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ほうれん草食べてポパイは強くなり [2015年01月31日(Sat)]

fumihouse-2015-01-31T21_57_41-1-thumbnail2.jpgある管理職さんは「ほうれんそう」を実践しています。いわゆる、報告・連絡・相談のほうれんそうではありません。

[ほう]けている
[れん]続してくだらないことを言う
[そう]そうに帰る
※ぼっーと呆けて暇そうにして、やたらとおやじギャグを連発する。用事がなければ定時になったらさっさと帰るという管理職。

[ほう]針を明確に示す
[れん]続して支援する
[そう]そうに動く
[そう]そうにはしゃべらない
※部下の行動指針を具体的に示し、困っている様子が見えたなら直ちに動いてサポートする。そして軽はずみに口は滑らさない管理職。

上記の「ほうれんそう」をふだんから怠りなくやっておくと、実際の[報]告、[連]絡、[相]談も上手く効いてくるようです。素敵な話を聞けました。今日と明日主催をしている平成26年度青少年育成アドバイザー養成講座でのお話です。
熟練の技に感嘆一万時 [2015年01月30日(Fri)]

fumihouse-2015-01-30T18_33_51-1-thumbnail2.jpg≪一日一回 これは上達の秘訣≫
これはある標語カレンダーに載っていたものだよ。地球が1日一回転するごとに一回やり続ければ能力は磨かれるんだと。

なるほど、確かにそうだね。継続は力なり。毎日繰り返せば熟練の度を増していくわけさ。どんな分野でも一万時間が熟達の目安らしいよ。1日3時間で1年たつと千時間、さらに10年で一万時間。

毎日続けることは簡単なようで難しい。しかも3時間を毎日やろうと思ったら大変なこと。仕事としてやるか、強制でもされない限り無理だろうと思うかもしれないね。

でも毎日やることって多いと思うんだ。歩く、走る、スマホで文を連ねる、髭を剃る、人に話しかける、通勤で景色や人を眺める、上司や教員を観察する、テレビを見る、寝る、歯を磨く,,,,,。あれやこれや限りない。

漠然と漫然と受け身でやっていたら熟練はしないよ。より上手く、より美しく、より楽しくするにはどうしたらいいのかを考えて実践してまた工夫する、それを繰り返していくんだ。いわゆるPDCAサイクルってやつだね。

キミもボクも何かやってみようよ。続けてみようよ。きっと新しい世界が見えてくるに違いないさ。
デジタルとアナログつないで3年半 [2015年01月29日(Thu)]

fumihouse-2015-01-29T18_45_20-1-thumbnail2.jpg★2015年3月16日正午放送終了
☆ご覧のアナログ放送(デジアナ変換)は2015年3月16日正午で終了します。対応はお急ぎください。対応方法はSTBの設置やデジタルテレビへの買い換えです。ご不明な点は出雲ケーブルビジョンにご相談ください。

以上、わが家の小さなテレビにずっと流れ続ける字幕である。3年半前にテレビはデジタル化されて、アナログ放送は見ることができなくなった。しかしこの小さなテレビはそのままにしてあった。1日わずか5分。朝わたしが着替える時にしか使わないこともあって、そのままにしてあった。年末から表示が代わった。より切迫感があるではないか。

4年ほど前に何万もの世帯が「デジタル難民」化すると騒がれたが、どうなったのだろう。最後のさいごでテレビを買い換えたのか、そのままテレビ放送を見なくなってしまったのか。いい番組もあるが、多くは見ても見なくてもかわりはしない。

ともあれ、3月16日になったらこのテレビはオシャカになる。幸いに2台はデジタルだ。それで十分。
殺すことそこまで好奇のことなのか [2015年01月28日(Wed)]

fumihouse-2015-01-28T18_49_53-1-thumbnail2.jpg人を殺すことのメリットは何だろう(あの女子大生にとって)。

・「人を殺してみたい」願望が達せられる
・「ついにやった。」とツイートして注目される
・家の経済や部活のことでモヤモヤした気分が晴れる
・親切だけど近頃ウザくなってきたおばあさんが目の前から消える

一方でデメリットは何だろう。

・手斧で切っても人はなかなか死なないから首を絞めなくてはならなかった
・おばあさんは消えるが、アパートの風呂に遺体が残り信じがたいほどの腐臭を発する
・帰省してみたものの、気になってしょうがない
・誰も見ていないにしても、いずれ足がついて逮捕される
・同級生から「明るい子」と言われていたのに評価が地に落ちる
・殺した女性の家族や知人から恨まれる
・大学から除籍になる
・親や親族とも今までどおりの関係ではいられない
・裁判でははっきり覚えていない記憶を何度でも反芻させられる
・世間からは反省の態度が見られないとバッシングを受ける
・懲役刑を受けて刑務所では年少故にイジメられる
・社会復帰は相当困難で就職や結婚も難しい
・快適な生活を送ることは事実上無理
・軽はずみに殺したことを一生後悔し続け、灰色の日々
・ふとしたはずみに、殺したおばあさんが夢に出る

その他デメリットをあげ連ねればキリがない。彼女はよくよく比較した上で惨劇を起こしたわけではない。とっさに突発的に思い立ったのだ。チャンスと思って、憧れていた人殺しを勇気を出してやったのだ。少しは損得を考える能力があったならば、その刹那ではなく数日後のことを考える想像力があったならば、この無惨な事件は起こらなかった。とても残念に思う。

(写真は松江イングリッシュガーデンに咲いていたクリスマスローズ。花を愛でるのも人間、何も感じないのも人間。想像力が大切)
生きるには人間だれしもメディア漬け [2015年01月27日(Tue)]

fumihouse-2015-01-27T18_02_47-1-thumbnail2.jpg子どものメディア漬けを防ぐため地域によっては「ノーメディアデー」に取り組んでいるという。福島県白河市では毎週1回、幼稚園児から高校生までが各家庭の協力のもと行っている。家庭学習の時間が増える、朝食をとる生徒が全国平均を上回る、家族との会話が増える、朝の目覚めがよくなる、そうした成果が上がっているとのことだ。

ノーメディアというが、メディアって何だろう。その取り組みではテレビ、ゲーム、ケータイを意味しているようであるが、一般にメディアの意味は幅広い。人間同士をつなげる媒体や手段全般と考えると、とてつもなく広い。

マスメディアといわれるものには、新聞や雑誌、書籍、テレビ、ラジオ、映画、音楽などの媒体がある。少数者から不特定多数に発信する情報伝達の媒体だ。

マスではないが、電話や郵便は単体同士で双方向通信が可能だ。インターネットを使ったSNSや電子メール類は複数が行き交うメディアとなる。ネットワークメディアと呼ばれ、うまくすると巨大な影響を及ぼしマスメディアをしのぐ。

