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春という字には力がみなぎって [2014年03月31日(Mon)]

__tn_20140331183107.jpg『春』を電子辞書の漢字源で調べてみた。

●陽気が地中にうごめいて、外に出てくるころ。若く元気な時期。若さや精力。男女の慕い合う心や情欲。

さらに解字すると、
●生気が中にこもって、芽がおい出るさま。地中に陽気がこもり、草木がはえ出る季節を示す。ずっしり重く、中に力がこもる意を含む。
なのだそうだ。

私がこじつけたら、こうなった。
●「三」に「人」が貫くのは、三人寄れば文殊の智恵よ。三の各一画の長さが違うように、個性だよ。人だけじゃない。水、泥、空気の三要素か。それとも、天の時、地の利、人の和なのか? 三つのものが力を合わせて新しい時をつくるんだ。そこに「日」が射してきたならば、萌え出ずる季節は現出するにちがいない。何故に日は下にあるのか。地のエネルギーは太陽のエネルギーが地に蓄えられて、下から下から、冬に飽いた私たちの命をよみがえらせる。桜を観よ。爛漫を称えられ誇らしく目を引く。満開の桜の元に立ってみよう。春の陽気は、妖気にとって代わる。春の幻影に惑わされて私たちは春に酔う。春をうたう。春になやみ、春とともにみなぎる。春は力がこもって増発していく。暴発しないように気を付けていこうぞ。
生物や食物連鎖に感謝あり [2014年03月30日(Sun)]

__tn_20140330124156.jpg生産され出荷される家畜という「経済動物」に逃げ場はないが、「人間」には逃げた先でまた新しい人生が開ける。だから逃げたことを恥じても、諦めたらいかん……。映画『銀の匙 Silver Spoon』にはそんな言葉が出てきた。酪農牛・肉牛担当教員役の中村獅童の台詞である。

農業のことなど何も知らず農業高校に入学した頼りないセンチメンタリスト、主人公の八軒(中島健人)は豚の飼育でも常識はずれをしでかす。生まれたばかりの豚。なかでも一番弱っちいの子豚に彼は「豚丼」と名付ける。情が入らないよう経済動物には名前はつけないと教えられていたが、立派な体に育って出荷されるよう彼は懸命に世話をする。半年後別れはやってきた。別れがたい。八軒は豚丼の肉をすべて買い上げると宣言し、夏のアルバイト料をはたいた。先輩の援助を受けて50キロあまりの肉をベーコンにしたのだ。ベーコンは学生や先生たちの胃袋に収まる。終わったばかりのNHK朝ドラ『ごちそうさん』のめ以子のようだった。

その縁がきっかけとなって文化祭で逆転劇を演ずるところが、物語のハイライトとなる。最初は鶏の処理場面で気絶していた八軒も、人間という食物連鎖の頂点に立つものの一人として、捧げられた命によって自分の命を長らえることに感謝する場面だ。彼の成長ぶりがうかがえた。

札幌市内の中高一貫校からドロップアウトした八軒。決して落ちこぼれではない。すばやい暗算力に何人もが驚いたように、頭の回転は速いからだ。キリキリと胃を締め付けられる進学校の教育環境にいたたまれなくなったのだ。それを父は強くなじる。もうお前には期待しないと切り捨てた。

彼がつらい生活から逃れて入学したのが、全寮制の大蝦夷農業高校だった。逃げることがすべてだった彼には目標や夢はない。しかしエゾノーはなじらない。夢がないってことは、いくらでも作れる可能性があると校長は励ました。北海道の酪農家がかかえる深刻な経営問題も交えながら、映画はたんたんと進んだ(編集や音楽が今ひとつなのが残念だ)。

題名の『銀の匙』の意味が校長から明かされる。生徒の将来が食い詰めることないようにとの校長の願いが銀の匙。校長はいつも祈る気持ちで匙を磨いていた。同級生の御影アキとの純な恋物語が少しずつ進行していくのも微笑ましい。父との断絶も、八軒がたくましく成長した姿を見たことで、解決への糸口が見える。あと味のよい気持ちのよい映画だった。

主演の中島健人はジャニーズだそうだ。どうりで館内には若い女の子が多かった。御影アキ役の広瀬アリスの笑顔がいい。通った鼻筋、強い目力、短髪。それでも冷たい感じはなく、悲しみをたたえた表情もビッグになる可能性を感じさせてくれた。ひょっとしてライバルの高校生役をやっていた黒木華を超えるかも。

(ソメイヨシノが咲きだして、アンズは盛りを終えた。桜に似た花だが、咲き方が枝に直線的できりっとしている)
ホビットの大冒険なり竜の山 [2014年03月29日(Sat)]

__tn_20140329175024.jpg映画『ホビット〜思いがけない冒険』に続く第二部『ホビット〜竜に奪われた王国』が上映中だ。『ロード・オブ・ザ・リング』の60年前のエピソードとしての位置づけである。原作小説『ホビットの冒険』を詳細にかつ壮大に味付けしている。ニュージーランドの美しく厳かな荒野や山岳地帯をロケ地にし、目も覚めるような景観を楽しむことができる。劇場ならではの味わいだ。

ドワーフ族の一行はビルボ・バギンズとともに、何十年も奪われたままになっている祖国・離れ山を奪還するための旅を続けた。敵方のトロールやオークは執拗に襲撃してくる。エルフ族との確執もある。助っ人ビルボは弱いながらも機転と勇気ある行動で窮地を脱していくのが爽快だ。が、ハラハラしてばかりの展開が続く。

『ロードオブ』に登場する悪の冥王サウロンが復活した。サウロンが血眼で探す例の指環も出てくる。闇の森のエルフの王子・レゴラス役のオーランド・ブルームが息もつかせぬ圧巻のアクションを見せてくれた。『ロードオブ』よりも鮮やかで優雅で、かつユーモラスでもあって楽しめた。第三部の完結編は巨大で邪悪な竜スマウグとの戦いも決着する。もったいぶらずに、早く見せてほしいものだ。
虎視眈眈鋭い目付きで獲らんかな [2014年03月28日(Fri)]

__tn_20140328204237.jpg【虎視眈眈(こしたんたん)】
 虎が、鋭い目つきで獲物をねらっているさま。転じて、じっと機会をねらっているさま(by デジタル大辞泉)

【虎視眈眈】
 虎が獲物をねらって鋭い目でじっと見下ろすように,機会をねらって油断なく形勢をうかがっているさま(by 三省堂大辞林)

