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やってみて活路を開け誰も皆 [2014年06月30日(Mon)]

fumihouse-2014-06-30T17-31-46-1-thumbnail2.JPG「Something is better than nothing.」という言葉が新聞紙上で目についた。
直訳すれば…何かあれば何もないよりは良い。何ごとかをすれば何もしないよりは良い。
少し頭をひねってみれば…何もやらないより何かやったほうがよい。
さらに言葉をあやつれば…諦めるな、なす術は何かある。
さらに意訳するとすれば…やってみよう。さすれば活路は開ける。
教員の仕事は事務か教育か [2014年06月29日(Sun)]

fumihouse-2014-06-29T22-43-25-1-thumbnail2.JPG日本の教員の労働時間は世界でも有数の長さで、しかも授業とその準備にも十分な時間を割けず、その他の業務に忙殺されているそうです。その他の業務はといえば、部活などの課外活動指導や事務作業です。経済協力開発機構(OECD)は25日、加盟国の調査統計を公表し、学校環境や教員労働に関する各国の状況が明るみになりました。

日本の教員の仕事時間は1週約54時間で、参加国平均の約38時間を大幅に上回り最長でした。このうち授業に使った時間は18・7時間で、加盟国平均の19・3時間を下回っています。一方で一般的な事務作業が5・5時間(平均2・9時間)、課外活動指導が7・7時間(同2・1時間)で大きく差がついています。スケジュール調整が難しくて 、校外で行われる研修への参加率も低いようです。

教員の仕事は加速度的に増えてきています。少子化の時代であり学級は少人数化し、テスト関係が外部委託されることも多くなっていることから考えると、負担は減っていそうに思えますが現実は増える一方です。事務仕事が多すぎるのが原因です。

時代の変化に応じた数々の教育課題に対するために、報告書の作成は綿密で多岐にわたり、調査やアンケートの実施も多い。仕事は山積しています。特にコンプライアンスが重視されるご時世になったために、そうした仕事には失敗が許されない性質が出てきます。すると、時間をかけて対応しなければならないし、会議の回数も時間も増えていきます。

文科省は今回の調査結果を受けて、事務の効率化や学校に対する調査依頼の縮減などで負担軽減を図りたいとしていますが、各方面からの圧力に応えようとすると手が抜けないのが現状でしょう。教員たちにもっと時間を与えてほしい。事務仕事ではなく、子供たちに直接ふれる時間をとれるようする方策はないものでしょうか。

(邇摩高校で買い求めたゴーヤが大きくなってきました。元気そうな花が咲き始めました)
白熱の灯火光り南米に [2014年06月28日(Sat)]

fumihouse-2014-06-28T18-31-36-1-thumbnail2.JPG日本時間では深夜の1時からワールドカップ2014ブラジル大会の決勝トーナメントが始まります。皮切りはブラジル対チリ。南米チーム同士の闘いで熱狂の渦が巻きおこることでしょう。しかも引き分けはありません。白黒をつける死闘がピッチで繰り広げられることでしょう。

さて、一次リーグが終わってみるとアメリカ大陸のチームの強さが際立っています。32チームを地域ごとにまとめてみました。●印が決勝トーナメントに勝ち残った国です。

【北中米】
●アメリカ/●コスタリカ/ホンジュラス
【南米】
●ブラジル/●メキシコ/●チリ/●コロンビア/●ウルグアイ/●アルゼンチン/エクアドル
【アフリカ】
●ナイジェリア/●アルジェリア/カメルーン/コートジボワール/ガーナ
【アジア・オセアニア】
日本/韓国/オーストラリア/イラン
【ヨーロッパ】
●ギリシャ/●フランス/●スイス/●ドイツ/●ベルギー/●オランダ/スペイン/イタリア/イングランド/ボスニアヘルツェゴビナ/ポルトガル/クロアチア/ロシア

アジア・オセアニアは全滅、アフリカは5分の2しか一次リーグを勝ち残れず、ヨーロッパも13分の6と不振です。一方で、北中米が3分の2と大健闘、南米にいたっては敗退したのはエクアドルだけで、あとの6国は見事にベスト16の座を勝ち取りました。白熱する闘いを見るのを楽しみにしています(NHK夜10時からのダイジェストだけですが)。
美しく見えるか否か心一つ [2014年06月27日(Fri)]

fumihouse-2014-06-27T17-12-31-1-thumbnail2.JPG心のもちかた一つで、美しいものを美しく感じとることはできるのです。一方で、心が閉じていれば美しいものを見逃してしまうのです。その心-生命境涯によって世界の見え方は違ってきます。天にも昇る喜びにある人と、地獄を垣間見ている生命状態では、同じものを見ていても全く異なることは容易に想像がつきます。ゲーテはこう言っています。

こころが開いているときだけ
この世は美しい
おまえの心がふさいでいたときには
おまえは何も見ることができなかったのだ
(ゲーテの格言詩)

人間ゲーテが超人のごとく豊かに言葉をつむぎ、戯曲を構築してきた足跡は、誰にも真似はできません。ゲーテは努力の天才でもありました。政治家として市井のまっただなかで苦労してきたこともありました。そのゲーテだからこそ、この世界を真っ当に美しく見ることができたのかもしれません。さらに彼はいつまでも恋する人でありました。悩み苦しむ人でした。だからこそ、心を世界に開き続け、理想を捨てまいと決意し、生涯貫き通すことができたのだと思います。

(へんてつもない、このビオラの花も美しい)
目覚めたら夢でよかったああ安心 [2014年06月26日(Thu)]

fumihouse-2014-06-26T18-35-08-1-thumbnail2.JPG朝の夢を反芻した
出てきたわが娘は小学1年生くらいのチビだった
小さなお祭りの屋台で私は何かを手にとってかぶりついた
焼いたとうもろこしだったのかどうかは憶えていない
財布を尻のポケットから取ろうとして青くなった
うちに忘れてきていた
平謝りしてアパートに帰ろうとした
途中で誰かに会った
話をした
ふと気がつくと娘がいないことに気がついて青くなった
目が覚めてひとごこちついた
ああ夢でよかった…

夢を反芻しつつ今は列車に乗っている
石見への旅が始まり、今日の旅も終わろうとしている
明日はどんな旅になりますか
自分らしくのよき一日でありたいものよ
同性は肩をたたいて称えあい [2014年06月25日(Wed)]

fumihouse-2014-06-25T21-02-01-1-thumbnail2.JPG先日、厚生労働省のエイズ動向委員会は、エイズウイルス(HIV)感染者とエイズ患者の合計が1590人と過去最多だったと発表した。昨年新たに報告された患者数である。新たな感染者の1106人は過去2番目に多かったというし、症状が出て初めてわかった患者は484人で最多だった。累計数は2万3千人を超えるというから恐ろしい。

治療薬の進歩で、エイズも死の病というイメージが弱くなったとはいえ、早期に適切な治療をしなければ危ないことにはちがいない。心当たりがあっても保健所で検査する者は減っているということであり(それでも13万件もあるが)、体の免疫が落ちて変な症状が出て初めて、不安になって病院に行ってみたらエイズだったというのでは目も当てられない。身から出た錆というやつだが、本人以外にも被害は及んでしまうことに心を遣らなければならない。