記録や保管のためのメディアもある。カメラやビデオカメラ、レコーダーのほかにネットワークにつながっていないゲームもここに入るだろう。もちろんコンピュータなくして存在し得ない道具ばかりだ。

考えてみれば私たちの生活は、メディアに取り囲まれて、メディアに支配されるかのように日々回っている。恐るべしメディア。
心地よし父の胸にて寝入る子よ [2015年01月26日(Mon)]

fumihouse-2015-01-26T18_34_40-1-thumbnail2.jpg警察音楽隊のコンサートでは可愛らしい子を見た。ステージを扇形に囲む階段席の目の前には、4歳くらいの子供がお父さんの胸に対面になってダッコされていた。顎をお父さんの肩に乗せ、両手を父さんの首に回し指を組んで寝ていた。こっくりするたびに頭がガクンと揺れて体ごと落ちそうになり、そのたびに手を回し直す。

丸坊主でメガネを掛けている。かつての息子に似て可愛い、と妻とヒソヒソ話をした。あのころ息子は弱視の遠視であることがわかって、メガネを掛け始めた。

よく眠った。はしゃいでいたり、興味深くものに目を凝らしていたと思ったら、眠っていた。公衆の面前では騒がずにいい子にしていたから、そういう面では育てやすい子だった。その彼がガクンと首振り眠る様子を思い出したのだった。その息子もいい年になった。もうじき結婚する。彼の成長を喜ぶとともに、歳月の重なりを感じた。

コンサートも終盤になって当のメガネくんは目を覚ました。焦点の合わないぼっーとした目つきで父さんに抱かれ続けた。満足げな顔つきをしていた。これもまた可愛らしい。
ふれあいと一致を求む音奏で [2015年01月25日(Sun)]

fumihouse-2015-01-25T13_14_26-1-thumbnail2.jpg島根県警察音楽隊ふれあいコンサートを聞いてきた。冬枯れの松江イングリッシュガーデンが、昨日は多くの観客を交えて華やかになった。カラーガード隊を含めて総勢30名弱の音楽隊員が、力強くも繊細な演奏とパフォーマンスを魅せてくれる。湖北中の吹奏楽部の女生徒たちが合同演奏しており、はにかみながらの演奏を可愛らしく思う。

警察音楽隊というのは、日頃は治安や捜査、警察事務の現場で勤務しつつも、たゆまず怠らず練習を続ける面々であり、交通安全の集いや公式行事での演奏で活躍している。年間50回以上の演奏活動を行っているという。カラーガード隊はフラッグを中心に芸術的視覚効果を高める警察の舞姫たちだ。

コンサートのリーフレットでは、「県民の皆様と警察をつなぐ「音のかけ橋」として、演奏活動を通じ、警察の活動に対する理解と協力を得て、安全で安心して暮らせる島根をつくるために今日も皆様の町を訪れています」と説明している。

もちろんその意義は大きい。だから予算もつき公的な場での活動が許される。だが警察も含めた軍隊的戦闘的な組織における音楽活動というものはもっと広い意味があると、私は思う。

戦闘態勢となって、勝つか負けるか死か生かという瀬戸際で必要なものは、指揮号令下で統一的に動き、作戦を遂行し、必死で立ち向かってくる敵方に攻め込まれても応戦し、一旦態勢が崩れても復元していく力だ。恐怖心にかられて一部の者が逃避行動をとれば、統率は乱れ敵はその乱れに乗じる。恐怖を減じ組織で戦うという姿勢を貫くために有益なのは、規則正しい音であり音楽の力強い調べである。なかでも行進曲の二拍子がよろしい。

騎兵部隊が進軍ラッパとともに鬨(とき)の声をあげ、甲冑が擦れる音と馬の蹄の音とが合わさって地鳴りとも爆風ともつかぬ巨大な空気が一帯を支配する。リズムを刻んだ歩兵たちの軍靴がおこす地響きも合わせて味方の士気が鼓舞され、敵方には脅威と映り気をくじけさす。

一流のスポーツ選手は卓越したリズム感をもつ。チームで戦う強い集団は統率がとれ、水も漏らさぬ組織力で勝負をリードする。スポーツに限らず強い組織は集中して一転突破する力がすさまじい。目的に向かって最大限の効力を発揮していく。ただし勝負の行く末を見通すリーダーの眼力がないと組織の力は減退する。

警察も同じである。安全を脅かす存在を撃退し、悪をくじくための強力な組織活動を行うにあたり、マーチングの心地よいリズムに乗って全職員に意識が行き渡る。さらに、捜査に疲れた捜査員には癒やしの効果をもたらし、白バイの乗員は苛立った不快な違反者の言葉を忘れ去り、パソコンをたたく事務職員の手には軽快なリズムが戻るであろう。

コンサートでは合間に特殊詐欺や交通安全についてのアピールをした。一致団結した警察職員の組織力によって今後とも大きな効果をあげていくに違いない(ちなみに昨年の交通事故死亡者数は島根が最少)。警察音楽隊の演奏と演技を見ながらそんなことを思った。

(イングリッシュガーデンの庭にある噴水。華のない庭にあって、ひとり?気を吐くように吹き上がっていた)
気をつけよインフルエンザの襲来だ [2015年01月24日(Sat)]

fumihouse-2015-02-04T18_26_19-1-thumbnail2.jpg「インフルエンザがこの冬流行のピークを迎えた」と昨日のNHKニュースで報道した。もらわないように気をつけないとな、と思う一方で不思議な気がする。日本全体を空間的にはもちろん未来にも俯瞰する巨視的な目があるわけでもあるまいにと思う。要はあとにならないと「ピークを迎えた」かどうかはわからないのだ。近頃の天気予報は衛星画像の精密さもあいまって、大型コンピュータの予測精度が上がり信頼できるようになったが、インフルエンザ流行予測もよっぽど精度が高まっているのだろうか。

ちょうどポケベルの歴史を調べていた。今となっては、1996年がピークでわずか11年後にサービスが終わったことはわかる。繁栄を謳歌していたあの頃に、多くの人はそこまで衰退が速いとは予測しない。繁栄と衰退はうらはらだ。

日本でポケットベルのサービスが開始されたのは1968年。本格的な普及は80年代の半ばから。ピークの96年に契約数は1078万人。その後携帯電話やPHSに押されて急激に減少し、2007年にサービスは終ったという。SNS全盛となるケータイやスマホが普及した今の状態より前の段階だ。