【虎視眈眈】
 巨大医療法人の総帥から選挙用資金として5000万円を借り受けた某知事の行為を明るみにし、その法人と当知事とが利害関係のあったことを暴き出し、度重なる追求の結果当知事を引きずり下ろすことに成功し、次々とスキャンダルをたたき出そうとするマスコミの執拗さを示すさま。または、8億円を某化粧品会社から融資されていながら、「純粋に個人として借りたものだ」とコメントした某政党代表をここぞとばかり追求し、辞任に追い込もうと知恵をしぼる正義感いっぱいのマスコミのさま(by ふみハウス)

(まさに淡雪が積もって青空に映えているかのようなユキヤナギ。今日は松江でもソメイヨシノが開花した模様)
春は来た桜サクサク春が来た [2014年03月27日(Thu)]

__tn_20140327184155.jpg春は来た。とうとう来たと喜べや。
春は来た。春の霞とともに来た。
春は来た。宍道湖対岸とけ込んで、水の端に境なし。
春は来た。山の端かすみ同化して、青白き空や懐かしい。
春は来た。イソヒヨドリが鳴いている。軽やか澄んだ声なれば、相方来いや、恋したい。
春は来た。コブシの花や忽然に、くすんだ山に炎燃ゆ。
春が来た。桜はどうだ咲いたかや。しだれ桜は咲いている。ソメイヨシノはまだかいな。つぼみ膨らみ花びらが透けて見えるは嬉しいな。明日も暖かなったなら、きっと開花は間違いない。

(松江大橋の南詰め。源助のしだれ桜は咲いている)
初桜友に送られ楽しけれ [2014年03月26日(Wed)]

__tn_20140326233405.jpg  初桜杯に浮かべて人暮らし

三年間ありがとうございました。との添え書きで送ってくださったこの俳句。松江では開花宣言は出ないけど!嬉しいこの言葉。今夜は幸せだった。よく飲んだ。心に残るお酒になった。よき人たちに囲まれて私は新たな転勤族となる。惜しまれること。まんざらでもないな。

(追記)
昨夜は酔っぱらい過ぎて転記ミスがあった模様。
句は正しくはこうだった。

  初桜盃に浮かべて一会とす
春が来てひと皆酔って楽しげな [2014年03月25日(Tue)]

__tn_20140325215015.jpg春は来た。こつぜんと来た。暑い空気とともに来た。朝の小鳥のさざめきとともに来た。さざめきと言っては春を喜ぶ小鳥たちに失礼だ。朝とともに彼らは茂みを飛び立ち、木々を渡って明るく鳴いている。カラスまでがカーキー鳴いている。トンビは上空でピーヒャリ遊んでいる。

遅れていた桃が咲きだした。梅やクロッカスは盛りを過ぎて、次の花にバトンを渡したがっている。桜のつぼみはふくらんだ。明日か明後日には開花宣言が出るだろう。庭先や軒先の鉢植えが色とりどりになっていく。散歩するのが楽しくて、春の空気はきめ細かい。花粉や微小浮遊物質さえなければ、春は爛漫すべては幸せ。

今日は島根大の卒業式。島根県民会館には真新しいスーツ姿の男子に、袴姿の女子が目につく。普段は着なれぬその姿。ある者は如才なく悠々と、ある者は歩くことすらおぼつかなくて微笑ましい。それもまた春、喜ばしい春だ。

残業を終えて街中出てみれば、送別会を終えたばかりのグループが晴れやか賑やかに談笑し、学生の嬌声もどこからか聞こえてくる。電車に乗ればやっぱり酔っぱらいがたくさんだ。明日はわたしも送別会。おんなじようになるのかも…。

春が進んで暖かに。戻りの寒もあったとて、桜花爛漫、百花繚乱にこの世は花となる。人が去ったら、去るものは日々に疎しかな。その代わり新しい出会いにときめいて、緊張したりもするけれど、面白きことあるに違いない。
無理しても笑って笑って楽しんで [2014年03月24日(Mon)]

__tn_20140324211902.jpg●歳をとるから笑わなくなるのではない。笑わなくなるから歳をとるのだ(作者不明)

確かにそうかもしれない。いや、きっとそうだ。笑うとは、対象物や人にコミットすること。対象を眺めて違いを見つけ、落差を楽しんだり、卑下したり、優越感にひたったりして笑いが生まれる。バカにして相手を哄笑する場合であっても、いったんは自分の中に相手を取り入れていく。究極的に人を傷つける人権侵害は相手を無視することであるが、バカにする場合であればまだ、相手とこちら側とを比較対照する作業に人間味があるが、無視にはそれすらないからだ。

温かい笑いは、相手方に余裕をもった状態で愛を感じ、小さな差異に気がついて可笑しみを感じたときに生じていく。笑わなくなるとは、温かさも減退し、皮肉な目も失われていくことにつながる。心が老いていくとは、そんなことなのだろう。

時々、人の目がないときに一人で笑ってみることがある。難しい。思いきり笑うことはできるのだが、どこかに無理がある。諦めたような、悲しさを湛えたような、地獄の淵に沈んでいくような気分になることがある。目の前に笑いの対象がない笑いはやはり滑稽だ。

●多く笑うものは幸福であり、多く泣くものは不幸である(ショーペンハウエル)

ならば、笑おう。他人を嫌味に笑えば報いがブーメランのように返ってきそうだから、自分の愚かさを笑おう。自分のいいことを自分で誉めて微笑もう。そしたら、若やぐクスリとなっていき、モンテーニュの言葉も利いてくる。ときおり泣くのが心を解放していく。

●泣くことも一種の快楽である(モンテーニュ)
春分のグラデーションを楽しみて [2014年03月23日(Sun)]

__tn_20140323132222.jpg一昨日は春分の日。昼夜の時間数が逆転したということは、季節を夏と冬とに二分するとすれば、もう夏……。そこまで言うのは少し無理があるが、夕方7時を過ぎても雲間から見える空は明るくて、春分後を実感できる。春は本番なのだ。クロッカスは花盛り……。

ところが毎日寒さにさらされ続けると、春のまん中にいることに気がつかない。気圧配置や風の流れがまだ冬のものであったり、時折吹く強い雨風。昨日も北海道では暴風雪警報が出ていたりすると、寒いという固定観念がじゃまをして春をなかなか楽しめないでいた。

