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さあ皆さん警戒せよと気象庁 [2013年08月31日(Sat)]

__tn_20130831102104.jpg昨日から気象庁から【特別警報】が発表される算段となった。今までの「警報」は、必ずしも避難につながらず、命を脅かす危険が迫っていても行動に結びついていなかった反省があるという。警報の発表基準をはるかに超えて非常事態が迫っていることを知らせる情報が【特別警報】である。先月末から山口・萩、島根・津和野を手始めに、各地で頻発するかつて経験のないほどの集中豪雨。そのたびに気象庁では「直ちに命を守る行動をとってほしい!」と声高に会見していたのが、その前ぶれとして耳目を集めた。

特別警報は次の場合に出されるという。
「大雨」 十数年に一度の大雨となるおそれが大きいとき
「噴火」 居住地域に影響が及ぶ噴石や火砕流のおそれが大きいとき
「津波」 内陸まで影響が及ぶ大津波のおそれが大きいとき

さて、特別という言葉。これが意外に月並みなのである。

特別会計/特別勘定/特別急行/特別区/特別攻撃隊/特別高等警察/特別交付税/特別抗告/特別公務員(警察官や検察官等)/特別公務員職権濫用罪/特別職公務員(国会議員等)/特別国会/○○特別委員会/特別支援学校/特別支援学級/特別出演/検察庁特別捜査部/○○特別措置法/特別損益や特別損失/特別地方公共団体/特別地方消費税/特別手配/特別天然記念物/特別番組/特別養護老人ホーム・・・・

何が言いたいかというと、満ちあふれた特別云々という言葉に紛れて、やがてこの特別警報という言葉も目新しさをなくしていく。毎回毎度、特別警報が的中するとは限らないから、「なーんだ、こんなもんか」という軽率に考える傾向が出ることがこわい。命を守る行動をとらない人も出てくるかもしれない。油断大敵である。
運つけに御縁の島根にいらっしゃい [2013年08月30日(Fri)]

__tn_20130830183425.jpg≪運は一瞬、縁は一生。
 やっぱ、運より縁でしょう。≫

これはキャッチコピー、「ご縁の国しまね」の新たなキャンペーン。竹下登元首相の孫にあたるロックシンガーDAIGOを使ってエキゾティックとまでは言わないが、縁結びの出雲の国、島根を売り込もうとしている。DAIGOはバラエティではノー天気なキャラを演じているが、誠実な青年であるらしい。島根県PR大使の一員だ。

さて、運より縁なのだろうか。縁は永久もので運はその場かぎりなのだろうか。わたしにはそうは思えない。袖振り合うも多生の縁、という如くに小さな縁が爽やかな出会いにつながるケースもある。旅は道連れ世は情け、と縁が深い情けをかもし出すときもある。そうした幸運な縁というものは、運によってもたらされるものではなかろうか。情けは人のためならず、と他人のために貢献し、運を招こうと日々に鍛練を重ねる。結果として、より良き人間関係に恵まれ、笑顔をたくさんもらいながら日々を生きる。

つまり、運よりも縁ではない。運は一瞬で使い果たすのではなく、一生の縁を育み幸せに生きるための機縁となっていくものであろう。だから運も縁もともに大切なものなのだ。

(キバナコスモスが咲いた。こじんまりとしてはいても、どこか艶やかな秋が来た)
長居してミスドの味に慣れたもの [2013年08月29日(Thu)]

__tn_20130829072137.jpg【お客さまへ】
 合掌 いつもご来店いただきありがとうございます。
 このたび当ショップは都合により、閉店させていただくことになりました。 
 [閉店日 8月18日(日)PM6:00]
 昭和61年に開店以来26年間、地域のみなさまに支えられ今日まで続けてまいりました。
 長い間ご愛顧いただきましたことを心より感謝申し上げます。(中略)
 誠に勝手ではございますが、何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。

松江駅のミスタードーナッツが閉店した。実に残念だ。よく使ったものだ。列車の時間待ちに、ばったり出会った友人との語り合いに、本読みのため何時間も長居をしたことがある。そのたびに何杯もお代わりをした。だから、注文するのはホットコーヒーか、カフェオーレ。飲み過ぎて、そのあと入った映画館でトイレに行きたくて困ったこともあった。

閉店の原因は、すぐ横にできたスターバックス。3月末の開店以来、スタバのない最後の2県、島根と鳥取の一角に穴が開いたと話題を集めた。当分は長い行列が続いていたが、ブームは終わったようなので、ミスドへの影響はないと思っていたが、経営者はシビアだ。さっさと閉店してしまった。

スタバのコーヒーは確かにうまい。だが長居はできない。土産物の名店街にオープンスペースで接しているので、居心地はよくない。何よりもお代わりができないのが、ケチな私には残念なことだ。そもそも、ミスドだってコーヒーの味は悪くない。ドーナッツをほおばる至福の瞬間も幸せだった。この夏は居心地のいい場所がひとつなくなってしまったのが、実に口惜しい。
かみがみしい出雲の言葉おもしろし [2013年08月28日(Wed)]

__tn_20130828172453.jpg神々しい。
ふつうは「こうごうしい」と読む。旧仮名遣いでは「かうがうしい」。気高くて厳かな様子、神聖で尊い雰囲気のことをいう。

出雲では違うのだ。「かみがみしい」と読む。旧暦十月の神在月に神々が集まって頭を突っつき合わせてぶつぶつと話し合い、時にひそひそと密談し、そして時に侃々諤々と議論して、日本中の一年のこと、なかでも縁結びの相談をするという伝説がある。八百万の神が集まるのである。そのうるさいこと騒々しいこと。そこで出雲では、神にとどまらず、人が集まってワヤワヤと議したり、何事かを決める相談をする場面では、「かみがみしい」という表現を使うのである。神の国島根ならではの言葉遣いだ。

冗談はさておいて、神々しいというのは古語の「かみがみし」から変化したのだそうだ。 となると、この冗談もまんざらウソにとどまらないかもしれない。「かみがみしい」と言うよりは、「こうごうしい」と言ったほうが、厳粛さ深淵さを感じられる。だから、未知の神々の世界にはふさわしいと考えて、今のように一般的になったのかもしれないよ。

(写真は、静かなる海、夏の日本海)
ニッポンにオリンピアの火明々と [2013年08月27日(Tue)]

__tn_20130827191426.jpg夏が暑いのが当たりまえだが、日本の夏は暑さを通り越し、殺人的な熱射に悩まされるようになった。特にこの夏はひどかった。毎夜の熱帯夜、東京では最低気温が30度を超える日があった。熱中症で救急車に乗る人は史上最高を記録した。

これほどの暑さは10年前には考えられなかった。熱帯も顔負けの高い温度と湿度。そしてスコールのように降るゲリラ豪雨。真夏に限っていえば、ほとんど日本は熱帯化した。この土日に島根県西部を急襲した豪雨が止んでからようやく夜は涼しくなったが、ともかくこの夏は徹底的に痛めつけられた。

さて、この異常気象下でのオリンピック招致である。招致委員会の一行が9月初旬の最終決定に向け、先日団結ぶりを披露した。イスタンブールやマドリードに比べ、東京が有利なことは確かだし、私も2020年には東京に迎え入れたい。東京は建設ラッシユとなり、株価も上がっていくだろう。財政危機問題は残るが、日本に明るさをもたらすことは明らかだ。

日程的には本当のところ、9月、できれば10月が望ましい。しかしIOCはテレビ放映権の関係で7月から8月の開催はゆずらない。旧盆の時期、終戦記念日の8月15日にかけることはないだろうし、夏休み前の7月中旬は避けると思われる。となると、7月下旬から8月上旬の間が開催期間だ。ヒロシマ、ナガサキの日に重ねるか、閉幕後にその日を迎えるように組めば来日した外国人にも原爆の悲惨さを感じてもらう機会にもなる。