感染原因の半分は同性愛である。ふつうに生活していれば、同性にしか愛を感じないという人間はそれほど多くないのではないかと思う。興味本意で禁断の実に食いついてしまったのが運の尽き。人間関係のアヤでやってみたら病みつきになった例もあるかもしれない。わざわざ表に出さなくてもよかった性癖や好みを現したがために、生涯を苦しみに満たすことはあるまいに、と思う。その結果、異性のパートナーをも苦悩に落としめるのは余りにもかわいそうだ。

同性どうしが互いの健闘を称えあう場合は、握手か、肩を叩くか、せいぜい軽い抱擁にとどめておきたいものだと思う。
違ツテル当タリ前トハコレ如何ニ [2014年06月24日(Tue)]

fumihouse-2014-06-24T18-56-59-1-thumbnail2.JPGアタリマエノコトガ、アタリマエニ進行シテイクコトハ、アタリマエナノカ。
アタリマエダト思ツテイルコトガ、実ハ誰ニモアタリマエデハナイト知ツタトキ、人ハ驚ク。
アタリマエトハ、アタリマエノ人ニノミ通用スルコトデアリ、アタリマエデナイ人ニハ、意味ヲナサナイ。
アタリマエダ、常識ダト思ツテイタコトガ、イトモ簡単ニブチ壊サレテ度ヲ失ウ。
アタリマエノ基準ハ、人ニヨツテ違ウダケデハナク、国ニヨリ地域ニヨッテモ違ウ。
普通デハ考エラレナイ非常識ガ、マカリ通ルコトダツテアル。
一体全体、何ガ常識ナノカ、ワカラナクナツテシマウ。
人ハ混乱ノ極ミデ、自分ノ器ガ狭イ範囲デシカ通用シナイコトヲ悟ル。
年寄ハ若者ノ傍若無人サヲ嘆キ、若者ハ年寄ガ過去ノ慣例ニ固執スルコトヲ可笑シガル。
他国民ノ理解シガタイ行動ニ首ヲ傾ゲル一方デ、自国ガ理解サレナイコトヲ嘆ク。
トモニ想像力ガ欠ケテイル。所詮ハ違ウ生キモノナノダカラ。
弾丸が雨とアラレと慰霊の日 [2014年06月23日(Mon)]

fumihouse-2014-06-23T19-03-37-1-thumbnail2.JPG今日6月23日は沖縄慰霊の日。69年前の1945年(昭和20年)のこの日、80日余りに及んだ沖縄戦が終結しました。沖縄ではこの日までの戦いで県民の4分の1にあたる20万人もの人たちが亡くなっています。犠牲者を慰霊し、平和を祈念する日として今日はあるのです。

20万人は米軍の艦砲射撃によってのみ犠牲になったのではありません。鉄の雨が降ると称された激しい砲撃だけではありません。本土の日本軍人がわからぬとして禁じられていた沖縄言葉をしゃべったとして殺された島民がいた…逃げ込んだ先の洞窟にあってむずかる赤子が殺された…鬼畜たる米兵に犯される前に死ねと教えられて自決した人も多い…糸満・摩文仁の断崖絶壁から飛び降りて死んだ人の映像も残る…。国民を守るべき軍が国民でなく、軍という体面を守る矛盾を起こしたという点で、組織というものがもつ欺瞞を露にした戦いでもありました。

愚かな指導者に率いられ負けるとわかっていた戦争に突き進んだ不幸。最新鋭の兵器と物量で圧倒された敵と闘う不幸。薩摩藩による侵攻以来本土の沈め石としての役目を背負わされてきた不幸…。さまざまな不幸は避け得ることができた不幸です。しかしかつての日本は世界に伍してアジア地域を誤った思想で統一しようとする過ちを犯しました。二度と同じ轍を踏まないように、日本人は攻める軍を捨て、経済と民政に専念し、アメリカの傘の下で生きる術を選択してきました。そのことは日本の誇りを傷つけた間違った選択であったとして、今や自ら戦争を始められる憲法解釈へと方向を転換しようとしています。

慰霊の式典には安倍首相が参加してます。どういう気持ちで犠牲者を追悼したのか…どういうふうに「平和を築く努力を惜しまない」のか…。沖縄の人々が望む平和への道を外れ、再び過ちを犯してはなりませんから。
殴られて防御の態勢むずかしく [2014年06月22日(Sun)]

fumihouse-2014-06-22T21-54-33-1-thumbnail2.JPG突然だれかに殴りかかられたときに、すぐさま反撃し、怒気をあらわにできる人は少ない。「えっなに?どうして?」と、不意打ちの暴力に対し呆然とし驚愕するのがふつうの反応だろう。それができるのは戦い慣れした人、もしくは戦場並みの厳しい環境にいた経験のある人だ。言葉の暴力に対するときも同じことがいえる。

東京都議会の本会議で、みんなの党の女性議員・塩村議員に対し、複数の男性都議が「早く結婚しろ」「産めないのか」などと差別的ヤジを飛ばしたことが事件となった。海外メディアも批判的にとらえ、日本における女性の低い地位を反映していると報じている。ネット上でも、当の議員(発言者は特定されていないが時間の問題だろう)に 謝罪を求める電子署名が、昨日までに6万人以上集まったという。

怒りを表すという点でいえば、テレビの映像を見ると塩村議員はその場で照れて困惑したような表情を浮かべた程度であり、抗議をしたのは議員団でまとまって後刻のことである。舛添知事も「女性の尊厳を傷つけるようなやじは断じてやるべきじゃない」と発言者を批判したものの、定例記者会見で「みんなが笑ったので私もつられて笑みを浮かべた」と説明したとおり、その場で直ちに差別発言を問題視し、抗議の声をあげることはなかなか難しい。

本音で話せばわかる、と言われることがある。ところが本音というやつは残酷で無教養であるのがふつうだ。自分を高みに置いて他人を蔑む本音をあからさまにしてもらっては困る。本音でどう思おうが勝手だが、建前として公然たる差別発言は控えるのが大人のたしなみであり、そのように躾けられてきているのが普通の人であり、本音はともかく建前どおりに発言すること(発言しないことも含めて)が、社会的なマナーであると私たちは学習している。本音でどれだけ酷い差別意識をもっていたとしても、建前として表には出さない、出すべきではないことは当然である。

議会の本会議というオフィシャルな場で女性差別の本音をあからさまにした当の議員は、大人ではない。教養もないし、本会議に出席する資格すらない。問責決議を受けるかもしれない。種々の社会的制裁を受けて当の議員は辞職するかもしれない。居座ってぬけぬけと次期選挙にも立候補するかもしれない。これからどう転ぶか、それはわからない。いずれにせよ、ヤジの形で本音をサラリと発する男を反省もさせず、このまま見逃してしまっては東京都民の名折れであると思う。
鑑定は万能にして万端Q [2014年06月21日(Sat)]

fumihouse-2014-06-21T23-20-31-1-thumbnail2.JPG映画『万能鑑定士Q〜モナ・リザの瞳』は、綾瀬はるかの魅力を満載していた。天然ボケの魅力ではなく、ひたむきに事件に向かう魅力的なまなざしで観る者を魅了した。事件だけが関心事ではなく、人間に向けるまなざしも温かだった。美形の彼女であるが、その部分だけは今回美沙役の初音映莉子に奪われた。昨年『終戦のエンペラー』で主役である准将の恋人役をやった。艶やかな長い髪、整った小顔、抜群のプロポーションにしてモデルのような美しい歩き方、怜悧にして気品ある受け答え…。今回もフランス人を恋人としていた。おそらく欧米人から見て典型的日本美をたたえた美人なのであろう。モナリザの微笑みのような魅惑を漂わせて、これも観る者を魅了する。

