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ハマっ子先生気まぐれ綴り

無理難題、魑魅魍魎、言った者勝ちがまかり通る現場・・・そんな中、ひと時の安らぎを得るために、気がむいた時、思いついた時、かなり気まぐれに綴っていきたいと思っています。今後とも、よろしくお願いいたします。


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星の王子様 [2007年09月26日(Wed)]
 世の中、ハンカチ王子やらハニカミ王子やらでにぎやかですが、星の王子様というサンテグジュペリの小説を読んだ方も多いかと思います。
 
 私は残念ながら読んだことはないのですが、その小説の中にバオバブという木が登場します。

 6月にアフリカ視察へ行ったとき、なんとも奇妙な木が目につきましたが、それがバオバブの木だと初めて知りました。

 マダガスカルのそこは観光スポットになっており、夕陽に映えるバオバブの景色は最高でした。


<恋人バオバブと呼ばれる木>
 
 
 さて日本財団HPアフリカ実情調査に参加したメンバーの報告書がアップされています。

 恥ずかしながら私の拙い報告書もアップされておりますので、お暇なときにでも覗いてみてください。

誤字脱字、文の読みづらさはご容赦くださいすいません

 それにしても参加者の皆さんの文章のうまさにはびっくりしました。


<真っ青な空にそびえ立つバオバブ>
 


<夕焼けとバオバブ>
 
ラジオ体操 in Madagascar [2007年08月23日(Thu)]
  ラジオ体操昭和3年、昭和天皇ご即位の大礼を記念して、当時の逓信省簡易保険局が制定し、日本放送協会の協力を得て「国民保健体操」の名称で、国民の健康維持増進を目的として実施されたのが最初です。

 その後、“ラジオ体操のうた”が作られたり、戦争でGHQに中止させられたり、紆余曲折しながら、昭和26年5月に現在のラジオ体操第一が制定され、翌27年6月ラジオ体操第二が制定。
現在の“ラジオ体操の歌(藤浦洸 作詞、藤山一郎 作曲)”が発表されたのが、昭和31年3月のことでした。

ちなみに、ラジオ体操第一は、老若男女を問わず、誰でもできる運動、ラジオ体操第二は、やや運動量を高めて身体を鍛え筋力を強化する体操になっています。

余談ですが、藤浦 洸さんはジェスチャーに出ていましたし、藤山 一郎さんは、紅白歌合戦の最後に必ず出てきて指揮をしながら蛍の光を唄っていましたね。古き良き時代の話ですな…
 
 我々が子どもの頃は、学校でもさまざまな場面でラジオ体操をやらされた記憶がありますし、夏休みになると朝早く起きて近くの広場へ出かけ、ラジオ体操をおこない、カードに判子を押してもらうのが楽しみなものでした。
もっともラジオ体操の前後に、せみ取りをしたり、カブトムシやらクワガタやらを探すのが目的だったのかもしれませんが…

 しかし、現在は小学校でもラジオ体操をやらない子ども(先生)が多く、ましてや昔のように地域でラジオ体操を朝早くからやることも少なくなってきました。
ひどい話になると、早起きして子どもが集まって体操をすることが騒音だとして、苦情が来るということもよく聞く話です。

 怒まったくなにを考えているのやら・・・怒

 前置きが長くなりましたが、騒音など何の心配もないベレーブ村で、もちろん音楽はありませんが、ラジオ体操もどきを教えてきました。
子どもたちは、見よう見まねで楽しそうにやっていました??
もし今度ベレーブに行くことがあれば、ラジオ体操のCDをプレゼントしたいと思っています。


<まずは整列!>



<腕を大きく後ろまで〜>



<はい、かかとを上げてぇ〜>


 
怪しげな日本語教室 [2007年08月22日(Wed)]
 村人の手により見事なまでに解体された牛は、胃袋の中に入っていた大量の草、腸、それから角を除いて、翌日のために調理されました。


<解体作業を見守る子どもたち>

聞いたところによると、なぜかこちらの人は腸は食べないような話です・・・。
ホルモン、美味しいのに何ででしょうね?

