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猛暑日に涼やか笑顔矢がすりで [2014年07月31日(Thu)]

fumihouse-2014-07-31T17-30-35-1-thumbnail2.JPG白地に淡い紫の矢がすりをまとった着物に、下は袴姿の少女。大正ロマンを感じさせる。その子が笑顔でポーズを決めている。温泉街を貫く川の両側には漆喰と板塀で整えられた旅館の建物がならぶ。橋の欄干は風雅なデザインで趣を感じる。山形・尾花沢市の銀山温泉を使った写真である。以前書いた山形デスティネーションキャンペーンの第二段の広告が出た。

『思い出はいつも、あげるつもりが、もらってばかり。』
『キミと夏と山形』

思い出はあげようと思ってあげられるものではない。もらおうと思っても期待はずれに終わる場合もある。企画し、提案にのり、会話を楽しんで、美味しく食べて、人に出会う。旅が思い出となり、互いの奮闘が思い出を刻み、苦しい経験すらもいつかは思い出となる。

夏本番。島根も引き続き猛暑日となった。益田から米子へ走る快速列車に乗って見る高島はひょっこりひょうたん島のようないい形をしている。県西部は晴れているが、東部方面を見ると厚い入道雲がかかっており、島根県内各地に大雨警報、洪水警報、竜巻注意報が出ている模様。昨夕も出雲は数分間激しい夕立が降った。今日も降ってくれたら夜には涼やかな風が吹いてくれるんだがなあ。大雨ではない適度な雨が降ってくれますように…。

(益田市内で撮った夏の空。いかにも暑い、しかし涼やかだ)
イジメとは繊細びとに刃物向け [2014年07月30日(Wed)]

fumihouse-2014-07-30T21-34-14-1-thumbnail2.JPG日本人殺すにゃ刃物はいらぬ 手のひら返して無視をして噂を流せば十分だ……。傷つきやすい人々の蔓延するこの国にあって、積極的にイジメようとする連中には、そうした精神風土はおあつらえ向きだと言える。

それまで親しくしており友達だと思っていた彼女や彼から突然冷たく無視されて、「わたし」は強いショックを受ける。身におぼえのない噂や他人に知られたくない「わたし」の情報までが流されたりして苦しみは何倍にも増す。その相手がここまで変わってしまったことを信じたくない気持ちと、「わたし」は何か嫌がられることをしたのだろうかと心は揺れる。過去の言動を思い返して、ああすればよかったの?と自省をしても当然ながら結論は出ず、あの時こうすればどんな反応があったろうかと想像してみても詮ないことだ。そんなことを考えるたびに、「わたし」は疲れていく。周囲のメンバーもよそよそしくなり、「わたし」の居場所はどんどん狭くなっていく。「わたし」がこう言ったら相手はどう応えるだろうかと想像するたびに悔しくて、気持ちが煮えくり返るような思いを繰り返す。嫌なシミュレーションを繰り返すにつれ、「わたし」の心はズタズタに疲れ果てる。それは一人相撲にしか過ぎず、相手方が関知するものではない。その疲弊ぶりを相手が知ったとしたらどう言うだろう。勝手に想像して疲れたと言われてもねえ…と相手は陰でほくそ笑み、作戦が成功したことに祝杯をあげる。おそらく、「わたし」が疲れ果てることはあらかじめ折り込み済みなのだ。「わたし」は特定の人ではない。誰もが「わたし」になってしまうことの恐怖がこの国を席巻しているようにみえる。その恐怖から目をそらすためにイジメの標的を探して身の安全を図る者もいる…。

強いストレスにさらされて心が折れてしまいそうになっても、前向きに考え行動できる人はどのような心がけをし、メンタル面のケアをしているのだろうか。「リフレーミング」という手法がある。ものごとの否定的な側面を肯定的にとらえ直すというものだ。

○嫌だなと思う⇒チャンスととらえる
○うまくいかなかった⇒第二志望の選択でも今は悪くない
○辛い日々⇒鍛えの場
○イジメる人⇒イジメことでしか気分が晴れない哀れな人

いわゆるプラス思考である。見方ひとつで、ものごとの印象が反転していくことを忘れてはいけない。ネガティブになりがちな考え方のクセが頭をもたげてきたら、意識的にポジティブな言語に変換していく。さらに笑顔。口角を上げてあえて課題の渦中に飛び込んでいく。そして時折、「哀れな人」とかかわり合いになるのを避けて、逃げることも大切なことなのだ。
舶来のバナナは滑って美味しくて [2014年07月29日(Tue)]

fumihouse-2014-07-29T22-15-36-1-thumbnail2.JPGなつかしの童謡『とんでったバナナ』(作詞:片岡輝/作曲:櫻井順)を今朝のラジオで聞いた。一本のバナナが主人公で、南国の子供が二人取り合いをしているとツルンと滑って飛んでった。バナナは小鳥の巣に飛び込み食べられそうになって逃げ出す。ワニと出会い一緒に踊る。調子に乗りすぎたら滑って飛んで、昼寝をしていた船長さんの口に飛び込んで食べられてしまうという結末だ。バナナが飛んでいくたびに「バナナン バナナン バナナ」と面白いフレーズが繰り返されて楽しい歌だ。

この歌は昭和37年(1962年)につくられている。調べてみるとバナナの輸入が自由化されたのは昭和38年。それ以前は高価な舶来品として珍しい存在であった。かつては台湾バナナとフィリピンバナナが両雄であった。日本が台湾を統治しているころに台湾バナナが輸入されたのが始まりであったが、今ではほとんどフィリピン産バナナがスーパーの売り場を占めている。わたしが子供の頃までは台湾バナナが黄色く熟しており黒い斑点がたくさんあるイメージで(スウィートスポットというらしい)、フィリピンバナナは青過ぎて買ってからしばらく置いたままにしておかないと美味しく食べられないものだった。バナナはデザートの王と言ってもいい存在であったし、皮でツルンと滑って滑稽なことになるというギャグにもよく使われていた。

今やバナナがおやつの王としての地位は墜ち、ギャグにもならなくなってしまったが、10年近く前にバナナダイエットが流行ったことがあったのを思い出す。頻繁に食べるものではないけれど、スウィートスポットがたっぷり表面に出て完熟を超えてトロトロ直前の甘みが私は好きだ。
何時だって見張る黄昏ここにあり [2014年07月28日(Mon)]

fumihouse-2014-07-28T18-01-13-1-thumbnail2.JPG目を見はるものは何処にでもある。心うつ出来事は何時だってつかまえられる。映画のなかで、朝日にさざめく波に水面が輝き、波に揺れる水草がいきいきとし、風に吹かれて木々の葉っぱが表情を変え、アビのつがいが睦まじく楽しげに鳴き、湖が夕焼けて残照が金色に煌めく・・・。大きな場面転換ごとに何気ない自然の情景が織り込んであって心なごませる。