今年のその頃はどうだったろうか。厳しい厳しい猛暑だった。もしも2020年のその時、来日した選手や観客に「地獄の釜の熱さに耐えよ!」と言う自信は、私にはない。
悪ふざけ後悔先に立たぬもの [2013年08月26日(Mon)]

__tn_20130826181534.jpg店員が勤務する店舗の中で悪ふざけをして、その写真や動画をネットに投稿する事件が相次いでいる。

コンビニやレストラン、ピザチェーンといった店でもって、冷蔵庫に入って遊んだりピザ生地で顔を覆ったり、アイスの上に寝そべったりした。黙っていればいいのに(それも問題か)。イメージを害した店はフランチャイズ契約を解約されたり、閉店せざるをえなかったりと企業側にも大きな損害が生じている。

なぜそんな非常識で顧客の心証を害するような行動をとってしまうのか。ただの悪ふざけですまないことは、よく想像してみればわかりそうなものだが、わからないから彼らはやってしまうのであり、事が露見してはじめて重大な過ちであったことに気づく。

発覚すれば企業側からは賠償請求されるかもしれない。となると、親も巻き込んで大損するのは楽しんだ彼らの方なのだ。刑事事件となって、器物損壊や威力業務妨害の罪に問われたらどうするのだろう。学生であれば就活に影響することは間違いない。

アンパンマンがバイキンマンに言うフレーズ、「イタズラは許さないぞ!」というのは、罪深い行為を軽くいなしたような表現だから宜しくない、と以前に書いた。バイキンマンにとっては単なる悪ふざけ。だが、ほとんど殺人未遂か傷害か、犯罪のオンパレードだ。それをイタズラやフザケの一言で表現することは考えものだ。生徒を自殺に追い込むイジメであっても当事者は、ふざけただけと言い訳するのと同じだ。

店で悪ふざけをする連中は、規範意識が低く想像力が欠けている。その淵源には小さい頃から親しんできたアンパンマンがありはないかと、私は心配している。

さらに悪ふざけの心理には、「いいね!」があるのではないだろうか。ネットで注目を集めて多くのいいね!を得るために過激な行動に走る。あとさき考えない。そんな心理があるのではないかと想像している。

受けをねらって悪ノリが過ぎて、事件になり解雇され、社会的制裁も受けるというのでは、あまりにもバカらしい。それでいて取り返しがつかなくなり絶望にうちひしがれる。悲しい結末だ。
生きるべし狼か人かを選択し [2013年08月25日(Sun)]

__tn_20130825224403.jpgひとには無限の可能性はない、ということを考えさせられた。『おおかみこどもの雪と雨』(細田守監督)を観た。

≪学校では教えないこと(中略)は何かというと、「君にはこういう限界がある」ということです。そもそも人間が生きているかぎり、多かれ少なかれ限界や挫折というものは必ずやってくるものです。
 それを乗り越えるための心構えを少しずつ養っておく必要があるのですが、いまの学校では、「君たちには無限の可能性がある」というようなメッセージばかりが強くて、「人には誰にでも限界がある」「いくら頑張ってもダメなことだってある」ということまでは、教えてくれません。≫
 (『友だち幻想〜人と人とのつながりを 考える』菅野仁著,ちくまプリマー新書2008年)

花と愛し合った「彼」は、おおかみおとこだった(最愛の夫に名前を与えない、これは究極のシングルマザー物語だ)。二人に子どもが生まれた。姉は雪の日に生まれたので雪と、雨の日に生まれた弟は雨と名づけられた。彼は父としての役割を十分果たすことなく死んだ。ひとりぼっちになった花は、ひととおおかみの両面を持つ子どもたちを育てるため奮闘した。ひととおおかみを瞬時に行き来できる雪と雨。秘密を抱え込んだまま都会に住めないと考えた花は、隠れるようにして山里に移り住んだ。里での暮らしは人びとに助けられながら、それなりにうまくいくようになった。

子どもたちは小学生になった。子どもたちに「おおかみとして生きるか、それともひととして生きるのか」という岐路がやってきていた。当人たちは幼いなりに悩み、花は母としてはもちろん、彼の分身としての二人をどう育て「実社会」へ送り出していくのかと、煩悶する毎日だった。

おおかみにも、ひとにもなれる可能性をもつということは、反対にどちらも選択できないことにもなりかねない。選択肢が多いということは一見すれば幸せのように思えるが、一方の可能性を切り捨てて他方を選んでうまくいかない場合に、強く後悔することがあり得る。経済学でいうところの機会費用の喪失というやつだ。もしもああしていれば…と苦しいスパイラルに落ち込んでいくことだってある。豊かになった現代社会では 何にでも選べそうな錯覚を起こさせて、その結果全てのひとが戸惑いにぶち当たる。そうした悩みを映画は言い表していると思った。

シングルマザーの辛い実態を描いていた。虐待の一歩手前でぎりぎりに踏みとどまる世の母たちを代弁するかのような記述もあった。花は、経済的問題や世渡りの問題を母の強さだけで解決してみせた。移り住んだ山里で周囲の援助で解決できた部分もありはしたが、実はおおかみ…という秘密をかかえたままで周囲が理解することは、おそらくあり得ないだろう。母は強しという母性愛だけではいかんともしがたい現実がある。子育ては社会全体ですすめるべしというあり方論も、この映画は表現している。

姉はひとに、弟はおおかみに向かって生きる方向を定め、物語は感動的に収束を迎える。ひとはなりたいものになるのか、なるようになるのか、周囲の言うままにさせられるのか。数々の選択の果てに理想像をつかみ取るのか、それとも理想は遠い果てにあるものか。そんな課題をつきつけられた気がした。
殺すのも盗むもダメは理由あり [2013年08月24日(Sat)]

__tn_20130824185607.jpg以前、なぜ人を殺してはいけないの?という学生の質問に絶句して答えられなかったというテレビ番組をめぐって、議論がわき起こったことがあった。人間何をしようと自由だ、けれど殺せば罰せられるから殺さない。人の命は重い、だから殺してはならない。殺人はダメという規範がある現代社会に暮らす限りは殺人はいけない・・・・・。いろいろな論点があったが、ひとが死ぬことの情報は現実でもバーチャルでも溢れかえっている、どうせ誰もがいずれは死ぬんだし、別に殺したっていいんじゃないの?という無邪気な問いに対し十分な答えを与えることはできなかった。ところがここに答えはあった。

≪自分の気分しだいで勝手に人を殺していいということになると、今度は自分がいつ殺されるかわからないということにもなりうるわけです。ですから、「殺すな」は結局自分が安全に生き延びるという生命の自己保全のためのルールと考えられるわけで、別に世のため人のためのルールと考える必要はないのです。
 「盗むな」もそうです。盗んでもいいという社会では、自分の持物・財産がいつ盗まれるかわからない。「殺すな」が守られない場合と同様、とても不安定な状況になってしまう。だから、「盗むな、殺すな」という社会のメンバーが最低限守るべきであると考えられているルールは、「よほどのことがない限り、むやみに危害を加えたりせず、私的なテリトリーや財産は尊重しあいましょう、お互いのためにね」という契約なのです。
  こうした観点から「いじめ」の問題をあらためて考え直してみると、誰かをいじめるということは、今度は自分がいつやられるかわからないという、リスキーな状況を、自分自身で作っていることになります。
 いじめるか、いじめられるかを分けているのは、単にその時々の力関係によるもので、いつ逆転するかわかりません。無意味に人を精神的、身体的にダメージを与えないようにするということは、自分の身を守る、自分自身が安心して生活できることに直結しているのです。≫
 (『友だち幻想〜人と人とのつながりを考える』菅野仁著,ちくまプリマー新書2008年)

