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隠れてもかわいい尻尾が見えてるよ [2014年08月31日(Sun)]

fumihouse-2014-08-31T22-01-28-1-thumbnail2.JPG童謡『かわいいかくれんぼ』を思い出した。きっかけは、国道9号線を対向する車が停まっていたのを見たことだった。本道と歩道をへだてる縁石の間に車体を半分つっこんで、後ろの半分は車道に出っ張ってふさいでいるものだから邪魔になる。運転席では女性がケータイで通話中だった。その愚かな様子から『かくれんぼ』が連想されたのだった。

サトウハチロー作詞のこの曲は、ひよこや雀や小犬がかくれんぼ。うまく隠れたつもりでも、足や頭やしっぽが見えている。あ〜あ見つかっちゃった…。みんなが知っている楽しい歌だ。

あの女性は体が車道に入っていることで安心していたのだろう。話に夢中になって道路をふさいでいることに気がついていない。よくある光景で、お年寄りが道路を横断するときに、半分までは急ぎ足でも半ばを越えると安心してしまってユルユルと歩いていることがある。自転車を引っ張りながら横断するお年寄りが、体は歩道にかかっても自転車の後部はまだ車道にある場合がある。しかも目線は自分の進行方向にあって走ってくる車には向いていない。自動車が当たったとすれば大事故になってしまう。

いずれも私は『かくれんぼ』を思い出してしまう。危うし危うし。決して『かわいい…』などと言っている場合ではない。
ガンジーは物に託して心知る [2014年08月30日(Sat)]

fumihouse-2014-08-30T22-16-41-1-thumbnail2.JPG聖教新聞8月28日付け「名字の言」に、インド独立の父ガンジーのエピソードが紹介されていました。国民の思いを忘れず、感謝を絶やしてはならないというガンジーの決意が示されています。

≪独立運動で各地を回っていた時、一人の少年が鉛筆を寄付した。長さ3センチほどのそれを、ガンジーはずっと大切にした。小さな鉛筆でも、子どもにとって大事なものだ。そうした国民の「思い」を忘れて、私の政治活動はあり得ない≠ニ▼一つの物、ささいな言葉の奥にも「心」がある。その「心」を感じ、自らも心を尽くして応えていく中に、人間としての崇高な生き方がある≫

ガンジーの偉大さが伝わってくる一方で、わたし自身のことを考えます。いろいろな「物」に「心」を込めて贈り物をしたり、されたりします。日頃お世話になっていることに感謝し、何かの見返りに、迷惑をかけたお詫びに、恩義や利害のために、旅のお土産などいろんな意味で贈り物をします。そのたびに物が増えていきます。食べてしまって形が残らない場合もありますが、食べすぎのもととなって体重という物が増える場合もあります。

物が増えるのはそれだけではありません。安かったり、今だけ特別という誘い文句に衝動買いしてストックが増える場合もあります。旅の記念に持ち帰ったり買い求めた物も収納スペースを侵していきます。趣味の物、仕事関係の物、あれやこれやと多いのです。どこかで断捨離をしていかないと、わたしたちの生活は破綻します。最小限の物しか持たなかったガンジーであれば、国民が大事な思いを託してくれた物を生涯持ち続けることは可能であったかもしれませんが、物にあふれた今の時代にあっては生活スケールを小さくしなければ快適性を犠牲にすることになってしまいます。

崇高なガンジーとは次元が違ってしまいましたが、たかが物といっても一筋縄にはいかないものですね。
懐かしや夏が終わったどこにいく [2014年08月29日(Fri)]

fumihouse-2014-08-29T22-26-56-1-thumbnail2.JPG終わった。
夏は終わった。
狂おしい熱帯夜に苦しんだ日々は終わった。
アサガオは咲いているが盛りは終わった。

涼しい。
季節は涼しくて。
朝の空気が肌を刺して涼しい。
夏の雲は消え失せて空の色も涼しい。

終わらない。
不安定な天気は終わらない。
晴れたと思えばたちまち曇る不機嫌な空気よ飛んでいけ。
不安定な気候はしばらく終わりそうにない。

そして悲しみも終わらない。
この夏の異常気象で雨や嵐で悲しんだ人の苦しみは終わりそうにない。
一日も早く痛手を癒やして秋の涼やかな空気を満喫していただけますように。
大阪の船場に美し姉妹たち [2014年08月28日(Thu)]

fumihouse-2014-08-28T21-57-48-1-thumbnail2.JPG物語の冒頭は京都・嵯峨野。降りしきる雨の中、満開の桜がはらはらと散り始めている。美しい四人の姉妹が高級料亭にうちそろう。かつて大阪・船場の豪商だった父母が生きている頃もまた、恒例の花見の宴だったのであろう。

画面も登場人物も上品ではんなりとしている。それでいて水面下には丁々発止の激しいやりとりもある。対立しているかのように見えてもそこは元々仲のいい姉妹。老舗を支えた父母が相次ぎ死んだ故に蒔岡家は危機に陥った。その困難をのり越えてきた同志としても気心はしれている。剣呑さは消えて睦まじく場は丸くおさまった。

ちょうど雨はやみ、雨だれが花を伝う。姉妹たちは和気あいあいと散策に出て行った。映画『細雪』は細やかな情感と美景が描かれて、谷崎ワールドが見事に表現されている。

エンディングには細雪。水の都・大阪の川面に落ちる雪。牡丹雪ほどの大きさはない細かな雪。季節は変わり戦局は進む。蒔岡家の経営も厳しくなることは目に見えているが、四姉妹の深くて固い絆は変わらない、いや変わらないでほしいという皆の気持ちを代弁するかのような細雪。降っては溶け消えても、飽かず舞い落ちる細雪のように蒔岡の四姉妹はやっていくのよ、そんな心持ちが表されていたのだろうか。

この物語は昭和13年の春に始まり冬に終わる絵巻でもある。同じく谷崎の『陰翳礼讃』は流れる美しい文体で、伝統的家屋が暗い照明によって幽玄の美をかもすことを愛でていたが、この小説『細雪』も日本の美を表したものらしい(読まなくては…)。

市川崑監督が映画化する際には、絵巻たらんことを意識したことと思う。淡々としたストーリーであっても日本の美の陰翳が物語に深みを与えていく。谷崎の美学を絵巻のような映像に表したのだと思う。ただ、バックの音楽に深みがなかったこと、そして編集がぶつ切れており、詰めが甘かったように見えることは残念だが、四人姉妹の役者さんが美しかったことで帳消しだ。特に三女雪子におとなしさの中に強い主張を秘めた吉永小百合が素晴らしい。世のサユリストたちは当時ときめきながら観たにちがいない。
旅めぐりロシアの文化は砂のなか [2014年08月27日(Wed)]

fumihouse-2014-08-27T18-13-14-1-thumbnail2.jpgロシアに行った。モスクワのクレムリン宮殿、サンクトペテルブルクのエカテリーナ宮殿を眺め回し、コサックの騎馬軍団の力を知り、豊かな自然と天然資源の宝庫を目の当たりにし、トルストイほかの偉大な文学やチャイコフスキーのバレエ音楽を堪能した。いい旅だった…。

