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モッコウの黄色元気のもとなれば [2013年04月30日(Tue)]

__tn_20130430183304.jpg黄色は元気の出る色合いだ。
今時分咲くモッコウバラ(木香薔薇)の黄は、輝く陽光の季節にふさわしい。
花言葉は「あなたにふわさしい人」とか、「初恋」だとか。
小ぶりで幾重にも重なった花房が初恋を連想させるのは、僕だけの感覚か。
バラの原種だがトゲがないのも、お気に入りの理由のひとつだ。
枝がぐんぐん広がって繁殖しやすい花でもある。
ヤマブキが野山や庭に山吹色の艶やかさを散らした後に、次はあたしの番よと、モッコウバラが咲き出す。
山吹色よりは少し穏やかなこの黄色。
今年はこんな色のポロシャツを着たいなあと思っている。
お静かに戦争ダメよ図書館で [2013年04月29日(Mon)]

__tn_20130429225833.jpg熱い思いが詰まった人びとの物語だ。厚い同志愛に胸が詰まる物語でもあった。有川浩の小説で読んでいたから、映画『図書館戦争』を楽しみに劇場へ行った。期待以上の出来に満足した。

メディアが劣化した結果、人権を侵害したり青少年に悪影響を及ぼすという不利益が生じたとして、メディア規制法が昭和の終わりに成立した。悪いと決めつけられた図書は検閲で取り締まるばかりか、本屋や図書館から排除するという法律である。昭和の次の年号が正化と変わり、2019年の日本が舞台となっている。武力行使が許される不当な侵害から、本という思想の自由を守る専守防衛軍隊が「図書隊」である。隊員たちは命がけの戦いで図書に付随する表現の自由をメディア良化委員会の軍隊から守ろうとする。

図書隊の鬼教官・堂上と新入女子隊員・笠原の対立関係が同志愛に転じ、さらにほのかな恋愛模様となるのが描かれはするが、原作にあったのほほんとしたエピソードは結構省かれて、戦闘と格闘を中心にすえたアクションものとなっている。

法律上の手続きに基づいた戦闘行為の宣言を双方が行い、クライマックスの戦闘が3時きっかりに始まる時、観る者は高揚感にひたる。人質にされた仲間を救出した時、安堵のため息とともに涙がこぼれそうになる。アニメのようにかっこいい榮倉奈々(笠原)の制服姿。岡田准一(堂上教官)を「チビ!」と言い放つ思い切りの良さに何度も笑いが飛び出すが、正規戦の爆音と負傷者のうめき声に頭が沸騰しそうにもなる。

命がかかった戦闘は恐ろしい。恐ろしさに耐えてでも守るべき図書の自由がある。しかし直面して戦う敵よりも恐ろしいのは、図書を読めるという利益を何気なく享受しながらもそれを守る人や組織には無関心な一般人である。無関心こそ、最大の驚異であることは現代の社会にもそのまま当てはまる。

正化の日本には、三つの軍隊がある。図書隊、メディア良化委員会の軍、そして自衛隊(これは描かれていないが)だ。こんな非効率があるわけない、とツッコミを入れても意味はない。だが、物語でも一般人からは「たかが本のために」という反応があったとおり、表現の規制に抵抗することに多くの人が無関心で、自分には関係ないと思っているうちに、いつの間にかがんじがらめの不自由社会になる。これは今の現実の日本に対する警告とも思えた。
主権とは屈辱の日と重なって [2013年04月28日(Sun)]

__tn_20130428223626.jpg今日は政府主催で「主権回復の日」記念式典が行われた。サンフランシスコ講和条約が発効したこの日は、GHQによる占領が終わり日本が主権を回復した日である。その意義を考える式典だと自民党幹部は説明している。一方で沖縄、奄美、小笠原諸島はアメリカ領土となったのみならず、特に沖縄では残虐な米兵により人を人とも思わないような蹂躙が続いた。それが60年後の今も続いているから沖縄の苦しみも続くのだ。沖縄では今日を「屈辱の日」として多くの人が気勢を上げた。

国の主権を大切にするという動きに絡めて、自民党の多くの閣僚や超党派議員が靖国神社に参拝している。中国や韓国が反発していることに対し、高市政調会長は「尊い命を捧げた方をいかに慰霊するかは日本人が決めること。外交問題にするのはおかしい」と反論している。安倍首相も「先の大戦では『靖国で会おう』との合言葉で多くの兵士が散っていった。私が指導者として尊崇の念を表することは国際的にも当たり前のことだ」と意欲的に靖国神社の公式参拝を目指す考えを示している。

中国外務省の報道官は大いに反発した。それだけではなく、「尖閣諸島は中国の核心的利益だ」と明言した。こじれた日中の関係が複雑になるのは間違いない。韓国とも同様に難しくなっていくだろう。そもそもねじ曲げた史観だとはいえ、日本は東京裁判による戦争史観を受け入れた。敗者の戦争行為は侵略として断罪され後々まで非難の対象となる一方で、勝者は敗者を裁くばかりか自分が行った侵略を正当化できるというものだ。だから70年近くたった今、蒸し返すようなことをしては世界から信頼を失ってしまう。

ところで靖国神社のこと。中韓が特に反発するのは、東京裁判でA級戦犯とされた者がいつの間にか他の戦没者と一緒に合祀されていることだ。彼らの選択が(あるいは不作為が)、日本人全体を塗炭の苦しみに陥れた。合祀するのはおかしい。合祀を解けばよい。もちろん、戦争で亡くなった人を神道の儀式ではどのように祀るのかは知らないが、多分に気分的なものだ。伝統的に定まった儀式の手法(化儀)がどうであれ、神殿にその魂が宿っているのかどうかを判断する術はない。信じるか信じないかは人次第である。とはいっても 、鎮魂のためにそこに御霊をお移し申し上げると一方が宣言しているわけであるから、別な場所にお移りいただくことは可能ではないかと思う。

帝国主義、植民地主義の先進国の趨勢にあって、当時の日本がその流れに乗り遅れることは、日本にとって国益に反していたことは確かである。朝鮮半島を制圧・植民地化したことまでは自衛の範囲として考えられる。しかし、強制労働、慰安婦問題はもちろん、強制的に創氏改名させたり神社参拝を強要したことは、明らかに精神的侵略であるといって間違いない。さらに中国へ侵攻し、満州をほぼ植民地化した上に、中国全土を戦地化してしまった事実は取り返すことのできない誤りであったと思う。そうした事実すら存在していなかったとか、正当であったと主張する輩に対し、私は肯んじることはできない。

主権回復の日を開催した意図に、そうした不実な臭いがあるとすれば、私も警戒せざるをえない。
時が過ぎアインシュタインまでもなく [2013年04月27日(Sat)]