今朝は早く起きて春のグラデーションを楽しんだ。火星がおとめ座のスピカのそばにある。土星の近くにはさそり座の心臓・赤いアンタレスがある。南東の空には明けの明星。まだ明るい半月が出ているから闇ということはないが、暗かった藍鉄色の空が褐色(かちいろ)に代わり、小豆色が入ったかと思う間もなく、赤茶や煉瓦色、弁柄(べんがら)色、そして茜色に空や地平線近くの雲が染まる。反対側には闇はなく、青みがかった薄墨色がある。色はグラデーションをつけて徐々に変化して、見ていて飽きがこない。

雲は闇に紛れていても明るさを増した空の光で白々としてくる。雲雀が群れで鳴いている。太陽が上る直前にはオレンジ色が強くなって、やがて山の端に太陽光が当たって爽やかで嬉しい朝は完成する。いい朝の1時間であった。そして今日は暖かい。春の行楽であちこちがにぎやかだろう。
高めたし5人のアート友の声 [2014年03月22日(Sat)]

__tn_20140322190638.jpg『5人ぼっち展』を観てきた。出雲高校で美術を学び、今もアーティストを目指して学ぶ5人の女子美大生の作品展だ。それぞれが異なる美大に在学しながらも、このたび出雲のビッグハートでミニ美術展を共催している(24日まで)。高校の恩師であるK画伯も花籠で教え子たちを祝福していた。

総じて作品には孤独感がある。彼女らが孤独に苛まれ寂しい日々を送っているという意味ではない。所詮創作とは孤独なものだ。構想から完成まで自分の力が試される。屹立した強い人格をもたねば成し遂げられない。その覚悟が線の一本一本に、塗りの一筆一筆に現れているのだと思う。

興味深い作品ばかりであったが、特にTさんの『もしもし』がわたしの目を引いた。この作品からこんな声が聞こえる気がしたのだ。

……私の声を聞いてほしい…AAと思っているの、私は。あの人に伝えたいんだ。AAだよ。でもね、言葉にちゃんと表せないもどかしさ…どうしてなんだろ…でも人づてに伝わってしまったのはZZ…違うんだよ…AAなんだ、ZZでもAZでもないんだよぉ…中に他人が入ると意図が伝わらない…なんてことなの…直接伝えたいと思っても雑音が混じる…曲解した悪意が入ってくる…なんて苦しいんだろう……

こんな声である。彼女の高校生の頃の声だ。主人公はウサギでTさん。彼女は赤い(青だったかも)。糸電話に口をつけて話している。相手方のウサギは糸電話を耳に当てており青い(赤かも)。つまりTさんの意図は糸によっては伝わらなかった。しかも糸は多くの他人の手にあって真っ直ぐに張られていない。驚くべきことに、相手方はTさんのすぐ隣に立っているのだ。今なら彼女は違う行動を起こせることだろう。大人になった彼女はあの頃の自分をやさしく微笑みながら眺めているような気がする。

開催日は3月24日(月)の12時まで。場所は出雲市駅の南口・ビッグハートである。 青春のきらめきとおののき、そして甘酸っぱさ(ちと古い表現だが)、若いエネルギーを感じることができますよ。興味のある方はぜひ一見を!
辛抱で自分のシラバス作りたし [2014年03月21日(Fri)]

__tn_20140321162356.jpg長い引用だが、今ごろ高校ですら当たり前となってきたシラバスという授業進行計画のことを考えた。どんな意味があるのだろうか。

≪結局のところ、教師の条件は一つだけあり、それは生徒にとって謎であるということであり、謎でなくなった時、その人は師たることを終えます。なぜなら、知を起動するのは、好奇心であり、未だ想像できないものへの憧憬だからです。その効用が予めわかっているようなもの、それを学ぶことで何が得られるかが容易に想像できてしまうようなもの、そんな出来合いの知識を教える者は職人か、商人であって、教師ではありません。職人や商人が悪い、というのではありません。職人や商人もまた人間が人間であるために、世界と人間がコミュニケートするために不可欠な貴い存在です。ただ、教師であることは、職人や商人であることとは違うというだけです≫
(イスラーム学者・中田考/『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』内田樹との共著,集英社新書,2014年)

シラバスとは、いわば教育の効能書きだ。その学校の教育課程をつまびらかにして、学生や保護者への説明責任を果たし、教育課程修了後には○○な知能と技能が身につきますよという効能書きだ。事前に学習の流れを明示して学生が効率的に単位を取りやすくする意味合いもある。それは学校の権威を高めることにもつながる。学習内容はもちろんのこと、到達目標や評価方法まで書き入れるから、謎解きの楽しみはない。

なるほど、≪知を起動するのは、好奇心であり、未だ想像できないものへの憧憬≫かぁ。学校で学ぶという経験から長らく私はへだたってきた。好奇心を起動する感情を経験したい。同時にこれは私が何度も挫折してきたことでもある。その場に臨むと眠くなる、すぐに成果が見えなくて飽きてくる。そうした欠点があらわれてくるのだ。知を憧憬するならば、少しは辛抱強くなくてはならないですよ。そして師匠が必要なのだ。
ガンジーが地球にすべてそろってる [2014年03月20日(Thu)]

__tn_20140320202601.jpgマハトマ・ガンジーの言葉である。

  地球には
  人間に必要なものは十分にあるが
  人間の欲を満たせるだけのものはない

ここ数日、業務引き継ぎのため過去の書類と格闘している。わたしが作ってきたものも含めて、先人が考えを練って肉体も消耗しながら、作り溜め込んできた知的な集積である。だがそのほとんどは過去の遺物となってしまっている。何でもないものは古紙回収にまわし、プライバシーや外に出すのはちょっとなというものをシュレッダーにかける。膨大な紙やトナーという資源がゴミとなっていくことに改めて驚く。

究極のエコ都市と言われている江戸。あそこまでのの智恵を使うことは今さら不可能だとしても、再生可能エネルギーを進歩させ、人間にとって必要最小限の電力はどれだけなのか、と問い直すことはできる。大切な地球を守るために、人類の未来を紡ぐための英知を集めるのは今しかない、と思い定める時なのだ。と思いつつも、現実は資源やエネルギーを蕩尽し、むだ遣いばかりしているのが、わたしの毎日だ。人間の欲には限りがない、ホントに。
ホワイトはブラックと違い常に考慮 [2014年03月19日(Wed)]