鳥取にて、大国ロシアの歴史と芸術を一同に集めた砂のアートを観てきたのである。世界中から集まった20人のサンド・アーティストが砂の美術館において一流の腕前を競っている。細かくて大胆な所作に目を奪われた。

早朝まだ暗いうちに出発し、出雲から鳥取砂丘まで2時間半。朝日がまぶしすぎて運転が辛かろうと心配していたが、雲が適度に太陽を隠してくれて気温も低めで快適であった。残念ながら大雨が続いたあとに、ここ数日風もなかったとみえて風紋を見ることはできなかったが、穏やかな日本海にいだかれた砂丘を散策した。砂の美術館を見終わるころに酷いどしゃ降りとなった。夏休み中、実質最後の土日(30日31日もあるが慌ただしくてのんびりできないだろう)で人出も多くなりはじめた頃に、急に降られた人たちは慌てふためいたことであろう。

さあて、ホントのロシアへの旅へいつか行きたいものだ。ウラル山脈の向こう側だけでもいい。憧れが広がる。

(威風堂々として未来を見据えるかのようなチャイコフスキー)
旅人は醍醐味求め旅に出る [2014年08月26日(Tue)]

fumihouse-2014-08-26T18-34-10-1-thumbnail2.JPG茂木健一郎氏がJALの機内誌「旅の途中」(Sky ward2014年8月号)で、このように書いている。旅の醍醐味、いいなぁ。

≪ひととおり観光が終わると、だんだんその街の空気を感じるようになる。街を歩いているだけで楽しいし、自分がその街に溶け込んでいる実感が得られてくる。これぞまさに旅の醍醐味ですね。同じ場所を訪ねてもその都度新しい発見がある。だから人間はずっと旅をし続けるんですよ≫

観光名所をひととおり巡っているだけでは味わえない感覚である。有名な観光地に行った→確かに見たぞ→写真のとおりだった→記念写真……こんなふうに終わってしまうことのどんなに多いことか。写真を撮るやいなや、さっさと引き上げてしまう人の多いこと。目にとどめない限り、心には残らない。じっくり観察し、イメージを起こし、語り合い、出発の時間となれば、名残惜しく振り返って見て、最後の時間を惜しむ。できることならば、再び訪れて再会を懐かしむ。そうすれば永久に命にも刻まれることだろう。しかし残念ながらそこまでの時間はない、多くの人にとっては。せめてその場だけでも目を皿のようにして観光の対象を眺めることとしたい。

以上は「景色」に関して言えることである。旅の楽しさは、「食」と「人」にもある。その場で何をどんなふうに食べたのか。どんな人と出会って心を通わせることができたのか。その結果、旅は醍醐味となって旅人を豊かにしてくれる。
健康にヨダレたらたら口を開け [2014年08月25日(Mon)]

fumihouse-2014-08-25T17-13-45-1-thumbnail2.JPG日々の生活のなかでこれほど無防備な姿はないであろう。何か一心不乱にやっていて周りに注意が行き届かなくてスキだらけというわけではない。身をすべて任せきって、私はあなたの思うがままに…という姿である。

人間ドックで胃カメラを飲んできた。ここ数年は鼻から入れているから、飲むという感覚は薄いけれども、喉から食道へ、胃から十二指腸までを内視鏡が往復することには違いない。健康であるためにはやむを得ないところだ。

昨夜から絶食。今朝も水しか飲んでいない。説明を受けて、まずはトロミのある液体を飲んで喉の奥をなめらかにする。鼻の穴両方に麻酔液を注入する。喉の奥に垂れ落ちる苦い液をティシッシュに吐き出す。しばらく置いて完全に麻酔がかかるのを待つ。鼻に管を通す。なめらかな穴から内視鏡、突入。

鼻の奥から喉にかけての違和感は毎度のこと。初めての時は嘔吐感があって苦しい思いをしたが、もう慣れた。肩の力を抜いて口を開けたままにしておく。顔を横へ向けてヨダレは垂れ続けホーダイ。これ以上不細工なかっこうはないだろう。大地震が起こったり、ゴジラが現れたりしたときには逃げることもままならないだろう。

言われるままに深呼吸をしたり息を止めたりする。ゲップは出さないように我慢して大人しくしている。必要なところで医師は腫瘍や異常の有無を確認したり写真を撮ったりしている。苦しい思いをしている私には見えないし、そんな余裕はない。唯一の頼みは看護士さんが背中や肩を優しくさすってくれていること。

ヨダレじゅくじゅくのまま検査は終わった。所見では異常なしとの言葉に安心して処置台から降りる。液やヨダレを拭き取り洗い、一連の検査が終わる。何もなければ一件落着。これで異常が見つかれば心は揺れ動く。健康診断とは多くの人にとって、「おおむね健康であることを確かめるための診断」であって、「不健康な兆候があった場合に即治療に向けて動きだすための診断」ではない。異常があるという可能性はあらかじめ考えていないものだ。だから「要精検」となった人が追加検査を恐れるのである。

ともあれ、健診センターが用意してくれた昼食の弁当がおいしかった。胃にゆっくりとしみ通っていくような心持ちがした。
ひとはみな高きに立ちて思うもの [2014年08月24日(Sun)]

fumihouse-2014-08-24T22-59-50-1-thumbnail2.JPGかつて高層ビルの一室で仕事をした時期があった。
楽しいことも多かったが、苦しい経験もした。
長時間勤務でもあった。
モヤモヤして悩んだとき26階の最上階に上った。
広い窓から暗くなった東京の街を眺めた。
深夜のビル群はどこを見ても窓はこうこうと明るかった。
道路は車のヘッドライトやテールランプが連なって美しい。
ビルや車の灯りの一つひとつに人の生活がある。
喜びがあり悲しみがあり怒りがあり楽しみがある。
名を知らぬ多くの人が生きている。
巨大な社会にあっては微々たる存在でしかない。
人間というもののちっぽけさが感じられた。
小さくはあっても、同時にかけがえのないこともわかる。
自身が悩む事柄が相対して小さなものに思えてきた。
頑張ろうと思って再び執務に戻る。
高いところから眺めると、人間というもののちっぽけさを思う。
高いところで思索したとき、人は口角を上げて顔晴っていこうと決意することができる。
他人をせせら笑って溜飲を下げる人たちが哀れに思えてくるものだ。
機種を替えてんやわんやでスリスリと [2014年08月23日(Sat)]

fumihouse-2014-08-23T22-47-39-1-thumbnail2.JPG機種を替えました。スマホを2年半ぶりに替えたのです。電池がへたってあれよという間に残量が減っていきます。もう見ていられません。長らく使った愛機でしたが、今日でおさらばでした。

家族もちょうど機械の不調やタブレットデビューの必要もあったことから、数日前に一気に替える決断をしたのです。その日に1時間半。その日は機種を選び、契約内容を決めて、今日は予約の時間にショップに行き、手続きに1時間、店側の設定とデータの移し替えに1時間、さらに使い方の確認に30分を費やしました。さらに帰ってから必要なソフトのインストール、無線LANの設定、その他のカスタマイズと、なんだかんだと2時間くらいをかけてやっとのことで終わりました。

