CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

« 2014年03月 | Main | 2014年05月»
<< 2014年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
検索
検索語句
月別アーカイブ
カテゴリアーカイブ
最新コメント
ふみハウス
心地よし父の胸にて寝入る子よ (02/05)
心地よし父の胸にて寝入る子よ (01/27) ふみハウス
冷たくて濡れそぼる雨陽気待つ (01/26)
冷たくて濡れそぼる雨陽気待つ (01/23) 駅伝ワクワクをとこ
元旦の賀状楽しみ友を知る (01/02)
元旦の賀状楽しみ友を知る (01/02) 食欲のをとこ
食べ過ぎを防ぐためなりよく噛んで (11/02) 正中館道場
食べ過ぎを防ぐためなりよく噛んで (10/28) 計算苦手をとこ
筋力と宇宙の闘い空間で (06/29) 計算する者
筋力と宇宙の闘い空間で (05/15)
http://blog.canpan.info/fumihouse/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/fumihouse/index2_0.xml
最新トラックバック
耐えてなお冬芽転じて花となる [2014年04月30日(Wed)]

__tn_20140430182740.jpg桜の花芽は、冬の寒さに当たらないと春に花咲かない。チューリップの球根も、冬の寒さに鍛えられないと春に反応することができないという。他の春に咲く花々も同じことが言えるのだろう。今咲き薫るツツジの群落も、抜けるような黄のフリージアも、濃いピンクのサクラソウも、黄の光沢に輝くカタバミも、紫ただようアヤメも、みなが冬を耐えたのちに春咲き誇る。

≪人生には輝ける時と、苦闘の時がある。そして、苦闘の時こそ実は、最も輝ける時と知ることを、幸福と呼ぶのだろう≫(2月17日付け聖教新聞名字の言芯)

寒く苦しいときであっても、じっと堪えて今に見よ…と日々を過ごすところに春はやって来る。過ぎ去ることのない冬はなく、目覚めない朝はないように、道は開けていく。そのとき思うのであろう。苦闘の日々は輝いていたことを。
美しきただ美を求め百年後 [2014年04月29日(Tue)]

__tn_20140429200458.jpg『ザ・ビューティフル 英国の唯美主義1960ー1900』を鑑賞してきた。唯美主義とは、百年余り前に英国を中心として流行った芸術活動で、別名を耽美主義という。作品のメッセージ性は置いて、ただ色と形に美しさを求めた芸術思想である。ロセッティ画の『夢の杯』の説明書きにあった表現によく現れている。

≪物語的な主題を再現するのではなく、時代考証にとらわれない装束、背景の装飾的な処理によって、ひたすら視覚的な快をもたらす絵画を追求≫したものであると。要は、古くさい約束事をのがれて、唯ただ美しいものを求めた画壇の面々が創作した絵や調度品、装飾品類が、貴族や新興ブルジョア階級の屋敷を飾っていたのである。

アルバート・ムーアの『花』。古典ギリシャ風の優美な衣をまとう成熟した女性。長いドレスを通しても体の曲線美がくねる腰がなまめかしい。しかし媚びるような卑屈さや嫌な感じはない。意匠を凝らしたブローチやネックレスがステキだ。全体の色合いも実にいい。

同じくムーアの『真夏』はこの展覧会の代表となる作品で、大きな油彩だった。若い姫ぎみが、マリーゴールドの花輪飾りを掛けられた豪華な椅子にもたれかかって、昼寝をしている。白い肌着から透けた肌。上に着た鮮やかなオレンジ色の衣が目を引く。なまめかしくもあるが、その表情は幼く無邪気で眠たさに身を委ねている。左右の侍女は同じオレンジ衣をまとっているにもかかわらず、歳もそれほど離れていない。左の女は心ここにあらず。右の女は哀しい表情をしている。マリーゴールドの花言葉は「悲嘆」を意味するとか。侍女たちが手に持って扇ぐのが日本式の扇子で、金箔が貼られた豪勢なものだ。扇子の色はマリーゴールドに通じ、悲嘆の表現なのだろうか。

昨日の『江戸絵画の真髄 』でも書いたとおり、日本の画と西洋の画では、人物像が大きく異なる。きめ細かいタッチで人物の陰影を描き、人柄や気分まで彷彿とさせてくれる。衣のひだに合わせて心のひだまで描くかのような西洋画に、この美術展でも感嘆した。その心の動きや濃淡に美を感じさせてくれた。

美術展の会場は、三菱一号館美術館。英国の唯美主義が終焉を迎えた19世紀の末に建設された。土佐藩出身の岩崎弥太郎が築き上げた三菱財閥。贈収賄などの醜聞は多いが、日本の近代を造り上げた功績は大きい。その発展の基礎となった一号館が現代に美術館としてよみがえって、丸の内のビジネス街にあることに不思議な感慨があった。連休中の薫風に欅並木の枝がサラサラリと音をたて、涼やかなビジネスウーマンが風をきって歩く姿に百数十年の歴史を思った。
春爛漫江戸の絵画を眺めたよ [2014年04月28日(Mon)]

__tn_20140428224614.jpg東京富士美術館で『江戸絵画の真髄 ─秘蔵の若冲、蕭白、応挙、呉春の名品』展を観てきた。同美術館の開館30年を記念して行われている。日本近世の絵画コレクションが充実している東京富士美術館の誇る展覧会だ。

京の狩野派と江戸狩野派が競い合いながら江戸期の和風絵画を形作ってきた。琳派もその競争関係に参入してさぞや賑やかな絵画界であったことだろう。御用絵師たちが組織的にシステマチックに製作する現場はどんなであっただろうか。現場と実際の展示場は違う。深窓のお屋敷は薄暗く、明るい陽光は届かない。大きな寺や大名屋敷のほの暗い和室で掛軸や屏風、襖絵として描かれた絵が価値を発揮するには相当のイメージ力が必要であったことだろう。西洋貴族が親しんだ明るくて社交的なサロンで眺める絵画ではないのだ。美術館では調光、展示手法で暗がりの雰囲気を醸し出しており、日本の美を堪能することができた。

江戸中期の円山応挙『海棠金鶏図』。想像上のニワトリであるという金鶏。わたしにはインコに見えるのだが、紅赤と濃紺が鮮やかで形のよい造形だった。薄い桃色はボケの花だろうか、コバルト色の苔とコントラストの妙があった。

江戸後期の鈴木其一『風神雷神図襖』。俵屋宗達の『風神雷神図』をモチーフにした数多い絵のうちの一つであるが、素晴らしい襖絵だと思う。風神の周囲の雲は、上昇気流の雲で、まるで高層に浮いて実際に写生したかのような写実性があった。雷神の雲はほわほわと漂っている。二つの雲の表現に独創性がある。

常設展も併せて鑑賞すると、中国や日本と、西洋とでは、人物の描き方に決定的な違いがあることを感じた。西洋絵画の人物像は目に表情があり、皺に年輪が刻まれ、衣服に情緒があり、丹念に根気よく絵筆を動かしている。西洋ではいわば油絵具を塗り込めるようにして、人物の内面をも描こうとする。

一方で日本式の美は、おそらく中国もそうであるが、花鳥風月に重点がある。自然の風物に力点を置いて描かれている。墨や絵具にのせて人間も自然の一環として眺めているのが、東洋であると思う。

どちらが良いというわけではないが、絵師に宿った神の目は違う部分に届いてきたのだろう。ルネッサンス期以降、徹底して人間というものを見詰め、人間性のあり方を描こうと、小説でも科学においても腐心してきた西洋の面目躍如といった風情を感じるのである。

(東京富士美術館脇の歩道に生えていたシャガ。和洋折衷したような花だ)



[ カツどんどん ]2014/4/29(火) 午後 6:05
はじめまして
カツどんどん@宮城県
シャガから訪問です
美術館にもシャガ
シャガは繊細な模様が
神秘的ですよね
我が家はようやくシャガ開花も一輪?