1981年のこの映画『黄昏』(原題: On Golden Pond)の製作者は夏の初めから秋が始まる頃のゴールデン湖を描いた。美しいものは美しい、美しいものは見ようとする心があればそこにある、美しいものは感じる者にのみ美しいと描きたかったのに違いない。

映画に出てきたシーンばかりではない。日常いたるところに美しいものはある。旅先の何気ないたたずまいにも、他人の居ずまいにも、繰りかえす季節の移り変わりにも美は存在している。娘チェルシーと父ノーマンとが頑迷な確執を乗り越えて和解し合い睦み合ったことも美だ。

間に立って二人が分かりあってくれるように努力を重ねてきた母であり妻であるエセルも健気であった。元気な彼女も70代の半ば、衰えが感じられる。それ以上にノーマンは容赦なく老いていく。だからこそ彼女は彼との時間を大切にしたかったし、父娘の健全な関係を願った。期せずして媒介となったのは連れ子のビリー。やんちゃなビリーのお陰でノーマンは頑迷さの檻から抜け出した。予定調和的な物語かもしれないが、錦秋の季節に向かう湖畔の柔らかさや温かさが心に響く。

『黄昏』は笑顔を誘いつつ人生の黄昏時を迎えるに当たっての覚悟とは何かを考えさせてくれる。ノーマンを演じたのはヘンリー・フォンダ。チェルシーのジェーン・フォンダとは実の親子。彼は主演男優賞を得て半年後に亡くなり、本作が遺作となったのはなんともうら悲しい。

さて、英語題を直訳すれば『ゴールデン湖にて』。なんとも殺風景だ。それにひきかえ、日本語題の豊かさよ。

【黄昏】 (古くは「たそかれ」。「誰(た)そ彼(かれ)は」と、人のさまの見分け難い時の意)夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれとき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。(日本国語大辞典)

エンドロールに広がった秋口のゴールデン湖。あの景観を黄昏ときの際立つ美だとすれば、ノーマンとエセルが老いの残照をこの上なく大切にしたことの美…両者の美を掛けて実に味わい深い題名となった。何度でも観たくなる映画である。

(水辺の睡蓮。形よく健やかな感じで咲いている)
夏の華打ちて上がって消えちゃった [2014年07月27日(Sun)]

fumihouse-2014-07-27T21-59-50-1-thumbnail2.JPG「おかあちゃん、花火が上がってるよ」
「バカ言いなさい、ありゃあ、焼夷弾だよ」
「だってえ、ヒュルヒュルピューピューいってるよ。見に出ようよ」
「ヒュルヒュルだけで、バーンって弾けてないだろ。おやっ?爆発の音聞こえてきた。近いよ、あの音だと。さあ、アツシ、逃げるんだよ…」

原爆の落ちた夏のイメージと重なって、都市への大空襲にも夏のイメージがある。むろん夏ばかりではない。鎮魂の終戦記念日が旧盆の時期と重なって、鎮魂の花火に戦争のイメージが連なっていく。お盆の頃に騒々しいセミの声を聞くと、花火が単にお祭り騒ぎではない何かを感じてしまうのかもしれない。

今夜は宍道の花火が上がった。色とりどりに、赤系、黄色系、緑系、青系、金色。煙の灰色をバックにして色は彩々だ。形もさまざまだ。円あり、楕円があり、ハートあり、土星型あり、花型あり、ラッパもある。音も多種多様。ピチピチ、パチパチ、パッパ、ジュルジュル、そして一発ドーン。最初の上がる音のヒュルヒュルもある。しばし合間に聞こえるは虫の声。秋を感じる虫が鳴く。空を見上げて星ぼしも花火に添えてあな嬉し。ともあれ花火が見事に上がるとき、夏の夜空を染めるとき、日本は平和を享受する。
天と地と合わせて暑し盛りにて [2014年07月26日(Sat)]

fumihouse-2014-07-26T22-03-07-1-thumbnail2.JPGアツコとアツシはなかよしだ。
アツコが叫べば地熱吹き出し、アツシがささやき熱風が吹かす。
アツコが微笑めばぽろぽろ熱さがこぼれだし、アツシが歌えばじわりと汗が流れ出す。
アツコが震えて熱の光が空に向かい、アツシがジャンプすれば重力で熱さが混じりあう。
アツコが怒れば頭から火が吹き出して、アツシがへそを曲げればいやいやの空気が世界を不安にする。
アツコが力めば目頭に涙が溜まり、アツシが羽ばたけば寒冷前線がすっ飛んでいく。
アツコは暑子、アツシは暑志。
今夜はひとつ雲子と雨子に登場願いたい。
雲がもくもく雨を降らせてアツコの怒りを冷ませや、アツシの不機嫌収めてよ。
暑子は大地にめくるめく熱よ、暑志は空に渦巻くむごい熱風だ。
ああ、炎暑の君たちよ。どこまで我らを苦しめるのか。

(大田・五十猛の海岸。コバルトブルーとエメラルド色に彩られ、暑さを忘れさせてくれる)
残暑には新たな意味が加わって [2014年07月25日(Fri)]

fumihouse-2014-07-25T06-42-02-1-thumbnail2.JPG残暑お見舞い申し上げます……。
いやいや、まだ立秋じゃない、今なら「暑中見舞い」だよ、とおっしゃるかもしれません。

ところが言いたくもなるんですよ。この暑さは…高熱は…熱波の分厚さは…。「残酷」なほど人を苦しめ、「残忍」と言えるまでに草木を枯らします。

恐怖の暑さが列島をおおっています。東北は梅雨明けしていないといっても、来週には雨が降るだろうと予報されている程度のことですから、暑さは同じようなものです。

地に凝り固まったかのような熱をひと雨降って冷ましてくれるといいのです。昨日も雲が厚い時間帯もありましたが、期待はずれに終わりました。

ところで、昨夜の星空が透き通っていたことをご存じでしょうか。天の川がくっきりと見えて射手座のあたりは雲がかかったかのようでした。さそり座の赤いアンタレスと火星とにはさまれた土星の輪も、肉眼で確認することができました(嘘)。

空は澄んでも熱帯夜。やはり今朝もたいそうな暑さは続きます。どうか今日も御自愛ください。熱中症に気をつけて、お健やかな一日を…。

(昨日の夕方に見えた飛行機雲です。まっすぐに爽やかに澄んだ青空を伸びていきました)
SNSアンナとマーニー使うかな [2014年07月24日(Thu)]

fumihouse-2014-07-24T18-39-43-1-thumbnail2.JPGSNSという「社会的な連携の仕組み」でもって、ふだんは顔を合わせられないメンバーが繋がり、共通の目的に向かってグループ活動をすすめることが簡単にできるようになりました。しかし負の効果もあるのは確かです。

映画『思い出のマーニー』の米林宏昌監督がこう語っています(聖教新聞7月19日付け記事)。

≪10代の子どもたちも、携帯電話やソーシャルネットワークで、いつでもどこでも友だちとつながっていられる時代。(中略)''見えない輪''の内側にいる子たちだって、その輪からはみ出すことに恐怖感があると思うし、杏奈のように輪の外側にいると感じている子にとっては、より強い孤独を感じる、難しい時代になっている気がします≫