最初は普通電話から一方的に信号を送るだけの単純なものだった。大人気のきっかけは料金の低額化と回線のデジタル化。80年代に通信自由化で値段が下がり、数字やカナさらに漢字まで送れるようになった(10文字程度に過ぎないが)。女子高生が飛びついて群がり、ベル友という言葉が生まれた。しかし90年代後半に双方向、文字数自由のメールサービスが開始されるとポケベルの命脈はつきた。

インフルエンザの命脈は尽きないだろう。少しずつ変異をくり返して生き延びる。さらに鳥インフルエンザが人間にも感染する種を生み出すと人間界はパニックになる。安心するためには、やはりピークはあったほうがいい。しかしそれは安全を保証するものでは決してない。
肖像を見つめて見られ古人や [2015年01月23日(Fri)]

fumihouse-2015-01-23T18_38_41-1-thumbnail2.jpg不思議なる絵画、肖像画をたくさん観た。島根県立美術館で『ポートレイト・イン・ミュージアム展』を鑑賞した。一部の借用品を除きほとんどは県立美術館収蔵の作品であるが、「肖像」に限定した体系的な見せ方でもって奥深い。

写実的に描く対象物は自分の目で客観視ができる。心も含めて対象をとくと眺めることができる。対象物に映った自分の主観的な投影を描く場合でも、その自己投影と対象物は、描く自分から客観的に認識されていく関係にある。抽象画を描く際にあっても、心中を客観視しながらキャンバスを染めていく(絵を描かない私が想像した)。

ところが自画像は違う。自分の姿は一部を除いて眺められない。鏡を使ったとしても限定的だし、左右が逆になる。カメラの画像や映像を撮ってみても、今の自分ではなく過去のものだ。「想像」以上に自己を客観視することは難しく、自画像を描く作業には「創造」的な絵心が必要なのではないかと想像する。

展覧会には自画像も含めた肖像画がたくさんあった。たくさんのモデルたちの視線に射すくめられるような怖さも感じた。肖像のモデルも自画像の主も、ほとんどは存命していないことを考えるとそれも当然のことかもしれない。

学芸員が書いたコラム5「ナルキッソスたちの自己表現」から引用する。

≪画家は少なからずナルシストであると言えるのかもしれません。自分自身を描く自画像は一見その極致のように思われますが、しかしそれは単なる自己愛の次元を超えて、おのれの姿を外に向かっていかに表現するかという「自己成型」という概念で捉えられる創造的行為でもあります。自らの姿を率直に捉えるにせよ、何かになろうとする姿を描くにせよ、それが他者の目に触れる自画像という形式をとっている限り、画家自身がこうありたいと願う理想が込められた表現≫

なるほど、「自己成型」、「こうありたいと願う理想」。それらを創造していくのが肖像画なのだなあ。実に興味深い。

(写真は肖像画が埋め込まれているかのような土壁。割れ目も藁も色合いも味わいがある。仁摩にある廃業した醤油蔵の古い壁)
冷たくて濡れそぼる雨陽気待つ [2015年01月22日(Thu)]

fumihouse-2015-01-22T18_09_38-1-thumbnail2.jpg冷たい雨は悲しそう
冬型配置の雲といっしょにやってきて
横なぐりに降りつけては歩くひとを悲します

冷たい雨は悲しそう
燦々と照る太陽は雲の上
暖かな陽気が懐かしく寒がるひとを悲します

風が吹いて冷たいよぉ
手が冷たくてみじめだよぉ
みじめに濡れそぼって下半身はビトビトだぁ

早くいい空やってこい
春に呼びかけやってこい
柔らかな風とともにやってこい
恐れるは孤立ではなくひとりぼっち [2015年01月21日(Wed)]

fumihouse-2015-01-21T18_35_50-1-thumbnail2.jpg人間は孤独であっては生き延びることができない。ロビンソン・クルーソーは独りで二十何年も生き延びたというが、それとて食人部族から助け出した捕虜のフライデーと共同生活を送ったのだ。多くの人が暮らす現代社会にあって、頼りになる仲間も家族もおらず、ひとりぼっちで過ごすなんて耐えられない。

孤独はいやだ。しかし、いつも誰かが近くにいて一挙手一投足をしばられるのもいやだ。SNSとて同じこと。常にパソコンやスマホが手元にあって、画面の向こうの人と互いを縛り付けあっている虜囚のような姿も見苦しい。

人がつながり続けていたいという願望があるから機器やソフトウェアは進歩してきたのだが、人間は便利になれば便利になるほど、かえって孤独を感じてしまう。手軽さ便利さを引き換えにして、膨大な時間を浪費する。本来それは効率的に生きる道だったはずなのだが、反対に機器が不調のときは生産性がゼロになる。しかも孤独になって疎外感をより強くもってしまうというのも変な話だ。

情報が多すぎるんだな。便利さがかえって人間の孤独を増してしまうんだな。このジレンマ、なんとかしてほしい。

(写真は菜の花。早くこの花が咲く季節がきてほしい)
ユリノキのユリボックリと遊びけり [2015年01月20日(Tue)]

fumihouse-2015-01-20T18_25_29-1-thumbnail2.jpg今日は冷え込むと昨夜の天気予報。確かに寒かった。家を出るころは夏の星座が輝いていた。放射冷却で地面は冷え冷え。手袋はもちろん、マフラーを巻いてニット帽もかぶって、駅までの暗い道を急いだ。列車の中はヌクヌクで体が温まると気持ちよくウトウトした。

松江の天気予報は一日中曇り。実際の天気がどうだったかは知らないが、出雲や松江に比べれば石見の冬は乾燥し晴れ間も比較的多い。大田・仁摩の天気は春を感じさせるものだった。室内にはまぶしい日差しが照りつけて日中はストーブを消した。

今日は大寒。大寒荒れは幸いに来なかった。立春に向けて節分荒れが来るだろうか。来ないような予感がする。北日本では厳しい冬だが、西日本はたいそう冷え込みもせず、過ごしやすい気候が続く。特に元旦の雪以降は穏やかだ。早めに春一番が吹いて、寒の戻りも多少はあったとしても、着々と春が近づいて来る予感がしている。そうあってほしいという願望に過ぎないが……。

(写真は邇摩高校のユリノキ(百合樹)の松ぼっくり。松ではないからユリボックリ? 分厚い葉が落ちた後のユリノキに残る種子が入った球果。球ではないからこれも変だが、まだ明るい、晴れた夕方の空に映えている。なかなか絵になる)
手垢つく煎じて飲めまい常套句 [2015年01月19日(Mon)]

fumihouse-2015-01-19T21_12_40-1-thumbnail2.jpg「手垢のついた」という表現がある。使い古されてしまった単語や言い回しのことだ。あくまで私が思うという程度のものなので、あしからず。

