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Hansen's disease - Rehabilitation/Normalization 「社会復帰」 [2012年04月28日(Sat)]
東村山の国立ハンセン病資料館の2012春季企画展 青年たちの「社会復帰」 ー 1950-1970 ー が、今日から始まった。 日本のハンセン病問題のなかで、社会復帰が取り上げられることは少なかった。それだけに、期待される。 早速、毎日新聞の記事が英訳され、グーグルで世界に配信された。短い記事ながら、社会復帰の表と裏を指摘している。日本は、ハンセン病自体は過去の病気となった国の一つだけれど、世界でも例外的にハンセン病がメディアで取り上げられることが多い国。しかし、全て国内報道にとどまり、海外に発信されることは極めてまれであるだけに、英文毎日の報道は意味がある。
同展示は、2012年4月28日(土)〜7月29日(日)まで。 (下記、英文毎日の企画展に関する報道を紹介する) Tokyo exhibition shows Hansen's disease patients' struggle for normal life A rare exhibition depicting leprosy patients' struggle for normalcy in the face of prejudice is on at the National Hansen's Disease Museum in Higashimurayama, western Tokyo. The exhibition, called "Seinen tachi no 'shakai fukki'" (Young men's reintegration into society), traces the lives of 11 Hansen's disease patients, who in their youth chose to leave the sanatoriums where they were being treated to pursue a normal life, despite strong prejudice against the disease in Japanese society. The 11 people, most of whom are now in their 70s or 80s, were treated for Hansen's disease in the 1950s, when chemotherapy began to spread as a common treatment for the disease, resulting in significant improvements in patients' conditions or even full recovery. The exhibition is based on interviews, photographs and other resources that depict the lives of the 11 people and their struggle to fit into society after leaving the sanatoriums in their 20s or 30s. The exhibition material was collected by the museum's curator Naoko Nishiura, 40, starting in the summer of 2011. She interviewed a total of 20 people across Japan, and the 11 agreed to be featured in the exhibition. Among the 11 people is an 83-year-old man from Kagoshima Prefecture who left a sanatorium to follow his dream of having a family of his own, and later opened a Chinese restaurant in Osaka Prefecture. "The more popular the restaurant became, the more tense I got," he recalls, reflecting on the torment of spending a life of hiding his illness. "I used to worry about what would