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最新記事
「第28回北勢線の魅力を探る」の見どころ [2017年02月18日(Sat)]
第28回北勢線の魅力を探る
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「春深し山里かけるナローゲーシ」
開催日:2017年4月9日(日)
集合:北勢線麻生田駅、9時20分
参加費:300円(小学生以下100円)
コース:健脚・約13キロ、麻生田駅→山郷小学校→大辻神社→梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑→落条池→馬冷池・茶屋跡→平野神社→教昌寺(昼食)→波羅神社→貝野神社→勝泉寺・解散→阿下喜駅(14:30頃)

1.山郷小学校
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 江戸時代、山郷地区は桑名藩の支配下にあって麻生田・其原・北中津原・南中津原・鼓・平野新田・大辻新田の各村に分かれていました。明治22年(1889)町村制が施行され、従来の村は大字となり「山郷村」が発足しました。村名の由来は、古代、員弁五郷の一つ「野摩(やま)郷」を踏襲したといわれています。
 明治8年(1875)其原道場を借りて「其原学校」が開校しました。校長は蛯原源吾(山郷小学校の校庭に「蛯原翁表徳碑」が立っています)、他に教員が一人でした。明治16年、現在の大辻新田に鼓の渡辺柳太郎から土地を借り、校舎2階を新築して「楚里学校」を開校しました。明治41年(1908)「山郷尋常高等小学校」、昭和16年(1941)「山郷村国民学校」と校名を改称し、昭和22年「山郷村立山郷小学校」となりました。

2.大辻神社
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 境内に立つ由緒に「御祭神は素戔嗚尊。寛政5年(1792)大辻新田が開墾され、波羅神社から分霊を勧請、以来この里の産土神なり」とあります。
 その昔、この地は大辻と称した原野で、鼓村・平野新田・北中津原村・南中津原・其原村・麻生田村の入会地となっていました。宝暦6年(1756)鼓村庄屋渡辺三郎右衛門は、南中津原村庄屋伊藤庄右衛門、北中津原村庄屋冨永直八と諮り、桑名伝馬町米屋三九郎に相談をかけ、藩主松平忠刻に願い出て開墾に着手しました。しかし、黒い埴土の土地で、水利の便がなく旱害にも遭って成果は上がらず、明和元年(1764)土地を領主へ返上しました。
 寛政5年(1793・なお、『員弁郡郷土資料』は文政6年(1823)とする)になって藩主から土地が渡辺三郎右衛門に下付され、その後は渡辺家によって溜池の増設、隧道の布設を進めて水田を開発すると共に民戸を移し、鼓村の波羅神社から分霊した素戔嗚尊を祀れ神社としました。
 大辻神社の夏祭に神饌として必ず供えられたものが、大辻畑で収穫した小麦で作った「うどん」です。現在も7月第2日曜日に「うどんまつり」が行われ、集落の皆さんは境内で神前にお供えしたうどんを会食しています。

3.梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑
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 平野新田の共同墓地の入口に自然石の2基の墓碑が建っています。向かって右の元禄15年(1702)9月に他界した「釈玄斎」は、石の側面に「当所開発」とあるように平野新田の開発に尽力した梶清左衛門の墓碑です。寛永13年(1636)中津原村を巡視していた藩主松平定綱から西野と称した原野の開発を庄屋の伊藤庄右衛門と共に庄屋宅に寄宿していた梶清左衛門が命じられ、開発責任者として悟入谷から水を引いて潅漑用水にするなど難工事の末、平野新田を開き初代の庄屋に任命されました。
 一方、左側の「神戸屋嘉助」は博徒穴太徳の子分で、慶応2年(1866)19歳で荒神山の決闘に参加、手傷を負うことなく退却し、のち穴太徳の跡目を継いで縄張りを広げました。明治9年(1876)11月、桑名江戸町で兄弟分の芳兵衛を刺殺したことから警察に追われて逃亡、しかし、大阪淀川沿いの渡船場で逮捕され、大矢知の監獄に収監されました。明治13年(1880)5月、収監中に発病したチョウマンで死亡しました。