__tn_20140319182047.jpg『日本一社員がしあわせな会社のヘンな"きまり"2』(山田昭男著,ぱる出版,2013年)は、ノウハウを得ようと思って読むと失望する。だが、いま世にブラック企業がはびこる中で、ホワイトな会社を経営し、その山田イズムを貫徹し続けている心意気を知るには十分である。

未来工業株式会社という電気や給排水、ガス設備や資材を製造販売するこの会社を始めて知った。創業して49年。売上高は250億円、800人弱の従業員を養っている。その山田イズムの一端を紹介すると、次のように信じがたい内容だ。

営業のノルマ禁止/残業は禁止/上司が部下に思想ややり方を押し付けることは禁止/ホウレンソウ(報告、連絡、相談)禁止 /従業員はすべて正社員/改善提案制度では提案を出すだけで500円、いい提案なら最高3万円/5年に一度の会社全負担の海外社員旅行/社員の休日アルバイト解禁/有給を除く年間休暇が140日......。

残念ながらホワイトで理想的な会社の運営方法を裏付ける根拠が示されていない。だから空理空論というか、結局傑出したこの経営者だからこそできたのだろうよ、と思えてしまうのが欠点だ。

例えば、「ホウレンソウ禁止」。どこまで報告と連絡と相談が禁止されているのか、中核の理念は書かれているのだが、では具体的にどこまでなの?と聞きたくなってしまうので、この本にノウハウを求めるのは無益だ。あえて解答を求めるとすれば、「常に考える!」。これではマニュアルにはならない。そもそもマニュアルというものがない会社なのだ。したがって、すばらしい経営者の心意気を感じ、物語として読めば満足できる。

「義務主義」という理念がある。世の主流は「成果主義」。義務主義とはノルマや罰則がない代わりに、≪「会社からこれだけのことをしてもらったら、せめて自分の給料分くらいはがんばらなくてはいけない」、「会社が儲からなければ、自分だけではなく他の人間の分け前も減る。だから、がんばろうと思う」、「会社が儲からなくなれば、今のすばらしい文化や制度がなくなってしまうかもしれない。そうならないようにしなければ…」≫。こうして社員が自主的にお礼をするようにして仕事をしたくなるのを義務主義という。

この就職戦線では、こんなステキな企業に勤めたいという若者がたくさん出てくることだろう。同時に、自分のところもこんなふうにステキにしたいと考える経営者もたくさん出てほしいと願う。
ピーターは能の限りを見透かした [2014年03月18日(Tue)]

__tn_20140318072908.jpgピーターの法則というのがある。

能力主義社会では、人はみんな出世していく。無能な構成員はその地位に居着き、有能だった者はより上位に昇進するが、いずれ限界レベルに達する。その結果、各階層は無能な者で一杯になり職責を果たせない。その階層の仕事は、無能レベルにまだ達していない者によって行われるが、その数少ない有能者もいずれは出世して無能レベルに達する。

という笑わせてくれる説であり、出世できない者にとっては溜飲が下がって楽しい。有能だったあの人が、なぜか無能な管理者となる。危機にあたって無能ぶりをさらす。よくある話だ。東京電力や原子力安全・保安院(原子力規制庁の前身)など、本来は賢い人々ばかりがそろっているはずの集団が信じがたい対応をしてきたというのも、何だか説明できそうではないか。ピーターの法則は鋭い。

それでも人は高い地位を望む。たいていはそれが名誉と高い給与を保証し、自己満足にひたらせてくれるからだ。人間の自己実現欲を満たしてくれるのだろう。高い地位がより難しい仕事であるというわけでは本当はないにもかかわらず…。

今日はわたしの職場で人事異動の内示がある。悲喜こもごもの人間模様が、詳しく言えば、喜びを満面に表す者がいる一方でひっそりと悲しみをもらす者が小さなドラマを展開することであろう。わたしも事務引き継ぎの準備を始めなければなるまい。わたしも無能レベルに向かってまっしぐらだ。
記憶ない酒の仕業か老いなのか [2014年03月17日(Mon)]

__tn_20140317193623.jpgある方の娘さんが就職戦線を勝ち抜いたと、当人からうかがった。嬉しいことだ。娘さんが小さかった頃の面影を覚えている。もうあの子が勤めるようになったとは、月日のたつのは早いものだ。ともあれ、重々にお祝いを申し述べた。

ところが恐ろしいことに、このことは既に私に伝えていてくれていたことだったのだ。その方は昨年の秋に、わたしにたいして合格したと教えてくれたのだ。その飲み会の席でわたしは、「それはよかった。おめでとうございます」とお祝いを申し述べたという。でもすっかり忘れてしまった。

なんと、まあ、お恥ずかしい。いや、危うい。わたしの頭よ、記憶力よ、大丈夫なのか。たんまり飲んだ夜だった。機嫌よくべらべら喋った会だった。十人あまりの会で、個々にも話が弾み、バランスよく全体でも盛り上がった。意識が分散し過ぎていたのか、それとも心がそこになかったのか? やっぱり脳ミソの問題か。

あーあ…悲しいよお…。もっと鍛えよ…。まっいいさ。やけくそだ。笑え笑え、自分を笑え!
運転中ラジオは耳に優しくて [2014年03月16日(Sun)]

__tn_20140316135403.jpg車を運転するときには、たいていラジオか音楽を聴いている。運転中よく聴いているラジオ番組の時間を家で迎えることになって、ラジオをつけて家で聴いていても、つまらなくて消したことがある。また、途中で家に帰りついたので、続きを聴こうとして家のラジオをつけても魅力が薄らいでしまうこともある。不思議だ。

カーラジオというのは自動車という閉じられた環境で聴くものだ。本務は運転に集中することであり、眠気覚ましや情報を得るために添え物的に聴く。暇つぶしのためではあっても、運転に支障があってはならない。その内容に没入し過ぎない程度に受動的であることが望ましい。

ハンズフリーの電話装置を道路交通法は禁じてはいないが、相手との話に真剣になるあまり、運転がおろそかになる可能性はある。ましてや、運転中に片手で話したり、メールを確認したりすることがどれだけいけないことかは容易にわかる。危険過ぎることなのだ。