疲れはしましたが、教え合い助け合いながらの時間はなかなか充実したのものでした。今日はここまで、おやすみなさい(-_-)zzzです。
ゆっくりと歩く夕刻天気よし [2014年08月22日(Fri)]

fumihouse-2014-08-22T18-53-22-1-thumbnail2.JPGあるく ゆっくり 歩く
キョロキョロしながら あるく
みえる よおーく 見える
運転しているのでは 見えないことがみえる
かんじる 町のたたずまいを 感じる
立ち視線だと 町の息づかいが かんじられる
きこえる 思いがけなく 聞こえる
虫の音が人家の話し声が きこえてくる
におう 花が香る 夏の匂いまでする
秋の気配まで におってくる
ふれる 手を伸ばせば 触れられる
木のはだ 壁の凸凹 流れる空気に ふれるんだ
かんがえる いろんなことを 考える
思索はめぐり あれやこれ 楽しくかんがえ広がるよ
天気は上々 気分も上々
天と地をつなげる道よ恐ろしや [2014年08月21日(Thu)]

fumihouse-2014-08-21T17-09-40-1-thumbnail2.JPG≪広島は昨夜から尋常ではない雨雷が押し寄せ、報道されているような状況です。幸い、少し離れていたので、被害はありませんでした≫

私からの安否を問うメールに対し、広島・安佐南区に住む友人からの返信である。彼の自宅は被害はなかったものの、ご実家が土砂崩れの被害を受けられ避難生活をされているとのこと。お見舞いを申し上げた。

今回の災害に心が痛む。安佐南区、安佐北区の住宅地の惨状に目を疑うありさまだ。ニュースのトップは広島一色に染まっている。消防、警察、陸上自衛隊による救助活動は思うにまかせない。

土砂災害防止法(土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律)というのは、2001年につくられた法律である。土砂災害のおそれのある区域に危険を周知し警戒避難態勢を整備したり、住宅が危険な場所に立地しないよう開発を抑制するための法律だ。1999年にも広島で20人が亡くなられる土砂災害があったことをきっかけにしている。残念ながらこの大雨にあたり、法律の趣旨は生かされなかった。今回は不運が重なったということもある。

まずは深夜であったこと。広島市北部で20日午前2時過ぎから1時間に100mmを超える恐怖の豪雨が降ったことが一つ。もう一つは地盤を支える地質がもろいまさ土(花崗岩が風化したもの)であったこと。深夜であったことで広島市が避難勧告を出すのが遅れたのは人為ミスの要素だが、仮に午前2時に避難指示が出ていたとしても超のつく豪雨と真っ暗闇の中では、避難すること自体が大いに危険だ。

≪どこにいても、災害は突然やって来るものですね≫と、彼は述懐していた。天災は忘れたころにやってくる、とは寺田寅彦の言葉だったと思うが、災害に遭うことは他人事ではない。自分には関係のない余所事だと考えるべからず。万人に災禍は引き起こると考えて自分が危ないと思ったら、逃げる、近づかない、誘い合って逃げる、私は大丈夫と逃げない人がいても引きずられない、空振りはやむを得ない…そうした心持ちで災害に対処していきたいと思う。

復旧にはまだまだ時間はかかるであろう。しかも不安定な天気は相変わらずで、北からの寒気と南からの湿った空気が混じりあって大雨の恐れは続く。自然は恐ろしい、地球は牙をむく。半面、自然環境は恵みに満ちている。

(広島に穏やかな空が戻り、苦しむ方々が早く安心して過ごせますように…)
迷惑にとどまるうちはいいけれど [2014年08月20日(Wed)]

fumihouse-2014-08-20T17-37-29-1-thumbnail2.JPG■あ!あの〜てれてれメール見てくれたのかなぁ??(´;ω;`)

近頃、数日に一度はくる迷惑メールです。手をかえ品をかえ、奴らは送ってきます。docomoやauのアカウントを装って邪悪な奴らは企てているのです。興味をそそられたカモが食指を動かすとみるや波状攻撃をしてくるのでしょう。そうは問屋が卸しません。迷惑メール報告をして削除します。それでも、いたちごっこは続きます。おそらく、私のアドレスをケータイかパソコンに保存していた誰かの情報が流出したのでしょう。困ったものですよ。

■結実ですよぉ〜(*・ω・) メール届いてる!?
■何度もごめんね下矢印2結実です。同窓会のやつ今日中に返事ださなきゃみたいなの。。。これ見たら連絡ください!!
■結実だけど鍵これって、奈保ちゃんのアドレスであってますか??
■結実です♪ 奈保ちゃん同窓会どうする??あ、アドレスはよっちから聞いたよウインク

しばらく前は次のような内容でした。エロい劣情を刺激する意図なのでしょうが、実につまらん!!!!?

■あなたはアイドルや女優の裏動画の噂を聞いたり見たことが事ありますか? 大概は顔がよく見えなかったり別人だったりです。本当の本物を見てみたい方は →(ここにURLを表示)
勿論!女子高生、ギャル、コスプレOL,人妻、熟女などもあります! →(ここにURLを表示)

それらのごみメールを受け取りたくないと思って、迷惑メール設定のセキュリティを強化すると困ったことがおこるのです。パソコンから送るメールがシャットアウトされてしまうため、使いものになりません。だから、奴らが送り出してくるアカウントをいちいち受けとる羽目になるのです。いいかげんにしてほしいものですね。
青青と夏は過ぎ行く秋の空 [2014年08月19日(Tue)]

fumihouse-2014-08-19T18-11-17-1-thumbnail2.JPG青年と話し合うのは楽しい。
若やいだ息吹がずんずん伝わってくる。
青年と語り合うのは緊張する。
真剣に前進する若さを萎れさせてはならない。
青年と目を合わせるのは少しどぎまぎだ。
希望に満ちた歩みを願う熱い視線がある。
青年と話し込むうちに時間を忘れるのは嬉しい。
訥々と語る彼の向こうには無限に思える時間がある。
青年と立ち話をするのは我が鏡だ。
たまには膝付き合わせて心を通わせれば私は昔を思い出す。
青年とともに時間を費やすのはすてきだ。
無駄に過ごしたと後悔することはない。枯れてはいられないと意気上がる。

季節は夏。湿った空気が梅雨のような前線に流れ込んで連日の雨、曇り。晴れても先日までの殺人的な暑さはない。早すぎる秋がくるのか、枯れる秋がくるのか。いやいや、その前に実りの時はやってくる。

(プラタナスの実がなっている。暑い夏もまた、日々様々な天候で彩られていく)
赤信号ひとりで渡るか渡らぬか [2014年08月18日(Mon)]

fumihouse-2014-08-18T18-00-45-1-thumbnail2.JPG「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という北野武のブラックギャグのせいかどうかは知りませんが、ある調査によれば「安全だと思えば歩行者用信号が赤でも渡る」ひとが61%にもなるそうです。