【癒やし】
元は「治癒」の言葉のとおり病気や怪我がなおることだが、さかのぼればキリストが癒したような宗教的奇蹟。20年くらい前からだろうか、癒しブームとなり、ストレスからくる緊張を和らげ、疲労を軽減させることを総称するようになった。人柄にも「癒し系」と使ったりして幅広い。曖昧となってもはや判別不能である。

【元気をもらう】
マスコミの見出しでは「感動をありがとう」と言うこともある。そもそも、元気を注入したりされたりできるだろうか 。元気を出力して他人に元気をあげると力はなくなるのか。ロールプレイングゲームのやり過ぎだ。むろん相手が頑張る姿に触発されて感動することはできる。そう表現すればよろしい。

【○○させていただく】
謙譲が過ぎた表現。もはや当たり前の言い回しだが、謙虚のようにみえて、実は周囲に嫌われまいとする恐れが元だ。二重にも三重にも予防線を張って、させるのはあなた、いただくのは自分という過剰な意識があって私は好かない。第一、説明が長くてまだるっこしくなる。

【絆】
これが手垢のついた言葉と言うと非難されるだろう。大震災の2011年は「絆」を皆が使った。大震災で私たちは絆がいかに大切であるかを知った。しかしここまで使われ過ぎると、かけがえのなさを大切にという本来この言葉が持つ思いが損なわれるような気がしてしまうのだ。

【お休みをいただく】
これも「させていただく」と同類の過剰な嘘っぱち謙譲だ。有休なり休日出勤の代休をとるのは労働者の権利である。会社外の第三者からへりくだって頂戴するものではない。私にとっては不快な表現だ。

【ふれあい】
よく行政機関が使うが、「妙に湿った手で肌をなでられる気がしてぞっとする」と評した人もいるとおり、嫌みたっぷりに他人から体全体を触りまくられるような錯覚が起こってくる。元々「絆」と同じ意味で使われていたのだろうが、行政機関が編みだしたあたりさわりの表現のひとつだと思う。

【○○と思う今日このごろです】
これも苔が生えたような俗物的表現だ。新聞の投書欄によく見る。新聞記事の本体にも古びた言い回しが多用される。【○○とこぼす】とか、 【やり場のない怒りをにじませた】【○○と言って顔をしかめた】【疲れ切った表情でつぶやいた】などたくさんある。やりきれない不満や悲しみを取材相手から感じた記者が使う表現だろう。最初は新鮮だったかもしれないが、陳腐化したのにもかかわらず記者もデスクも疑問なく使う。

【抜けるような青空】
今では陳腐な言葉。1964年東京オリンピックの開会式でアナウンサーが発した「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和」の斬新さにはかなわない。もう二度と使えない言葉ではあるが……。

ここまでくると、「手垢のついた」というよりは、私が好まない表現といったほうがふさわしい。もちろんどんなに手垢がついていても、使いたいのならば使えばよろしい。べつに私は妨害しませんよ。
究めたり世相を映す一字にて [2015年01月18日(Sun)]

fumihouse-2015-01-18T21_14_58-1-thumbnail2.jpgすっかり古い話題だが、去年2014年の漢字は「税」であった(日本漢字能力検定協会発表)。消費税が昨年4月に5%から8%に引き上げられ、予定どおり10%に上げるか否かを焦点に衆議院解散。与党が大勝した。国会議員や県会議員の一部にあった不透明なカネの動きも話題になった。

歴代の「今年の漢字」を並べると時代の一端が見える。昨日あの激震から20年を数えた阪神淡路大震災の年にその年の一字が始まった。あの年は地震に揺れ、地下鉄サリン事件に揺れた一年だった。

1995震/1996食/1997倒/1998毒/1999末/2000金/2001戦/2002帰/2003虎/2004災/2005愛/2006命/2007偽/2008変/2009新/2010暑/2011絆/2012金/2013輪

どちらかというと厳しい世相を反映したものが多い結果となっているが、今年はどの一字が注目されるだろうか。幸せを招くいい言葉が選ばれることを願っている。
亡霊になるは死人か生き人か [2015年01月17日(Sat)]

fumihouse-2015-01-17T22_03_51-1-thumbnail2.jpg私はときどき亡霊になる。いるのだけれどもいない、心ここにあらずという状態だ。よくありがちなこと。しかもかけがえのない人を傷つけてしまいがちの行動。パソコンに向かっている時にしばしば起こる。

「僕だよ、僕はここにいるよ、君の前に」と亡霊のサムはモリーに伝えた。声は聞こえないけれど、モリーはサムの存在を五体に信じとった。15年前の映画『ゴースト ニューヨークの幻』を観た。ゴーストに託して遂げられなかった愛を語る物語の構成だ。ウィキペディアによれば、死んだ人の霊が生前に果たせなかったロマンスを語る映画はこれがはしりだと。

愛の言葉を口に出すことはこうも難しいことなのか。照れくさいし「愛している」を安売りすべきではないと考える人は多い、特に日本人には。ニューヨーカーだがサムもその一人だった。モリーは「愛してる」と言葉にする。サムは「Ditto(同じく)」としか応えない。サムは十分幸せだったがモリーは不満だ。

毎日毎どき「愛している」と言葉にあらわし、キスをして髪を触りベッドで愛を語り合う。したくてたまらない、していなくては身がもたないほど燃え立つときは、そうすればよかろう。しかし慣れ親しんで、二人の毎日が当たり前になってしまうと、常にストレートに愛を表現することはかえって苦役になる。

愛してると言ってくれないから愛は冷めたのか。おいおい待ってくれ!冷めたわけじゃない。当たり前の状態になっただけなんだよ。表現はしないけど、愛の思いはたくさんあるし、君への感謝はあふれるばかりにあるんだよ!と、言いたい日本の男はたくさんいるのだと思う。男だけではない。女性もそうかもしれない。

それでも、思いがけなく突然に相手がこの世から消えてしまったらどうだろう。通り魔に刺されることだって、不治の病にだってある。そのときに後悔しないように機会をみつけて言葉を使うことが望ましい。「愛しています」と。

