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それぞれに映画の楽しみ尽きもせず [2013年06月30日(Sun)]

__tn_20130630215319.jpgビデオレンタルショップのホームページ『ノーサイド』(http://homepage3.nifty.com/nosidehp/)では、『映画の歴史まとめ〜映画通と呼ばれる為の、ちょっといい話』として映画の見方を紹介している。実に参考になる。

≪最初に断っておきますが、正しい「映画の見方」なんてものは、もともと存在しません。「映画の見方」は、十人十色人それぞれ違うものです。人それぞれの尺度があり、見方が違って当然です。私がいくらオススメしても全然つまらなかったということもあるでしょうし、もちろんその逆もあります。ただし面白い、つまらないだけなら最近では小学生でも平気で言います。ただし小学生の言う「面白かった」と通や批評家が言う「面白かった」は、意味合いがまったく違います。通や批評家の言う「面白かった」には、監督の意図を読み取れ納得したとか俳優の演技に感動したなど様々な意味があり、きちっとその根拠を解説することが出来ます。≫

というふうに、謙虚でありながら大胆に「映画の達人」をめざすことを勧めている。このサイトが断ずる映画の評価基準は次のとおり。

 【娯楽作でありながら、芸術的側面が入っていること】
 【人間が描かれていること】
 【印象的なシーンがあること】
 【ストーリー展開だけで面白さを決めないこと】
 【作品の製作背景を考えること】
 【製作者の意図を探ること】
 【作品にパワーのあること】

なるほどと納得できることばかりだが、「製作者の意図を探る」というのは難しい。時代や文化的背景を知ったうえで、製作者の意図を知るのは大変だ。多くはわからずに、まっいいか! 印象的なシーンがあったし、ストーリーにどんでん返しがあって面白かったし、こだわりのセットであの頃を想像できたし云々。要は自分自身が満足できればいいのだから。そして自分が体験したことのないことを登場人物になりきって疑似体験する、独断で解釈してわかったつもりになって満足する、こうした楽しみは映画ならではのステキな娯楽と言える。

さあ、次は何の映画を観ようか。どのDVDを借りてこようか。楽しみはつきない。
透明のマントに隠れて社会なし [2013年06月29日(Sat)]

__tn_20130629132640.jpg透明人間になってみたいというのは少年たちの夢でしょうか。私もそんなことを考えていたことがあります。自由に空を飛び回れる鳥になることも含めて、夢想したことのある人は多いのかもしれません。特に透明人間はあこがれです。職員室に忍び込んであらかじめ答を頭に入れてから試験に臨む。好きな女の子がする友だち同士のおしゃべりを盗み聞く。家での生活ぶりをこの目で確かめる……。そんな良からぬ望みを頭にめぐらせていたものです。とても無理だけど透明人間になれれば何だってできるという確信にも似た妄想はいまでもあると思うのです。

ところが、H・F・セイントの書いた『透明人間の告白』(高見浩訳,河出文庫,2011年)を読むとそんな望みは消えてしまいました。確かに誰にも見られません。自分でも自分が見えません。ですが、身体は触れば実体があり、見えない血も流れれば、衣服だって着ている。誰かにぶつかれば相手は驚くし、雨に打たれれば体がそこにあることがわかってしまいます。透明人間の苦労たるや大変なことだなあと感じます。

≪そこかしこの隅や隙間に逃げ込んで捨て置かれた食べ物にかじりつくネズミのように、いつまでも隠れ場から隠れ場へと逃げまわっているわけにはいかない。そんなことをしているうちに、やがて出口をふさがれ、こづきまわされ、責めたてられ、飢えに苦しんで、ついには万策つきてしまうにちがいない。≫

主人公ニックは唯一自分の存在を知っている恋人アリスにすら、本当のことを明かしません。これも捕まらないための所作なのですが、結局ニックの真実がアリスに伝わってはじめて彼は安息な思いを抱きます。本音を隠して生きることほど辛いことはない、心おきなくおしゃべりできる人がいなければ人間は心を病んでいく、秘密は決してひとりでは抱えきれない……そういったことをこの物語は示してくれているような気がします。

≪マンハッタンの街路をあちこちとびまわっていると、どこへいっても巨大な高層アパートメントがいやでも目に入る。人々が鍵をかけて安全に暮らしている部屋の数々。ふつうの人間たちはみな、あそこで食事をし、酒を飲み、風呂につかり、音楽を聞き、安らかな眠りをむさぼるのだ≫

そして普通であることがどんなに貴重でかけがえのないものであるか、ということもわかってきます。普通の範囲で個性を認められ社会生活を送ることの有り難みを普段は忘れがちになります。ニックは普通の証券アナリストという設定ですが、高級マンションに住んでいます。電車中でエリート新聞記者との情事、透明人間になってからの情事、なかなか刺激的な性描写もあったりはしますが、それらも含めて「ふつう」であることは何だろうか、と考えさせられる小説でした。

昨日同級生を刺して高校生が逮捕されました。千葉・習志野での事件です。直接の動機は、消しゴムを後ろから当てられて頭にきたというものですが、たぶん普段からイジメがあったでしょう。イジメのなかでも当事者を苦しめるのが無視されること。透明人間のように扱われてしまうことだと言います。この世に透明人間はいないほうがよいと私は思います。

(写真は透明感のある古代ハス。荒神谷遺跡のハス池は今朝は撮影者でにぎやかだった)
豊かなら勉強できる贅沢を [2013年06月28日(Fri)]

__tn_20130628215044.jpg同志社大学の浦坂純子准教授はこう述べる。
≪日本はもう十分に豊かです。これ以上、豊かになることに貪欲になれというのもどうやら難しい。(中略)でも、働くことは生きることにつながり、生きることは働くことにつながる。(中略)よりよく生きようと思ったら、働くことは大切にしなければ。働く上で有利な状況を作り出せるのだったら、その恵まれた自分の境遇を活かしましょうよ。
(中略)自分で選択できる余地があるほうが、はるかに可能性を広げることになるのです。バリバリ生きることも、ゆるく生きることも、自分の意思で決定できるほうがいい。迷って、苦しんで、誰のせいにもできずに後悔することが増えても、自分の将来を自分で切り拓くこ とのできる幸せは、想像力を駆使して思い描かなければなりません。そうしたくてもできないことの悲しみを、味わわないで済んでいるのですから。(中略)「何で勉強せなアカンねん」とぼやきながらでも、選択肢を自分で減らすようなことはしない。積極的に増やそうとしなくてもいいから、せめて減らさないようにする。豊かな中で麻痺してしまっている「勉強できる贅沢さ」を、何が何でも実感してください。≫
 (『なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか』浦坂純子著,ちくまプリマー新書,2009年)

大学が学生たちのニーズに応えるというときのニーズとは何だろうか。「簡単に単位が取れて課題は最小限でバイトもできるし楽しい娯楽も提供してくれる。最後にはいい就 職先もみつかる」 かつて大学がレジャーランドと言われていたころはもちろんだが、現在とても最大公約数はこんなところではないだろうか。でも一部の学生は「勉強できる贅沢さ」を満々と湛えて卒業していく。社会人になっても勉強はできるが、やはりうらやましい。
つかぬことなくて七癖口癖か [2013年06月27日(Thu)]