かつては、日本人は規範意識が強いので自動車が来ていなくても赤信号であれば渡らない、などと外国人に言われたものでした。この喧伝が行き渡り過ぎたせいか、冒頭の「みんなで渡れば…」のせいかは分かりませんが、日本はすっかり様変わりしたようです。それとも、他人が見ていなければ何をしても良いとする気分が強くなってきたのでしょうか。

待つのが面倒くさいとか、時間がもったいないという理由はうなずけますが、待っていると恥ずかしいとか、変な目で見られるからという理由もあったといいます。時代は変わりましたね、明らかに。

赤信号を渡るのがメジャーになったとしても十分注意が必要です。自分では安全が確認できたように思っていても思わぬ死角はあります。猛スピードで歩道に乗り上げる暴走車が来るかもしれません。油断はできないのです。

さて私はどうするかといいますと、「渡ります」。左右はもちろん遠くまで十二分に確かめてからサッと走って渡ります。ただし、よその子供が近くにいる時は渡りません。教育的配慮から我慢します。こちらが赤信号を待っていると、さっさと信号無視して渡る小学生がいたりして、面食らうこともあったりはしますが、近くに子供の目があるかどうかが私の判断基準です(言うまでもなく、車は来ないという前提ですよ)。

(奔放な感じに咲いているハイビスカス。オレンジや橙色に夏を感じる)
ぺてん師の国に送られ受難かな [2014年08月17日(Sun)]

fumihouse-2014-08-17T13-56-19-1-thumbnail2.JPG映画『オズの魔法使い』は1939年の製作です。ドロシーがカンザスで暮らした少女時代はセピア色のモノクロ。大竜巻に吸いとられてオズの国に迷い混んだ途端にカラーに替わります(総天然色といった方がふさわしい)。書割のスタジオセットであることがよく分かりますが、ミュージカルとしての歌やダンスの質の高さに驚きます。竜巻のシーンはどのような特撮をしたのでしょうか。背景の画像も含めて竜巻の恐ろしさが伝わってきました。

この映画から2年後、日本は対中戦争に飽きたらず太平洋戦争に突入していくわけですが、無謀だったことが映画からも分かります。こうした技術と人材群を有する国なのです。しかも戦時下にあっても、これほどの芸術を産み出せる精神的な余裕…。大人と子供以上の力の差だったことでしょう。もちろん日本は3年半も持ちこたえたと言うべきです。多くの国や地域に災禍を撒き散らし、自らも310万人もの戦死者を出し、日本は燃え尽き戦争に敗れました。資源も人も、心も含めて全て費やしたからこそ、物量が圧倒的に不足し作戦を立てる上層部が無能ななかにあっても、米軍を手こずらせることができたのです。だからこそ余計に開戦したことが悔やまれます。

ドロシーが愛犬とともに不時着したのはオズの国。彼女は故郷カンザスに帰るため、脳みそのない案山子、臆病なライオン、心のないブリキの人形と共に冒険します。3者はその冒険に賭けていました、自分に欠けたものを得ようとして。ドロシーは故郷カンザスに帰ることを最大の望みとしつつ、案山子たちが望みをかなえるよう共に願い、助け合いました。

欠けているものは無いように見えても、実は小さいながらも有るところに有ったのです、自分自身の中に。小さな芽でしかなかった求めるものを育てたのは、まさに「自分」であり援助してくれる他者の力でした。いわゆる「自分さがし」に彷徨する人がいます。しかし現実には確固たる自分はどこを探してもなく、自分にあらかじめ備わっているのと同じです。日常において格闘するなかに才能の芽は見つかり、丹念に育てていくなかに開花することを、この物語も示しています。それが虹のかなたなのです。

Somewhere over the rainbow Sky the Blue And the dreams that you dreamed of Dreams really do come true.
虹のかなたのその国はどこまでも青い空。夢の国では夢はかならず実現するから安心なさいね…とドロシーはすばらしい歌声を披露してくれます(ここだけあまりに大人の歌声すぎて不自然ではありましたが)。

オズの魔法使が「案山子は頭脳を使い困難を乗り越えた。ライオンは勇気をもって危険に立ち向かった。ブリキの人形はドロシーのため涙した。皆の願いはかなった」と述べました(苦し紛れの言い逃れで、オズのぺてん師たる面目躍如といった趣でしたが)。幸せの青い鳥は身近にある、足下に泉ありといったメッセージです。虹のかなたに理想の別世界はなく現実の延長があるのみ。が、そこにこそ求めるものがあるのです。

さて、ドロシーの「大好きなおばさんの家に帰りたい」という願いは良い魔女によって果たされました。エマおばさんは結構年取っています。本当の父母はどこにいるのでしょうか(過去の竜巻で命を奪われたのかも)。お母さんの大分上の姉さんがエマおばさんだったのではないでしょうか。「大好きな」とは言いましたが、ドロシーを彼女が優しくかまってくれるわけではありません。不機嫌で愛想もよくありません。それなのに「大好きなおばさんがいるカンザスに帰りたい」とドロシーは一貫している。エメラルドシティはきらびやかな色彩と文物にあふれ、仲間もたくさんできました。だのに、遊ぶ友達もいない(たぶん)カンザスに帰りたい。ドロシーに迷いはなかったのでしょうか。肉親たるおばさんと亡くなった母親との間には不可思議な秘密がありそうな気がします。ドロシーはそれを知っている、あるいは感じており心底納得している。この謎にもこの物語が百年以上も人気を保ってきた理由があるのかもしれませんね。
湖畔には平木コレクト絢爛に [2014年08月16日(Sat)]

fumihouse-2014-08-16T13-46-37-1-thumbnail2.JPG島根県立美術館の『浮世絵の美〜平木コレクション』を観てきました。このコレクションは、稀少な初期浮世絵に始まり、鈴木春信や喜多川歌麿、東洲斎写楽、歌川広重など浮世絵史上の巨匠たちが絢爛たる全盛期を誇った江戸後期の作品にいたるまで網羅しているだけでなく、保存状態がとてもよいものばかりだそうです。「なまずのひとこと」という短冊状のものがさりげなく貼ってあります。学芸員の遊び心も満載でした。ただ何故ナマズなのかは不明ですが…。

≪なまずのひとこと五  女性の髪の毛の表現にご注目。髪の生え際、流れるような美しい髪の線など、彫師の技術の高さがうかがえます。浮世絵をご覧になる際はどうぞ間近に寄ってください≫

美の神は細部に宿るともいいます。髪の線、生え際、さらに眉の線に極小の筆と彫りを使って繊細に表現していることに感心します。19世紀から20世紀にかけて欧米で浮世絵が大人気となった理由の一つがそこにあったのかもしれません。ミニチュア化する日本の美というのがあります。大木を模した盆栽、山野を眼前に集約した枯山水などの庭造り、各種お土産物に溢れる精巧なミニチュア…こうした日本の工芸品類を貫く美の基準が浮世絵にも当てはまるのでしょうか。

浮世絵は絵自体がたいがい小さいのです。短冊かそれより小さいものもあるし、大きなものでもせいぜい10号くらいでしょうか。小さな画に微細な表現。それらに目を凝らしていると疲れます。しかも、ナマズ君はこう断っていますから疲れるのも無理はありません。

