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    <title>珈琲ブレイク</title>
    <link>http://blog.canpan.info/hirao/</link>
    <description>団塊の世代の、人生振り返りツイッター。前期とはいえ「高齢者」の冠をかぶるようになると、何を書いても許される…わけないよね</description>
    <language>ja</language>
    <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>
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    <itunes:summary>団塊の世代の、人生振り返りツイッター。前期とはいえ「高齢者」の冠をかぶるようになると、何を書いても許される…わけないよね</itunes:summary>
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      <link>http://blog.canpan.info/hirao/archive/7</link>
      <title>珈琲ブレイク⑦《ロッキード事件・その末端で》</title>
      <pubDate>Fri, 13 Jul 2012 14:44:31 +0900</pubDate>
            <description>1976年12月31日、フジテレビのスタジオでロッキード事件は1976年2月、米国上院の多国籍企業小委員会（チャーチ委員会）で明るみに出た。航空機の売り込みに際して、米国ロッキード社が右翼の大物や商社を介して日本の政界トップらに賄賂を贈った大疑獄事件。“総理の犯罪”にまで発展し、日本中が大騒ぎとなったが、大阪本社から異動してきたばかりの記者5年目の私は、指示された「張り番」や「関係者の追っかけ」など事件の末端部分ではいずり回り、喚（わめ）き、オロオロするばかりだった。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="color:#000000;"><div style="text-align:center;"><a href="/hirao/img/DSCF449520(1).jpg" target="_blank"><img src="/hirao/img/DSCF449520(1)-thumbnail2.jpg" width="400" height="300" border="0" align="" alt="DSCF4495 (1).jpg" /></a></div><br /><div style="text-align:center;"><span style="font-size:large;">1976年12月31日、フジテレビのスタジオで</span></div><br /><br /><span style="font-size:large;">ロッキード事件は1976年2月、米国上院の多国籍企業小委員会（チャーチ委員会）で明るみに出た。航空機の売り込みに際して、米国ロッキード社が右翼の大物や商社を介して日本の政界トップらに賄賂を贈った大疑獄事件。“総理の犯罪”にまで発展し、日本中が大騒ぎとなったが、大阪本社から異動してきたばかりの記者5年目の私は、指示された「張り番」や「関係者の追っかけ」など事件の末端部分ではいずり回り、喚（わめ）き、オロオロするばかりだった。</span></span><a name="more"></a><span style="color:#000000;"><span style="color:#000000;"><span style="font-size:large;">◇<br />「大久保利春を追え」。米国の公聴会から帰国した丸紅専務（当時）の大久保氏を羽田空港で待ち構えた。タラップから空港ターミナルに向かうバスに同乗したが、他社の連中も詰めていてビッシリ満員。身動きできず、出口付近にいた彼の声も聞こえず（もっとも彼は一言も発しなかったそうだ）。ターミナルに着いた彼は、無言のまま迎えの車に。すぐ後ろを丸紅社員の車が続いた。その2台を追うマスコミ車は10数台、いや20数台がアリの列のように連なった。<br /><br />首都高速の飯倉インターから一般道へ。その先は六本木方向。ところが2台目の社員の車が、一般道に降りる取り付け道路の途中で停車し、先頭車を逃がすために“通せんぼ”した。取り付け道路は1車線で、追い越しは無理。<br />マスコミ車が激しくクラクションを鳴らす。10数台以上が一斉に鳴らすから喧騒はかなりのもの。それでも社員車はびくとも動かない。10分も経ったろうか、ようやく走り出した時には、もはや先頭車は追いかけようもなかった。（これを教訓にして今は、マスコミが誰かを追っかける際にはオートバイが主体になったという）。<br /><br />その足で、丸紅本社の広報室に苦情を言いに行った。<br />「ひどいじゃないですか」<br />「我々も必死に考えたのですよ。うまくいきましたね」<br />笑いながら、こんな言葉が返ってきた。<br />そうか、警察や役所など相手が公共機関なら“ケンカ”の仕様もあるが、民間会社には新聞社に便宜を図る（？）義務はないという訳か。社の幹部を守るのは当然、という自信に満ちた態度だった。その後に突き付けるつもりだった「どこに匿っているの？」の言葉は、小さな声になった。案の定、せせら笑いしか返ってこなかった。<br />ちなみに大久保氏は、「明治維新三傑」の1人にあげられる大久保利通の孫で、このあと逮捕、起訴され有罪となった。