__tn_20130627200540.jpg「つかぬことを伺いますが…」という口上で私に話しかけてくる人が職場にいる。「つかぬこと」と言われると一瞬身構えてしまう。どんな難問を投げかけてくるのか、面倒なことでなければいいな、と思いつつ顔を見て話を聞く。意外にそうでもなくて安堵することが多い。ときには判断できなくて考えて悩み、助けを求めて一緒に動くこともある。要するに「つかぬこと」というのは彼のクセなのだ。

『つかぬこと…』というのは、「今までの話とはつながらないけど(まあ許してよ)」という口上でつながっていく、まあ接続詞のようなものだ。人によっては、ぶしつけなことを聞いて礼儀をわきまえないけど、と同じ意味で使っているのであろう。それまでの話とは関係のないことを出し抜けに話題に出したり、開口一番に直球を投げ込むことだから、英語ではBy the way(ところでねえ…)」と訳せるのかもしれない。

もうずいぶん前に上司から、私の口癖「実はですねえ…」をなんとかしろ、と言われたことがある。どんな打ち明け話で失敗した始末をつけさせられるのかと不安になるというのだ。確かにそうだ。以降、「実はですねえ」はなるべく封印するように努めた。大昔のことだ。

「あの〜……」と語尾が伸びるのも、相手に対し同じように不安を感じさせる言い回しだ。言わなくてはいけないけど勇気が出なくて逡巡している、そんな迷いをズバリと表す言い方だ。迷いはいろんなところに出ていく。言葉に、態度に、表情に、目や口角に。人間だもの、迷うのは当然のこと。迷って悩んで戸惑っていこうじゃないか。
DVD忘れて五輪招致かな [2013年06月26日(Wed)]

__tn_20130626184130.jpg五輪招致に追い風が吹いています。トルコの反政府デモが長期化していたり、スペイン・マドリッドはユーロが不安定でスポンサーの金払いに不安があるなど、東京が一歩リードしたのとの下馬評です。もちろんこれからが本番。柔道界の不祥事は解決していませんし、猪瀬知事の失言は消えませんから。

ポイントとなっているのは、東京の安全性です。都市の治安は大きな要素です。かつてミュンヘン五輪では、パレスチナゲリラがイスラエル選手を襲撃しました。そして今コンフェデレーション杯を機に来年のW杯に反対する激しいデモがブラジル各地で相次いでいるのも、ビッグな大会には安全が不可欠であることを強調する材料です。マスコミでは耳目を引く凶悪事件が報道されますが、日本は東京は、やはり安全なのです。

福岡で面白い事件がありました。ひったくられたはずの選挙人名簿DVDは、実は路線バスに置き忘れていただけだったという事件です。福岡市選管は、42万人の選挙人名簿DVD3枚を紛失したとして謝罪会見をしたばかりでした。ところが、委託事業者の社員が鞄を置き忘れてしまったことを隠そうとしてウソをついてしまっていたのです。

冷静に考えればわかりそうなものです。日本の治安はいい。多くの人々は善良だ。だから電車やバスに忘れても遺失物として警察に届けられる可能性が高いことを。しかし男が安直にウソで塗り固めようとしたのは浅はかでした。

この恥ずかしい事件を五輪招致に使わない手はないですよ。福岡だけではない。東京も含めて日本中がこんなに安全で安心できる。信ずべき善良な日本人と一緒に2020年の五輪を楽しみましょう、と。
漫画家に本気出さない人変わる [2013年06月25日(Tue)]

__tn_20130625183946.jpgグータラ男しずお(堤真一)が登場するありえない仮想映画が『俺はまだ本気出してないだけ』でした。そして思いの外いい映画でした。笑顔をあまり見せない3人が登場し、あとになって実に効果的な働きをします。しずおの娘鈴子(橋本愛)、親友(生瀬勝久)の幼い息子、ちゃんと生活したいけどできない男(山田孝之)です。

長くない映画ですが、登場人物の人間像がよく描けています。背景にある人生体験をも想像できるほどに。自身はどの人物に当てはまるだろうか、と思いながら見る楽しみもあります。よもや自分は主人公とは違うと思わせつつも、いやひょっとして自分もそうかも、と疑わせます。大事なことを先送りにし、家族と向き合うことから逃げ、目先の小さな快楽にうつつを抜かす。極端ながら自分自身だなあと疑う気持ちになって、身につまされます。

大黒シズオ42歳。「本当の自分を見つける」と会社を辞めたが何もプランはないのです。朝からサッカーゲームばかり。家での格好はいつもTシャツにトランクスの下着姿。頭の上がらない親父には毎日怒鳴られていますが、高校生の娘鈴子がいつも涼やかな目をしていられることが不思議です。

ある日突然漫画家になると宣言。自信はたっぷりですが根拠は全くない。失敗するたびに責任を他になすりつけ反省の色はない。空想の世界に堤真一が演じ分ける10代・20代・30代のしずおたち。さらにしずお顔の神様まで登場してきます。実に笑えます。笑いながら考えさせられます。

しずおの家は東京・八王子にあるようでした。しずおと鈴子が、父として娘として、そして一人の人間として向き合って語り合ったシーンが印象的でした。あれは多摩川だったのでしょうか。それとも支流の浅川か。川の土手を二人が歩き、カメラの長回しでポツポツと心情を述べ合います。あの広々した景観が心に残りました。すぐにヒットを飛ばす漫画家にはなれないかもしれませんが、前に進む、恐れずに進む人間の群像が心に残ります。

(写真はネジ花。ネジ花が巻くように毎日は螺旋を描いて進みゆく)
空を飛ぶ広報室と憲法と [2013年06月24日(Mon)]

__tn_20130624182022.jpgテレビドラマ『空飛ぶ広報室』が昨夜で終わった。空井と稲葉の絡みを楽しみ、時にときめき、結末に安堵し笑顔になった。「空はつながっている」という名言とともに。今時めずらしい清純な恋愛を描いていたが、これも航空自衛官という抑制の効いた存在が主人公だったからだろう。

ところで自衛隊。憲法にはその存在を認められてはいない。自衛隊法はあっても国家の根本原則に定められていない自衛隊は、非嫡出子のように日陰の存在に甘んじなければならない時がある。ドラマでもそうした葛藤を描いた場面もあった。最終回で東日本大震災での自衛官の献身的な救援、復興活動。さらにブルーインパルスの帰還という事実に基づいた劇が描かれた。地元松島の人々は帰還を喜んだ。歓迎した。空を駈ける隊機に復興への思いを重ね合わせて人々は涙した。自衛隊の活動への感謝があるからこその涙だったと思う。

憲法第九条は次のとおりだ。
≪ 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。≫

国権の発動たる侵略行為は永久にやらない。自衛のためにのみ武力を持つとして、自衛隊の存在をつまびらかにしておかないと、彼らの立つ瀬はない。憲法前文に曰く。≪われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ≫。

自衛隊の存在を明文化し、攻められた場合の自衛権の発動と、災害救助や地球危急の場合の出動。国際社会との連携をもとに自衛隊はシビリアンコントロールで動く。それを憲法に位置付けることに何の支障があろうか。
日曜の傘を忘れし夜トイレ [2013年06月23日(Sun)]

