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前例を破りし白鵬快挙なり [2013年03月31日(Sun)]

__tn_20130331211543.jpg先週終わった大相撲大阪場所で白鵬が24度目の優勝を決めた。優勝回数は史上4位に並び、全勝優勝も9度目という偉業である。優勝インタビューで白鵬は「大鵬さんにこの優勝をささげたい」と話し、観客にも起立を求めて一緒に黙祷した。

さすがだと思う。前例はない。前例主義の伝統相撲にあって、踏襲することばかりを考えていたとしたらそもそも黙祷を一緒にやろうとはしなかっただろう。前例を守るということ以上に、亡くなられた納谷幸喜氏を悼み大鵬関が築いてきた偉業を称えたいという意志が強かったということなのだと思う。空気ばかりを読むことに神経がいく日本人力士にはできない。むろん優勝した者だけに許される特権である。しかしその権利を使おうと考えたこと、これも快挙だと思う。

前例となる儀式や様式が続いてきたのにはそれなりの理由がある。より美しく合理的になるように先人たちが形を整えてきたという歴史がある。美学があり論理がある。それでも時代は変わる。ときの人人の気分も変わる。十分に財政を費やすことができなるときもあろう。前例は大切であるが、それにばかり縛られてしまうと、できることもできなくなってしまう。促されて前例どおりやらされるよりは、自ら考えて工夫して動いたほうが喜びがより深くなる。それを実行した白鵬に拍手を送りたい。

(追記)白鵬を12日目まで二つのほしの差で追った東前頭7枚目の隠岐の海は敢闘賞をもらった。前頭の筆頭か、それとも三役まで上るか。いずれにせよ、練習嫌いと揶揄されるのではなく、地元隠岐の島町の期待に応えてぜひとも横綱と力を並べてもらいたい。
一年生不安と期待いり混じり [2013年03月30日(Sat)]

__tn_20130330164421.jpgだれもが知っている歌『一ねんせいになったら』(まど・みちお作詞)で、歌の主は、友だち百人で富士の上でおにぎりを食べたい、日本中を駆けて一回りしたい、世界中をふるわせて笑いたい、と気宇壮大である。だが、その想いの前には不安がある。

 ≪一ねんせいに なったら
  一ねんせいに なったら
  ともだち ひゃくにん できるかな≫

2回も「一ねんせいになったら」を繰り返す。一年生になるよねえ、となりにはだれがすわるんだろう? イジメられやしないかな? きゅうしょくはぜんぶ食べられるかな? べんきょうはよくわかるかなあ・・・・・・・期待に胸がふくらむ一方で、そんな不安が渦巻く。心細い気持ちでいっぱいのことだろう。それを100人で打ち消そうと頑張っている。見栄もはって一年生は大変なのだ。

春というのは気候が不安定であり、心身も不調となりやすい。先人がこの時季に新年度、新学期をもってきたことには功罪両面があると思う。満開の桜とともに新しい生活をウキウキと始める楽しさ、反面慣れぬ日々に心沈む不安。春のうららかな気候に隠れた一抹の危うさが私たちを苦しめるときがある。

ひとは誰でも一年生だ。学校や会社に限らず新しい環境に入っていく機会は多い。毎日繰り返される生活にあっても状況は刻々と移り変わり、新たな局面が生じる。新しい人と出会い、知らないことを学べると面白がるひと、いつも「一年生」のつもりであらたまって頑張れるひとは強い。
桜咲きワッフル食べて新年度 [2013年03月29日(Fri)]

__tn_20130329192426.jpgワッフルをいただいた
美味しくいただいた
甘い甘いワッフルだった
松江の老舗ウエダのワッフル
若い職員さんが辞めるに際しみんなに配ってくださった
仕事を続けたい辞めたくない、葛藤があったことだろう
甘味を増すのはひとしずくの塩味
彼女の涙を感じたからワッフルがいっそう甘かったというのはおセンチかもしれない
今日は平成24年度の最終日
退職される方、定期異動にかかる人
業務の引き継ぎに去り行く儀式に、皆が忙しく駆け回った一日
明日からの週末を終えて月曜日が来ると4月の1日
新しい年度が始まる
フレッシュマンが輝かしく登場し、不安も抱えながら顔晴る日々の始まりだ
松江では1日あたりに桜、満開となる
4月はますます輝いていく
100年の意義をとどめたその日なり [2013年03月28日(Thu)]