4.落条溜
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 寛永13年(1636)梶清左衛門の指揮によって始められた平野新田の開墾は、2年目には桑畑ができるまでになりました。併せて潅漑用水として貝野悟入谷を水源とする水路工事が難渋しながら進められ、御殿鞆の畑地に稲を作る目鼻がつき、寛永19年(1642)藩主松平定綱が「平野新田」と命名して村を創設しました。その後も定綱は桑名の城から馬に乗って元屋敷東の高台に造営していた別荘を訪れ、開拓事業を視察し、田畑が造成されることを楽しみにしたと伝えられています。
 さらに南に向かって原野を開拓して造成した畑地を田にするため、天保12年(1841)御殿溜を改修して拡張し、弘化3年(1846)新溜を築き、嘉永2年(1849)大辻新田と水を折半して潅漑する落条溜を築き建てるなど溜池の築造を行い、水量が少なくなった字小辻マンボの延長、字笠間から字畑田に及ぶ治平畑マンボや六反マンボ、新マンボなどが新たに掘削されました。

5.茶屋跡・馬冷池
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 茶屋跡について、大正4年(1915)発行の『員弁郡郷土資料』は、茶屋跡として「平野新田字御殿にありて山の中腹なる稍高き丘陵に存し禿げたる平地あり、寛永年中松平定綱ここに茶席を営みたりという、現今この山を茶山と呼べり、此の地は一私人の宅地となれり。」と記しています。平野神社の南、伊勢湾を見渡すことのできる小高い丘陵の頂上に「桑名領主松平越中守定綱公旧跡、後年□山建築物賜施当所開発人加治清左衛門家」と刻んだ自然石の碑が建っています。
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 地元の人は馬冷池と書いて「うまあらいいけ」と呼んでいます。中津原村の庄屋伊藤庄右衛門と梶清左衛門に対して西野の開発を命じた松平定綱は寛永16年(1639)元屋敷の東の高台に別荘を建設して、以来桑名の城から馬に乗ってたびたびこの別荘に来て、開拓の進捗状況を視察して人々を励まし、次第に造成される田畑を見ることを楽しみにしたと伝えられています。この池は定綱一行の乗馬を洗った水場と伝えられ、新田開発の潅漑用水として開かれた悟入谷井水もこの池辺りへ最初に引かれたといわれています。

6.平野神社
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 主祭神は生前この地を愛した5代桑名藩主の松平定綱です。慶安4年(1641)定綱が他界し、後を継いだ子定良は、父がこの地に造営した別荘の中にその霊を祀り参詣しました。当時、定綱を平野新田開拓の祖と崇敬していた村民は、これを氏神として鎮守の宮とすることを領主に願い出て許され、御霊大明神と尊称して奉斎したのが当社の創始です。その後、領主からは代々祭祀料や供物つの供進があり、社殿の修復・再建に際しては金員も寄附されました。明治4年(1871)平野神社と改称し、同40年(1908)字茶山の走井社・山神社を合祀しました。境内入り口の大杉は「燈明杉」と呼ばれています。
 当地の人たちは桑名鎮国守国神社を崇敬し、現在も5月12・13日の例祭には区長や代参者が参拝していて、例年、2番目に玉串を奉奠しています。平成6年に社殿を建て替え、社務所を新築し、翌7年に手水舎を建立しました。この時、地元のW工務店が破格の安値で工事を請け負ってくれたことに感謝した地区30軒の人たちは、工事中、現場作業や用材の切り出し、製材など助力したということです。

7.教昌寺
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 光耀山教昌寺は浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来です。
 天正2年(1574)織田信長の長島侵攻により、長島住人の津坂氏は難を逃れて当地に移住しました。鼓の庄屋8代渡辺三野右衛門の庇護を受けて草庵を建て、ご本尊を安置して自ら看坊となりました。津坂氏逝去の後、三野右衛門は庄屋を息子の三郎右衛門に譲り、京都興正寺において得度して法名釈教昌を受け、津坂氏の後継の看坊となりました。その後、宇賀の正善寺で修行をしていた孫の恵海を自らの後継として迎え、さらに正善寺から義浄を迎えて石榑南の岩花氏から坊守を娶り、その子義祐が次代の看坊に就きました。天保11年(1840)真宗興正寺派から本願寺派に転派しました。弘化4年(1847)旧本堂を鍋坂説教城へ売却し、庄屋10代渡辺三郎右衛門の尽力によって現在の本堂を建立しました。
 表面に「慶長十二(1607)丁未十一月鋳之」とある本堂軒下に吊された高さ約40センチの喚鐘は、桑名の広瀬九郎兵衛によって造立され、また、鐘楼で休んでいる文政3年(1820)の梵鐘は太平洋戦争の金属供出の難に遭い、のち返されたもので、成分検査て削られた痛々しい傷跡が残されています。
 なお、4月9日は親鸞聖人の降誕祭、午後2時から本堂で法要が催されます。