≪「部屋が暗いな」とお感じのことと思います。じつは浮世絵版画はとても光に弱いもの。繊細な絵具が退色しないよう明るさ(照度)に気をつけています≫

謎の絵師・写楽のことについて次のような解釈を知り、得した気分です。
≪役者の容貌を誇張した写楽の役者絵が受け入れられなかったのは、本来役者絵は、ブロマイドとしての役割を果たすものであり、美しく格好良い姿をファンは買い求めたのである。(補:写楽の絵は)役者の芸質、役の本質まで鋭く捉えた肖像画としての芸術性が、高く評価されている≫

なまず君だから、ですます調 と である調に統一性がないのはご愛嬌として、よく目を凝らして見ると写楽の絵は線がざっくりしているのです。顔の造作や動きを誇張してあります。いわば似顔絵です。スターの写真ブロマイドやYouTubeを見て楽しむようにして、当時の熱烈ファンは細かな線を忠実に現した写実的な絵を求めた。写楽の似顔絵的なものでは満足できなかったのでしょうね。「楽しく写す」作家の絵ではなく、「忠実に写した」作家を好んだのですね。
怪獣も地球の恵み受けて生き [2014年08月15日(Fri)]

fumihouse-2014-08-15T12-27-51-1-thumbnail2.JPGゴジラは怪獣である前に、生き物であることを再認識した映画だった。怒り、憎しみ、傷つき、計略し、敵の迫力にたじたじとなり、自分の住む環境を守ろうとする生き物であった。地球生態系の頂点に君臨する王者ゴジラは新怪獣を倒すために登場し、自分の住む環境が崩されることを回避しようとした。そうした姿をアメリカ版『GODZILLA』は十分に描いてくれている。

超巨大な怪獣たちが戦うときの凄まじい破壊力、空気を切り刻むかのような咆哮、歩くときの大震動、羽ばたきの衝撃波、高層ビルが崩れるときの大音響…。それらの質感を画面に表現して驚愕と恐怖を感じた。日米だけでなく各国で人気を博しているのも当然だと思う。

怪獣とは巨大化したものばかりではない。小さなものとて、人類の脅威となれば怪獣と言える。さながら、エボラ出血熱や新型インフルエンザなどその部類かもしれない。今まさに地球環境を破壊する元凶となっている人類に対して地球自身が矛先を向けている、異常気象や微細な病原体の攻撃として…。そう、脅威は人類自身のことなのだ。

原子力をエネルギー源として生きる巨大怪獣たちは、従来のように水爆実験から生まれたという不自然な設定ではなかった。放射能汚染が強かった古生代(かれらには福音)に栄え、地球の大気が安定し放射線が弱まったときから地中に引っ込んだが、人類が生み出した放射性物質を糧にして再び地上に現れてきたという設定が斬新だ。しかも核兵器保有国が繰り返した核実験は実験にあらず。ゴジラを撃滅させるための攻撃だったけれども、ゴジラは逆に吸い取って強大になってしまったというのも納得できる。半面現実の核保有国家の罪を一等減じる印象はあるが…。

ゴジラが108mというのも除夜の鐘、煩悩の数108個と同じ数で象徴的だ。人間の愚行が108あるとしても、それはある面人間がより豊かに強く生きたいという意欲の現れなのである。功罪両面をもつ人類の「脅威」をいかに私たち自身がコントロールするかが、人類自体の末代までの生存にもつながっていく。

今日は69回目の終戦の日。戦争という人間の愚行も含め、人類が遭遇する受難についてもっと考えるべき時かもしれない。戦争ばかりではない。貧困も飢餓も麻薬(危険ドラッグも)…、すべては人間の営みから巻き起こされる災禍である場合が多い。人間という地球にとっての厄災をなんとかすべき時なのだ。もちろん何度でも書くが、それは功罪両面がある。

(新雪はどこまでも白い。しかしながら光の陰影を映してどこまでも深い)
廃刀の後にもあてに流浪の身 [2014年08月14日(Thu)]

fumihouse-2014-08-14T17-55-18-1-thumbnail2.JPGたとえ刃に身をえぐられて痛さに顔をしかめることがあったとしても、敵は倒れない。凶刃を再び向けて変わらぬ鋭い切っ先で味方を襲う恐ろしい敵。切れ味鋭い真剣で立ち向かってもそんな状態なのに、剣心は逆刃でもって敵を打ちのめすだけだ。二度と人を殺(あや)めないと誓った剣心はその剣法を貫くのであるが、敵の斬撃が剣心の体をかすめ、ときには肌を切って血がにじむだけに危なっかしい。剣心危うし……。

映画『るろうに剣心』の第2作『るろうに剣心 京都大火編』を観てきました。設定は1878年。明治が始まって10年後です。さて、剣心のこの剣法が専守防衛なのでしょうか。いいえ違います。専守防衛ならば敵が兵器を向けて侵略攻撃してきたときには本気で戦います。逆刃ではなく、真剣で敵を叩き切るのです。むろん切られることもあるでしょう。むしろ切り死にする可能性が高い、敵方は実戦経験があるのですから。

スタッフに「救護・医療班」というのがありました。脇役の殺陣でなくても、速くて激しい当たりばかりだったのですから、主役級の面々の剣は目にも止まらぬ速さで相当な厳しさでした。生傷もたえなかったことでしょう。

そして最後に出ましたよ、思いがけない大物が。エンドロールの紹介には「謎の男」と。役者は誰か? 第3作『るろうに剣心 伝説の最期編』が封切られるのが来月の半ば。どうしても観たくなりますね、ああいう終わりかたをされると。楽しみにしています。

(静かなたたずまいで咲いている薄紫の木槿。激しい映画のあとは穏やかに涼みたい)
曇天のお盆列車に句を詠もう [2014年08月13日(Wed)]

fumihouse-2014-08-13T18-02-46-1-thumbnail2.JPGアスファルト影を探して炎天下
炎熱に焼かれて水が足らぬひと
熱中は気持ちだけにと水を飲む
エアコンは命の糧ぞホッとして
曇天も胃の府に染みるかき氷
青草に刈られ刈られて酷暑かな
ひとときは赤字消え失せ帰省客
大鞄帰省の人あり懐かしや
ローカル線異国の旅人海を見る
夏の夜に期待がスカで流星群
遊泳場週末雨に寂れ果て
列車行く外は炎熱うちクール

(白い木槿(ムクゲ)とアオイはよく似ている。ついでにハイビスカスも花の様子がそっくりだ)
あてにされ要場所をつくる幸せよ [2014年08月12日(Tue)]

fumihouse-2014-08-12T19-10-14-1-thumbnail2.JPGひとは誰でも「いばしょ」を求める。
安んじてくつろぎ、気のおけない仲間や家族とともに時間を過ごせる「居場所」。
ただ単にのんびりとそこに居るだけの居場所もいい。
心地よい本当に安心できる場所は、自分が要るところ、必要とされるところ。
それが「要場所」。
自分が頼りにされることを楽しみ、ひとに貢献することの喜びをかみしめる。
いるだけの居場所から、自分が頼りにされる価値ある要場所へ。
他者に迎合し気をつかい過ぎるのは要場所にはならない。
辛くて面倒くさくて離れたくなってしまうだろう。
居場所は要場所。
真の要場所を一つでももつひとは幸せだ。