__tn_20130623192525.jpg松江駅の改札を入った男子トイレ。小便器の横に引っかけてある傘ひとつ。忘れ物だ。外は小雨。昼までは晴れ間がのぞいていた。暑くなってきていた。いつの間にか雨になってその主は傘を持って出たのだろう。マジックテープでくくってはあるが少し粗い。慌てたものか、それとも既に酔っぱらっていたものだろうか。残された傘ひとつ。今頃きっと忘れたことに気がついて歯噛みをしているのかもしれない。持っていたことすら忘れて楽しく飲んでいるのか、家に帰りついているのかも…。おや?私も傘を持っていたはずだが、あれ?どこに? そうか、畳んでカバンに入れていたのだった。

列車に乗っていて傘を忘れるパターンは次のとおり。私の場合だが、いずれも酒を飲んだあとが多い。

■車中で眠りこけて到着して慌てたとき
■席横の傘掛けに置いたまま忘れるとき(他に荷物を2つ以上持っているときが多い)
■目的地に着いた安堵感から用を足したトイレに忘れるとき
■網棚になってない(透けて見えない)荷物置きにうっかり置いたとき

さて、私は今まさにごきげんで列車に乗っている。カバンを忘れないよう、スマホも忘れないようにしなければいけないなあ。特に気のおけない仲間たちと楽しく豊かに語り合ったばかりだからね。
名前付けゴマフアザラシ宮島に [2013年06月22日(Sat)]

__tn_DSC_1915.JPG宮島水族館では名付け親を募集している。4月18日に生まれたゴマフアザラシの雌のあかちゃんのためである。すでに離乳して白い毛が生え替わってゴマ模様になったようだ。体調1m、体重36kg。すでに立派な人気者である。水族館では8月1日のゴマフアザラシ命名式に参加できる人に応募してくれるようホームページで呼びかけている。

相手の名前を知ると親しみがわく。あだ名をつければさらに親しみが湧いてくる。人だけではない。木や花、動物の名もそうだ。種としての名前と個体の名前との違いはあるが、名前は対象物を識別する際の第一のハードルといえるだろう。映画『ブタがいた教室』で、生徒たちは「ピーちゃん」と名前を付けて世話をしたが故に、屠殺場に送り出すことができなくなってしまった。湯婆婆に名前を奪われたから千尋もコハクも本来の自己を失ってしまっていた。名前はとても大切なものだ。

「ゴマフアザラシのあかちゃん」が「○○○」と命名されれば、きっと人気はさらに高まっていくことは間違いない。
お静かに波紋広がる橋のそば [2013年06月21日(Fri)]

__tn_20130621194133.jpg波紋が広がっています。別に政治の話ではありません。今夕の京橋川は静かでした。大雨の峠は越えたようで小粒の雨が静かに降っています。松江お堀の京橋のあたりを歩いていると波紋が広がるのが見えました。池のように静かな川面に雨が落ちて円形に波が広がり大きくなって消えていきます。その端から次々と雨は落ちては真円の模様を広げ幾重にも重なって雨の松江を演出してくれます。

また雨が強くなってきました。明日の天気は回復すると予報は伝えます。本当でしょうか。台風の進路は如何に。北の空は雲が切れています。山の端から帯状に夕焼け空がのぞいています。雨は降っています。しかし明日の晴れを予感させる空の明るさです。雨が強く降り始めてからまだ3日ですが、何週間もたったような気がしています。これで少しは水不足は解消されるでしょうか。是非ともしてほしいものです。過ぎたるは及ばざるが如しです。降り過ぎは災害の元です。たくさんの人に哀しみをもたらします。もたらすのは、感傷で十分です。この夕焼け空を眺めて過ぎた青春の日々でも思い出してみましょうか。

おや? 雨はやんだようです。西の空に夕焼けです。茜色の夕焼けです。上空は厚い黒い雲。茜の夕焼けは毒毒しささえ感じます。明日もきっといいことありますように。
クラクション暗黒の車すぐ後ろ [2013年06月20日(Thu)]

__tn_20130620222216.jpg数日前のこと。薄暮というには暗すぎる田舎道に車を走らせていた。西の空に少し明かりはあったが、雨が降りそうな雲行きで辺りはもう暗い。目的地に近づいた。スピードを落として、道路の左に寄せて止まろうか、それとも右手の空き地に駐車しようか、一瞬迷った。あげくに右手にウインカーを出したのだが、気が変わって左にウインカーを切り直して止まろうとした瞬間、すぐ後からクラクションがけたたましく鳴り響いた。後続車がいたのである。車は私の横をスピードを上げて追い越していった。なんと無灯火だった。私の後ろから前照灯をつけずに付いてきていたのだ。バックミラーでは視認できなかったのも無理はない。

交通法規無視の車が増えた。思 いやりレベルのマナーにお構いなしというのではない。決められたルールを守らないのである。罰則があろうがあるまいが、警察官が見ていようがいまいが、交通ルールを守らないと、他のドライバーがルールを守ることを前提にして運転する者が被害を受けてしまう。

交差点で右折待ちをするときには中央部まで出て待つ。そうしないと直進したい車が後ろにつかえて渋滞が起こる。危険だ。待たされる者はイライラする。

赤信号の点滅は一旦停止せず、左右を十分に確かめもせず進む。自殺行為だ。事故を起こさないためには黄色の点滅であっても注意すべきことは今や当然だ。

踏切で一時停止をしないどころか、スピードを落としもしないで渡りきる。 危ない。警報機の故障だってあり得る。警察官に見つかれば踏切不停止違反で9千円の罰金だ。

人の非難ばかりはできない。私だって黄色の信号で無理して交差点に進入して赤に替わってしまうことがしばしばだ。信号無視でこれも9千円。他山の石として肝に銘じたい。かつ、他人は交通ルールを守らないことも十分あり得ることを頭に入れながら運転したいと思う。
雨が降るもう何日も雨が降る [2013年06月19日(Wed)]

__tn_20130619073842.jpg雨が降っています。たくさん降っています。昨夜から50ミリ以上は降っているでしょう。さらに激しさを増す大雨に警戒するよう予報が伝えます。

雨にうんざりしています。数日前まで雨を渇望していたにもかかわらず、うんざりしています。昨日から降り始めたのにもかかわらず、うんざりしています。一日もたたないのにうんざりしています。まるで何週間も降っているかのようにうんざりしています。

これで渇水も一段落するかと思うと、今まであった危機感は消えてしまいました。喉元過ぎれば熱さを忘れると言われるとおりです。わがままです。実に勝手です。しかしそれが生の感情というものです。正直なところです。

うんざりするのは別の理由もあります。省エネですから、室内気温が28℃を超えないと冷房の運転がないのです。ところが雨ですから湿度が高い。我慢できないほどの蒸し暑さに昨日は沸騰寸前でした。その職場に向かうかと思うと憂鬱です。

列車に乗っていると冷房が効いています。さわやかです。隣で寝ている人のお尻が押し付けられて少し窮屈ですが、まあ快適です。外はざんざと雨が降る。窓に滴が斜めに流れます。綺麗です。なかなかの趣です。中から見るだけなら楽しいです。