__tn_20130427092104.jpgいつだったか土曜の午後、ネット通信の工事をしてもらった。そのあとフェイスブックやらメールチェックをしばらくした後でテレビをつけた。テレビが映らなかった。ケーブルテレビとネット通信はセットになっているから連結がうまくいかなくなったと推測された。工事会社に電話した。

「15分ほど前に工事を終えて帰られたのですが、テレビが映りません」
「わかりました。すぐに連絡をとりますのでしばらくお待ちください」

妻に指摘された。もっと前だった。15分どころではない。時計を確かめてみると1時間も前のことだ。15分と1時間、この落差はなんだ。僕の感覚では四分の一しか時間が経過していなかったのだ。

アインシュタインの相対性理論ではないが、主観的な時間経過と客観的なそれとは明らかに違いがあるようだ(相対性理論では光速に近い速度で運動したり強い重力場では、時間経過が遅くなるらしいが)。時間は時事刻々と過ぎる。年年歳歳ひとは年をとっていく。自分にとっては絶対的な感覚であっても、他と比べて相対的にみれば過ぎる時間には違いがある。あるときは濃密な時間がある。またあるときは空疎に時が過ぎる。充実の度合いに差ができていく。

ネット中は四倍の速度で時間が過ぎることが今回わかった。反対に考えればネットに集中しているうちに四倍も年をとっていくことになりかねない。適度に無駄なく時間を使いたいものだ。
太陽と春を楽しめ大盛りだ [2013年04月26日(Fri)]

__tn_20130426181418.jpg午前6時の今朝の太陽
薄紅に雲染めて空が雲間にのぞいている
昨夜の雨で一帯が ずぶ濡れ水に満たされて
雲雀が鳴いてかまびすしい
朝だ朝だよ皆起きよ ピークピーチク喜んで
萌え出ず新緑輝いて 連休間近ゴールデン

午後6時の今の太陽
空はすっかり晴れわたり 薄雲点々空に散る
遅い日の入り金曜日 松江の街はさわざわと
人の流れが賑やかだ
夕陽を浴びた老若が 三々五々に歩いてく
晴れ晴れ今夜は歓迎会?
楽しい時間を楽しめよ
風は少々強いけど 春の盛りだ大盛りだ
見ていても見えはしないと相違して [2013年04月25日(Thu)]

__tn_20130425180121.jpg見ていないものは見えない。これは当たり前のこと。ところが関心がないものは見ていても見えていない。記憶に残らない。男と女では傾向として見えるものが違う。学生と職業人でも違うし、職業の業態によっても違う。同じ公務員でも国家公務員と地方公務員では違うし、地域による異なりもある。個人はそれぞれの個性をもつわけだが、置かれた環境や歴史、影響を受ける人や本、音楽その他さまざまな縁に触れて人間はあるものに関心を持ち、他のものには無関心となる。

≪それぞれの動物、それぞれ主体となる動物は、まわりの環境の中から、自分にとって意味のあるものを認識し、その意味のあるものの組み合わせによって、自分たちの世界を構築しているのだ≫
 (『動物と人間の世界認識 』日高敏隆著,2007年,ちくま学芸文庫)

実に面白い。人間と動物、動物でも種によって、各個体ごとに意味のあるものは違う。同じ場所に立ったとしても環境はそれぞれが異なり、違う世界に生きている。実に面白い。この本には万葉人と現代人との違いが、蝶々を通して述べられている。

≪(聖書だけでなく)日本の『万葉集』にもチョウは出てこない。なぜなのであろうか。『万葉集』あるいはバイブルの成立に関わった人びとの世界の中にチョウがいなかったとしか考えられない。現実には存在しているのに、何らかの理由ないし論理によって、それに意味を与えられることがなかったので、チョウそのものは存在しないことになった。これは明らかにイリュージョンである。≫

万葉人にとって鳥はどうだったのだろう。星は?魚は?草や木は?猫や犬はその頃からペットとしては存在していたのだろうか。世界は実に面白いことばかりだ。

(写真は、目のいい人にはふつうに見える水クラゲ。海士町にて)
サヨナラは酒を飲むたび忘れてよ [2013年04月24日(Wed)]

__tn_20130424221921.jpg『勘酒』
君に勧む金屈巵(きんくつし)
満酌辞するを須(もち)いず
花發(ひら)けば風雨多く
人生別離足る

井伏鱒二の名訳

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

サヨナラだけが人生だなんて、淋しいことを言わないでほしい。確かに、出会いがあれば別れがある。サヨナラにつながっていくのかもしれない。確かに、なみなみ注いだ酒に酔わされてしこたま二日酔いになれば、もう酒なんてこりごりと思うかもしれない。確かに、桜花爛漫の輝かしい季節の終わりには花の終わりを感じてうら寂しくおもうこともある。なんて考えるうちに、やっぱり「さよならだけが‥‥」と感じてしまいそうな気持ちになってくる。

いやいや、やっぱりサヨナラは出会いの始まり。悲しい別れは新しいまだ見ぬ二人の始まり。春の息吹を感じて歩き出せば、新たな地平が見えてくるだろう。人よ、悲しむな。人よ、気を落とすな。人よ、塞ぎこむな。悩みすぎることは毒だ、薬にならぬ。楽しめ、歌え、はずめよ、無理をしてでも前に進むのだ。
本の海活字の波に洗われて [2013年04月23日(Tue)]

__tn_20130423222703.jpgあるものを生産することによって他のものを生産する機会を失い、そこから得られる利益がなくなることを経済学で「機会費用の喪失」という。ある時間を費やして何かに取り組んだ場合、その間別なことをして得られたかもしれない満足を捨てることも機会費用の喪失となる。

本屋や図書館に行くと、膨大な書籍や雑誌、知的財産に呆然とすることがある。一生涯かかっても読みきれない知の蓄積を前にして絶望的な気持ちになる。だが、何もせずこまねいている場合じゃあない。機会費用などくそ食らえだ。

過ぎ去った時間はもう戻らない。ならば、今を生きるしかない。現在から未来に向かって真剣に進んでいくしかない、と思い切ればよい。映画『舟を編む』を観て、そんなことも考えた。

近頃の流行り言葉。塾の名物教官のコマーシャルだ。
「いつやるか? 今でしょ!」
まったくそのとおり。ぐうの音も出ない。今、思い立ったが吉日の精神ですぐにでもやるべきことが僕には沢山あるんだ。
ああ海よ地球とともに生きていく [2013年04月22日(Mon)]

