴う自由党の解体を牢獄で見ることになる。これ以降、自由民権運動は行き詰まり転機を迎えることになる。

民権から国権へ

18年2月(29歳)に出獄したが、前年の朝鮮をめぐる日清両国の対立で、甲申事変を機に国内で反清感情が高まっていた。このような情勢の中で新井は大井憲太郎らと朝鮮の改革派と手を結び独立させ、同時に国内改革を行うなという計画を立てたが、実行する前に新井や大井らも一斉に検挙された(大阪事件)。この結果、予審、上告を経て重懲役9年の刑が言い渡された。大阪事件について評価は今でも史家の間では定まっていない。
22年末(33歳)憲法発布の大赦により出獄した新井は直ちに政界に復帰。23年3月に栃木県会議員、7月に第1回総選挙で第2区から立候補し最高点で当選し衆議院議員となり中央政界に進出した。この間解党した自由党の再建を目指したが、紆余曲折を経て大井らと立憲自由党を組織した。新井は『自由平等経論』や『民権新聞』を発行し、条約改正と欧化政策を進める政府を厳しく批判した。
25年の第2回総選挙にあたり、星亨と激しく対立し、【熱い戦争】が展開されるが、これ以降新井は微妙にスタンスを変えていく。星―陸奥宗光―長州閥に対抗して薩摩閥と手を握り、政権奪取を図ったといわれる。その後薩摩閥の陸相高島鞆之助に接近し、政府の海軍拡張予算案に賛成したため、次第に盟友からも孤立して自由党を脱党した。

政治から実業の世界へ

この後、新井は模索を続けるが30年高島鞆之助の斡旋により拓務省北部局長(代議士兼任)に任官したが、官制改革でたった3日で退官を余儀なくされたというエピソードもある。35年(46歳)の第7回総選挙で初めて落選を経験した。37年(48歳)の総選挙で政友会に所属し、再び議席を獲得したが、新井は政治よりも実業に意を注ぐようになり、宇治川水力電気株式会社の創立委員として大阪に出発しようとした日の朝、脳出血で急死。明治39年10月16日、49歳8ヶ月の波乱の生涯であった。

 
△TOPに戻る

△吹上の偉人 塩田奥造の生涯
 



吹上地誌T(西部編)表紙/目次 [2009年01月31日(Sat)]


※神社・寺院・名所・旧跡をクリックすると該当のページが表示されます。




目  次



はじめに ………………………………………………………  1


神社の部

  1.高龗(たかお)神社(梓町)【右地図@】………………… 2・3

  2.八坂神社(仲方町)【右地図A】………………………… 4・5

  3.雷電神社(千塚町)【右地図B】………………………… 6・7

  4.千塚八幡宮(千塚町)【右地図C】……………………… 8・9

  5.高富士山神社(千塚町) …・…………………………… 10・11

  6.鹿島神社(大森町)【右地図E】………………………… 12・13

  7.星宮神社(宮町) 【右地図F】…………………………… 14・15


寺院の部

  8.大悲山平等院大安寺(千塚町)【右地図G】…………… 16・17

  9.天王山最勝寺寳藏院(宮 町) 【右地図H】…………… 18・19


名所・旧跡の部

 10.磯池(仲方町)【右地図I】……………………………… 20・21

 11.経塚(千塚町)【右地図J】……………………………… 22・23

 12.十九夜様(宮町)【右地図K】…………………………… 24・25

 13.宮の桜(宮町)【右地図L】……………………………… 26・27

 14.梓焼(梓町) ……………………………………………… 28・29


調査・編集委員名簿 …………………………………………… 30

 印刷:平成21年2月1日
 発行:平成21年2月1日
 編集・発行責任者:吹上地区まちづくり協議会
             「歴史・文化・自然保護委員会」
 問合せ先:吹上地区まちづくり協議会事務局
       〒328-0125 栃木市吹上町782-1
       TEL:0282-31-1792



このページをPDFでダウンロードする。(108kb)

 
○吹上地誌T(西部編 全ページ 1928kb)ダウンロードできます。
吹上地誌T(西部編) 拡大地図 [2009年01月31日(Sat)]




このページをPDFでダウンロードする。(1145kb)

 

 
吹上地誌T(西部編) はじめに [2009年01月31日(Sat)]



このページをPDFでダウンロードする。(12.9kb)


 

 
吹上地誌T(西部編) 高龗神社 [2009年01月31日(Sat)]

 



このページをPDFでダウンロードする。(72.1kb)


 

 
吹上地誌T(西部編) 八坂神社 [2009年01月31日(Sat)]




このページをPDFでダウンロードする。(64.9kb)

 

 
吹上地誌T(西部編) 雷電神社 [2009年01月31日(Sat)]




このページをPDFでダウンロードする。(59.5kb)

 

 
吹上地誌T(西部編) 千塚八幡宮 [2009年01月31日(Sat)]

 



このページをPDFでダウンロードする。(56.2kb)