モリーの危機が去り、サムに天国からの迎えがきた。天国の霊が光とともにサムを天上へと導いていく。反対に悪人どもは死んだ途端に地獄の霊がやってきて、彼らを地獄の底へ引きずり落とす。そんなふうに、人間どうしの愛だけでなく、神の愛の表現方法を描いていたという点でも印象深い映画だった。
メモリアル丸いお目めに楽し声 [2015年01月16日(Fri)]

fumihouse-2015-01-16T18_36_42-1-thumbnail2.jpg『佐々木恵未メモリアル作品展〜あったか家族・しあわせ色の物語〜』を見てきた。優しさにあふれた柔らかい絵。絵の具で描かれた原画が額縁からこぼれ落ちそうに一面をただよう。会場の柔らかくて温かい造りと照明にも助けられ、なお一層丸みを帯びた甘みいっぱいの絵が輝いている。

佐々木さんの絵は、子育て応援パスポート「こっころカード」を飾り、子どもを育てることは嬉しい!と、素直に表現できる肯定感に満ちていた。「ことのは大賞」ではウイットに富んだ子育ての一言に絵をつけて、子育てを厭(いと)う風潮に一石を投じた。しかし昨年逝去されてしまったのだ。

佐々木さんの絵をじっくり眺めるのは初めてだ。スケールが大きい。画面の構成も登場人物たちも。そして温かい。色が暖かく、視点が温かい。黒色を使っていない。闇夜を表すときには濃いめの紺を使う。絵に登場する人は多いが、孤立した人はいない。誰かと誰かが談笑し、微笑みながら見つめ、ねえねぇ見てよと主張し、喜んで駆け出している……。ステキな絵ばかりだ。

『佐々木恵未作品展』は松江市殿町のごうぎんカラコロ美術館にて、1月25日(日)まで開催中。島根県主催。

(会場には春色の花がたくさんあった。佐々木さんの優しさを象徴するのは春であろう)
人と人時間差あって深め合い [2015年01月15日(Thu)]

fumihouse-2015-01-15T18_33_45-1-thumbnail2.jpg待つことは悪くない。例えば、手紙を投函して恋人の元に届き、恋人が感じた思いをペンと紙と切手に託してポストに入れる。それが届く。最短で5日はかかるだろう。待ちかねた私は何度でも読み返す。文面を反芻する。思索して将来に思いを馳せる。希望が湧く。絶望だってする。一人一台の固定電話を使える時代ではなかった。家人に気をつかい、奔放に会話できるのは稀だ。遠距離恋愛ならばなおのこと、逢える日が待ち遠しい。逢えない時には、互いの言葉にはタイムラグがある。言葉には限界があっても、思いは常に通じ合っていると意気込んだものだ。

「たいへんお世話になりました。来年もよろしくお願いします。ですが、このメールを読まれる時にはもう新年。となると、あけましておめでとうございます、といわなければならなくて、テレビの事前収録をしている気分です」

年末26日に送った仕事のメールにこんなのがあった。相手がメールを確認するのは年明け。時間に差別はないが、暦があるおかけで、暮れの時制で挨拶をするのか、年賀の言葉を伝えるべきか。不思議な思いがあった。メールの送信と受信にはタイムラグがあるが、ふだんその時差を意識することはない。

その点、面と向かった会話や電話の応答はリアルタイムだ。若い人のメールやSNSもリアルタイムで即レスが大切なのだそうだ。即レスポンスがないと、友達の輪から外されてしまう恐れがあると。さぞかし辛かろう。

ときにはじっくり考えて返信するのもいいさ。しばらく放っておいて気持ちが熟成するのもまた面白い。グループのメンバーもリアルタイムの返信がなくても、気長に待ってあげたらいかがかな?
二十七昭和は遠くなりにけり [2015年01月14日(Wed)]

fumihouse-2015-01-14T18_30_39-1-thumbnail2.jpg今年は西暦2015年で、平成27年。言うまでもないことだ。平成元年に生まれた者は26歳。もうすっかり青年となり、たくましくなっている。

平成となって27年ということは、昭和が終わって四半世紀以上が経過するということ。実に感慨深い。かつて「明治は遠くなりにけり」という言葉があったそうだが、昭和は遠くなった。

今日は2015年1月14日。略すと15年1月14日。平成の年号を記さないと27年1月14日。15と27はあまりに紛らわしい。もう数年たてば書類に書いた年月日が判別できないことになってしまいかねない。

昭和の時分は便利だった。例えば、敗戦の昭和20年は西暦1945年で、略して表記すれば昭和の年数に25を足せば西暦年が導けた。平成にはそんな換算式がない。平成年から12を引けば西暦年がわかる、なんて言いぐさは聞いたことがない。第一、平成の始まりは1900年代で換算は普及しなかった。しかも書いたとおりで、2000年代を略してしまうと紛らわしい。これからは西暦の「20」も「平成」という年号も省略しないことにしようっと。
旅に出て夢は枯れ野を駆けめぐる [2015年01月13日(Tue)]

fumihouse-2015-01-13T18_55_48-1-thumbnail2.jpg   大人の
   あしたは、
   美しい。

JR西日本が「50歳からをたのしむ旅大人の旅クラブ おとなび」会員を募るポスターのコピーである。女優の伊藤蘭が微笑んでいる。大人の微笑み、優雅な大人の立ち居振る舞い。目は柔らかに光を放ち、口角が軽く広がり唇は菩薩のようだ。

  むかし歩いたまちが、違って見える。
  本当にやりたかったことが、見つかる。
  はじめての挑戦に、ドキドキする。
 (中略)
  まだまだ、これから。
  大人の旅の向こうには、
  もっといいあしたが、待っている。

ステキなポスターじゃあないか。旅へのあこがれが高まってくる。そもそも旅とはなんだろう。

ウィキペディアによれば(柳田國男の説)、旅の原型は、租庸調を納めに行く道のりにあって食料や寝床を調達するため道沿いの民家に物乞いをしたり何らかの交換を申し出る際に、「給べ」と言ったことが語源であると。

人類の歴史は「旅」そのものであった。アフリカ東部の大地溝帯で誕生した人類が、森から平原に移動したところから旅は始まるのだろう。食糧を求めて旅し、猛獣から逃れて旅し、農耕が広く行われる時代になっても、猟や漁を行う者たちは日々が旅だった。余剰物があれば交易の旅で蓄えを増やした。迫害から逃れるための旅があり、宗教的信条を貫く巡礼も旅。学業のための旅、遊びのための旅も登場した。生きるに精一杯の時にも、余裕が出てから後も人類と旅とは切っても切れない関係にある。街道が整備され、乗り物が便利になると、旅はどんどん盛んになった。

