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ケータイを形変えても身につけて [2013年10月31日(Thu)]

__tn_20131031210552.jpgもう戻らない。戻れない。
以前には返らない。返れない。
ケータイがない生活には二度と戻ることはないだろう。
今日はケータイを充電したままで出かけて不安だった。
連絡と伝達の手段をこの手に持てない心もとなさよ。
命に及ぶような緊急事態などめったにないがやはり不安だった。

思えば不思議なことだ。
二十年前には携帯電話を持つのはひと握りの者ばかり。
それが今では誰もが持っている。
携帯する電話機能をベースに、アドレス帳、SNSの発信源、ゲーム機、ナビ、電卓、カメラ、万歩計、買い物ツールなどさまざまな機能を満載してミニコンピュータは進化した。

このライフラインとは切っても切れない関係となった。
ケータイが命綱、ならばまだよい。
ケータイは命、とばかりに依存症に犯される者も多くなった。
ああ、痛ましい。
失ってしまった時間は取り戻せない。
それでも価値ある時であったと信じたい。
文明の利器としてのケータイがなくなることはないだろう。
形は変わっても常に私たちはケータイする何物かを身につけて生活していく。
それが幸せになる道だと信じて生きていく。

(写真は、ポケットに入れて携帯したなら十分可愛らしいフォックス・フェイス。不思議な実だ)
雨ののち晴れて食べるやごちそうさん [2013年10月30日(Wed)]

__tn_20131030212746.jpgNHK朝ドラ『ごちそうさん』で ゆず がいい主題歌を歌っている。ドラマの中身も面白い、可愛らしい。毎日昼休みを楽しみに何人かでワイワイ言いながら見ているのだが、主人公の二人が恋心をわかりやすく表情に表してくれるのがいい。恋が少しずつ進展していくことにワクワクしている。

  予報通り いかない模様
  そんな時こそ微笑みを

ゆずはそんなふうに歌う。当たり前だ。予報ははずれる。天気予報だってはずれることはしょっちゅうだ。ましてや恋は思うように展開することはない。ドラマだからこその物語が見る者をキュンとさせる。あまちゃんを超えて視聴率も高いと聞く。なるほどな、と思う。

  顔を上げてごらん 光が照らす
  涙の河も海へと帰る
  誰の心も雨のち晴レルヤ

そうだそうだ。禍福はあざなえる縄のごとしというとおり、雨が降り日が降り注ぎ、曇ってやきもきさせて、また雨は降る。涙も流れて人は悲しむ。それでもまた顔をあげて光を見れば心にも日はさしてくる。

め以子は結婚して大阪に移って苦労を重ねるようなのだが、女優杏はどんなふうに彼女を演ずるのだろうか。そして裕太郎はいかにかたくなな表現を脱し人情の街大阪で新境地を開くことやら。楽しみは尽きない。

(整然と並ぶ苔。日に当たり大阪の人のようにキラキラしている)
深まって命の秋を楽しむぞ [2013年10月29日(Tue)]

__tn_20131029193951.jpg深まる秋。ありったけの秋。陽光は眩しいが日が陰ると肩に冷えた空気の塊が吸いつく秋。空は澄んで宇宙の窓が開けた秋。目映い花の秋。実りの秋。天高く馬肥ゆる秋。朝夕に冬の寒さを感じる秋。スポーツの秋。芸術の秋。思索の秋。こんなときはなぜかブラームスを聴きたくなる。

スイッチを入れるとカーラジオからブラームスのクラリネット五重奏曲が聞こえてくる。哀愁をおびたクラリネットの音色。哀しみというよりは豊穣な深い思索で日々をふりかえる音色。落ち着いた声でしみじみと語り合う友人同士か、長らく連れ添った夫婦かのように語る音色。宇宙の窓をとおして何十何百光年と離れた空間から降ってくるような音色。秋の夜長を彩ってくれる音色。

帰宅して夜のウォーキングの時間。ネットラジオのラジルラジルでFMを聴く。クラリネットの続きだ。ああ、いいなあ。音楽っていいなあ。星空っていいなあ。歩くのは楽しいなあ。狂い咲いたキンモクセイが香っている。前月咲いたばかりなのに不思議なる自然。不可思議な秋に思う。今週末ははや11月。

(秋に咲くタンポポ。つつましいが元気な黄をしている)
ハロウィンは怖いかぼちゃの面なれば [2013年10月28日(Mon)]

__tn_20131028075203.jpgあちこちにハロウィンの飾りつけが見られるようになった。カボチャの中身をくりぬいた飾り「ジャック・オー・ランタン」が代表格だ。ハロウィンそのものは10月31日だけだが、10月はハロウィン月間ということでセールたけなわである。

古代ケルト人が豊作を感謝した起源があり、悪霊を追い出す宗教行事が加えられたという。イギリスやアイルランドなどで始まり、アメリカで好まれることから世界各地に広まった。

日本で広まってきた理由は、アメリカで流行る娯楽行事であること、夏休み商戦からクリスマスまでの間に○○セールと銘打ったものがないことが大きな理由だと思う。商売人の商魂たくましい。

写真はミスタードーナツの「ハローキティパンプキン」。写真を撮りたくて買って食べた。私も商魂にしっかり踊らされている。正直言って、ふつうのドーナツが美味しいと思う。そしてなにより、怖い顔のキティだ。
変換で檸檬をかじる基次郎 [2013年10月27日(Sun)]

__tn_20131027175451.jpgれもん と打ちこむと レモン と変わる。次に lemon がきてその次が 檸檬 だ。夭折の作家梶井基次郎の『檸檬』を読んだ。

≪なぜだかそのころ私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋がのぞいていたりする裏通りが好きであった。≫

檸檬は私の弱さと強さを表現している。肺病やみの弱さ。焦燥感に満ちていつも≪えたいの知れない不吉な塊≫で押さえつけられた憂鬱な私の弱さ。それでも生きようとする強さ。現実逃避はいけない!と思いつつ、≪現実の私自身を見失うのを楽し≫みたいとする私。なんだかんだと自分の弱さから一時的にでも逃れられるならば…として貧しさゆえの耽美感にひたる。だから見すぼらしいものに惹かれる。決してわびやさびといった高級な目線ではなくて、自分は弱いことを常に自覚している。虚飾ではなく、貧乏で無気力であっても私は私だと思い切り、周囲には媚びないところに私の強さがある。その私の強さを象徴するのが檸檬であろうか。単純な色も 紡錘の形も しみ透る冷たさも カリフォルニアの匂いも 重さも、私のささやかな幸福感を満たす。