[ fumihouse ]2014/4/30(水) 午後 9:37
顔アイコン シャガはあのオレンジ色と淡いブルーがなんともいいですね。しかも模様が神秘的。最近まで西洋からの移入種だと思っていました。最初に日本に根づいたのが、シャガ県ということはないでしょうね。おそらく
雑踏に流れてもまれて幾年月 [2014年04月27日(Sun)]

__tn_20140427235941.jpg雑踏はこわい…
雑踏は失わせる…
さっきまで仲間たちとともに気勢をあげた…
さっきまで高らかに希望を述べあって高まった…
日常を離れて気持ちを整理した…
日常のなにがしかをあらためて見直そうと思う…
何が自身の見直すべき問題なのか
何をもって自身の源とすべきことなのか…
多くの友とともに語り合うなかでわかってくる…
多くの友が前進する姿を見せてくれる…
雑踏はこわい…
紛れてしまうなかで…
その決意を鈍らせる…
それでも雑踏を歩こう…
雑踏こそ日々の糧だから…
満員の電車に揺られ西東 [2014年04月26日(Sat)]

__tn_20140426235835.jpg満員電車に乗った。
触れるなあ。肩が腕が。お尻や太ももも。
旅行鞄を両手で持つている。邪魔だ。
斜め前に若い女性がいる。前に立っている男性のふくらはぎ辺りに当たっている。
周りも迷惑がっているのがわかるような気がする。
尻に柔らかいものが触れた。
斜め後ろを振り向けば、若い男がもつ鞄。
一段と混んでいる。
両手が下にあると、いかんいかん。痴漢に間違われる恐れがある。
鞄は片手にして、右手は吊革を持つ。
これでよし。疑われることはない。
前の若い女性はスマホをいじっている。
フェイスブックだ。
SNSが大流行だ。
やはり、
「いいね!」をもらうのが楽しみなのだろう。
夜更けてカエルが鳴いて眠たかろ [2014年04月25日(Fri)]

__tn_20140425223343.jpgカエルが鳴いている
ケロケロ
キュロキュロ
ゲロゴロ
ガロゴラ
キュクュクク
キンキュキュ

代かきをする前の水がぬるんでいる。
スルスル
キュユキュユ
ツンツン
トクトク

春の星がまたたいている。
キラリキラ
ランラトラン
トルルンパ
トナカクナハ

夜になっても暖かだ。
ダンダン
ドテンドカン
ツルツル
ミトミト

一日過ぎてそろそろ眠くて目がとろん。
トルトヒュン
ナルトスナ
アナカサカ
アカサタナ
ハマヤラワ
春はいい。直線的に過ぎさても [2014年04月24日(Thu)]

__tn_20140424193041.jpgひとが過ごす時間というものは直線的に進むのでしょうか。歴史年表が左から右へと流れていくように時間軸は移っていくものなのでしょうか。それとも、時は重なるように上へ上へと過ぎていき、樹木の年輪が積み重なるように蓄積されていくのでしょうか。左から右へ、だけだと経験は蓄積されず、年月を経ても時間は周回するだけで、経験も思考も他人との関係も蓄積されないと、感じることがあります。そんなときは自信を失っていることが多いのです。

自分らしく邁進すればいい。他人はどうあれ、自分の道を進むと思い切れるときはいいのですが、くじけ気味のときには、周回するだけの自分の時間にあいそを尽かしたくなるときもあります。清々しくて晴れわたった青い春の空のようになれれはいいのですが…。そういえば、今日の空は格別でした。霞は多少はかかっているものの、暖かい日差しが辺りに満ちて、日だまりにいると心が浮き立つ清々しさを感じる一日でした。

春はいい。なんといってもいい。ツツジが咲き始めて(躑躅と漢字で書くとおどおどろしい)、百花繚乱のゴールデンウイークの季節がやってきました。もちろん遊んでばかりはいられないのですが、この春を楽しみたいものです。

(そろそろシバザクラの季節も終わる。この色合いが地面の絨毯のよう)
おつきあい同んじように付き合って [2014年04月23日(Wed)]

__tn_20140423183341.jpg「つきあい」と「おつきあい」は違うそうですね。考えてみれば確かにそうです。とりあえず相手に合わせておけばいいや、という語感が「おつきあい」にはあります。おためごかしのテキトーさというか、不実さと言っていいのでしょうか。相手に迎合する(あくまで軽くですが)のが、「おつきあい」です。

おつきあいで募金する…おつきあいで飲み会に出る…おつきあいで会話する…おつきあいで立ち話する………。数限りないおつきあいがあるのですが、自分のしたいことは本当は違うのだけど我慢して表面的には相手に合わせいくか、とあきらめるのが「おつきあい」です。

一方で「つきあい」には正面を向き合った真剣勝負といった趣があります。思いのたけを述べあって本音を語る。互いの腹の中を見せ合って深い関係になる、あるいはすでにその関係、というのが「つきあい」です。

「おつきあい」があればこその世の中だとは思いませんか。大勢に従っていく人がいるからこそ、流行は生まれるのですし、経済活動も活発になるのです。でも「おつきあい」だけでは軽い、物足りない。だからときには「つきあい」が必要なのです。家族と向き合って語り合い、将来の見通しを推測しあい、友人にズバズバと欠点を指摘して険悪な場面が出てきたとしても、恐れてはならないのです。それが「つきあい」というものでしょうね。

目の前にいる人にはいろんな種類があります。自分との関係性という点で。全くの没交渉な人、袖振り合うも多生の縁で会話のきっかけが生まれる人、前に語ったが今は深いつながりはない人……。いろいろありますが、時と場合によっても関係は変わります。変わる日々の繰り返しで、私たちの生活は形づくられ、集成としての人生ができていくのですね。

(フリージアは、おつきあいでは咲かない。強い種の意志で咲く)
スマホなり電池が切れたらただの函 [2014年04月22日(Tue)]

__tn_20140422233145.jpg電池が切れたらスマホはただのヘラ。
竹べらにも靴べらにもならないガラクタのヘラ。
電池が切れたらスマホはただの栞。
はさんだら本はゴワゴワ崩れてしまう。
電池が切れたらスマホはただの金づち。
釘を打ち付けボロボロ壊れる。
電池が切れたらスマホはただのロウソク。
灯を照らしてもわずかな10数秒。たちまち消えて闇の中。
電池が切れたのは仁万駅の中。
切れてもいいさ。女生徒たちがひまつぶしに話し相手になってくれた。
電池が切れて列車に乗った。
切れてもいいさ。本は僕の友だちさ。ファンタジーで夢の中。
電池が切れて列車が着いた。
帰りが遅くて心配かけたが無事に帰って美味しい夕食。
充電はじめてスマホは生き返る。
使えなくともなんとかなるが、やっぱり使えたほうがいいもんだ。
適度に賢く使いましょう。
考えて自由に生きる術なれば [2014年04月21日(Mon)]