旅に病んで夢は枯れ野を駆けめぐったのは、死の直前の松尾芭蕉であったが、旅に出たくなると冬の枯れ野であっても巡り歩きたくなるもんだ。

(雪中の四友のうちのひとつ、水仙が花盛り。花の株ごとに微妙に違いがあって、なんとなく旅心をくすぐる)
雲切れ間今年初めてダイヤ見る [2015年01月12日(Mon)]

fumihouse-2015-01-12T13_21_43-1-thumbnail2.jpg一昨日の夜は雲の切れ間から星空が眺められた。今年初めての星空観察だ。澄んだ夜の闇を背景にまばゆいダイヤモンドがある。冬場の天気。晴れ間は長く続かず波状的に雲がやってくる。快晴でなかったが星がきれいだ。

オリオン右足のリゲルは白面のイケメン。右回りにいくと、大犬座のシリウスは全天一明るい恒星。ギラギラと雄渾だ。子犬座プロキオン。小型のシリウス。白々と若々しい。双子座のポルックス、兄弟星カストルと並んで黄色く光る。御者座のカペラ。馬車を進める御者のコートは薄黄色。牡牛座のアルデバランは赤色で、赤い汗をかいてダイヤの先頭を進んで行く。

リゲルの対角、ベテルギウスは赤色巨星。ダイヤモンドの輝きの心臓部にあって冬の天を統べる。プレヤデス星団(昴)はダイヤを引き立てる小さな宝石かも。東を見れば煌々と明るい木星が見える。しし座のレグルスの近くにあってダイヤモンドの台座となっているかのようだ。

絢爛豪華な冬の星座。明るい一等星に、さらに明るい木星を加えて、この冬も楽しめるだろう。天空に想像の長い線を引いて宇宙のきらめきを感じてみたい。
過ちはどこのだれにもあるものさ [2015年01月11日(Sun)]

fumihouse-2015-01-11T16_21_07-1-thumbnail2.jpg小中学生の頃よくやった過ち。
左手に消しゴムを持ちながら、目と右手で消しゴムを探すおろかさ、おかしみ。

時々やってしまう過ち。
眼鏡をかけたままメガネを探すおろかさ、おかしみ。

昨日やってしまった過ち。
スマホで長電話しながら、充電しようとスマホを探すおろかさ、おかしみ。

ひょっとしたらやってしまうかもしれない過ち。
家に帰ろうと思ったら我が家がどこかわからなくなってしまう悲しみ、とまどい。ああぁ。
長電話通う心や嬉しさや [2015年01月10日(Sat)]

fumihouse-2015-01-10T14_49_10-1-thumbnail2.jpg遠く京都から親友が電話をくれた。
話が弾んだ。
2時間余りの長話。
僕にとってはこんな長電話は初めての経験。
共通の友人のこと、家族のこと、仕事のこと、地域のことあれこれと。
言葉を交わし、耳を傾け、見えないながらもうなずき合い、健闘をたたえる。
心が躍り、ジンワっとやる気が出て、気持ちが温かになる。
さすがに手がしびれてきた。
持ち替えて反対の耳にやることを幾度となく。
もっと話を続けたい気持ちもあった。
再会を約し、サラリと切った。

終わるとすぐに息子から電話。
これもいつもに比べれば長電話。
僕にすれば珍しい。
近況と仕事の話。
不思議とわたしの気分は弾んでいる。

娘にこちらから電話。
先日聞きそびれていたことの確認。
心情も含め味わいある会話(だったと父は思う)。
大人になりつつある彼女の行く末や、幸あれ。

(ロウバイが開いた。名前のとおり蝋細工のように鈍く光る。そして紅梅や白梅と同じかたち。甘く芳しいステキな匂いだ)
貧乏も富裕もともに時間持ち [2015年01月09日(Fri)]

fumihouse-2015-01-09T19_22_07-1-thumbnail2.jpg時間は無限大です。宇宙が始まってから137億年、これから宇宙が尽きるまで○○○年。数えられるということは有限なわけですが、人間にとってみれば、いや人類という種をとってみても、時間は無限大に存在するものなのです。

時間が有限で貴重なものであることを感じさせてくれるコマーシャルでした。SEIKOの新聞元旦号は1ページを使って呼びかけます。

≪31536000秒
 1年を秒に表すと、これほどの数字になる。
 その1秒1秒を、価値あるものとするか。
 それとも、ただいたずらに費やすのみか。
 すべては、あなたの意志と行動が決める。
 2015年という時を、どう生きるか。
 まだ、何も決まっていない。
 まだ、何も始まっていない。≫

3千153万6千秒かあ。もう1月10日ですけど、まだ2015年は始まったばかり。時間は有限だといっても、一年はあと三千万秒もあります。こうしてスマホをタッチする間にも、一歩一歩を進む間にも、ボケッと突っ立っている間にも着実に時間は過ぎていきます。「価値あるものにするかどうかは、わたしの意志と行動が決める」。きびしい言葉です。冷徹な事実です。ですが何か夢がありますね。

時間とは何でしょうか。使いようによっては、最も貧乏くさくてミジメに思うのも、反対に豊かに満足感にひたれるのも、私たちが時間と一体になっているからなのかもしれません。

(菊の花は宇宙につながる。菊は宇宙そのもの。菊は宇宙とともにある)
新しき家にこぼる灯暖かそ [2015年01月08日(Thu)]

fumihouse-2015-01-08T18_07_03-1-thumbnail2.jpg新しく家に明かりが灯った。
年末に新築なった出来たての家。
暑い夏に建て始めて晩秋のころに外は建ち上がった。
なかなか住む人の気配は出てこなかった。
内装にじっくり時間をかけていたのだろう。
師走もふけてからやっと明かりが灯った。
暖色の照明で暖かそうに窓から光がこぼれている。
どんな人が住んでいるのだろう。
家族は何人構成なのだろうか。
あれやこれやと面倒なことはあっても新築の家に住む心地よさ。
うらやましいけれど私もたどってきた道。
楽しくあれ、わくわくであれ、どうぞ幸多き日々を。

(新しい家の暖かなリビングには、こんな暖色のシクラメンが咲いているのかもしれない)
多幸感ニコニコしながら噛みつき魔 [2015年01月07日(Wed)]

fumihouse-2015-01-07T19_12_59-1-thumbnail2.jpgかつて息子が赤子の頃、乳を飲ませたことがあった。私は母乳が出なかったので粉ミルクを飲ませた。終わるとダッコして背中をトントンする。ゲップが出て赤子は寝息をたてはじめる。そこで寝かせて一件落着。