(紅色の葵。アオイといっても赤い花。かれらもこの場がとても心地よい)
痛快に参勤交代泣き笑い [2014年08月11日(Mon)]

fumihouse-2014-08-11T19-14-26-1-thumbnail2.JPG映画『超高速!参勤交代』は痛快な喜劇です。しかし当の湯長谷藩の面々にとっては、藩がつぶれるかどうか、生か死かというせっぱ詰まった状態。それを私たち観客は楽しみました。弱い立場の者が上位の者に対し正論でやり込め、強い目力で強者の罪をあげつらうとき、観客には胸のすく思いがあるのです。そして、もつべきものは誠実な情愛で、信じ抜くことも含めた徳の力であることを知るのです。また、知恵と武力という真の実力(運も含めてか)をつけなくてはならないものだと改めて思うのです。

福島・磐城の湯長谷藩から8日かかる参勤交代を5日で江戸に着くよう悪徳老中から強要され、しかも国許に帰った翌日には再出発しなければならないという無理難題に、客は登場人物とともに怒ります。しかも蓄えはない、従者もわずかしかいない状況に怒るのです。一行を亡きものにしようと暗躍する隠密の悪事に怒り、金だけもらって案内を放棄した忍び段蔵に怒り、宿場の女郎宿で強いたげられていたお咲(深田恭子)をいじめる女将と旦那に怒り、お咲の境遇に涙するのです。

また観客は、弱小貧乏藩であったとしても藩と領民を守るという一点で奮闘する藩主(佐々木蔵之介)に喝采を送り、徳川吉宗将軍が正義を貫いてくれたことに手をたたき、敵が束になってかかってきても屈強の武者は目にも止まらぬ剣劇でバッタバッタとなぎ倒すところも痛快です。すべての観客が溜飲を下げたことでしょう。

「超高速」の名にふさわしく、疾走感あふれたストーリー展開。ギャグの笑いもありますが、権力者の恥部をえぐるような皮肉の笑いもありました。のんびりとした湯長谷藩の風情にも思わず微笑みがこぼれます。この厳しさと温かさの両者がバランスよく映像を貫いていること。そこが人気の理由なのだと思います。観終わって得したと思えた映画でした。
日本語を安吾考えものにする [2014年08月10日(Sun)]

fumihouse-2014-08-10T22-43-15-1-thumbnail2.JPG坂口安吾が『恋愛論』でこのように述べている。日本語にとって(日本人にとってかな)、「愛する」という言葉は馴染みにくいということ。よくわかる気がする。

≪今日われわれの日常の慣用においても、愛とか恋は何となく板につかない言葉の一つで、ぼくはあなたを愛します、などというと舞台の上でウワの空にしゃべっているような、われわれの生活の地盤に密着しない空々しさが感じられる。愛す、というのは何となくキザだ。そこで、ぼくはあなたがすきだ、という。この方がホンモノらしい重量があるような気がするから、要するに英語のラブと同じ結果になるようだが、しかし、日本語のすきだ、だけでは力不足の感があり、チョコレートなみにしかすきでないような物たりなさがあるから、しかたなしに、とてもすきなんだ、と力むことになる。≫

「愛してる」ではギザだし重過ぎるから、「好きだよ」と言う。ところがそれでは軽過ぎて、「とっても好きだ」と付け足す。残念ながら何か物足りない。日本語は直接的に愛を語るには語彙が足りないようだ。

「I miss you.」というのも同じことがいえる。誰それがそこにいないことを寂しく思う、という意味であるが、異性に対して「アイ・ミス・ユー」、特に女性からそう言われた(メールにでも書かれた)男は、有頂天になってしまうかもしれない。あのひとはボクのことを好きなんだ…と。でも、「あなたもうここにはいないのよねえ、あちこち連れていってくれて楽しかったし、ちょっと残念だわ…」。そんな軽い意味合いだった可能性もある。「ミス・ユー」には幅広いニュアンスを含ませて、恋の駆け引きはいっそう多様になっていく。あるときは力み、またあるときは弛緩させて、恋愛をはじめとした人間関係がバラエティに富んだものになっていく。私たちはそうした手管を学んでいくことが必要なのかもしれない。
貧すれば自転車泥棒鈍したり [2014年08月09日(Sat)]

fumihouse-2014-08-09T16-37-41-1-thumbnail2.jpgイタリア映画『自転車泥棒』は貧しさに悲しい思いをし、いたいけな子供に涙する物語だ。1949年、まだ戦後の焼跡や人びとの心の傷も色濃く残っていたころに作られた映画である。

アントニオ・リッチが二年ぶりにありついた仕事。ローマの街には失業者があふれていたが、彼は幸運だった。その仕事は街の壁にポスターを貼ることで手当もよかった。条件は自前の自転車を持っていること。自転車は質に入れてある。妻が嫁入り道具としてもってきていた上等のシーツを代わりに質入れして、自転車を取り戻したアントニオ。妻は喜び、仕事は順調にいくかにみえた。こともあろうか、アントニオは虎の子たる自転車を盗まれてしまったのだ。悲嘆にくれる妻。アントニオは友人の助けを借りて、幼い息子とともに市街を探すが、泥棒は見つからない。

雨に濡れそぼつ父子。みじめで辛くて身のおきどころがない父子。「リッチ」という名とは正反対のこの境遇を、彼はどれほど嘆いたことだろう。息子はその父を思いやりながら、一緒に懸命に自転車のありかと、泥棒を探した。どん詰まりに陥ってアントニオは焦った。苛立ちを息子にぶつけるアントニオ。彼は無神論だったようだが、溺れるものは藁をもつかむで、彼は占いにも手を出した。それでも八方ふさがり状態はかわらない。

アントニオは雄弁ではなく、言葉がいつも足らない。犯人の手がかりをもつ老人にも、息子ブルーノにも、言葉を尽くさず、ごり押しをする。貧すれば鈍する…追い込まれていく。証拠もないのに、泥棒の後ろ姿に似ている若者を責め立てる。若者の仲間に逆に責められ、息子が連れてきた警官も力にならなかった。貧すれば鈍する…リッチは衝動押さえがたく、自らが自転車泥棒になってしまった。群衆に取り押さえられ、彼は言葉もない。弁解しようと思えばできただろう。しかし彼には言葉がなかった。貧すれば鈍する…出なかったというべきかもしれない。

苛立ちから息子をぶったときもそうだった。彼は説明しない。貧すれば鈍する…自分の感情を筋道たてて話すことなどできなかったのだ。犯人の手がかりをもつ老人にたいしても、自分の窮状を訴えて同情を買えばよかったのに、それをしなかった。貧すれば鈍する…いやできなかったのだ。

幸いにも警官は呼ばれず、彼が逮捕されることはなかったが、親子が手をつないでローマの雑踏をトボトボと歩く姿がなんともやるせないエンディングであった。

(熟れたアールスメロンの網目状の外皮。父子が寂しく歩いたローマの雑踏を想像してしまうかのように入りくんでいる)
想像で気持ち広がる思いやり [2014年08月08日(Fri)]

fumihouse-2014-08-08T18-16-33-1-thumbnail2.JPGACジャパンが8月5日付けの新聞で広告をだした。
『想像力で、ゆめも、やさしさも、ひろがるね。』