そうした限定的なかたちでしか、運転中の暇つぶしはしてはならないわけで、カーラジオから流れてくる音楽やおしゃべりは意外と魅力的にうつるものだ。運転中の景色以外にはほかの楽しみはない環境にあっては、ラジオ番組はけっこう楽しい。飲み食いするのも限られた範囲でしかできないものだ。

しかし運転が終わり、地上に自分の足で降り立ったからには、あとは自由に何でもできる。テレビはもちろんのこと、パソコンも読書も、普通に食事もお酒だって何でもできる。そんな何でもありの環境にあっては、あの限られた時空間で満足してきたラジオ番組など、今さら魅力的には映らなくなるのであろう。

(アンテナから電波を発信するようにして、紫クロッカスが春一番の風に吹かれている。春の息吹きをあまねく天に発している)
学歴は学びの意識の歴史なり [2014年03月15日(Sat)]

__tn_20140315190042.jpg亡くなられた作家でジャーナリストの草柳大蔵氏はこう言っている。学びの歴史が学歴であると。

≪「学歴」とは文字どおり「学びの歴史」であり、その人が何を学んできたか、どこに旅して、誰の話を聞いたか、何度口惜しい涙にくれたか、何冊の本を読んだか、どれほど美しい詩歌に接したか、みんな「学歴」である。学校の場合、「どの」学校で学んだかではなく、「何を」学んだかが重要なのだ。≫
(草柳大蔵著『絶筆…日本人への伝言』海竜社,2003年)

納得のいく考え方だ。スマートにして人情味あふれる評論をした苦労人の氏だったからこその表現でもあると思う。

学校に在籍した学校のブランド名にぶら下がった年数ではなく、頭と体と心のすべてを使って感じ悩み獲得してきたことを血肉として人間は成長していく。頭の回転と記憶力を発揮して頭でっかちな秀才になるだけでは、ひとは幸せになれない。全人的な精神的格闘があってはじめて人間としての器が大きくなっていく。さらに、格闘の歴史を他人のために役立ててこその「学歴」であろう。年を重ねるにつれ、脳ミソは弱くなっていく。しかし、「学歴」の重なりによってひとは豊かになる。
横たわり祖母は物へと変わりけり [2014年03月14日(Fri)]

__tn_20140314220247.jpg祖母は遺骸となって横たわっていた。笑いをこらえきれずにケラケラと声をあげる祖母を思い出した。真剣な顔で細工をしている祖母が頭に浮かんだ。コラッ!と悪さをした僕を追いかけてくる怖い祖母のときもあった。その祖母が死んだ。何年も寝たきりであったから、そうした生き生きした祖母の姿を目にすることもなくなっていた。布団にくるまって横になる祖母は小さかった。こんなに小さいのかと思った。動かない祖母は違う顔をしていた。棺に入り、読経がすんで、焼き場でお骨になる。骨になった祖母はスカスカに白かった。鼻の奥がつんときた。お別れだった。祖母は墓に入り時折詣る存在となった。悲しみは徐々に薄くなり、祖母のことを思い出すこともなくなっていた。死者を忘れることは、ある面やむを得ない残された者の癒しの過程である。二十年も前に僕が経験したことだ。

今日も肉親をなくされた方がいることだろう。父をなくし母をなくし兄をなくし………。愛する人を見送らなければならないことは、生きる者に与えられた試練である。追悼し冥福を祈ることは、残された者の使命と言ってもいい。亡くすことは悲しい。辛くていたたまれない。それでも遺体が骨となり埋葬されて追善の回向をくりかえすうちに、送った者自身が癒されて、生きるエネルギーを充填していける。

ところが遺体がなかったとしたらどうだろう。骨すら見つからないとしたらどれほど悲しいだろう。愛する人は消えてしまってどこにも姿がない。病院にも自宅にもその遺体がないならば、遺族の気持ちはいたたまれない。行方不明の方、冬山に遭難した方、そして津波に巻き込まれたであろう方……。どこかに生きているのではないかという万に一つの期待もあるだろう。遺体がなければ諦めようにも諦めきれない。遺族の気持ちは永久に晴れはしない。その悲しみをずっと抱えながら生き続けることは地獄の責め苦かもしれない。それでも生きている者の務めは、丁寧に生きていくことなのだと思う。


(コメント)
お祖母様とは6年(もっと短いかも)のつきあいでしたが、時折遊びに行ってお世話になったのを覚えています。お祖母様の葬儀の際はご一緒させていただいたかと思いますが、あの方のかつての姿、そしてそれを振り返るあなたの思いを当時は知る由もありませんでした。
久々に「おおばば」のことを思い起こすきっかけになりましたのでコメントさせていただきました。
作成者 お祖母様の知人の者です。 : 2014/3/17 (月) 07:42

ありがとうございます。おおばば、あの人なつこい笑顔が思い出されます。ぜひとも語りましょう。そのことも、あのことも
作成者 振り返るをとこ : 2014/3/20 (木) 22:30
月の字で時には月を眺めたし [2014年03月13日(Thu)]

__tn_20140313184324.jpgここしばらく月を見ていない。今はどのあたりにあるのやら、月齢はどのくらいになったのだろう。細い三日月はあれよという間に上弦の月となり、満月がめぐり、すぐにやせ細る。月日はたちまち過ぎていく。

Web大辞泉で見ると「月」で終わる語句は420。「月」ではじまる語句は295。島村抱月や大月といった人名や土地名もあるにはあるが、天体としての月が私たちの生活にいかに密着しているかがわかる。

太陰暦ではひと月が30日で、一年が360日だから、太陽の回りを一年365日余りで回る地球の運行には追い付けない。季節が徐々に外れていくのを修正するために、古代中国では太陰太陽暦を生み二十四節気を編み出した。

春を感じて虫たちがはい出した「啓蟄」に続くのは、昼夜分け目の「春分」で、万物が清浄に満つ「清明」が4月になるとやってくる。「去る3月」も、「往ぬる1月」「逃げる2月」と同様、あっという間に過ぎていく。
有限の時空であっても悠久に [2014年03月12日(Wed)]

__tn_20140312175727.jpg悠久なる時が流れる。時間はいくらでもある。わたしは贅沢な時間の持ち主だ。波は無限に続き、海中には未知なるものが可能性を広げて待っている。空は限りなく青く、宇宙へと続いている。何が飛び出すかわからなくて怖いけれども、可能性は無限大だ。

