175和歌山県・九度山・・・・・・・山中にへばりつくかな十勇士 [2008年11月08日(土)]
「九度山」は「くどさん」ではなく「くどやま」と読むことすら知らなかった私だが、なぜかこの地名に出会うとドキドキしてくる。その原因が「真田十勇士」にあることは察しがついている。そう、猿飛佐助に霧隠才蔵である。子どものころ熱中した漫画の興奮が、この土地の名とともに蘇ってくるのだ。かつらぎ町天野から町石道を下って来た私は、いつの間にか九度山町に入り込んでいて、ドギマギしたのだった。
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真田十勇士は、チャンバラごっこ世代の少年にとっては最高のヒーローなのだ。知将・幸村を扶け、憎っくき家康に挑んで行く勇士たちは、忍術の呪文のように子ども心を呪縛したのである。荒唐無稽なその活躍に喝采していたのだが、案外、彼らのチームプレーに共感を覚えていたのかもしれない。
「真田」であるから信州・上田が舞台のはずだが、物語には九度山という地名が重要な意味を持って頻出していた。漫画少年がまじめにストーリーを追っていたはずがないから、その土地がどこにあるのかきちんと確認したことはなかったのだが、しかし「九度山」と耳にするや、ボーンと煙玉の中から佐助や才蔵が飛び出してくるような興奮を覚えるのである。
九度山町は紀ノ川の支流、丹生川の渓谷に張り 付いて暮らしているような街だ。弘法大師が高野山から麓の慈尊院へ、月に9度も母に会いに来たからついたという土地の名だが、駅前商店街に「真田のみち」なるゲートがかかり、「まちなか休憩所」には六文銭の旗が翻っている。電柱にも十勇士のイラストを描いた「歴史街道」の案内図が巻いてあるという具合で、街じゅうが真田一色である。
だから当然、幸村閑居の屋敷跡である「真田庵」は、町最大の観光資源であり、狭苦しい山間 の街中に傲然と二階屋の大屋根をかざしているのである。関ヶ原の戦いで豊臣方に付いた幸村は、父昌幸とともに14年間、この地で逼塞状態にあったというのだが、漫画の中の九度山は、大阪冬・夏の陣に向けて謀を巡らす、息つく暇のない舞台であった。
それにしても家康は、西軍に組みした武将をすべて殲滅したわけではない。戦国の世とはいっても、何が何でも殺してしまう、ということで はなかったのであろう。そもそも日本人は「死刑」を好まなかったのではないか。古代からある「流刑」とは、死を与えるに等しい孤島への流罪ではあるけれど、そこで何とか生き延びるなら、それは見逃すという刑罰ではなかったか。
伊豆七島の神津島で、石田三成の末裔の墓と伝えられる墓地に案内されたことがある。徳川政権は反逆の可能性を摘み取ったあと、三成の血を絶やさないことを黙認したということなのか。流刑や幽閉という手法は、権力者にとって心にかかる負担の少ない刑罰だったのだろう。真田庵で、そんなことに思いを馳せた。
幸村は、義経や楠木正成らと共通する歴史の人気者だ。同じ敗者の側でも、光秀や三成は今ひとつ人気が出ない。その違いを掘り下げて行くことは、日本人の心情を分析することになって行くのだろう。まち起こしにつながるなら、たとえ敗残の将であろうとも、あるいは架空の勇士たちでも、どんどん活用したらよろしい。(2008.9.3)
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Posted by
街歩人
at 14:40
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近畿
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