__tn_20130422213104.jpg海よ おまえはなぜそんなに荒れるのか 今日ではない 嵐の夜にあれほど荒れることあるまいに
海よ 今日ひとは凪いでいると言う 船酔いした僕には凪も荒れもかわらない 苦しめるこの揺れよ
海よ イルカだぞ 「海豚」と呼ぶにはあまりにも流線型 艶々しピカピカでなめらかな海の主 二頭が並んで船に向かって来た 船を横切る鮮やかな泳ぎ
海よ おまえはなぜそんなに船を揺らすのか 海に浮かぶ水クラゲとともにユーラユラ
海よ 穏やかな海よ 天気晴朗なれども波高しではなく 天気晴朗にして波穏やかなり
海よ 春霞隠岐はけぶって薄くぼんやり 春のうららの隠岐の海 隠岐の里
海よ たゆたう海よ 波をキラキラ湖の如くに
海よ 父なる海よ 船を浮かべる海よ どんなに大きな船であっても波間に漂う船は頼りない 木の葉の如くに揺らし揺らめき
海よ 母なる海よ 命の源生み出す海よ 生まれは死んで 新種が育ちて滅びた歴史よ 海は源 地球を生かす
渡る海はるかかなたに辞書を編む [2013年04月21日(Sun)]

__tn_20130421224255.jpg前半では腹を抱えて何度も笑った。劇場内でも笑い声が絶えなかった。映画『舟を編む』でギャグを楽しんできたのではない。ただひとえに、主人公馬締(まじめ)の一途さが不器用で周囲とのギャップから笑いが生まれる。映画『舟』の始まりは1995年。ウィンドウズ95は発売されたばかりの頃でケータイやPHSは出だし。世はまだアナログが強かった。今の時代とのギャップもまた懐かしい笑いの理由だったのかもしれない。

変わり者の夫婦だった。まじめとかぐやは一途な心と心で、真っ直ぐさ同士で結ばれた。言葉の海を渡る人々を助ける使命を担うためにまじめは辞書「大渡海」を編纂し、かぐやは女性板前として人々に食で笑顔を届けるという使命を感じていた。二人は不器用だが結ばれるのは必然だった。

大渡海はその姿を見せていなくとも、まじめの頭脳には明らかに存在していた。それを具体化するために、100万語に及ぶ言葉の海を泳ぎ切る力と多くの協力者が必要だった。初めまじめは躊躇していた。しかし使命に向かって進むしかないと、決然と進んだ。構想から始まって20年近くの歳月を費やして大渡海は完成した。出版記念パーティーの場で、まじめは明日から改訂作業に入ると宣言した。言葉の海を渡る読者の助けとなるために、一日たりとも休んではいられなかったのだろう。

大渡海出版の最終局面で配置された新人岸辺。小説のなかにある彼女の言葉が、辞書を編むことの魅力、生きるってすばらしいという気持ちをあらわしている。

≪言葉ではなかなか伝わらない、通じあえないことに焦れて、だけど結局は、心を映した不器用な言葉を、勇気をもって差しだすしかない。相手が受け止めてくれるよう願って。≫

言葉の海は深く広い。人はすべて言葉を使う。人はこの本を読むと、言葉を大切にしたいと思うはずだ。思いを相手に届けるためには最もふさわしい言葉がある、丁寧に正確にそして誠実に言葉を選ばなければならないと、僕は少し反省している。
善良にオズの魔法は基本へと [2013年04月20日(Sat)]

__tn_20130420145023.jpg映画『オズ はじまりの戦い』は、口八丁だけだったマジシャンが人間として成長する物語である。後のオズの魔法使いだ。

基本を疎かにすれば、どんなに器用で世渡りが上手くても、その技術も人格も底の浅さが暴露されてしまう。だが、自分を見つめつつ基本に忠実に善良に生きたときに、人は蘇る。仕事も家庭もつきあいも、読むことも聴くことも話すことも、基本を疎かにしないという善良さに立ち戻ることによって生きていく。

≪何ごとも同しじゃが、基本の形を習熟しておれば、
 そののちはよしや習わずとも見よう見真似で何とかなる。
 しかしこの基本に疎ければけっして上達はせぬ。
 何ごとも同し、というは、
 実に人生の全般に通ずるという意味じゃな。≫
  (浅田次郎著「一刀斎夢録」)

映画オズを観ると、基本に忠実に丹念にあるべしということを考えさせられた。善良であれ、それでいて意気地なしであってはならぬ。正義は強くあれ、決して勝つまで諦めるなというメッセージである。

 Somewhere over the rainbow
 Sky the Blue
 And the dreams that you dreamed of Dreams really do come true

ファンタジー『オズの魔法使い』で少女ドロシーは戦いつつ、カンザスの故郷に帰りたいと夢見たが、それには裏付けとして善良さと強さが必要なのだ。

映画オズには笑いがある。微笑みがあり、弾ける笑顔がある。含み笑い、冷笑や嘲笑もある。窮地に陥ったオズが一か八かで戦いに挑む力強い笑顔もある。悪徳と善良との厳しい攻めぎあいにあっては、善良に裏付けられた仲間同志が、笑顔で連帯することが大切であることもよくわかった。

色彩がいい。エメラルド城の未来都市的な外見を飾るエメラルドグリーンの彩り。魔女グリンダが着ていたロングドレスの清らかな白さ。巨大竜巻によって迷い込んだオズが見た魔法の国の色彩の魔力。とても印象深い。埃っぽいカンザスの荒野ではモノクロ映像だったのが、オズが魔法の国に迷い込んだ途端、ワイド画面で鮮やかなカラーとなった。この点でも見応えのある3D映画である。
オレンジの壺を探してさいなまれ [2013年04月19日(Fri)]

__tn_20130419201112.jpg後悔にさいなまれる。ああすればよかったのにどうして。のほほんと悩みもせずに問題を先送りしてきた。真剣に考えもせず慣例と周囲に従ってしまったがよかったのか‥‥‥。思わず頭をかきむしりたくなる。自分にパンチを浴びせてやりたくなる。ああ…くそったれ!

≪いろんなことがあったであろう。でも、過ぎてしまえば、すべて過去のことなのだ。消えてしまわない過去なんてない。どんな痛切な過去も、生きてさえいれば、別のものに形を変える。歳月が変えるのではなく、生き続けた人の心が、重い過去をほぐしていくのに違いない≫
(『オレンジの壺』宮本輝,1993年,光文社)

後悔先に立たず。覆水盆に帰らず。昔の人はよく言った。私の過去は戻らない。その結果として今があり、未来が来る。幸いに僕は生きている。今も未来も生きていく。欠点は欠点として覚悟を決めようよ。腹が決まれば、欠点とは裏腹の長所が表れると言うじゃあないか。過去は僕に微笑みかけてくれるだろう。そう信じて明日を歩こうよ。まずはよく寝ることさ。今夜の反省を忘れてしまわないようにね( ^∀^)
実る春選挙励みに八重桜 [2013年04月18日(Thu)]