原作の『思い出のマーニー』で主人公のアンナは、周りの大人にたいして努めて「普通の顔」をしています。普通とは、表情がなく不機嫌のように見える顔です。普通の顔は仮面。元々の彼女は上機嫌で微笑みが多い顔であったのですが、仮面でいることが常態となってしまうと仮面は貼りついて真の顔となります。

マーニーと心を許しあい、アンナの仮面が溶けだして大人にも心を開けそうになったところで、マーニーが信じがたい行動に出ました。アンナは行きつ戻りつしながらも、マーニーを信じようとします。結果として別れの時はくるのですが、マーニーとの真の友情が揺るぎないと信じることができて、アンナは笑顔となりました。二人の絆は断たれないことに安心していられるようになりました。アンナは幸せをつかむことができたのです。

一方で、便利なSNSで日々刻々つながりを求めあう若者たちは幸せでしょうか。「見えない輪」の不安定なありようにいつも不安を感じている。「輪の外側」に弾かれたくない、と常に不安な時を刻む。つながっているためには、永久にスマホを手放せない…そんなことがいつまでも続くわけはありません。「強い孤独を感じ」続ける人たちをかわいそうに思います。もちろん私だって程度の差はあっても例外ではないのです。フェイスブックで「いいね!」があれば喜び、増えていなければ少し落胆する…これも「見えない輪」に縛られている証拠かもしれません。
注意され暴挙に怒るわたしたち [2014年07月23日(Wed)]

fumihouse-2014-07-23T18-19-08-1-thumbnail2.JPGここまで言い切った文を知らない。ここまで日本というムラ社会を言い当てた言葉を知らない。

≪この国では「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」である。したがって、われわれ日本人は他人から注意されると、その注意の内容がたとえ正しいとしても、注意されたことそのことをはげしく嫌う。その他人は私を傷つけたからであり、「思いやり」を欠いたからであり、日本的行為論の「公理」に反する暴挙に出たからである。
 こうした行為観のもとでは、注意することは大勇気を要し、注意されることは大屈辱である。だから、みんな黙っているのだ。だから、それにもかかわらず注意されるとき、われわれは激怒するのである。注意した相手をはげしく憎み、恨み、場合によっては殺すのである。だから、アアセヨ・コウセヨと いうバカ管理放送・管理標語がこの国では繁茂するのである。
 この国では、みんな「思いやり」という名のもとに真実の言葉を殺している。<対話>を封じている。しかも、――恐ろしいことに――ほとんどの者はその暴力に気づいていないのである≫
『<対話>のない社会〜思いやりと優しさが圧殺するもの』(中島義道著,PHP新書,2003年)

確かに他人から注意されるとカチンとくることがある。家族であってもアカの他人であっても…。自ずとひとには注意できなくなる。緊張を避けて柔らかな「思いやり」に逃げる…お上が注意してくれるようにお願いする…。そこから対話は生まれないことを著者は明晰に論じてくれた。

(花と対話するかのように蝶が花に戯れる…戯れているのでもなく、対話しているのでもなく…単に蜜を求めているとわかっていても…仲むつまじいように見える)
梅雨明けし揺らぎ揺られて夏の夜に [2014年07月22日(Tue)]

fumihouse-2014-07-22T20-28-56-1-thumbnail2.JPG今月始めまで火星はおとめ座のスピカとひっつくばかりの位置にあったが、今は気持ち離れて橙色に光っている。大ぐま座・北斗七星の曲線を伸ばして最後尾が真珠色のスピカ。途中にはうしかい座のアークトウルス。淡いオレンジ色だ。

夏の星座が目だってきた。白鳥座にこと座、わし座。それぞれ一等星のテネブ、ベガ、アルタイルが夏の三角形を天の川に広げている。南に下がって目を転じれば、火星と赤さを競うのはさそり座のアンタレス。銀河系の中心部・いて座にある南斗六星とさそり座のS字曲線が合わさると、夏の陽炎が揺らぐような趣だ。夏だぞ夏だ、夏が来た。

広大無辺の宇宙。何十光年、何百光年、何万光年の彼方から空間だけでなく、距離にみあった時間を越えてやってくる星ぼし。宇宙船地球号は巨大な時空のひとかけらに過ぎないけれども、この地球に住む私自身もほんの芥子粒。しかしこうして生きている。小さくても頼もしく生きている。
略取して光源氏は光る君 [2014年07月21日(Mon)]

fumihouse-2014-07-21T23-19-17-1-thumbnail2.JPG光源氏の妻となった「紫の上」。幼い「若紫」の頃から源氏は精魂込めて彼女を育てた。理想の女性(もちろん平安時代の当時にあっての理想だが)となった紫の上を妻とした光源氏は幸せだった……。

一瞬源氏物語を思い出させたが、おぞましい事件だった。倉敷市の小学生が誘拐された事件で、逮捕された49歳男はこう言っていたという。「少女に興味があった。自分の好きな女の子のイメージ通りに育て、将来は結婚したかった」と。

一人で住むこの男は昨年末に、自宅を防音機能を持つ密室に改造して準備を重ね、丹念に物色していたのだろう。「自分にふさわしい美少女を捜し出して、将来結婚する」。あまりに短絡的であまりに幼稚 な動機に開いた口がふさがらない。理想の育て方をするというには貧相だ。「たくさんお菓子を与え、テレビアニメも見せていた」と供述している。

顔も名前もテレビにさらされ、家族も含めてネットでもってあることないこと噂をばらまかれた。彼女の心身の傷は想像すらできない。恐ろしいおぞましい事件だ。光源氏は確かに未成年者を略取誘拐した。だが千年も昔の話。しかも権力の頂点近くにあり、金持ちであるばかりか美貌さも並ぶ者がいないという光源氏だ。この男は何を勘違いしたのだろう。
梅雨明けに夏を圧する雲出でて [2014年07月20日(Sun)]

fumihouse-2014-07-20T18-48-04-1-thumbnail2.JPG南アフリカ人権闘争の闘士、そして黒人としての初代大統領のネルソン・マンデラ氏の言葉に次のものがあります。抑圧する者は他人のみならず、自らも抑圧していることを示す至言です。

「他人の自由を奪う者は、憎しみの囚人であり、偏見と小心さの檻に閉じ込められている。」
(A man who takes away another man's freedom is prisoner of hatred,he is locked behind the bars of prejudice and narrow-mindedness.)