楽しみがあれば辛いこともある。禍福は糾える縄のごとしですし、ピンチのあとにはチャンスありです。功罪半ばのこの一日をどう過ごしましょうかね。それはある面心の持ちようですね。顔晴れ!の一日ですね。
軽妙にDJポリス必死なり [2013年06月18日(Tue)]

__tn_20130618183733.jpg有名になったDJポリス。警視総監賞をもらったのは周知のことだが、見事なしゃべりっぷりだった。むろん本人とて、余裕綽々でその場のサポーターたちを盛り上げて乗せて図星となったわけではあるまい。混乱を避けようと必死の思いが通じたのだと思う。冷や汗に背中を濡らしたことだろう。

「日本代表のユニホームを着ている皆さんは、12番目の選手です。 チームワークをお願いします」
「警察からのイエローカードを受け取らないようにお願いします」
「怖い顔をしたお巡りさんも心の中ではW杯出場を喜んでいます。フェアプレーで勝利を祝いましょう」
「こんな良き日に怒りたくありません。そういう行動はイエローカードです」
「サポーターのみなさん!お家に帰るまでが応援です」
「信号赤になりました。間違えました、青でした。 皆さんにまた会う時まで練習しておきます」
「皆さんの心にもしっかりとシートベルトをしめて、安全運転をお願いします」

確かにユーモアたっぷりに軽妙に、この20代の機動隊員は伝えている。心に響いたと称賛の声が相次いだ。警視庁機動隊の広報係に所属し、アナウンス技術競技会で優勝したとも聞くが、彼の必死の行動がその場の空気を見事に制御した。こうした機会に彼が動員されるケースが増えるだろう。彼の必死さと賢明さでもって一人でも怪我人が少なく、警察が出動する緊迫時にあっても笑顔が湧いてくるよう願っている。
くちなしをなしとなしとで繋げたら [2013年06月17日(Mon)]

__tn_20130617222110.jpg「くちなし(梔子)」の花が咲いた。街路の植え込みになっている花が咲いた。初夏、梅雨のころの花だ。いい香りがしている。白い細身の花は誇り高く咲いている。散る頃にはよじれて汚れて美しくはないが、果実は漢方薬になるという。役に立つ華のある花だ。

「カオナシ」は千尋に誘われて湯場に入った化け物だ。スタジオジブリの名作中の名物だ。自分の居場所がなくて、自分の存在感を自分では感じられず、他人の評価がなくては自信が持てない化け物だ。現代人を象徴している。増長して、気にくわない他人がいれば「あいなし」と判断して容赦なく喰ってしまう。出雲弁で言ったら「あやがない」状態で、不条理で理不尽になる。

千尋は「 意気地なし」ではなかった。自分の運命と懸命に戦い、豚になっている母と父を助けた。懸命ではあったが、「後先なし」ではなく思慮深かった。「言う事なし」だ。しかし一歩間違うと「死人に口なし」で、彼女も父母も「底なし」のあの異界に沈んだままになっていたかもしれない。そもそも千尋の名前を湯ば婆に奪われて「名なしの権兵衛」に成り下がる一歩手前だった。「待ったなし」のピンチを千は切り抜け、千尋として蘇った。「のべつ幕なし」に押し寄せる難題を越えた。「事もなし」に父母はこの世に舞い戻ったが、「怖いものなし」どころか怖いものだらけだった千尋の活躍のおかげで、「何気なし」に退屈な日常に戻っていく。憶えていないのだから感謝せよと言っても無理だ。「由なし」だ 。

「一文なし」になってしまったら、「否応なし」に額に汗して働かないといけない。「貧乏暇なし」だ。「おかまいなし」にいじめたり、非難したりする酷い他人もあるかもしれない。「頭ごなし」に罵声を浴びせかける他人もいるかもしれないが、じっと我慢の子だからね。黙って言わせておこうよ。「言う甲斐なし」だからね。いずれいじめた人たちは「かたなし」になって、あなたの実力を認めるだろう。悪口を言ってた人も「顔色なし」に驚き慌てることさ。

「袖なし」の涼しい格好で夏の「着こなし」おしゃれにしてね。遙かおいでよ出雲の地へと。「名物に旨い物なし」と言うけれど、「種なし」のデラウェア、島根ぶどうは美味しいよ。「二十世紀なし」は島根にも栽培される。あのジューシーさ、たまらない。大遷宮なった出雲においでよ。「開けっぱなし」で心明るく出雲の夏においでよおいで。「なけなし」の財布をはたいておいでとは言わないよ。心豊かに暮らすあなたにとってそれなりの蓄えはあるでしょうから。
球が飛ぶコンプライアンスは認めない [2013年06月16日(Sun)]

__tn_20130616124812.jpg日本プロ野球機構(NPB)はシラを切り通せなくなり、「公式球スキャンダル」は発覚した。2011年から導入された統一球「飛ばないボール」を密かに「飛ぶボール」に代えさせたという「事件」である。当人たちは、基準より反発係数の低いボールが混じらないように製造元に指示しただけで、現場が混乱しないため発表しなかったと言い、よかれと思ってやったことのようだ。彼らは今シーズンに入って急に増えたホームラン数(昨季より五割近く増えた)にきっとあたふたしていたに違いないが、一度口をつぐんだことを今更発表するわけにいかなかったとみえる。

プロはやはり凄いもんだ、しっかりアジャストしていくものだと私は感心していたが、まんまと騙されていた。しかしプロの選手はさすがだ。選手会側が「疑惑」を追及したところで化けの皮がはがれて「事件化」した。事務局と製造元との独断と隠蔽に対し、加藤コミッショナーは、「もしその事実を知っていたらその時点で公表しただろう」などと釈明して責任を回避しようとしたが、ガバナンス(統治能力)の問題として袋叩きにあっている。

事務局長が当初発表したとおり、昨夏にコミッショナーに相談したのかもしれない。移動の合間に歩きながら軽く話をして、「うまいことやりなさい」なんていう感じの返事をもらって、よしとしていたかもしれない。それほど重要だとその場では思わなかったコミッショナーの想像力のなさを責めるのは簡単だ。それにしても重要なことを文書の形にして判断をあおぐことは常識だ。その常識がなかったか、コミッショナーには相談する気が最初からなかったか、コミッショナーはお飾りでしかなかったかというところが真相なのだろう。

飛ばないボールは面白くないのは確かだ。それに対処して飛ぶように仕様を改めた。それも基準の範囲内でやったのだ。お客も増えて儲かればいいだろう。文句あっか、という気分だったのではないだろうか。会見前の事務局長もコミッショナーも。

ところが選手側は契約上出来高払いを決める際、打った打たれたという数は大きな違いとなる。単によかれと思ってやったと言われても納得できないだろう。開幕前に一言「係数の範囲に収まらない球をなくすように改善した」と公表しておけば誰も文句は言わなかっただろう。それが関係者すべての辞任を求められるような事態を生じたのはコンプライアンスの問題だ。