__tn_20130418193523.jpg花盛りである。春の花盛り。タンポポの花に綿帽子、菜の花、ムスカリ(別名グレープヒアシンス)、パンジー、名を知らぬ道端の花。そして八重桜がたわわに実をつけたように豪奢な花を垂らし始めた。ツツジも空にむかって花開く。まさしく花盛りである。

松江市長選、松江市議会選も花の盛りだ。連日選挙カーが候補者の名前を連呼する。候補軍団とすれ違ったり、街頭演説に出会ったら、手を振ってあげることにしている。松江の選挙権もないくせに不誠実ではないかと、非難するなかれ。候補者たちは当選するか落選か、政治生命で生きるか死ぬかの瀬戸際に立って心細い。闇夜に出会った灯火のように、遭難した救命ボートが見つけた船舶のように、私のことを感じてくれるかもしれない。疲れて折れそうになった心に勇気を与える、いわば人助けとして私は手を振る。

先日出雲市の選挙は68%という低い投票率だった(出雲にすればという意味だ)。市長選挙がなかったこともあるが、こんなに低くてもいいのだろうかと思う。松江市は市長選が三つどもえ、市議選も候補者多数だ。これで盛り上がらなくてどうする? 島根の県都として恥ずかしくないだけの投票率を示してくれたまえ、松江市民たちよ。
ユニクロのポロシャツ着たぜゴルファーよ [2013年04月17日(Wed)]

__tn_20130417174230.jpgゴルファーのアダム・スコットが、先日のマスターズトーナメントで優勝しグリーンジャケットを着た。緑のジャケットには、800万ドルの賞金とマスターズ優勝者という生涯の栄誉がついてくる。

スコットはオーストラリア人。豪州のゴルファーといえばグレッグ・ノーマンが有名であるが、マスターズで2位はあっても優勝経験はなかった。オーストラリアの美人首相ギラード氏もこの快挙に最大限の賛辞を送った。

スコットと4月1日にスポンサー契約を結んでいたばかりだったのが、「ユニクロ」のファーストリテイリング。強運な会社だ。ゴルフウェアといえば高価なブランド物のイメージがあるが、この大型宣伝でもって世界のアマチュアゴルファーにもユニクロファンが増えることだろう。

スコットは「コース上で身に着けていて快適で楽に感じた」とコメントしたそうであるが、かつて私がゴルフをプレーしている頃もユニクロの白か黄の半袖ポロシャツが定番だった。安価でも、吸湿性がよく肌触りもいいし型崩れしにくい。

ああ思えば、夢中になっている頃は、こんなに面白いゲームなんてない、体に自由がきく限りは離れることなどあるまいと思っていた。が、今ではゴルフクラブですら握らない。有為転変、去るものは日々に疎し、人生とは空しいなど感じてしまうのは考え過ぎか。いやいや、単に私が飽きっぽいだけなのさ。

(写真はブルーベリーの花。スズランのように筒状の花には青紫が見える)
声高くこの身聴かせよ磯の鳥 [2013年04月16日(Tue)]

__tn_20130416184057.jpgイソヒヨドリが鳴いている。澄んだ美声だ。複雑な節回しで高らかに歌う。この世のものとは思えない。寺の高い屋根瓦のてっぺんでこれ見よがしに歌うのは、縄張りを主張するのか。ビルの屋上に陣取ってさえずるのは、恋の相手を求めているのだろう。最高の声音で魅力的にメスを蠱惑する。やがてつがいを作って雛を育てていく。

ヒヨドリと名はつくが、ツグミやムクドリに似ている。頭から背にかけて暗めの青色。胸や腹はレンガのような赤い褐色でコントラストが鮮やかだ。翼は光沢のある黒でかっこいい。よく鳴くからオスだろう。形容しがたい美しい声を聴かせてくれる。辺りに力強く響き渡る。

燕や雀、雲雀、山鳩など春によく鳴く鳥は多いけれども、イソヒヨドリほど際立つものを知らない。耳をそばだてて聞き惚れるうちに、心洗われ爽やかになる鳴き声である。明日もまた聴かせてくれるだろうか。

(写真は野大根の花。派手ではないが、見るほどに味がある)
魔が差して常識破り新天地 [2013年04月15日(Mon)]

__tn_20130415181609.jpg何の話題だったかは忘れた。妻と「魔が差す」という言葉が話題になった。ニュースで聞いた盗撮の被疑者のことだったかもしれない。

出来心や短慮で判断を誤ってしまうことだ。たいていはその後に大きな後悔を伴う。わたしは、魔が差すというのは「やる」ことばかりだと思っていた。魔が差して万引きをはたらく、魔が差して浮気をするなどが思い浮かぶ。

だが魔が差して、「やらない」ケースもあると気がつかされた。魔が差して普段はやるはずのチェックをしなかった。魔が差して万引きの現場で店員が、声をあげることなく犯人を見逃した。考えればいろいろとありそうだ。

魔とは第六天を支配する魔王。人の欲界を支配する。修行中の人の煩悩に火をつけて悟りの妨げとなる。西欧の概念でもあるが、人の心を迷わす悪霊のことも魔だ。転じては、人の意に反して悪い事が重なるのも魔という。魔の交差点、好事魔多しとも。そして異常なほどの固執者、物事への執着者も○○魔という。メモ魔、電話魔の如し。

常識的に当たり障りなく生活しようと思うだけなら、魔が差してしまうのは害ばかりだが、マンネリに疲れ、心が鬱屈してしまった時に清水の舞台から飛び降りてみるのも悪くない。
他愛なく幸せ感じて幸福に [2013年04月14日(Sun)]

__tn_20130414215447.jpg他愛ないことに幸せを感じられる人は幸福になれる。

人間という器に幸不幸を日々盛っていく。禍福は糾える縄の如く、幸不幸は代わるがわるやってくる。幸運の大きな塊を盛りつける端から、不運のピースがいくつも乗っていく。一人の人間の器には盛合せができていく。不幸ばかりが次々とやってくるようであっても、悠々と嵐を乗り越えていく人がある。ほんの小さな不運から身を持ち崩す人もいる。人の器は一様ではない。一人の人をとってみても、状況と心持ちによっては器は大きくも小さくもなる。器に大小さまざまなピースを積み上げて毎日がある。

花いっぱいの春はうれしい。風が薫り暖かい陽射しにたいていの人は幸せを感じる。だが、同じ境遇であってもそこに不幸せを思う場合もあるだろう。その人の境涯によって縁によっては、幸不幸は変化する。志望校に見事合格した学生にとって、日本海に沈む夕陽は希望に満ちた茜色であろうが、失恋に沈む若者には絶望と後悔のオレンジ色となる。不幸の元と思い込んでいたものが、実は幸福の源だったりする場合だってある。衣食足りて礼節を知るという言葉もあるとおり、生きるに必要な最小限の衣食住さえ満たされなければ幸せにはなれない。それは必要条件にはなっても十分条件にはならない。そこには、当たり前で他愛ないことに、気がつき楽しめ感謝していける心根が必要となる。