__tn_20140421183055.jpg教育学者の苫野一徳氏は言います。変化の時代に必要な力は、≪自分で物事を考えられる力≫。大量生産時代からニーズ多様化時代になると、新たなサービスを生まないことには物は売れない。≪新しい発想で物事を柔軟に考えられない≫と対応できない時代だからだと説くのです(教育学者・苫野一徳氏『考える力を育もう』聖教新聞2月20日付け)。

家庭で考える力を育むには2つのポイントがあると。まず、≪子どもが何か興味・関心のあるものを見つけた時、応援してあげる(中略)本人が主体的に目的をもって何かに取り組む時、飛躍的に伸び≫るから。≪自分がやりたいと思ったことを徹底的にやり、深めていく学びをして≫いく訓練が自分の適性を伸ばしていく際のポイントとなるのです。

もう一つは、≪失敗を恐れずチャレンジできる環境を与える≫。≪自分を肯定的に思えている子は、物事を前向きに考えられ、失敗を恐れずチャレンジできるように≫なりますが、≪親から絶大な信頼と承認を得ている子ほど、「自分はOK」と肯定的に思えるようになります≫と。

氏は≪教育の目的は子どもが自由に生きられるように育むことだと考えています。自分が希望する生き方を自分で選べる。生きたいように生きられるようになるためです。そのためには、必ず何らかの「力」が必要です。さまざまな学びの経験を通して、その「力」を身に付けなければいけません。その「力」の一番基本になるものが、考える力です。自由に生きるためには、自分がどうやったら自由に生きられるのかを考えられないといけないからです≫と考えています。

意欲をもって関心を持続させ、失敗もするうちに子は育ちます。その裏打ちとして、自己肯定感が必要だと。結果として自由に生きられる。何かに強く依存して生きるのでもなく、根なし草のように基盤をもたない生き方でもない。考える力をつけることによって自由に生きられると氏は考えます。それは決して子供だけに言えることではありません。大人が自分の身で学習し、体現すべきことがらなのでしょう。一生勉強です。

(野大根の花が可愛らしい。斐伊川の土手には見渡すかぎりとまでは言わないけれど、たくさん咲いている)
昼下がり幸せがあるどこかしこ [2014年04月20日(Sun)]

__tn_20140420195508.jpgショッピングセンター、昼下がりのフードコート。幸せの形がたくさん見えた。

幼児の兄妹を連れたお母さん。三人でハンバーガーをほおばり、フライドポテトをつまむ。兄があわてて口に入れるものだから、ポロリとこぼす。注意する母。でも笑顔だ。

赤ちゃんをベビーカーに乗せたお母さん。もう離乳食の段階には入っているのだろう。微笑みながら食べている母。落ち着いたたたずまいが好ましく感じられる。娘時代の昔、図書館でもって恋のひそひそ話で盛り上がった頃もあったことだろう。今はしっとりと美しさを醸し出している母。

どのお母さんを見ても幸せそうだ。可愛くてステキで、今どきのママが勢ぞろいしたかのような風情がある。夫婦に子どもの組合せももちろん多い。休日の昼間を楽しんでいる日本の一風景がある。

中年の夫婦もたまに見ることがある。たいていは黙ったまま向き合っているが、時折言葉を交わしているようだ。子どもはもう一緒についてくる年頃ではないのか、それとも元々いないのか。行く末を楽しみにして弾んでいるようには見えない。かといって案じてばかりでは気が萎える。

父と子の三人組もいた。母は日曜日の仕事をもつ人か、それとも一人で買い物に精を出しているのか?あるいはシングルファーザーなんだろうか。おばあちゃんと孫との組合せもあった。中年女性だけで楽しげに語り合う姿もある。

日曜日の昼下がり。多くの人間模様がある。わずかな断片でしかないが、フードコートで食べる姿に幸せがある。「幸せなんかじゃない!」と言い切る人もいるだろうが、紛争の相次ぐ世界の趨勢から考えれば、十分に幸せの形がここにある。我が身も含め、それなりの幸せを噛みしめよう。
図書室に甘美な響きを感じと [2014年04月19日(Sat)]

__tn_20140419212010.jpg【図書室】
この甘美な響きを。学校の図書室では本のページをめくる音と鉛筆のカサカサいう音ばかりが聞こえる。友人とひそひそ話をしていた。ヒソヒソはかえって耳障りなもの。静かに!と女の子にピシッと言われて、目くばせて舌を出しあった。ずっと声をひそめて続けたら…静かに!っと追い討ちがかかる。思いは生徒だった頃に舞い戻る。図書室という単語に青い甘美な響きをを感じるのは私だけだろうか。「室」は家の中で至る、行き止まりまで行く。すなわち一番奥の部屋。そこで密やかに話すのは面白い。

【1限目の授業】
あまり乗らなかった。眠い、疲れた、宿題やってない…。いろんな理由で乗らないときが多かった。それでも時はやってくる。通学列車に乗って学校に行くことはいく。そしてなんとかしのぐ。しのいでいるうちに、面白いことも出てくる。好きな子と話ができて嬉しいことだってある。またあしたもがんばろうと思った。

【体育館の床】
古い体育館は床がギシギシときしむ。一人で入り込んだら、足音が埃の舞い散ってくる天井まで響いた。大勢が入場している体育館では感じられない静けさに身を委ねるのは不思議な体験だった。

【放課後】
放課された後とは、また穏やかではない。課程から解放される。開放ではない。すなわち授業時間は束縛され、先生の目に晒され、体裁に縛られる。放課後は放たれて青年は自由になる。放免される。ええなあ。

【チャイム】
チャイムが鳴る。朝のホームルーム、1限目の始まりに、授業の終わりとともに時を告げる。3限目の終わりとともに弁当箱を開く。腹が減っては軍はできぬとばかりに早弁をかきこむ。食べたら食べたで昼休みは何か腹に入れたくなったものだ。青年は腹減りとともに過ごしたのだ。そしてチャイムの音。いま聞くと郷愁と懺悔が入り雑じったような感覚になるのはどうしてだろう。若い頃の時間をもっと大切にしておけばよかったという後悔の念が起こってくるからなのかもしれない。

(若々しい新芽。透きとおって汚れのない無垢な青い春の芽。日ごとにぐんぐん伸びていく)
シャヴァンヌの幻影をみた仏絵画 [2014年04月18日(Fri)]

__tn_20140418214933.jpg宍道湖の南東岸にある宍道湖を形象した曲線美の建物。松江の街の静かなたたずまい。その彼方には青くてなだらかな北山が続いている。島根県立美術館は開館15周年を迎えた。それを記念して『水辺のアルカディア〜ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』が開催中だ。フランスの壁画装飾画家・シャヴァンヌの体系だった展覧会は本邦初とのこと。シャヴァンヌの世界は幻影。春の暖かいひとときを過ごすのにふさわしい空間である。

人間の精神が羽ばたき気持ちが自由になればなるほど、衣服は不要になるのかもしれない。ジャヴァンヌの絵画や壁画を見るとそんな気がしてくる。第一の印象である。西洋絵画の原初は地中海にある。西洋文明がギリシャに起こり、ローマで爆発的に拡大し、世界へ覇権が広がった。地中海性気候の暖かい地域では衣服は厚くない。映画や文献で見る限り、当時の衣類は脱ぎ着は簡単そうに見える。穏やかな天気に気持ちが自由自在に飛び跳ねるとき、恋人どおしが自然の発露として愛し合うとき、服を脱いで生まれたままの姿になりたいと思うのも、むべなるかな。アルカディアとは理想郷。西洋人の理想たるギリシャ・ローマの神話を静かにイメージしている。