8.波羅神社
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 祭神は素戔嗚尊・大山津見神・日本武尊の三柱、明治42年(1909)地区の山神社と八剣社を合祀しており、古くは牛頭天王神社と呼ばれていました。勧請年月は不明ながら、神前の狛犬に応永32(1425)とあり、また、明和3年(1766)「奉造立八剣大明神」、寛政元年(1789)「奉造立牛頭天王神社」の棟札などが残され、創建は古いものと思われます。
 『明治五年(1872)の村明細帳』に「神祠は波羅神社、八剣社、走井社、山の神」とあり、『員弁雑誌』に「牛頭天王社拝殿石鳥居在、産土神也、例祭9月2日、社地に山神の小祠あり、八剣大明神 昔大阪御陣の時庄右衛門という者、大阪より持ち帰り来たりて祀りしとぞ。初めは右の者一人持ちなりしが中頃より村持ちとなれり。然れども正月の鏡餅及び洗米は庄右衛門の家より供すと云う。弁財大社 村の東溜池の中島にあり」と記されています。
 大正元年(1912)9月の台風で倒木にあって本殿、拝殿が倒壊しましたが、大正4年に再建しました。平成8年10月に社務所を新築しました。

9.貝野神社
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 祭神は豊受大神、素戔嗚尊、応神天皇、稲倉魂命、大山祇命、火産霊命です。勧請年月は不詳ですが、古くから豊受大神を祀る社があり、相殿として素戔嗚尊を祀る中之社があって貝野中之社と呼ばれていました。明治40年(1907)八幡社、走井社、稲荷社、水上社、山神社3社を合祀しました。なお、八幡社は通称ツツジ原という所にあり、阿下喜城主片山信保が城の鬼門除けとして祀ったものといわれます。
 秋の大祭、10月10日に行われる「おみおく練り」は、神前に供えられ蒸した餅米と大豆を祭に参加する若者が練り固めた「おみおく」を詰めた俵を、裸で下帯、白足袋姿で赤と青のハチマキを締めた2組の青年達が担ぎ出して境内を練り歩き、参詣者が俵の中の「おみおく」を取り出そうともみ合う祭りです。これを食べると1年中無病息災、夏病みもしないといわれています。

10.勝泉寺
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 天皇山勝泉寺は真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来です。
 天平年中(729〜748)行基により東貝野に創建され、天野寺と称したと伝え、寛和年間(985〜987)花山天皇の勅願により伊勢5ヶ寺の一つとして西貝野に移転し、建立しました。しかし、永保2年(1082)原因不明の火災に罹って焼失、のち再建しましたが、永享12年(1440)雷火により焼失しました。
 応永年中(1394〜1427)国司北畠氏の家臣、一志郡木造氏は当村笹野に支城を築いていましたが、文明元年(1469)5代木造政宗の時、太田道灌に攻められ落城したため、政宗の次男は出家して当山に入り木造善勝と号しました。文明11年(1479)蓮如上人の回国の際に上人に帰依し、それまでの天台宗から浄土真宗に改宗しました。天正8年(1580)織田信長の兵火に遭って堂宇の全てを焼失しましたが、天正13年(1585)新しい境内を現在の岡山坂に求めて諸堂を建立、天皇山勝泉寺と改称しました。
 境内のしだれ桜は天保14年(1843)本堂の再建を祝って植樹されたもので、毎年4月初めに満開になります。
Posted by カァーくん at 16:06
パワースポット巡り・よくばりUP [2017年02月18日(Sat)]
 2月17日、四日市中日文化センターの「北勢地区のパワースポット巡り、夫婦円満・金運・健康のよくばりUP」を桑名歴史案内人の伊藤さんと山下さんたちとご一緒に案内させて頂きました。桑名駅西口をスタート、照源寺の夫婦松と金龍桜、大福田寺の桑名聖天と三面大黒、なんとなく運気を感じる立坂神社などを訪ね、英国館でサンドイッチのお昼を頂きました。
 同行して頂いた西羽さんは「今回の収穫は大福田寺と立坂神社の湧き水です」と帰り際におっしゃってみえました。ひょっとして今年の「ぶらくわな」は桑名の自噴井を探るでしょうか。