幸せになることは難しい。しかし意外に簡単なことなのだ。その簡単なことに気がつけないことが多いことからすると、やはり難しいことなのだ。
コミュニケでハイかローかと思案して [2013年04月13日(Sat)]

__tn_20130413130924.jpgハイ・コンテクスト、ロー・コンテクストという概念がある。アメリカの文化人類学者ホールが発案したものだそうだ。背景となる社会常識や日常生活での文脈を当然の前提としている人間関係や社会文化が、ハイ・コンテクスト。言葉は最小限でも阿吽の呼吸で理解し合える集団のことをいう。空気を読むのはお手のもの、むしろ察することが苦手だと疎まれる文化である。口数は少なく表現は曖昧になりがちで、主語は省略されることが多い。伝統的な日本のものだ。

反対にロー・コンテクストとは、言語に依存した論理的な意志疎通の方法であり、異なったバックグランドをもつ多様な民族で構成される社会に生まれる。たとえば米国がそうであり、雄弁や説明しやすいロジックが好まれるし、寡黙であることは無能の証明だ。近頃日本でも、こんなこと当たり前だろと思われるようなことでも逐一説明することが多くなってきた。製造物責任者法ができて以来おもちゃの説明書きがやたらと長くなったことや契約書がやたらと長くなってきたのも例だ。日本もロー文化にシフトしつつある。

ロー文化では、背景や価値観が違えば思いが通じ合うことはないということを前提とするので、説明が長くなり質疑も執拗だ。反対にハイ文化では、あっさりと説明し細かいことはその都度相談しましょうということになる。ロー文化では契約化されれば納得づくで約束が守られるが、一方でハイ文化は誤解が生まれやすく紛争が始まると最初の取り決めが半端なものだから困ったことになる。

ハイ文化の集団にあっては、説明し過ぎると水くさいと思われる。だが、不満が鬱屈するとトラブルになる。家庭内や仲間内で傷害、殺人が起こるのはたいていこれだろう。先月広島・江田島の牡蠣加工会社であった殺人事件。殺された社長は少々厳しくやっても思いは伝わっていると信じており、一方の中国人研修生は日々不満をつのらせた。ハイの日本とローの中国との違いからきた不幸だった。

アメリカ型のグローバル社会は究極的にロー文化を追求する。普通の会社であっても構成員それぞれが生い立ちや知識技能、価値観、今の環境の違いがあるなかでコミュニケーションを円滑に進めることは大変なことなのだ。家族でも恋人関係、友人関係においても、しばらく会っていなかったりすると途端に意思の疎通に違和感を感じることがあるが、コミュニケーションとは難しいものだと思う。いずれにせよ、ハイ文化の上に胡座をかいていられた時代は終わった。ビジネスにせよ、愛を語るにせよ、思いは言葉でもって伝える努力を怠ってはならない。
鋭敏さマスク消し去り気配消え [2013年04月12日(Fri)]

__tn_20130412210611.jpg花粉症の予防のためウイルスや細菌を吸い込まないため、マスクをつける。
マスクをつけると鈍くなるような気がする。
感覚に鋭敏さがなくなるんじゃないか。
確かに温かい、鳥インフルエンザウイルスだって侵入を防ぐはずだ。
不織布三枚重ねのマスクは経済的で安くもある。
いいことばかりのようだが、皮膚感覚に違和感がある。
マスクなしで外を歩くとき、鼻の奥にツンとした空気の流れを感じる。
口角や唇にさわる冷たい渦。
それを感じにくい。
辺りの匂いよりマスクの匂いがする。
鼻の奥や口の周りに当たる空気から感じられる気配のようなもの。
それを感じにくい。
鼻と口を覆っているためか、気配や動きを感じにくい。
メガネが曇りやすいこともあるのかもしれない。
イヤそれ以上に気配を感じない。
幾分か耳も聞き取りにくいのではないだろうか。
蒸れて暑苦しくなればその不快さで察する力は衰えるだろう。
マスクは役に立つ。
けれど鋭敏な感性を失いたくない時には邪魔物だ。
花は過ぎて選挙の春はいきにけり [2013年04月11日(Thu)]

__tn_20130411185643.jpg桜の花は終わったが、出雲市議選は花盛りだ。7日が告示、14日に投票が行われる。定数32人に対し候補者は36人。激戦というが表面上はポスター掲示板が色とりどりに華やかで、時おり選挙カーが通りすぎる程度。それほどの変化はない。番外の4人には残されまいと、どの候補も頑張っている。今回は合併後の斐川町が選挙区に合区され票読みが難しく、油断は禁物とのこと。

「選挙カーが通りすぎる程度で」と書いたが、やはりうるさい。候補の声、マイクを持つ女性の声が交互に大きな音を出す(ちなみに女性の候補者は一人だけ)。名前を連呼する。「皆様にお世話になり」「頑張ります」「ありがとうございます」と同じことを繰り返す。名前を浸透させることが目的であり、政策を述べても風に流れて消えてしまう。だから能もなく連呼することになるのはある面仕方がない。誰かを応援してでもいない限り騒音でしかない。

公職選挙法が禁止している選挙活動は、戸別訪問、特定公務員の選挙運動、地位を利用した運動、不特定多数への法定外文書頒布(ネット利用を含む)などであるが、特に個別訪問禁止とネット禁止を規定しているから、愚にもつかない連呼がまかり通る。

各戸の玄関先で候補も支援者も堂々と政策論を展開し、有権者の心をつかむのである。買収の温床になるという心配は無用だ。お金をもらったとしても、告発すれば無罪としておけばよい。候補者は疑心暗鬼になってお金などばらまけまい。ブログやフェースブックで選挙期間中もどんどん拡散させればいい。それを使えない候補者に遠慮することはないではないか。政治の恩恵を受けにくい若年層の投票率を上げることが先決だ。この夏の参議院選で一部解禁となる。期待しておこう。

「愚にもつかない連呼」と書いたが、もし連呼がなくなったら寂しくなる。2年前の県会議員選挙出雲選挙区は無投票だったし、今回の出雲市長選は無投票だ。お祭りの賑やかしでもって、連呼というやつも地域を盛り上げるひとつの方法といえるかもしれない。選挙という穏やかな‘戦争’すらできなくなったとしたら、地域力がよほど衰えたということなのだ。

ともあれ、候補者の皆さん! 当選の暁には、出雲の次世代を育て、出雲ブランドを全国に知らしめるため、明日の出雲市全体のためにいい政治活動をしてくれるよう願っています。
北来たぞ核とミサイル引き連れて [2013年04月10日(Wed)]