主人公は、凛田莉子(りんだりこ)の名前のとおり凛として利発な女性である。莉子は驚異的な記憶力と観察でもって何でも鑑定する。そこに事件の匂いをかぎつけて未然に解決したことをきっかけに、40年ぶりで日本公開されるモナ・リザ展の臨時学芸員として任命される。ところが、モナ・リザの瞳には罠が仕掛けられていた。最初は万能鑑定士Qが解決する事件ではなく、鑑定士にトラブルが巻き起こるのだと錯覚させておいて、どんでん返しで事件が明るみに出る。そこに冴えなかった小笠原記者(松坂桃李)があきらめない心で食い付き、莉子を助けるのが微笑ましい。彼の成長物語でもある。

小笠原が勤めるのは角川書店、東京国立博物館もそのままの実名と映像で出ていた。 帝国ホテルは「帝光ホテル」として登場したが、ロビーは帝国ホテルのそのものだった(去年あそこでラフォルジュルネのコンサートを聴いたからよく憶えている)。モナリザの日本公開の設定は、2014年秋。これも実話であり、本当にモナリザが来てくれたらいいのに…。

「Q」とは何か。小笠原は何度かただすが、莉子は答えない。最後に「Queenでしょ?」と小笠原は聞き、彼女もまんざらではない表情を浮かべる。確かにクイーンは、一定の分野で一流の女性、女神のような存在である。それが正解なのだろう。しかし、質問(question)に答えを出し、高い質(quality)に顧客に震えるような(quake)満足を与え、圧倒的な量(quantity)の鑑定をこなし、しかも迅速に(quickly)、クイズ(quiz )を解くように楽しく…。そんないろいろなQを想定しているような気がした(原作は読んでいないのでなんとも言えないが)。ともあれ、本物のモナリザをルーブル美術館で鑑賞してみたいものだ。
赤と白混ぜてみたなら桃の色 [2014年06月20日(Fri)]

fumihouse-2014-06-20T18-41-38-1-thumbnail2.JPG≪人は、ピンクの世界に生きている。真っ赤なウソと真っ白な真実のまざりあう場所だ。イギリスの詩人、スチュワートの言葉(嘘)≫
(金鳥ロマン小説「ピンクのよろめき」第六話より)

蚊取り線香の金鳥が週一くらいのペースで出す連載コマーシャルが楽しい。荒唐無稽のストーリー、少々軽薄な関西弁でいつもクスリと笑わせてくれる。そして今日の第六話は箴言だ。赤と白を混ぜたらピンク。ウソと真実の混ざり合う人生はピンクの世界。赤でもない、白でもない。どちらが真実か嘘か。どちらも真実でもなく、嘘でもないのか。では何を信じたらいいのかな………。

一見もっともそうな警句を吐いたとみせる。イギリスの詩人ステュワートというのが実在するかどうかは知らないが、いかにもありそうな名前に納得しようとすると、あっさり(嘘)と白状し、軽妙洒脱な味を出す。とても楽しい。軽く人を食っているのが面白い。食われても腹は立たない。

(ダリア系統の濃いピンクの花。名前はペコネンテス(嘘)。)
2014.6.22追記 この花は百日草。ああ、これがヒャクニチソウかあ…。
やってみて成否はともかくやってみよ [2014年06月19日(Thu)]

fumihouse-2014-06-19T18-57-10-1-thumbnail2.JPG自分自身が実際に見て、行って、やってみるのが経験というものだ。それによって得られた知識や技能は身に付く可能性が高い。成否に関わらず…。単に読んで、聞いた程度では深まっていかないというのは当たり前だ、と断ずることはできない。なかには断片的な知識と過去の体験から見事に推測し、手をうち、成功をおさめる人間もいるにはいるが、よほどの才能の持ち主と言わねばならない。その才能の主でも、やはり成功するには実行するというステップを踏まなければならない。失敗は怖いけれども、やってみて上手くいったとき、誰でも楽しい、やってみてよかったと感じる。

≪「楽しい」ということは、「私はできた!」という達成感だ(中略)、自身が人間として成長すること以上の楽しみはない▼達成感を得るには、達成感を得るまで挑み続けなければならない。国際的に活躍する起業家が指摘していた。失敗を恐れるあまり、行動しない人が多い。「失敗」という漢字自体、マイナスイメージが強いが、「失敗」を「経験」と捉え、いろいろなことを、ひたすらやってみることだ――と▼失敗をしない人は成功しない。失敗という経験から学び、次に生かしていく心の強さが、人間としての器を大きくしていく≫(聖教新聞2014年3月26日付け「名字の言」)

年を重ねるごとに失敗することが怖くなる。責任転嫁できない立場になればなるほど、やむを得ないこともある。仕事ならば許されない場合であっても、自分の生活にあって新しいことに挑戦していくことまで怖くなる、面倒くさくなるというのは、ちと寂しいことじゃあ、ありませんか。

(赤いザクロの花が咲いている。あの透明感のあるルビー色の実を思い出すと唾がわいてきた)
日々の糧ことば学びて書き入れて [2014年06月18日(Wed)]

fumihouse-2014-06-18T23-05-13-1-thumbnail2.JPGある文に「書き入れ時」という表現があって、間違いだろ? 掻き入れ時が正しいよな? とは思いましたが、念のために、デジタル大辞泉を調べてみたら仰天しました。【書き入れ時】が正しかったのです。解説にはこうありました。

《帳簿の書き入れに忙しい時の意から》商店などで売れ行きがよく、最も利益の上がる時。利益の多い時。「年末の―」 ◆「掻き入れ時」と書くのは誤り。

なるほど…売り上げがたくさんあって帳簿に書くことが忙しいのが語源だとは知りませんでした。もちろん、知らなかったからといって恥をかいたわけではないし、わざわざ辞書に、掻き入れ時は誤りと解説してあるのは間違う人が多いということの証明です。

それでも生きた言葉を学んでいくこと、覚えていくこと、違いを知っていくことは楽しいのです。私たちは毎日膨大な言葉の海に溺れるように生きていきます。文字が目に入り、耳から言葉を聞き、人によっては触覚で点字を読み取ることもあります。本や雑誌、新聞に教科書、仕事上の書類、電車の中吊り、スマホやパソコンの表示など言葉には限りがありません。そうして言葉に埋もれることは必然であり、それを無しにしようとすれば、社会生活を拒否することに他なりません。また明日も新しい言葉に出会えるでしょうか。楽しみにしています。