 再び時間があったので広場へ出かけると、子どもたちがわいわいがやがや集まっています。デジカメで写真を撮ってすぐに見せてあげると、自分の姿を見て恥ずかしがりながら、とても喜ぶのですが、運悪く私はその場では使い捨てカメラしか持っておらず、「このカメラは安いからすぐに見ることはできないんだよ。」というようなことを、怪しげに子どもらに話しているのがこの写真です。

 
<“た・か・い・カ・メ・ラ”&“や・す・い・カ・メ・ラ”>

 意味はわからなかったと思いますが、
“た・か・い・カ・メ・ラ” “や・す・い・カ・メ・ラ”と即席の日本語教室を開きました。

 それから、“体操を教えろ”との業務命令が下りましたので、子どもたちにラジオ体操を教えてあげることにしました。

・・・つづく・・・
生贄の牛 [2007年08月20日(Mon)]
 飛び飛びになって読みづらいことをお詫びしますが、またアフリカの話題に戻ります。

 いよいよ「アフリカ実情調査」も佳境に入ってきました。

 約8時間をかけて悪路を走ってきた我々の目に飛び込んできたのは、ものすごい数の人・人・人…
それこそ黒山の人だかりです。といっても、アフリカの人たちは原色の服がとても似合うので、黒山と言うよりカラフルな集団といった方がよいのかもしれません。


<こんなに歓迎されたのは初めてです>


 ‘ここが目指す村だ’と気がついたときには、もうすでに村人に囲まれ、日本式に言えば、ドンちゃん騒ぎの歓迎を受けました。太鼓を打ち鳴らしながら軽快に踊る村人たちは、舞い上がる砂塵など意にも介さず、我々一人一人の腰に布を巻きつけ、教会の方へと先導します。
呆気にとられながらも、歓迎してくれてることが理解できた我々は、村人をぞろぞろと引き連れ移動を続けました。


<左端に怪しい男が一人>

 ここベレーブでは、小学校の教室を借り、窓などないのでほとんど野宿状態と覚悟していたのですが、思いのほか屋根のあるしっかりした建物が我々の寝場所でした。
なんとここには水の出るシャワーもありました。

中はいくつかの部屋にしきられており、ベッドも多少はありますが、床にも直接、シーツのかかったマットが敷いてありました。たぶんVIP待遇なのでしょう・・・

 さらにVIP待遇であることがわかったのは牛の解体が行なわれたときです。
村人にとって大切なお客様が来たときのみ、貴重な家畜であり食糧である牛を一頭解体し、村人全員で食べるのだそうです。
 ひと休みしていた我々のところに、“これから牛を解体するから見に来ないか…”と誘いがあり、物珍しさで見に行きました。

 その場所には子どもを含めた大勢の村人が集まっており、そこに果たして一頭の牛が連れてこられました。
牛はこれから自分の身に起こることが理解できているのか、鳴き声もあげず観念している様子です。周囲は、牛の静けさと村人の歓声で異様な雰囲気を感じました。

 男たちは、血が飛び散らないように被う木の枝葉と斧を用意し、おもむろに牛の首を捻り倒します。この時ばかりはさすがに牛も抵抗しましたが、それでもひと声もあげません。
たぶん村の英雄たちなのでしょう、数人の男たちによって見る見るうちに解体されていきました。


<生贄となった牛>

 
 日本だったら間違いなく子どもには残酷だからと見せない親ばかりでしょうが、ベレーブでは子どもたちもしっかりとその様子を見ていました。 
・・・まさに生きた命の授業です・・・
 翌日、よく煮込まれた牛肉がお昼に出てきました。私も少しいただきましたが、たいへん美味しかったです。
村人たちも、めったに食べられない牛肉が食べられて、満足そうに見えました。



 
4WDの威力! [2007年08月13日(Mon)]
 マダガスカルは、長い間フランスの植民地としての歴史が続きましたが、1960年に独立を宣言しました。日本の1,6倍の面積があり、民族はアフリカ大陸系とマレー系に分かれます。明らかにマダガスカル島のアフリカ大陸側とインド洋側では人の顔つきが違い、水田も多く、田園風景は古き日本の農村を思わせます。

 マダガスカルのの公用語はマダガスカル語とフランス語です。
(2007年4月、英語も公用語とされました)
日本財団の職員は、皆、英語が堪能で、英語が公用語であるマラウィでは通訳は必要なかったのですが、今回ばかりはさすがに依頼することにしました。