隠岐に向かうフェリーに乗っている。そのたびに何故か気宇壮大になる。日常を離れて思索にふける。普段は感じないことに目が向く。この時空間で感じるこうした感覚は船特有のものだ。

二等キャビンに横になり本を読む。飽きれば時折デッキに出て空と海へと思いを馳せる。気持ちが宇宙を駆けめぐり、甚深の海の深さを想う。永遠の時間のなかに生かされているような気持ちになる。

本土からわずか50、60キロ。時間にしても2時間半でしかない。たかだかその程度の時空を経ることで、気持ちが高く広く深くようになるのは錯覚だろうが、単調な船の揺れとエンジン音が心を純にしてくれる。海が荒れて激しく揺れに身を任せた時には、自然の脅威にたいして謙虚な気持ちになるからかもしれない。反対に隠岐からは帰るフェリーに乗っている時には、そんな気分にはならないのが不思議だ。

(隠岐・海士町の役場玄関にあったビオラの花。鮮やかな黄が日ざしを受けてきらめくかのようだった)
君は今どんな君かと問いかけて [2014年03月11日(Tue)]

__tn_20140311220231.jpg君よ!今君は100%の君か!
とは、学生時代の先輩がわたしたち後輩に発してくれたメッセージである。君は今全力で生きているのか。君の日々は君の満足のいくものなのか、と厳しく問いかける内容だ。むろん大時代的な響きがある。それで?なにか?と切り返せばあっけなく吹き飛ぶような青くさい問いかけかもしれない。それでも彼の問いかけはわたしの心に響いた。

今夜はささやかな送別会を開いていただいた。わたしのはなむけに、わたしの行く末に期待を込めて…。そして思うのである。今わたしは100%のわたしであるのかと。むろん、100%かどうかなんてわかりはしない。それでも今全力で日々輝かせようと生きているのかを問うことを続けたい。

311の日。今日は鎮魂の日。温かい絆に生きる喜びを感じ、日本の進むべき道はこれしかない、と感じていたあの頃。それは決して間違いではなかった。大時代的て時代遅れだと揶揄されようとも、真っ直ぐに正直に生きていく姿に嘘はない。

飲みながら酔っぱらって、そんなことを考えていた。花を咲かせよう。作物を実らせよう。人に喜びを与えていこう。及ばすながら、酔っぱらいながら、そんなことを考えている。
311あすのその日を忘れるな [2014年03月10日(Mon)]

__tn_20140310182433.jpg今日は3月10日。東京大空襲から満69年の日。約十万人の人々が、はるか上空から雨あられと降ってくる焼夷弾に当たり、多くが猛火によって焼け死んだ日。他の都市にも大空襲はあったが、これだけの規模で死者がでた空襲はない。無辜(むこ)の民を殺した無差別爆撃は人道にもとるばかりか、戦闘員ではない者を殺しまくることは戦時国際法に照らしても責められるべき事柄だ。

戦争を起こしてはならない。戦争に突入する決断を下した政治家や高級軍人は安全地帯にいるばかりか、責任すらとらない。苦しむのは庶民はかりである。戦意をはやし立てたマスコミに踊らされたという罪はあるかもしれないが、最高指導者たちの責任は大きい……そうした様々な反省をしていても、何十年と月日がたつうちに記憶は風化し、反戦の気持ちは弱くなる。

そして明日は3月11日。

翌土曜日の国道9号線はガラガラだった・・・多くがテレビやパソコンにかじりついていた・・・クライストチャーチの大地震から一週間あまりだった・・・第一報を人づてに聞いたときは30年以上前の宮城沖地震程度だと思った・・・テレビの映像に言葉を失った、押し寄せる津波・・・瓦礫と泥の海・・・アンパンマンの歌にジーンときた・・・菅首相の無策と混乱が苛立たしかった・・・絆を大切に、人に温かくしようと思った・・・。

あの頃いろいろなことを想い、体験し、決意していたけれども、忘れている。もうすでに体験や想いの風化が始まっている。明日はまたもう一度、もっともっと思い出すのだ。忘れてはならないからだ。

(今年も沈丁花が酸っぱいような甘みのある匂いを放ち始めた。季節を忘れていない花たちよ)
献立に武士の作法を見つけたり [2014年03月09日(Sun)]

__tn_20140309135226.jpg映画『武士の献立』で安信と妻の春は能登半島を巡る長旅に出た。そこで何を見つけたのだろうか。舌の肥えた者ばかりが集う加賀百万石の殿中で、安信(高良健吾)の献立でもって彼のチームは人々を堪能させた。能登半島に眠る加賀の宝を見出だし、それを食膳に上げたからに他ならないが、それが何だったのかを映画では示さない。そこに春がどんな方法で貢献したことも示さないないからこそ、結末に深みを与えてくれた。金沢に行ってみたい、そこで舌鼓を打ってみたいという欲がわいてくる映画だった。

居措、たたづまいが美しい映画であった。特に春役の上戸彩の立ち居振舞いが凛として輝かしく、また楚々として品格を感じさせてくれた。ひとなつこい笑顔にはお茶目な親しみやすさも感じられる。彼女の美が引き立つ映像がたくさんあった。

きちんと正体して挨拶していたことが印象的だ。他人を横目で見ることがないどころか、斜め前の相手に対しても向き直って正体し、体の中心軸をずらさずにきちんと礼をしていた。私自身がふだんの暮らしで何気なくやってしまっている無作法を反省した。

加賀藩の饗応役たる包丁侍が献立を決めることは予定をたてること、限られた材料からできる最良のものを作ること、あの時代にあって新しい食材を見出し食の可能性を開くことである。そして、刀を包丁に持ち換えた武士とは、武道の道に外れるのではない。殿に料理でもって忠節を励む、これもまた武士の鑑として、誇るに足りる忠義であることに安信は気がついた。春のお蔭である。夫婦愛の物語としても心に残る映画だ。

ただし、春に対して以前に仕えていた藩公の側室がこう言う。「春は、愛されているのですねぇ」。このころ愛でるという言葉はあっても、人が人を愛するという言葉は使われなかったのではないかなあ、と不自然に感じた。その他時代考証でおやっ、と感じるところもあったが、寒の戻りのこの時分、心の暖まる映画であった。

(恥じらうように咲いている椿。楚々として美しい)
忘れたのいったいあなたの夢は何 [2014年03月08日(Sat)]