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 桑名藩主松平定勝の菩提のため、寛永元年、その子定行によって創建された照源寺の境内裏山には桑名藩主松平定綱とその一統の墓所があります。境内に並び立つクロマツは太い根が互いに癒着して連理していて夫婦松と呼ばれ、学術的にも貴重なものといわれています。また、金龍桜は同じ枝に一重と八重の花を付ける珍しいサクラです。

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 大福田寺の本堂横の聖天堂の本尊大聖歓喜天は秘仏で、大和生駒、江戸待乳山の聖天とともに日本三聖天として古くから信仰が篤く、戦災の時、堂に焼夷弾が落ちたが、厨子の宝珠が発火点をふさぎ寺が焼失するのを防ぎました。堂内に祀られた三面大黒天は、願い事を書いた紙を誰にも知られないように背負った袋に入れると、願いが叶うということです。

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 勧学寺は戦国時代に落城した矢田城の城主矢田俊元か信仰していた千手観音を再興したものと伝え、本堂の天井に描かれた龍について、かつて龍が井戸の水を飲みに出たので、抜け出さないように龍の目に大きな釘を打ち込んだといわれていましたが、最近の修理で釘は額に打たれていたことが分かりました。

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 有王塚は「平家物語」の俊寛僧都に関わる伝説の塚で、師の俊寛の遺骨を抱いて高野山へ向かう途中、この地で亡くなった侍童有王の墓と伝えられ、一時荒廃していましたが大正期に俳人の天春静堂らの手によって再建されました。歯痛の時、塚に植えられたエノキ(のち松)の歯を噛むと痛みは止むと伝えられています。

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 地元の人が「八幡さん」と呼ぶ立坂神社、その創立の時期は不明ですが、もと矢田八幡宮と称して桑名藩主本多忠勝の崇敬を受け、その後も歴代藩主から保護されていました。戦災を免れて昔の風情を残し、東を走る国道1号の喧噪から逃れる境内は、北勢線の魅力を探るの仲間Iさんの旧友がおっしゃる「立坂神社は良いオーラを感じる」に触れることができます。 
 
Posted by カァーくん at 08:48
「第28回・北勢線の魅力を探る」の下見 [2017年01月10日(Tue)]
 1月9日、この4月9日(日)に予定している「第28回・北勢線の魅力を探る」のコースの下見をしました。麻生田駅を出発して北上し、旧山郷村を縦断する行程で文字通り山里の春が満喫できるのではと思っています。しかし、この日、参加者から意見が百出して纏まらず、今月中にもう一度試歩を行ってコースを決めることになりました。

〇山郷小学校
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 明治8年(1875)其原道場を借りて「其原学校」を開校、校長は蛯原源吾(山郷小学校の校庭に「蛯原翁表徳碑」が建っている)、他に教員が一人でした。明治16年、現在の大辻新田に校舎2棟を新築して「楚里学校」を開校しました。明治41年(1908)「「山郷尋常小学校」、昭和16年(1941)「山郷村国民学校」と校名を改称し、昭和22年「山郷村立山郷小学校」となりました。

〇梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑
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 平野新田の共同墓地に2基の自然石の墓標があります。向かって左の「釈玄斎」は平野新田の開発に尽力して初代の庄屋に任命され、元禄15年(1702)9月に他界した梶清左衛門の墓碑です。また、右側の「神戸屋嘉助」は博徒穴太徳の子分で、荒神山の決闘に参加し、のち穴太徳の跡目を継ぎ縄張りを広げたが、兄弟分を刺殺したことから警察に追われ、大阪で逮捕されて大矢知の監獄に収監、明治13年(1880)、収監中に発病した病気で死亡しました。