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　◇<br />ロッキード事件のフィクサー・児玉誉士夫氏（故人）宅に24時間張り付く“児玉番記者”を発生直後から担当した。その様子をラジオの生放送で伝えたい、とニッポン放送から依頼があり、3人の番記者の中でその日―6月25日に非番だった私にお鉢が回ってきた。半年近くも続けている日課を語るだけ…ラジオといえどもそんなに不安はなかった。<br />午前7時に電話がかかってくる。６畳の部屋の片隅にある受話器の前に待機、対角線上には録音準備を完了したカミサンが、面白そうな目をして笑いかけている。<br /><br />「リリリン」。受話器を上げる。パーソナリティの明るい声。「今朝、河野洋平さんらが自民党を飛び出し、新自由クラブを結成しました、どう思われますか？」。<br />エッ！　話が違うじゃない、政治部じゃない、オレ児玉番だよ…。<br /><br />児玉宅は、事件が展開してもほとんど動きがなかった。毎日、ぼんやり時間を過ごす日々。「政局が動いて、張り番の周辺にも変化で現れることを期待したいですね」。こんな内容のことを、要領の得ない言葉でしゃべったと思う。「大きな恥はかいてないわよ」とカミサンが慰めてくれたのを覚えている。<br /><br />ちなみにその年の大晦日。フジテレビの「小川宏ショー」に他社の児玉番記者とともに出演した。この１年を振り返る番組。社宅近くまで局差し回しの車が来てくれて、当時は新宿・河田町にあったテレビ局へ。私は“正月用”を兼ねてカミサンが選んだ派手なブレザー姿。他社は新聞記者らしい地味な背広姿。１人“浮いた”格好。警視庁記者クラブに戻ると、「ピエロか、歌番組の司会者みたい」と冷たい視線を浴びた。</span></span></span>

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            <category>（カテゴリーなし）</category>
      <author>平尾</author>
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      <link>http://blog.canpan.info/hirao/archive/6</link>
      <title>珈琲ブレイク（６） 《御巣鷹山はるか》</title>
      <pubDate>Fri, 29 Jun 2012 13:08:49 +0900</pubDate>
            <description>世田谷区のお寺の境内で昭和60年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故（死者520人）。音信の途絶えた機体を追いかけて、私は同僚らと深夜の山道や町はずれの街道を迷走していた。ようやく群馬・御巣鷹山に近づいたら、現場キャップの先輩から「山麓の町役場に“前線基地”を作り、そこで待機」の指令。事故現場に行きたい気持ちを抑えて、仲間を山に送り出す。ところが基地を作った役場が川上村（長野県）で、事故対策本部が設置されたのは上野村（群馬県）、御巣鷹山をはさんで全くの反対側だった…。どん..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<div style="text-align:center;"><a href="/hirao/img/E78F88E790B2E38396E383ACE382A4E382AFE383BBE3818AE59CB0E894B5E38195E381BE-e5dd3.jpg" target="_blank"><img src="/hirao/img/E78F88E790B2E38396E383ACE382A4E382AFE383BBE3818AE59CB0E894B5E38195E381BE-e5dd3-thumbnail2.jpg" width="320" height="240" border="0" align="" alt="珈琲ブレイク・お地蔵さま.jpg" /></a></div><br /><div style="text-align:center;">世田谷区のお寺の境内で</div><br /><span style="font-size:x-large;"><span style="font-size:large;"><span style="color:#000000;">昭和60年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故（死者520人）。音信の途絶えた機体を追いかけて、私は同僚らと深夜の山道や町はずれの街道を迷走していた。ようやく群馬・御巣鷹山に近づいたら、現場キャップの先輩から「山麓の町役場に“前線基地”を作り、そこで待機」の指令。事故現場に行きたい気持ちを抑えて、仲間を山に送り出す。ところが基地を作った役場が川上村（長野県）で、事故対策本部が設置されたのは上野村（群馬県）、御巣鷹山をはさんで全くの反対側だった…。<br />どんな取材にも困難は付きまとうが、あの日の御巣鷹山はひときわ遠く、実際の距離以上に遥かな存在だった。</span></span></span><a name="more"></a><br />　　　　　　　　　　　　　　　◇<br /><span style="color:#000000;"><span style="font-size:large;">「何ィ、ジャンボ機が行方不明だと！？」<br />本社の社会部と警視庁記者クラブを直結する『ガラガラ』の受話器を握りしめたデスクの大声が、局内に響いた。