コンプライアンスとは、単に『法令遵守』ではなく、法律や規制事項に定められた上限を超えず下限を下回らないように守るという意味ではない。少なくとも日本では、「常識や企業倫理、さらには人間としてのマナーを守って諸活動を行うということも含めた、実に広大な意味」を持たされている。今はコンプライアンス全盛の世だ。はっきりとルール化されているわけではないが、漠然としたその倫理を根拠にして、マスコミがステークホルダーの筆頭格として企業や組織の悪を糾弾し、行政や警察の怠慢を世に曝していく。さらにネットでは思慮のない暴力的な言辞がまき散らされるときもある。

今回のことは、予め決められたルール以前に「発表するのが当然だろ! それが人間としてあるべき姿だろ!」という社会的な要請に反したことが、まず第一に問題だとされたのだと思う。つまり逆鱗に触れてしまったのである。なかなか理屈どおりにはいかないものだ、この世は……。
当たり前雨が降るのは当然か [2013年06月15日(Sat)]

__tn_20130615081533.jpg車に雨が当たる。ワイパーを動かして雨粒をはらう。あたりまえのことだ。
路面の水が弾いてジャワシャワと音がする。あたりまえのことだ。
暑さに膿んだ地面から熱が立ち上ぼり空気がひんやりした。あたりまえのことだ。
雨の降り始めに清々しい風が流れた。あたりまえのことだ。
土が濡れている。川の水が増えた。紫陽花の葉に雨露ご溜まっている。雨が降ればなんのことはない。あたりまえのことだ。

二週間ぶりで降った雨。そのあたりまえが嬉しい。あたりまえに感謝しよう。
小鳥が鳴き始めた。雨はやんだらしい。渇水対策本部は当分は解散することはないかもしれないが、 地球の環境に変動が起こっている昨今、あたりまえは当然ではない。あたりまえが当たり前でなくなったことは自明の理だ。あたりまえに感謝したい。

(よそのうちに植えられていたカスミソウ。小ぶりで可愛らしくて清々しい)
忘れても心と体は学習す [2013年06月14日(Fri)]

__tn_20130614193651.jpg映画『オブリビオン』でジャックが体験したことは、すべて夢だったのかもしれない。湖の家も、砂漠に残る人類文明の廃墟も、エイリアンの帝国も、土星の衛星サタンに移住した人類のことも、60年の時を隔てて登場した人類の宇宙船も、すべては夢だったならいいのに…。天空の月は半分に砕け残骸となり、地球は核戦争の後に無惨な骸をさらしたことが夢だったら嬉しい。それともクローンであるジャックたちが集合的に見る夢として描かれていたものだったのかも、と勝手に想像している。設定に謎が多いだけに、空想の翼が羽ばたく。

oblivionとは、物事を忘れてボンヤリした状態であり、世間から忘れられた状態をいう。記憶を消されて戦闘マシンに特化していたジャックはまさにオブリビオン状態だ。その彼が人間らしさを取り戻す場が、謎の女を夢に見る時であった。彼にとってはその夢は大きな戸惑いでもある。自分の真実は謎の女とともにあるのではないか、という懐疑にいつもさいなまれる。

今彼が現実的に安らぎを得る場は、任務のあとで唯一の同僚ヴィクトリアと食事を楽しみベッドをともにしている時なのだが、彼は自分の本来の場はここにはないと心の底で感じていた。サリーから課された任務を忠実に果たすうちに、その任務は虚実がない交ぜになっていることに気がつくジャック。謎の女の記憶がよみがえって自分の真実に目を開かれる。

ジャックの気づいた真実というのも、裏を返せば偽物だったのではないか。エイリアンなんか実は存在せず、やはり人類どおしが憎しみあった果てが、互いをエイリアンとしてしか認識しない不幸な歴史を築いたのでは、と私は想像した。不倶戴天の敵どおしが世代を越えて戦ううちに、同じ人間であることすら忘れてしまうほどに、憎しみあった結果が核戦争であり、何十年後地球の陰惨な事実を指すと考えるのは空想のし過ぎだろうか。

人類のボス役のモーガン・フリーマンとあの強い男以外はくっきりと人間像が描かれていなかったのは残念だが、その分「最高の相棒」だったヴィクトリアが恋や嫉妬も含めた人間味を表現していた。彼女もクローンであって取り替えがきいたにもかかわらず。

エンディングに死んだジャックのクローン52号がジュリアの前に再登場した。懐かしい笑顔を浮かべながら…。クローン技術は遺伝子をなぞり、見た目には寸分たがわぬ同一人物に複製できるかもしれない。しかし記憶は伝えられない。五感で体のすべてで感じとった記憶が共有されてはじめて同一人となる。

仮に映画の世界ではそれができたと仮定しよう。かけがえのない人との体験は一度きりだから、無上のものとなる。死んでもまた復活できるとしたら、その価値は落ちる。かけがえのないものではなくなってしまうのではないだろうか。たぶん作者は言いたいのだ。本当にこの時間は二度とないのだよ、大切な人との今の瞬間を存分に楽しみなさい、つまらぬ不機嫌さで棒にふってはいけないよ、と言いたいのに違いない。

さらに憶測すれば、あの本物のはずのジャックですら、49号と名前がつけられていたとおり、実は彼も複製されたジャックにしか過ぎないのかもしれない。52号が3年の月日をかけて、ジャック49号とジュリアとの歳月を学習したように、のちの52号と同様にジュリアとの愛を育んだとも言えるのかもしれない。思えば複雑にして意味深長な映画である。
お湿りを期待外れや今朝の雲 [2013年06月13日(Thu)]

__tn_20130613075633.jpg雨が降った。待望の雨だ。腕に頬に頭に降りかかる。傘は持ってない。まあいいじゃないか。待ち望んだ雨なんだから。もっと降れ降れずっと降れ。渇水危機を乗り越えよ。被害が出るまで降ってはならぬ。適度な加減で雨や降れ。

雲を見た。明るい。雲間から青空が見える。なんだ、つまらぬ。雨はここまでか...。案の定、雨はやんだ。道路を濡らすこともなく、田んぼの水に小さな波紋を巻き散らかした程度のものだった。アアアつまらぬ。雨はやむ。残念残して雨はやむ。大地が渇き、ダムの底見せ雨はやむ。作物、花や木癒さず雨やんだ。

昨夜は窓を開け放して寝た。熱の余韻が深夜まで残り、ところによっては熱帯夜だったと天気概況が伝える。今日暑さがつのるのだ。うんざりさせる真夏の暑さ。真夏日猛暑日、喉はからから、体はだるい。今はまだ6月上旬。こんなことではこの夏を乗り越えられると思われぬ。ちいとは降れや雨よ降れ。関東の雨こちらに分けてほしいもの。日本はもはや亜熱帯。苛烈な雨と季節外れの大雪。こんな日照りはかつては考えられぬ。アアア地球はどこへいく(;_;)/~~~
ヒトはみな時に使われ時に得る [2013年06月12日(Wed)]

__tn_20130612183754.jpg6月12日がきた。わたしにとってこの日が特別な日というわけではない。深夜に零時がきて 、1時間2時間と時が刻まれ、1分2分と過ぎていき、1秒2秒が瞬く間に行く。1秒は秒刻みの時計の如く飛び飛びにではなく、連続した無数の時が積み重なって時間は過ぎる。