かわいらしいイラストつきで、月になったら、どんな気持ちかな?と問いを読者に向ける。さらに、ひとりぼっちになったら…空がとべたら…うさぎになったら…雨になったら…と次々に考えさせて、最後にいじわるされたらどんな気持ちか、と問う。いかにも作為的な広告だ(そもそも作為のない広告などないが)。

自分がイジメられたとしたら、どう思う?と相手の立場にたって考えさせようとしても、現実はむずかしい。殊勝にも考えてくれても、立場が違い、家族や友達環境が異なり、影響をうけた文章や映像も違うのならば、同じ気持ちになることはむずかしい。思いやりを単純に押し付ける広告だ(そもそも押し付けない広告などないが)。

こちらの期待とは正反対なことを考えて、邪悪な想像力を広げてしまう者もいるかもしれない。思いがけない波紋が広がって、かえって当人を苦しめてしまう場合だってあるかもしれない。じゃあ、遠巻きにして傍観者となるのが正しいのか? いや違う。誤解されるかもしれない、曲解する悪意の者もいるかもしれない、イジメの矛先がこちらに向いたら困るという考え方もあろう。だから「ゆめも、やさしさも、ひろ」げたい、と望んでいるんだと広告主はやたらと楽観的だ(そもそも楽観を求めない広告などないが)。

難癖をつけているように思えるかもしれないが、私はこの広告を評価しているのですぞ。やっぱり他人の気持ちは簡単に推し量れないもんでしょ?

(コメの花は問いかけない。ただひたすらに実るを待つ。黙って結実させていく)
嘘つきかやる気のもとか側坐核 [2014年08月07日(Thu)]

fumihouse-2014-08-07T18-45-15-1-thumbnail2.JPG京都大学の阿部特定准教授の研究グループは2種類の実験で、脳の側坐核(そくざかく)の活動が活発なひとほど、嘘をつく傾向があるという研究結果を発表しました。

一つ目の実験は、ボタンをうまく押せば報酬がもらえるという条件で、結果として報酬をもらう期待が高いひとほど側坐核が活発でした。二つ目の実験は、コインの表裏を予想して正解だと報酬があり不正解だと失います。あらかじめ予想を申告しておく場合と、予想と結果を自己申告する場合に分けました。両者の割合に差があるひと、つまり自己申告したときが不自然に正当率が高ければ嘘をついたとみなします。

一つ目の実験で側坐核の活動が活発なひとほど、二つ目の実験で嘘をつく割合が高かったそうです。側坐核は人間がもつ欲求に反応する器官ですが、欲求が強い人ほど嘘をつく可能性が高いと証明されたわけです。側坐核が活発ならば嘘つきなのかというと必ずしもそうでもなく、倫理的なひとはいました。そんなひとは、理性的な判断をつかさどる「背外側前頭前野」の働きがよいそうです。

2006年12月29日のブログでこう書いています。

≪やる気に関わる脳の部位が、大脳辺縁系にある「側坐核」という小さな器官である。快楽に関与するところでもある 。側坐核をしっかりと働かせ、ものごとに対するモチベーションを高めるには、ある程度の「刺激」が必要である。
(中略)簡単なところから、興味の持てるところから、すぐに結果が現れるところから始めるとよい。まず始めるにはたくさんのエネルギーがいるが、後は慣性が働いていく。そうすればだんだんと集中力も出て、ノッてくるものだ。
(中略)できないことはつべこべと考えず、落ちついて打てる手立てを考えて、今できることから着手する。そうすることによって、側坐核はぐんぐんと働いていくことになろう。≫

側坐核は嘘つきの元というばかりではありません。側坐核と上手につきあうことが大切なようです。

(松江フォーゲルパークの梟。トロンとしたやる気のなさそうな目をしている)
蝉の音移り変わりの時代かな [2014年08月06日(Wed)]

fumihouse-2014-08-06T18-31-00-1-thumbnail2.JPG夏のはじまりとともに、ニイニイゼミ。夏の終わりちかくまでニーニーチーチーないている。夏にはなくてはならぬもの。それでも主役になれぬ蝉。小さな姿、可愛いよ。

ジージージージうなるのは、アブラゼミ。ジー爺のように茶の羽色で目立たず汁を吸う。生き物みなを孫見るように温かく、夏を見守り油蝉。

カナカナひたすらカナカナ鳴くのは、ヒグラシ。日を暮らし日を明かす。未明のころに協和しながら鳴き出して、明るくなるとニイニイゼミに座を譲る。昼でもうっそうと暗い森で鳴いている。日が落ち薄暗くなったころ、再び主役に躍り出る。夏は幽玄楽しいな。

数日前に鳴きだしたのは、ツクツクボウシ。少々早めのフライング。あとに続く仲間はいませんよ。派手な蝉だよ、その名のとおり、ツクツクツクツク、ボーシと伸びていく。夏の後半、秋を呼ぶ。

かつては都会の街路にてせわしくジュワジュワ鳴いていたのは、クマゼミ。アブラゼミの羽色を薄緑の透明にして、見た目爽やかその実は、ジュワジュワジュワッチ、うるさいぞ。南国の蝉が侵食し、夏の主役を喰っている。電線電柱どこにでも卵産みつけたくましい。

そしてまだ聞かぬ、ミンミンゼミ。夏の代表、セミの大御所だったは昔かな。夏の盛りはこれひとつ。孤高に気高く鳴いている。いまや暑さの過ぎるせいなのか、クマゼミ攻められ行き場なくしたか。ここ何年も夏の終わりに忘れたころに、チラチラミンミン泣いている。移り変わるは栄枯かな。盛えもあれば衰えもあり。盛者必衰のことわりとはこのことか。

(秋でもないのに女郎花。古びた不適な名前なれど、粟粒を集めたような花がみずみずしいオミナエシ)
歩数計目的と手段はき違え [2014年08月05日(Tue)]

fumihouse-2014-08-05T18-28-31-1-thumbnail2.JPGスマホのアプリ「歩数計」を使っています。歩数はもちろんのこと、推計消費カロリーやエクササイズ量、脂肪燃焼量まで出てくるという優れものです。一日一万歩を目標にしています。

仕事に行く平日は大抵いい線いきます。通勤のために駅へ向かい、駅から職場へ。トイレに行く、必要な場所に行って関係者と調整をしたり、会議をしたりする。一日の仕事が終われば駅に向かい、列車に乗ります。さらに夜のウオーキングをすれば、一万は軽く超えます。もちろん雨が降っていればウオーキングはやりませんから、少なくはなりますが、通勤と仕事でもってそこそこの歩数を稼ぐのです。

一日一万歩ですから一週間で七万歩となります。これが意外と大変なのです。平日はよくても、土日は歩みが少ない。車を使って相当移動するのですが、歩くことは平日の半分以下。へたをすると四分の一まで落ちこみます。どうなるかというと、家でトイレに行くときもスマホを手放さず…少しの歩数を稼ぐ。ウオーキングでもジグザグ歩いて…歩数を稼ぐ…だんだんセコくなっていくのです。