ガラガラとは、本体の横に付いているハンドルをガラガラ回して話す電話機のこと。午後7時半ごろ、そろそろ早版の締切が来るころだ。<br />こんな時は、とにかく情報だ。何を差し置いても電話機に飛びつく。モタモタしているとデスクの怒声が飛んでくる。ポーズでもいいから「（取材を）やっている」姿勢を見せることだ。事件記者としての“処世術”は、10数年の体験を経て十分に身にしみついていた。日本航空、運輸省航空局（当時）、羽田空港、消防庁…しかし受話器の向こうには、確たる情報は皆無に等しかった。<br /><br />「まず行ってくれ、秩父方面を目指せ。情報は追って入れる」。デスクの指示に午後8時すぎ、自動車課が手配したハイヤーで東京・大手町の社を飛び出す。出動第1陣。2陣、3陣と飲み屋などから呼び集められた記者が続くはずだ。首都圏の喧騒を抜け、小さな町並みをいくつか通過。自社の小型ジェット機を含む本社からの情報は、依然あいまいなものばかり。途中、コンビニで食料を買い込み、長靴や雨具も仕入れた。埼玉（秩父）、群馬、長野の県境の周辺を、情報交信しながら、ただ走る。<br /><br />午前1時ごろ。群馬か長野県警のヘリコプターの赤い点滅ランプが見えた。空中に留まった「ホバリング」飛行。<br />「あそこだ」<br />赤いランプを目指して、山道を駆けのぼる。他社のハイヤーも続く。細い山道に10数台の車がアリのように列を作る。峠に差し掛かったとき、前の車の動きが止まった。<br />「どうした」「早く行けよ」<br />「反対の方向からも車が来ていて、通せんぼしている」<br />「道を譲れって言い争っているようだ」<br />ヘリコプターの灯りを目指して、山の反対側の道からも車が来て、テッペンで鉢合わせしたのだ。ヘリはいつの間にか姿が見えなくなっていた。墜落現場はここではない。<br /><br />夜が白々と明けていく。私たちのハイヤーは、地元消防団が操車する消防車の後についていた。そこがどこなのか、よく分からない。「カーン、カーン」と間延びした鐘を鳴らして捜索する消防車。しばらく山裾の石ころの道を走り、引き返してきた。「この先は行き止まりのようだ」と消防団員。情報収集を兼ねて町役場（川上村だったと思う）に戻る途中、同僚のカメラマンとフジテレビのクルーが乗った車とすれ違う。<br />「この道はダメだよ」<br />「ここまで来たので、とりあえず行けるところまで行ってみますワ」<br />この一行が、細い道を車でくぐり抜け、現場に徒歩で近づき、一命を取りとめた乗員をヘリコプターで吊り上げるスクープ映像・写真をモノにした。<br /><br />　　　　　　　　　　　　◇<br />その夜は上野村役場のカーペットの床に眠った。毛布などはなく、服のまま横になった。山頂に向かった同僚の1人は、買い込んだ食料を、荷物になるからと車に置いていき、自衛隊員から乾パンを分けてもらって飢えをしのいだ。先輩カメラマンは下山途中の渓流沿いで、他社の連中と肩を寄せ合い、原稿用紙を燃やして「暖」をとった。支局から応援で来た若手記者が連絡なしで自宅に帰り、行方不明者として大騒ぎに…とにかく予想外の事態が続いた。<br />上野村の対策本部に詰めて2日目。さらに予想もしていなかった指令を受けた。「夕刊を改革するので本社に戻れ」。現場に到着できなかったことを咎められたのか。取材らしきものを何一つしていないまま、私は御巣鷹山を後にした。<br /><br />事故の記憶は、月日の流れとともに薄れていく。思い出に変わり、やがてそれも忘れ去る。しかし、事故の教訓、安全に対する強い思いなど、決して忘れてはいけないこともある。遺族の方々の悲しみも、時間の経過で少しは癒されることはあっても、消え去ることはないだろう。<br />『鎮魂の山』に間もなく27回目の夏が来る。</span></span>

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            <category>（カテゴリーなし）</category>
      <author>平尾</author>
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      <link>http://blog.canpan.info/hirao/archive/5</link>
      <title>珈琲ブレイク（５）《初代「帆船日本丸」・誘致ものがたり》</title>
      <pubDate>Fri, 15 Jun 2012 09:05:07 +0900</pubDate>
            <description>横浜で余生を送る初代日本丸「太平洋の白鳥」とうたわれた大型練習帆船日本丸。今は2代目が就航（1984年から）しているが、80年代のはじめ、初代日本丸の隠居先をめぐる誘致合戦が激しく繰り広げられていた。名乗りを上げたのは横浜、神戸、大阪、小樽、新湊、福岡、鹿児島など10都市。中でも横浜と神戸が有力視されていた。神戸の応援団長は、大阪フィルを指揮する朝比奈隆氏（1908-2001）。横浜市は、アンクルトリスで有名なイラストレーター、柳原良平氏をリーダーに、ともに大々的な市民誘致運..