〇馬冷池(うまあらいいけ)
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 中津原村の庄屋伊藤庄右衛門と梶清左衛門に対して西野の開発を命じた桑名藩主松平定綱は、寛永16年(1639)元屋敷の東の高台に別荘を建設して、以来桑名の城から馬に乗ってたびたびここへ来て、開拓の進捗状況を視察して造成される田畑を見ることを楽しみにしたと伝えられます。この池は定綱一行の乗馬を洗った水場といわれ、新田開発の潅漑用水として開かれた悟入谷井水もこの辺りへ最初に引かれたとも伝えられます。

〇茶屋跡
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 大正4年(1915)発行の『員弁郡郷土資料』に「茶席跡」として、「平野新田字御殿にありて山の中腹なる稍高き丘陵に存し禿げたる平地なり、嘉永年中松平定綱ここに茶席を営みたりという、現今この山を茶山と呼べり、此の地は一私人の宅地となれり。」とあります。平野神社の南、伊勢湾を見渡すことのできる小高い丘陵の頂上に「桑名領主松平越中守定綱公旧跡、後年□山建築物賜施当所開発認加治清左衛門家」と刻まれた自然石の碑が建っています。

〇平野神社
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 主祭神は生前この地を愛した桑名藩主の松平定綱です。慶安4年(1651)定綱が逝去、後を継いだ子定良は、父がこの地に造営した別荘の中にその霊を祀り参詣しました。当時、定綱を平野新田開発の祖として崇敬していた村民は、これを氏神として鎮守の宮とすることを領主に願い出て許され、御霊大明神と尊称して奉斎したのが当社の創始です。
 この日、神社の沿革をお話し頂いた地元の古川巌さんから、平成6年に神殿の建て替えをしたとき、地元のW工務店が破格の安値で工事を請け負ってくれたことに感謝した地区30軒の人たちが、用材の伐採や建築現場・製材などの作業に参加したことや、もとの茶屋跡は今より高い姿のよい小山であったが、堤防工事にこの山を削った土が使われて現在のようになったことなどを教えて頂きました。

〇教昌寺
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 光耀山教昌寺は浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来です。天正2年(1574)織田信長の長島侵攻の時、長島住人の津坂氏が難を逃れて当地に移住し、鼓の庄屋渡辺三野右衛門の庇護を受けて草庵を建て、本尊を安置して自ら看坊となったことを創始とし、のち庄屋を息子に譲った三野右衛門が京都興正寺で得度し、法名釈教昌を受けて看坊となりました。天保11年(1840)真宗興正寺派から本願寺派に転派しました。鐘楼には金属供出から戻された文政3年(1820)の梵鐘が置かれ、本堂軒下には「慶長十二年(1607)鋳之」の喚鐘が吊されています。
 当日、私たちを本堂に招じ入れられたご住職は、この喚鐘について記された昭和55年(1980)10月の新聞記事のコピーを配られて桑名の鋳物師が作った最古の釣り鐘であることや、寺の沿革とともに本堂の向って左側に安置された阿弥陀如来像が、津坂氏が長島から背負ってきた当寺の最初の本尊であることなどを話して頂きました。

〇波羅神社
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 祭神は素戔嗚尊・大山津見神・日本武尊の三柱です。勧請年は不詳ですが、明治42年(1909)地区の山神社と八剣社を合祀しており、古くは牛頭天王神社と呼ばれていました。『員弁雑誌』に「牛頭天皇社本社拝殿石鳥居在、産土神也、例祭9月2日、社地に山神の小祠あり。八剣大明神昔大坂御陣の時庄右衛門という者、大坂より持ち来たりて祀りしとぞ(後略)」とあります。

〇貝野神社
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 祭神は豊受大神・素戔嗚命・応神天皇・稻倉魂命・大山祇命・火産霊命です。勧請年は不詳ですが、古くから豊受大神を祀る社があり、相殿として素戔嗚命を祀る中之社があって貝野中之社と呼ばれていました。明治40年(1901)八幡社・走井社・稲荷社・水上社・山神社3社を合祀しました。秋の大祭に行われる「おみおく」は、神前に供えられた「おみおく」を詰めた俵を2組の青年達が担ぎ出して、境内を練り歩くと参詣者が俵の中の「おみおく」を取り出そうともみ合う祭りで、この「おみおく」を食べると1年間無病息災であると伝えられています。