__tn_20140308113910.jpgラジオから『夢の中へ』(作詞・作曲/井上陽水)が流れてきた。斎藤由貴がカバーしたパンチのない歌い方ではあるが、歌詞に耳を澄ました。

  探しものは何ですか
  見つけにくいものですか
  カバンの中も机の中も
  探したけれど見つからないのに

  まだまだ探す気ですか
  それより僕と踊りませんか
  夢の中へ 夢の中へ
  行ってみたいと思いませんか

いまの用事は放っておいて、さっさと「夢の中へ」行こう、と単に現実から逃避して一時の快楽に身を委ねるよう勧めている。そもそも、探し物ってなんだ。自分にとって本当に大切なものであれば、いつも身近にあるはずだ。探さなくても、たちどころに目の前に用意できるはずなのだ。しかし探している。大事な物ではあっても普段はどこかに置き忘れている物。ひょっとして、それが何だったのかすら、忘れてはいやしないだろうか。

さらに次の「休む事も許されず/笑う事は止められて/這いつくばって・・・・」の段になると身につまされるような気がしてくる。はあ忙しい、とばかり嘆いて余裕をなくしている日常を思う。忙中閑ありともいうとおり、忙しいなかにあっても身の回りを振り返り、心の奥底に気持ちを歩ませ、思索の時間をもち、心躍る体験を重ねたいものだ。人事異動や入学、卒業のこのシーズン。「わたしのさがしもの」をいま一度確かめてみなくてはならないと思った。
啓蟄を過ぎて虫たち驚いた [2014年03月07日(Fri)]

__tn_20140307212329.jpg昨日に続いて雪となった。松江中心部で昨日は2センチ、今朝は5センチ余りだろうか。白に染まった町中に日がさすのは気持ちがいい。

百日紅に白い花が咲いた。薄紅色のサルスベリは夏に咲く。今朝は湿った雪だったから枝に絡みついて離れなかった。それはまるで白い百日紅。

名前を変えよう。「百日白」。いや、わずか数時間の命だから、「一時白」。ああ、つまらん!

そんなふうに見える今朝の雪景色ではあるが、春に虫が冬眠から覚めてはい出してくる季節だというのに、この寒さはこたえる。風邪をひかないようにしたいものだ。松江ではこの程度だが、北に住む方々は暴風雪に苦労されている。

早く、春よ、来い!
生身にてネットワークは力だよ [2014年03月06日(Thu)]

__tn_20140306192353.jpgグサリっとくる。物理的に刃物が刺さるのではなく、気持ちが少し遠のいていくように思う。それでも今ある私自身は過去の集大成。言葉も含めて過去の行動と心の動きをすべて総括して、現在という結果を形づくる私の全てなのだ。

≪若い時に身につけておくべきものは「ネットワーク力」。これは、単に名刺交換をした数とかではなくて、一つのものごとに対し、相手を信頼し、また信頼されて取り組んでいく中で築かれていくものだと思います。お互いに尊敬し、尊敬されるなかで、共に成長していけるような関係を何人もっているかが重要。スマートホンでつながっている数が、自分のネットワーク力だと錯覚せずに、具体的に行動を起こす中でのつながりを大切にしてほしいと思います≫
 (東映アニメーション副会長森下孝三氏「BUDDAH2手塚治虫のブッダ−終わりなき旅−が伝えるメッセージ」聖教新聞2月15日付けスタートライン)

もちろん、スマホで「いいね!」をスタンプしあう関係も貴重なものだ。それを起点にして生の人間関係を深めていく経験もした。反対に、精神的に格闘しあった経験があるからこそ、スマホでのつながりが喜びになることもある。久しぶりに出会うと、会わなかった何年もが存在しないかのような錯覚がおこることもあった。それだからこそ、生身で言葉を交わし、やあやあと肩を叩きあう回数を一回でも多くしていかなければならないと思う。

(今朝は寒の戻り。紫のクロッカスの根元が雪をかぶっていた)
通り魔を避ける手段は運ばかり [2014年03月05日(Wed)]

__tn_20140305180621.jpg千葉・柏で起こった通り魔的な強盗殺人事件。殺人者は、4人の男性に対し次々と金を要求したり車を奪ったりした。二人目の男性は腹や背中を幾度も刺されて殺されるという惨劇となった。目撃情報によると、狂気にも殺人者は笑いながらめった突きしていたという。全くもって信じがたい事件である。

もしも私の身に生じていたならば、どうしていたことだろう。刃渡り30センチ以上の包丁を振りかざして殺人者が向かって来たとしたら、アドレナリンは全開。全身はガチガチで逃げることもままならなかっただろう。我が身の不運を嘆く前に、怒りに身を震わせる前に、何がなんだか訳がわからぬ状態でパニックになっていたにちがいない。

この厄災は避けることはできなかったのだろうか。その場にいたという不運は、どうにもいたしかたない。挙動不審者が目に入れば道をよける。道路を横切って反対の歩道に向かう。場合によっては踵を返してもと来た道を引き返す。少々遠回りしてもよしとしなければなるまい。歩きスマホなどもってのほかである。

人々が集まって、なんだなんだ?と様子をうかがっている場所には近寄らない。君子危うきに近寄らず、である。先日中国雲南起こった無差別殺傷事件の際には当てはまるだろう。そうした心がけが、不慮の災難に遭うことの確率を低めるかもしれない。しかしそれと引き換えに、興味深い見聞からは縁遠くなるだろうし、誰か助けを求める人の声に耳を傾けて手助けすることはできなくなるだろう。それもまた残念なことだと思う。このジレンマを解決する手段はおそらく、ない。

(写真は田んぼに咲いていたハコベ系統の花。おそらく…)
忘れん坊ライフラインに気をつけよ [2014年03月04日(Tue)]

__tn_20140304183259.jpg財布と定期券を忘れてしまった。松江駅の改札で知り合いの顔を見つけ駆け寄って少額の金を借りて、幸い事なきを得た。けれどもキャッシュカードはない、クレジットカードもない、現金は帰りの切符代しかない。心もとない状態で一日を過ごした。

ふだんは何気なく当然のように使っているもの、たとえばガスや電気、電話、ネット回線などが使えなくなったら突然世界は変わる。存在することが当たり前で、なくなるなど想像もしていないからだ。財布を忘れた程度であれば誰かが助けてくれるが、災害の時にはほとんどすべての人が困惑の極みに達する。恐るべきことだ。