「他人の自由を奪う者」とは、絶対的権力者だけを指すのではありません。いわゆる世間において空気でもって場を圧し意見できない弱い者をがんじがらめにする者もそうですし、いじめる当事者でなくても傍観する者もまた悪だと言えるのだと思います。

(梅雨明けした模様です。とはいってもゲリラ大雨の恐れはありますし、日照りの脅威は本番です)
愛するは能動にして与えたし [2014年07月19日(Sat)]

fumihouse-2014-07-19T22-03-08-1-thumbnail2.JPG綾瀬はるかが愛読しているという雑誌の記事があったので、『愛するということ/新訳版(エーリッヒ・フロム著,鈴木晶訳)』を読む気になりました。こんな甘ったるくて大仰な題名の本があるんだな。ナチス時代にあった社会の狂気を分析した『自由からの逃走』を書いた著者がどんな内容で書いているのか。男女の愛や兄弟愛、郷土愛、人類愛をどう定義するんだろうか…そんな印象をもって冒頭を読み始めたら仰天したのです。

≪自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。(中略)愛する能力を身につけることは容易ではない≫(はじめに)、という記述があるではありませんか。原題を見れば確かに『THE ART OF LOVING』。「努力」「能力」「容易ではない」と、生半可な気持ちでは愛やら恋を語ってはならないようです。ロマンチックに恋に落ちるままにまかせていてはなりません。プログレッシブ英和中辞典(第4版)で調べると、「art」とはよく使う訳の芸術や美術のほかにも、技術やコツ、要領、技巧、あるいは文化系の教養という意味もあります。

≪愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。≫(第2章愛の理論/以下引用箇所同じ)

そして「与える」ことをフロムはこう定義しています。

≪自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。
 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。(中略)愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。≫

グループからないがしろにして除外する。グループから外されて無視というイジメを受ける。少なからぬ青少年が、小さな仲間うちの関係を保つために必死になってスマホにかじりつき、多くの時間を費やす。メールの着信がないからといって、相手が不機嫌になっているのではないかと疑心暗鬼に悩む・・・・。仲間意識が非生産的に高じてしまい、不毛な時間の蓄積が日本の将来を危うくするのではないかと私は心配しています。これらの不安はいずれも、受動的な状態で他者からの「愛」を期待しているから生じているのではないでしょうか。愛とは能動的な活動である、愛とは与えることであるというフロムの言葉を心に留めたいと思います。
カチコチがふんわり溶けて至福かな [2014年07月18日(Fri)]

fumihouse-2014-07-18T18-49-06-1-thumbnail2.JPGよく冷えたアイスクリームを食べるのは、なんとも嬉しいものです。今の暑い時季は毎日、カップアイスか、バー式のアイスを食べています。ところが、カップに入ったコチコチのアイスにスプーンがうまく刺さらなくて手が痛いことがあります。

共同通信の配信記事によると、カチコチのアイスクリームであっても簡単にすくえる専用スプーンが開発されているそうです。富山・高岡市の鋳物メーカーが創作したアルミスプーンで高い熱伝導率がある故、凍ったアイスに付けると溶けて吸い込まれるような使い心地だそうです。

体温でもってアイスを溶かす。いいですねえ。これに注目したのがハーゲンダッツ。アイスとセットで販売しているそうです。このアルミ製スプーンは長さ約10センチ。手で持つ部分は体温を効率よく伝導させるために2センチの厚みがあります。光沢のあるシルバーのスプーンはほれぼれするほどのデザインで一本三千円以上するとはいっても、アイスクリームが大好きな多くの人の心をつかむことでしょう。

(ピンクのハスで作ったカップにアイスを入れたら、さぞや美味しくいただけることでしょう)
残念とフーとため息漏れて出て [2014年07月17日(Thu)]

fumihouse-2014-07-17T23-11-39-1-thumbnail2.JPGフッーとため息が出るのは疲れた証拠。
ア〜アと残念がるのは負けて悔しい花いちもんめ。
タラレバで負け戦を振り返るのは未練がましい証拠。
プハッーと息を吐くのはビールが美味い証拠。
エイヤと振り切りヒットが出るのは練習のたまもの。
ズバリどんな名手でも打てない時は打てないというのは人間の証拠。
クソクソ負けじと魂で明日に向かって出発するのは若者たちの特権だ。
トロンと薄目で目が閉じておやすみなさいと眠るとき安らかなるは幸せの証拠。

(邇摩高校の野球場の脇に生えるポプラの木。凛々しく雄々しく逞しく伸びている。樹高は30mくらいあろうか。この木のように育てや育て)
山形に思いを馳せて梅雨仕舞い [2014年07月16日(Wed)]

fumihouse-2014-07-16T07-43-54-1-thumbnail2.JPG少女が舟に乗ってくつろいでいる。すぐそばには年とった船頭さん。出羽山地を背景にのんびりと川を下る。急流で有名な最上川も、治水の成果でいまは穏やか。写真の流れも平たく深い緑で、山の夏が輝いている。

『いましか来ない、夏が来ていた。』
『キミと夏と山形』

山形デスティネーションキャンペーンの大型ポスターが駅構内に掲示してある。destinationには、目的地や行き先のほかに目的という意味もある。何のために山形へ行くのか。山形で自身の心を見つめ、解放し、友や家族と語り合って…。そんな意味を込めたコマーシャルであろう。

今週末まで雨や曇りの天気が続くようであるが、夏休みとともに晴れが続く予報がされている。夏本番。【ボクと夏と○○】、早く考えなくっちゃね。

(ピンクの百日紅が咲いた。サルも滑るという滑らかな木肌よりは、このピンクのレース付きの花がなまめかしい。白いのもまた美しいものだ)
最後まで敗者をつくる戦いに [2014年07月15日(Tue)]

fumihouse-2014-07-15T19-03-25-1-thumbnail2.JPG202の敗者を決める戦いが終わった。2014W杯ブラジル大会。203の国や地域が参加した大会は長い予選をへて、一ヶ月にわたりブラジルの各地で熱戦が続いた。ドイツが決勝を制し世界王座に輝いたわけであるが、予選からのリーグ戦にしろ、本選決勝トーナメント戦にしろ、一回のゲームごとに敗者を決めてきた。煮えくり返るような悔しい負けもあったことだろう。まっよくやった、仕方ないかというあっさりした負けもあったことだろう。

延長後半8分でゲッツェの目の覚めるようなゴール(ラジオでしか聞いていないが)を喫して負けたアルゼンチンの選手はさぞや落胆の一戦であったことだろう。それまでの勝ちをすべて帳消しにするほどの気持ちではないかと想像する。なかでもメッシ。守備に参加せずトボトボと歩き、それでいて決定的な場面でゴールをとれなかった彼は強い非難を浴びた。大会の最優秀選手に選ばれながらも、険しい表情を見せていたのは、もちろん非難されるからというちゃちな理由ではなく、祖国に優勝カップを持ち帰るという決意、我々の想像を越えた心情があったからなのだろう。

さて、今日から島根では夏の高校野球の予選が始まった。甲子園へのキップをかけた大会であるが、一度負けたらオシマイというのは厳しい。実力差があっても絶対勝てるとは限らない。どんなに強豪校であったとしても臆することなく挑めば活路は開けることもある。四千校あまりの高校球児が甲子園を目指すということは、優勝する一校だけを除いて残りの敗者を一つずつ決めていくことにほかならない。その度に壮絶な悔し涙が流れる。なんと酷なことか、またそれは素晴らしい青春の血潮でもある。