思えば、時間とはホモサピエンスの最大最高の発明であろう。動物は待つという行動をとることはあっても、時間を計って計略的に動くことはない。本能的な活動で命を生きていく。植物も遺伝子に組み込まれた条件が満たされると芽を出し花が咲く。

ところがヒトという種には暦があり時刻があり、ヒトは時の刻みを意識できる。それがどれだけ技術の進歩を促し、精神活動にメリハリを与えてきたか。明日までに狩猟が成功しないと家族の命は途絶える。明後日には王様が喜ぶ芸を披露しなければ殺される...。ヒトは締め切りを設定されることによってその能力を拡大してきたと言えるだろう。時間の存在は文明を飛躍的に進歩させてきた源泉である。

一方で期限があることは、大きなストレスを生む。精神的に追い詰められることは辛く悲しいことだ。ヒトは時を自らの意思で、時を刻むことを選択したことによって、多くの利益を得た。その代わりに多くのものを失った。

(石榴の花が咲き始めた。これも遺伝子に刷り込まれた自然な変化だ)
ホッチキス書類の山をつくるとき [2013年06月11日(Tue)]

__tn_20130611202954.jpg昔むかし、事務の世界で書類を閉じるのはキリで穴を開けて、コヨリの丈夫な綴じ紐で結ぶという方法が定番だった。ところが戦後登場したホッチキスによって世界は変わったと、(株)マックスのホームページは教えてくれる。

卓上型から始まり、小型のハンディタイプに進化。価格もどんどん安くなって、家庭でも使うのが当たり前になっていく。かつてこの器具の通称は「マックス」。会社のマックスが製造していたからだが、英語圏では「ステープラー」。なぜ日本ではホッチキスになったのか。

進歩は続く。弱い力でも楽に閉じることができるようになり、閉じた裏側が丸くならずにかさばらない「フラットクリンチ」も発明された。フラットが出たときに私も感動したことがある。閉じた書類を重ねてもかさばらない。その後、デザインは洗練され続けて、遊び心も満たしてくれる。ミニサイズやカラフルな仕様など、便利に楽しくを目指してめまぐるしく進化を重ねている。すごい事務用品だ。

初めて日本で販売したのはイトーキの前身の会社で、明治の末のことだそうだ。これはアメリカ製でHOTCHKISSと刻印されていたとのこと。E・H・HOTCHKISS社製という意味だ。自然と「ホッチキス」と呼ぶようになったのだろうとホームページでは推測している。

マックスのホッチキスは、平成20年に生産累計が3億9千万台に達し、国内シェアは75%。年間に1千万台を生産して世界中に輸出されている。天下の名品、日本の技術の誇りと言っていいだろう。私は年期の入ったホッチキスを使っている。色は紺鼠色。背中の丸みが書類を折る時にちょうどよいので、毎回机面にこすり付けているものだから、キズだらけである。しかし気に入っている。いつまでも使い続けることと思う。

(花は紅花。花の束を柔らかくくくるホッチキスもあるのかもしれない)
やるせない心情表し語り合う [2013年06月10日(Mon)]

__tn_20130610202949.jpg松江駅のあたりを歩いていたら、「ああ、やるせない…」という若い女の声がした。その単語に私は反応し声のするほうを一瞥した。髪の長い細面のすらりとした女の子。白いショートパンツに薄い色のゆったりしたTシャツを着て高めのサンダルを履いている。隣にはこれも若い長身の男。デブッとしているほかは覚えていない。

「やるせない」と言えば、恋するときの言葉だ。感傷的に愛しの人を思い浮かべ、逢えないもどかしさに身悶えする。気持ちのもっていきようがなくて思い悩み、楽しかった経験を何度でも反芻する。

今まさに恋が進行中の者であっても、じゃあねと別れた刹那に、逢いたくてたまらない思いに身を焦がす。精神的に余裕がなくなって、どうにかしてよこの私、どうすりゃいいんだこの俺は、と気持ちまでささくれだってしまう。

恋の進行形の者ばかりではない。恋を失ったばかりの者は、あのときこうすれば、あんなことをしなければと後悔の念にさいなまれてやるせない。諦観して悔いなしと言い切れる者はまれだろう。

のほほんと歩いていたあの二人。互いをやるせないと思いわずらう雰囲気じゃなかったなあ。女の子の口ぶりは深刻ではなかったし。だれかが悩む様子を女の子が男に伝えようとしていたのだろうか。それとも、そもそも彼女たちにとって「やるせない」という単語には違う意味がくっついているのだろうか。自分の思うように相手に言うことをきかせられないもどかしさとか、置き場のない怒りを表す言葉としてしか使われないのだとしたら残念だ。

「やるせない」心情を吐露するのは、大和撫子であってほしいし、センチメンタルな挫折感をさりげなく恋人に伝えられる男のものであってほしいと、私は思う。
旅立ちて老と子たちの夏の庭 [2013年06月09日(Sun)]

__tn_20130609193833.jpg児童文学『夏の庭 The Friends』(湯本香樹実著,福武書店,1992年)は子どもにとっての死を主題としている。そして何のために生きるのかという明解な答えは持たなくても、懸命に今を生きることの大切さを表現している。

山下がおばあちゃんの葬式に参列してから、ちびっ子三人組に変化が起きる。山下は初めて死人を見た。河辺と「ぼく」こと木山は見たことがない。死人というものの不気味さを感じ、自分の死について想像すると暗闇まで怖くなる。

≪「それよりさ」山下の声がかすれた。「死んだ人、見たことあるか」(中略)
 「このごろ、なんか死んだ人のこととか、自分がいつかは死ぬとか、死んだらどうなるんだろうとか、そんなことばかり考えてしまうんだ。でもさ、頭では 人間はいつか死ぬってわかっているつもりでも、ぜんぜん信じられないんだよな」≫

怖いもの見たさもあって、三人は古い貸家に住んでいる一人暮らしのおじいさんをターゲットにし、死を目撃しようと計画を立てる。大人たちの評判ではすぐにでも死んでしまいそうだったし、テレビばかり観ていて、ろくな物を食べていない様子だった。主体たる三人はひたすら見張る。おじいさんが死んで冷たくなるのを待ちかまえる。来る日も来る日も時間の許す限り、客体たるおじいさんを張り込み追跡する。

こちらはこっそりとやっているつもりだったが、あちらは先刻承知。三人組とおじいさんは互いの存在を意識するようになり、知り合い、やがて親しくなっていく。三人にとっておじいさんは単なる物に近い客体であったものが、主体のうちに取り込まれていく。どんな生活をしているのか、家族はいるのか、どんな人生だったのか・・・・・そんなことが知りたくなっていき、知っていくうちにおじいさんとの距離がぐんぐん縮まる。おじいさんの存在はなくてはならないものになる。おじいさんにとっても三人は、透明なものから三者がそれぞれ個性を持った愛すべき存在になっていく。おじいさんにとっても三人が主体化していくのである。

溜まり放題になっていたゴミを処理し、スイカを切って食べた。家を修理し雑草だらけの庭をきれいにした。コスモスの種を庭一杯に植えて台風の大雨が来たときには心配になって駆けつけた。戦争に従軍した時おじいさんがやむを得ず行った狂気の行動。川原でおじいさんが揚げてくれた大きな花火の思い出。小さな家と庭でもって、四人の思い出は日々刻まれてかけがえのないものになった。サッカー教室のこと、進路のこと、おじいさんは話を聞いてくれた。なにかしらの示唆を与えてくれた。