昭和の初めにこうした文体が完成されていたことを知る。これは梶井だからそうなのだろうか。基次郎の文は決して「見すぼらしくて美しいもの」ではない。さらに『桜の樹の下には』(1928年)が気になった。

≪桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二、三日不安だった。しかしいまやっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。≫

坂口安吾の『桜の森の満開の下』は1947年の作品だ。安吾は基次郎の「桜の樹の」を読んだのにちがいない。満開の桜がひとを狂わす妖気をもつという両者のモチーフは、あまりに近しい。それとも、女の美しさと満開の桜の美しさは古今から日本人を共通して眩惑させてきた代表なのであろうか。

ともあれ、完成された小説家、梶井基次郎が31歳の若さで死なず、命を長らえていたとしたら、さらにどんな作品を残していただろうか。写真を見るとがっちりとエラが張ったスポーツマンのような風情だ。結核でなかったとしたらきっと、物書き以外の道に進んでいたのかもしれない。
カッコーの巣には安らぎなきものか [2013年10月26日(Sat)]

__tn_20131026193541.jpgカッコーの巣の上で』は主演のジャック・ニコルソンのアカデミー賞授賞で知られる有名な映画だ。原題は「カッコーの巣から飛び出すある者」。当然それは主人公マクマーフィーだと思っていたが、どんでん返しがある。

マクマーフィーは刑務所での労働をサボるために精神疾患を装った。精神病院に入った彼が見たものは管理される無気力な患者たち。その仲間を彼は救いたかった。特に冷血無情の婦長から。人間は自由である、人間らしく尊重されるのが当然だと考える彼が体験した喜劇と悲劇を描いている。

縮こまっていた仲間たちを焚きつけて彼は掟破りの遊びを繰り返す。最初はおずおずとしていた仲間もやがてイキイキと目の輝きを取り戻し、それぞれが自身の生きる意味を考えるようになる。一方で婦長との闘争も激しさを増していった。

クリスマスの夜、マクマーフィーが連れ込んだ女友達とやった乱痴気騒ぎは病棟全体を最高に解放した。しかしすべては破綻し、悲劇は起こった。

精神病院での治療やセラピーはあの当時には、あんなことをやっていたのかと思う。精神医療の現状はどうなんだろうと思う。刻々と進歩をしていても人間の脳を解明するにはまだ時間がかかる。さらに人間同士の関係性も含めて、精神活動は摩訶不思議に展開する。実に不思議なことだと思う。
いつまでも空虚な関係いたずらに [2013年10月25日(Fri)]

__tn_20131025185851.jpg人はひとりぼっちでは生きていくことができない。だから、認めてほしい、受け入れてほしいという根元的な望みをもつ。山竹伸二氏はこう述べている。

≪家族や仲間関係において、相手の愛や信頼に疑いを抱くとき、自分は受け入れられているのかどうか、認められているのかどうか、強い不安に襲われるようになる。そのため、自分の考えや感情を過度に抑制し、本当の自分を偽って家族や仲間に同調し、無理やりに承認を維持しようとする。それはただちに「空虚な承認ゲーム」となり、必ず自己不全感がつきまとう。そして少しでもコミュニケーションに齟齬が生じ、その関係が行き詰まれば、自己否定的感情に襲われ、絶望的な気持ちになる≫
 (『「認められたい」の正体/承認不安の時代』山竹伸二著,講談社現代新書,2011年)

承認の欲求を満たすために自分を偽ってまで承認のゲームを続ける。承認されたとしても、人はそこに幸せを感じられないばかりか不幸に陥る。マズローの欲求五段階説のなかで、承認の欲求は高いところにある。

食べたり寝たりといった本能的な「生理的欲求」を皮切りに、「安全の欲求」、「所属と愛の欲求」と続き、集団の中で尊重されたいという「承認の欲求」がくる。これは自尊感情も含めて自分が価値ある存在であると確認したい気持ちのことだ。さらにマズローで有名になったのが「自己実現の欲求」である。

他人から認めてもらうのは確かに大事。しかし自尊心を捨ててしまっては元も子もない。ましてや自己実現は遠く離れてしまう。ゲームをするなら楽しいゲームをしたいものだ。

(写真はかりんの実。元気の出そうな黄色が雨に濡れている)
待ち合いで生老病死にいきあたり [2013年10月24日(Thu)]

__tn_20131024192338.jpgおよそ病院ほど「生老病死」を感じさせてくれるところはない。すなわち悩みの元である。人が産まれ成長することは喜ばしい。だが病をえてケガをして病院の世話になる。親族縁者が入院したことのない人はいないだろうし、いずれ自身も老いて体力は衰え病気のデパートと称されるときもくる。姜尚中氏の言葉を借りれば「悩みの海に漕ぎ出だす」のである。

CTを撮って診断を受けたときに見た光景がある。4、5歳の男の子が母の車イスをおしていた。車輪の軌道がずれてフラフラする。すかさず父がげんこつで頭をガツン。鋭く強い。子は瞬時に切り裂くような声で泣く。すでに初老の父は口汚く子を罵る。母はかなり若い。点滴をして両目を腫らしている。なすすべもなく、それでも子を気遣う。DVかもしれないな。

子は父を恐れているだろう。それでも幼児の無邪気さではしゃぐ騒ぐ。そのたびにあの父は子を罵る殴るを繰り返すのだろう。妻にも同様の仕打ちをしているのではないかと私は疑う。おそらく喜怒の落差が激しい気性の父だろうと想像する。子も不幸、母はもっと不幸を感じている。DVにさらされ続けた子は学習する。デートDV、家庭内暴力が連鎖することを恐れる。

病院には誕生や快復など喜びの元もあるけれど、悩みの種が芽吹いて人を悶えさせ落ち込ます。それでも人は生きていく。
健診は思いの外に角使い [2013年10月23日(Wed)]