<通訳の二人。左からGersica(ジェシカ)とJino(ジノ)>
 
 Gersica(ジェシカ…女性)とJino(ジノ…男性)です。

 二人とも現地の日本語学校で日本語を学び、荷物を運んだり、チェックインを済ませたり、通訳以外の仕事も手伝ってくれて、たいへん助かりました。

写真を見てもわかるように、二人とも明らかにマレー系の顔立ちをしており、人柄もとてもよい好人物でした。

 6月20日、我々はマダガスカル訪問のクライマックスである
「マリードラパッション小学校」へと向かいました。

 ムルンダヴァから陸路移動で190kmの山奥にある、ベレーブという村が目的地です。
普通ならば2時間ほどで着く距離ですが、何せここはアフリカ大陸。道なき道をひたすら走り、身体は常に前後上下左右に揺れながらの4WDでの旅です。
神父とシスターが乗る1台を加えて、合計9台を連ねての大移動となりました。


<途中の村でひと休み。中央は神父様>


 アフリカに来て4WDの凄さを始めて知りました。
とにかく凄い!  の一言!
時には、川の浅瀬を走ったり…岩場を登ったり…日本で走っている4WDが可哀想になるくらいの八面六臂の大活躍でした。
やっぱり適材適所というか、活躍できる場を作ってあげるということは、車でも人間でも同じですね。4WDが何気に誇らしい顔つきをしているように見えました。

<4WDの威力は凄い。川を渡っています。>



<道なき道をひた走る>




 
JICAの活動…マダガスカル [2007年08月10日(Fri)]
 マラウィ編でも、現地でのJICAの活動を紹介しましたが、マダガスカルでも日本人が活躍しています。
 マラウィでは、1971年からJICAの隊員派遣が始まったのですが、マダガスカルでのJICAの活動はまだ歴史が浅く、国内での政治的混乱もあったことから、2002年末から始まりました。
 しかし、派遣された隊員はマラウィに負けず劣らず、献身的にマダガスカルでの支援活動に苦心しています。
 
 我々がアンツィラベで視察した職業訓練校(ビジットセンター)にも女性のJICA隊員がおり、教科書やノートを買うお金がなく、ストリートチルドレン化しそうな子どもたちにマダガスカル刺繍の技術を指導していました。

<作業中の少女たち>


 施設内では小学生の授業も実施していましたが、なぜか一人ポツンと建物の外にたたずんでいる少年が気になりました。

<ポツンと寂しそうでした>



<変な日本語を教えている訳ではありませんよねっ!>


 また、JICAは、保健衛生面での啓蒙活動も行なっており、“手を洗おう”というポスターやTシャツを作って、子どもたちに実践を促しています。

<教室に掲示してあったポスター>


<食堂の壁>



物乞いとプスプス [2007年08月07日(Tue)]
 6月17日、シスター遠藤のお墓参りを済ませた我々は、バスでAntsirabe(アンツィラベ)に向かいました。
 マラウィは日本と同じで、車は右ハンドル・左側通行ですが、マダガスカルは逆で、乗っていてなんとなく違和感があります。山道を延々と走り続け、あたりは真っ暗。電力事情が悪いのか、家々が見えてきても街中はかなり暗く、8時過ぎにやっとホテルに到着しました。

 バスを降りると、白い大きな布を持った数人が我々を待ち受けています。
「あ〜、歓迎してくれてるんだ…ハート」と一瞬思いましたが、すぐにそれは大きな勘違いだと気づきます。彼らは観光客相手に刺繍を施した布を売りつけようとした商人たちでしたハート割れ
それを歓迎と勘違いするとは…無知というのは恐ろしいものです。

我々の到着時刻がわかるはずもなく、彼らは、外国人が泊まるホテル近辺で、延々と観光客が到着するのを待ち続けているのです。そして、そこまでしなければ彼らには収入の当てがないということにもつながります。

<早朝のホテル前の様子・・左側がホテル>

 翌朝、目が覚めて(最近、結構朝は早いのです悲しい)外を見ると、子どもを含む何人もの人たちがホテル前にたたずんでいます。例外なく、ボロ布のような服を纏い、全員裸足です。恐らく弟妹でしょう、小さい赤ちゃんを背負った少年、女性、老人…さまざまな人たちがホテルから人が出てくるのを待ち構えています。

 そのホテルでは、朝食をとるために一度玄関から外へ出て食堂へ入るのですが、彼らはすぐに近づいてきて声を掛けてきます。言葉はわかりませんが、その雰囲気から明らかに物乞いです。
 私にはまず赤ちゃんを背負った少年が近づいてきました。次にその少年より少し幼い男の子、そして、最後に少し離れたところにポツンと立っていた小柄な女性がやってきました。
無碍もなく断り様子を見ていると、驚くなかれその3人はなんと親子だったのです。