happen if people learned of my disease. I used to worry about my children, too." Another man, 76, conveys a profound sense of isolation, saying, "Even if standing amid the hustle and bustle, amid crowds of people, now if I had to say what I am, I'd say I am lonely." According to museum officials, from the 1950s to the '70s, a number of young men and women suffering from the disease increasingly left sanatoriums after their conditions had improved, and rejoined society. The peak was in 1960, when some 230 people left the facilities. However, many of them who had grown tired of hiding their illnesses amid people's prejudice against it, or who had feared a potential relapse, later returned to the sanatoriums. "I hope that by learning about those who have taken the challenge of returning to society, people will take the opportunity to notice the prejudice and discrimination that may be hiding inside them," says Nishiura. The exhibition runs through July 29. Admission is free. April 28, 2012(Mainichi Japan)
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鈴木重雄の遺稿『失われた歳月』の再刊への動きが始まった [2012年04月27日(Fri)]
『失われた歳月』上下巻の再刊を願う思いは、すでにこのブログにも書いた。
出版元である皓星社の再刊に弾みをつけるために、有志による支援活動が、関西FIWCの「むすびの家」を中心に始まった。鈴木重雄の故郷、宮城県気仙沼の唐桑は、昨年3月11日の大震災と津波で大きな被害を受け、その復旧に震災直後から、FIWCの「むすびの家」に連なる人々が入っている。まさに「むすび」の歴史が再現している。 鈴木重雄は1912年生まれ。生誕100年にあたる今年に是非とも再刊が果たせるようにと願って、支援要請の趣意書の概要を紹介しておこう。
鈴木重雄生誕100周年/社会福祉法人洗心会35周年 『失われた歳月』再刊を願って ■3・11東日本大震災が発生したとき、唐桑町(気仙沼市)はどういう状況にあるのかをいちばん心配しました。唐桑は、鈴木重雄さんの故郷で、最後に命をかけて設立した社会福祉法人洗心会の関連の方たちが住む町だったからです。やっと連絡がつき無事が確認できて、ただちにフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)は復旧支援のワークキャンプに駆けつけました。若い人たちがつけたキャンプのスローガンは「鈴木重雄の唐桑を元気にしよう」でした。 ■鈴木重雄さんは1912年4月に生まれ、今年は生誕100周年の年にあたります。大学在学中にハンセン病にかかり国立療養所長島愛生園で28年の闘病生活を送った鈴木さんは、FIWCの「交流(むすび)の家」建設運動に全面的な協力をされて、後に、ハンセン病の歴史で有り得べからざる故郷での町長選挙に立候補するという奇跡を起こしました。僅差で敗れたあと、社会福祉法人洗心会の設立に邁進し、知的障害者施設高松園の開所の直前に他界されました。 ■かつて、鈴木さんとともに活動したFIWCのメンバー、およびたくさんの後輩たちが、津波で壊滅的被害をうけた唐桑にかけつけた昨年は、出会いから50年近い歳月が流れていたのでした。この稀有な絆の出発点となった鈴木重雄を最もよく語るのは彼自身の自伝をおいて他にありません。 ■鈴木重雄さんの自伝『失われた歳月』(著者名・田中文雄=園内名、皓星社)は、ある医師があずかっていた自伝原稿に加えて、あらたに唐桑の自宅で発見された原稿をあわせて、2500枚にもおよぶ原稿を2005年に発行したものです。