__tn_20131023220927.jpg健康診断とは何か。病気であるかどうかを確かめて、病気でなければよしよしと安心し、病気であるならば早期に治療するなり生活習慣も含めて悪化防止に努めるためのものである。

ただしふつう私たちの気持ちにあるのは、前段の安心するまでである。後段は頭にはない。健診を受けるほど心がけのいいこのオレが病気であるわけがないじゃないか、特に自覚症状もないし・・・・これがたいていの人の気持ちだろう。しかし、病気が隠れているのがわかった時にショックは大きい。一気に病魔の側に引き寄せられて落ち込んでしまう。

何もない、大丈夫だ! でも何かあったらどうしよう、いや大丈夫さ、落ち着けよ、でも大丈夫! だけど根拠はないしなあ・・・・不安は心を駆け巡る。

さて当のわたし。人間ドックで肺に影があると言われ先日総合病院を受診した。レントゲンとCT画像を先週撮って、今週はその結果を聞きに再び受診する。総合診療科で予約時間は朝の9時。8時半には受付をすませ15分前には診察室前で待つ。早い診察室ではすでに患者が呼ばれて診察が始まっている。

9時になった。予告された診察室の明かりは点いている。なかなか呼ばれない。10分、15分・・・・20分たってやっとアナウンスがあった。呼ばれたのは隣に座っているおばあちゃん。それから10分余り。長い診察がようやく終わって、次は私の順番だ。ところがいつまでたっても音沙汰はない。何か病気が見つかったのではないか、看護師とともに告知のシミュレーションをしているのではないか、ともに病気と闘いましょうと優しく言われるのでは?などと想像が広がる。

放送があった。少し覚悟して入った。「異常ありません。CTの所見では全く異常は認められず、その他の場所も健康です」と。ああよかった!

待つ時間は考える時間だ。落ち着きにも焦りにもつながり、いやな想像も広がっていく。考える時間は深い思索をめぐらす時間でもある。時間を無駄にしないよう何かをしていることは大事なことだが、何もしない時間、ただ考えている時間も貴重なものだ、この度思った。人間は考える葦とはよく言ったものだ。
復興の八重の桜は凛として [2013年10月22日(Tue)]

__tn_20131022120438.jpg大河ドラマ『八重の桜』を見ている。幕末維新のころに辛酸をなめた会津藩。その武家に生まれた新島八重が、山本家の一員として会津戦争を戦い、維新後は新島襄とともに私学建設に苦闘したことを描いている。綾瀬はるかが八重を熱演する。

毎回流れてくる挿入曲がある。私はいつもぐっとくる。鼻の奥がツンとしてくる。八重や取り巻く人びとが静かに幸せをかみしめているシーンだったり、悲しさを乗り越えて次なる山へ挑もうとするシーンだったりする。オーボエを主旋律にしてゆったりと凛としたメロディ。荘厳にして崇高さを漂わせ、気高い会津の人びとを象徴するかのような曲想だ。まるでモーツァルトが会津のために作曲したオーボエ協奏曲のような趣がある。心を洗われる思いで見て聴くことができるいい番組だ。

紅白歌合戦の紅組司会が、その綾瀬に決まった。「緊張しています。教わりながら音楽の素晴らしさを一緒に伝えていけたら。柔軟に潔くやりたいと思います」と彼女は会見で語った。私が見るかどうかはその時になってみないとわからないが、会津や福島の方々の心意気も受けて、天然キャラのオチャメさも感じさせつつ、八重のように凛とした姿勢で司会に挑んでくれることだろう。

(写真は、花が小振りなスターチス。控えめだが凛として輝かしい)
おずおずと白い濃霧が流れいく [2013年10月21日(Mon)]

__tn_20131021185552.jpg夜中に濃霧注意報が出た
予報のとおり霧深い朝であった
いつもは轟音を響かせる列車がゆっくりと進む
おずおずと気後れしたように走る
宍道湖を見れば煙っている
山手を見れば白いもやもやが立ち上る
うっすらと家並みが見える
水墨画の世界はなかなかのものだ
一瞬にして過ぎ去る景色
まいにち通る道なれどいつもと違って新鮮だ
松江につくころに太陽があかあかと見えだした
太陽と霧の勝負は明らかだ
霧の粒は日に照されて次々と蒸発していく
街中はいつもの松江にもどった
伯耆大山までは見えないが大橋川にはシジミかきの舟が浮かぶ
霧に始まるこの週が動き出した
さぁさ進もう
自分らしさで邁進しよう
崩れても砂の力を活かす道 [2013年10月20日(Sun)]

__tn_20131020192831.jpg鳥取砂丘にある「砂の美術館」に行ってきた。今年のテーマは『東南アジア編〜王朝の栄華とよみがえる神秘の国々』。世界各国の砂の彫刻家たちが、自然や遺産景観を描き、都市景観と伝統文化との混合、民芸や舞踏の世界を超一流の腕でもって見せてくれる。

温暖で熱帯雨林の茂る東南アジアには多種多様な動植物がおり多くの文化も茂る。市場は豊富な作物や商品でにぎわってきた。思想面でも元からある土俗宗教に加えて、仏教やヒンズー教、イスラム教、キリスト教が入り込み、儒教の影響もあることだろう、百家争鳴の歴史が繰り広げられてきた。民族や王朝の勃興と没落は引きも切らず起こってきた。だから複雑だし知らないというのが正直なとこ ろだ。

印象的だったのが「歓喜の行進」。遠征を終えて兵士たちが象軍とともに王都アンコールトムに凱旋する砂のレリーフ。クメール王朝の最盛期を物語る。12から13世紀のことだろうか、誇らしげな兵士の表情が印象深い。だが、何百年も続いたクメールの栄華も、後継争いや周辺国の伸張で力を削がれ、支配層が仏教からヒンズー教へ宗旨替えしたこともあったのだろう。14世紀には帝国は崩壊してしまった。

展示室の入口には「砂という素材への挑戦」と題して次のような説明書きがあった。≪常に崩れるリスクと隣り合わせ。砂という素材の限界に挑みます≫。人間社会も同じこと。崩れるリスクをいかに防ぎ、崩れる前に新展開を企図して、人々に不幸を感じさせないようにするか。希望の種を播いて芽を出させることができるのか。人類が生き続ける限り永遠の課題である。