(くちなしの花が盛りです。梅雨時分のこの花。多くの人が、象牙の色や漂う芳香のことを言葉に表してきたことでしょう)
考えて毎日伝えるメッセージ [2014年06月17日(Tue)]

fumihouse-2014-06-17T18-29-28-1-thumbnail2.JPG先日は父の日。贈り物をした人も多いでしょう。「物」だけではありません。「気持ち」も添えて贈るからこそ、もらった当人はなおさら嬉しいのです。物を贈ったり(送る)、あげたりする機会はそれほど多くはありません。しかし、同じ屋根の下に住んでいると特にそうですが、言葉や態度というメッセージは否応なしに家族にあげ続けることになります。しゃべらない、無視するという態度も含めて人は誰もがメッセージを送り続けます。こんな記事がありました。

≪「贈り物」は難しい。相手が本当に喜ぶものを選ぶために、相手についてとことん考えた経験は誰しも一度はあることだろう。(中略)相手に対するメッセージは贈り物に似ている。他者から自身について気付いた点を教えてもらうことは、成長する上で大きなヒントになる。しかし、相手に良かれと伝えてもあまり伝わっていなと感じることも多い。(中略)少しでも変化を感じた時には「いいね!」という反応をすぐに返すことを心掛けたい≫
(『フィードバックの重要性』岸田美穂日本体験学習研究所研究員「人間関係づくりの教科書」日本教育新聞5月26日付け)

「いいね!」と表現したつもりが、誤解されてしまうこともままありますが、感じたら直ちに返してあげることによって、相手方の喜ぶ顔が見えてきます。直後のフィードバックだからこそ効くのです。時間が経てばたつほど効果は薄れ、相手に贈ったつもりが、「?」だけを感じさせてしまっては、もったいないと思いませんか? もちろん贈らないよりはずっとマシですが…。

(邇摩高校の農場に実ったブルーベリー。美味しそうに青紫だ。白いブルーム(果粉)のベールに包まれていっそう美味しそう)
老いていく人は誰しも老いていく [2014年06月16日(Mon)]

fumihouse-2014-06-16T17-50-54-1-thumbnail2.JPG老いるということを目の当たりにして、人は何を思うのでしょうか。…辛い…歳は取りたくない…介護はされたくない…自分は違うさ…老いは迫っている…いやまだ若い…私は大丈夫…強がりはしたが鏡に映る我が身に愕然…歳を取るとはこういうことなのかと悟る…いや諦める…。

日々在宅介護をする方々は、日々衰えていく家族を目の当たりにしながら、自分自身の老いにも直面していくことでしょう。時間の経過は誰にも与えられた免れがたいものだから…と悟れないのですね、またこれが。特に、家族が元気な時分を知っているだけに、当の家族が皮肉たっぷりに自分を嘲ったことを覚えているだけに、素直に家族の変化を受け入れられないのかもしれません。こんな記事がありました。

≪スムーズに介助するためには「声掛け」も重要です。人は、動作が起こる前から筋肉が動き始めており、自ら「動こう」と思うことで体が準備します。したがって、介助者は「動かすぞ」と思うのではなく、「動いてくださいね」の心構えと声掛けが効果的になってくるのです。(中略)要介護者の動作を''力任せに全て手伝う''ことを前提としない介助が、本人の自覚を促すコツであり、在宅介護を長続きさせる秘訣でもあるといえるでしょう。また、本人が「できるようになったこと」があった時は褒めてあげてください。介護職の人は「できなくなった」時から関わるので褒めるのが得意ですが、家族は「できていた」昔を知っているだけに褒めるのが苦手です≫
(聖教新聞6月10日付け「自立を促す介助」理学療法士出野智子氏)

まさにそうなんでしょうね。できることを褒めてあげること…大切ですよね。介護のテクニックと老いを感じとることは異質のことかもしれませんが、相手は自分を映す鏡であり、将来の姿だとなぞらえてみれば、違う世界が見えてくるかもしれません。

(白のキョウチクトウが咲いた。ピンクのと違って暑苦しさは感じない、品のいい夏の花園)
上がり症大きな舞台いかんせん [2014年06月15日(Sun)]

fumihouse-2014-06-15T20-02-01-1-thumbnail2.JPG上がっていたのだろう。緊張しすぎて平常心を失い、いつもと違い動きに精彩を欠く。おやっ? おかしいぞ? こんなはずではない…雰囲気に飲まれて実力を発揮できなかった。

初戦に勝ち点が欲しい…大観衆を前に…オールジャパンの期待を感じつつ……アドレナリンが過剰になり、精神的に上がらないわけがない。そのなかで本田が高揚感を上手くコントロールして、弾丸シュートで先制した。チームとしては知らずと守りに入ったのだろう。前線へのプレスが弱まり守備陣も引いた。その弱味につけ込まれた。特に後半、ドログバが投入されてからは、その巨漢が周囲を圧する存在感にザック・ジャパンは萎縮してなすすべがなかった。

ドログバの大きさ、スピード、テクニックに手が出なかった。名声に臆したということもあろう。それ以上に彼がもつ使命感の大きさと比べれば、日本代表の総力は足元にも及ばなかった。と言えるのではなかろうか。

ドログバはサッカーの世界で数々の栄誉を手にしたストライカーであるにとどまらない。サッカー弱小国だったコートジボワールは彼の活躍によって2005年W杯出場権を得る。母国の代表として彼はチームメイトと共に国民に訴えたという。国を真っ二つに割って、民族間で戦い、キリスト教とイスラム教が争い続ける内戦中のことである。

カメラに向かってドログバとチームメイトは訴えた。
(W杯出場という共通の目的があれば、争い合う民族同士であっても共存してプレーできることが証明された)「コートジボワール市民の皆さん、北部出身の、南部の、中部の、そして西部出身の皆さん、私たちはこうやってひざまずき皆さんに懇願します。許し合ってください。コートジボワールほどの偉大な国がいつまでも混乱し続けるわけにはいきません。武器を置いて、選挙を実施してください。そうすれば全てが良くなります」

これを機に内戦は終結した。また、ドログバ基金によって病院建設や子供への援助を今も継続している。彼とコートジボワールチームがワールドカップの場でプレーするということは、祖国が平和で一体感を保つためにはどうしても必要なことであり、サッカーを続けられること自体が彼らの大いなる喜びなのだ。高揚こそすれ、日本代表のように「上がっている」暇はないであろう。

(今日は父の日。お父さんたちの晩酌は少しほろ苦くなったが、次のギリシャ戦、コロンビア戦。開き直って戦いきってほしい)
海賊の美し姫の物語 [2014年06月14日(Sat)]

fumihouse-2014-06-14T10-25-55-1-thumbnail2.JPG今年の本屋大賞をとった『村上海賊の娘』(和田竜著,新潮社)を読んでいる。織田方と戦う大坂本願寺に加勢しようとする毛利方。水軍率いる三村上…能島村上家、来島村上家、因島村上家…が団結して毛利について、織田方との敵対関係に当たるのか。面白い歴史絵巻を広げるような思いでページを繰っている。