中世暗黒時代の反動でルネサンス期を迎えた西洋人たちは、絵画に自由の象徴・裸体を求めた。近代文明が開花したヨーロッパ中北部に住む人にとって、太陽に満たされた暖かい気候はあこがれだったのだと思う。そこに美しいものの代名詞たる裸婦を描く。明るい色彩を放つ幻想 の世界を描く…。芸術家にとって衣服をまとわぬ女神たちはあこがれの象徴となるものなのだろう。

『諸芸術とミューズたちの集う聖なる森』は130年ほど前の作品でシャヴァンヌの代表作のひとつ。原版はリヨン美術館の大階段を飾り、その縮小品のカンバス油彩画が展示されている。ポリュヒュムニアは修辞の女神で、同じく女神のクレイオは歴史を司るという。壁画の中で英雄たちの歴史物語を雄渾な修辞で語り合っているシーンなのだろうか。縮小品と実物の壁画の写真(本物の半分以下)を比べると光沢や照り輝き、肌の質感は相当違う。エロスの神ヴィーナスは壁画に宿ったものとみえる。

学芸員がインスピレーションを抱いたという、神々の国島根にある宍道湖岸に美のミュー ズが集まっている構図というこじつけもまんざら悪くない。確かに湖の南東岸に女神が集まり、木々の向こうには北山に相当する山並みが見える。牧歌的な山岳風景、柔らかな自然に育まれる人々。幻影か、真実の物語か。それらをぼんやり想像しながらうとうとするのも悪くない。

(幻想的なアジサイ…万華鏡の季節がやってきた)
あいさつを挨と拶にと分けたなら [2014年04月17日(Thu)]

__tn_20140417192425.jpg昨今は挨拶するにも人を選ぶ。気心の知れた人にしか声をかけないという風潮である。不審者情報が流れ、ニュースでは行きずりの通り魔犯罪を報じているわけだから、なおさらのことであろう。それでも人の往き来が頻繁で人々が声をかけあっている町では、空き巣を狙う不審者には利く。彼らは顔を見られたくないから、顔を見て声を掛けてくる人は避けたいからだ。

そういう点では、邇摩(にま)高校がある仁摩町(にまちょう)の仁万(にま)は心地がいい場所だ。歩く人に「こんばんは」と声かければ、「こんばんは」と笑顔で返ってくる。庭先から声がかかることもある。

昨日の朝は邇摩高校の生徒昇降口でさわやかな声が聞こえた。わたしの出入りするところからは離れているので顔は見えなかったが、10人ほどの女子生徒たちが一列に並んで声を張り上げていた。わたしに向かって手を振っている子もいる。気持ちがいい朝だった。

挨拶は交友の幅を広げ、新たな出会いのチャンスとなる。人間練磨の出発点とも言えるだろう。挨拶の「挨」は押すという意味があり、「拶」は迫る義である。禅問答のやり取りにあって悟りの深浅を試すことに言葉の由来があるという。どちらかが発し、相手が受けることではじめて挨拶は成り立つ。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「お久しぶり」など、挨と拶が日々繰り返される 。マンネリ化した儀式だと考える向きもあるが、人間心理に与える影響は大きい。小さな社会でも、大組織にあっても挨拶は組織を円滑に動かす魔法の言葉だ。気持ちのよい挨拶を繰り返していけば、組織のチームワークは確実に高まっていく。

自分から声をかけるのは恥ずかしい…無視されたや嫌だな…ええ格好しいの奴、ウザイ奴と思われやしないだろうか…心配はつきないかもしれない。勇気をふるって自分が変われば、相手もいずれは変わる。自分の見方が変われば相手の良い面も見つかる。気持ちが豊かになる。また今日も昇降口で彼女らの挨拶が見られるだろうか。元気な声が聞かれるだろうか…。楽しみである。

(追記/4月17日夜)
彼女たちの元気な声は今朝も聞こえた。昨日よりもっと元気になっていた。部活の強化の一環として彼女たちが自主的に挨拶を始めたとのこと。マンネリ化した日常に何らかの一石を投じたい時には、勇気が必要だ。今までとは違う行動をとるためには清水の舞台から飛び降りる思い切りがほしい。朝から元気のもとを湧き立たせようという試みに、わたしは拍手を送った。彼女たちだけが元気になったわけではない。挨拶を受ける生徒らも違う空気を感じとって、ピリリと心がひきしまったに違いない。頼もしい娘たちよ。おじさんは嬉しく思いましたぞ。


(コメント)
あいさつは、ほんとに大事なものですね!
朝から元気よくあいさつすると
すごく気持ちがいいですよ ✡✡
これからの、結果につながってくれるといいです。
投稿者 さりぼん : 2014/4/22 (火) 19:57

コメントありがとうございます。ほんとに気持ちいいですね。僕も心がけています、声をかけるように。返ってくれば嬉しい。でも返ってこなければ…落ち込む、一瞬だけど。無視されたとしても、心に徳が積まれたと考えましょう。また明日も顔晴って、ガンバろう。
投稿者 挨拶をとこ : 2014/4/23 (水) 21:12
かけがえない友はインフラ博報堂 [2014年04月16日(Wed)]

__tn_20140416214652.jpg博報堂生活総合研究所は、「インフラ友達」をテーマに2014年を予測しています。かけがえのない使える人々をインフラ友達と定義しているのですが、「使える」と「かけがえのない」という二つの言葉が同居することに違和感を覚えるものの、一緒にいるだけで気持ちが休まる友は、いわば「安心を与えてくれる友」=「居心地が良いから使える友」ということなのでしょう。

予測のベースとなる調査によれば、一人で過ごす時間は5時間20分/日まで増えているそうです。この15年間で30分も増えています。一人の時間を大切にしたいという意識が強くなったことであり、友人は多いほどよいと考えるのではなく質が大切だという意識に変わったと分析しています。ネットでは広い交流が可能ですが、地についた友人関係を求める現れかもしれません。

こんな友が欲しいというランキングを発表しています。

1位■避難所友(ひなんじょとも)/大災害時に避難所的に受け入れてくれる
2位■教友(きょうゆう)/菜園、料理、語学など生活の質を上げるための知恵を教えてくれる
3位■命友(めいとも)/ああしんどいなと思った時に電話すると、生きる気力を与えてくれる
4位■ネンイチさん(ねんいちさん)/めったに会わないが、友達でいることの喜びを実感できる
5位■目利き友(めききとも) /ネット情報の真偽、隠れた問題点などを見抜く目利き
6位■黙友(もくゆう)/落ち込んでいるときに、何も言わずに、ただそばにいてくれる

身勝手なばかりで、わがままな願望があらわれているような気がしますが、まあいいでしょう。一人になる時間を好んだとしても、ひとは誰でも一人では生きていけません。袖振り合うも多生の縁、と一時のふれ合いを大切にするもよし。ドップリと語り尽くし合うもよし。友を大切にするということは、自分のことも大切に思うことにつながるものです。
空気感出雲と石見離れてる [2014年04月15日(Tue)]