さらに説明は次のように記す。≪限られた時間と場所でしか存在できない砂像。彫刻家達は、この砂の芸術に情熱を注ぎます≫。うーん、深いなあ。人間の営みすべてに通じることだ。すべて営みは、時間と空間に制約される。俳句は五七五の三十一字に限られ、絵画はキャンバスに描かれ、事業は割かれる予算と人員に制約される。なによりも1日は24時間しかなく、わたしの人生はこの肉体と精神の範囲に限られている。組織で協調してものを行う場合であっても、自身の体と感覚を離れてはありえない。永遠はない、また無尽蔵もない。だからこそ文化は花開き、人は輝く。

(アンコールトムに凱旋する兵士たち)
なにを着てどう生きるかと考えて [2013年10月19日(Sat)]

__tn_20131019221802.jpg   あした、
   なに着て
   生きていく

とは、若い女性が好んで着るブランド『earth』のキャッチである。ポスターにはちょっと不思議な雰囲気をかもし出して、宮崎あおいがすました表情を浮かべている。

人はたとえ外出しない日でも必ず何か服を着ている。朝起きたら着る。そもそも寝るときには寝間着である。とにかく何かそこらへんにある物をおかまいなしに身につけていればいいという時代ではないし、私たちはそれなりに豊かだ。すると服装には、その人の考えが表れ毎日の心持ちが出てくると言える。

「衣食住」とはよく言ったものだ。生きている限り、毎日まいにち食べることから離れることはできないし、どこかに定住しないわけにはいかない。放浪者がいると言われるかもしれないが、放浪する者は短い滞在であってもそこに「住む」ことを繰り返すのだ。

『あした、』とは「朝」であり、また「明日」にも、「あたし」にもつながる。『なに着て』とは朝に明日に私は何を着るのか、どう自分をコーディネートするのか、を考えることだ。今日のことは今日。今すでに今日の服は着ている。明日は○○の予定があるから、あんな服装にしようとか、新しいセーターを□□と合わせて着てみようとか、「あたし」は考えるわけだ。何を着ようかと考えること。それは、懸命に生きていることにほかならない。

短いキャッチだが、ポスター一枚からいろんなことが意味深に考えることができて面白い。

(着飾るのは花も同じ。名前は知らないが、鮮やかな黄だ)
アラビアにロレンスありと轟いて [2013年10月18日(Fri)]

__tn_20131018180129.jpgアラビアから帰った彼が田舎の一本道にバイクを走らすところから映画『アラビアのロレンス』は始まる。エンジン音が腹まで響いて観る方も爆走している気分になる。危ない、ヒヤヒヤする‥‥案の定、事故は起こり彼は帰らぬ人となる。しかしロレンスはすでに帰らぬ人だった。身体は英国にあっても精神はアラビアで死んでいた。

アラビアの砂漠は雄大だ。あまりに広い。それにひきかえ人間は小さすぎる存在。岩山や砂礫が連なり、砂の海が人を飲み込む。スクリーンではじめて感じられる迫力の映像だった。砂漠に出入りする巨大な太陽。人やラクダを溶かさんばかりの蜃気楼。カメラをじっくり据え付けて長い時間を費やして撮った映画であることがわかる。

延々と続く広大な砂漠を一人の味方を助けにロレンスが反対を押して単独で向かうシーン。白かった。空までも砂漠に照らされて白く感じるほど輝いていた。あの白い地平線からロレンスが男を連れて現れたとき、彼の栄光が始まり、同時に凋落の始まりも示していた。

オスマン帝国トルコの要衝アカバを陥落させたロレンスが夕日の逆光が照らす海岸を悠々とラクダにのって歩くシーンが素晴らしい。激しく人間を責め立てた砂漠が途切れて海を臨む。トルコ軍に大きな痛手を負わせたという自信が彼に漲っていたシーンだ。景色の雄大さは気宇壮大な彼の心意気を示していた。

ロレンスのカリスマ性にのってアラビア連合軍はトルコ軍を破り、帝国から解放された。しかし統一アラビアにとって、もはやロレンスは必要ではなくなった。また、老練で二枚舌の英国はトルコに替わりアラブを支配しようともくろんでいただけに、ロレンスの存在は邪魔だった。利用するだけ利用して目的を達したらお払い箱にされたとも言えるし、ロレンスは乱世のヒーローであり戦乱が終われば使命を果たしたと言えるのかもしれない。

いずれにせよ、毀誉褒貶にさいなまれてロレンスは壊れていく。ズタズタに心を病んでいってしまった。映画で脚色されたとはいえ、アラビア半島にこの人ありとうたわれたトマス・エドワード・ロレンス大佐。砂漠に名を残す王者である。
冬型に寒さ対策ネクタイを [2013年10月17日(Thu)]

__tn_20131017182350.jpgネクタイの機能とか、身につける意味はなにか、と考えてみる。

スーツのVゾーンを埋め合わせてスーツスタイルを完成させる存在であり、それは英国を代表とするヨーロピアンスタイルが服飾の世界で世を制覇したことも意味する。20世紀は米国によって世界の秩序が保たれ(破壊されたと考える向きもあるが)、英国を引きついだ米国人の格好が世界標準となった。

外で戦う男性性のシンボルとしての存在でもある。男がからだの真ん中にぶら下げるものの象徴だ(卑猥で失礼\(__))。西洋の鎧の股間をおおうゴッドピースの後継だとする説がある。タイの剣は刃物の剣先も表しており、家族や故郷を守ろうとする男たちの戦う姿勢である。

そして防寒。まだクールビズ期間中ではあるが、昨日からネクタイを締めている。台風26号にあわせて西高東低の気圧配置となった。寒い。寒いときには首もとを開放せずに適度に閉めるネクタイは寒さ防止にぴったりだ。

(黄のネクタイはなかなかよい。顔かたちが明るくスッキリと見える。安倍首相もよくしめている)
生涯をいなせな詩を歌い終え [2013年10月16日(Wed)]

__tn_20131016192324.jpg生きている わたしは今を生きている
だから歌う 生きてるしるし残すため
だから悲しむ 人と情けを交わしつつ
だから(^-^)と微笑み ガハハと腹を抱える
見上げてみよう青空を 手のひらを太陽にかざそうよ
紅染まる僕の手に 血潮流れてルビー色
森羅万象生きている 宇宙になじんで生きている
土をもぐってミミズいく アメンボすいすい緩やかだ
トンボは秋の彩りで スズメはチュンチュン恋うたう
みんなみんな生きている
友だち求めて生きている
踊ってみようよ やってみよ
心躍るよ 手足にあわせ踊るんだ
生きるみんなと踊ろうよ 愛する君と試そうよ
生きている 生きていこうよ これからも