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<div style="text-align:center;"><a href="/hirao/img/E5B886E888B9E697A5E69CACE4B8B8.jpg" target="_blank"><img src="/hirao/img/E5B886E888B9E697A5E69CACE4B8B8-thumbnail2.jpg" width="320" height="240" border="0" align="" alt="帆船日本丸.jpg" /></a></div><div style="text-align:center;"><br /><span style="color:#000000;"><span style="font-size:large;"><span style="color:#000000;">横浜で余生を送る初代日本丸</span></span></div><br /><span style="font-size:large;"><span style="color:#000000;">「太平洋の白鳥」とうたわれた大型練習帆船日本丸。今は2代目が就航（1984年から）しているが、80年代のはじめ、初代日本丸の隠居先をめぐる誘致合戦が激しく繰り広げられていた。名乗りを上げたのは横浜、神戸、大阪、小樽、新湊、福岡、鹿児島など10都市。中でも横浜と神戸が有力視されていた。<br /><br />神戸の応援団長は、大阪フィルを指揮する朝比奈隆氏（1908-2001）。横浜市は、アンクルトリスで有名なイラストレーター、柳原良平氏をリーダーに、ともに大々的な市民誘致運動を展開。私は当時、横浜市役所の担当だった。<br />神戸市担当の同期生に電話した。「横浜に決まりそうなんだって」と言うと、「なにをトボケタことを。神戸で内定したとの情報を掴んでいるゾ」…。<br />結局は横浜が勝利し、初代日本丸はみなとみらい地区に美しい羽を休め、海洋教室などに利用されている。この誘致劇の裏側ではどんな争いが行われたのか。</span></span></span><a name="more"></a><span style="font-size:large;">　　　　　<span style="color:#000000;">　　　　　       ◇<br />「キーパーソンは笹川良一氏だった。横浜市の動きを静かに見ていてほしいとお願いした」<br />1983年11月、中国雲南省昆明市のホテルに宿泊していた細郷道一・横浜市長（当時）の部屋を訪れた。手にはブランデーの瓶。横浜―上海友好都市10周年記念の上海市公式訪問を終え、当時はまだ観光客が入れなかった昆明市に骨休めに来ていた時だ。明日は帰路に就くという最終日の夜。同行記者団の一員に加わったのを幸いに、帆船日本丸の争奪戦の模様、横浜に決まったいきさつを市長の口から聞き出すための“夜討ち”だった。<br /><br />旅先での気安さからか、市長は午後11時を回っていた（と思う）のにドアを開けてくれた。「遅くにスミマセン。え～と」。その夜の別宴で、しこたま飲まされていた。舌が回らない。複数の質問は無理だ。息を整え、ゆっくり大きく口を開け、1点だけ～何が決め手になったのかを尋ねた。<br /><br />「笹川さんだね。当時、東京は誘致に名乗りをあげていなかった。しかし、いつ『ほしい』と東京に手を上げられるか分からなかった。上げられたら横浜は敵わないと思っていた」<br /><br />「仮に神戸に負けても、次に“妹分”の帆船海王丸の引退が控えていて、1隻目が大阪湾なら2隻目は東京湾に…と帆船獲得の2回戦に期待をつなげられる。しかし東京に持っていかれたら、東京湾に帆船2隻（の保存）は考えられず、第2戦は大阪湾、つまり神戸か大阪のどちらかで決まり、横浜は帆船をあきらめるしかない情勢だった」<br /><br />「“東京は手を上げないでほしい”と頼むと、笹川さんは黙って聞いていて、しばらくしてうなづき“分かった”と答えてくれた」<br /><br />笹川良一氏（1899-1995）。右翼活動家、元衆院議員、社会奉仕活動家…競艇生みの親でもある。日本船舶振興協会（現・公益法人日本財団）を立ち上げ、モーターボート競走の収益金で福祉事業を助成。「一日一善」のテレビＣＭはある年代の人にはなじみ深い。<br /><br />細郷道一氏（1915-1990）。東大卒、自治省事務次官などを経て1978年市長選に出馬。前任の飛鳥田一雄さんとは真逆の、愛想のない、笑わない候補者で側近を悩ませたという。しかし、優秀な内務官僚で、国から金と情報を引き出し、みなとみらい開発など横浜の発展に貢献した。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　◇<br />帆船日本丸に遅れること5年、初代海王丸の引退は平成元年（1989）だった。その誘致先として富山と大阪が残った。両者の協議で、5年交代で係留することに決まったが、その後大阪が別の帆船の誘致に方向転換、富山新港だけの係留に落ち着き、今に至る。<br /><br />余談ながら、夜討ちの翌日は激しい二日酔い。帰りの飛行機に乗る前の最後の日程・昆明動物園に案内されたが、孫悟空のモデルと言われるキンシコウ（金糸猴）の檻まで歩けず、バスの中でダウン。機内の食事もパスし、なんとも締まらない『同行取材記』の最終ページとなった。</span></span>

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            <category>（カテゴリーなし）</category>
      <author>平尾</author>
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      <link>http://blog.canpan.info/hirao/archive/4</link>
      <title>珈琲ブレイク（４）《情けは人の為ならず》</title>
      <pubDate>Mon, 28 May 2012 16:57:56 +0900</pubDate>