なぜ殺そうとしてはいけないのかという問いへの答えだけでなく、人を傷つけることが社会や他人のみならず、自分自身に対しても害をなすことへの簡潔な答えがここにある。
雨が降る乾いた大地に染みいって [2013年08月23日(Fri)]

__tn_20130823184052.jpg松江に雨が降った。もう三週間ぶりの雨だろうか。北陸付近に発達した雨雲がかかっており、山陰沖からこの辺りまでも雨雲が広がってきたものらしい。乾いた地面が濡れていく。水が染み透っていく。水不足に終わりがくるのだろうか。そうあってほしい。

おやっ?強い雨だ、強すぎる。降りすぎは困る。あらぬ被害が出てしまう。それは勘弁してほしい。滝のような雨、道路は徐々に水がたまって靴の中まで濡らしてしまう。もういい加減にしてくれよ。あすにかけて日本海側を中心に激しい雨が降ると予報は告げる。

この夏、あちらこちらで人びとを困らせて悩ませて、時には死に追いやったゲリラ豪雨。ひどい被害をもたらした。もうごめんだ。雷鳴がとどろき稲妻が走る。経験したことのないと表現される雨が降って、人びとを悲しませた。一方で小雨、水不足に悩まされる地域も多い。

局地的なゲリラ豪雨に際し、命を守るためには何をしたらよいのか。天気警報や自治体の防災情報を確認すること。自分だけは大丈夫と軽く受け流さずに、安全な場所に避難する。車で逃げるのは危険。30センチの水かさでエンストし、ドアも開かなくなる。考え過ぎだった、大したことはなかったとあとで思ったとしても、それはそれでいい。命は一つしかないのだから。油断せず十分な注意が必要だ。

さて、用を済ませて外に出ると雨が止んでいた。大橋川沿いの柳並木のもとを歩いた。突如、脳天のつむじを滴が直撃した。ああぁ雨って気持ちいいー。

(写真は、しばらく前の米の花。もうじき実りの季節だ)
暑さゆえ疲れゆえにか首痛い [2013年08月22日(Thu)]

__tn_20130822205418.jpg首を痛めた
夏の疲れか、寝違えか
重い重い、だるいだるい
目が重い、眠い
頭の働き悪いかな
足の歩みがとろとろに
本を読みつつ目が閉じる
列車に乗りつつ舟をこぐ
夏の疲れよ、夏バテよ
暑さが身に染む惨い夏
朝に比べりゃ幾分ましか
それとも痛くなってるか
酒に酔った身判別つかぬ
首は大事よ大切よ
脊髄がスカッとせねば力が出ぬぞ
ぐっすり眠って今晩は
回復期待し眠るぞひたすら

(写真は力感あふれる恐竜カボチャ。食べられないが、仏陀の頭蓋のような)
我慢して乗り越えてこそ楽しみな [2013年08月21日(Wed)]

__tn_20130821221323.jpg≪世の親は、子供の願いをなるべく多く、できればすべてかなえてやりたいと思っているのではないか。子供に何かを我慢させるのは、親としてふがいないとでも思っているのでは。
 とんでもない話である。ほしいものはすべてが手に入る人間なんていないのである。人生は、たくさんの我慢と、ちょっぴりの何かが手に入った喜びでできている。それで、明日も頑張っていける幸せ感が持てるのである。
 我慢しなきゃいけないのは不幸だ、と考えてしまったら、その人の人生は不満の塊であろう。何もかも面白くなくてイライラするしかない。≫
 (清水義範著『行儀よくしろ。』ちくま新書,2003年)

今日は面倒なことがあって、「くっそ っ!」と何度か思ってしまった。くそっと、口に出してしまうと、心がすさんでくる。負のスパイラルに落ち込んでしまう。我慢しなけりゃいけないことを、乗り越えたりやり過ごしたりすれば、なんとかなる、面白くなると考えていこう。少々のことでキレたりしてはいけないよ! わたしも子らも。
着飾ってごちそう食べてハレとケよ [2013年08月20日(Tue)]

__tn_20130820183541.jpgかつて、私たち日本人は特別な日に、着飾ってごちそうを食べて人に会って、普段はしない経験をしたものだった。そうした非日常を「ハレ」と呼んで滅多にないワクワク感に身をおき、時によっては日常をかなぐり捨てて新しい自分を発見したものだった。そんなときには周りも大目に見てくれた。

その分、平常のときである「ケ」は地味なものだ。着るものも食べるものも質素で、突飛な行動は後ろ指をさされ、許されなかった。年のうち大半を占める日常を、ハレの日が早く来い!と、特に若者は待ち望んでいたかもしれない。

しかし今やほとんど毎日がハレとなった。質のいい服を着て装飾品で身を飾る。家に帰れば好みの調度品に囲まれて満足だ。安くても美味しいものが好きなだけ食べられて、少し奮発すれば素敵な環境で豪華な食事にありつける。そのあげく、ダイエットに励まなければならない始末だ。ケは消えてしまったかのようである。

≪「消費者が食べ物にわざわざお金をかけるのは、(1)身体にいい食べ物 (2)ハレ(非日常)の日に食べるイベント食 (3)自分にとって大切な人と一緒にする食事―の3パターンがある」と話すのは、丸千千代田水産専務の石橋剛本部長。最近、景気に明るさがみえてくるにつれ、(2)の傾向が際立っているらしい。「ケ(日常)の日にはまだ節約志向だが、ハレの日の食べ物にはお金をかける家庭が増えている」。まずはイベント食に注目するのが、水産消費復活の早道か。≫
  (日刊水産経済新聞13年8月6日付け「記者席」)

と、しばらく前の新聞にあったのだが、イベント食として、魚を主体として取り入れてもらえるといいと思う。ただ心配なのは、魚がハレの日の食べ物となってしまうと、ケの日には目が向かなくなってしまう。今や動物の肉よりも減ってしまった魚肉の消費を増やすためには、ふだん気軽に魚を食べるようにならなければ、全体的な消費量は増えていかないだろうと私は予想している。
おやおやや空気が変わり秋始まった [2013年08月19日(Mon)]

__tn_20130819193250.jpg今日も暑い一日でした。暑い熱い、あぁじぃ。
朝の通勤途上、道路のアスファルトはすでに熱くなっていました。灼熱の太陽が今日も容赦なく人間を炎熱にさらします。
日陰に入ります。おやっ? どことなく爽やかです。日を遮ると暑さが和らぐのです。
空気が昨日とは代わりました。澄んでいます、清らかな感じがするのです。湿気が減ったのでしょう。秋が来た気配が漂っています。
北山がよく見えました。南の中国山地に連なる山々もくっきりしています。伯耆大山のシルエットも久しぶりに見えるではないですか。
空が青いのです。昨日までどよんとベールをかぶせたように淀んでいた空がブルーです。雲もキリリとしたようにしゃんと見えています。
日陰と日なたがくっきりしています。木々の緑が優しく目に入ってきます。柔らかいアースグリーンです。あっ赤とんぼが飛び回っています。
まだまだ暑さは厳しいかもしれません。それでもあと十日で九月がやってきます。秋の始まりでしょう。今も秋はそこまで来ています。秋の物語がこれから始まります。
女郎花や萩が咲いています。秋の虫は盛んに鳴いています。明け方はだいぶん涼しくなっています。秋の風と日光はもうじきです。待ちましょう、そう遠くはないのですから。