本来何のために歩数を数えるかというと、しっかり歩いてエネルギーを消費し、ズカズカ歩いて負荷をかけて筋力や骨密度を高めるためのものなのですが、いつのまにか、手段でしかなかった歩数が目的化していきます。歩数という数が気になります。何度も数値を確かめては、通算七万歩まであと何歩…などと考えます。本末転倒です。

世の中にはこんなことがいっぱいあるとは、思いませんか? 目標として設定した数が一人歩きして、個人や組織人を苦しめる、という構図はゴマンとありそうです。だから昨夜から止めました、歩数計の数をやたらと気にするのは。一日の終わりに今日もしっかりとした歩みで進んできた、と振り返るときにだけ歩数計を確認することにします。

(ミニトマトも細胞たちのたゆまざる成長によってしか、美味しくなり得ない)
不幸せ思い出転じて幸となれ [2014年08月04日(Mon)]

fumihouse-2014-08-04T18-36-25-1-thumbnail2.jpg映画『思い出のマーニー』のなかでマーニーは『アルハンブラ宮殿の思い出』を口ずさんだ。聴くほうの杏奈にとってそれが夢だったのか、うつつだったのかはわからない。曲名と物語名の両者に『思い出』がつくというのは、単なる洒落ではあるまい。

イベリア半島に花開いたイスラム文化の栄華。レコンキスタでイスラムは追われキリスト教徒の領土となり、追われた者たちにとってアルハンブラは悲しい望郷の遺物となった。原曲の「アルハンブラ」はギターのトレモロ奏法で哀愁の情緒と静けさを醸してくれる。作曲家のタレーガはアルハンブラ宮殿を旅した時にアフリカ大陸へ追われた者たちの「思い出」に感じ入ったことだろう。

一方で「マーニー」のなかで杏奈は先祖への鎮魂を巧まずして達し、自らのアイデンティティを確立し(それは言い過ぎかな?足場を築き)、孤立無援の存在から(彼女の独りよがりだったのだが)、成長と協調への世界を歩みだした。マーニーの思い出と杏奈の思い出とがガッチリつながった時に、二人は時を越えて永遠の友となった。そして互いに「あなたのことが大好き」と、信じあえる者同士、いや同志となったのだ。

お互いが大好きであったにも関わらず、マーニーと杏奈は互いを見失う時があった。これは象徴であろう。どんなに信頼しあう仲であっても、他人は他人。心のうちの全てがわかるわけではない。態度に表された意味をくみ取れるわけがない。不信をおこしてはならないよ、あくまで信じ続けるのだよ…という教訓を象徴するものであったように思える。

マーニーの住まい「湿っ地屋敷」が入江に建っているというのも象徴であろうか。入江は出港する船乗りにとって厳しい船出に立つ場所。甘えが許されぬ厳父のような存在。一転、長旅を終えて戻る船乗りには安息の母なる存在となる。マーニーにとっても杏奈にとっても入江とは心休まる場。そこに建つ湿っ地屋敷は、マーニーにとっても杏奈にも新しい世界へ旅立つ不可欠の存在となった。そして杏奈は凛々しく大人への階段を上り始めた。

(ほんわかした感じ、イラスト風になった茄子の葉っぱ)
シュワシュワと夏の気配よジュワジュワと [2014年08月03日(Sun)]

fumihouse-2014-08-03T22-19-20-1-thumbnail2.JPGシュワシュワと炭酸水が泡をだす…清涼感たっぷりの細かい泡、夏にふさわしい。
ジュワジュワとクマゼミが鳴く…灼熱化した夏の典型、暑すぎてつらい。
シュワシュワと泡立つ雲は入道か…音はゴロゴロ雷さん。
ジュワジュワと焼ける肉なり焼肉よ…美味しい臭いさせてます。
シュワッチとウルトラマンが帰るとき…3分過ぎてカラータイマー騒ぎだす。
ジュワッと飛び立つのはウルトラセブン…異相のヒーロー宇宙の警備にごくろうさん。
シュワシュワジュワジュワ…。シュワシュワジュワジュワ…。夏の色、夏の音、夏のきらめき。

(斜面にあるラベンダー畑にはほのかな香りが集まって、とても爽快花いちもんめ)
カットしてリラックスしてスキリして [2014年08月02日(Sat)]

fumihouse-2014-08-02T23-14-07-1-thumbnail2.JPG散髪するのは、リラックス
なじみの店に入って、いらっしゃいませ
しばらく待って、お待たせしました
なにげない身近な話題に花咲いて、リラックス
頭がずんずん軽くなって、気分がいい
サクサク髪が流れて、スッキリサラサラ
顔を剃って滑らか肌で、爽快だ
そのうち気持ちがよくなって、ウトウト夢を見る
重いものみんな振り捨てて、帰りはすっかりリラックス
ドラッグはつべこべ言わず危険なり [2014年08月01日(Fri)]

fumihouse-2014-08-01T23-38-08-1-thumbnail2.JPG脱法ドラッグ、脱法ハーブが新たに「危険ドラッグ」と呼ばれるようになりました。そもそも新しい呼び名を募集したのは、脱法ドラッグというと覚醒剤や大麻と違って危険がなさそうだという誤解があるからだと、厚労省と警察は言っています。

そもそも、ドラッグは危険そのものなのです。吸ったり口から摂取することで、中枢神経が酩酊し幻覚作用を起こす物質は危険そのものなのです。法令で特別厳しく取り締まらなくてどうするんだ、と言いたくなります。その際、こんなインパクトのない名称でよいのだろうかと思うのは私だけではありますまい。まるで普通のドラッグが危険ではないかのような印象を受けてしまいます。

今回、新名称の候補として応募があったのは、数の多かった順に次のとおりです。

準麻薬/廃人ドラッグ/危険薬物/破滅ドラッグ/危険ドラッグ/有害ドラッグ/違法ドラッグ/殺人ドラッグ/幻覚ドラッグ/錯乱ドラッグ

廃人ドラッグや破滅ドラッグ、錯乱ドラッグ、いいじゃあないですか。それにひきかえ、危険ドラッグという呼称が陳腐な印象を与えてしまうのは、「危険」という言葉が世の中に溢れ過ぎているからです。格別危険なものを「危険」と表現してしまうのは、まるで小学生がインタビューに応えて、「よかったです」と異口同音に言ってしまうのに似ています。どうよかったのか、何に感動したのかが分からないのですよ、これでは。また「ダッポー」という語から響く語感がもっている毒気の強さや道から外れた印象が、「キケン」だと消えてしまうのです。

政府は「危険ドラッグの多くが違法薬物で、人体に大きな影響を与えるとともに、事件や事故を起こして人を傷つける、極めて危険な薬物だということを認識してもらいたい」と述べていますが、この名称では注目されることはまずありません。再考を促したいですね。

(写真のひとは脱法ハーブで少々気持ちが緩んだわけではありません。ただ植田正治写真美術館であるがままにポーズをとっただけなのです)