今、大学生の学ぶ姿勢を見ていて、正直、危機感を覚えています。
小学校、中学校からの延長線上で、なんとなく講義を受けている。
※僕もひどいものでしたが、それは棚に上げさせてください・・・
あなたは、何のために勉強をするのですか?
2度と来ない、大切な20代の時間とお金を、何に使っていますか?
それは、投資ですか?消費ですか?浪費ですか?
今回は、そんな私の思いを、私以上に上手に表現している
文章をご紹介します。
尊敬する友人の1人である、NPO法人ETIC.の由利さんが書かれた
文章です。是非、味わってお読み下さい。
※ご本人に了解を得て、掲載しています。
■薫陶
私の高校時代、定年近い古文の先生がいた。
毎回必ず寝グセがついた髪形(笑)で、いつも白衣を着用。
私服やパジャマも白衣だという生徒間での噂もあった(笑)。
名前は堀井先生という。
授業の声があまりに小さいので、
かなり静かにしていないと、何を話しているかも聞き取れない。
また、黒板に書く文字も達筆すぎて、読めない時がある(笑)。
都会の進学校ではまずお目にかかれないであろう、
ド田舎の公立高校ならではのユニークな存在である。
背も低く、見た目はかなり地味であるが、
キャラはかなり骨太で、強烈な堀井先生(ちなみに京大卒)。
授業の内容も、高校の通常の国語ではない。
堀井「小手先の受験テクニックなんぞ、
敢えてワシが教えるまでもないから、
教科書に載っている文法とかは各自で適当に読んどけ」
生徒「えーーーっ!」
堀井「自分で勉強して質問があったら、職員室まで聞きに来い」
生徒「・・・・・・」
堀井「勉強というのは、
他人から教えられるものではなく、まず自分でやるものだ」
そんな堀井先生による、教科書を全く度外視して進められた授業は、
味があって非常に面白かった。
ある時には、江戸時代に公募された川柳のお題が授業テーマ。
「切りたくもあり 切りたくもなし」という下の句に、
上の句をつけろという。
川柳なので、
5・7・5・7・7で単に文章が成立するだけでなく、
諧謔なり風刺がきいていなければならない。
生徒からの回答をひとしきり聞き、
「なかなか良い」とか「いまいち」とか「それは川柳ではない」と
批評を加えた後に、江戸時代に大賞に選ばれた内容を教えてくれた。
盗人を とらえてみれば 我が子なり
切りたくもあり 切りたくもなし
また時には、教科書には全く載っていない古文の解釈や、
『論語』や『孟子』の長い漢文のままの輪読会のような授業もあった。
いま思うと、まさに江戸時代の寺子屋のような雰囲気である。
単なる古文の内容のみならず、
東西の「歴史」や、カントやヘーゲルや西田幾多郎などの「哲学」も
織り交ぜたその授業を受け、以下のような考えが自然に染み付いた。
・受験勉強 = 家で各自勝手にやるもの
・学校の授業 = 教養を高めるもの
よって、
高3の受験シーズンの頃は、田舎過ぎて学習塾もないので、
大学入試の過去問をひたすら自分で解いては、
分からないところだけ堀井先生へ質問しに行った。
その質問に対しても、
「お前の持ってくる受験の質問は難しいのー。
今はよくわからんから、今夜調べて明日答える」
と必ず曖昧な答えはせずに、翌日にはきっちりと教えてくれた。
受験勉強の足しにはあまりならなかったが(笑)、多感な高校時代、
この先生の薫陶を受けられたのは、今でも有難かったと思っている。
ちなみに「なぜ勉強はしなければならないのか」というそもそもの
問いに対して、初めて納得感ある答えをくれたのもこの先生である。
ある日、そんな国語の授業中、生徒から次のような質問が出た。
なぜ、昔の人は和歌を贈られた際、
気の利いた返歌をすぐに返すことができたんですか?
確かに、歌会などで他人が詠んだ歌に対して、文字制限や季節感も
考慮して、即座にセンスよくレスポンスするのはなかなか難しい。
特に恋愛に関する歌は、感情の機微を31文字で表現せねばならず、
1日中、頭を振り絞っても満足いくものができるかどうか。
しかし、その素朴な質問に対して、堀井先生は一言さらりと答えた。
それは、四六時中、歌のことを考えていたからだよ
道を歩いている時も、食事の時も、人と話している時でさえ、
31文字に凝縮する美しいフレーズや表現を考え巡らし、
常に歌を心の抱いていたから、咄嗟の歌の投げかけに対しても、
当たり前のようにすぐ対応が出来たのだという。
つまり、歌を投げかけられてから考え始めるのではなく、
日頃の思考までもを、すべて31文字の和歌をベースに考えていて、
いくつもの表現方法を事前に用意していれば、ここぞという時に、
その局面に最も相応しいフレーズを発することが出来るのだと。
当然ながら、その事前に準備されたフレーズは、
実際に使われなかった(和歌として表現されなかった)フレーズが
大半であり、例えば、1つの最適な言葉や歌をひねり出すために、
事前に100個をストックしているようなものである。
しかし、その日の目を見ない99個がなければ、
実際に歌として表現される「珠玉の一品」は永遠に生まれない。
勉強をする意義もまさにこれと同じで、
単に生きていくだけなら、読み書きと簡単な足し算くらいができれ
ば事足りるのかもしれない。
しかし、それでは非常に不安が残るし、思考も限定される。
そして、何より人生に味気がない(潤いがない)。
決して表面には現れてこないかもしれないが、
「珠玉の一品」を生み出すのに不可欠な「大いなる無駄」が
勉強することの意義といえる。
いま、真剣に取り組んでいる「仕事」に対して、
・どんな時も常に考え、心に描き続けておくこと
・大いなる無駄なしに、名品は生み出せないこと
そんなことを教えてくれた、堀井先生のオモローな授業でした。
『君たちはいま、
地上100メートルの高さにある平均台を歩いている。
ただ先に進むだけなら、幅が20センチもあれば充分なはずだ。
しかし、それだといつ落下するかと不安で怖いだろ。
だから、
決して足は触れない(最低限の必要性はない)かもしれないが、
平均台の幅をなるべく広くしておいたほうが安心できる。
人生において、それが勉強する(教養を高める)ことの意義だ』
(1995年 府立峰山高校 国語教師 堀井)