 早朝から親子で物乞いです・・・(父親らしき男はいませんでしたが)。
少年たちは窓越しに我々の朝食の様子をのぞき見しながら、しばらくホテル前をウロウロしていましたが、マダガスカルの貧困の一部を見たような気がして、なんともやりきれない気持ちになってしまいました。


<ジッと見つめる少年たち>


 だんだんと道を行き交う人が多くなり、日本でいう人力車がたくさん走っています。
こちらではプスプスというそうで、手軽で比較的安い値段で利用できるようです。

 マダガスカルはインフラ整備が遅れており、幹線道路も穴があちこちに開いており、運転手はそれを見事に避けながら走ります。しかも中心部に近づくと渋滞がひどく、プスプスはバイク感覚で近距離の移動に使われているようです。
 しかし、先ほどの物乞いをしている人々にとっては、到底利用することができない値段なのでしょう…


<街中を走るプスプス>



シスター遠藤 [2007年08月06日(Mon)]
小説家であり、日本財団前会長の曽野 綾子氏は、海外邦人宣教者活動援助後援会Japan Overseas Missionaries Assistance Society 通称JOMAS)というNGO組織により、海外で働くカトリック系の神父や修道女に対して、資金や物資の援助を行なっています。

 曽野さんとマダガスカルで働く日本人シスターとの関係は、1983年から84年にかけて毎日新聞の朝刊に連載された『時の止まった赤ん坊』『神様、それをお望みですか』に詳細にありますが、簡単に紹介すると次のようになります。
 
 曽野さんは『時の止まった赤ん坊』を執筆するに当たり、マダガスカルに3週間取材で滞在し、その際、取材協力を惜しまなかった日本人シスターの遠藤能子さん(当時、アヴェマリア産院で助産婦兼看護婦として働く)とその病院をモデルとし、一人の日本人修道女の生活を書き上げました。
 
 シスター遠藤として皆に慕われていた遠藤さんは、昨年6月のアフリカ実情調査の折、曽野さんらと再会する予定でしたが、事情によりアフリカ訪問が中止となり、再開は叶わず…。
そして同年12月、体調を崩していたシスター遠藤は、搬送中の救急車の中で天に召され、永遠の眠りについたのです。
 したがって今回のマダガスカル訪問のねらいの一つは、シスター遠藤のお墓参りも含まれていました。

 曽野さんを中心とした支援活動は1972年ごろから始まり、曽野さん個人のお金だけに限らず、全国から寄せられる寄附によってJOMASの支援活動は成り立っています。

 今回のアフリカ訪問での最大の難関であろうと思われる、ムルンダヴァから190kmの陸路移動(道なき道を4WDで移動する。予定行程時間は8時間ほど)の後、ベレーブという僻村にあるマリードラパッション小学校の建設にもJOMASが資金援助しており、その他、アフリカ各国への寄附総額たるや、ものすごい金額となります。

 現在、マダガスカルには2人の日本人シスターが滞在し、アンツィラベのアヴェマリア産院にはシスター牧野が、アンタナナリボの聖フランシスコ病院にはシスター平間が、献身的に働いていらっしゃいます。

<手前より S・牧野 曽野さん S・平間>


 両方の病院を視察させていただきましたが、どちらもたいへん清潔で、医療器具の不足は否めないものの、それを最大限活用しての医療には、国立病院など比較の対象にならないほど人々から信頼されています。また、そこにいるだけで人々が安らぐことのできる空間が存在していました。

 それら二つの病院では、命の尊厳さと生きる希望を感じることができましたが、それ以外に視察したほとんどの病院は、薬がないどころか医師がいないなど、絶望を感じざるを得ないアフリカの医療事情を垣間見ることができました。

 私もシスター遠藤の墓前に花を手向け、今までのシスターのご苦労を労い、これからの旅が無事に進むようお願いしました。

<シスター遠藤の墓前にて>

 
T I A (This is Africa) [2007年08月03日(Fri)]
 しばらく間が空いてしまいましたが、「アフリカ実情調査」の報告を再開したいと思います。

 6月17日、我々一向は、ヨハネスブルグからマダガスカルの首都、Antananarivo(アンタナナリボ)に向けて出発しました。
 前回、ヨハネスブルグでは「アフリカの洗礼」を浴びてしまいましたので、多少のトラブルは予想していましたが、比較的スムーズに出国手続きが終わり、ホッとして後は飛行機に乗り込むだけとなったのですが、同じゲートの我々の前の便が、時間が過ぎても一向に飛び立ちません。
なにかトラブルでも・・・と思いきや、予定時間を30分ほど過ぎた後、一人の女性がゆうゆうと現れ飛行機に乗り込みました。