1部から5部までが自伝、6部が愛生園の機関誌「愛生」等に発表した原稿で構成されていて、上下2巻あわせて1100頁の大著です。 ■鈴木重雄を知る、日本のハンセン病の歴史を知る、たいへん貴重な記録であります。大著ではありますが、読み始めると、数奇なる人生を歩んだ鈴木さんの生き方に時を忘れて引き込まれていきます。 ■ご承知のように、この手の本はそんなに売れるわけではありません。たくさんの出版社が出版を断ってきたなかで、最後に引き受けたのが皓星社で、歴史的社会的意義を評価し出版を決断したことに頭が下がります。申し添えれば、皓星社は『ハンセン病文学全集全10巻』(昨年完結)刊行(出版梓会新聞社学芸文化賞受賞)という偉業をなしとげた出版社です。 ■鈴木さんの本は現在絶版状態で、再刊を望む声があちこちから聞こえてきますが、出版社としては、ある程度の販売の見通しがたたないことには第二刷はむつかしいとのことです。 ■この機会に再刊を実現いたしたく、みなさまに呼びかけをいたします。この本をぜひ購入していただきたく、カンパを募ります。ある程度の見通しをたてて出版社に刊行を依頼したいと考えていますので、カンパ予約をお願いいたします。目標は150口(一口8000円)です。すでに第一刷を購入されている方は知人友人にお薦めください。目標数に達して刊行が決まり次第お知らせしますので、その時にお送りする振込用紙で再刊支援カンパをお支払いください。 ■同封のハガキにて予約申込みをいただきますようお願いいたします。 『失われた歳月』上巻・下巻 田中文雄(鈴木重雄の園内名)著、皓星社発行 A5判 上巻508頁 下巻626頁 上巻3500円+税175円、下巻3500円+税175円
●カンパ予約申込ハガキの送付先:〒614-8375八幡市男山弓岡1-B18-105 湯浅方 (*同封のハガキにてお送りください) NPO法人むすびの家「失われた歳月」係 ●ハガキ締め切り:2012年5月末日 ●カンパ振込先:後日、振り込み用紙をお送りします。刊行決定後お支払いください。 ●カンパ:1口8000円(『失われた歳月』上巻下巻1セットをお送りします。含送料) (2口以上の方は、口数以下の希望セット数を記入ください) ●お問合せ先:NPO法人むすびの家/フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)関西 〒631-0042奈良市大倭町2-33 0742-44-0776 あるいは 湯浅 進 090-3862-6369 <交流(むすび)の家HP http://musubi.news.coocan.jp>
『失われた歳月』再刊 呼びかけ人:NPO法人むすびの家(理事長・湯浅 進) 賛同人:上田政子(島根県藤楓協会理事・元愛生園看護婦長・松江市)、小野寺 学(社会福祉法人洗心会理事長・気仙沼市)、門屋和子(ハンセン病問題に関わる長野県民の会代表・上田市)、亀谷壽一(社会福祉法人洗心会元理事長・気仙沼市)、木村聖哉(『むすびの家物語』著者・東京都)、佐渡裟智子(ハンセン病詩歌音読ボランティア・生駒郡)、佐藤祐子(横浜市健康福祉局・横浜市)、高山和彦(社会福祉法人同愛会理事長・横浜市)、鶴見俊輔(哲学者・京都市)、徳永 進(野の花診療所・医師エッセイスト・鳥取市)、中島 健(大倭紫陽花邑・奈良市)、馬場康彦(社会福祉法人洗心会専務理事・気仙沼市)、原田僚太郎(NGO「家=JIA」代表・中華人民共和国)、虫賀宗博(論楽社主宰・京都市)、森元美代治(NPO法人IDEA JAPAN理事長・清瀬市)、矢野 清(NPO法人りんご会地域活動センター「りんごの木」施設長・横浜市)、薮本雅子(元日本テレビアナウンサー・ハンセン病国賠訴訟裁判取材記者・東京都)、山口和子(笹川記念保健協力財団理事・川崎市)、湯浅 洋(元国際らい学会会長・京都市)、<五十音順> 今村忠生(NPO法人むすびの家名誉理事)、長澤俊夫(交流[むすび]の家建築総監督・唐桑町長選挙応援隊)、青谷善雄・柳川義雄・矢部 顕(NPO法人むすびの家理事・唐桑町長選挙応援隊) 2012年3月18日
* * *
――人生には偶然のことがあります。私が小学生のおそらく4年生の頃だったと思う。同級生の豊田くんの郊外の家に遊びに行ったとき、商大予科生だった鈴木さんと会いました。その後、彼はハンセン病にかかり、自分の名を消して一個のハンセン病患者として長島愛生園に身をよせました。私はそこを訪れるなかで、20年ぶりに鈴木さんと会いました。こうして付き合いが生まれ、やがて彼は社会復帰して、故郷で選挙に立ち会う巡りあわせとなりました。私の家に、彼の関係していた水産会社のマグロをもってきてくれたこともあり、家族とも会いました。ハンセン病患者の快復と社会復帰にたちあうことができたのは、私にとって光のある人生の部分です。その時間を鈴木重雄さんと共有したことは、いま振り返ってみてうれしい記憶として残っています。――鶴見俊輔(社会福祉法人洗心会30周年記念メッセージより)