コンビニで欲しいものが買える、行きたいとこへは自由に行ける、パソコンを立ち上げれば作業ができてネット環境がある、スイッチを押せば暖房機から暖かい風が出てくる、お湯をたっぷり張って風呂に入れる、アマゾンで本が配送される、病院へ行けば多少待つにしても医師が診療してくれる・・・・数限りない当たり前の便利さのおかげで、私たちは生きている。そのことをふだんは忘れがちだ。

今日のような不便を感じた時には、ちょっぴり誰もが謙虚になれる。ふつうの人が休むときに働き、物流の現場で汗を流し、ライフラインを維持管理する人に、感謝すべきことを思い出す。そして、いざという時は必ずやってくるが故に備えを怠るな!と、警鐘が鳴るのを感じるのだ。

(黄の赤で警告しているような山茶花のオシベと花弁)
記念日に思う厄災忘れじと [2014年03月03日(Mon)]

__tn_20140303182443.jpg今日は桃の節句。天気予報に反して、穏やかな日がさしている。松江からは伯耆富士が一日よく見えた。夕方になり雲に淡い橙色が映えるようになると、大山はいっそう際立って青空を切り裂くようだ。風は東向きであり南風ではない。春一番はまだ吹かないが、室内から晴れた戸外を見る限りでは春そのもの。寒いけれども春は近い。

今日3月3日は1933年(昭和8年)に起こった昭和三陸地震から81年目となる。岩手県沖で発生した地震の津波によって、死者・行方不明者が三千名あまり。それより37年前に起こった明治三陸地震(1896年6月15日)によって死者・行方不明者が二万人以上出てしまったことの教訓から多くの人が逃げたのだろうが、それでも三千人はあまりに犠牲が大きかった。

来週には3・11がやってくる。二万人近くの方々が亡くなったり行方不明になったりした、あの忘れられない惨事から早3年。記憶は鮮明に残っているとはいえ、すでに「記憶の風化」は始まっている。映像はたくさん存在するとはいえ、私たちの想いの中では、あの悲運と惨害を記憶の奥に押し込めてしまいたいという無意識があるのだと思う。「想いの風化」である。

忘れられない悲惨な出来事は、忘れてしまいたい惨劇でもある。人間とは、不幸な出来事を忘れることによって今を平和に生きられる脳を持っている。だからといって、あの厄災を忘れてしまっては亡くなられた方々への追悼を続けていくことはできない。今日のような節目に、経験した者は想いを新たにし、そうでない者は経験者から学ぶ機会をもつことは大いに意味があることだと思う。災害が起こっている時、起こりそうな時には、「自分には惨禍は降りかからない。今まで大丈夫だったのだから」という根拠のない楽観主義を排していくことを自戒としたい。

(桃ではないが紅梅の花盛り。朝の冷気のなか凛として咲いていた)
よごれかな落とすに落とせぬけがれかな [2014年03月02日(Sun)]

__tn_20140302121055.jpg汚れ(よごれ)と穢れ(けがれ)は区別しにくい。大辞林第三番デジタルでは、両方の語にこの説明をあてているが、明らかに穢れの意味である。

≪死・疫病・出産・月経などによって生じると信じられている不浄・罪・災いとともに、共同体に異常をもたらす危険な状態とみなされ、避け忌まれる≫

一方で小説を参照してみよう。

江戸城無血開城の直前、正体不明の旗本・的矢六兵衛が既に主のいない殿中にて居座る。その扱いに困り果てていた尾張藩・徒組頭(かちぐみがしら)の加倉井隼人に対して、勝安房守(勝海舟)はこのようにたしなめる。

≪西の丸御殿の穢れは払うてほしい。汚れではなくて、穢れだ。すなわち、恨み、つらみ、不満、諍い、といった人間の醜い感情は禁忌なのだ≫ (『黒書院の六兵衛/上』浅田次郎著,日本経済新聞出版社,2013年)

穢れと汚れの違いがよくわかる。日本の思想では、汚れと違って穢れは拭ったり洗ったりしても取れない。断末魔の叫びや血の粛清があった場所に人は立ち入らず、入ったとしてもその場の利用価値は低い。穢れてしまったものを元に戻すためには、古式にのっとった禊(みそぎ)によって祓(はら)い清めることが必要、という思想である。

そんな面倒なことを言わなくても、「人間の醜い感情は禁忌」という上記の説明で納得できたような気がする。

(けがれを知らないクロッカスの蕾。もうじき満開となる)
窓越しの鏡を見れば我ありて [2014年03月01日(Sat)]

__tn_20140301111700.jpg『くまさん』(詩/まど・みちお)は危うい。

  はるが きて
  めが さめて
  くまさん ぼんやり かんがえた
  さいているのは たんぽぽだが
  ええと ぼくは だれだっけ
  だれだっけ

記憶障害だ。わたしはだれ?ここはどこ?状態で、いわば見当識障害に陥っている。春の木の芽どきという言葉もある。さらに理解力が低下し、鬱状態、精神的な混乱など生じていたりすれば、認知症の症状だ。

  はるが きて
  めが さめて
  くまさん ぼんやり かわに きた
  みずに うつった いいかお みて
  そうだ ぼくは くまだった
  よかったな

ああ、よかったよかった。この熊は冬眠から目覚めたところだったのだ。

冗談はこの程度にして、この詩、なかなか考えさせてくれる。「ぼく」の存在している意味は何だろうか。「ぼく」は何のために生きているのだろうか。誰でもそんな疑いや迷いに、さいなまれることがある。その回答は自分では見いだせない。自分の力や才能、適性といったものは自身では気がつけなくて、集団や社会の中で他人と接することによって見いだされていくことが多い。それが「みずに うつった いいかお みて そうだ ぼくは くまだった」ということなのかもしれない。自分自身の姿は鏡に映してしか見えないからだ。

『一ねんせいになったら』も興味深い。一年生の不安は去年の今頃書いた(一年生不安と期待いり混じり)。

まど・みちおさんの詩は、簡明さや親しみやすさの中に深い思想を収めている。團伊玖磨など有名な作曲家、錚々(そうそう)たる顔ぶれが、まどさんの詩に曲をつけて、『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『ふしぎなポケット』など日本中の子どもが歌ってきたし、大人も多くが知っている。まど・みちおさんの死を悼む。