美味しそうな缶詰[2008年05月08日(Thu)]
日本学校初日の面白話[2006年11月22日(Wed)]
逆カルチャーショックA[2006年10月22日(Sun)]
続き。。。
夏休みの間は、勉強をするつもりもなく、時間があまっていたので、様々なテーマの本を読みました。SF、サスペンス、ノンフィクション、東洋哲学などなど。。。お母さんが言ってくれた通り、何となくポジティブなエネルギーをもらい、前向きに2学期を迎えることが出来ました。前向きとは言っても、不安はまだ残っていましたが、自然と授業をサボる回数が減りました。
それまで、授業を真面目に受けていなかった罪悪感があったため、親との会話を避けていましたが、夏休みの件以来、何となく、お互いの距離が近くなり、話すことが多くなりました。予備校に通いながらも、読書は続けました。特に心理学・哲学的なテーマに興味を持ち、新しい発想が自分に生まれ始めました。
お母さんはペルーの日系社会向けの新聞「ペルー新報」で、長くボランティアで記事を書いていました。お互いの距離が近くなってから、新聞に出す前に、僕に記事を読ませ、感想を聞いていました。その刺激も受け、心に溜まっていた「モヤモヤ」を吐き出すために、自分の考えを自分のために書く様になりました。
そんなある日、自分が書いたものをお母さんに見せたら、「いいね〜」と言われ、自分が知らないうちに、ペルー新報に載せられました(笑)。お母さんは僕を驚かそうとして、秘密にしていたみたいです。
最初は戸惑いましたが、自分が書いたものが新聞に載ることによって、思いもよらない様な人から声をかけられました。「いい記事を書いたね」、「これからも続けるよね」、「いろいろ考えているんだね〜、偉いね〜」と言われ、今まで自分に一番欠けていた「自信」が少しつきました。
心にぽっかり空いていた「穴」が、少しずつ埋まって行き、自分にとって一番大変だった時期を乗り越えることが出来ました。大学にも無事合格し、子供の頃から夢だった獣医への第1歩を歩むことが出来ました。
母親の優しさ、本、ペルー新報、そして声をかけてくれた人たちによって、泥沼にはまっていた自分を救ってくれました。
今でも感謝の気持ちで心がいっぱいです。
(その後、新聞からの依頼もあり、約2年間、ボランティアで書き続けました)
逆カルチャーショック[2006年10月21日(Sat)]
両親が教えてくれた価値観[2006年10月16日(Mon)]
セラミック工場の倒産後、両親は様々な困難を抱えていたにも関わらず、ボクに不自由を感じさせないため、様々な工夫をしていました。
日本に初めて来て、見たことがなかった、お菓子、玩具、洋服などに目を光らせるボクがいました。「あれも欲しい、これも欲しい」とわがまま言う僕に、決まってお母さんは「ダメ!」と言っていましたが、お父さんはボクに甘く、二人きりになったときに、こっそり買ってくれたりしました(笑)。
ペルーでは夢にも思わなかった玩具が手に入るようになって、浮かれていました。でも、少しずつ。。。自然にわがままを言わなくなるようになりました。誰に何かを言われたからではなく、両親の苦労する姿を見て、自然とそうなりました。
ボクやお母さんに何でも買ってくれるお父さんでしたが、自分のことになると、一切買いませんでした。長年使っていた洋服も変えようとせず、お母さんが「ボロボロで恥ずかしいから、新しいのを買おうよ〜」と言っても、お父さんは必ず「そんな小さなことを気にしないでいいよ、ほら縫えばまだまだ使える」と答えていました。
それを見たり、聞いたりしていたボクは、自然とお父さんの愛情と優しさが分かるようになり、玩具などを見て心がチクッと痛むようになりました。「お父さんがかわいそう。。。、わがままを言うのを止めなければ。。。自分も頑張らなければ。。。」と思うようになりました。
お母さんも大好きだったタバコを止め、少しでも貯金に回そうと努力をしていました。その当時は、タバコを止める難しさを理解していませんでしたが、自分も吸うようになり、お母さんの苦労も分かるようになりました。
異国で、ストレスを抱える毎日だったにも関わらず、タバコを止めたお母さん。。。みんなに優しかったのに、自分には一切、ものを買わなかったお父さん。。。そんな二人を見て、ワガママだった自分も少しずつ変化していきました。
親戚たちにいくら「ワガママなやつ、早く大人になりなさい」と言われても、「ふ〜ん」としか思いませんでした。いくら言葉で言われても、変わろうとしませんでした。
この出来事を今振り返ると、「子供には態度でしか教えられないものがたくさんあるのだな〜」と思えるようになりました。
初めての料理作り[2006年10月13日(Fri)]
子供の頃、両親はセラミックの工場を営み、それなりに安定した生活を送っていました。兄弟のいない僕は何を不自由することなく、育っていました。家(工場もあった)には必ずお手伝いさんがいて、自分では料理も、皿洗いも、洗濯もしたことがありませんでした。従兄弟たちは小学校低学年から家の手伝いを当たり前の様にこなしていたのに、僕は遊ぶことしか知らなかったのです。今でも親戚からは「子供の頃、おまえは甘やかされていて、何かがあるとすぐわ〜わ〜泣き喚いていたよ〜」とよく言われます。考えると確かによく泣いていた。。。
でも、セラミック工場と経済的安定した甘い生活は長く続きませんでした。80年代ペルーを襲った不況は、両親の工場を強く扇ぎ、倒産しました。借金を抱えた親は、日本で就労することを決意し、88年に日本に来ることになります。
知り合いが一人もいない新しい環境で、言葉、習慣、文化の壁にぶつかりながら、新しい生活がスタートしました。ボクは先生や友達に恵まれて、早く順応することが出来ましたが、両親はなれない工場での仕事、人間関係に長く悩まされました。夜の9時過ぎに仕事から帰ってくる両親、疲れきっていました。僕の前では出来るだけポジティブに、明るく振舞っていましたが、親が子供の変化に敏感な様に、子供も親の変化を敏感にキャッチします。
それまで、何と言われようと、皿洗い一つやらなかった僕は、何も言われなくても家の手伝いをする様になりました。疲れた顔の両親を見るのが辛かったのです。。。
僕は料理をするお母さんの横に立って、具を盗み食いするのが好きでした。料理を作るお母さんを見ながら、何故か「料理なら自分にも出来る」と思い込み、母の許可なく、料理を作って、親を驚かそうとしました。
初めて料理を作ったのはチャーハンでした。お母さんの作り方を思い出しながら、材料を切り、具を作っていきました。ここまでは順調でしたが、炊飯器を初めていじる僕は、出て来る水蒸気にびっくりして、いけない操作をしてしまったと思い込み、オロオロしていました。「ヤバイ!火事になる」と思い込み、とにかく水蒸気を無くさなくてはと思い、何度も水を足してしまいました(笑)。
親が仕事から帰って来たときには、ご飯に混ぜる具は出来ていたけど、ご飯は。。。怒られると思っていたけど、お母さんに事情を説明したら、優しい顔で笑いながら「あ〜、あのままでよかったんだよ〜」と言ってくれて、許可なく料理を作ってしまったことに関しては、何も言わなかったのです。あの時は本当にホッとしました。
イメージでは写真のように出来上がるはずでしたが、最終的に出来上がったのはチャーハンというより、お粥?お茶漬け?でした(笑)。それでもお父さんとお母さんは大きな笑顔を見せながら「美味しい、美味しい」と言って、子供が作った初めての料理を食べてくれました。
自分の人生を変えた先生[2006年10月12日(Thu)]