「エリート学生から一転発病。苦悩を抱いての放浪から、長島愛生園での再生までの数奇な青春の記録」。――『失われた歳月』上巻表紙帯より――
「長島愛生園の療友たちのリーダーとして第二の人生。完治し、社会復帰しての活躍。人間の可能性を示す人生の記録」――『失われた歳月』下巻表紙帯より――
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at 00:23
『砂の器』 2011テレビ朝日版 [2011年09月11日(Sun)]
10日(土)、11日(日)二晩連続の『砂の器』 2011板が終わった。
5回目の映像化といわれる『砂の器』が今日放映された。 松本清張の代表作。1961年に発行された小説は、今でも文庫本が、駅前書店にも並べられているほどの広く根強い人気がある。すでに数カ国ごに訳されている。英語版は探偵小説であることが分かるような、「今西刑事の事件簿」と言った題で、シャーロックホームズやアガサクリスティのポワロ刑事と比較するようなコメントがインターネットで見られる。
秀夫の父、千代吉(山本学)は一家惨殺犯の濡れ衣を着せられ、当時3歳の秀夫を連れて追い出されるように村を後にしていた。以来、父子の消息を知る者は村にはいないという。 清張が「悲劇」の根底に流し込んだハンセン病が、殺人の濡れ衣と替えられた結果、人生の「業」といった拭うに拭えない底なしの悲しさが消えうせてしまった。
当然ながら1961年という時点のハンセン病は、「業」であってはならなかった。アメリカでは新薬で、菌陰性をまって退院というケースが出ていたし、晴れて社会復帰した女性(ベティ・マーティン 彼女は偽名で社会復帰した)が闘いと勝利の自伝を出してベストセラーとなっていたし、日本国内でもすでに1949年には、新薬が広く使われ始めていた。
しかし、隔離の政策は変わることなく、新薬で治るという広報活動もなされなかった我が国では、一般に「業病」として根強く生きていたことは事実。山梨県で、ハンセン病発病の家族を苦にして一家9人心中という痛ましい事件が起こったのは1951年だったと記憶する。松本清張が、ハンセン病を小説の根幹にすえて人間の「業」を描ききったことを非難は出来ない、と知りつつ、矢張り『砂の器』の果たしたマイナスの役割は否定できない。あまりにも効果的に書ききられているが故に。
2007年のヴィクトリア ヒスロップのThe Island (封印の島)も同じ【あやまった利用】で成功している例だ。
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at 23:08
回家 The Way Home [2011年09月08日(Thu)]
マレーシアの若いジャーナリスト Joshua Wong さんとEan Nee Tan さんが、首都クアラルンプールから一時間足らずのスンガイブロー地区に1931年に開設されたハンセン病療養所―National Sanatorium Sungai Buloh ―に生きる高齢の人々(ハンセン病の回復者たち)のインタビューを通して、隔離・家族・病気・そして、今はあらたな「ふるさと」となったスンゲイブローとそこで築き上げた人生・家族を描いたノンフィクションを出版した。
著者はともに中国系マレーシア人であることもあり、スンゲイブローに今も残る200人余りの入所者の大半が中国系である、ということもあり、本書は中国語で出版。ただちに英訳を手掛け、近いうちに英語版が追いかける予定。
世界の各地で、ハンセン病とそれを生きた人々を記録する作業が進んでいるのはすばらしい。なによりも、その国のハンセン病の歴史は、その国の人々の将来に向けての「財産」だと思う。
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at 18:40
『第2世代』 インド [2011年08月18日(Thu)]
ハンセン病のスティグマは、世代を超える
親がハンセン病を病んだ、ということだけで、子ども世代があらゆる重荷を負うことになる。
近年、ハンセン病は薬剤で治る病気となり、この様相は変わった。しかし、薬のなかった時代に病んだ親を持った人々の人生は、洋の東西を問わず、幼い時から、あらゆる『壁』とのたたかいだった。『壁』をのりこえ続けないと、自らの人生が拓けない。
日本の第2世代として勇気ある発言を自伝という形で著した人(宮里良子さん)のことは、紹介した。 <リンク:>https://blog.canpan.info/sec/EntryEdit.blog?entryId=398