わが邇摩高校も今日の開会式に参加した。第一戦は明後日の17日。彼らが練習中、わたしはいつもグランドの横を通って仁万駅に向かう。いつも大きな声であいさつをしてくれるナイスガイたちばかりだ。わたしも応援に行く。彼らが健闘してくれることを願っている。いや、勝ってくれるよう祈っている。

(邇摩高校の農業系列の生徒が栽培しているアールスメロン。いい感じに実ってきている。美味しくなれよ)
落ちるのか落とすのだよと外してた [2014年07月14日(Mon)]

fumihouse-2014-07-14T18-18-50-1-thumbnail2.JPG落ちる落ちる 何かと落ちる
落とす落とす 何でも落とす
落ちて傷つき眼鏡かな
壊れて悲しいスマホの液晶(私のことではない)

外す外す シュートを外す
外す外す ゴールポストに弾かれて
メッシが外して亜爾然丁の国民悲しむ
本田は入れたが最初の一発 あとが続かず

止まる止まる 何かと止まる
止まる止まる 列車が止まる
雨の爪痕 線路が危ない 木や竹倒れる
梅雨の季節の危ない時季に油断がならず

弾く弾く 気持ちは弾く
弾く弾く 爪弾き弾く
心弾んで心躍る弾くは気持ちがいいが
入れてもらえぬ弾くは悲しい

青い蒼い 空は青い 海は蒼い
梅雨の合間に見上げる青空は 絵の具の青の鮮やかさ
刷毛で掃いたは白い筋雲
海を見下ろし 午後の日差しに目を細めれば 陽光きらめく日本海

(荒神谷の古代ハスは二千年の時を飛び越える。葉っぱを爪弾くと、ハスの水玉はピョンと飛んでいく)
絡み合いチャイナタウンで男と女 [2014年07月13日(Sun)]

fumihouse-2014-07-13T12-00-28-1-thumbnail2.JPG映画『チャイナタウン』(ポランスキー監督)は1974年のアメリカ映画で、名画と言われ評価は高い。午前十時の映画祭で観たのだが、残念ながら私の好みではなかった。だが、ジェイク(ジャック・ニコルソン)とエヴリン(フェイ・ダナウェイ)を軸に繰り広げられる場面で十二分にサスペンスを堪能し、『華麗なる賭け』の頃に比べれば少々体の厚みは増したとはいえ、ダナウェイはミステリアスな魅力と美貌に溢れていた。若きニコルソンは、やはり暴力的な臭いがあり、退廃的な雰囲気を醸し出していた。

1930年代の新興都市ロサンゼルスで探偵事務所を経営するジェイク(ニコルソン)は、市の水道局長モーレイに関する浮気調査をしていた。モーレイのスキャンダルがなぜか新聞に掲載されて明るみになったばかりか、モーレイは殺害された。ジェイクは単独で事件に迫るが、権力の深い陰謀に巻き込まれる。そこに登場するのが、ホリスの妻エヴリン(ダナウェイ)。エヴリンとジェイクは共同戦線を張りながら事件の謎を追いかける。ふたりがいい関係になるのもお決まりのことかもしれない。利権が絡む権力の不可解なあり方はつかみどころがなく、観る者を不安にさせる。

一方で筋の展開がスピーディではないので、途中眠くなるのは致し方のないところだろうか。陰謀というものは、極秘に水面下で進み、常人にはうかがい知れないもの。紐解こうとすれば、どうしても長々しい説明となり利害の絡まない第三者にとっては退屈なものなのだ。それがまた、開拓都市ロサンゼルスに勃興するチャイナタウンを舞台に行われる。当時の事情と背景を知らないわたしにとっては幾分ピンとこなかった。

ちょうど今読んでいる本が、井沢元彦著『逆説の日本史20幕末年代史編3』。過激過ぎたが故に孝明天皇から嫌われた長州藩が、文久三年(明治維新の5年前)の八月十八日の政変で京を追い出され、京への復帰を狙って陰謀を巡らすところを読んでいる。最終的には薩長が連合して歴史のとおりになったものの、開国か攘夷か、倒幕か尊皇か、思想と方法論が各人の思惑にしたがって複雑に絡み合い、目まぐるしく形勢が変わっていく。頭がこんがらがって記憶の糸が途切れてしまう…。『チャイナタウン』はそこまでの陰謀渦巻く世界ではないが、せいぜいチャイナタウンでは美味しい中華料理に舌鼓を打つ程度にとどめておきたいものだと思う。

(陰謀とは対局にある雲間から輝く陽光。梅雨の合間の美なり)
学んではキングが述べるプロ意識 [2014年07月12日(Sat)]

fumihouse-2014-07-12T10-58-29-1-thumbnail2.JPGキング・カズがこう述べている。言うまでもなく、日本最年長の現役Jリーガー、横浜FCの三浦知良である。

≪過去の実績なんてものはどこかへしまって、今を歩む。150点以上ゴールしたのは昔の話、今の僕にはどうでもいいんだ。仮にFW経験がない監督が僕にシュートに関して指示をしたとする。「シュートでは教わることはない」と考えるようでは、伸びない。耳を傾け、プラスとなる何かを探すことだ。
 学ばない人は人のせいにする。学びつつある者は自分のせいにする。学ぶということを知っている者は誰のせいにもしない。僕は学び続ける人間でいたい。≫
 (三浦知良著『やめないよ』新潮新書,2011年)

高校を中退してブラジルに単身武者修行にでかけ辛酸をなめつつも見事成功をおさめた。W杯本大会へは出場していないが、日本代表としてW杯予選を勝ち抜き、Jリーグで数々の活躍をみせるなど日本サッカー界への貢献は大きい。ブラジルや海外でも親しまれている。並外れた精神力があると多くの人は言う。ここ一番でゴールを決め、大舞台に動じないという評判である。

この本を読むと、ストイックで高い意識を支える起点にあるのは、故障するギリギリまで自身を鍛えながらも、サッカーを楽しむ姿勢であることがわかる。その表現の典型として、あのカズダンスがあるのだろう。このプロ意識、学びたい。

(小さなカズダンスを見るようなアジサイの花。季節ももうじき終わる)
ニイニイと夏の基調は蝉の声 [2014年07月11日(Fri)]

fumihouse-2014-07-11T18-42-42-1-thumbnail2.JPG夏の通奏低音ならぬ、奏で続けられる声。蝉の声が溢れ始めた。台風がつれてきた湿った空気の中で鳴く。梅雨明けを思わせるような澄んだ青空のもとで鳴く。深山に入り込んだような森の暗がりで鳴く。セミが鳴く。ニイニイゼミが鳴く。早くもヒグラシが鳴く。やがてクマゼミもミンミンゼミも鳴く。夏だ、夏だ。夏休みだ、と喜ぶ歳でもない…。それでも懐かしい夏の思い出があるせいなのか、夏は楽しい。夏は嬉しい。夏は甘酸っぱい。