言うまでもなく『手のひらを太陽に』(やなせたかし作詞/いずみたく作曲)がモチーフになっている。やなせたかし氏が逝かれたことを悼む。人が喜ぶことを我が使命とし、バイキンマンに仮託して悪人にすら更生を願った。その諸願満足の大往生を寿ぎたい。
台風が来るぞ来るなと列島に [2013年10月15日(Tue)]

__tn_20131015202043.jpgまたまたデカイ台風がやって来る。今度の26号は軽いシュート気味の軌道で東京方面を鋭くえぐり取るように襲ってくる。島根でも暴風や波浪警報が出ている。今夜から明日の通勤の時間帯は注意が必要だ。

このところ台風が幾度も日本列島を訪れる。親しげにやって来る。来るな来るな!と叫んでもやって来る。いやな奴等だ。いい加減にしろ。自然の摂理とはいえ、人間に厄災をもたらす悪い奴等だ。

何度も繰り返し出される注意報や警報。感覚がマヒしてしまいそうだ。無感覚になってはいけない。大したことにならなかったとしても、ああまたか、とやり過ごすのではなく、新鮮な気持ちで警戒したい。

戦後すぐの頃、大型台風が何千人といった人の命を奪い、何十万もの被災者を出した。台風そのものの巨大さもあってバラック建ての家が崩壊したこともあるが、警戒情報があらかじめ発せられなかったことが大きい。発したとしても、テレビはなくラジオがある家庭は少ない。デマが飛び正確な情報は伝わらない。

幸いに今は予報技術が格段に進歩した。それでも予報警報に従うか、まあ大丈夫と言って無視するかは、各個人に負うところが大きい。今夜から明日にかけて被害がないように、せめて少ないように願っている。

(写真は鏡の面のような日本海)
守りたい動植物の貴重な種 [2013年10月14日(Mon)]

__tn_20131014230047.jpgホシザキグリーン財団が主催される「ホシザキ野生生物研究所研究報告会」を聴講してきた。動植物や環境修復の分野で各研究員が発表された。持ち時間は一人20分。パワーポイントを使って写真や図解、素人にもわかりやすい表現で発表されて興味が湧いてくるものだった。

オニバスを絶滅から救うにはどのような保護増殖法があるのか、隠岐固有の昆虫種がいかに貴重な存在であるか、準絶滅危惧種に指定はされていても生息数がわからなかったシロチドリ数をいかに推定して保護に活かすか、日本海側では初知見であるマメアカイソガニの特徴と近種のカニとはどう違うのか、宍道湖・中海・美保湾で捕獲したスズキの解剖から汽水域環境と生態系の変化をどう考えていくか。そうしたことが丁寧に発表されて有益であったと思う。その上で質疑応答があったので、わたしも質問と意見を申し上げた。

確かによくわかったけれども、各分野の研究内容が動植物の保護や環境保全にどう役だっているのかを世間に示すことによって、危急に瀕する地球環境に警鐘を鳴らしていくことのできる研究所になっていけるのではないか。たとえばニッチなマメアカイソガニが日本海側で初めて見つかったことはどんな意味があり、そのカニをどれだけの研究者が探求しているのか。そうした全体像を示していただければ、研究や観察の希少性や貴重さがより鮮明に見えてくる。さらにはこの研究所が、生態系の変化と環境の悪化を研究内容から明確にし社会に訴えることができると思う、と。

公益財団法人ホシザキグリーン財団の定款第3条では、≪人と自然の調和した自然環境の保全に寄与することを目的とする≫とうたうことからすれば、財団の使命は大きい。

来月にも同じ内容で発表会が催される。来年もまた続くであろう。貴重な動植物を集め、飼育室で実際に飼い、来訪者にも見せて、種を守り、地域環境のなかで詳細に調べつつ、教育的にも広めていく。そういった活動をされている野生生物研究所や宍道湖自然館ゴビウスの活動がさらに活発になるよう願っている。

(セイタカアワダチソウの黄色の群生に目を奪われているうちに、いつの間にかツワブキの黄色がお目見えした)
運命を叩き越えよと第5番 [2013年10月13日(Sun)]

__tn_20131013195755.jpgノックする時にふつう何回ドアをたたくだろうか。2回だろう、常識的には。と思っていたのだが、それは非常識のようなのだ。2回はトイレ空いてますか?の意味なのだそうだ。一般には3回が欧米流の常識であることを知った。ビジネスシーンや面接でも3回しておくほうが無難だ。親しい間柄では4回もありだという。もともとドアなどない日本家屋。知らなくても無理はないと言い訳をしておく。

どこかの部屋を訪問する。家を訪問する。一度目で反応がなければもう一度、3回たたく。それでもダメならもう一度。何度か繰り返してみて誰も出てきてくれなければ諦めるのがふつうだ。4回も5回もたたいたとしたら、苛立ちの気持ちがこもる。トントントントンではなく、ドンドンドンドンと拳を肘を支点にして重く強く叩きつける。人差し指の第二関節で品よくたたくレベルを超えてしまい、暴力的な強烈さが出てしまう。

呼鈴がある家ではまずは1回。もう一度1回。ダメなら続けて2回。家に誰かいそうな気配なのに出てこなければ、3回呼鈴を押すこともあるかもしれない。さらに、ピンポンピンポンピンポンピンポン…と続けて押せばヒステリックな印象を受けてしまう。それだけ出てきて欲しいという気持ちの表れなのだろうが。

このまえラジオでベートーベンの交響曲第5番運命を演奏していた。楽団や指揮者は確認をしなかったが、テンポよく軽快さもあり、重々しい和音の重なりもある現代的な演奏であったと思う。押し寄せる運命の波、ベートーベンを繰り返し襲う宿命のノックを的確に表現していた。

そのノックは4回。あの有名なフレーズが何度も繰り返される。あの音の強さや音の重なりは、コンコンとかトントンの域を超えている。ジャンジャンジャ・ジャーンと腹の底に響いてくる。何度も何度も運命は人を奈落の底に突き落とす。それでも負けないと、人は立ち上がる。あの曲は苦しみつつも戦っている人への讃歌なのだ、応援歌なのだと思う。
沿道に旗を振りつつ駅伝を [2013年10月12日(Sat)]