            <description>小笠原・父島の坂道で読む人に「うまい文章だ」と褒められたい。だから時々ことわざを使う。洒落た感じが出ると思うから。しかし、意味を正確に知らなくて後で冷や汗をかくことも多い。横浜支局時代、自民党の県議から「清濁併せ呑む人ですね」と言われたことがある。「いつ俺が“濁”を呑んだ、汚れたものは避け、いつも“清”だけだ」と腹の中で怒っていた。それも長い間。ひょんなことから「善悪問わずに受け入れる、度量の広い人」の意味だと知った時は、とても恥ずかしかった。『情けは人の為ならず』も誤解され..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<div style="text-align:center;"><a href="/hirao/img/DSCF304420(1).jpg" target="_blank"><img src="/hirao/img/DSCF304420(1)-thumbnail2.jpg" width="240" height="320" border="0" align="" alt="DSCF3044 (1).jpg" /></a></div><br /><span style="color:#000000;"><span style="font-size:large;"><div style="text-align:center;">小笠原・父島の坂道で</div><br />読む人に「うまい文章だ」と褒められたい。だから時々ことわざを使う。洒落た感じが出ると思うから。しかし、意味を正確に知らなくて後で冷や汗をかくことも多い。<br />横浜支局時代、自民党の県議から「清濁併せ呑む人ですね」と言われたことがある。「いつ俺が“濁”を呑んだ、汚れたものは避け、いつも“清”だけだ」と腹の中で怒っていた。それも長い間。ひょんなことから「善悪問わずに受け入れる、度量の広い人」の意味だと知った時は、とても恥ずかしかった。<br />『情けは人の為ならず』も誤解されやすい。人に掛けた情けは、回り回って自分に返ってくるというのだが、情けを掛けても結局はその人のためにはならない…ととられることが多いとか。私は間違いなく、グルリと回ってきた情けに助けられた。</span></span><a name="more"></a><span style="color:#000000;"><span style="font-size:large;">新聞記者の振り出しは神戸支局。春の夜、三宮駅前の事件現場近くでタクシーを降りようとして乗用車に追突された。全治1週間。相手は私とほぼ同い年の在日韓国人、Ａ君で、前方不注意が原因だった。<br />数日後、喫茶店で会い、相場通りの慰謝料（治療１日当たり1000円だったか）を受け取ると、「罪を軽くしてやってほしい」という内容の嘆願書を書いてくれないかという。被害者からの歎願があると、警察の心証が良くなり、罪も軽くなるというのだ。<br />その場で言われるままに嘆願書を認（したた）めた。Ａ君はとても喜び、「日本人の友達がいないので、これから友達になろう」と言われ、握手。<br /><br />夏をはさんだ約5か月後。深夜の交通事故現場。1人が死亡、もう1人は重傷だったが、そばに待機していたパトカーが「重傷者の瞳孔が開いた」と県警本部に報告した。翌日の朝刊の締切が迫っており、支局にすぐ「2人死亡」と連絡。ぎりぎり、最終版の紙面に間に合った。ところが…。<br />瞳孔の開いた重傷者は回復していた。治療にあたった医師は「死んだと報道され、関係者がショックを受けている」と話し、「早まったことをしてくれた」とギロリと睨む。<br />事故の2人はともに在日韓国人の遊び仲間。亡くなった人の葬儀が営まれた日、会場となった韓国寺院に、兵庫県警キャップと一緒に菓子折りを持って謝りに行った。覚悟はある程度していたが、参列していた若者ら数人に取り囲まれた。<br />「お前か、死亡と書いたのは」<br />「死んだと聞いて親が寝込んでいる、どうしてくれる」<br />体を固くして、うなだれていると、いきなり胸ぐらを掴まれ、体を起こされた。青ざめた顔を上げる私。相手の怒りの表情が眼前に迫る。<br />「アッ、Ａさん」<br />「…あんたか」<br /><br />喫茶店以来の再会だった。彼は、振り上げた拳をどう下ろそうか、瞬間、困ったような表情を見せた。私の方は、この偶然にどう行動すればいいのか、頭の中で答を探していた。<br />そばにいた年配の人が「俺もパトカーの報告を聞いた、確かに瞳孔が開いたと話していた。間違えるのも仕方がないよ」と言ってくれた。それで、誤報事件はなんとなく収まった形になった。<br />　　　　　　　　　　　　　　　<div style="text-align:center;">　◇</div><br />褒められた話ではないが、数多くの誤報を重ねてきた。顔写真の取り違え、肩書を古いまま使用、年齢、略歴の間違い…。さすがに紙面上で“殺して”しまったのは、このとき以外はあまり記憶にはない。<br />新人時代にやらかした大誤報。Aさんとの『偶然』が、私のミスを救ってくれた形だが、それにしても、人の出会いの不思議さを感じる。時間が経っても、その時の場面は、苦い思いとともに鮮明に蘇る。菓子折りの大きさも覚えている。でも…肝心のAさんの顔が浮かんでこない。Aさん…その本名も思い出せない。私の『情』が薄いせいなのか。</span></span>

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            <category>（カテゴリーなし）</category>
      <author>平尾</author>