夏に向かってひた走る今の季節。喉がカラカラに乾いても夏は輝かしい。流れ落ちる汗にシャツや下着がぐちょぐちょになっても夏は微笑ましい。どんなに焼けて突き刺す日差しに照らされても夏はウキウキする。不思議なものだ。

台風一過でも梅雨は明けない模様。週末に晴れても、来週は雨や曇り空の予報となっている。梅雨末期の大雨被害が全国のあちこちを荒らさないように祈りつつ、楽しくてかつ安全で嬉しい夏でありますように…。
米人に日本語魅力教えられ [2014年07月10日(Thu)]

fumihouse-2014-07-10T19-00-33-1-thumbnail2.JPG詩人で翻訳家、米国ミシガン州生まれのアーサー・ビナードさんの講演会を聞きました。題名は『日本語ニモ負ケズ』という目を引くものでした。日本語を使って詩をつくり、日本語の魅力を発信する詩人という認識しかもっていませんでしたが、日本語への愛を語らせたら、氏の右に出る人はいないかもしれませんね。少しアメリカ訛りの日本語で、理路整然と語る氏。にぎやかにして静けさもたたえ、緩急自在に聴衆とキャッチボールをされる様子に、私も時間を忘れて楽しんだのです(講演はなんと3時間近く、予定より1時以上オーバー)。

大学を卒業後日本に来られましたが、日本語を学ぶ前に知っていた言葉は二つだけ。ひとつは「A so」(あっそう。昭和天皇が訪米した際によく使い、流行した)。二つ目は「hibachi」(火鉢。米国では七輪のことを意味しており、来日して真実を知り愕然とした)だったそうですから、今までの努力は並大抵のものではありません。

日々日本語で生きる身として、もう一度ことば遣いを大切にしたいと思えました。自分でもあまり使わなくなった言葉、使ったことがない常套句が氏からいくつか出てきて、その思いを深くしました。「ついぞ見たこともない」「バツが悪い」「邪推」「思考停止の具現化」などが印象に残ります。

氏は、日本語という同じ道具箱を使うもの同士として、食べたり飲んだり空気を吸うという行為から離れて、一見心地よく目に飛び込んでくるコピーライターの言葉に踊らされてはならないと警告されました。私も身が引き締まったような気がします。その代表格として近頃航空会社が出発遅延の言い訳として使う「新しい出発時刻は…」がやり玉に上がりました。「新しい」という良いイメージを持つ言葉でくるむことによって、遅れの事実を覆い隠し苦情を言いにくくしようとするあざとい戦略を感じるのだそうです。

その他、神武景気、岩戸景気、イザナギ景気と称される戦後日本を復興の象徴となった名前も、元をただせば朝鮮戦争やベトナムのおびただしい戦禍と民衆の悲惨を特需として生まれたアダ花経済であることから目をそらす、コピーライターの作製であることを忘れてはならないと、目が覚める言葉でした。

「千代に八千代に日本語が続くように…」と氏は願っています。そんなアホな、日本語が途絶えるなんてあり得ないと考えるなかれ。言語が経済活動に使えなくなると、現代では滅びの道に入ってしまうと氏は言います。アイヌ語とマオリ語もインドネシアの多くの言葉、あまたの言葉が限定された地域でしか使われず、博物館でのみ保存される運命にありますが、日本語だって安閑とはしていられません。TPPなどアメリカ経済の侵出という社会情勢にあって、小学3年から英語を必修にして「英語こそ優れた言語」だと子供たちに教え込もうとする文部科学省のもくろみ。日本語も将来は絶滅が危惧されると、超のつくスーパー言語・英語を母国語とする氏は憂えるのです。人生の半分以上を日本語を操りながら暮らしてきた方だからこその忠告でした。

(鮮やか夏の花、アガパンサス。台風8号の雨雲の合間に見えた夏の空色のように澄んだブルーが目を引く)
白黒のゴジラ古くて新しき [2014年07月09日(Wed)]

fumihouse-2014-07-09T18-27-52-1-thumbnail2.JPG『ゴジラ』は日本初の記念すべき怪獣映画であり、当時観客を恐怖に陥れ、しかも魅了した物語だ。
『ゴジラ』は悲しくも愛おしい恋愛劇も描いており、美形のヒロインと自ら滅びを選択した研究者に感情移入できる物語だ。
『ゴジラ』は質のよい反戦映画であり、原爆や無差別爆撃が庶民を苦しめた歴史をなぞった。1954年戦後9年というのは、その心の傷はまだ癒えていなかったと思うが、あえて苦しむ人々を描いて戦争の悲惨さを描いた意欲作だ。
『ゴジラ』の特撮はそのはしりであり、今見れば稚拙のそしりは免れないが、テレビの特撮も含めて模範とされた基本技術の元祖だ。
『ゴジラ』は国会の特別委員会も舞台となっており、国民に不確実な情報は提供する必要はないとする旧勢力(男性議員たち)と情報は公開しないと国民の命は守れないとする新勢力(女性議員たち)とのせめぎ合いを描いた。結果、新聞には事実が報道された。
『ゴジラ』は白黒映画の故にかえって迫力が誇張されて恐怖心が増す。
『ゴジラ』には伏線があった。山根博士は水爆実験がさらに続くと安住の地を追われた海底のゴジラたちが人間を脅かすと予想して、以降のゴジラシリーズが続いた。
『ゴジラ』はドシラドシラ‥と続くテーマ曲が単調であるが故に迫力をもって迫ってくる。
『ゴジラ』を倒したオキシジェン・デストロイヤーは兵器というものの恐ろしさを如実にあらわしている。仮に偶然の産物で発明者に悪意がなくても、悪人に渡れば大量殺人兵器と化することを示した。
『ゴジラ』と『七人の侍』のおかげで戦後日本の信頼が得られ、日本というものへの興味を外国の人々に広められたという功績をもつ。
『ゴジラ』は名画だ。なんといっても名画だ。当時の日本人の10人にひとりが観たという名画だ。NHKのBSチャンネルで、夏の『ゴジラ』シリーズが昨夜から始まった。

(ゴジラの肌の質感を感じるゴーヤ。これだけ熟すと中の実は甘くて美味しいことをご存じだろうか。中身はグチュグチュで鮮やかな橙色だ)
海岸と空に目をあて朝と夕 [2014年07月08日(Tue)]

fumihouse-2014-07-08T20-00-44-1-thumbnail2.JPG山陰本線を出雲から石見へ。浸食されて切り立つ断崖絶壁を列車は駆け抜ける。大正から昭和にかけて建設されたトンネルをいくつも越え、トンネルのようになった木々の緑を抜け、最後の暗がりから大田市・波根に到着する。少し高台となった路線から見る波根の街は輝くように、そこにある。赤茶色の石州瓦が目に飛び込んでくる。夏の青い海がそこにある。刷毛ではいたような雲と羊雲が混在する青い空がそこにある。