(今夕の夕雲。天女の羽衣のような肌あい)
少年は憎き戦争同化せず [2013年08月18日(Sun)]

__tn_20130818100453.jpg映画『少年H』(原作:妹尾河童、監督:降旗康男)は太平洋戦争直前から終戦直後までの神戸を舞台に、エッチこと肇少年の目で見た戦争を描いている。洋服を仕立てる父(水谷豊)が回すミシンの音がリズミカルに響いてくる映画だ。

ヴェルディの歌劇リゴレットの「女ごころの唄」。小栗旬扮するうどん屋の兄ちゃんが「風の中の羽根のように/いつも変わる女ごころ」と鼻歌でうたう。そしてレコードを肇に聴かせてくれる。肇は大人の世界をかいま見るだけでなく、苦難と暴力だけを押しつける世の中は、非常時であるとはいえ間違っていることを体で感じていく。また、女形のオトコねえちゃんなど、価値観がふつうとは隔たる人には住めない戦時体制であった。これは純粋な母(伊藤蘭)にとっても同様であり、無垢な母を父が一生懸命守っていくのが印象深い。

平時もそうだが、戦時下にはいろいろな人間がいる。大本営発表の勝利を信じ日本の正義を確信している者。ひたすら忠君愛国で行動し、馴染めない他者を非難し脅迫する者。時流に乗りイヤな奴らが多い。いじめられたり非難されることを恐れ、空気を乱さず鳴りをひそめる父のような者。正直に疑いを口にしスパイ扱いされ苦しむ肇のような者・・・・。しかし、昭和20年の8月をもって天地はひっくり返った。

神戸も大空襲を受けた。焼夷弾の恐怖が描かれた。ヒュルヒュルヒュとすすり泣くような音は、大輪の花を咲かせる花火が打ち上がるときと同じ音。爆撃機から投下された焼夷弾のまとまりは高い位置で花火が弾けるように高速度で広がる。瓦屋根を突き破り地面に突き刺さると同時に爆発し炎を散らす。燃え広がり木と紙でできた家屋を燃やす。人間を直撃すれば一撃で死ぬ脅威だ。隣組で訓練したバケツリレーなど用を為さない。

そして敗戦。父も肇も戦争というものの理不尽さを十分理解していたにもかかわらず、次の道に進めないでいた。父は肇に折りにふれて伝えていた。自分の目で見て考えよ、でも戦争のうちは表現するのではないよ、じっと我慢だよ、と。いつもひと言多い肇は正直に疑問を呈して陰口を言われるばかりか、暴力を受け特高警察に密告までされたあの日々はなんだったのか。

家を焼かれた一家は避難住宅に移り住むが、父は腑抜けになった。天皇陛下万歳、鬼畜米英と叫んでいた人々が臆面もなくアメリカ人相手に商売をする姿を見て、肇も反抗的となり無気力となった。だが、父はミシンを動かして服を縫い始めることによって蘇った。手を働かし体を動かすことが復活への道筋となったのだ。15歳となった肇も好きな絵を描く道に入って働き始める。その始めるという行為によって閉じられた心が動き、新しい展開が起きる。「肇」が「始めた」という単にシャレではない。行動することがいかにマイナスの気持ちを吹っ切り、新しい地平に立つことができるかがわかる。

(写真は、松江イングリッシュガーデンのルドベキア)
エジプトは民主選ぶか独裁か [2013年08月17日(Sat)]

__tn_20130817222508.jpgエジプトの混乱は続いている。暫定政府は1カ月間の非常事態を宣言し、都市部では夜間外出禁止令が出されているものの、前大統領モルシ支持派はこれを無視して各地で衝突する。治安部隊はデモの発信地となっている野営地の強制排除に乗り出し武力による攻撃を行い、「目には目を」でモルシ派は抵抗する。両陣営の死者が六百人以上というが、これは控え目な数字であろう。エジプトは内戦状態となった。国連安保理が暴力の停止と自制を求める宣言を出しているが、功を奏していない。

チャーチルの言葉に「民主主義は最悪の政治形態であると言える。これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば」という逆説的なものがある。啓蒙家ルソーも「わたしは止むを得ず民主主義を選ぶ」と言っている。独裁者が優秀であればあるほど独裁体制は効率的であり、国は発展する。だが間違いもあるし、権力の魔性に取り入られて狂ってしまうこともある。ヒットラーがそうであるし、独裁が多くの人々に害を為してきた歴史的例はあまりに多い。エジプトの前ムバラク独裁もそうであろう。

ムバラク体制を嫌った民衆は民主主義を選び取り、その代表としてモルシを当選させた。ところが、暮らしは一向に楽にならない。社会的な理不尽さは解消されない、という理由で多くの民衆が不満を露わにして反モルシとなった。結果として軍部に乗じられてクーデターを引き起こしてしまった。

エジプト人民は民主主義に性急な結果を求めたが、それは幻想であった。民主主義とは「最悪な政治形態」とは言わないが、最悪の選択を避けるためには少し時間がかかるけど我慢しようよ、となだめ合わなければならなかったのだ。一気呵成に社会体制を叩きつぶして、革命的に新秩序をつくることは衝突を生み多くの犠牲を出す。それは避けたい。辛抱強い改善が必要なのだ。
ゆら揺らぎつくづくボウシと鳴くかいな [2013年08月16日(Fri)]

__tn_20130816185950.jpg西陽を背にして歩く。アブラゼミの音であたりはいっぱい。ジーコジーコ ジージージー ジンジンジージー。

ツクツクボウシも鳴いている。由来は「ツクツクボーシ」と鳴くその声よ。さらに一説、「夏が終わるよ、つくづく惜しい」ツクヅクオシイ、ツクツクオーシ、ツクツクボウシ、とな。

秋が来ちゃうよ、つくづく寂し。夏が行くよと、ツクヅクボウシ。「ツクヅクボーシ、ツクヅクボーシ、ツクヅクボーシ」

あれまあ、ところでこの真夏、惜しいかな? 行ってしまう、つくづく惜しいかい? いやはや、とんでもないこった。できれば早く、つくづく早く行ってほしいよ。涼しさとって代わってな、適度な雨もつれてきて。

ところでこんなに聞こえない?
「スウィーッチン スウィーッチン スウィーッチン スウィーッチン スウィーッチン スウィーッチン スウィーッチン…スピーヨ スピーヨ…グジュジュ…」

夏の終わりのツクツクボウシ。お盆が過ぎたら鳴き出すと、昔はそうだと思ってた。ところが今は夏の盛りに鳴き出すぞ。盛夏に鳴くと決まってた、ミンミンゼミは鳴きません。晩夏のころに鳴き出すぞ。絶滅危惧種と思いきや、夏の終わりにかしましい。

自然の妙か、気候の乱れかわからぬが、セミの世界も変わったよ。まだまだセミの季節は続く。このかしましさ、なくす時きっと寂しさつのります。
一心にタイプの響き鎮魂に [2013年08月15日(Thu)]

__tn_20130815074509.jpg今やワープロにとって代わられたタイプライター。タイプはミスすると修正液で白く塗りつぶさなければならないし、行の追加はできないから書き直しが面倒だ。ところが印字に表情がでる。強いタッチで紙を叩けば強い感情が現れ、弱くなでれば優しさが表現されておもしろい。英文タイプが効果的に演出された映画だった。映画『終戦のエンペラー』はハリウッドがつくった昭和天皇もので、テーマは天皇に戦争責任があるやなしやであった。