__tn_20131012220558.jpg毎年体育の日に出雲で行われるのが「出雲全日本大学選抜駅伝競走」。1989年(平成元年)に始まった。今でこそ、全日本大学駅伝と箱根駅伝とともに三大大学駅伝の一つとなっているが、最初は駅伝として公認されておらず、神在月に開催されるという意味で「神伝」と称されていた。今は正式に「出雲駅伝」となったのは、発案者の岩国元市長から連綿と続く関係者の努力によるものだ。45キロほどの短い距離でコースにアップダウンがあまりないため、最後まで接戦となることが多くスピードレースであるのが面白い。

今年の体育の日はあさって10月14日。すでに沿道には大会名や大学名が書かれた幟が立ち並び雰囲気を盛り上げている。各大学や選抜チームの選手たちは出雲の宿舎に入っており、今日はコース確認に走る姿が見られた。

あさっての天気予報は晴れ。朝のうちは15℃まで下がるが最高気温は27℃で、少々暑さを感じるかもしれない。熱戦が展開されることを期待している。といいつつ、もう何年も沿道へ応援に出たことはない。

(コメント)
お久しぶりです。
今でも通称の「神伝」がやってきますね。
私も沿道での応援は何年もありません。どうも体育の日に仕事があたってしまいます。
昨日は出雲大社周辺はものすごい人、人、人・・・。
車の渋滞もかつて無いほどで大変でした。
出雲も変わりましたね。
作成者 「さ」をとると「しすせそ」 : 2013/10/13 (日) 07:34

今日は忙しくて神伝は観戦もしていないし、テレビで見ることもありませんでした。駒沢が優勝したそうですね。古豪はやはり強いのでしょう。箱根駅伝に向かってそろそろ予選会ですし、走る季節がやってきます。出雲は観光に湧き、連日のラッシュが続いていますね。
作成者 見ずをとこ : 2013/10/14 (月) 23:09
懐かしの時間が詰まる道なれば [2013年10月11日(Fri)]

__tn_20131011222334.jpg以前通った道を歩いた。通勤の道。狭かった道路が拡張されて歩道は広く滑らかで歩きやすい。毎日通ったこの道であのころ何を考えていたものやら。仕事のこと、家族のこと、地域活動のこと、友人のこと、時事や世間一般のことあれこれ。困ったことの対処法、過去のこと、空想だってある。あの辺りで雪の日に滑りそうになったな、あそこで知り合いと出会って長話したなと思い出す。

しかし膨大な時間のほとんどは記憶の底に沈み、頭と体を通り過ぎて跡形もない。何年もの歳月があっという間に過ぎてしまったかのようだ。

沈んで跡形もなくなったわけではない。あっという間ではない。一日一日が積み重なり、一日24時間は1分1分の集積である。膨大な時間はわたし自身が経験し命に刻み付けてきたものに違いない。後悔もある、楽しみもあった、希望ももった。過去は未来への肥やし、未来は現在の結果。ならば今をみとめよう。過去は今に生きることを忘れまい。

(写真はザクロの実。透明なルビー色で明かりを照り返してキラキラしている。過去を思い返すときのように、酸っぱくも甘い)
体育のあとは目を大切に見つめ合い [2013年10月10日(Thu)]

__tn_20131010183653.jpg今日は10月10日。以前は体育の日であったが、2000年からのハッピーマンデーでもって今は体育の日は10月第2月曜日に替わった。それでも1964年東京五輪開幕の記念日として、この日は日本人にとって特別な日と言える。

国立競技場の開会式冒頭でNHKのアナウンサーが発した名言がある。「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」と。宇宙へ抜けていくような真っ青な空、秋の日射しはまばゆく選手や出演者を照らして、世界中の高揚感を全部東京へ持ってきたかのような趣であったことだろう。今日は抜けるような空とは言いがたいが、雲間から太陽が時折のぞく日となっている(暑さもあるが)。

さて、2020年の東京五輪は開会式が7月24日で閉会式が8月9日。今年の猛烈な暑さは今年だけにしてもらいたいところだが、夏の平均気温が少しずつ高くなっていることから判断すると、2020年も相当覚悟しないといけない。選手役員に熱中症が相次ぎ、ゲリラ的豪雨によって移動の足が寸断されることがないよう願いたい。

そして今日は目の愛護デーでもある。目を大切に、目をいたわろう。

(写真はセイタカアワダチソウ。目を凝らしてみると、小さな太陽を集めて晴れの花だ)
笑いたし心の底をあらわにし [2013年10月09日(Wed)]

__tn_20131009184203.jpg吉本興業の地域密着プロジェクトの第二段が始まろうとしている。7人の役員を全国7地域に配置して、笑いによる地域の活性化事業を推進する。名付けて「住みます専務」。すでに第一段は進行中で、各県には専属の芸人が住んでいる。「あなたの街に住みます」プロジェクト。島根では桂三段さんがイベントや高座にひっぱりだこだ。

専務たちが派遣されるのは、東北▽北関東▽南関東▽北陸・東海▽近畿▽中国・四国▽九州の7地域である。まだ住む県は決まっていない。

「決して"島流し"ではありません」とジョークのネタにするばかりか、ネーミングには駄洒落が濃厚だ。(住みます専務)⇒(すみますせんむ)⇒(すみません)とシャレをかまそうという魂胆にちがいないが、もっと深い謀略があるのではないかと私は勘ぐっている。

それは何か。笑いによる世界征服である。笑いに満ちた面白がり屋をあちこちに育てて、笑いのためには金も手間もかける人を増やす。日本人を手先にして、今度は世界に打って出る。関西人以外は笑いに染まりにくいのが、日本人というものである。その日本人を笑いの渦に巻き込むことができたなら、もはや世界の人を吉本の笑いにいくらでも引き込んでいける。吉本がこう笑えといったらそのとおりに笑い、吉本がこんなギャグを流行らせるといったら大人から子供まで笑い転げる。もう吉本の思うがまま。世界は征服される…………。