女性の美醜の価値観が転換する時代であったようだ。主人公・景姫(きょうひめ)の父・村上武吉の養女・琴姫は楚々とした「美女」であった。

≪顔はのっぺりとして、豊かな頬が女らしい曲線を描いている。眼は利剣で切ったかのように細く、おちょぼ口で、肌は真っ白であった。声はか細く、控え目だが、ふくよかな身体は、僅かな所作も嬌態に思える艶やかさだった。≫

一方で景姫の容姿はこんな「醜女」であった。

≪長身から伸びた脚と腕は過剰なほどに長く、これもまた長い首には小さな頭が乗っていた。その均衡の不具合は、思わず目を留めてしまうほどである。(中略)海風に逆巻く乱髪の下で見え隠れする貌(かお)は細く、鼻梁は鷹の嘴(くちばし)のごとく鋭く、そして高かった。その眼は眦(まなじり)が裂けたかと思うほど巨大で、眉は両の眼に迫り、眦とともに怒ったように吊り上がっている。口は大きく、唇は分厚く、不敵に上がった口角は、鬼が微笑んだようであった。≫
そして景姫は、≪大口を開けるや、高音の良く響く声で足元に控えた兵に命を放≫つ。

わたしたち現代の感覚で言えば、さながら宝塚歌劇団の男役トップスターか、女優の杏か、といった感じで、男ではないが美丈夫とも言えそうな風情である。

悍婦(かんぷ/気性が荒い女)にして醜女(しこめ)。嫁の貰い手がない二十歳。景姫の行方や如何に…楽しんで土曜の午前を過ごしている。

(景姫をイメージするような百合の群落。オレンジ色が艶やかだ)
バス停で転ばぬ先に杖はなし [2014年06月13日(Fri)]

fumihouse-2014-06-13T18-38-33-1-thumbnail2.JPG近頃、公共のバスに乗る機会は少ないですが、7月はバスの車内事故防止キャンペーンが行われます。乗り合いバスの事故全体のうち、なんと8割を車内事故が占めているようですから…。

なかでも業界が力を入れているのは、走行中に席を離れない!ということ。バスが止まる前に席を立って出口に向かうと、転倒の恐れは十分あります。事実わたしだって、焦って立ち上がったのとブレーキがかかったタイミングが重なり、転びそうになったことがあるのです。運転手がどんなに注意深くブレーキをかけても、よほど足腰がしゃんとしていたとしても、走行中の立ち上がりは結構危険です。

≪やむを得ず急ブレーキをかける場合があります。満席のため、お立ちになってご利用いただく場合には、吊革や握り棒にしっかりおつかまり下さい≫
チラシが訴えること、まさにそのとおりです。しかし、今時バスに乗ると、満席でなくても立っている人が多いのはどういうことでしょうか。

立ったままでいるのが気分的に楽なのです。二人がけの座席にすでに一人が座っている場合、多くの人が隣に座ることを避けます。狭いし、服を接して相手方の体温が伝わってくるのもイヤだからです。それをいいことに、一人目の客は真ん中にデーンと座る。あるいは荷物を横に置いて、ここには座るなよ!というオーラを出しているようにも思えます。かといって、「ここ、いいですか?」と切り出せば、大抵の一人目はさっさと隣に座らせてくれるものです。要は、二人目が座らせて!と意思を表明するかどうかがポイントとなるわけです。

そこまでして座る必要はないって? いやいや、あるんです。まずは、転倒防止のためには座りましょう。もう一つは、立った人が多いと邪魔なんです。乗り降りの客が通路を移動するたびに、立った人を避けながら歩かなければならないからです。それがイヤだから入口のところに立ち止まる。ますます障壁となる人が増えるという悪循環になってしまいます。

座るべき人が座り、立った状態の人が少なければ少ないほど事故の確率は減り、不快さの度合いも減るでしょう。このあたりをバス会社や運輸局はキャンペーンに加えてほしいですね。
蹴球の世界を望む伯剌西爾で [2014年06月12日(Thu)]

fumihouse-2014-06-12T17-03-04-1-thumbnail2.JPGいよいよワールドカップ2014ブラジル大会。グループCで戦うサムライジャパン。3日後のコートジボワール戦に命運を賭けます。日本からの記者団に対して本田圭佑がこのように述べていました。

「ただ、今からはね、叩くとしても大会が終わってからにしてほしいなと思っています。大会中は、メディアとしてではなくて、日本人として日本代表を応援してほしい。日本人として、我々の一員だというような気持ちで一緒に戦って」ほしいというコメントですね。

本田をはじめとする代表チームに対して、様々なバッシングがされているのでしょう(私は詳しくを知りませんが)。最近の直前マッチでは、逆転で勝ちをおさめるケースが多かったですね。しかし失点も多いことから、プレッシャーのかかった本戦では先に失点することは致命傷でありもっと守りを堅めよ、というのが典型的な非難ではないでしょうか。

しかし、ザック・ジャパンは攻撃的なサッカーでブラジル大会を目指してきました。ハイリスクでハイリターンという戦法。守備を堅めてカウンターで得点するという従来のやり方ではなく、前線と守備陣の間を詰めて攻撃力のあるパス回しで得点する。相手にボールを奪われる前にゴールポストを揺らす。相手からカウンター攻撃を受ければ失点のリスクは高いが、それ以上に波状攻撃を続けようという作戦です。

予選リーグ通過程度の成果ではなく、番狂わせの上位進出を果たそうとすれば必要な戦法だと思います。今は初志貫徹すべきときでしょう。コートジボワールはもちろん、ギリシャもコロンビアも強豪ですが、それらに互して戦いきってくれることを望んでいます。
ウッジョブはグッジョブなりと誇らしく [2014年06月11日(Wed)]

fumihouse-2014-06-11T19-15-33-1-thumbnail2.JPG映画『WOOD JOB!(ウッジョブ!)〜神去なあなあ日常』は村起こしの啓発映画だと思ってはいけない。もちろんその意味合いもあるにはあるが、天衣無縫のエンタテイメントを純に楽しむのがよろしい。伊藤英明扮するヨキが、ワイルドで余りにカッコいいことに目を見張った。エネルギッシュで男気に溢れ、山の仕事師として尊敬されるナイスガイだった。

矢口史靖監督は原作(三浦しをん著『神去なあなあ日常』)とは設定を変えてはいたが、高所でのアクションに尻の穴がすぼむような思いがし、勇気(染谷将太)と直紀(長澤まさみ)との純な恋愛にドギマギし、深い山奥に入った気分になって森の深遠なる思いにひたることができた。なんといっても、たくさん笑えるのがなんともよろしい。

直紀は綺麗だがとんがった不器用な小学校の先生。長澤まさみが直紀役をやるんだったら、自分で雑に切ったような髪型や全くオシャレっ気のないジャージ姿よりましな服装はなかったものだろうか。美形女優を配しているのに残念だったのは、これにとどまらない。ヨキの妻・みき役は優香。派手な夫婦喧嘩が終わると盛りのついた猫のようにいちゃつく、ド田舎のお嫁さん。美形の演技派・優香なんだから、もっと女を匂わしてもよかったかなあとは思ったが 、これも笑わすための仕掛けだったのだろう。