マッカーサー元帥との対面で天皇(歌舞伎の片岡孝太郎)は開口一番、「戦争遂行の全責任は自分にある」と言い切り、国民に罪はないと嘆願した。その潔さに応えマッカーサー(トミー・リー・ジョーンズ)は、「あなたの力を借りたい、日本の再建のために」と心を許しあう。片岡の所作に話し方、昭和天皇そのものになりきった名演だった。ジョーンズは豪快さに大統領を狙う欲得も混じり合わせながら、ヒーロー独裁者マッカーサーを表現した。「場の空気」という言葉は出てこなかったが、白黒つけずに物事が進む日本という国の不思議さを、観客にわからせる重要なシーンでもある。

その場面に至るまで、スクリーンでは主役のフェラーズ准将が何度も打ちかたタイプの紙を丸めて捨てる。わずか10日で、天皇の戦争責任の有無を立証すべしという任務を遂行しなければならなかったからである。米本国の思惑どおり天皇を処刑すべきか、一部の証言に従ってお飾りの天皇に権限はなかったとして訴追すべきでないと報告するか。行ったり来たり呻吟するなかに、開戦前まで恋人同士だった島田あや(フィクションだが、初音映莉子の気品ある姿が魅力的だ)との思い出がリフレインされ、彼女の消息が少しずつ明らかになるうち彼の思いと交錯していく。

開戦の決定という国家の存亡を賭けた決定にあっても、空気が支配した。原爆投下以降、国民を塗炭の苦しみ陥れた原因を取り去ろうという段になってまで、国民がすべて玉砕してでも戦い切ろうという空気を天皇は破った。権威しかもたない最高権力者として、最初で最後の英断をなした。同時にそれは「神」としての存在をかなぐり捨てることであり、暴走する「個人」とみなされることとなる。犯さざるべき統帥権を乱す元凶として、天皇失格の烙印をおされる可能性もあった。事実、玉音放送の15日未明に皇居は一部軍部によって占拠されかかったのである。

日本は敗者となって裁かれた。植民地支配は西欧列強の模範に従ったまでである、戦争の勝者が同類の罪を犯した敗者を開戦時にまで遡って裁く道理はない、アメリカが無差別に一般住民を爆撃し原爆まで投下したことは人間の道を外れていることは明らかだ。そんな意味のことを近衛文麿に主張させる。日本軍は中国戦線で、また捕虜の扱いにおいて残虐行為があったことは確かである。この映画ではそのことに言及がなくて不公平だとする批判は一面正しい。

のちに戦争犯罪人は検挙され、A級B級C級に分けて裁かれた。天皇には戦争犯罪がなかったとの立証はされなかったが、国家の象徴としての役割を果たして戦後の復興は果たされた。

この映画の主役はフェラーズ准将のタイプライターの音だったような気がする。開戦以前に恋人あやとともに日本人の本質を論文にまとめて共にタイプを叩いた。終戦後は天皇の戦争責任をめぐって悩みつつ紙を送った。そのたびにある時はリズミカルに、またある時は途切れつつタイプの音が響いた。

今日は68回目の敗戦の日、終戦記念日である。自衛の戦いを逸脱する集団的自衛権を求める思惑、戦前回帰の良からぬ動きも併せ、騒がしい鎮魂の一日となる。
戦いに戦いきって死か生か [2013年08月14日(Wed)]

__tn_20130814205503.jpg「そのとき守るのは、家族か、世界か」という日本版ポスターのキャッチ。ブラッド・ピット主演の『ワールド・ウォーZ』を観て震えあがった。彼は家族を守れた。世界を守る成果もあげて戦争は終結への道筋がつく段階までいった。めでたしであるが、家族を失い、自らも犠牲になった何億もの人が生じてしまった悲惨な物語である。

アルファベット最後の文字「Z」、おそらく最後の究極の世界戦争を意味しているのだろうが、よもや人間があんな敵と戦うことになるとは、架空の話ながら背筋がぞくぞくと、怖いシーンでは目をそむけそうになった。映画館を出たあとに、背を丸めてのっそり歩く人を見ると、私は思わず避けてしまったのだった。

狂おしいまでに暑かった昼間の熱波は穏やかになり、涼やかな風がぬけていく。揺り戻しはあるかもしれないが、秋は近づいている。それにしても、今年の夏がおぞましく苛烈であったことよ(まだ終わってはいないが)。人間同士が戦う世界戦争は、核の脅威もあって起きる可能性は低いかもしれない(なんて楽観的!)。しかし人間がその活動でもって直接間接に引き起こす地球温暖化などの脅威。地震や小惑星衝突、地軸のズレ、新病原体といった未知の脅威によって世界戦争並みの結果が引き起こされる可能性はある。事実地球の歴史では、恐竜をはじめ多くの種が滅びてきたのだから。なす術はないのだが、そんな危機感を起こさせてくれる怖い映画だった。
秋の虫眠りを誘ういい声で [2013年08月13日(Tue)]

__tn_20130813215156.jpg高知・四万十で史上最高気温の41℃を観測した昨日は、松江や出雲でも暑かった。
昼に外へ出れば沸騰しそうに、肌が焼かれそうに不快感が増してきた。
夜、ウオーキングに出かけるとモワッとした空気。時折さらに熱い空気で体が包まれた。
星が見えにくい。月はまだ細いのに星がよく見えないのは空気のせいだ。
雲にまでは発達することはなくても厚い水蒸気が、地上も空も覆っていた。

今夜は少し違うぞ。夕方から心なしか冷たい自然の風が家に吹き込んでくる。
シューズを履いて外に出ればなにかしら空気が違う。
三日月がくっきり見える。白鳥座から鷲座をへて射手座にいたる天の川が見えている。
未明にかけてペルセウス座流星群が今夜もよく見えるかもしれない(私は起きないが)。
クツワムシがガチャガチャギャルギャル鳴いている。
100年前のモーターのように規則的にうるさく鳴いている。
マツムシがチンチーンチンチーンと鳴いている。
しとやかに大人しく、かつ存在はしっかり主張しながら鳴いている。
スズムシがリーンリーンリーーンと鳴いている。
鈴の音より涼やか気品に満ちて鳴いている。
コオロギはいろんな声でさまざまに鳴いている。
ピヨピヨシャーシャージャワジャワシクシク鳴いている。
街灯のあかりで昼と勘違いしたのか、ツクツクボウシも鳴いている。
ツクツクボーシを繰り返し、ウイヨースと酔っぱらいのよう。最後に寝入ってジー・・・・と終わる。
さて今夜は涼しく眠ることができるだろうか。
夜に眠れれば昼間の暑さはなんとかしのげると思うのだが。。。。
日本一シジミ守れやジメツせず [2013年08月12日(Mon)]

__tn_20130812181441.jpg8月10日付けの山陰中央新報に、宍道湖の西岸で覆砂(砂を広範囲に数十センチの厚さに敷き詰める)してシジミの増殖を期待するという記事が載った。

≪シジミの不漁が続く宍道湖で、国土交通省出雲河川事務所が、西岸付近の東西600メートル超、南北50メートル超の範囲で湖底を覆砂することが9日、分かった。斐伊川河口のしゅんせつで出る砂を使った、過去にない規模の覆砂でシジミの生息環境改善を進める。8月末にも始める予定で、漁師らは漁獲回復に向けた取り組みの加速を期待している。≫

シジミの漁獲量はかつて12000トンにも及び全国一の名をほしいままにしていた。徐々に少なくなり、一昨年から青森・十三湖にその座を譲り、昨年は1700トンにまで落ち込んでいる。今夏の資源量調査では少し回復した模様ではあるが、過去の栄冠を取り戻すのは容易ではない。