つまらぬ話はここまで。何でも面白がるという吉本精神で、地域に笑いの種を探しては、たくさん種をまいてくれるだろう。笑いは健康の元、笑いは人と人との潤滑油、笑いは鬱防止の特効薬、笑いは明日へのエネルギー……。ときには腹の底から笑いたい。ただし人の欠点を暴露して笑いものにし、人の失敗をコケにして嘲笑するのは御免こうむりたい。

(写真は大口を開けて笑っている朝顔。明るい笑顔だ)
線路立ち軌道確かめその狭さ [2013年10月08日(Tue)]

__tn_20131008181427.jpg踏切をわたるときには立ち止まり、線路の上に大股を広げて立ってみていただきたい。すると二本の線路の間隔を両足の広げ具合で確かめることができる。電車に乗ったら通路の真ん中に立ち、進行方向に向かって線路をまたぐように立ってみよう。列車の横幅に比べて線路の幅、すなわち車輪の幅がやけに狭く感じるだろう。こんな狭い軌道に乗って猛スピードを出しているかと思うと怖くなる。

JR北海道の保線や機関整備に関して、現場がサボり、管理側も必要な手当てをしなかったことに大きな非難と失望が広がっているが、鉄道とはこの狭い線路と車輪に依って立つ意外と危ういものであるという感慨を禁じえない。彼らは慣れっこになってしまって、そうした危機感をいだくことはなかったであろう。

JRの線路の軌道は新幹線を除き1067ミリの狭軌である。明治以来、とりあえずということで暫定的に鉄道が敷設されたままである。世界標準は1435ミリの標準軌。この広軌を採用していたとしたら、鉄道事故はかなり減ることは間違いないが、それは日本人らしい丁寧な仕事ぶりによってカバーされていた。JR北海道ほどたるんでしまえば、もはや安全の保証はない。JR西日本はあの尼崎線の大惨事によって目を覚ました。JR全般に安全の再確認をしてほしいものだ。
夕暮れに心踊るよ安らぎに [2013年10月07日(Mon)]

__tn_20131007183725.jpg心躍る秋はきた。体が踊りだすような期待に満ちた秋がきた。その気持ちに冷や水を浴びせかけるこの暑さはなんだ。どうせなら冷たいシャワーを浴びたいよ。

台風が近づいている。南の熱い海水から水蒸気が立ち上り低気圧に吹き上げられて日本列島に熱い空気を降り下ろすのか。それとも熱い水蒸気が台風に押し出されて列島を襲うのか。明日の後半から明後日にかけて要注意。なにも被害がありませんように…。

弾んでいたい。ゴムまりのように恋する少女のように…。お喋りを楽しみ、心おきなく琴線にふれあって嬉しく心躍る会話を楽しみたい。寝不足はNGだ。疲れからくる肩こりもイライラのもと。上機嫌でなければなるまい。

まずは今日も一日お疲れさまと、自身をねぎらって休息の夜でありたい。いらない書類を片付けて心にスッキリ感をもたらしたい。だらだらと見るテレビの時間を切り捨てて、本を一行でも多く読みたいものだ。

となると夜は短いもんだ。秋分過ぎて釣瓶落としに日が短くなっていく。夜は長いけれども、何かできる時間は意外と短いもんだ。

(写真はススキの穂。微細に見るとこれがなかなか美しい)
束縛か絆か人を組織する [2013年10月06日(Sun)]

__tn_20131006182546.jpg帝塚山大学大学院の中川教授の話をうかがう機会があった。そこで社会学におけるアソシエーションとコミュニティの違いを知ることができた。備忘録として掲載しておく。

     □コミュニティ□  ■アソシエーション■
思考法  □共和主義的(阿吽の呼吸) ■自由主義的、機能的
集団と個  □集団主義 ■個人主義
取り組み課題  □総合的 ■専門的
紐帯の性格  □宿命的(地縁) ■契約的(人縁・志縁)
時間軸  □全日的 ■定時的
意思形成  □全員一致、暗黙承認 ■多数決
行動誘因  □地域共同感情 ■共同課題認識
重視する価値  □共同生存、安心安全 ■幸福、自立
市民団体の事例   □自治会、町内会 ■NPO
役員構成の傾向  □男性・高齢者層が主 ■女性・青年・中年層が主
現状と問題点  □高齢化、後継者難 ■不安定、資金不足

この二つの分類は社会学者マッキーバーが構築した概念である。コミュニティは成員の生活全般に密接に関わり、助けや絆となる一方で、束縛する社会関係もできる。アソシエーションは、一定の目的を果たすために設けられた機能的組織体だ。たいていの人にとって属するコミュニティはひとつかせいぜい二つで、アソシエーションの方はいくらでも裾野が広がりうる。コミュニティ内にはいくつものアソシエーションが存在し、ときには敵対する党派も存在するものだ。

3・11の大震災以降、絆が強調されて共に組織し共感し、共に過ごすことの温かみが好まれた。今ここにいたって落ち着いてくると、再び束縛を嫌いそれぞれ個人が殻に入り込んでいく傾向が出る。両者をどうバランスをとるか。永遠の課題であろう。

(わが家の金木犀は少々色褪せた。匂いも弱まった)
暗闇に不意に香るは金木犀 [2013年10月05日(Sat)]

__tn_20131005121610.jpg闇に香る。金木犀が香る。忽然と香る。
曼珠沙華が終わるころ香ってくる。
天然自然の甘い秋。夜の闇に静かに沈殿する。
金木星にあらず金木犀なり。
宵には金星がマイナス等級で燦然と光る。
早朝には木星がふたご座で鎮座してひときわ明るい。
星がまたたく暗闇にその主は秘やかにやってくる。
分厚くて濃緑の葉に細かな橙の粒が群れている。
ギンモクセイも合わせて木犀が咲く爽やかなころが桂秋。
盛りを過ぎて地面に落ちた十字の花は卵色の絨毯を敷いたように見えるだろう。
金木犀は清らかに慎ましく秋の主役に忍び寄る。

(写真は夜に香る金木犀ではない。秋の代表格、昼の明るさが相応しいコスモスだ)
生活をデザインしては顔つくる [2013年10月04日(Fri)]

__tn_20131004210936.jpgいろんなものをデザインする。なかでも自分自身をデザインするのはどんなときだろうか。別に工業製品を設計したり服の造形を意匠するわけではなく、図案をデッサンするわけでもない。自分はこうなりたいとイメージするのが、自分をデザインすることになるだろうか。どんな服を着てどんなアパートに住み、何を食べてどんなテレビ番組を見て、どんな仕事ぶりで過ごすかという、いわば生活のすべてが自分のデザインに直結する。