三人が数日合宿で空けたとき、おじいさんは死んでいた。第一発見者は三人。当初の目論見のとおりだ。が、そんなことは彼らの眼中にはない。ひたすら悲しくて心が空っぽになった。

≪それは、ぼくが初めて見る死んだ人だけれど、ぼくは少しもおそろしいとは感じていなかった。(中略)おじいさんの体は、長い間着古した服のように、やさしく、親しげに、そこに横たわっている。おじいさんに話したいことがたくさんあった。(中略)まだ行っちゃいやだよ・・・・・。でもなにも聞こえなかった。その時、ぼくは初めて泣いた。≫

おじいさんの死を体験して三人は、怖かった死というものが、自分が死ぬかもしれないという不安感が消えた。少年たちはおじいさんとの体験で、この夏一歩も二歩も大きくなった。そして三人組は小学校卒業とともにそれぞれ別の道に進む。懸命に今を生きることを誓いつつ再会を期する。成長途上の少年たちの心情が叙情豊かに描かれる秀作である。
慕情とは男と女が惹かれ愛 [2013年06月08日(Sat)]

__tn_20130608214943.jpg映画『慕情』(原題が『Love is a Many-Splendored Thing』だから訳すとすれば「愛とは目映き素晴らしきものかな」。慕情ではどうもピンとこない)は、中華人民共和国建国、朝鮮戦争勃発のころの香港を舞台とした純愛物語である。公開は1955年。

上海は共産党軍に落ち、国民党は風前の灯。ハンの夫は国民党の将校だったが既に戦死しており、彼女は香港の病院に勤める研修医として日々人々に尽くしていた。そこに現れたのがアメリカ人特派員のマーク。惹かれあった二人。しかし彼女は一生恋はしないと心に決めていた。ハンは冷静にあくまで友人としてつき合おうとするが、熱情を露にするマークに心揺らされていく。

香港の丘。青い空をバックに少し急な斜面を登った草地に立つ一本の木。そこは二人が初めて恋に心を開き、熱い息吹に身を委ねた場所だった。そこで二人はときめく逢い引きを重ね夢を語り合った。そして二人の別れの場ともなってしまった。朝鮮戦争取材に派遣されたマークは不慮の爆撃で死んだのである。

彼が彼女と重ねた手紙の交換。愛の思いに溢れ、心情を吐露し、何日もの時間差はあったが語り合うように紡ぎ合った愛の歴史。決して長い時間ではない。マークは死んだが、愛の思い出は消えなかった。互いを心から想い合う慕情は途絶えることはなかった。ハンは生き続けて慕情を保ち続け、マークは死んでも輪廻する来世に向けて慕情をつないだ。

特に印象的なのがハンの変わりようである。恋する人となったとき彼女は変わっていく。目がいきいきとし、表情がみずみずしくなり、所作に張りが生まれる。さらに美しく凛々しくなっていったのは言うまでもない。恋愛感情は人の精神を高揚させる一方で、かなえられないときはひどく苦しむ。大きな振幅があるのが恋愛である。ハンは最初は雰囲気の硬い美人であったが、マークとの恋を得たとたんに変わった。

恋愛は人間が変わるときの典型であるが、何事につけ、やる気を出して燃えているときに人は変わる。イキイキとした人は目的観をもちながら日々を楽しみ、掲げた目標を忘れず生きる。凛として斜面に立つあの木は、そんなことも示していたような気がする。ムロのある二股に別れたあの木は何という名の木なんだろう。
不自由か自由を選べば自由取る [2013年06月07日(Fri)]

__tn_20130607192225.jpg私たちは自由自在に操り便利な生活を送ることを望んでいる。道具や機械を、楽器を、交通手段を、情報機器を、そして人を。 人や組織が思うままにならないのは相変わらずだが、世界は変わった。江戸の昔には一日40kmの移動しかできなかったものが、今自分で運転席に座れば軽く10倍以上は遠くへ行けてしまう。人間が勝ち得た近代科学の成果はとどまるところを知らない。

≪エクセルやワードで、あれをするには、これをするには、という本がたくさんある。そういう本は、こういうソフトの持っている可能性を教えてくれる。でもその一方で、それはそれらのソフトが持つ不自由さの証拠でもある。(中略)選択肢がいろいろありすぎるから、かえって混乱している人もたくさんいると思う。自由をもたらすはずのものが、多くの人にとってはいたずらにソフトをややこしく肥大化させて、かえって不自由にしている≫
 (『新教養としてのパソコン入門』山形浩生著,アスキー新書)

そうだ、不自由なのだ。便利で長足の進歩を享受できるのは凄いことなのだが、便利な使い方を覚えて自由自在に使いこなすには辛抱と器用さが必要だ。一度苦手意識が出てしまうと克服するのに相当の努力を要する。これはパソコンにとどまらない。選択肢が増えて、あれもできるこれも可能だと言われると、できなかった時にかえって混乱し不自由さを感じて、嫌な気持ちになる。便利な文明社会に暮らすことも大変だ。
田の水がゆるんで夏が来た模様 [2013年06月06日(Thu)]

__tn_20130606183900.jpgか細かった水田の苗。田植えしたばかりの苗は水面に隠れるばかりに小さくて頼りなかった。緑色といっても黄色がかった淡い薄緑で心もとなかった。ところが今はどうだ。緑は濃くてたくましい。わたる風に苗がそよそよと涼しげに揺れる初夏だ。心安らぐ夏の風。

冷たかった水はいつの間にかぬるみ、淀んだ水辺の水は生あたたかい。田んぼの近く、畑に咲いていた菜の花は終わったけれども、名を知らぬ小さな花がたくさん咲いている。家々の庭や玄関先には初夏の花が競うように華やかだ。夏物の野菜畑では苗が育ち盛りですくすくと収穫される季節を待つ。初夏が輝く朝日が眩しい。土の香りは雑草に隔てられて草いきれに代わった。

乾いた土の匂いがしてくる。そうだ、雨がない。梅雨なのに雨が降らない。梅雨入りの日に降った一雨、その後一度お湿りがあっただけで土に水が足らなくなってきた。

どうしてくれる梅雨なのに。どうしてくれる梅雨さんよ。空梅雨、晴れ梅雨、怠け梅雨。心なしか源氏蛍の動きも鈍いような気がして、水を欲しがっているのかも。このまま渇水なのかしら。それは困るぞ、問屋が卸さず。来週降ると予報は告げる。雨を期待し、お湿り待とう。

(写真はスモークツリー。煙り草。ぼやっと青い空に向かっている)
土壇場に賭けるシュートはポスト揺れ [2013年06月05日(Wed)]

__tn_20130605183026.jpg日本代表がW杯アジア最終予選で代表の座を勝ち取った。昨夜のオーストラリア戦で1対1と引き分けたことにより、ブラジル大会への出場を決めた。日本中が沸いている。1点をリードされた後半アディショナルタイムでの得点に、各紙各テレビ局とも「土壇場PKで豪州に追い付いてドロー。本田が決めた」と大喜びだ。わたしも嬉しい。