ところで記事によると、≪今年は塩分濃度が高く、宍道湖の西側を中心に良好な産卵状態が続いている。生まれたての「浮遊幼生」が着底して成育できる環境を覆砂によって整えられれば、将来の漁獲回復につなが≫るとのことだ。

確かにこの春以降、大橋川沿いを歩くと磯の香りがする。松江大橋を渡るときにシジミ掻きの舟がザクザク音を立てる風情に潮の匂いが加わると、いかにも松江らしさを演出できる。好ましい匂いのひとつである。ところが、磯の香りは腐臭なのだそうだ。海のロマンが打ち砕かれた思いがした。知らないほうがよかった。

自動車を走らせ海岸が近づくと窓から入ってくる磯の香り。子供の頃に帰ったような懐かしさ、生命の原初を生み今も地球を支える海を感じる気分になる。それが腐る臭いであるとは何とも悲しい。その正体は、ジメチルスルフィドという硫黄化合物。「自滅する散るふぃどい(ひどい)」と語呂合わせをしてみよう。プランクトンの死骸や海藻が腐るときの匂いは、腐った成分が海に帰り次の生命へつながる母なる匂いだと考えていけば、まんざら悪いことでもなさそうだ。
挨拶を交わして暑い暑すぎる [2013年08月11日(Sun)]

__tn_20130811204020.jpg今時あいさつは楽チンだ。特にこの夏は簡単だ。「暑いですね」と言っておけば間に合う。誰も異を唱える人など日本中にひとりもいないだろう。暑いよ暑い、暑すぎる。けれども爽やかだ。

嵐のような風がきて湿気を飛ばして爽やかだ。
澄んではいないが明るい空見て爽やかだ。
高い空に絹雲や羊雲を見て爽やかだ。
夜になったら天の川は見えないが見えるの想像して爽やかだ。
緑は深しみずみずしくて爽やかだ。
過ぎたるは及ばざる如しだが雨を集めて川は爽やかだ。
朝はヒグラシ昼はアブラゼミ夕はまたヒグラシで夜は秋の虫が鳴いて爽やかだ。
夏休みに入った学生たちは涼やかに軽装で街を歩いて爽やかだ。

どんなに「爽やかだ」と強気に言ったとしても暑いものは暑い暑すぎる。「暑いですねえ たまりませんねぇ」と愚痴をこぼしあうことにしようか。
輪廻して復讐劇よボリウッド [2013年08月10日(Sat)]

__tn_20130810193918.jpgボリウッド映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』を島根県民会館で観賞した。きらびやかな衣装、豪華なセット、キャストはゴージャスな美女揃いにして派手はでしく華麗な踊りに歌。世界中から集めた金銀宝石類をひっくり返したような映画だった。そこには当然熱烈な恋がある・・・・可愛らしくも目を奪われる美貌の舞姫がシャンティ(女優は新人とは思えないディーピカー)、主役オームを演じたのはシャー・ルク・カーン。ボリウッドのスーパースターだそうだ。かつて観た『恋するマハラジャ』もそうだが、インドでは細身でないがっちり系の俳優が人気を集めるようだ。

筋はともかく、恋を語り、人生に開眼するシーンがやたらと脈絡なくつながっていく印象もあるが、テンポよく飽きさせない3時間弱だった。お涙頂戴もあって楽しめるエンタテイメントミュージカル映画だと思う。

輪廻し生まれ変わるオームとシャンティ(シャンティは転生の設定ではなかったが明らかに瓜二つ)。ヒンズー教なり仏教の生命観を表現している。少々都合のいい輪廻ではあるが、映画界に仏陀が降臨してきたと解釈しておこう。二人の主人公の復讐は果たされて賑やかにエンドロールが流れる。ニコニコと楽しく過ごした3時間弱だった。
うだる日々課題忘れてぼおとせず [2013年08月09日(Fri)]

__tn_20130809192041.jpg立秋過ぎても警戒すべき猛暑に陰りはない。炎熱で人を焼く。蒸した湿り気で夜中に人を眠らさない。上海など中国南部ではもっと暑いとニュースは伝える。大平洋高気圧と海からの風が人を悩ます、困ったものだ。

世は夏休み。来週からお盆休みで街中は華やぎつつも弛緩した空気に満たされている。休みモード満開でもやるべきことはやらなければならない。課題は放っておいても解決しない。着実に前に進むしかない。挑戦していくしか前へは進めない。

≪伸一には、成すべき課題が山積していた。しかし、今、この瞬間にやれることは一つである。たくさんの課題を、時間という縦軸に置き換え、一瞬一瞬、自身を完全燃焼させて、全力でぶつかっていく以外にない。未来は「今」にある。勝利は「今」にある。≫
 (新・人間革命「奮迅」の章,法悟空著,2013年)

そうだ、勝負は今にかかっている。今がチャンスだ。ひとつ一つをやり遂げていくしかない。そして、いつやるか? 今でしょ! 今しかないのだ。
パリを追う狂気の暑さゴッホ展 [2013年08月08日(Thu)]

__tn_20130808225510.jpg売れる絵を描こうとしたフィンセント・ファン・ゴッホ。陰鬱でテーマが地味だったゴッホが、パリでタッチを変えた。光と影を対比させつつ明るい色調で絵を描くようになったという。パリ時代は1886年冬から1888年の冬までの2年間。そのころの自画像を観ると30歳代の前半にはとても見えない。世の苦労をすべてしょって立つかのように重い表情をした50代の男がいる。一方、絵で成功したいという野心も十分見て取れる。

広島県立美術館で開催中の『ゴッホ展〜空白のパリを追う』を鑑賞した。美術展に行くとわたしはたいてい、順路に従って終わりまでざっーと眺め歩く。これは好きだ!という絵を何点か選んでおいてじっくり観る。好きなやつを存分に観てから最初に戻る。時間があればすべての説明書きを読み込みながら絵を鑑賞していく。絵が多い場合はちらりと見るだけで去る絵も多い。

今回のゴッホ展では目を引く絵が少なかった。なんせ、有名なひまわりの絵がないからだ。炎の画家を象徴するひまわりや燃え立つような教会の絵は、パリ以後アルル時代のものであることを今回知った。わたしの好みに合ったのは、印象派風の「サン・ピエール広場を散歩する恋人たち」と今展ポスターに使用された「グレーのフェルト帽の自画像」、麦わら帽をかぶる弟を描いた「テオ・ファン・ゴッホの肖像」だった。

説明書きに次のようにあった。
≪ファン・ゴッホは、前もって計画を立てたり、考えをまとめたりせず、一気呵成に制作する衝動的な天才と一般的に思われている。しかしそれは本当だろうか? 実のところ、彼の絵の表面の下層部分を調べてみると、肉眼では見えない入念な準備段階が隠されていることが多い。≫

パリ時代には理性的に形式を整えつつ、題材や画材も試行錯誤しながら、印象派や日本の浮世絵にも学んだファン・ゴッホ。遠近画法のために使うパースペクティブ・フレームも使ったという。

≪「理想家で頑固な、燃えては消える火のような激しい性格をもつ天才」というイメージ≫。さらに言えば狂気を持ってはじめてゴッホにあの魅力が具わってくると思えるようになった。美術館の3階から見下ろすと縮景園が見える。譜代浅野家が精魂込めて造った回遊式庭園であり、原爆投下後瀕死の重傷者がたどり着いたものの力尽きて累々たる遺骸をさらした庭園である。今はゆったり回遊しながら西洋人が日本を楽しんでいた。平和な景色ではあるが、天気予報が猛烈な暑さにつき熱中症に警戒せよと伝える。狂気といえるほどの暑さが外には満ちている。ゴッホにも一般人には受け入れられない狂気があったものと思う。