とくに、恋したり就活したり結婚するなど新しい環境に入るときには、自分をデザインすることを意識するいい機会になる。多くの選択肢から物やことを選び、日々を過ごすことの結果として、今の自分がある。

リンカーンの言葉に「40歳過ぎたら男は自分の顔に責任がある(Every man over forty is responsible for his face.)」という有名なものがある。もとはと言えば、人事の際のえり好みを理由づける際に限定的に使った言葉のようだが、人口に膾炙されるうちにすっかり、全ての人に共通する真理となった。だから人の生き方は、結果として遺伝的な顔の造りを超えて人の顔をつくっていくものだ、と多くの人が思うようになった。実際わたしもそう信じている。目の力、肌の色つや、身だしなみが顔をつくる。なによりもにじみ出てくる人柄の風合いが顔をつくっていく。思えば恐ろしい。

人生は顔に出る。夢中になっている少年のような顔になりたい。やさしい笑顔が人を和ます顔になりたい。含蓄のある聡明な顔になりたい。大人になってから約20年。40歳までの二十年はその人の意志と行動によって顔ができあがるちょうどいい時間なのかもしれない。顔は一生をかけてつくり上げる作品と言えるのだろう。それこそ自分自身の渾身のデザインとしていきたいものだ。
欲の皮つっ張り過ぎて損をする [2013年10月03日(Thu)]

__tn_20131003075313.jpg無料お試しは高くつくことがわかった。8月にアマゾンで本などを注文したときに、「Amazonプライム無料体験」のお勧めがあったので、なにげなしに申し込んだ。お急ぎ便やお届け日時指定便が無料でサービスを受けられたり、買い上げ料金が少なくても特別に配送料が無料といった特典がある。そこで申し込んだまま、1か月あまりアマゾンで買い物をすることはなかった。

ところが、10月分のクレジットカードの支払明細を見てみると、「amazonプライム/3,900円」という引き落とし予定額があるではないか。最初は全く意味がわからなかった。8月のことなどすっかり忘れていたからだ。調べてみると、無料特典は最初だけでそのままにしておくと自動で年会費が引き落とされるこ とがわかった。【無料体験に申し込む】という項には、小さい字で説明がある。「1ヶ月の無料体験終了後、会員資格は年会費¥3900の有料会員へ自動的に正式登録されます」。驚愕であった。

アマゾンで買い物をするときに急ぐことなど滅多にない。不要なサービスだ。ただ単に【無料体験】に食指が動いただけ。無料サービスには要注意だ。幸いにそのことを解説するホームページのとおりにやったら、会員登録を削除でき、次のクレジットカード決済のときに返金される見込みとなった。無料には注意せよ! 今回は3900円ではあったが、欲の皮が張ると痛い目にあうぞ、附帯事項は必ず読んでおけ、という教訓となった。

世の中にうまい話は多い。必ず儲かる、必ず10%の配当があるなどとセールストークにして儲け話を詐欺に仕組んで売り込む輩がいる。引っ掛かる人は多い。これこそ必ずあとで泣く。お金はなくてはならないもの。お金のことを勉強しておかなければなるまい。
秋深し鼕の行列楽しんで [2013年10月02日(Wed)]

__tn_20131002174325.jpg冠に「鼓」、脚部分に「冬」と書いて『鼕』。「どう」と読む。鼕行列は松江の秋の風物詩である。屋根付きの山車屋台に五、六尺(1.6m〜1.8m)の巨大太鼓の鼕を乗せて、バチさばきの打ち方を中心に、横笛や銅拍子の囃しで打ち鳴らし、老若男女が綱を引く。町内会ごとに先頭に幟を立てて賑やかに行列が進んでいく。

松平の殿様が正月に神を呼ぶために鼓を打ち鳴らしたことに由来するといい、大正天皇の即位大典で大がかりになり、昭和34年から毎年行われている。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」とは、阿波踊りのフレーズであるが、松江の鼕はそれほど熱狂する祭りではない。単に見物するよりはリズムを合わせて叩きたくなってくる不思議な祭りだ。

以前はもう秋も深まる晩秋の11月に行われていたが今は10月。「冬の鼓」という文字には似つかわしくない。まっそれもよかろう。夕方になると、鼕を叩く練習の音が市内のあちこちから聞こえてくる。
噛むのなら食べて噛んでは食べ物を [2013年10月01日(Tue)]

__tn_DSC_3907.JPG箸を噛むことがあります。食べ物を噛み砕くことに飽き足らず、箸まで食べてしまうのです。もちろん飲み込みはしません。あっしまった!と思うのは後の祭りで箸は無惨な姿をさらしています。急いで食べたのが原因ですが、恥ずかしいのやら、塗り箸を壊してしまった悔しさで赤面します。

この前もやりました。浅い塗りの箸でしたから、カッターナイフで滑らかに削りました。バランスをとるために噛んでいない方も同じ長さに削ったのです。使い勝手は多少悪くなりましたが、今も愛用しています。

さて、なぜ箸を噛んでしまうのでしょうか。急ぐからですが、別に差し迫っているわけでもないのに、ろくに噛まずに飲み込んでしまうからです。箸でご飯やおかずを口に運ぶ、数回噛むうちに次の箸を口に運ぶ、さらに繰り返すうちに拍車がかかったように回転が上がる。すると噛む。箸を噛むこともあれば、舌を噛んだり口の内側を噛んで、痛い目にあう。内側を噛むのはクセになって続けざまに噛むことになります。そこが口内炎となって何日も痛い状態が続きます。お茶がしみる、食べ物が当たって痛い。嫌なものです。

どうしたら箸や口を噛まなくなるかというと、ゆっくり噛んで食べることです。噛む数を数えます。20回がいいでしょう。不思議なことに噛み砕いた状態を口で感じるようになると、もっと噛みたくなってきます。食事時間も長くなってきますから家族との話も弾みます。満腹感も高まりますから摂取カロリーも低くてすむでしょう。噛みしめて脳の働きにもいい影響を与えることでしょう。それを常に意識できるよう余裕をもって食事に臨みたいものです。