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      <link>http://blog.canpan.info/hirao/archive/3</link>
      <title>珈琲ブレイク（３）『昭和』が終わった日</title>
      <pubDate>Tue, 15 May 2012 20:48:21 +0900</pubDate>
            <description>昭和64年1月7日未明。「高木（顕）侍医長が迎えの車で自宅を出ました」。侍医長番の記者から緊急連絡が入った。昭和天皇が倒れられてから111日目。侍医長が皇居・吹上御所に詰め、帰宅後の深夜に宮内庁から呼び出されるのは、それだけ陛下のご容態が急変したということ。しかし、これで3度目だ。「どうする、今回は見送るか」。「いや、編集局の全員に呼び出しを掛けましょう」。記者から整理マン、製版関係、運転手…招集の数は軽く200人は超える。呼び出し手当はいくらかかるのか、そんな心配がちょっと..</description>
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<span style="font-size:large;">昭和64年1月7日未明。「高木（顕）侍医長が迎えの車で自宅を出ました」。侍医長番の記者から緊急連絡が入った。昭和天皇が倒れられてから111日目。侍医長が皇居・吹上御所に詰め、帰宅後の深夜に宮内庁から呼び出されるのは、それだけ陛下のご容態が急変したということ。しかし、これで3度目だ。<br />「どうする、今回は見送るか」。<br />「いや、編集局の全員に呼び出しを掛けましょう」。<br />記者から整理マン、製版関係、運転手…招集の数は軽く200人は超える。呼び出し手当はいくらかかるのか、そんな心配がちょっと頭をよぎる。過去2回は持ち直されている、でも…。金額を振り払って、社会部遊軍長として、3度目の臨戦態勢を編集幹部にお願いした。</span><br /><br /><div style="text-align:center;"><a href="/hirao/img/E5A4A9E79A87E4BC9AE8A68B.jpg" target="_blank"><img src="/hirao/img/E5A4A9E79A87E4BC9AE8A68B-thumbnail2.jpg" width="320" height="240" border="0" align="" alt="天皇会見.jpg" /></a></div><br /><div style="text-align:center;">昭和天皇と記者団＝那須御用邸</div><a name="more"></a><span style="font-size:large;"><div style="text-align:center;">◇</div><br />宮内庁担当となった昭和53年、私は記者7年目だった。ご静養先で天皇会見が行われる。約1時間。『会見』と記者は呼ぶが、宮内庁側は「たまたま記者に会っただけ」の位置づけ。海外の首脳なら別だが、「記者風情になにが会見か」というわけだ。<br />54年夏、栃木・那須御用邸で我々は散策中の昭和天皇に“たまたまお会い”した。ご一緒して会見場に歩きながら向かう途中、勇気を出してお尋ねした。<br />「あの竹の傘はもうお使いになりました？」。<br />その年の5月、愛知県で行われた全国植樹祭は雨が降ったり止んだりの天気だった。こうもり傘を使われたお姿に、落雷を心配した人が竹傘を寄贈したのだ。<br />「ああ、あの傘ね、使ってないよ」。<br />短いご返事だったが、あとでこれを聞いた両親がとても驚き、私以上に喜んだ。<br />その後、厚生省（現・厚生労働省）担当に異動した時、社内的には“昇進”なのに、「お前、なにをヘマしたの」「なんで宮内庁を外されたの」と責められた（？）のには困った。<br /><br />また当時、カルガモ親子が三井物産社屋の池から皇居のお濠に、車の行き来が激しい道路を渡って移動する姿が人気の的だった。各社そろって“カルガモ番”を配置し、横断日をマーク。渡りに成功したその午後、デスクから宮内庁にいた私に命令が来た。<br />「陛下のコメントをとれ」。<br />なに～陛下の…と絶句。気安くコメントをとれる訳ないでしょう。が、こちらはペーペー記者。向こうは鬼のデスク。仕方なく、侍従室に駆け込んだ。<br />「カルガモについて陛下は普段なにかおっしゃっていませんか」。<br />「新聞を読んで（カルガモの件は）ご存じでしょうが、特に話されたことはないですね」。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />ご病状が深刻になるにつれ、各社とも取材チームが増強された。半蔵門や乾門など皇居に出入りするすべてのポイントに張り番を置き、皇族方や医師団、政治家らの動向をチェックする。そのためには通行証が必要で、宮内庁記者クラブの登録数は増えるばかり。<br />崩御されて半年以上も経った平成元年10月のクラブ会員名簿を見ると、朝日91人、毎日18人、読売50人、共同通信32人、日本経済31人、ＮＨＫ18人、日本テレビ70人、東京放送96人、フジテレビ76人…。産経も72人を登録していた。<br />記憶では、クラブ会費は1人月200～300円。少額でも合計すれば大金。このクラブ会費は何に使ったのだろう。使い切れたのか？<br /><br />“オモテ”取材だけでなく、“ウラ方”部隊も活躍した。地方支局に加えて大阪本社からも応援を求め、皇室班、医療班、張り番要員などに配置…彼らに日々の弁当や宿泊施設などを手配するのだ。地味な仕事だが、同期の裁判所キャップが指揮をとってくれた。