今月初め、南インドのチェンナイ市で会った40代の男性も、強烈なメッセージを持っていた。 マンジュール・アラム氏。その名刺には、BABL MBA 法廷弁護士、宣誓管理官 とある。 活躍の場をもつ、若い法律家、という印象であった。
そのアラム氏が語った人生は次のようなものだった。 アラム氏は、インド北部ビハール州の北部チャンパランにある、リトル・フラワーハンセン病コロニーで、本病の両親から生まれた。リトル・フラワーという名前から推測されるように、ここはキリスト教ミッションが開設したコロニー。伝説的なクリスト・ダス神父が運営するコロニーだ。
アラム氏はコロニーの外の小学校に入学して、生徒たちからひどくいじめられたという。のちにリトル・フラワーは、コロニー内に独自の学校を解説して、子どもたちを守ることになった。 9年の小・中学校を卒業する時に、運命が彼に微笑んだ、とでもいおうか。全世界の高校入学年齢の『貧しい』子どもを対象に、英国で高校に進学する奨学金があることを知らされた。成績の良かったアラム氏は挑戦の機会を得たが、運よく奨学金を得られるのは、世界全体で5人。なんと、その一人に選ばれて、イギリスの名門高校イートンに進学した。イートンと言えば、イギリスは言うに及ばず全世界の指導者を生み出してきた名門中の名門。事実、英国の現首相キャメロン氏やネパールの皇太子などの姿もあったという。
イートンでの2年を終えたアラム氏は、英国ではなく、インドに戻り、南のチェンナイで奨学金を得て法律を学び、修士、弁護士とキャリアを築いた。
アラム氏の特異な点は、個人的な成功の一方で、出身地(父母と兄弟姉妹は今もコロニーや近隣の村に住んでいる)との絆を断たなかったということだ。現に、コロニーの最高指導者クリストダス神父が危篤に陥った時には、病床に駆け付け、首都のデリーから医師を送り、あらゆる手を尽くし、神父の死に際しては葬儀に力を尽くしたという。
今回の出会いも、丁度チェンナイでの会合に出席していた、若い快復者のラムバライ氏(やはりビハール州のリトル・フラワー コロニー出身)の紹介によるもの。
アラム氏曰く「私は自分自身の体験は言うまでもないが、両親やコロニーの人々の苦難をこの目に見ている。その人たちが今も耐えて生きている社会の無理解と差別も、知っている。私の同胞のために、自分にできることはなんでもしたい。」
一瞬耳を疑うような明確な言葉の数々だった。どうして、これまで、インドの快復者組織はアラム氏とつながらなかったのだろうか。その機会があったと思われるにもかかわらず。
インドは広い。もっと他の地域にも、まだまだ隠れた「アラム氏」がいるのではないか。
少しの疑問と大いなる期待を持って、マンジュール・アラム氏に象徴される第2世代が、インドの快復者運動の中核に参加する日が来ることを待っている心情だ。
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at 23:30
インドのハンセン病に何が [2011年08月12日(Fri)]
インドのハンセン病について、近々、動きがあるかもしれない。
「インドではまだまだハンセン病の患者さんが多いのでしょう」と聞かれることは少なくない。「患者さん」が何を意味するのかによって、数は違ってくるが、近年、新しく発病する人の数は年間13万人前後、人口11億を超えるこの国での数としては、毎日平均1000人が結核に命を奪われているという統計を前にして、ハンセン病は保健省の優先課題とはならない。
にもかかわらず、ハンセン病を病む人々への差別、その悲惨は、マハトマガンジーをはじめとして、近代インドが克服するべき問題と認識されてきた。1955年には「全国ハンセン病対策」がスタートし、1983年にはインディラガンディ首相のもとで、新しい複合化学療法による「インドハンセン病根絶計画」が発足した。当時、インドだけで400万人とされていた患者数は、政府主導で、世銀の借款をも含むみ、民間の組織も巻き込んで精力的に展開された活動の中で、次第に減って行った。その結果、登録患者数は2005年末の時点で、国際的基準とされていた「人口1万人あたり患者一人以下」のレベルに達した。『インドはハンセン病を制圧した』と保健大臣は誇り高く宣言し、インドと言えば路上にハンセン病の患者が物乞いをしている、というようなイメージを一掃することに成功した。慢性疾患で、ただちに命を脅かすことのないハンセン病対策に、政府当局がこれだけのエネルギーを集中させて取り組んだこの結果は、公衆保健対策のなかでも成功例とされている。
『ハンセン病を制圧した』ということは、ハンセン病を発病する人がいなくなった、というわけだろうか。一般の人々はそう理解した。あたかも患者が0になったかのように。しかし、ハンセン病は感染と発病のメカニズムがいまだに明らかにされていないように、潜伏期間も長く、感染していても臨床的な症状がない人は多いし、発症しない人も多いとされている。つまり、患者を0にする、ということは現状では不可能に近いこととされている。今も年間13万人が新たに発症している。30年前に比べると大きな減少ではあるが、急激に0に近づくことは疫学的にあり得ない。