__tn_20140415184138.jpg出雲市多伎町に続く山が仙山峠。ここを境にして出雲地方と石見地方が分かれる。出雲部と石見部では、お茶の飲み方ひとつとっても文化が違う。人の気性も異なると感じることもある。

その仙山峠の脇をすり抜けるようにしてJR山陰本線は海端を走る。切り立った岩盤と深い森が続き、列車の窓から見える岩礁には白浪が押し寄せて、青い海とおぼろな空の色がコントラストをなして目を和ましてくれる。

トンネルを抜けるのは4つだろうか、5つだろうか、石見に入る。大田市の波根駅に到着すると、出雲市の小田や田儀で感じていた空気が違うように思えるのは錯覚かもしれない。錯覚であってもよい。どちらがよくて、どちらが馴染まないとかいうのではない。どこか違う場所に来たかのような感覚が起きてくるのだ。

邇摩高校まで通勤を始めてまる2週間。その違和感はおそらく旅人が感じる情緒ではないかと思い当たる。わたしは日々旅を続け、鈍行列車に揺られながら、思索し景色の変化を楽しんでいる。

今朝はある生徒が驚いていた。わたしの長距離通勤を。その彼だって出雲部の端から通学している。他の教職員だって、ほぼ同様の道のりを車で通勤する。距離は変わらない。

ただ違うのは、列車の揺れに身をまかせながら、わたしは本を読み、ラジオ番組や音楽を聴く。そしてこうしてブログを書く。時折うとうとと眠る。その旅人の気ままさが、車での通勤者とは異なるのだ。車での通勤と列車通勤を比較しても、せいぜい30分程度の差しかないが、そこに大きな落差というか、異次元の旅人感がある。それを楽しみつつ、かわいい生徒たちの姿に目を細めながら、明日も通勤は続く。

(邇摩高校の「仁心の庭」に咲いている名を知らない花。静寂で慎ましやかだ)
決意して冷たい雪が温かに [2014年04月14日(Mon)]

__tn_20140414075428.jpg『アナと雪の女王』をまだ観ていない人のために。エンドロールで席を立つなかれ。
笑えるオマケ、ピリッとほろ苦いやつが最後についてきます。得した気分になりますよ。

まだ観ていない人のために。日本語吹替え版を観るべし。
雪の女王エルサ役をやった松たか子の歌が素晴らしい。『Let It Go』でエルサは歌うのです……ありのままに、と。腹が決まった時に制御できなかった彼女自身の力をコントロールできるようになるのです。そこには愛の力も必要です。アナとエルサ、そして正義のジェントルマンと交わされる自己犠牲の愛。あらゆる人々が発露する慈愛によって、閉じられていた城の門が開放されて、魔力に支配されていた心が解放されたことを象徴するのです。門を開けて、叡智を集め、豊かな情感を表し、人の和でものごとを解決しようという国の行く末が決まるのです。それらが歌に見事に表現されているのでした。

まだ観ていない人のために。ナンバー2が堅実・賢明でないと国は守れないことを知るべし。
アナとエルサの父母、すなわち王と王妃は二人が幼い時に嵐によって命を落とします。エルサ女王が戴冠するまでに長い時間がかかります。その間誰が国政をみていたのでしょうか。物語には登場しません。どこの組織にあっても同じことですが、執政官なり、ナンバー2がしっかりしていないと組織は弱体化し、場合によってはつぶれます。その陰の努力と能力にも注目したいですね。

まだ観ていない人のために。脇役に注目すべし。
勇敢にして心優しいクリストフ、一見紳士の王子ハンスも重要な役割を演じますが、トナカイのスヴェン、なんとか公爵、雪だるまオラフ、かわいげな石のトロールなど魅力的なキャラクターがたくさん登場するのもこの映画の人気の元なのだと思います。

(写真は仁万の街角に咲いていた花ニラ。降りたての雪よりも白くなく、今朝の日本海の水平線界隈の色よりも白い)
下を向き八重の桜は目を奪う [2014年04月13日(Sun)]

__tn_20140413210410.jpgわたしの住む町内に出雲村田製作所はあります。ケータイやパソコンにはなくてはならないセラミックコンデンサを生産するのが出雲村田製作所。その工場の敷地が年に数回開放されます。椿は約千種、桜は71種もあり、いずれも珍しいものばかりです。今日は恒例の桜の一般公開日でした。正門から入ると広い駐車場が開放してあって、警備員や職員が誘導してくださいました。

いままで何度か見に来ていますが、何度見ても見事なものです。八重桜は各種さまざま。珍しい形、微細な色の違い、花の付き方や葉っぱの出具合もいろいろで、楽しく観察し写真におさめてきました。幸いに雨の予報ははずれて雲は厚くはありましたが、いい花見日和でした。構内の道路でイソヒヨドリのつがいが何かをついばみながら、複雑な音色で語り合っていました。街中のビルで縄張りを主張するこの鳥を見る季節ではありますが、つがいを見るのは始めてでした。

桜の開放は20日日曜日にもあります。節くれだった枝を虎の尾に見立てた市原虎の尾や桜湯の原料となる関山など満開の八重桜の類を楽しむことができるでしょう。抹茶のサービスもありますから、また来週も行ってみようかな…。

(淡緑色の御衣黄(ぎょいこう)は淡い黄をベースに淡緑色の筋がはいる花びらが波をうっています。興味深い趣があります)
春は鳥春は花なり春楽し [2014年04月12日(Sat)]

__tn_20140412214717.jpg燕尾服をまとったツバメが縦横無尽に飛び回っている。巣づくりに精を出している。ヒバリが鳴いている。ひらひらと蝶蝶のように舞い上がって楽しげだ。街中ではイソヒヨドリが天使のような声で歌っている(天使の声は聞いたことがない)。トンビは高く高く上空の空気をつかんで丸く丸く滑空している。ウグイスはもう十分に上手に鳴けるようになったようだ。スズメも名を知らない鳥もにぎやかに春を過ごしている。水辺ではカイツブリがけらけらと鳴いた。春に鳥が喜ぶ。

花盛りである。鮮やかなタンポポの黄色。花の横には綿帽子が並んでいる。菜の花はレモンイエローに染まってどこか美味しそうだ。ムスカリは別名グレープヒアシンス。極小の提灯の形でヘブンリーブルーが美しい。スイセンは黄をベースにしてさまざまな色と形で目を楽しませてくれる。桃は今でもローズ色で艶やかだ。象牙色のハクモクレンが終わったら、ラズベリー色のモクレンが花を広げつつあった。学校の中庭や民家の鉢にはパンジーやビオラが百花繚乱のおもむきだ。ソメイヨシノは終わったが、八重桜が花芽を広げつつある。たわわに豪華な花を垂らすのももうすぐだ。色とりどりのツツジも陽光を浴びて空にむかって花開こうとしている。山々の木々は新葉が芽吹き新緑となり、春もみじの様相を呈している。目を下に転ずればシバザクラが地を染めて。春は花盛り。

(写真はムスカリ。わたしにはグレープというよりは、異世界の建築物にみえる)
能力は農につながる人立ちぬ [2014年04月11日(Fri)]

__tn_20140411192736.jpg『能力』は能ふる力。頭と体を使ってその人を計れる力。偏差値、IQ、英検、入学試験……点数をつけられる機会はたくさんあるが、嫌になるくらいシビアに点はついてくる。

『脳力』は頭脳の力。能力を裏打ちする力は多くは脳髄に由来するが、覚える計算する組み立てるといった知の力。あるいは身体を操ってコントロールするのも脳ならば、脳力は運動力でもある。脳はとても大切な器官だ。

