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良心について[2017年12月29日(Fri)]
長文ですが、この一年を振り返って少し書かせてくださいね。

子ども時代に育っていく良心が育ちにくい時代になったという不安を、ふと感じる場面や出来事があった一年でした。勉強不足を顧みず、少し感じていることを書いておこうと思います。

テロ対策や防犯のためと監視カメラがつけられ、監視社会が広がりつつあります。公共施設内で、本来鍵をかけずに、誰もが気軽には入れるお部屋であってほしい空間にも鍵をかけて管理する。公共施設は不特定多数が利用するので、わからないでもありませんが、学校でも、子どもによるトラブルがあると、その部屋の入口に鍵が取り付けられ、子どもは日々成長しているのに、一年たっても鍵はずっとかけられたまま、見直しはなく過ぎていくなんていうこともあったり・・・
次世代に残したい地球環境のことよりも、目先の利益を追求する、今だけ、自分だけ、お金だけの大人。そして共謀罪の曖昧で不安がいっぱいな内容。
良心とは、本来、監視や管理で縛られた物理的空間や人の関係性のなかではなく、自由な空間や大人からの強制的な力が働かない関係性のなかでこそ、育っていくものではないか。また、大人自身のなかにある良心に基づく責任の主体としての判断や社会との関係性を見て、育っていくものではないか。そんなふうにも思います。

良心は、時代と共に、あるいは国によって変化するという見方も一部ではあるでしょう。江戸時代まではある意味よしとされた仇討ちは、現代社会では殺人であり犯罪です。
また、子どもたちが引き起こす社会的に不適切な行動、万引きやいじめといったことは良心の育ちというよりも、子ども自身が疎外や孤独を紛らわしたり、誰かに気づいてもらいたいとSOSとして生じることを考えると、良心とは何か、道徳とは何か、あらためて考えさせられます。

一方で昔から、「お天道様が見てござる」といった、誰も見ていなくても、人としてやってはいけないことはやってはならない、またよいことも人が見ていなくとも率先してやれるかどうか、それは良心の育ちと直結する価値観であったようにも思います。
そう考えると、良心というよりも、実はもっと深いところ、魂や宗教ともつながっているのかもしれないとも思います。

けれども戦前から敗戦までの日本を考えると、価値教育と宗教が生み出す危険性や個人の思想信条の自由よりも、国家権力が強く個人を縛る歴史があり、そのような時代に戻ることはあってはならないというある意味賢明な判断は、人間よりも大きな力の存在がこの世にあることを前提とした教育は公教育では難しくなりました。ますます科学技術は進化していく21世紀にあって、人間の力の限界を自覚した謙虚な選択をしていく力はどうしたら育まれるのでしょう。とはいえ、今現在の子どもや親をめぐる様々な課題を理由に、国による道徳教育や家庭教育支援が戦前回帰のような形で復活することは避けなければいけないのはいうまでもありません。

めざす方向をあやまることなく、個人の尊厳を互いに大事にする社会、子どもが幸せにすごすことのできる社会をめざして、そのための取り組みを、ささやかながら、身近な地域でまちの縁側からも尽力していきたいと思います。
この身近な地域での取り組みこそが、個人個人を大切にする視点を失うことなく前へすすめることができると信じています。

2017_1028_122613-P1070036.JPG

*写真は秋のニコニコキッチン さんまを炭で焼いて、ごはんをくどで炊きました。お味噌汁の里芋は縁側の小さなスペースで育てて、子どもたちと収穫しました。お味噌は今年の2月につくったもの。



Posted by 栗栖真理 at 00:05 | えんがわの思い | この記事のURL | コメント(0)
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