ケータイも圏外でコンビ二もない奥の森に入って働くということは、都会育ちの18歳の少年にとって信じがたい転換だった。彼には幸い、直紀という引き留める存在があったし、ヨキは厳しくも温かく導いてくれた。周囲のフォローも相当なものだったけれども、深い森によって彼は育てられた。そして1年のちに体験研修が終わったあとも彼はこの縁を振りほどくことはなかった。成長した勇気と周囲の人々との関係に胸を熱くした。

「まっ、なあなあやな〜」というのは神去村でよく使われるフレーズ。ゆっくりやろうとか、慌てるなとか、適度な加減でやっておけとかいう意味がある。かといって、いい加減に生きているかというとそうではない。山にあって急変する自然条件は待ったなしに厳しい現実を突きつける。油断は即、死にすらつながるからだ。しかも林業の世界は100年先を見て仕事をする。その息の長さもまた、短兵急に結果を求め過ぎる今の世に警鐘を鳴らしているようである。面白くもあり、深くもある映画だと思う。

(花の盛りは短い。けれども根を張る多年草はまた来年花開き、木の花は来年も葉を繁らす。写真はケムリソウ)
明日をみて我が行く末に希みあり [2014年06月10日(Tue)]

fumihouse-2014-06-10T18-51-09-1-thumbnail2.JPG茂木健一郎氏が第三文明6月号の「人生問答」で、こう述べています。20歳男性が発した≪僕が生まれる前の時代にあったものは何なのでしょうか。それは復活させるべきものなのでしょうか≫という質問への答えの一部です。

≪人間、生きる上で「希望」を持つことは、とても大切ですね! ぜひ、「明日は今日より良くなる」という感覚を取り戻したいものです。「僕が生まれる前の時代にあったものは何なのでしょうか」というご質問でした。答えはずばり、「希望」です。(中略)これからの時代に希望を持つとは、つまり、自分たちの努力すべき方向性を見極めることです。(中略)「希望」がない、「不安」だからと、閉じこもってしまったり、独善的になることはますます状況を悪化させます。あなたの世代が、ぜひ、世界に開かれた新しい日本を創ってください。私たちもまた、全力でがんばります≫

すばらしい答えです。希望という言葉を忘れていた人には、かつて自分が抱いていた志を思い出させてくれます。努力することの意味を見いだせなかった人には、社会のなかで自分の価値を再発見したいと意欲をたぎらせてくれるでしょう。ただし、独善的な言辞で他人を侮辱する人々には効果がないかもしれませんが、いたしかたありません。

そして何よりも筆者自身が、私たちの世代も若い世代とともに頑張りたいと決意表明しているところに共感が広がります。人は、衣食住が贅沢でなくても生きていけますが、将来への望みなくしては生きることはできません。希望をつくりだしましょう。

(ドクダミの花にだって希望があるのかもしれませんよ)
写真貯め児童に劣情おぞましき [2014年06月09日(Mon)]

fumihouse-2014-06-09T12-01-07-1-thumbnail2.JPG児童買春・ポルノ禁止法改正案が先日、衆院本会議で可決されました。これに対し日本雑誌協会と日本書籍出版協会が声明を出し、「表現者・創作者を萎縮させ、出版文化のみならず、自由な表現を後退させるもので、到底容認できない」として法案に反対する旨報道されました。

この法律は児童ポルノを強く規制しますから、写真や映像を個人の趣味として「単純所持」するだけで法に触れます。単に性的好奇心を個人的に満たすためだけであっても、児童ポルノの写真やデータを持っているだけで懲役や罰金が科されます。上記協会が反対する理由に自由な表現を萎縮させることをあげていますが、子供に情欲を感じる児童フェチたちが写真を売り買いする市場が小さくなり、協会加盟者の儲け代が薄くなることを心配しているのでしょう。

邪道です。卑劣です。そもそも、児童ポルノで劣情を満たそうとする連中は、想像をたくましくするだけにとどまらず、猟奇的な犯罪にもつながる可能性が高いと言えるでしょう。たかだか、写真や映像で「楽しむ」くらいなことに目くじら立てることなどあるまい、と思う向きもあるかもしれませんが、とんでもないことです。逃げる方法を知らないという点でも体力的にも子供は変質者の餌食になりやすく、彼らはふと思わず実行してしまうかもしれないのです。これで児童ポルノ規制に関しては欧米並みに近づいたと言えるでしょう。

今ニュースをにぎわす事件。十年近く前に栃木で小学一年生を殺害した容疑で捕まった犯人は、いたずら目的で女の子を連れ去り、死体を遺棄するまでに写真をたくさん撮ったといいます。ネットにも自慢げに投稿したのではないでしょうか。自分のパソコンに保存するだけの「楽しみ」だったとしても、想像するだに汚らわしい気がします。そしてこれらの事件が他の劣情家を刺激して類犯の可能性を高める。事件にならないまでも、一般の人には考えられないような変質的想像力をたくましくしているかと思うとおぞましい…。

法務省のホームページ『インターネットを悪用した人権侵害をなくしましょう』には次のような記述があります。

≪近年特に問題となっている児童ポルノは,それ自体,子どもの人権擁護上許されるものではありませんが,その画像がいったんインターネット上に流出すれば,画像のコピーが転々と流通して回収することが極めて困難となり,被害を受けた児童は将来にわたって永く苦しむこととなるなど,重大な人権侵害と言わざるを得ません≫と。

「一般の人には考えられないような変質的想像力」と書きましたが、人間には無限の可能性があります。誰しも悪い方向に進む可能性はあるのです。わたしの中にもそうした劣情を好むおぞましいものが宿っているかもしれません。一般人がそれら劣情を「育む」ことがないように、可能性の芽を摘み取るためにも、この法律の厳正なる適用を望んでいます。
羅生門乱れ荒れたは平安の [2014年06月08日(Sun)]

fumihouse-2014-06-08T18-49-52-1-thumbnail2.JPG『羅生門』は1950年に封切られた映画。戦後の混乱が続く日本にあって、黒沢明監督がこの作品でヴェネツィア映画祭グランプリを受賞すると日本人は大いに自信をもったという。黒沢監督の出世作でもある。映画館の画面いっぱいに映し出される映像は、原版フィルムの痛みもあって見苦しいところはあるが、計算を尽くしたカメラワークはモノクロであっても迫力満点だ。古い映画であるから、役者の演技はわざとらしいし、テンポが遅いし長回しのシーンが多くて眠くなるし、台詞で状況説明をしてしまうから説教臭いところはあるが、さすが黒沢映画とうなる映画だと思う。

特に役に取り憑かれたような演技を見せてくれたのが、三船敏郎(盗賊役)や京マチ子 (凌辱された武士の妻役)。まさに鬼気迫る迫真の演技。この二人も含めてスタッフやキャストはすでにこの世になく鬼籍入りしていることを思うと、年月の重さを考えさせられる。

真実とは何か。同じ体験をしてもそれぞれが異なるとらえ方をするものであり、ひとは(死者ですら)自分に都合のいいように事実を曲げて解釈してしまう。真実はどこにあるのか、それはわからない……この物語のテーマだ。どんなに丹念に真実を追っても追い切れないし、年月が経てば隠された事実は彼方に消え去ってしまう。今生を無常で儚く感じるのは私だけではあるまい。