__tn_20130410074640.jpg愚か者に対し「おまえは愚かだ」と言い放っても全然意味はない。彼は聞く耳などもたないし、おまえの方こそ馬鹿だと言い返されるのがオチだろう。

北朝鮮、中距離弾道ミサイル・ムスダンの発射準備を完了し、無警告で発射する可能性が今日にもある。北朝鮮は韓国にいる外国人に国外待避を勧告し、緊張を高めようと画策に余念がない。日本政府としても厳戒態勢で臨み、イージス艦で迎撃するよう破壊命令を出した。アメリカは同盟国に攻撃があれば直ちに北朝鮮を攻めると覚悟を決めた。

韓国も含め世間では冷静で「ああ、またか」という反応だが、それが恐ろしい。彼らはその隙に乗じて発射を強行するかもしれない。国際社会から非難されれば「朝鮮戦争の休戦状態は解除していた」「警告はしていた」との言い訳も可能だからだ。

金正恩が名実ともに独裁者の地位についているのか、それとも傀儡として操られているのか。前者を10、後者を0としたら8か9か? いずれにせよ、力を誇示するためにここは一矢報いたいと考えるのが自然だし、何らかの行動を起こすだろう。さらに怖いのはクーデターが起こることだ。指揮系統は混乱し、新しい独裁者が生まれるまでに混迷を増す。無政府状態となれば、保持する核戦力を使おうとする現場指揮官がいないとも限らず、目が当てられなくなる。難民が溢れたとしたら東アジア全域が混乱の極致に陥るだろう。

さあ、強硬な対応策ばかりではなく、北朝鮮金正恩を日本に招こう。側近とともに招くのだ。さらに一部の富裕層も招いて、「核ミサイルのターゲットにあなた方がする日本はこんなにも豊かに、震災後も不景気でもいいとこなんですよ」と教えてやろう。もちろん米中韓との制裁作戦は両にらみで進めるとしても、北風ばかり当て続けては彼らに我慢の限界がきてしまうことが怖い。窮鼠が猫を噛み、自暴自棄、死なばもろとも、人を呪えば穴二つになってしまっては元も子もない。なんせ、彼らは愚か者なのだから。
ツッコミはボケと合わせて幸せに [2013年04月09日(Tue)]

__tn_20130409191930.jpg漫才やコントは、ボケとツッコミで成り立つ。落語にしても落語家は両者を演じ分けて笑いをとる。お笑いは総じてその融合で芸術的な笑いが生じていく。ただし、ツッコミ役がどついてばかりで暴力の度が過ぎると、サド的な笑いとなって見る者をいたたまれなくする。

テレビや劇場以外にも笑いはたくさんあるが、世はツッコミだらけになっているような印象を受ける。自分は鋭いんだ、油断のなどしないところを見せたくて突っ込む。イジメられたり、シカトされないように、足下をすくわれないように攻撃に徹する。クレーマー、○○モンスターと言われる人びとも隙を見せまいと常に気を張り詰めて大声をあげる。

おのずと社会には余裕がなくなって、温かい笑顔が消えていく。残るのはシニカルな冷笑と引きつった追従笑いばかりとなる。と、決めつける必要はないけれど、景気を回復させて幸せになろうとする先が、冷えて淋しい到達点では面白くない(ああまた決めつけてしまった)。

世の中、少しはボケてみませんか。隙のあるところを見せて、笑いをとってみませんか? 少し柔らかな生活に戻れるかもしれません。ただし、ボケといっても認知症はいけません。ベータアミロイドを脳内から除く特効薬を早く開発してほしいものです。
桜散り次の季節は繚乱に [2013年04月08日(Mon)]

__tn_20130408075117.jpgソメイヨシノの蕾が大きくなった。木全体が淡い桃色になった。ひとつ二つと花が開いた。開花宣言が出た。二分咲き三分咲きとなって期待が増した。花の房がぐんぐん大きくなった。世間では満開と言った。梢を揺らさなくてもちらほらと散るようになった。六分七分となって満開となった。桜名所に花見に出かけた。春の風に当たって心地よい春を満喫した。油断してマスクをつけ忘れたら花粉症がひどくなった(私のことではない)。山の中腹から徐々に頂上にむけて山桜が淡い白い染みを増やしていった。爆弾低気圧で強い風が吹いた。強い雨も降った。桜は散った。根本に濡れぼそる花の残骸を残した。耐えて枝にへばりつく花は愛しかった。

この二週間あまり私たちの気を引いてきたソメイヨシノが主役の舞台から降りる。桜に気をとられているうちに、いつの間にか山には新緑が芽吹いている。山が笑っている。山が萌えている。山は淡い万種の緑色を盛りつけて体積を増している。春モミジというとおりの鮮やかさを垣間見る。

やがて八重桜が咲く。チューリップが咲く。パンジーもさらに艶やかになる。ツツジが咲き誇る。ウキウキと百花繚乱の華やかな季節がやってきた。
探しつつ自分を隠す術も得て [2013年04月07日(Sun)]

__tn_20130407200941.jpg猫も杓子も「自分探し」と言っていた頃があった。やっとその流行りが終わったような気がする。自分とは何か。性格は?好みは?適性は?向いた仕事は?相性のいい異性は?……人間とは生まれつき個性や人格が定まったものであり、なにがしかピースを当てはめることによって幸せへの軌道が描かれるといった発想が元になっているように思える。

人間とは不断に変化し続けるもので、他者やものとの関係性の中でいかようにも変われる、変わっていく。どこかに理想郷があると幻想してさすらうよりは、今ある環境のなかで、あるいは思いきって飛び込んだ環境で頑張っていくことに価値がある。

別な言葉でいえば、自分らしく生きるなんて百年早い。日々戸惑い迷い、人との出会いを繰り返すところに自分というものが見えてくる。
≪十八、九で取柄のあるやつなんかいるものか。取柄ってのは自分で作るもんだって≫
(浅田次郎「歩兵の本領」)

自分の取り柄を社会の中で見つけていくためには、自己開示が必要であり、個人情報を提示していかなければ、新しい人間関係は育てていけない。だが、個人情報を出し過ぎると、垂れ流しとなって余計な軋轢を生む。先週ニュースで、フェースブックで友達にしてもらった男が女性にストーカー行為を働いて逮捕されたと報じられたが、こうした危険もある。名前、年齢、家族構成、職場、仕事内容、何が好き、どこへ行くのが心地よい、どんな本を読んで、何の映画に涙した……。

プライバシーの開示が必要なソーシャルネットワークの世界では、自分探しではなく「自分隠し」が必要なときがあるようだ。
ツレが鬱うつうつ気分を乗りこえて [2013年04月06日(Sat)]

__tn_20130406173355.jpg映画『ツレがうつになりまして。』は、鬱病の啓発的な物語として有効なラブストーリーである。超がつく几帳面な夫(堺雅人)が鬱病になり会社を退職した。その夫を「ツレ」と呼ぶ妻「ハルさん」(宮崎あおい)は売れない漫画家をやっている。