ところで「土壇場」。江戸の昔、斬首刑を執行するために壇を設けた。刑場に土を盛ったから土壇場。前に掘った穴に首が落ちる仕掛けだ。そこから転じて、進退きわまって切迫した局面のことをいう。首を切られることが決まり、しばらくの牢暮らしを経て、いつ切られるか今日なのか明日なのかと気を揉み、辞世の句など詠むのかもしれないが人生おしまいの瀬戸際・・・・そんな状態で土壇場に座らされるのである。

その語源から考えると今回は土壇場とは言えないと思う。仮に、昨夜負けて最終戦のイラク戦に臨んだザックジャパン。この試合に負けたら他国チームとの得失点差から出場不可という状況で終了間際に本田が決めた、というのであれば「土壇場」という言葉を使うのにふさわしい。余裕は十分あった。しかしそれでも、昨夜は負けないで本当によかった(*^o^)/\(^-^*)
紫蘭みて知らんと言うなたおやかに [2013年06月04日(Tue)]

__tn_20130604182840.jpg「今日のこの花は何ていう花やの?」
「しらん!」
「知らんやなんて、あんたも愛想ないな、冷たい奴やなあ」
「だけん、シラン!」
「なんや、写真撮ってこうやってブログに載せとるやんか。知ってるんやろ?」
「紫蘭っていう花だわや!」
「ああそうか? 紫蘭? 紫色やなあ。蘭の一種かいな?」
「そげだわや。やっとわかってごいたかい」
「どうりで出雲弁のあんたが関西弁のアクセント使こうとって、なんか変やなあと思ってたわ!」
「え写真だらが。涼しげな感じがすーが?」
「ええなぁ。凛としてええ花やわー。京の舞妓さんみたいやな」
カレーニナ愛に燃えるは身を焦がし [2013年06月03日(Mon)]

__tn_20130603184336.jpgカレーニンの妻アンナ・カレーニナ(キーラ・ナイトレイ)は際立つ美貌の持ち主。帝政ロシア・サンクトペテルブルクにおける社交界の華だった。妻を機能としてしか扱わない夫に不満はあったものの、アンナは幼い息子に愛を注ぎ幸せな生活を送っていた。

しかし、彼女は騎兵将校のヴロンスキーと出会ってしまった。運命的としか言いようのない出会いで二人は強く惹かれあう。言い寄るヴロンスキーを遠ざけようとはしたが、燃え上がる情愛は止めようがない。アンナは奈落の底に落ちることを覚悟して愛にのめり込む。映画『アンナ・カレーニナ』は美しくも毒毒しい純愛を描いている。読んだことはないが、トルストイの原作をなぞるもののようだ。

全てを捨ててまでアンナとヴロンスキーは一緒にはなったが、社交界のしがらみや健康問題もあって二人の仲はギクシャクする。やがてアンナはヴロンスキーの愛を疑ったのか、疲れたのか、それとも恋に焦がれ愛で燃え尽きたのか。列車に身を投げる。凍てつくロシアの機関車に身をまかせたアンナは幸せだったのか。愛する気持ちに忠実に生きたという点で彼女は生き切ったと言えるのかもしれない。

アンナと対比されているのが、純朴な地主リョーヴィン。アンナの義妹キティとの恋に破れる。しかしキティはヴロンスキーとの婚約を破棄され鬱病になっていたのだが、リョービンと再び出会って共に農場経営に取り組むうちに自分を取り戻し、充実感溢れた生活を得る。そこに神への信仰があることは言うまでもない。反対にアンナは神を冒涜したという対比なのであろう。ロシア革命に遡ること約半世紀にあったであろう社会を描いた名作だ。

(写真は、アンナの崩壊しながら燃え上がる愛を現すかのような赤いポピー)
ポリポリと美味しナッツに舌鼓 [2013年06月02日(Sun)]

__tn_20130602111848.jpg美味しいナッツに巡りあった。4種がミックスされた美味しいものだ。マカダミアナッツはオーストリア産、カシューナッツはインド産、アーモンドとくるみはアメリカ産。一度スーパーで勝って気に入ったので、多めに買い置きした。

カシューナッツは柔らかめ。噛むとスクッと崩れて甘味が広がる。噛むうちにくせのないナッツの味に口中が満たされる。勾玉の形も品がいい。奥歯に残りやすいのが玉にキズだ。

マカダミアナッツは、外を舐めると軽い塩味を通して甘さを感じる。噛むとパックリと割れて割れて割れて。甘さとほんのわずかな苦味がある。歯にはまとわりつかず、サラサラした繊維が不思議な感じだ。丸い形、割れたのは半月形もなかなか乙なもの。チョコでくるんだチョコボールも好きだ。

くるみは、茶色の渋皮を残して不規則な形。小惑星イトカワみたいに凸凹で、火星と木星の間、小惑星帯から転がり込んできたかのようだ。渋み苦味がもっとも強い。口に入れた瞬間に渋い。噛めば噛むほど渋いが、そこにほのかな甘味が加わって絶妙なバランスだ。

そしてアーモンド。均整のとれたラグビーボール型。縞のある皮から一部本体が見えていて食欲をくすぐる。表は意外にも苦くない。むしろ甘さを感じる。かじると少し苦味があるが、溢れだすようにして広がる甘さと塩味に打ち消されてしまう。歯ごたえはカリッと4つの中では最も大きい。噛めば噛むほど味が出る。さまざまな滋味が押し寄せてくる。たくさんの微量栄養素がありそうな気がしてくる。

口直しにはお茶か炭酸水がいい。それぞれの味がクリアに感じられて、もっともっと食べたくなっていく。ワイングラスに赤ワインをなみなみと満たして、ナッツを頬張るのもいいだろう。ただし、カロリーは100グラム当たりで686Kcalでちと高い。食べ過ぎに注意しなければ。

(追記13.6.3)指摘を受けました。大違い、マカダミアナッツはオーストリア産ではなく、オーストラリア産でした。
ひと誰も魔法使うよ面白し [2013年06月01日(Sat)]

__tn_20130601221944.jpg魔女のキキは少女から大人の階段を上っていった。順調にではない。恋することで、思春期の心の葛藤を経験することで、唯一の魔法、空を飛ぶことができなくなってしまった。コンプレックスもある。迷いも出てきた。それでも懸命に生きることで、他人のために尽くすことで魔法を取り戻した。

≪何かを発見したり、"これをしている時間は面白い"っていう、ワクワクする気持ちは誰にでもあると思います。それを大切にして、もっとワクワクしたいって思う人が才能を伸ばしていく。それが、その人にとって自分の"魔法"を獲得するということかなって思うんです≫
(「魔女の宅急便」原作者・角野栄子氏/MIRAI JOURNAL2013.6)

角野氏はこう語る。ワクワクを忘れない、貪欲に新しいワクワクに向かっていく。いくつになっても自分というものはわからないものだ。実態不明の自分であっても、ワクワクする自分を“枠組み”にして見えてくるものが、多分自分らしさというものかもしれない。

写真は魔法にかけられてビオラにされてしまった人の群。白面の貴公子、紫に染めた髪だが、みんな怒った表情で美男子が台無しだ。広島・庄原の国営備北丘陵公園にて。