現代は科学的な捜査が取り入れられるようになったとはいっても、人ごとあるいは同じ人でも時間ごとに供述は食い違い、証人の記憶もあいまいで齟齬がうまれる。裁判官の苦労はたいへんなものだろう。取調べの白須で話された内容も同じで、検非違使はさぞや戸惑ったであろう。どれが何やらさっぱりわからぬと呻いたのは、羅生門で雨を宿る百姓の男(志村僑)と托鉢坊主(千秋実)だけではない。真実は詰まるところ藪の中。藪の中という成句は、この映画をきっかけに広まったという(芥川龍之介の原作が「藪の中」と「羅生門」)。言い得て妙なる言葉だと思う。

この映画のもう一つのテーマは、秩序の崩壊だ。統治機能を失った平安時代。廃墟となり街路には草が生え放題という羅生門の荒廃ぶりに、当時の無政府状態がよく表現されていた。真実は藪の中に混沌とするなかで、武士の夫婦は仲を裂かれて夫は死に、盗賊は虚栄心に満ちた高笑いを観客に見透かされ、客観視した陳述を装っていた百姓の男も化けの皮が剥がされた。信じるに値するひとは誰もおらず、秩序は乱れたままだと諦めたところに、捨てられた赤子が登場し、そこ一縷の望みを託して物語は終わる。すべてが不信の連鎖に陥るのではなく、信ずるに値する人間と人間関係はある。そして人間は誰しも善性を持つ。それもまた真実だと映画は訴えたかったのではないだろうか。

(自然に咲く花は、ありのままであり真実そのものであってほしい)
郷愁の桑の実みのれる田の跡を [2014年06月07日(Sat)]

img_140607.jpg桑の実をみつけた
かつての桑畑に残骸のように桑の木が残る
深緑の葉に深い紫色の実
桑の実色でもなく深紫色でもない 黒に近い紫黒色
一房食べた ほんのり甘い 二房目を食べた
子供のころ学校の行き帰りに貪るように食べたあの味はない
小さすぎて甘さに個性もなくてつまらない
酸っぱさはなくただ甘い
美味しくはないが旧き良き日の郷愁がわく
脇には休耕田 かつてはここに稲田が広がっていた
手を見ると染まっていた
赤い紫
ああまさにこれが桑の実色

(桑の実ではないが、木イチゴの実。こちらは甘酸っぱくていくらでも食べられる。口中にカスが残るのがタマにキズ)
やっちゃった酒は涙かため息か [2014年06月06日(Fri)]

fumihouse-2014-06-06T22-44-52-1-thumbnail2.JPG安全運転管理者の講習を受けて、あらためて飲酒運転の恐ろしさを感じ、無邪気な酔っぱらいが犯罪者と化し、周囲を地獄の連鎖に導く恐怖を知りました。

酒が入れば入るほど事故率は高まり、死亡事故の可能性は高まります。夜間の車両相互事故から死亡率を換算したデータによれば、飲酒なしの場合は0.7%、酒気帯び運転で検挙される呼気中アルコール濃度0.15mg/Lの場合は0.8%、酒酔い運転の濃度0.25mg/L以上だと2.0%にまで高まります。さらに0.5mg/Lの場合だと4.5%となり(飲酒なしの6倍)、0.75mg/Lは40.0%(同57倍/ここまでくれば酩酊状態です)、1.25mg/L以上だと80.6%(同115倍)となるのです。

自分は酒に強いから大丈夫!と自信を持つ人がいます。アルコール脱水素酵素(エタノール→アセトアルデヒド)やアルデヒド脱水素酵素(アセトアルデヒド→酢酸)を体内に備えているからといっても意味はないのです。酒に強い人・弱い人を分けて、呼気中アルコール濃度ごとに点灯したランプに反応する時間を計ったところ、両者には全く違いが見られなかったようです。当然ながらアルコール濃度が高くなればなるほど反応時間は遅れますから、車の運転が危険なことは推して知るべしです。

アルコールは20gを1単位として数えます。アルコール度5%のビールならば500mLが1単位。日本酒は15%で1合、40%あまりのウイスキーならダブル1杯がそれに相当します。1単位を消費してアルコールが体内から消えるまで約4時間。量に比例して消費までの時間がかかります 。仲間同士で気勢を上げると意外に多く酒は飲んでしまうものですが、ビールを2単位、日本酒を4単位空けたとしたら、完全に抜けるまで24時間かかる計算になります。体質による違いはそれほど大きくないといいますから、畏るべしアルコール…。

飲酒運転は悪であり犯罪であることは、懲戒解雇や停職などの厳しい処分を課すようになりましたからもはや常識ですし、飲酒直後の運転は激減しました。注意しなければならないのは、単位ごとにアルコールを考えていけば深酒の翌日は丸一日運転を控えなければならないことです。昨日のことだから、もう十分眠って抜けたから大丈夫…と自分を過信して運転すれば検問に引っかかって御用となり、事故を起こし奈落に落とされます。免許停止や免許取得の欠格を科されるだけならまだしも、大きな社会的制裁を受けるとすれば自分だけでなく周囲を不幸に陥れることになります。百薬の長である酒。気違い水とも言われる酒。……しっかりとコントロールしていきたいものです。

(ヒメジョオンにとまったチョウ。酩酊してふらつく酔っぱらいのように飛んでいった)
原則と自衛の狭間で迷いあり [2014年06月05日(Thu)]

fumihouse-2014-06-05T18-36-53-1-thumbnail2.JPG原則なき応用ほど危ういものはない。そもそも原則を定めない不定見な態度は許されないのだ。

憲法解釈の問題が佳境を迎えている。国家が固有にもつ個別的自衛権に加え、集団的自衛権を日本国憲法上行使できるできるか否か。世論調査でも意見は真っ二つに分かれている。仲間の国が他国から攻撃された時に共に戦うこの権利のことを、自民党は今の状態ではあやふやだから憲法の解釈を変えて、同盟国と共に敵国と戦えるようになることを目指している。

一人前の国家ならば当然だという自尊心。そして、いざというときにアメリカが助けてくれなくては困るという実利の問題。さらに尖閣諸島や南沙諸島問題に見られるように中国の勢力拡大に対抗する意図があり、今の自衛隊の軍備に加えて集団的自衛権は行使できると喧伝することが抑止力として働くとの計算がある。

仮に集団的自衛権を認める解釈に変更したとしても、これまでアメリカがイラクやベトナムに対してやってきた無謀で独善的な戦争に積極的に加担する必要はない。それは日本の国会の良識に任されているとはいっても最初述べたように、原則なき解釈と態度表明は危ない。いざというときの議論によってはどうにでも転ぶ可能性があるし、動転してどうしたらよいかわからなくなってしまうことがあるからだ。

原則とは何か。やはり憲法しかない。必要であるならば日本国憲法の改正を行うのである。不摩の大典として怖れる必要はない。今の条文を金科玉条として改正不能する必要はない。必要があれば変えていけばいいのだ。私は、日本国憲法絶対主義者ではないし、憲法第9条原理主義者でもない。しかし、先人たちが尊び大切にしてきた憲法を、解釈によって死に体としてしまうのはあまりにむごいと思う。前文ではこう謳う。