〇寶林寺
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 悟入山寶林寺は臨済宗妙心寺派、本尊は如意輪観音菩薩です。永仁年間(1293〜98)この地で水田が開墾されたとき、不動明王を祀った堂宇が開かれました。万治3年(1660)尾張国稲沢村から招かれた虎願宗仇和尚によって阿下喜に見性寺が開山された際、当寺もその弟子を迎えて開山しました。境内の庭先に樹高20メートル以上のコウヨウザン(広葉杉)が屹立しています。枝先は下向きの弓状にしなった姿のよい巨樹で、この日も中部地方の巨樹を訪ねてみえる浜松のご夫婦が立ち寄られていました。

〇勝泉寺
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 天皇山勝泉寺は真宗大谷派、天平年中(729〜748)行基により東貝野に創建されたと伝え、寛和年間(985〜987)天皇寺として西貝野に移転しました。のち織田信長の侵攻により落城した一志郡の木造善勝が出家、入山して文明11年(1479)天台宗から浄土真宗に改宗しました。その後、この地に移転、再建して天皇山勝泉寺と改称しました。境内の枝垂れ桜は天保14年(1843)本堂の再建を祝って植樹されたもので、毎年4月初めに満開となります。

〇北勢ライディングファーム
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 北勢ライディングファームは会員制の乗馬クラブですが、引き馬コースや乗馬教室など初心者向きのコースも設けられています。馬場には障害レースの障害物も備えられていて練習風景がご覧になれます。
Posted by カァーくん at 16:00
パワースポット巡り「収穫運UP」 [2016年12月16日(Fri)]
 12月16日、四日市中日文化センターの「北勢地区のパワースポット巡り、収穫運UP」をご案内させて頂きました。北勢線大泉駅の東西に鎮座する二つの大谷神社を参拝してゴールの駅隣にある「うりぼう」で新そばのそば打ち体験をしました。

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 スタートの大泉駅では道案内をして頂く「ふるさといなべ市の語り部」の樋口平和さんと藤田修士さんのお二人がお待ちかねでした。

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 大泉の大谷神社では樋口さんから標柱にある「延喜式」を解説して頂き、「昔、この神社は員弁川の対岸、大谷村に祀られていたが大洪水で村が流失したため、川の北側の高台に移住し、神社もこの地にあった春日神社と合祀した。」ことを教えて頂きました。最後に長宮とも言われるこの神社の長い参道の距離を答えるクイズが出題され、3人の参加者の方が「220メートル」と正解されました。

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 東一色に向かう道中、樋口さんから横を流れる農業用水を「六把野井水」といって、慶長年間、桑名藩初代藩主の本忠勝によって着手され、30数年後の寛永12年に完成したこと。用水の勾配を測るためにやかんに火を灯して員弁川の対岸から計測したこと。水の流れを勾配のみで対応せず水路の幅の広狭を付けて水量に変化を付けていたこと等々を歩きながら聞かせて頂きました。

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 東一色の大谷神社では祭神の「ミズハノメノカミ」について、藤田さんから自筆の難しい漢字で説明して頂きました。さらにこの神社に伝わる蝦夷征伐のため当国に向かった藤原不比等の曾孫小黒麿が参詣したことや、拝殿の両側に祀られた左・右大臣像についてお話し頂きました、又、大泉の名の由来になったと伝えるいけに立ち寄って神社を後にしました。

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 大泉駅隣の「うりぼう」で今年収穫した新そばでそば打ち体験をしました。語り部のお二人から見学先で詳細な説明をして頂いたこともあって、「うりぼう」に到着したのが予定より30分ほど遅れましたが、ほめ上手の先生「いと乃」ご夫婦に乗せられてそば打ちは順調に進んで1時間半ほどで完了。早速、皆さんはそれぞれ手作りのそばを頂いて帰路につきました。
Posted by カァーくん at 19:40
第27回報告書 [2016年12月09日(Fri)]
第27回報告書です
第27回報告書2.pdf
Posted by 近藤 at 00:52
「加太鉄道遺産研究会」さんの視察研修 [2016年12月06日(Tue)]
 今年3月、「北勢線の魅力を探る会」のメンバー8人がJR関西本線の加太地区に残るレンガ作りの隧道や橋梁など現役の鉄道遺産を見学しました。その時に詳しい説明で親切に案内して頂きました「加太鉄道遺産研究会」の坂会長はじめ9人の会員さんと亀山市役所の稲冨さんが、貨物鉄道博物館、軽便鉄道博物館、めがね橋・ねじり橋を視察研修のため、いなべ市に来訪されました。