しかし、『インドはハンセン病を制圧した』というメッセージの持つ威力は大きかった。ハンセン病は保健医療の中で「過去」のテーマとなり、保健所でも民間団体の診療所でも、「忘れられつつある」。
インド政府は、昨年来、ハンセン病の現状を把握するために、全国でサンプル調査をしている。その結果が、近々公表される。噂では、患者が増えている地域、減らない地域が見つかっているという。いわゆる『ホットスポット』が各地に見つかったらしい。ホットスポットの存在は、ハンセン病の広がり方の特徴として専門家の間では広く知られていることだが、どの程度「ホット」なのか、によっては、大きな物議をかもすかもしれない。
世界のハンセン病対策は診断技術も治療薬も揃っており、ホットスポットの発見自体は、当局にとって十分に対応可能な問題であるはずだが、メディアや当局の対応を糾弾したい向きには格好の題材を提供する結果になるかもしれない。『ハンセン病の爆発的流行再来』とか『政府の対策の失敗』などという見出しがメディアにおどるのが見えるようだ。
しかし、実のところこれ自体は決してマイナスではない。保健省は一時的に面目を失うことになるかもしれないが、新規の患者が早く診断され治療につながるならば、むしろ朗報だ。早期に治療を受ければ、後遺症も防げるし、何より、自分自身が感染源になることはなくなるわけだから。治療は最長でも12カ月。治療薬を服用して数日以内に、患者の体内の「らい菌」は死滅する、と言われているのだから。
サンプル調査の結果の公表は、8月18日。
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at 23:15
ブラジルの『無癩県運動』 [2011年06月05日(Sun)]
1980年代、伝説の活動家(アクティヴィスト)で当事者−つまりハンセン病の快復者−フランシスコ・ヌーネスこと「バクラウ」の突出したリーダーシップで発足したブラジルのハンセン病当事者組織の 『MORHAN』 (訳すと 「ハンセン病快復者の社会復帰運動」というようなことになるけれど、ハンセン病の世界では「モーハン」として知られている。丁度全療協が全国ハンセン病療養所入所者協議会なんていうながーい名前ではなく、Zen Ryo Kyo として世界に通用するように。)
バクラウの遺志を継ぐのは、クリスチアーノとアルトゥール。前者はやや足の不自由な闘士、後者は、子供の時から、敬虔なカトリック教徒であった母親に連れられてハンセン病の療養所に出入りし、バクラウに惹かれ、尊敬し、手足となって活動を助けること数十年、癌にむしばまれたバクラウにMORHANの将来をを託された男。MORHANの活動はボランティアを貫き、家族を顧みなかったために、妻から離婚された、とか告訴されたと聞いたが、その息子(やはりアルトゥールという名前でややこしい)が今や父親を助けてMORHANの渉外をこなしている、らしい。アルトゥール父は、ポルトガル語では強烈な演説をする(らしい)のに、英語はなかなか身に着かない。アルツール子は、英語でメールが出来る。
MORHANは、バクラウークリスチャーノ+アルトゥールで全国的にネットワークを広げた。 : ハンセン病は治る。 : ハンセン病の診断と治療を、草の根まで届けよ。 : 強制隔離の被害者には、公的賠償を。 など、ハンセン病対策の必要性を全国の自治体に認識させる強力な活動を展開すると同時に、偏見を恐れる患者や家族、差別を恐れ患者や家族を守る姿勢を明確にしている。 その一つに「テレハンセン」活動がある。 当事者組織によるハンセン病無料電話相談。全国どこからでも無料でかかる 800番台の番号を、リオの小さな事務所に待機するボランティアが受けて、あらゆる種類の「困った」に応えている。
設立から30年近く。大きな市民運動に発展しているらしいMORHAN。 近年は、製薬会社などとタイアップして、保健サービスのなかなか届かない地方の町や村に、「移動ハンセン病相談車」を走らせている。
トレーラーのような大型の車両は一部が「臨時の診療室」になり、訪れた地方の町や村で皮膚科医が相談に来た人を診察する。その独創性、行動力、組織力は世界のハンセン病当事者組織の活動の中で群を抜いている。
その「移動ハンセン病相談車」の側面には、「ハンセン病は治る」「ハンセン病のない○○○町を」と大きく書かれている。日本の「無癩県運動」とくらべて、複雑な気持ちを禁じ得ない。
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at 11:33
『遺伝病ではない』という警鐘 [2011年03月10日(Thu)]
ある研究者の方から、「ハンセン病は遺伝病ではない」と題した、発言文書を頂いた。
いまさら、どうして!?