≪われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。≫

一度そのように誓った日本国民であるならば、堂々とこの改正を検討し、崇高な理想と目的にふさわしい内容に日本国憲法をもっていくべきであると思う。解釈によって質実を変質させるのは邪道である。
穏やかに梅雨のしたたり田を濡らす [2014年06月04日(Wed)]

fumihouse-2014-06-04T18-48-44-1-thumbnail2.JPG今日6月4日。気象台が梅雨入りを宣言した。5月はからりと晴れる日が多かっただけに、思いがけず早い梅雨入りだった。乾いた土に雨が染み渡って植物たちがいきいきしている。農作物にも恵みの雨だ。そこで今日は30分の時間制限で、季語は「梅雨」。

  みずみずし緑連なり梅雨の入り
  蒸す夏に梅雨は寒しとおおブルル
  梅雨雲や列車走るは崖の脇
  梅雨に入り朱色の空が見られぬと
  梅雨湿り境わからぬ水平線
  寒々と風車回して走り梅雨
  竹秋がバトン渡して走り梅雨
  南風が吹いてよび込む湿舌や
  水滴が斜め濡らすは迎え梅雨
  田の海を従え梅雨の神西湖
  若苗が梅雨に濡れては育つころ
  梅雨弾く塗装の妙か新車かな
  袖濡らし哀しみのあと梅雨の入り
  色づいて雨に震わし紫陽花や

(追伸)友が最後の句を添削をしてくれた。このほうがずっといい。さすがだ。

  色づひて紫陽花雨に震えをり
難しい波を超えつつ幸せに [2014年06月03日(Tue)]

fumihouse-2014-06-03T23-18-28-1-thumbnail2.JPGひとは縁に触れるたびに、喜んでは笑顔になり、怒りに体を震わせ、哀しみに肩を落とし、楽しんでは絆を確かめる。喜怒哀楽は縁によって起こる。島根県那賀郡湯里村(今の大田市温泉津町湯里)に育ち、生涯を過ごした源次にとって、縁となるものは喇叭(ラッパ)だった。音楽とは無縁の木挽(こびき)の家に生まれた源次だったが、浜田の歩兵第二十一連隊の入隊を機に喇叭手となった。

小説『天を突く喇叭』(難波利三著,山陰中央新報社版「石見小説集」2010年)では、折々に石見地方の風物や自然の様子が描かれる。著者はあとがきで、≪私は勝手に「出雲は万事豊かなり、石見は万事質素なり」と信じ込んでいる。肥沃な出雲平野の恩恵に預かる出雲方面に比べると、地形的に不利な石見方面は様々な形でそれが暮らし向きにも影響を及ぼ≫すと。だから≪石見は出雲よりも小説になり易いのだ≫と述べている。

≪針葉樹の繁る箇所だけを黒々と残して、山はそろそろ冬支度にかかっている。谷底から吹き上げる風が小枝を鳴らし、峠の茶屋の前の僅かな広場をかき乱して枯葉や砂ぼこりを舞い立てる。風は冷たいが坂を登ってきた人々の顔は上気して、微かに湯気を昇らせた。≫
がっしりとした文体で、親しみやすい石見弁を交えて物語に引き込まれていく。郷愁が湧き立ち、旅をしたくなる文章ではないか。著者は邇摩高校商業科の出身であることが誇らしい。

そして縁した人は誰かといえば、東条英機。栄枯盛衰を地でいく陸軍のエリートであった。若い一時期を源次は 東条の部下として過ごした。無類の出世をし盛んだった東条と過去に接した源次を、同類として村人たちはもてはやし尊敬した。やがて、東条が首相を罷免され凋落する運命に置かれると、一転して東条と同様に源次は嘲笑される位置に落とされる。さらに衰えて東条が絞首刑になると、村人にとって源次もまた唾棄すべき存在となった。

村人たちは源次を理不尽にも毀誉褒貶の渦の中にたたき込んで、置き捨てる無情さを見せた。苦しい暮らし向きの村人にとって、源次と東条のありようは安逸で適当なる沈め石であったのかもしれない。

生まれた地域という縁、育てられた親という縁、影響を受けて尊敬する人という縁、結婚した女との縁、さらに山陰線が開通してのちの生活変貌という縁……風物や人物というさまざまな縁によって、人は幸せにもなり不幸も感じる。源次は兵役を終えてからは、静かな山で木挽きとして父の後を継ぎ、静かに生きていきたかったのに、周りはそうさせてくれなかった。源次を思うと、幸せとは自分自身の努力と信念ではいかんともしがたい場合があるものだと感じる。幸せになるためには、運も必要なのだと思う。
広々と大きく伸ばせ心地よく [2014年06月02日(Mon)]

fumihouse-2014-06-02T18-02-51-1-thumbnail2.JPG田舎のひとは声が大きい。全部そうだというつもりはないけれど、概して大きい。ことにお年寄りは大きい。なぜだろうか。

広々とした生活空間がある。田舎の家は広く声が届きにくい。田んぼや山林は広大だ。しかも自然の音は時に騒々しい。海で仕事をするひともまた、波しぶきに負けては声が通らない。自ずと声は大きくなるだろう。

性格があけっぴろげで純情だということもあるかもしれない。酒を飲むと誰しも声が大きくなる。そればかりか身ぶり手ぶりも大きくなって、周りのことも目に入らなくなる。それと同じで、あけすけな性格だと少々声が大きいことの無礼も、まあよかろうと自分で自分を許してしまうのだ。

あとは耳が遠いこと。大きな声を出す田舎のひとはお年寄りが多い。となると単純に耳が聞こえにくくなってしまっているのだ。相手も聞こえにくいのならば、互いに大声になるのも無理はない。

都会のように満員電車でもって体を小さくして乗り降りするわけじゃない。広い田舎に住むならば、肩を怒らし自由自在に生活するのも悪くない。

(じゃがいもの花は、どこかひょうきんで可愛らしい。新じゃがが待ち遠しい)
自由とは自律と合わせて学びたし [2014年06月01日(Sun)]

fumihouse-2014-06-01T20-39-01-1-thumbnail2.JPG長らく灘高で国語の教鞭をとってこられた橋本武氏は、「灘高式勉強法」のはしがきにおいて、このように述べています。

≪若者は自由であるべきです。あなたは心身ともにはつらつと伸びなければなりません。しかし、自由とは放縦の同義語ではありません。自由を育てるものは規律であり、自律の精神であることを思えば、伸びざかりの時期に、可能性へのトレーニングに打ち込むことが、若者だけの持つ輝かしい誇りといってよいでしょう≫
(『<銀の匙>の国語授業』橋本武著,岩波ジュニア新書)

生徒への愛情深き言葉です。放縦と安逸に陥ることなく、伸び盛りの学生時代を過ごせと説いています。若きその時代のトレーニングが、「若者だけの持つ輝かしい誇り」だと強調しています。訓練に打ち込むことは辛抱するだけにとどまらない、それは楽しむことでもありましょう。自律的に将来を見据えてトレーニングにいそしむ。それは即ち誇りとなって光り輝くのです。

(写真はブラシノキ。この柔らかい紅赤のブラシなら、頬を撫でられるのも悪くない)