(写真はゴッホ展のためであろう、縮景園に育っていた数多くのヒマワリのひとつ)
投手戦思い想われ哲学す [2013年08月07日(Wed)]

__tn_20130807222854.jpg広島カープ対阪神タイガース戦をマツダスタジアムで観戦してきた。ゲームは絞まっていた。前田健太とメッセンジャーとの白熱する投げ合い。特に前田にとって8月6日の特別な日にマウンドを託された投球は格別重いものだっただろう。球は荒れヒットもよく打たれたが、要所を絞めて点は入らなかった。対する阪神のメッセンジャーは7月のMVPに選ばれただけのことはある。あの暑いマウンド条件の中で9回まで球威は衰えなかった。

内野席の上段から眺めていると、プレーする選手たちがいるフィールドと応援する観客席は、世界が違うと感じた。フェンスで隔てられてファールボールが飛び込むときだけは両者がつながる。

カクテル光線に照らされ、球場の色(カープの赤、タイガースの黄)にきらびやかに彩られる中で、矢のように突き刺す投球、ビシッと締まった守備を見ていると別世界と感じるのも無理はない。確かにファンはカープ選手を応援してつながり、少ないながらも阪神ファンは固い絆を保っている。しかし私には明るい芝生と土の上でプレーする選手が、あちらの世界にいるような気がしてならなかった。映画『フィールド・オブ・ドリームス』を思い出したからかもしれない。あの世界に行ってしまった過去の名選手たち、そしてこちらの世界。そんな感覚が生まれていた。

投手戦は哲学だ。投手は負けまい打たれまいと頑張る。味方の援護はない、自分が打たれたらおしまいだ。かといって力みがあるとポカが出る、だから冷静にバックを信じて投げ込んでいく。バッターはなかなか打てないことに歯噛みする。ピッチャーを助けてやりたい、でも凡打の山を築き三振をきっする。たまに塁に出ても次へ進めないもどかしさ。だから色んなことを考える。監督にしても同様であろう。

5回広島攻撃があえなく終わったあとに、ピースナイター2013で吉川晃司が「イマジン」を歌い上げ、平和への思いを球場内で満たした。その後も広島ファンのため息が場内を満たすことが続いた。

点の入らないゲームは辛い。熱狂的ファンにとってはひいきのチームに勝たさせたいのにそれができず歯がゆい。私のように単に観戦するだけの者にとっても退屈で歯がゆい。どうしてもあと一本が出ないもどかしさ。

9回裏広島の攻撃。このまま延長に突入しそうな気配がただよっていたが、エラー2つと送りバントでワンアウト3塁。バッターは凡退続きだった3番丸。しかし、丸の執念か、原爆の日に球場を9割以上埋め尽くしたカープファンの祈りか、打球はセンター深くまで飛び、ランナーのルイスは楽々とホームイン。広島のサヨナラ勝ちとなった。

終了後球場から出る多くのカープファンは満足そうだった。哲学しすぎて疲れたことと思う。勝ってほしい、いや絶対勝ってくれるさ、それにしても凡打ばかりでメッセンジャーを打てないなあ、このまま終わるんじゃあないだろうか、いやいや勝つぞ何としてでも‥‥と。彼らは(女性ファンが半分近かったかも)ほっとして帰り道についていた。近くのコンビニ・ローソン。カープ仕様で赤く染められた店舗は赤いカープファンに満たされていた。
祈りつつ雲が湧き立つ風立ちぬ [2013年08月06日(Tue)]

__tn_20130806235356.jpg≪それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は手をかけ合ったまま、遙か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生まれて来つつあるかのように……≫
 (「風立ちぬ」ちくま日本文学039『堀辰雄』)

もの悲しく静謐にして虚飾なく、それでいて作者の心中をえぐるように描き出す物語だった。草原をわたる薫風に吹かれながら、ヒグラシの揺らぐ鳴き声をシャワーのように浴びながら、川のせせらぎを聞きながらロッキングチェアでまどろむ‥‥。堀辰雄の文章はそんな豊かさがあった。

ジブリ映画『風立ちぬ』に触発されて、小説『風立ちぬ』を読んでみたのだった。八ヶ岳山麓のサナトリウムに逝った妻節子との療養生活を静かに振り返る「私」には蘇ってくる彼女の面影が悲しかった。「私」はやりきれぬ胸のうちを書くことで散ずるのだった。その美しい記述が読む者の心をゆっくりと揺さぶった。

映画『風立ちぬ』は美しい映画だった。特にキスは自然で爽やかを保ちながらもエロティックな官能をたたえていた。もちろん主人公堀越二郎と奈穂子とのキスだ。簡易だが黒川上司夫妻による心尽くしの結婚の儀 に臨んだ二郎と重い病(結核)におかされた奈穂子。疲れただろ?おやすみ、とねぎらう二郎に「きて」といざなう奈穂子だった。合体シーンが描かれるわけではないが、爽やかなエロスであった。

厚い雲も、明るさと暗さを両面たたえた夕景も、草原をわたる風も、雨降る天気も、緑溢れる生垣も、踏み固められた泥の道も、涼やかなせせらぎの音も、伸びる飛行機雲も、ホテルや家の造作も、なおこの揺れる髪もキリリとした立ち姿も、悠然たる二郎の歩く姿も、作業図面に向かう仕事師たちの真剣さも、イタリアの飛行機設計家カプローニとの夢が描かれるシーンも、すべてが美しい。何よりも飛行機の製造過程や飛行シーンが際立っていた。

もちろん完全であるとは言わない。二郎の妹加代はもっと描いてほしかった。ポニョやとなりのトトロのメイを彷彿とさせる加代の成長ぶり(医者になった)に併せて兄への思慕をもっと描いてもよかった。何より二郎の幼き日を優しく包み込んでいた母の人と成りをもっと知りたかった。それとカストルプとナチスとの関連も知りたかった。クレソンをバリバリと兎のように食ったのが羨ましい(クレソンを食いたくなった。添え物としてしか食べたことがない)。

色々な不満はあるが、久石譲作曲のテーマ曲がいい。最初はマンドリンで、次にチェロやヴァイオリンで。さらにギター、トランペットでも変奏される。穏やかで豊かな気持ちになれる。実在の人物を描いたとはいえ、ファンタジーも織り混ぜられてメルヘンが存分に感じられる映画であった。決してハデな面白さはないが、見終わったあとも心の中で育てていきたいと感じた。

今日は8月6日、広島原爆の日。軍国日本の息の根を止め、核廃絶の象徴となった。「美しい飛行機をつくりたい」と夢みた二郎は美しく優れた飛行機を作った。緒戦であまりにも成功しすぎたおかげで、日本は敗戦への道を駆け下った。それは二郎の責任ではないが、彼の夢と純愛は裏切られた。

それでも、「風立ちぬ…いざ生きめやも」というメッセージを宮崎監督は残した。その意味をじわっと考えていきたい。
にこにこと尻尾を振ってご機嫌に [2013年08月05日(Mon)]

__tn_20130805172008.jpg尻尾を振るという言葉には、相手の言うままに動き、風下に立つ屈辱感がある。イエスマンになり、ご機嫌とりをしてゴマをすり、子分になったかのような弱さを感じるのだ。だから、ひとの意見に異を唱えたり、言葉を遮ったりしがちだ。ところが、この小説のあとがきで著者はこう語る。

≪尻尾を振ろうと思います。突然だな、でも、そう、尻尾を振ろうと思う。
 恋人の肩に触れたとき、眠っている誰かを見たとき、月が綺麗に半分に割れているとき、雲間から光が差したとき、久しぶりに友達に会ったとき、いただきますを言うとき、新しい靴を買ったとき、自転車で立ち漕ぎをするとき、お母さんに手紙を書くとき、皆が、笑ってるとき。私は全力で、尻尾を振ろうと思う。≫