 なんと飛行機は時間に遅れたその女性を待っていたのです…。
不思議だったのは、待っている他の客が文句を言うでもなく、さも普通の光景のようにこの状況を受け入れていたこと。
 
 我々はアフリカ滞在中、この件も含め時間にルーズだったり、予約していたことが約束通りに準備されていなかったりすることを “T I A”・・・(This is Africaの略)と半ば自嘲気味に、また合言葉のように何度も口にするようになるのです。

 「T I Aだから・・・仕方ないよ・・・」と口にすると、なんとなく怒りが消え、あきらめのつく魔法のような言葉でした。(かなりネガティブな発想ですが…)

 結局1時間ほど遅れて出発した我々は、午後2時過ぎにマダガスカル共和国に降り立ちました。

 マダガスカルに着いた我々の最初の予定は、「マリアの宣教者フランシスコ会」のシスターであり、昨年12月にお亡くなりになったシスター遠藤(能子)さんのお墓参りでした。

 次回は、日本財団前会長で小説家の曽野綾子さん(今回のアフリカ実情調査に同行)とマダガスカルで活動する日本人シスターとのつながりを紹介したいと思います。
「Heart of Africa」 [2007年07月24日(Tue)]
マラウィは国家としての紛争の経験があまりなく、穏やかな国民性で知られています。

実際、見ず知らずの我々が声を掛けたり手を振ったりしても、屈託のない笑顔で挨拶を返したり、手を振り返してくれます。

 まさに 「Heart of Africa」 です。

 マラウィ滞在3日めに、クルーザーボートに乗船し、シレ川からマラウィ湖を北上しました。(7時間の船旅です)
その途中、カヌーに乗って漁をしている人や、湖岸に村人たちがいたりするのですが、どんなに遠くからであっても我々が手を振ると振り返してくれますし、子どもたちは我々の船を見ると、いっせいに水際まで走って来て、手を振りながら大きな声で叫んでいます。
(雰囲気としては「オォ〜〜イ」と言ってそうな…)

 余談ですが、この船旅では、リウォンデ・ナショナル・パークを右横に見ながら進んでいったのですが、途中、カバが大あくびをして迎えてくれたり、遠くに象が見えたりと、アフリカの野生動物を少し楽しむことができました。

 6月16日、我々は、7日間(6/9〜15)滞在したマラウィを後にし、リロングウェ空港から、経由地である南アフリカのヨハネスブルグへ、再度飛び立ちました飛行機


<ワールドカップを控え建設ラッッシュの南アフリカ>


 このヨハネスブルグは、アフリカの洗礼を浴びた最初の地。
私としては、気持ちを引き締めていったつもりが、この空港で大きな失敗をやらかしてしまいました。

 現地のシスターや学校へのお土産として、薬・食料・文房具・サッカーボールなどを。また、我々の緊急用の食料・無線機・蚊取り線香・寝袋・蚊帳などを段ボール箱に詰めて、16箱(そのうちの1個は、マラウィChileka空港で行方不明)日本から持っていったのですが、私がその数を勘違いして、ヨハネスブルグ空港で、ひとつ受け取り忘れてしまったのです汗
 
「お客さん、もう1個同じ箱がありますけど。」と教えてくれるのは日本。
でもそこは…南アフリカでした…残念…悲しい
 
 訪問先でお土産を渡して残りの荷物をまとめたり、先に何個か車で運んでもらったりと、途中出し入れがあって、ダンボール箱の数が変わったのも混乱した原因なのですが、きちんとメモをし、確認しながら受け取ればそんなことにはならなかったのに…

 人間の記憶というものは、いかにあいまいなものか…
今回ほど痛感したことはありません。さすがにこの時は凹み悲しい、そして自分に腹が立ちました怒り

 受け取り忘れたダンボール箱には、よりによって、マダガスカルで絶対に必要であろう、携帯用アーミースコップと無線機などが入っていました。悪いときには悪いことが重なるものです。
そして、さらに、忘れたことに気がついたのは、翌日、マダガスカルのアンタナナリボ空港に飛ぶために、ヨハネスブルグ空港で荷物をチェックインする寸前・・・汗

 仕方がないので、現地の旅行業者に調べてもらうよう頼み、暗い気持ちでマダガスカルへ飛び立ちました。

 機内から見たマダガスカルも赤い大地でした…


<機内からの風景>
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