『悩力』とは悩む力。誰でも悩んではじめて人間としての器が大きくなる。悩めば人の悩みにも同苦できる。人の心もみえてくる。悩まない人に多くの人をリードするビションやパッションは示せない。人をその気にさせて伸ばすことはできない。それからすると悩力が増せば、『能力』の能ふる力は与ふる力となって、他人を幸せにしていくことができるだろう。

さらに『農力』という言葉も使える。農業系高校の学科で、自家農地で自家菜園で、田舎の雰囲気でつちかえば農力が伸びる。漫画や映画の『銀の匙』では、食いっぱぐれない力を持ってほしいと校長先生は生徒に望んだ。食糧生産がグローバル化して地域の農業が危ない瀬戸際にあって、各人が農のノウハウを身に付けることはまさに死活問題だ。

『能力』はすべて点数に換算できるわけではない。脳力も悩力も農力もすべて織り交ぜて、その人がもつ可能性を能力という。「能」に「心」が伴えば『態』となる。態とは姿、ありさまのこと。そして『能ふる力』は『与ふる力』にも進化していくだろう。その人がもつ可能性を出し切れば多くの人に貢献していくことができるにちがいない。
勤労と仁心の末に創造が [2014年04月10日(Thu)]

__tn_20140410193848.jpg『勤労』
労働ではない。勤労である。響きもいい。労働というと、わずらわしく使役されるイメージがあるが、勤労は務めて励み、身を労(いたわ)りながらチームワークでことを進める。私にはそんな感じがしている。生きる者はすべてが勤労しなければなるまい。ハンディキャップがある人も自分独自の方法で社会に貢献していくことが勤労であろうかと思う。

『創造』
教育にとって創造とはむずかしい概念だ。そもそも教育とは鋳型にはめる作業を第一とする。先人がなし遂げてきた手法をなぞり、自分にもできるように努力しマスターして、そののちに始めて創造という段階がやってくる。道のりは遠いけれども、そこには創る醍醐味がある。

『仁心』
他人や弱いものを慈しむ心である。礼儀をわきまえ、幅の広い配慮ができる人徳をもった人にのみ可能となる。これも実践はむずかしいが、不断の努力がいずれ実を結ぶことだろう。

以上3つが島根県立邇摩高等学校の根本精神である(解釈はわたしの独断)。校訓という手あかのついた言い方ではなく、「根本精神」というのがいいではないか。いかに知性を高め、思いやりの心を育むか。情操を豊かにすることと、正しい生活習慣を身につけることをいかに両立させるか。体を鍛え負けない精神と自信をいかに持たせるか。勤労とは素晴らしいものであり喜びの元であることをいかに知らしめるのか。いかに地域社会にある課題を認識し、解決のために動くことができるのか。古今変わらぬ課題である人間関係をいかに円滑にすすめていくのか……。

こうした問いを不断に発しながら教員の皆さん方は、心を砕き、常にアイディアを研き、体も張りながら全力で奮闘しておられる姿を、この十日ほど見てきた。学校という世界も実に興味深いと思う毎日をおくっている。

明日は早くも金曜日。まずはわたし自身が果たすべき業務を勤労としてこなしていかなければなるまい。さすれば創造はいずれついてくるであろう。そしてかわいげな生徒たちには硬柔とりまぜて仁心をもって接していきたいものだと思う。

(仁万の町の庭先にあったツツジの花。名前は知らない)
青い春いろんな色に春染まる [2014年04月09日(Wed)]

__tn_20140409194934.jpgレンギョウが咲き、ユキヤナギがあでやかな白を染め、桜は盛りを過ぎたとはいえ、未だに勢いを残す。校内はペチュニアやビオラ、パンジーに満たされている。チューリップも咲いてきた。やがて万朶と咲き誇るツツジの群落とともに、風薫るすてきな季節はやってくる。

今日は入学式が挙行された。はにかんだ笑顔があり、締まりのない笑みもあったし、感動を面に表さない仏頂面もあった。思春期の彼ら彼女らなりの表現で、晴れやかだけれども不安がいっぱいな主役の座を表していたように思う。

邇摩高校校歌はこう歌う。
  数百の学徒つどい来て
  若い瞳もかゞやかに
  撞(つ)くや真理の暁(あけ)の鐘

百名足らずの新入生たちが学舎に集った。列席された親御さんは我が子の姿をどのように目に焼き付けられたであろうか。まだ幼さをたっぷり残してはいるが、君たち青年の熱と力で時代を継承し、創り出す時が来るだろう。いや、来てもらわなくてはならぬ。式典の最中に多くの顔を眺めながら様々なことを考えた。

若いっていいなあ。それだけで楽しい。だがそれは、今思えばということであって、あの頃は複雑に思いが交錯していた。嫌なこと、つまらないと思うこと…マイナスの感情に支配されることが多かったような気がする。しかしそれらは消え失せて、楽しかった思い出だけが脳裏をよぎるのはなぜだろう。それは歳をとったということなのだ。若さのエネルギーを発散させ、若さゆえの失敗もし(無為に過ごしたことも含め)、だからこその今がある。と思えば…歳をとるのもまんざら悪くない。

(写真は邇摩高校の園芸ハウス内にある赤いチューリップ)
軸足を決めて跳んだは葛西なり [2014年04月08日(Tue)]

__tn_20140408181854.jpgソチ五輪で銀と銅のメダルを獲得した葛西紀明が結婚していたという。婚姻届を出したのは五輪から帰国後であるが、プロポーズは個人の銀メダルを獲ったその夜。国際電話を使ってのことだ。20代後半の奥さんとともに次の平昌五輪でもメダルを目指すというから、今後ほほえましい二人三脚が見られるのだろう。悲願の金メダルは獲れなかったかもしれないが、銀の夜のうちに愛する人を射止めた葛西。もう立派に金メダルを獲得したと言ってもよいだろう。

ひとに「モテキ」というのが本当にあるかどうかは知らない。葛西はこの冬のヒーローとなり、世界中から注目される存在となった。まさにモテキと言っていいし、何だってワガママが許される男になることもできたはずだ。しかし葛西は中心軸を失うことはなかった。愛する人に軸足を決めて、再び挑戦の日々を送ろうと決めた。素晴らしい人よ。幸せであれ。さらに栄冠をつかめや。私たちにドラマのシャワーを浴びさせてくれたまえ。

(明日は邇摩高校の入学式。サイネリアが誇らしげに花を咲かせている。会場の屋内運動場はもちろんあちらこちらに鉢植えがあふれんばかりに飾られている)
少しずつ日本の四季は移り往く [2014年04月07日(Mon)]

__tn_20140407181550.jpg≪日本人は「微妙な変化に対する適応・適合を第一とする」というべきではなかろうか。朝昼晩の気温・湿度の変化に合わせると同じく、常に相手に合わせようとし、成り行きに適応することが大事だとする。なるべく相手を傷つけないように、相手に逆らわないように、お互いに仲良し倶楽部の一人となることを大切にする。これは裏を返せば、一貫した原則を貫くことを大事にしないことである。自分の重んじる価値基準に従って行動の原則を通すと、「頑固者」「偏屈」「風変わり」というマイナスの評価を得る。≫ (大野晋『日本人の神』河出文庫,2013年)