小さな入り江が湾曲して右にカーブして行く先には何万年もの年月波浪に削られた断崖がある。絵になるなあ…。やがて列車が波根駅に到着すると、幾人もの邇摩高生が乗り込んでくる。こちらは出雲からひとつ世界を飛び越えて旅をしてきたような感覚をもっているのに、彼ら彼女らは乗ったばかりで初々しい。友達どおしでおしゃべりに夢中なり。旅の感覚はあれよという間に消え去って、列車は進んでいく。今日も一日が始まった…。

帰りに再び波根駅に朝とは反対側から目をこらす。萩市・須佐にあるホルンフェルスとまでは言わないけれど、砂岩と泥岩が交互に縞模様となって見事な地層景観。湾曲して斜めに傾いているのも一興だ。

湿り気の多い空気。台風8号が沖縄地方を襲っている。嵐の前の静けさか、やけに静かな海だ。ベタ凪ぎといってよいだろう。たなびく雲、渦巻く雲が合わさって空はいつになく美しい。白い雲、灰色の雲、牡丹のような雲…。それぞれが夕焼けに染まっている。淡い橙、濃い橙色。断崖絶壁と夕景美。とても得した気分なり。一日の役目を終えた太陽が、おやすみモードになっている。台風の被害が出ませんように…。
ホーダイは放つ題して欲深に [2014年07月07日(Mon)]

fumihouse-2014-07-07T18-22-19-1-thumbnail2.JPG隣の車輌に吊り広告が見える。『カケホーダイ 』、docomoのコマーシャルか。AUに追われ、Softbankに迫られ、ケータイ業界も大変だ。

カケホーダイ パケホーダイ 送りホーダイ 受けホーダイ
食べホーダイ 飲みホーダイ 聞きホーダイ 見ホーダイ
出しホーダイ 畳みホーダイ 流しホーダイ 切りホーダイ
言いホーダイ 触りホーダイ どつきホーダイ 貯めホーダイ
かかりホーダイ 結びホーダイ 尋ねホーダイ 取りホーダイ
山ホーダイ 川ホーダイ 海ホーダイ 月ホーダイ
雪ホーダイ 雨ホーダイ 風ホーダイ 風邪ホーダイ
田んぼホーダイ 桑畑ホーダイ 花畑ホーダイ 麦畑ホーダイ
砂利道ホーダイ アスファルトホーダイ 雪道ホーダイ 線路ホーダイ
人ごみホーダイ 蟻ホーダイ 虫ホーダイ 魚ホーダイ
固めホーダイ 緩めホーダイ 叩きホーダイ 撫でホーダイ
眠りホーダイ うたた寝ホーダイ 揺れホーダイ 酔いホーダイ
飽きホーダイ 憑かれホーダイ 疲れホーダイ 止めホーダイ

(ノウゼンカズラの季節。のべつまくなしに咲きホーダイだ)
春眠も夏も秋冬起きられず [2014年07月06日(Sun)]

fumihouse-2014-07-06T22-16-11-1-thumbnail2.JPGつい気持ちよく寝過ごしてしまうという春眠。「春眠暁を覚えず処処啼鳥を聞く」(孟浩然『春暁』)。早春ばかりではない。人はいつもいつも眠いのだ。昔から次のような言葉があるのをご存じだろうか。

「梅雨眠 雨上がりを知らず」 梅雨時分は暑くなる気候に合わせて湿度が高いこともあって夜の眠りは浅い。ついつい昼間うたた寝してしまうことを表現している。

「夏眠 向日葵に下向く」 冷房に当てられ過ぎて風邪を引いてしまったときの言葉。酷暑の太陽の下でも元気いっぱいな向日葵に合わせる顔がないという気分を表す。たくさん休んで体力の回復に努めよう。

「秋眠 金木犀を夢見る」 秋の長雨の頃は夏の疲れがでてきやすい。朝起きるべき時刻にあっても金木犀の心地よい香りに夢が長続きするということだ。

「賀正眠 暁は明けず」 除夜の鐘を聞き、新年を寿ぐ元旦を迎えるまでの未明の頃にはこのハイな気分がいつまでも続いていてほしいと願うものだ。

「冬眠 雪明かりにかなわず」 雪がしんしんと降り積もる夜。街灯が雪に反射して一帯を照らすと眠りは深くなる。しかし寒い故かトイレに起きてしまって、眠りは妨げられるのがかなわん。

以上、ぜんぶ嘘。春眠暁を覚えず以外に実在する諺はありません、あしからず。
森の中眠りに落ちる姫と僕 [2014年07月05日(Sat)]

fumihouse-2014-07-05T16-27-27-1-thumbnail2.JPG映画『マレフィセント』は邪悪にして強靭なる妖精マレフィセントの物語です。ご存じ、主役はアンジェリーナ・ジョリー。長身で長い手足、細長い首、細面で鋭角な頬骨と鼻。大きくて食いつかれそうな口に加わり、闘牛のような角。美しいかな、そしておぞましいかな、マレフィセントよ。

豊かで美を散りばめた愛しい森、可愛らしい妖精や野性味あふれる闘士たち。『アバター』や『アリス・イン・ワンダーランド』の映像によく似ていると思ったとおり、チラシを見ると、その時の監督でした。

オーロラ姫が生まれて誕生の宴に国中が浮かれていたときに、マレフィセントは呪いの魔法をかけます。「16歳の誕生日におまえは永遠の眠りに落ちる」と。しかし、魔法にかかったのはオーロラ姫ばかりではありませんでした。何故か、誕生の宴の辺りから記憶がないのです。そして記憶が戻ってきたのは、オーロラが目覚めたときです。そう、わたしもオーロラ同様、マレフィセントの呪いの魔法にかかってしまっていたのです。

オーロラに真実の愛がキスのかたちで示されたときに、わたしも目覚めました。言ってみれば、わたしは、オーロラに替わって呪いを引き受けてこの物語がハッピーエンドになるよう、身代わりになったのでした。アンジェリーナ・ジョリーの愛娘であり、ブラッド・ピットの娘でもある子役の姿は見ることができませんでした。可愛らしい笑顔だったそうです。残念ですが、いつかDVDで見る機会もあることでしょう。