順調ならばいいが、時折大変な目に遭うことがあった。突然噛むのである。しかもニコニコと幸せいっぱいという満足げな顔のまま、おそらく全力で私の乳首あたりを噛むのだ。ギャッと、私は反射的に赤子をなぐる。かわいそうに、彼は極楽状態から地獄に引き落とされて泣き叫ぶ。あれは何だったのだろう。

【多幸感】という言葉を初めて知った。ニコニコニュースのサイトによると次のように説明されている。≪卑近な例でいえば、千円拾っただけで1億円の宝くじと同じ喜びを得られる。カップラーメンで5つ星レストランと同じ喜びを得られる≫と。

神経伝達物質のセロトニンやドーパミンが多量に放出された状態が多幸感であり、愛情による至福感やオーガズム、競技で勝利したときの陶酔感が多幸感の例とされる。宗教的儀式や瞑想によっても生じるという。

多幸感は薬物でももたらされる。しかも強いから、本能が解放されて噛みついたり暴走したりする。万能感に満たされて自分の身ばかりが他人をも巻き込んでいく。

特に「バスソルト」が危ないとのこと。塩系入浴剤を意味するだけでなく、欧米では脱法ドラッグ全般の隠語なのだそうだ。当のバスソルトは粉末や半透明の結晶で入浴剤のように見えるが、水に溶かし、あぶって吸ったり、噴霧したりすれば、強力な多幸感を得られる。その代わり攻撃性が異常に激しくなる。闘争本能が解放されて、無意識に噛みついて相手に大きな打撃を与えるのだ。

米国フロリダ州では、若い男が老年のホームレスを襲い、顔の半分以上を食いちぎったという。犯人は警官に射殺されたが、バスソルトを吸っていた。そして精神を解放されて残虐的攻撃を喜んでやってしまった。とてつもない多幸感を得る代償としての行為だった。

息子は今では、多幸感いっぱいに親の乳を噛み切るような残虐行為はしない。それはバスソルトをはじめとした脱法ハーブを吸わないからだ。これからもそうであってほしいし、他にもそんな悲劇を引き起こす人間が一人でも少ないことを願っている。麻薬取り締まり対策が奏功して悲劇がなくなってほしいと思う。

(写真は本文とは全く関係ない。今日の昼間、出雲縁結び空港から羽田空港に向かう途中で娘が撮った富士山)
強運と強さを兼ねた将軍が [2015年01月06日(Tue)]

fumihouse-2015-01-06T21_54_30-1-thumbnail2.jpg将兵は勇ましく戦う。特に闘争心を鼓舞し日頃から訓練を怠らない将軍に従う兵卒は強い。一方で戦わない庶民はどうか。迫り来る敵兵の知らせを怖がり、爆発音に怯え泣き叫ぶ。将兵は何のために戦うのかといえば、多くの民を守り安寧な生活を保護するためなのだ。だからこそ味方の将軍は無敵な強さを誇る。映画『ホビット 決戦のゆくえ』を観てそんなことを感じた。

『ホビット』三部作だけでなく、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作に登場する闘士たちもやはり鋭く剣で突き叩いて敵をなぎ倒す。華麗に敵の刃をかわし重い剣先をガッシリ受け止め、決して負けない。傷ついても、肉を斬らせて骨を断って敵にとどめを刺す。これはあらゆる戦闘英雄物語に共通している。まれに不敗であり不死であるはずのヒーローが死傷し、愛するかけがえのない者と分け隔てられるところに悲劇が生まれ、観る者の涙をさそう。

常勝将軍、名将とはどんな武将か。単に辣腕の武勇があれぱよいというものではない。指揮官として図抜けたリードをして、敵方に負けないという自信を配下に持たせる心理学の使い手でなくてはならない。

さらに必要なものは運の良さである。どんなに雨のように矢が飛んできても、何十もの槍が襲ってこようが避けて蹴散らす。反対に矢の方から避けてくれるようでなければ、すぐに傷つき敵に落ちてしまうだろう。 すなわち名将とは類い希なる強運の持ち主とも言えよう。

巨悪の竜スマウグと戦った人間バルドも再三のピンチを乗り越えてスマウグを討ち取った。正義の魔法使いガンダルフは杖と剣を縦横に使って敵を撃退し疲れない。エルフの王子レゴラスは軽々と敵の刃をはね返し、槍や矢の切っ先をよける。弱いホビットのビルボでさえ、うまい具合に強い相手を刺し殺す。

しかし、エルフの戦士タウリエルと結び合ったドワーフ族キーリは戦い敗れて命を落とし、ひとつの恋愛劇が幕を閉じた。また、黄金に執着して正気を失っていたトーリンは穢れの王アゾグを討ち果たしたものの、命を引き換えにした。魅力的な物語であった。

そして中つ国の善の勢力は、サウロンをはじめ闇の勢力を押し返すことができた。ビルボの長い冒険の旅は終わった。それから60年後、復権した悪の勢力は我がもの顔にのさばるようになった。そこで登場するのが、ビルボの養子フロドである。『ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)』に向けて、物語が完結していく。
通学路危険いっぱい向学心 [2015年01月05日(Mon)]

fumihouse-2015-01-05T18_27_12-1-thumbnail2.jpg学校に通える幸せを忘れてはいないか? 学ぼうと思えばいくつになっても学べる環境にあることを私たちは忘れていないだろうか。適度な授業料を払えば学校に通え、教科書となる本だって注文すればすぐに手に入る。

2012年の仏映画『世界の果ての通学路』を正月のNHKで観た。日本では当たり前となった教育環境はこの上ない幸せであることに気づかされた。

映画はドキュメンタリーのタッチで淡々と進む。ケニアのサバンナに住む少年、モロッコの山岳地帯の少女、アルゼンチンアンデス山脈の少年。皆遠い道のりをある者は小走りで、あるいは仲間とヒッチハイクしながら、そして馬に揺られて妹と共に学校を目指す。インドベンガル湾に住む肢体不自由の少年は、ありあわせの車椅子に乗せられて弟たちと共に凸凹道を行く。

危険と困難がいっぱいの通学路である。アフリカゾウの襲撃におびえ、足痛めて思うように進めないときもある。それでも何時間もかけて遠い道を行く。

彼らが学校に向かう動機は、お金を稼ぐために、いい仕事につくために、医者になって人を助けるために勉強する。パイロットや獣医、教師など夢がたくさんある。叶えたい夢があるから学校で勉強する。居眠りなんかしない。未来に向かって進む決意を、まっすぐ先生を見て学ぶ姿勢にあらわす子どもたち。