失業保険も切れ蓄えが尽き経済的に苦しくなったとき、ハルさんは数ヶ月前に連載を切られた出版社に駆け込み、「ツレがうつになりまして 仕事をください!」と窮状を正直に訴える。夫が苦しいのはもちろんだが、妻もその夫と一緒に苦しむ。妻は漫画家としても苦しさを抱えた時期だった。というよりは、ツレの発病と失業でもって、自分がやりたい仕事はなんなのか?という問いを突きつけられて苦しい局面があった。

5年前に結婚していた二人。同じ時期にその教会で式を挙げたカップルが年に一度集まって‘同窓会’をする。全快とはいかないが、苦しい時期を脱した二人が2年ぶりに出席したシーンが泣かせる。ハルさんはこんな内容のことを述懐する。結婚の儀式で「その健やかな時も病める時も豊かなる時も貧しき時も、命のかぎり愛することを」誓った。ツレうつの体験でこの誓いを果たせた、本当の夫婦になることができたと。

ハルさんはこの体験を通して周囲の人に誤解や曲解が多いと感じたのだろう。世の中に鬱病の啓蒙をしたいと考えた。ツレも同様に考えていた。漫画を書き、講演をするなど二人でマネジメント会社を立ち上げてハッピーエンドとなる。

二人のペットが最愛のイグアナ「イグ」。もちろん台詞はない。だが、好きな人や動植物が凛としてそこに存在していてくれることが、病気を抱えた人や精神的に弱っている人へのエールとなることを示す映画でもあった。
伝わって人から人へ気とともに [2013年04月05日(Fri)]

__tn_20130405205028.jpg母の味は母から子へ受け継がれる。伝統工芸の技術も職人気質の親方から弟子へと伝わっていく。時代は変わり継承の形は違っても、いいものは次世代に残っていってほしい。それが地域文化の源であり、人類文明の基礎であるからだ。人から人へ伝わることが重要だ。民族に固有の伝承も口から口へ、手から手へと人によってつながっていく。

温かい思いやりにあふれた人間関係のなかで、破れ傷ついた人が思いを伝え再び立ち上がる気力を奮い起こしていくときも、人の心がキーとなる。相手が体温を感じられる近さにあって肉声を伝えてくれると、人は喜びを感じられる。

人から人への継承や伝達をこれからも大事にしていきたいものだが、ここにヒトからヒトへ絶対に伝わってほしくないものがある。

中国で発生したH7N9型の鳥インフルエンザが拡大している。感染者14人で、うち死亡した人が5人となってしまった。ワクチンができるまでは時間がかかるだろうし、タミフルなど抗インフルエンザウイルス薬の効果があるかどうかは未知数だ。二年半前には韓国でH7N7亜型が発生し、四年前には豚由来ではあったがH1N1型が流行った。それより前に東南アジアで発生した鳥インフルエンザはH5N1型だった。

幸いにいままでは、ヒトからヒトへと伝染る高病原性とはならなかったし、今回もまだ確認されていない。だが、鳥インフルエンザウイルスが猛威を奮う世界、バタバタとヒトが感染しあって倒れていくパニックの時(パンデミック)はそう遠くにあるのではない。 人類の英知が試されるときだ。その英知は人から人へと継承されていってほしい。

(写真は、異世界の都市景観を思い浮かべるようなムスカリの花)
世の中にたえて桜のなかりせば [2013年04月04日(Thu)]

__tn_20130404193004.jpg世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  小野小町

今日は暖かだった。夕方になってもまだ充分暖かい。松江の桜は満開だ。昨日も桜、今日もブログに桜を書く。またかよ、と自分でも思う。けれど書く。書きたくなるのはたぶんDNAのせいだ。日本人の遺伝子に色濃く刷り込まれているかどうかは知らない。だが、平安の昔から花は描かれ、梅から桜へ、花の主役は移動した。多くの桜があるが、なかでもソメイヨシノが主役になったのは江戸の頃からのことらしい。挿し木で増える同位体だからということだが、一斉に花咲き、暖かさとともに列島を北上する面白さ。耳目を集め、華やかさに心を躍らす。雨が降れば散りやしないかと心曇らし、風が吹けば花よ残れと声援を送る。サクラとは不思議なものよ。あの淡い淡い花、はかなげだ。しかし群となって小山に満ちたなら、辺りを圧するほどに迫力がある。今夜はさぞや花見の宴が多いことだろう。迫力の花の元、酔っぱらいたちがこの世の春を謳歌する。ふと酔いが覚めて寒さに震えることもあるかもしれない。「世の中に桜がなければ…」と、想像するのも無理はない。「花よ花よと褒めそやされて歳をとったらどうなる…」と、過去の我が身と今の身を比べて暗い気持ちになるのも無理はない。週末まではもつだろう。桜吹雪が道端を染めるのももうすぐだ。葉桜に太陽が隔てられる頃、百花繚乱の季節がやってくる。上着がうとましくなる季節もすぐそこだ。
列車から桜並木を見るに能わず [2013年04月03日(Wed)]

__tn_20130403203334.jpg一週間前にそぞろ歩いた玉造温泉の桜並木。あのころ花はまだ2分咲き程度。昨日の暖かさで満開になったであろう。わたしはJRの列車から桜の群列を観るために進行方向窓際に座った。桜が見えてくるまでは十分時間がある。『インド夜想曲』(アントニオ・タブッキ著,須賀敦子訳)を鞄から取り出して読み始めた。インドに失踪した友人を探すうち「僕」の前には解釈不能な幻想が次々と現れる。魂の大国インドそのものが幻想なのか、僕の存在が幻想なのか、わからなくなってしまうミステリアスな体験。不思議な浮遊感に満たされて、わたしは夢中に読み進めた。ふと気がつくと、桜並木はとうに過ぎていた。

今夕、今度こそ玉作川沿いに延々と続くソメイヨシノを観るぞと、進行方向に席を得た。すぐに現れた宍道湖の夕日。太陽は半分隠されてはいるが、穏やかな湖面を朱に染めて、まがうことない一級の景観を楽しむ。車内は暖かい。今日一日の疲れで瞼が重くなっていく。いかん寝ては、と本を出して読み始める。『わかりやすいはわかりにくい〜臨床哲学講座』(鷲田清一著)。「各人にとってもっとも遠いもの、それは自己自身である」というニーチェの言葉を反芻するうちに、気持ちよく眠り込んでいた模様。ふと目が覚めると玉造温泉の次の駅、「来待」に到着。来たるを待つ来待。玉造の桜はわたしを待っていてくれたのに、その期待に応えることができなくて残念無念。