(写真は仁万の町中で見つけたネジバナ。初々しく爽やかなピンク色です。オーロラ姫役のエル・ファニングの薔薇色の頬のようです)
週末にかいほうされて壊れてく [2014年07月04日(Fri)]

fumihouse-2014-07-04T18-40-01-1-thumbnail2.JPG列車は走る どうどう走る 谷越え山越え 川越えて 波越えて ズンズンすいすい走ってく
緑がまぶしい 夕陽もまぶしい 空がまぶしく 目を細め 列車に乗って走ってく
横揺れ縦揺れズンズンががん チーテクパーテク 走ってく
空へ雲へと走り去り トンネル抜けては 空もどる 止まらぬ果てに走ってく
かき分けかき分け進んでいくと 地上の楽園いくだろか 考えなしに走ってく
走っていると思っても 実はただただ座ってる ケツの下から熱い体温 列車の体温感じてる
太陽熱が水平線 太陽光って 帯は海中続いてる
長きにわたり走ったら ようやくついに駅に着く
着いたら着いたでまた発車 行き着く先はどこでしょう わたしはどこへいくのでしょう
いっても行っても終わりなし たまには止まり 玉の汗
列車といってもただ2両 この編成で列車かよ
それならなんとも仕方ない 人が少なきゃ仕方がないさ さびしくて
雲が高いぞ 梅雨空よ 雨の切れ間に空高し
澄んだ空気が広がって 山山 田んぼ 家家が クッキリ見えてクッキーだ
いやいやラッキー キョロキョロと観光客が窓に食いつく この珍しい景観に 来てみてよかった ねえあなた 隣のかれしに話しかけ わたし幸せ ここに来て
ようこそ石見へ出雲へと おもてなしなといたしましょ
さあて今から週末に 向かて楽しみあるかいな
3高が4つの低さに代わられて [2014年07月03日(Thu)]

fumihouse-2014-07-03T18-10-00-1-thumbnail2.JPG女性が結婚相手に求める条件が近頃変わってきているらしい。キーワードは【3平】。さらに【4低】へ変わるそうだ。バブル期には【3高】と言われていた。身長が高く、高学歴で、高収入の男がもてはやされた。

結婚しない(できない)男女が増える傾向にあるなかで3高は忘れられていた感があるが、数年前から「3平」が出てきたという。「平穏な生活、平均的な年収、平凡な容姿」。不安なご時世、しかも東日本大震災という国難を経験するうちに、平凡ってすばらしいという観点が強くなってきたのだろう。別にハイソサイエティ(略してハイソ。古い言い回しだ)でなくてもかまわない、世間に埋もれても平穏なことが貴重だと多くの人が気がついたのだ。精神的に安定していることも平穏の条件である。年収が多くても変動してばかりだと不安が大きい。そこそこの収入があって安定しているのがいい。イケメンもいいが、浮気の可能性がある……。そうした気分が【3平】の言葉を支える。

さらに【4低】。近頃女性が男性に求める言い回しだそうだ。中身は「低姿勢、低依存、低リスク、低燃費」。女性に対して威張らず低姿勢で、家事は自分でもしっかりやって女性に依存せず、少々年収は少なめでもリストラされる恐れが少なくて、節約する術を知っているから低燃費……。4低の男性ばかりになってしまうと、もうパートナーは要らない、結婚しなくてもかまわないという結論になりそうだから、それもまた困る。晩婚化は進んだとはいえ、日本人が結婚しなくなったらマズいのだ。

いずれにしてもこれは一つの定型化であって、個々の男性を見れば多士済々だ。女性との組み合わせでもってバリエーションは無限に広がるから、一つのお遊びとしておくことにしようかね。
まず決める続ける果てに才能よ [2014年07月02日(Wed)]

fumihouse-2014-07-02T19-24-07-1-thumbnail2.JPGペニシリンを発見したのは英国の細菌学者フレミングです。彼がこの抗生物質を発見したのは、思いがけない幸運(セレンディピティ)と言われますが、単なる偶然ではなかったようです。寝食を忘れて病理や細菌の研究に没頭し、感染症で亡くなる患者さんをなくそうと格闘を続けていたから、そうした幸運が訪れたのです。6月10日付け聖教新聞「名字の言」は、このことを紹介し、次のように結んでいます。

≪才能とは持続する情熱であり、二四時間、頭のど真ん中に『気になること』を置ける人だけが、ある日、何かの拍子に壁を突き抜け≫ることができる。
≪ビジネスであれ、学究であれ、運を生かす力とは、努力を持続する情熱の異名にほかならない▼人生も同じである。運・不運に委ねるよりも、心を磨き、運を引き寄せる力を磨きたい≫

まずは目標。自分がめざす理想形を描いていくことが目標です。目標を達成するにはどんな工程が必要なのかを細切れにして、力をつけていく。この過程が大事ですし、その途中経過も楽しんでいかなければ長続きしません。さらに、プラン⇒ドゥ⇒チェック⇒アクションといわれるPDCAサイクルです。飽かず諦めず続けていける才能だけが「運を引き寄せる力」となるのですね。

(ヒマワリの幾何学的模様に魅せられます。これも短調な配置のようで実に奥深い)
マーニーを真似て出でしは幻覚か [2014年07月01日(Tue)]

fumihouse-2014-07-01T19-22-09-1-thumbnail2.JPG先週土曜日にセミの初鳴きを聞きました。車の窓を全開にして走っている夕方にセミが一匹(たぶん)。ニーニーというか、ニジーというか、ジーンジーンというか、なんとも表現ができないですが、ニーニーゼミの鳴き声でした。

それから三日。続くセミはあらわれません。早すぎたセミだったのでしょうか。虫編に単と書いて「蝉」。文字どおりひとりぼっちのセミだったのかもしれません。それとも私の耳鳴りか、幻覚だったのでしょうか?

ちょうど今読んでいる本が『思い出のマーニー』(G・ロビンソン著松野正子訳)です。少女アンナが成長の過程で出会った幻覚…現実かもしれませんが。マーニーとの出会いがアンナを変えていきます。その物語を読んでいるから私にも現実なのか、幻覚なのかわからない体験がふりかかっていたりして…。まさかね(笑い)。

ジブリの映画『思い出のマーニー』が封切られるのはまもなくです。楽しみにしています。そして本のほうもどのような結末が待っているのか、最終章を楽しみに読むことにしましょう。



[ xxvcocovxx@ezweb.ne.jp ]2014/7/6(日) 午後 9:40
ブログ拝見しました!お気に入りに入れててチェックしてました。
コメントするの初めてです。
実は私自身家族のこと、子供のことや別れた旦那のことで凄くつらい思いをしてた時に、ブログを彷徨ってたら、このブログにたどり着いたんです。
いつの間にかfumihouseさんのブログの世界観に吸い込まれて、なんだか私自身が救われた気持ちになれました。こんな風に自分が正直になれたり、凄くfumihouseさんには感謝してます。勝手にこんなこと言われても困っちゃいますよね?
もっともっとfumihouseさんのことが知りたくて、私の直接の連絡を入れておきました。
こんなに素敵なブログの管理してるんだから、fumihouseさん自身にも魅力があるんじゃないかって・・・勝手に思っちゃったのが理由です。(もし迷惑だったら削除して頂いても構いませんからね。)ちょっと不安定な天気が続いちゃいますけど、風邪とか気を付けてくださいね。お身体ご自愛ください。

[ fumihouse ]2014/8/4(月) 午後 10:01
顔アイコン コメントありがとうございます。1ヶ月も経った今頃コメントに気がつきました。記事の内容は同じですが、メインをCANPANブログにおいておりますので失礼しました。つらい時、ありますよね。前向きにいきたくても行けない時はあります。それでも気を取り直して前を向きたいと思っています。