通学への道は勉強への思い。長い困難な道のを越えれば夢は近づく。通学路がどんなに不便で困難であっても、あの子たちは文句も言わずに通う。喜び勇んで学校の門をくぐり(そもそも門などない)、目をキラキラさせて授業に臨む。学校に通えること自体が望みであり喜びなのだ。将来の夢へつながる扉なのだ。

(みかんを好きなだけ食べられるということも、これまた大いに幸せだ)
ロボットと守る街なりジャパネスク [2015年01月04日(Sun)]

fumihouse-2015-01-04T11_49_27-1-thumbnail2.jpg「あなたの心とカラダを守る」ことを使命として生まれたのがベイマックス。風船のように丸々と大きくて白くて柔らかい。むぎゅ〜と抱きしめたくなる可愛さ。しかもきわめつけの人工頭脳と強靭さも兼ね備えるロボット……。ディズニー映画『ベイマックス』を観た。

ベイマックスを開発したのはヒロの兄タダシ。人を傷つけることはかたく禁じられ、猜疑心に凝り固まり疲れてしまった人を癒やす優しいロボット。ところが兄は事故で死んでしまった。ベイマックスは兄の大切な形見となった。かけがえのない人を失ったヒロの心の傷は大きかった。

舞台はサンフランソウキョウ(サンフランシスコと東京の掛け合わせ)。街のつくり、主人公の名前、漢字や数々の意匠など日本文化への敬愛が表わされたアニメであった。

ベイマックスのおかげで元気を取り戻したヒロは兄の死に陰謀があると知った。彼も兄並みの科学者であり、ベイマックスに戦闘装備をほどこした。そして仲間とともに巨悪に立ち向かったのであった。

最初ロボットはかけがえのない兄の形見にすぎなかったが、戦いが進むにつれベイマックスそのものがかけがえのない存在となっていく、タダシの優しい面影を背景にして。その過程がじわジワと心に響いていく。

かけがえのない人とともに観るのがよろしい。ひとりであったとしても、かけがえのない人のことを思いながら、自分の使命について思索しよう。そうして観るにふさわしい映画である。

(ベイマックスのように丸々と可愛らしい我が家のミカン。皮は分厚くて見てくれは悪いが適度な酸っぱ味もあって美味しい。もう私の腹に収まった)
頑張って繋ぐ駅伝母校かな [2015年01月03日(Sat)]

fumihouse-2015-01-03T13_13_23-1-thumbnail2.jpg襷を繋ぐ、ツナグ。走ってつなぐ、心でつなぐ。
母校の襷を仲間でつなぐ。
支援者の気持ちを受け取ってつなぐ。
駅伝は退屈だという声もある。
瞬発的な美技が見られるわけではない。
胸のすくようなごぼう抜きの快走がいつも見られるわけではない。
白バイを先頭に走者が続き、後続の監督車や報道車が連なる代わり映えのしない光景。

苦しい練習に耐え、挫折を乗り越え、記録を伸ばすことを目標に日々走り続けた選手たち。
予選会で命を削るほどの戦いで出場権を勝ち取った選手たち。
シードされたチームであっても油断し手を抜けば、本戦ですぐさま振り落とされて涙にくれる。
厳しく無常な世界に身をおくのが彼らである。
その姿を想像できるから感動できるのだ。
走るうちに表情が微細に変化する様子に心を痛めるのだ。

襷は絆。
襷は衣をからげる(擧)意。着物のたもとや袖をくくって作業をしやすくする紐。襷という紐で人々をつないでいく絆。
駅伝を沿道で応援すると、辺り一帯が一体となって駆ける選手を応援するようになるという。必死の選手を縁にして、これも絆ができる。

母校の創価大学。昨日の1区のガンバリ。以降ジリジリと順位を落として最下位になりはしたものの選手たちは必死で走る。襷を繋げようと走る。ただいま最終10区。昨日から引き継いできた襷は届かなかったが、最後まで爽やかに奮戦してほしい。
新聞の隅から読んで元旦号 [2015年01月02日(Fri)]

fumihouse-2015-01-02T15_50_24-1-thumbnail2.jpg元旦号の新聞は楽しい。豪華に写真やイラスト、強烈なメッセージ、アイデアに飛んだ文面が飛び込んでくる。その中でも数研出版のコマーシャルが目を引いた。

≪「大人になればわかる。」
 なんて言葉を信じてはいけない。
 自分の頭で考えて、自分で答えを出そう。
 「なぜ?」と問い続けよう。
 それは、誰も考えつかなかったアイデアを発見し、
 不可能を可能にし、世界を変える原動力になる。
 人類はそうして進化してきた。
 (中略)
 世の中はわからないことだらけ。
 だから、面白い。だから、チャンスだ。
 あなたにしか見つけることのできない、
 χを求めよう。≫

世界が変わる原動力は個にある。個人という一見ちっぽけな力が集積されてはじめて世界は変わる。世の中のすべてを解き明かし掌中におさめている人などどこにもいない。だけら面白く、チャンスは転がっている。チャンスというと、どんな金儲け?と短絡する向きもあるが、もちろん経済のことも含めてχを求めていきたいものだ。
元旦の賀状楽しみ友を知る [2015年01月01日(Thu)]

fumihouse-2015-01-01T22_05_46-1-thumbnail2.jpg明けましておめでとうございます。
毎年楽しみに待つ年賀状が来ました。いろいろあります。それぞれ書き手の心理や家庭状況がわかって(あるいはわからなくて)、興味深く読めるのです。そこで感想の句をいくつかひねってみました。

賀状見て今年も会えず往く年月
 *年賀状をもらうたびに懐かしく思っても、もう長いこと会ってない。

近況をメモにひとこと嬉しかな
 *型どおりのあいさつに加えて、近況や二人だけに通じる話題が添えてあるのは嬉しいもの。

元気かと賀状に書くな我を書け
 *一言添えてくれるのはいいけれど、「元気ですか?」はないでしょう。でも、まっいいか、何もないよりは。

旧年の厚誼を謝せども賀状のみ
 *旧年中のご指導ご鞭撻に感謝とは書いてあるけれど、去年の賀状以来会ってもいないなあ。

新婚の甥っ子ニコリ新生活
 *結婚したばかりの甥っ子夫妻から幸せいっぱいの賀状。末永くお幸せに。必ずある辛い局面を二人で乗り越えてくれたまえ。

今年から家族写真で君が顔
 *年賀状に子供の写真だけ載せるのはやめてほしいと思っていたら、今年から家族そろった写真に君の顔が見えるね。

(大晦日の昨夜から予報どおり冷え込み、今朝は3センチほどの積雪と凍結。午後になるとあれよという間に積もりだし、今は15センチになった)