「仲良し倶楽部の一人となることを大切にする」ことの典型が、暮れ・正月のあいさつ回りであり、転勤時に辞令片手にあちこちを回り歩くことだ。職場という安定した共同体において、これからも変わらぬ関係でよろしく!というメッセージである。ぬるま湯的な甘さを指摘されもしてきたが、だからこそ日本人は精神的な安定を保ってこれたように思う。今や多くの職場でそうした年中行事は廃れつつあり、人事当局も喜ばず、外部の目も厳しい。ここ10年の変化は際立っている。

職場だけではない。多くの組織で人の出入りが頻繁となって活力と自由の気風を生む一方で、安定していた組織の紐帯が解き放たれて孤独を感じてしまう人も多くいる。そこに精神的な病のもとが現れていく。「一貫した原則を貫くこと」がなかったから、厳しさへの免疫力がないと言われても仕方がない。それが日本というものだったからだ。細やかに微妙な変化を感じとりながら、適度に優しい自然を愛でて暮らしをたててきた私たちの環境は変わった。これ以上変わらなくてもいいのにと思う。でも変わっていく。

(満開の桜の次には葉桜がやってくる。季節は微妙に日々移り変わり、やはり私たちはそれを愛でる)
大胆に四捨て五入れ四字熟語 [2014年04月06日(Sun)]

__tn_20140406174939.jpg「四捨五入」 4までを捨ててしまう思い切りのよさ、5以上を切り上げるというこの大胆さ。気分がいいなあ。
「使者誤入」 ひとや各国からの使者の出入りが多い国にあっては、入国管理上誤って危険人物を入れてしまうこと。
「試射悟入」 弓や銃の試射をくり返すことによって悟りの境地に入ること。実体験こそものの理解への道との教え。
「試射午入」 弓の稽古をする際には馬の絵柄の的に狙いを定めると的中率が高まるという。科学的根拠もあるとのこと。
「死者御乳」 亡くなった方に好きだった牛乳を口に含ませてあげること。死に水や末期の水の変化形。好みによっては山羊や馬の乳を使う。
「支社娯入」 本社から支社へ都落ちしたと落胆するエリート社員に、ここにこそ会社勤めの醍醐味があると教えてやること。
「試写御乳」 映画の試写会の前には牛乳を飲んでおくと映画を味わい尽くせるというある映画好きのまじない。
「止瀉碁柔」 下痢がひどいときには碁盤に向かって黙考すると下痢が和らぐという昔からの言い伝え。
「詩車語柔」 詩心のある者が車に乗り込んで語り合うと、周囲の心荒んだ者たちも柔和になっていくという意味。
「史斜後入」 歴史を斜にかまえて眺めると後世にも受け入れられやすい説を残すことができるというある歴史学者の考え方。

今日の苦しいお遊びはお仕舞い、ここまで。もちろん「四捨五入」だけが実際にある四字熟語。

(仁摩健康公園に先週咲いていた垂れ桜。あでやかではあるが、満開のソメイヨシノのような妖艶さは感じない)
レンガ積む日々に努めて明日を知る [2014年04月05日(Sat)]

__tn_20140405102947.jpg重そうなレンガを運んでいる作業者にある人が尋ねた。
「何をしているんだい?」
一人目が答えた。「石を運んでいるんだよ」
二人目は「壁を積むために運んでいるのさ」と答えた。
そして三人目は、誇り高く答えた。「聖堂を建ててるんだ!」と。

表面上、三人は同じ作業をしている。けれども彼らの内面はこれほどまでに違っている。見えている世界も違うことだろう。言われたことを単にこなしているだけなのか。それとも次のステップに目を向けてはいるが、理解はそこまでなのか。自分自身が当事者として大きな目標を成し遂げる意志を発露しているのか。

わたしたちの日常はもちろんのこと、教育の場でも応用できる考え方だ。無機質な公式を覚えることは試験以外に役にたつのか、大昔の年号や時代背景を知ることは面白いことなのか、介護の過程で被援助者の目を見て話しかけることにどんな意味があるのか……もろもろのことが、次の次の…段階を視野に入れて全体像が見えることで意欲が増していく。全てがお見通しになってしまっては面白味はなくなるから、謎は残っていたほうがいい。自分がどういうふうに変化していけるのか、その謎の追究を手助けするのが教育であろう。

自分にとっても自身は教育者。自分の先生である。完成はあり得ないとしても、高みに向かって飽くなき追究を続ける先生に教わる生徒は幸せである。そしてその幸せを他者にも及ぼしていくエネルギーをもつことだろう、わたしも含めて。
成功と愛することの反対よ [2014年04月04日(Fri)]

__tn_20140404074033.jpg『成功』の反対は「失敗」ではない。『無為』、すなわち何もしないことである。何事も着手しなければ始まらない。簡単にできることであっても、艱難辛苦の末に成し遂げられるものであっても、始めなければ始まらない。たとえ失敗があったとしても経験は蓄積される。けれども、無為の結果に何ら積み重ねはない。あとでふり返った時に、ほろ苦い思い出として心に留まることはない。

『愛する』ことの反対は「憎む」ことではない。『無視』、すなわち心に留めないことである。憎む相手は根っから嫌な人。それでもその相手と交友を結ぶ他人がいる。こちらとは相性が合わないのか、それとも根っからの悪人なのか。生まれついて悪辣人は珍しい。ならばこちらの心根に問題があるのか……千々に心は乱れていく。こちらの心は相手から離れられない。相手を無視するということは、透明人間のように扱う無慈悲な関わりだ。陰湿なイジメのひとつが無視。イジメられるほうは鬱々とした疑心が自身の内に向かい、精神を蝕む残酷なやり口だ。

何人(なにびと)も生きるかぎりは人間関係をなす。簡単なようで難しい。人には相性がある。すぐに心安くなる人もいれば、小難しいしかめ面に引いてしまう人もいる。それでも袖振り合うも多生の縁、同じ組織に属すれば目を合わせ膝をつき合わせていかなければならない。やがて思わぬ面が見えてきて有益なつきあいが始まることもある。成功することも、愛することも、わたし自身の心の内から始まる。

(写真は仁万田台の田圃の一角に咲くレンゲ。赤紫色が清冽でバランスのよい花形に心が和む。春の嵐がきた。強い風で列車が止まり、焦りつつも人の少ない車内で足を伸ばしつつ…今は無為でいるしかないか)
桜には不思議な力妖しくて [2014年04月03日(Thu)]

__tn_20140403073455.jpg桜の時季。ソメイヨシノがこちらでは満開直前。ハラハラと散りゆく満開は今日あたりだろう。午後には雨。散り去く花を惜しむときがくるのは残念だ。この時季が希望に満ちたときであるのは確かだが、なにか不安で落ち着かない。進学、就職、転勤など環境が変わっていくからだ。花見があるのも一つの原因かもしれない。それはどこか妖しい。坂口安吾は『桜の森の満開の下』で、凶悪な山賊に言わしめた。

≪どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、森のまんなかに近づくと怖ろしさに盲滅法たまらなくなる≫

花冷えの風が肌を刺すとき、風がなくしんしんと花が舞い散る夜桜を見ていると、どこか穏やかではいられない。春が来たという喜びだけにとどまらず、満開の桜花には魔力がある。