__tn_20130328121901.jpg西暦2000年12月31日、すなわち20世紀最後の日。この日に生まれた子どもがこの3月に小学校を卒業した。新年度から全ての小学生が21世紀生まれとなる。したがって今回の卒業式は「歴史的式典」だ、と祝辞を述べたある来賓のことが紹介されていた。(聖教新聞2013年3月27日付け「名字の言」)

≪どんな年であれ、卒業は、自分史にとって重要な節目である。だが、「1世紀」「100年」という長い時間を背景にした表現だけに、とても感慨深いものだった≫

なるほど、と思う。目のつけどころが違うな、と思う。日常頻繁にあることではないが、市井の一場面に差異をみつけて表現し、人を納得させる。意義をとどめてその日を忘れられないものとする。気が萎えたときに思い出させてやる気をおこさせる。すばらしい来賓の言葉だと思う。

明日のために今日は何を残したか。一年後に五年後に、さらに十年後につながる今日であったのか、あるのか。まずは自分自身に意義をとどめられる一日でありたい。

(桜は二分咲きか。今日の暖かさで大分開いた。満開まであと数日。写真は玉造温泉のソメイヨシノ)
ドラえもん勧善でなく阿吽かな [2013年03月27日(Wed)]

__tn_20130327202123.jpg壮大な世界観を期待していた。単純な勧善懲悪とは違う悪との関わりかたを期待していた。テーマは、諦めなければ必ず夢はかなう、どんなダメ人間でもどこかに取り柄はあるというものだった。残念ながら、構想力はいま一つ、画面の立体感や鮮やかさも感じられなくて退屈だった。劇場内は親子連れで一杯で、小さな子どもが喜んで観る映画に世界観を期待するのがそもそもの間違いだったのかもしれない。

映画『ドラえもん』は「のび太のひみつ道具博物館」でもって、観客動員数が1億人を超えたという。私もその一員となったわけだが、もう1つ気がついたのはハイ・コンテクスト。言葉にあえて表わさなくても阿吽の呼吸で理解し合える集団や間柄のことであり、それを前提とした文化のことだ。

のび太は不思議に思っていた。ドラえもんが首に着けている古ぼけた鈴。盗まれたそれを必死で探すドラえもんのことを不審に思っていた。が、のび太は気がついた。二人が信頼し合うきっかけになった記念の品として、ドラえもんが何よりも大切にしていたものであることを。察し合う二人の友情はさらに深まったのだった。のび太とドラえもん。分かりあえるハイ・コンテクストな関係だ。

映画ドラえもんは1980年から30年も続いてきたヒットシリーズだ。すでに寅さんシリーズと同様に国民的な存在と言えるのかもしれない。言わなくても分かりあえる、説明を要さずにドラえもんのことは理解できるという人が多くなっているのかもしれない。ドラえもんは日本人にとってハイ・コンテクストな存在だ。
違憲なり威厳をもって断言す [2013年03月26日(Tue)]

__tn_20130326195640.jpg『格』とは地位や身分、あるいは等級のこと。格が違うとか、破格、リーダー格という如く。それに加えて『格差』といってしまうと、多分に経済面の差が強調されてくる。確かに辞書では「同類のものの間における、価格・資格・等級・水準などの差」と説明するが(WEB大辞林)、損得勘定に傾斜してしまう印象がある。

所得の格差、賃金の格差、資産の格差がまさにそうである。世代間の格差といえば、老後のために今もなお節約に努める高齢者とワーキングプアの若年層との格差をイメージするし、地域間の格差は東京を頂点とする富の構図を思い浮かべる。情報の格差、医療の格差も同様だ。共産国と資本主義国との経済発展の差は東西格差と呼ばれたが、今もその名残はある。正規雇用に恵まれなくて経済力がない故におこる恋愛格差、結婚格差(それだけではないだろうが)もお金の問題にかかっているようだ。

そして、一票の格差。昨日の広島高裁では、最大で2.43倍となった衆院選をめぐり、違憲で無効だと厳しい判決があった。今日も広島高裁松江支部も含め何ヵ所もの裁判所が判決を下しているはずだ。