西加奈子著『さくら』は悲しい物語だ。この世の幸せを一身に集めたかのようだった長谷川家。アーモンドの目と柳腰をもった美しい母、若くして広い家を買い仕事師として充実の生活を送る家族思いの父、頭脳明晰でかっこよくモテまくっている兄、母に似て世界で二番目に美形ながら破壊的にワイルドな妹。そして「僕」。その中心にはメス犬サクラがいて、女の子らしく楚々と尻尾を振る愛犬だ。その幸せが崩れていく。家族たちも壊れていく。幸いにもサクラがご機嫌に尻尾を振ってくれるおかげで、皆が新しいスタートラインに立つことができた。

≪「な、な、な、な、な、に、に、に、に、に?」
 今度はミキが扇風機に顔を近づけて、知らない星の言葉を話し始めた。僕のそれが何かごつごつと岩場の多い灼熱の言葉だとしたら、ミキのそれは、透明な水が流れていて、見たことも無いような美しい花や木が生い茂っている、そんな豊かな星の言葉みたいだった。≫

こんなふうに幸せに日常が過ぎる家族に暗転の舞台が用意されているとは痛ましくて、歯噛みしたくなった。そして、小説のもつ豊かな比喩表現に感心しながら読み進めた。

■ふわふわと生えた金色の毛は風が吹くと消えて無くなりそうだった
■ちらりと見える真っ赤な舌は、見たことも無い美味しそうな果物みたいに僕を魅了した
■母さんが世界で一番幸せなら、父さんは宇宙で一番幸せな男
■紫陽花の花びらが散るときみたいな、少し切なくて、そして途方も無く優しい声で
■流れ星を待つ人達みたいに、じいっと天井を眺めた
■女同士、同性の悪口を言っているときの醜い顔ったら無い(中略)何か気味の悪い妖怪みたいで怖い
■長かった髪をばっさりとショートにしていて、若い鹿のような、溌剌とした美しさをたたえていた
■ひとたびミキに見つめられると、雨が降っていることを忘れて裸足で地面を踏みしめたくなるような、不思議な気分になる
■曇り空の浜辺で、雲の切れ間からまるっきり奇跡みたいに差し込んでくる日の光みたいな、母さんの声
■宇宙一幸せに輝いていた男は、今では母さんのタロットカードの死神みたいに、僕らの悲しみや苦しさだけに敏感な男になってしまった
■綺麗な赤が輝いていた唇は、キャラバン隊長の皮膚みたいにごわごわとしていて、涼しげな青が乗っていた瞼は、鬱蒼とした森の影みたいに黒い

ペットが持つ癒しの力に驚くとともに、ご機嫌にしてサクラのように「尻尾を振って」いきたいと思った。
冒険は若さの象徴三人で [2013年08月04日(Sun)]

__tn_20130804213549.jpg冒険者たち』は1967年に公開されたフランス映画。新型エンジンの開発に取り組む中年技師のローランと、パイロットのマヌー(アラン・ドロン)、長く滑らかな金髪をもつ美女で前衛彫刻家のレティシアが主人公だ。彼女が登場するときの軽快で明るい音楽が印象深い。

三人とも挫折した。マヌーは飛行ライセンスを剥奪され、ローランの開発したエンジンは爆発し失敗。大枚はたいたレティシアの個展は酷評され彼女は失意に沈む。厳しい現実を前に三人は一発逆転、一攫千金を狙ってアフリカ・コンゴの海に沈んだ財宝を探した。見事に探し当てるものの、夢追い人ローランとマヌーのモチベーションとなってきたマドンナ・レティシアはマフィアの手に掛かっ てあえなく死ぬ。彼女の夢を代わって実現するために二人は動いた。しかし二人もやがてマフィアに追いつめられ破綻することになる。

青春の破天荒さと物悲しさを描いて楽しい映画だった。男女の間に生まれる友情、その友情が恋愛へと移行していく微妙さ。それらがレティシアの天真爛漫な美しさとあいまって印象が深い。
順番を待ちうち初老に興味もち [2013年08月03日(Sat)]

__tn_20130803123353.jpg散髪の順番待ちをしている。土曜日の午前中は人が多い。勤め人や学生など、ときには子供を連れたお母さんがいることもある。

待つ数人のうちに、初老をとうに越えた男性がいる。背もたれのないソファーに座り膝に肘をついて猫背にしている。何をしているのでもない。寝ているのでもない。ただ前を向いている。細身のメガネをかけた二重の目を見開いて前を見ている。ぼおっとしているようには見えない。

何を考えているのか。退屈を苦にしているようには見えない。指を組んだ手をなでる仕草はあるが、ただ静かに待っている、座っている。長袖の白いワイシャツ、綿のパンツにはベルトはかかっておらず、履き物もよくあるサンダルだが、だらしない印象は受けない。

髪はどうかというと、上3分の2がほとんど白くその下はだいぶん黒い。短く刈った髪の毛は乱れているようには見えないが、お盆の休み前にスッキリしたいのだろう。髭は無精に生えてはいるが、白いので目立たない。

寝るのでもない。本や雑誌を読むのでもない。スマホをいじるのでもない。ひたすら静かに待つ男性になぜか興味をひかれた。そのうち私の順番がきて、少しおしゃべり、そのあと沈黙。何をするのでもない、ただされるに任すだけの時間が過ぎていった。
朝昼とよく寝た夜にまた寝るさ [2013年08月02日(Fri)]

__tn_20130802225048.jpg今日は朝から夏休みをやった
朝寝、おやつに昼寝まで、夕飯あとにまた夕寝
自由気ままに、ダラダラすごす
一週間続いた湿気の強い空気が薄れ
いくぶん空気が乾いていると
寝やすいもんだ、うれしいぞ
それではまたまた、おやすみなさい
朝がきて日が暮れてまた鳴く蝉よ [2013年08月01日(Thu)]

__tn_20130801220957.jpgヒグラシ蝉は寂しげに鳴く。ヒグラシの字は蜩。虫が周りと調えてあたり一帯雰囲気変える。
ヒグラシは、日暮し。そして、日明かし。日が落ちて薄暗くなるころに鳴き始める。明け方もまだ暗いうちに一斉に群で目覚めて鳴き出して、日を明かす。辺りは異世界、まるで幽霊の窟。まるで冥土の土産に持ち帰る音。
怪談話にニイニイゼミでは形にならぬ。クマゼミならば暑くて幽霊逃げ去るだろう。ツクツクボウシでは洒落にもならぬ。林に染み入るヒグラシの声必要だ。
カヤカナカナ…と鳴くと言われるが、シャイシャイシャイ…とも聞こえるし、チョイチョイ…とも表現できる。最も高音で最も速く始まって、徐々にスピードダウン、音程もダウン。波が収まる。
合唱する蝉、群で鳴く。なぜか調子が合っている、合わせているのか、あの蝉は。一匹でも波、集団でも波。声が途切れるころに他も途切れ、間髪おかずに次が鳴き出す。お隣さんに気を遣う。
一匹だけで鳴いてると、二度目三度目音程ちがう。芸の細かさ、うっとりだ。声のゆらぎが癒しを誘う。
実はこのオレ、子供のころにヒグラシなんて知らなんだ。あれは蝉だと知らなんだ。子供のころに記憶なし。カナカナカナカナ…と聞こえなんだか? 知らぬものは存在しない。やはり異世界の主、ヒグラシだ。