梶井基次郎は『桜の樹の下には』で、≪桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。≫と桜花の見事さを劇場のように表した。

昔話『花咲か爺』にも桜花の力が描かれている。心やさしい老夫婦。犬が「ここ掘れワンワン」と鳴き畑を掘ったところ、小判がわんさと出た。隣のいじわる老夫婦は、その犬に無理やりやらせたが、ガラクタしか出なかった。怒ったいじわる夫婦は犬を殴り殺す。悲嘆したやさしい夫婦は犬をねんごろに弔い、墓の傍らに植えた木はたちまち大木となった。木で臼を作って餅をつくと小判となる。隣のいじわる夫婦は臼で餅をつくが、出てくるのは汚物ばかり。激怒して彼らは臼を燃やす(哀しむばかりで怒らぬやさしい夫婦)。やさしい爺が灰を枯れ木に撒くと桜が満開になった。「枯れ木に花を咲かせましょう」と。お殿様がご覧になり褒美を与えた。妬んだ隣の夫婦は懲りずにマネをしたが、お殿様の目に灰が入り罰を受ける(強欲と無慈悲が身を滅ぼすことを学ばぬいじわる夫婦)。

この物語をさかのぼれば、桜に行き着く。桜の化身があの犬だったのかもしれない。満開の桜の群落には輪郭がにじんだ絵のような不思議さがある。そのにじみが春の私たちを狂わしていく。にじんだごく淡い桃色が妖艶に色気を醸し出す。桜は妖力を持っている。

(朝の山陰本線の沿道に見えるソメイヨシノは淡い春霞に染められている。写真は昨夕仁万の桜)
一車輌桃源郷を思うなり [2014年04月02日(Wed)]

__tn_20140402071748.jpg仁万(にま)は豊かな駅。広々と田園を臨み萌え始めた山の空気がゆくりと降りてくる。清潔に整頓された駅舎では、駅員さんが学生たちを温かい目で見守ってくれる。数分歩けば仁万港、海の幸に舌鼓。

五十猛(いそたけ)は高い駅。ぼやっとした春にあっても空の高さが感じられ、すぐ脇の岩盤の向こうには日本海を眺められる高みがある。

静間(しずま)は明るい駅。満開の桜花がホームにせり出し、晴れた周囲の明るさを一身に集める。やがて満ち過ぎた花びらがハラハラと落ちるさまが楽しかろう。

大田市(おおだし)はひなびた駅。この界隈では大きな部類だが、街のたたずまいはこじんまりとまとまって、都会の人が降り立ったなら、迫る旅情に感無量。

久手(くて)は朗らかな駅。夕陽に照らされて家々の白壁が春の気持ちよさを現出する。久しく会わぬ友と友が手をとりあって再会の地となるかも。

波根(はね)はたくましい駅。大田の田園地帯と漁港をつないで、人々の胃袋を満たす。

田儀(たぎ)は険し過ぎる駅。切り立った断崖、多くのトンネルを抜けていく。山や木の合間から見える夕陽は絶品だ。不死鳥がとまっているかのよう。

小田(おだ)は滑らかな駅。飛行機雲のはるか下。海から続いた斜面には大きな空がくっついて、そのまま一体になりそうだ。

江南(こうなん)は遥かな駅。長くて険しい山海、断崖越えてきて、平地の際に立ったなら、そこは出雲の入り口だ。

出雲神西(いずもじんざい)は暗き駅。子供を連れた母と父。4人が乗り込み立っている。なのに、4人がけのボックス席を荷物でふさいで座らせぬ不細工な男、そして同じくボケたじいさんが座ってる。駅が暗いわけではないけれど、愚かな男が二人いた。

西出雲(にしいずも)は入る駅。都会へ入り、出雲市ひとつ前の駅。家はたて込み車は多い。それでも田園が広々と気持ちいい。

出雲市駅はふつうの駅。学生や旅行者でガヤガヤと。サンライズ出雲が控えてる。暗きとばりが降りてきて、ビルの明かりが暖かい。

列車とは言えないディーゼル気動車が、単線の山陰本線を進んでいく。山陰本線を上るのか、下るのか。それは問題ではない。駅と駅とが遠くへだたって、ゆっくり進む道のりに、なぜか桃源郷を思うのだ。

(写真はたぶん、スモモの花)
楽しいな冬季五輪を東京で [2014年04月01日(Tue)]

__tn_20140401063659.jpg新年度の開幕にあたり東京都は早朝5時からの記者会見を行った。スポーツ振興局長は、2026年冬季オリンピックの開催地として立候補すると発表した。驚いた。わずか数センチの雪が積もっただけでケガ人が続出する東京で冬季五輪などできるのか。スケートならともかく、スキー競技を行うだけの雪が降るのか、というのが多くの人がもつ感想であろう。

東京都が立候補を決めたきっかけは、この冬2月に大きな被害が出た歴史的な大雪。温暖化が進み夏は酷暑となる一方で、気象学的には気候が不安定で冬に雪が降り積もることが確実に増えると、都は大胆に予測した。関東平野に大雪を降らせるときは、太平洋南岸に沿って西から東へ発達した低気圧が進み、シベリアから強い寒気が押し寄せる。こうした気象配置になりやすい2月後半を目処にスーパーコンピュータによって綿密な解析を行った結果、2026年の2月終盤には70%の確率で大雪となることが判明した。こうした超長期予報が実現したことが東京都の背中を押したといえる。異常気象が当たり前となってしまっては、今後ますます夏の暑さ、冬の寒さが激烈になることとなり、人類にとっては不幸の種が増える。が、逆転の発想でもって東京都はオリンピック誘致に動いた。あっぱれと言いたい。

かといって確率は70%。いつもの冬のようにカラッ風が吹く乾燥した晴れが続いたのでは目も当てられない。そこで都はこの3月、某所で極秘裏に空気中にある化学物質の微少粒子(人間には無害)を撒き、雪の結晶化を促進する実験を成功させた。水を雪にする人工降雪機の進歩も著しく、雪が不足した場合でも十分カバーできる。

さらに科学技術の進歩は驚くべき成果を出した。特殊な極小繊維から水を染み出させ、氷や雪の上をスケートやスキーのエッジが滑るのと同じ原理で競技ができるようになった。人工雪ではなく代替雪である。選手が試験滑走したところ、違和感なく滑ることができたということで、3割分の不安を打ち消した。

都はスケートのリンクサイドを暖かくしようとサービス精神を発揮している。ホバークラフトの原理によって、リンクから2〜3mより遠いところには寒気が届かなくなり、観客はコートを着用しなくても観覧できるという。建築技術の粋を尽くしたスケートアリーナ建設に期待が高まっている。

都は徹底している。陰陽師や祈祷師といった科学外の分野からも有為な人材を募って雪乞いを行い、冬季五輪の大成功を期すと、スポーツ振興局長はインタビューに答えた。近年、冬季五輪の開催希望地は減る傾向にあり、これも東京開催へ十分な期待がもてる要因となっている。東京で2020年にオリンピック。さらに2026年に冬季オリンピック。夢の祭典が東京で連続するという夢の展開に期待したい。

ということで、今日は四月一日。希望にあふれる平成26年度が始まった。ああそうだった。今日から消費税が上がるんだった…これはイタイ。

(冬に地を這っていたホトケノザが、立ち上がって仏の椅子となっている。群生している様もどこか嘘っぽい)