<br />「大阪の分からず屋が、また変な注文をつけてきた」。<br />「張り番はじっと待っていることが多いので、雨具が欲しいという。そんなのコンビニで買って、後で請求すればいいだろう」などと、よくボヤいていた。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />1月7日午前6時33分、崩御。『昭和』の終焉。準備していた記事に、この日の状況などを盛り込んだ特別紙面が、号外とともに作成。夕刊（今はなくなったが）に続いて朝刊も特別編集。おおよその紙面づくりが終わった午前2時すぎ、同僚と2人、フラリと外に出た。社会部長からは「歯ブラシ1本用意しておけ、1週間は社に泊まり込みになる」と言われていたが、なぜか空白ができた。大手町から神田に出る。“自粛の町”に、赤ちょうちんがひとつ。ガラス戸を開け、熱燗を頼んだ。</span>

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            <category>（カテゴリーなし）</category>
      <author>平尾</author>
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      <link>http://blog.canpan.info/hirao/archive/2</link>
      <title>珈琲ブレイク（２）キツネとタヌキとムジナ？</title>
      <pubDate>Wed, 02 May 2012 18:49:41 +0900</pubDate>
            <description>関西出身、うどんが好きだ。きつねうどんが良い。甘いアゲさんと、鰹だしでとった薄口のおつゆ。東京転勤となって長い間、濃口の真っ黒な汁が苦手だった。小さい頃、うどんの替わりにソバを使った「キツネそば」のことを「たぬき」と呼んでいた。東京で「たぬき」といえば天カスの入ったうどんのことで、アゲさんの姿がない。浅草の大衆食堂で「ムジナうどん」なるメニューを発見、注文してみると、アゲと天カスが同居していた。キツネとタヌキの上をいく、ヒトを喰ったうどんだった。『和漢三才図会』より「狢」</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">関西出身、うどんが好きだ。きつねうどんが良い。甘いアゲさんと、鰹だしでとった薄口のおつゆ。東京転勤となって長い間、濃口の真っ黒な汁が苦手だった。小さい頃、うどんの替わりにソバを使った「キツネそば」のことを「たぬき」と呼んでいた。東京で「たぬき」といえば天カスの入ったうどんのことで、アゲさんの姿がない。浅草の大衆食堂で「ムジナうどん」なるメニューを発見、注文してみると、アゲと天カスが同居していた。キツネとタヌキの上をいく、ヒトを喰ったうどんだった。<br /></span><br /><div style="text-align:center;"><a href="/hirao/img/E383A0E382B8E3838A.jpg" target="_blank"><img src="/hirao/img/E383A0E382B8E3838A-thumbnail2.jpg" width="220" height="256" border="0" align="" alt="ムジナ.jpg" /></a></div><br /><div style="text-align:center;">『和漢三才図会』より「狢」</div><a name="more"></a><span style="font-size:large;">上京して、サツ回りを経て警視庁捜査2課を担当した昭和51年夏からの2年余は、騙し合いの暮らしの中にいた。<br /><br />ロッキード事件が連日派手に報道されていた。捜査2課では毎日午前11時から課長会見があり、20人ほどの記者が狭い課長室に顔をそろえる。「おはようございます」と課長、それにボソボソと答える記者連中。そのあと無言の時間が続く。誰も、何も言わない。奇妙な静寂が部屋を支配する。やがて（10分後くらいか）「それでは…」の声で解散。その後決まって課長室の前に行列ができる。課長と2人きりの会話で事件着手の感触を掴もうとする記者たちの順番待ちの列だ。<br /><br />ある社の記者が会見で質問をした。「○○班が忙しいそうですね」。「そうですか？」と課長。記者クラブのボックスに戻ると、すぐにチーフが「おい、あの質問はどういう意味なんだろう」「アイツは2課取材の素人なのか」「何か(他社が動いている)情報は入ってないか」…。疑心暗鬼の塊（かたまり）が長々とボヤく。腹の探り合いは疲れる。<br /><br />お中元、歳暮の季節になると、会社から自分が担当する捜査員への贈答品が手配される。高級海苔の場合が多い。何人分必要か申請するのだが、2課の刑事が増収賄もどきの品物を受け取る訳がない。でも上司や同僚への手前、いつも10個ほど注文した。昼間、刑事の勤務中を狙って留守宅を回るのだが、ほとんど断られる。1度だけ、愛媛県の実家から送ってきたカワハギを古い新聞紙に包んで持参し、受け取ってもらったことがあるが、デパートの包装紙でくるんだ品物は手づかずに残り、我が家の食卓はしばらく海苔三昧となる。<br /><br />Ｔ刑事は『落としの名人』と呼ばれていた。頑固で口が悪く、最初の夜回りで自宅前の電柱の陰から声をかけた際、「お前は強盗か、いきなり暗闇から出てきて」とどやされた。現場なき、被害者なき犯罪（被害者は税金を納める国民）と言われる汚職事件では、贈賄、収賄双方の自白が事件解決のほぼ唯一の決め手。彼は捜査2課では3本の指に入る“落とし”のプロだった。