海外の最近の基礎研究のなかに、疾患を「発症」する人としない人があるという事実の原因として、通常、個人の全身状態の他に遺伝的要素がかかわることがある。ハンセン病もこの種の疾患の一つであり、その研究論文のタイトルが「Leprosy as a genetic disease」(文字通り「遺伝的疾患としてのハンセン病」)という、センセーショナルな表現であることへの警鐘を鳴らすものだった。(Mammalian Genome誌 22,19-31, 2011)。
研究者が、(あまり誉められない)ジャーナリスティックなセンスで、注目をひくことを狙ったとしても、極めて危険なものを含んでいる。世界にはLeprosyというキーワードで検索を仕掛けている人は少なくない。メディアにも当然考えられる。
そして、権威ある医学ジャーナルに掲載された論文として、タイトルだけが、一人歩きするのが目に見えるようだ。
警鐘を鳴らされた日本の研究者の方に敬意を表すると同時に、機会をとらえて、世界の関係者にも知らせておきたい。
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at 23:14
ヤミン ハシブアン博士 [2011年02月25日(Fri)]
『人生を変える』貢献をした人への賞 とでもいえば良いのだろうか、Changing the Life Award という賞を、オランダのハンセン病NGO(NLR)が創設した。初回の受賞者は、インドネシアで長年全国ハンセン病対策の責任者であったヤミン ハシブアン博士(67才)と決まり、今年の世界ハンセン病の日を記念して授賞式が行われた。
ハンセン病に関する国際的な「賞」は少なくない。もっとも良く知られているのは、アメリカのダミエンダットン財団のダミエンダットン賞(USA)で, 1953年に創設され、第一回の受賞者は、アメリカのカービル療養所の壁の中から世界に発信した、当事者発言の第一人者 スタンレー・スタインだった。
この次に知られている賞は、インドのガンジー記念財団による、国際ガンジー賞。世界の各地でハンセン病のために力を尽くした人々が受賞している。
このほか1999年に、英国ハンセン病ミッション(TLM)が創設した、ウェルズレイ ベイリー賞(ミッションの創設者を記念した)がある。この賞は、ハンセン病という病気とそれに伴う困難を乗り越えて、多くの人々、とくに同じ病気に悩む人々に力と希望を与えた当事者に授与されている。
今年から笹川インドハンセン病財団が創設した 『尊厳の確立賞』もある。これは、インドのハンセン病コロニーの居住者たちの中から、努力して自立を達成したグループを表彰する。
それぞれいずれも意味のある賞であるが、その選考過程にはそれぞれの授与側の思惑があるようだ。賞の授与は、多分に広報活動としての効果もあり、それ自体は歓迎すべきことではある。
それでは今回の「Changing the Life」賞はどうだろうか。受賞者のYamin 氏は長年にわたりインドネシアのハンセン病行政に携わり、広く、保健サービスの中でハンセン病の診断治療の普及に勤めたことが評価されたとある。個人的には、ヤミン氏の功績として特記するべきと思うのは、インドネシア全土のハンセン病施設の歴史的な背景を含む情報を集め、整理し公開(DVD)したことではないだろうか。ハンセン病サービスの普及は、当の政策の責任者として当然の業務と言うべきだろう。
オランダというインドネシアの嘗ての宗主国の賞である。インドネシアのハンセン病対策には今でもオランダのNGOの支援が極めて大きい。政府の担当者は定年後オランダNGOの顧問などとして、ハンセン病対策に引き続き協力していくのが常。それだけに、初回の受賞者がインドネシアから出なくてはならなかったのだろうか。
「ヤミン先生の熱意と努力があったおかげで、ハンセン病の患者さんたちは、速やかに治療を受けることが出来た。治療が遅滞なく受けられる、ということは 『人生を変える』 こともある。」 Easy access to health services can change a life. とうのが受賞理由だとある。
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at 23:25
タイ紙の報道と見出し [2011年02月22日(Tue)]
タイの英字日刊紙The Nation のハンセン病特別記事は、サムニエンさんという高齢のご夫人がハンセン病をのりこえて幸せを見つけた人生を紹介した前向きな記事、といってよいだろう。
<リンク>http://www.nationmultimedia.com/2011/02/19/national/Lepers-find-hope-in-Chiang-Mai-30149022.html> しかし、記者の努力は編集デスク(多分)の無知、無神経な見出し語で台無しになってしまった。
Lepers find hope in Chiang Mai (らい病人、チェンマイで希望を見出す)と、国際的に禁句のLEPERの文字が大きく目を引く。この手の差別見出し語は枚挙にいとまがない。考えてみれば1930年代から、この言葉は差別用語として問題とされてきたが、いまだにメディアでの使用はあとを絶たない。しかし、最近はその都度、批判がメディアに届くようになった。 昨年秋の英国紙The Guardian の記事も、英国NGOその他の抗議で表現を変更し、同紙の編集部は「内規」でLeperの使用を禁じた、と伝えた。
The Nation 紙にも批判が届き、2日後、同紙は急ぎ見出しを改めて
Chiang Mai offers hope for afflicted とした。
これとても、問題なしとは言えない。手仕事をしつつ立派に生きるサムニエンさんは、一生涯「afflicted」つまり、病気の人」と呼ばれなくてはならない理由などこにもない。病気は、この女性の人生の一部にすぎないのだから。
ハンセン病の記事を前向きに書ききるには、書き手と編集の力量が要る。
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at 23:06
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