〇三岐線で丹生川駅へ
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 JR富田駅に到着された皆さんは近鉄富田駅から三岐線に乗車して丹生川駅に向かいました。JR富田駅の駅舎が鯨船を、三岐鉄道富田駅が鯨を模して作られていることをお話ししましたが、反応は「関の祇園なつ祭りの山車は世界遺産にならんのか?」でした。

〇貨物鉄道博物館
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 丹生川駅西側の貨物鉄道博物館は平成15年に貨物鉄道専門の博物館として開館しました。全国の鉄道事業者などから寄贈・貸与された貨車や貨物輸送に関わる収蔵品が展示されていて、さすが鉄道遺産研究会の皆さんは綿密に(特に変圧器輸送用のシキ160形を)見学されていました。

〇軽便鉄道博物館
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 北勢線阿下喜駅まで庭箱バスで出て、阿下喜温泉あじさいの里で昼食、軽便鉄道博物館を見学しました。一行をモニ226形電車の車内に招じ入れられた安藤館長さんから、廃線の危機にあった北勢線の存続活動のために開館された経緯をお聞きしました。13時39分発の西桑名駅行きに乗るため、ちょっと駆け足の見学でしたが「CARNEGIE 1914」のレールと転車台はしっかりと見てきました。

〇ねじり橋とめがね橋
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 楚原駅まで北勢線に乗って移動、すでに駅前でお待ちになっていた「ふるさといなべ市の語り部」の出口さんのご案内でねじり橋とめがね橋、おまけの八幡神社を見学しました。工事中の古い写真を回覧して頂くなど出口さんの熱の入ったお話しで、特にねじり橋には皆さん感心しきりでした。しかし、八幡神社で出口さんのうんちくを伺っているうち、ねじり橋を通る北勢線の写真を撮ることができませんでした。

〇楚原駅から北勢線に乗って
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 楚原駅からほとんど貸し切り状態の北勢線に乗車、西桑名駅15時56分に到着しました。加太の皆さんは16時40分発の亀山行きのJRに乗車のため、ここで解散しました。皆さん、お疲れ様でした。
Posted by カァーくん at 07:47
「パワースポット巡り・恋愛運UP」コース [2016年11月18日(Fri)]
 11月18日、中日文化センターの「北勢地区のパワースポット巡り」を案内させて頂きました。今回のサブタイトルは「恋愛運UP」、大坂夏の陣で救出された千姫が、藩主の息子本多忠刻に一目惚れし、桑名に嫁いだことや、二代目諸戸清六の新居として建築された六華苑の洋館で調度品などに隠されたハート型を探すという趣向で、桑名宗社・七里の渡し・六華苑などを桑名歴史案内人の伊藤さんと山下さんの二人に道案内して頂きました。

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 桑名駅を出発して桑名宗社に向かうコースはちょっとひねって昭和36年11月に廃止された北勢線の西桑名駅〜桑名京橋駅間の廃線跡を歩きました。

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 桑名宗社境内の桑名東照宮の祭神は千姫の祖父、徳川家康です。本多忠刻と結ばれた千姫は、本多家が姫路に移されるまでの1年という短い期間でしたが、この地で幸せな結婚生活を過ごしたといわれ、ここ桑名東照宮も千姫が東照宮を勧請して創建しました。多くのハート型の「おねがいごと」札が解説板の下に供えられていました。

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 慶長20年、江戸に向かう千姫一行をもてなし、七里の渡しで渡船の指揮を執っていた本多忠刻を見そめた千姫は、帰城後直ちに祖父家康の許しを得て、翌年桑名に輿入れしました。七里の渡しでは伊藤さんから遷宮に伴って行われた鳥居の立て替えについて説明して頂きました。