玉造温泉の桜たちよ、明日もまた待っていてくれ給え。

(写真は松江大橋南詰めの大桜。こんもりとした小山のようだ)
思い切りやるぞコントを相方と [2013年04月02日(Tue)]

__tn_20130402183711.jpg「嫌です」。相方の甲本から交換日記を持ちかけられた田中の返事。なんでも言いたいことを書いて芸を磨くなんてトンでもないと田中は考えた。そもそも心に思うことを全て表現するなんて無理だ、と田中は考えていたに違いない。

映画『ボクたちの交換日記』が始まって、今どき交換日記?なんて古くさい!と思った。ところが日記は、売れない二人のコント芸人の仲立ちとなって両者のマンネリ化した関係を変えていくのである。この日記は物語の進行上もとても有効に働いた。説明っぽくならず、それぞれ別々に日々の糧を稼ぐため奮闘する両者を描いていく。

歯を食いしばって窮乏生活に耐えた。売れっ子の前座として屈辱の日々。客のいない客席に向かってギャグをかます空しさ。それでも二人には原点があった。高校卒業時に二人がお笑いで食っていこうと決意し、苦労の航海に船出した房総の海辺のあの場所。ネタの練習に必死で取り組んだ公園。お笑い界の底辺にいたからこそ分かるあの世界の残酷さ、辛い空気感をよく表現した。

コンテストの準決勝。決勝十組に残ればテレビ放映の栄誉にあずかれ出世のチャンスが到来するという本番で、甲本がセリフを飛ばしてしまう。あのやりきれなさ、しんとした空気。いざというときに役にたたないのではないかと、観ている私自身が身につまされ不安になった。でも今、田中は甲本とコンビを解消して売れっ子になった。しかしどんなに売れても、あの甲本と過ごした日々を忘れることはない。心の宝として苦労の日々を忘れることはない。あの頃は辛いことばかりでもコントを心から楽しめた。今、田中は大切なものを失ってしまったと考えていた。

どんなに超売れっ子で周囲から大切にされる今も、不安にさいなまれる。番組が打ち切られたらどうしよう、飽きられてしまったらどうしようと。今の相方とは心から楽しめていない。心は空しい、あの頃を恋い焦がれる。だが、プライドにかけても自分の目の前から消えた甲本を探し出して思い出にひたるとか、あわよくば房総スイマーズを再結成しようなどとは口が裂けても言えなかった。

ところが甲本の娘が現れた。田中は堰を切ったように思いが溢れだした。そのときの田中(伊藤淳史)の表情がいい。すでに不治の病に冒されていた甲本(小出恵介)は夢を諦めはしたが、愛する人のために現実との折り合いをつけて田中とのコンビを解消したことを後悔していなかった。そのことを知った田中はプライドを捨てて甲本のもとへ走った。

脚本と監督は内村光良(ウッチャン)。絶妙なコントの間の取り方。監督直伝であるという。間と勢いとつっこみとボケで、客を楽しませるお笑いの世界。舞台袖で待つコンビたちの緊張が観る者にも伝わってくる。そこまで苦しい思いをしてまで人を笑わせたいのか。芸人たちの舞台裏をわずかながら知って、私はプロフェッショナルのすごさに愕然とした。流麗にきっちりと間違えなく事をやり遂げることがどんなに難しいか、かつ観る者にそれを覚らせてはならない。優雅に泳ぐ白鳥は水中で懸命に水かきを動かし、浅田真央はボロボロになるまで練習に明け暮れる。

あることを達成できたことによって失ったものがある。甲本とコンビを解消して超売れっ子になった田中。反面お笑いの楽しさを感じられなくなったというが、仮に甲本とのコンビのまま売れ始めていたとしたら、やはり何かを失ったことだろう。経済学でいうところの「機会費用」である。ある物を生産することは別の何かを生産する機会を失い、そこから得られる収益を犠牲にすることになる。失ったその収益を機会費用という。ある時間を費やして何かに取り組んだとすれば、その間別なことをした場合に得られる満足を捨てることも機会費用の喪失である。

Aの時間で得たAの満足と、Bの時間で得たかもしれないBの満足。両者を比較すればどちらが大きいか。よくやる比較ではあるが、あまり意味はない。過ぎ去った時間はもう戻らないからだ。ならば、今を生きるしかない。現在から未来に向かって真剣に進んでいくしかない、と思い切ることができる。この映画はそのことを改めて感じさせてくれた。
尖閣やフルに竹島エイプリル [2013年04月01日(Mon)]

__tn_20130401052904.jpg中国と韓国の情勢に通じた信頼できる筋から、驚くべき情報が寄せられた。中国は多くの領有権問題を抱えている。尖閣諸島問題だけでなく、南沙諸島、西沙諸島など、さらに内陸部でもカシミール地方などで隣国との対立が激しくなっており、漁業や地下資源をめぐって争いが絶えない。ところが、このほど国家主席が胡錦涛から習近平へ交代したことに伴い紛争要因がなくなったとして、強硬して軍事的に緊張を走らす路線をやめ、柔らかな対話路線へと転じた模様である。

それはなぜか。その解は、胡錦涛元主席の胡という姓にある。日本語で「沽券に関わる」という言葉がある 。面目をつぶされ品位を穢されたと考えることであり、多分にプライドに関わることであるが、中国語では「在関胡券」と書く。「胡券」と「胡錦涛」が重なるのが問題であったのだが、習主席への交代でその障害が取り払われたと中国共産党指導部は判断した。今後実際に中国の脅威がなくなるためには日本側の交渉力が試されるところではあるが、枕を高くして寝られるときも近いと、自衛隊や海上保安部の乗組員は待ちこがれているという。

竹島についても朗報が伝えられた。韓国は百年ほど前、清時代までは中国を宗主国として臣下の礼をとってきたわけであるが、朴槿恵大統領が就任して以降、儒教の復古的動きが強まるなかで中国との関係を最重要視し、礼節を尊び古き伝統に帰れという運動が始まっている。その一環として、尖閣諸島等の領有を強硬に目指すのを中国が中止したことにならって、韓国は竹島の軍事支配を解消し日本へ返還しようとする路線に転換した模様である。

先日外務省は2013年度版の外交青書概要を発表し、日本を取り巻く情勢は領土・領海に対する脅威が厳しさを増していると分析した。そのなかで、尖閣諸島に関して日中間に「解決すべき領有権の問題はそもそも存在せず、引き続き冷静かつ毅然として対応する」と強調し、竹島についても韓国が不法占拠を続ける状態であるが「日本固有の領土」と明記したばかりである。今日、四月一日のうれしい情報を受けて、外務省は外交青書の内容の書き換えに着手したということだ。

(追記)google翻訳によると「沽券に関わる」は「在銷售單」とのこと。「在関胡券」というのは出鱈目。失礼した。