天と地が転倒するなりポセイドン [2016年08月31日(Wed)]
『ポセイドン・アドベンチャー』はパニック映画として名高い。1971年の公開だが古びた感じがしないのは、豪華客船転覆という悲劇がスリリングなだけでなく、人間ドラマが素晴らしいからだ。
古い映画だから特撮は稚拙だ。客船の模型をプールに浮かべて津波を起こしてはいるが、今時のVFXの凄い映像を見慣れた身には物足りない。だが、絶体絶命の岐路に立たされた時、いかに冷静に行動するかを問う珠玉の物語だと思う。動くか留まるか、右か左か、上か下か。運も含めて選択は生か死に直結する。 私たちは地平に暮らす。生死の境に立ったとき天地は逆転する。比喩としての心理的な逆転にとどまらず、ポセイドン号は180度ひっくり返った。現実と比喩がリアルな直球となって見る者をハラハラさせる。 天井が下になった巨船内でスコット牧師(ジーン・ハックマン)は乗客を導こうとするが、乗組員など他のリーダーもいて言うことを聞かないメンバーはたくさんいる。映画館の観客は彼らが生還し、他の者は死ぬことを知っている。だからひっくり返った船の中程に留まることがいかに危険かがわかるが、彼らにその認識はない。むしろ異端児の牧師の言うことには耳をかさないという選択肢は常識的だ。しかも数十分前にはニューイヤーパーティにドンチャン騒ぎをしていたのだから、目の前の惨状を冷静に見ることができようはずはない。 スコット牧師には確信があった。上へ上へと(つまり船底へ向かって)逃げないと浸水することは必定。真冬の海水に人間はひとたまりもなく溺れる。助けは全く期待はできないと。自分に従ってきた乗客や乗組員を従えて進んだ。唯々諾々と従う者もいれば、独裁的だと嫌って反発する刑事もいた。 スコットは決断するとき誰の顔色もうかがわない。ここにいる全員を必ず守るという強い決意がある。自分だけという欲はなく、無私を貫いたからこそ皆が信じて従った。最期は非業の死を遂げるけれども、その死によって彼の無私が完成された(もちろん彼も生還したかったはずだ)。どこまで苦しませるのか、生贄が欲しければ私をくれてやる、と神に言い放ったシーンが印象に残る。 リーダーのあり方を考えた。日本人の集団ならば、皆さんご一緒に、と合意をとりつけるうちに時間切れになるだろう。民主主義とはみんなで話し合って誰も責任を取らない状態になることではなくて、誰か能力の高い者に権力を集中させてフリーハンドで動けるようにするのが欧米流の民主主義だということがわかる。 ポセイドンはギリシア神話の神。海と地震を司り、ゼウスに次いで強い。その名を冠したポセイドン号が津波にやられるとは皮肉な設定だ。怒り狂う地球という神にはかなわない。強大な自然現象は人間を激しく揺さぶる。 (待宵草よ。宵を待って何をしようというんだね。可憐な黄花は道端に) |