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 六華苑に向かう途中、住吉神社に着くと、伊藤さんからご自身撮影の写真を掲げて「初日の出は神社の賽銭箱の前から鳥居を向いた位置に太陽を見ることができます。」ことを教えて頂きました。これって全ての運気UPということですね。

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 六華苑は二代目諸戸清六の邸宅として大正2年に竣工しました。洋館部分は鹿鳴館などを設計したジョサイヤ・コンドルが手がけた、地方に唯一残る建築物として有名です。この建物には「5つのハート型」があるとのことですが、私は全て忘れました。

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 ゴールは「三八の市」で賑わう寺町商店街です。到着するや食事や買い物のため、アーケードの中に突入されました。
Posted by カァーくん at 17:25
パワースポット巡り「勝負運UP」コース [2016年10月22日(Sat)]
10月21日、四日市中日文化センターの講座「北勢地方のパワースホット巡り」のご案内をさせて頂きました。パワースポット巡りをテーマに、この地方の名所や神社仏閣を訪ねるウォーキング講座で、今回は「勝負運UP」を狙って「めがね橋・ねじり橋」を通過する北勢線の電車がうまく撮影できるか、勝負運を占うコースです。

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西桑名駅9時12分発の北勢線に乗って楚原駅に向かいました。楚原駅ではコースの八幡神社、めがね橋・ねじり橋を説明して頂く「ふるさといなべ市の語り部の会」の出口保男さんがすでにお待ちになってみえました。

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北勢線のレールが参道を横切る八幡神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)などです。拝殿の前に「至誠」と書かれた砲弾と、「通人」と書かれた機雷が並んでいます。砲弾は戦艦長門、機雷は戦艦陸奥で使用され、昭和11年(1936)退役した和波豊一中将が地元の氏神である当社に寄進したものです。

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「めがね橋」の前は地元の皆さんのお骨折りでコスモス畑となっていて、満開のコスモスと橋を渡る北勢線の電車を撮影するため、多くのカメラマンが待機していました。大正5年7月に竣工した「めがね橋」は正式には「明智川穹窿橋」といい、当時、建築資材が不足していたために鉄筋などの構造材が使用されず、「ねじり橋」と共に珍しいコンクリートブロック製のアーチ橋です。
出口さんの解説も絶妙でのタイミングで、ちょうど10時48分に橋を渡る北勢線の黄色い車両と色とりどりのコスモスの写真を撮ることが出来ました。

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江戸時代に完成した農業用水「六把野井水」を40度の角度で跨ぎ、コンクリートブロックがねじれたように積まれている「ねじり橋」は、正式には「六把野井水拱橋」といいます。土木学会から出版されている『日本の近代土木遺産ー現存する自由様な土木構造物2000選』に「めがね橋」と共に選ばれ、「ねじり橋」はAランクの評価を得ています。「めがね橋」からの移動が少しゆっくりしていて、橋の真下に到着する直前に電車が橋を通過しましたが、それなりの写真が撮れました。

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ゴールは「みずほのおかげ市場」で餅つき体験です。おかげ市場の代表の日紫喜広幸さんは40年間原木椎茸を栽培していましたが、福島から購入していた原木が東日本大震災のための手に入らなくなって、平成24年10月20日にプロの生産者が安心安全という条件で栽培した農産物・農産加工品の直売所をオープンしました。きな粉や大根おろしを付けた出来たてのお餅をお腹一杯頂いた皆さんは、買い物袋を手に楚原駅12時51分発の西桑名行きの北勢線に乗って家路につきました。
Posted by カァーくん at 16:36
第27回北勢線の魅力を探る 配布資料 [2016年10月18日(Tue)]
第27回地図27map.pdf
第27回見どころ27見どころ.pdf

Posted by 近藤 at 20:57
ナローゲージの北勢線で巡る土木遺産見学&そば打ち体験  [2016年09月23日(Fri)]
中井精也のてつたびに登場!!
北勢線に乗ってのんびり田舎旅
ナローゲージの北勢線で巡る
土木遺産見学&そば打ち体験
• 10/29(土)
• 11/26(土)
◇申込み◇
桑名ほんぱくwebページ(bP2)
http://kuwanahonpaku.net/
ウォーキングマップ⇒ほんぱくマップ2.pdf
Posted by 近藤 at 21:40
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