朝早く、容疑者に任意同行を求め、その日のうちに自白に追い込む。一旦嫌疑不十分で帰宅させると自殺の恐れが出てくるのだ。その海千山千のプロに新米事件記者はどう立ち向かえば良いのか…。<br /><br />結論から言えば、１年以上も通い、無視され続けた後、昔Ｔさんを担当した先輩記者に引き継ぎ役をお願いして、やっと口を聞いてもらえるようになった。質問の仕方、帰宅をどの場所で待つかなど教わることは多かった。この間、他社の（記者の）姿は見たことがない。「気難しいから敬遠しているのだろう」と思い込んでいた。<br /><br />ある夜、Ｔさんが自宅近くの居酒屋からふらりと出てきて、隣りの薬局で風邪薬を買ってまた店に戻った。「今晩は」と声をかけ、後について店に入ると、朝日と読売の記者がいた。「しょうがないだろう、そこで会ってしまったんだから」とＴさんが2人に弁解する。同じテーブルに座らせてもらったが、その時に見せた朝・読の嫌そうな顔。1人は頬を紅潮させ、口を尖らせた。1人はソッポを向いたまま目を合わせようとしなかった。キツネとタヌキがそこにいた。</span>

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            <category>（カテゴリーなし）</category>
      <author>平尾</author>
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        <item>
      <link>http://blog.canpan.info/hirao/archive/1</link>
      <title>珈琲ブレイク（１）美空ひばりの訃報は間に合わなかった</title>
      <pubDate>Fri, 20 Apr 2012 15:48:50 +0900</pubDate>
            <description>春は人事異動の季節。左遷、栄典、横滑り…勤め人はなにがしかの喜怒哀楽を伴って、手渡された辞令に見入る。大抵は時間とともにその時の感情は忘れてしまうが、小さな塊となって心の奥に沈んでしまうものもある。</description>
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春は人事異動の季節。左遷、栄典、横滑り…勤め人はなにがしかの喜怒哀楽を伴って、手渡された辞令に見入る。大抵は時間とともにその時の感情は忘れてしまうが、小さな塊となって心の奥に沈んでしまうものもある。<br /><a name="more"></a>6月24日がまもなくやってくる。昭和の歌姫・美空ひばりの命日。23年前のこの日深夜から翌朝にかけて、私は東京・大手町の産経新聞社社会面の朝刊担当デスクとして“嵐”の中にいた。<br /><br />編集局の大部屋の一角に、コンパクトに並べられたテレビ群。午前1時を回ったころか、真ん中の１台にテロップが流れた。「美空ひばり死去」の文字。３か月前から順天堂大学病院（文京区）に入院し、深刻な病状と言われていた。万一に備えて、彼女の生い立ち、業績、年表などの資料が集められ、複数の写真とともにすぐに紙面化できるよう準備されていた。確認が取れ次第、１面から社会面、文化面が、ひばり関連の原稿で埋まる手はずだ。社会部泊り班全員を自宅と病院に走らせた。<br /><br />AM1:30　病院取材組から1報…「女優の岸本加世子が泣いて廊下を走っていきました」<br />「病院側のコメントはなし、何も話してくれません」。<br />AM2:00　自宅班から連絡…「真っ暗で、人がいる気配はありません」。<br />警視庁に詰めている記者からは「病院を管轄する警察署にも情報は入っていない」と。<br />同じグループのフジテレビのエライさんに電話したが、確認は取れない。<br /><br />朝刊の締切時間はとうに過ぎた。テレビの訃報テロップは流れ続けるのに、欲しい情報は依然入ってこない。大阪本社から問い合わせが何度も来て、口調が段々荒っぽくなる。答えるコチラの声も甲高い。「分かったらすぐに連絡する、決まっているだろう！」。いつもなら時間に厳しい製版（活字を組む）の職人さんが、このときは怒ってこない。「ひばりだろう、待つよ」。この態度のギャップが、コトの重大さを否応なく意識させる。<br /><br />〈落とせない、出稿しなければ…。でも確認がとれないと誤報になってしまう〉<br /><br />事態は進まず、時間だけが過ぎる。夜が白み始めた。朝―。各紙の朝刊は、内容の差こそあれ、ほぼ「ひばり死亡」を報じていた。午前5時すぎ、現場に出した記者を待つため私1人が残っていた編集局に、下の階を占める夕刊フジの編集幹部が現れた。「ちょっとコピー機を借りるね、こんな日は夕刊フジがよく売れるんだ」とニヤリ。<br />半年後、私は社会部から異動となった。<br /><br />今なら思う。確認できないまでも、テレビ報道を含めた緊迫感を伝えるのもニュースだったと。いや、ネット時代では締切時間はなく、その時々の『最新』を伝えるのが報道の本分。病院や自宅の様子を伝え、訃報は確認された後に伝えるのが正しい姿勢なのだろう。できない決断を迫られる苦しさは、今はないのだ。<br /><br />「6月24日」。この日が来るたび、時の流れとほろ苦い思いを噛みしめる。

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            <category>（カテゴリーなし）</category>
      <author>平尾</author>
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