自民・公明政権はどう収拾を図るのか。比例定数分を削って小選挙区に配分しようとしても、おのずと限度がある。過疎地はますます政治から目が遠のき、都会地では区割りが小さくなってますますどぶ板選挙が増える。当選することだけに汲々とする政治屋だけが跋扈する。日本全体を視野に入れた真の政治家に活躍してもらいたいものだ。

そのためには中選挙区に戻すというのもいいアイディアだと思う。度重なる区割りを変更する必要がなく、定数の増減で修正ができるし、小さな県の一体性も保っていくこともできる。選挙は目的ではなく、手段にしか過ぎないことを再認識したい。それに私はもう一言いっておきたい。「文句を言うなら島根並みに投票率を上げてから言ってこい!」 むろん通用するはずはない。政治に参加できる可能性を提供するまでが法の下の平等なのだから。所詮イリュージョンである。
いざ行かむ春は出会いのものなれば [2013年03月25日(Mon)]

__tn_20130325182606.jpg春は出会う季節。人と出会う、クラスと出会う、仕事と出会う、あれこれと新しい環境に出会っていくもの。

春は不安定な季節。寒暖の上下が不安定、強い風が吹き生暖かく風が過ぎる、誉められて罵倒されて落ち込んで気分はジェットコースター。環境も心身も安定しないもの。

春は自分を想う季節。比較する、試す、よく見る、優越感を持つ、楽しむ、いろいろな角度から自身を眺める、相手から観た自分を知って自己を認識するもの。

春は知る季節。ものごとの違いを知る、微細な表現で違いがわかる、様々な人びとの生き方を知る、冬があってはじめて春の温かさを知る、苦労してはじめて日常の平凡なことが貴重であることがわかる、体調を崩してはじめて健康の有り難みを知るもの。

春は別れの季節。出会いがあれば、別れもやってくる、失ってはじめてそれがいかに貴重な存在だったかを知る、ぞんざいに扱ったその人との時間を悔やむもの。

それでも春は素敵な季節。陽光まばゆき、生命力に満ち、新しい未来を予感させる季節。春は嬉しい。

(クリスマス・ローズが咲いている。Sさんからいただいた鉢植え)
言霊に支配されたは原発は [2013年03月24日(Sun)]

__tn_20130324193053.jpg福島第一原発事故の収束のため首相補佐官として対応に当たった馬淵氏は次のように述べる(馬淵澄夫著「原発と政治のリアリズム」新潮新書,2013年)。

≪彼らは、全てを数値とデータで判断しようとしていた。一種の強迫観念のごとく、四六時中数字を見つめていた。数字と矛盾する仮説はことごとく否定される。
 そして、その数値を元に導き出される結論は、いつも楽観的なものが多かった。(中略)原子力ムラの人間というのは、「最悪の事態」を想定すること=「最悪の事態」の発生を宣言することだと考えているようだった。だから、データや数値の中から一つでも多く安心材料を見つけては、それを積み上げ「楽観論」を形成する。
 故に彼らの論理は非常に脆かった。安定冷却が本当にできているのか、地下水は汚染されていないのか、素人でも考えつく疑問を東電や保安院にぶつけても、彼らはそうした疑問を否定し、「大丈夫です」を繰り返すことが多かった。
 それでも追及を続けると、最終的には「誰も実際の様子を見ることはできない」「確認することはできない」「あくまで可能性の問題」だと言葉を濁した。不確かで曖昧な認識の上に立てられた空論に過ぎなかったのだ。≫
 
最高の原子力工学と技術を持つ人びとが実はそこまであやふやな論理で動いていたとは驚いた。最悪の事態を想定することが最悪の事態を招き寄せると考えていたとは、平安貴族と同様に言霊に支配されていたということではないか。

そんな彼らとても、一人ひとりをとってみれば良識ある常人であり、決して世間が言うような魑魅魍魎の世界ではないという。だが、原発継続を不利にする情報には目をつぶり、事実を隠蔽する組織悪が表に出てしまうという点で、日本的組織の悪弊がここにもあったことを知った。順風満帆のときにはイケイケだが、ほころびがあらわになると、どうしていいかわからない、空気に流されてしまうという悪弊である。

(写真は赤いアマリリス。隈取りをほどこした怒りのプロメテウスのように見える)
春なれば人はよろこび逞しく [2013年03月23日(Sat)]

__tn_20130323222027.jpg春は嬉しい。寒さに震えた冬が過ぎるのが待ち遠しかったからだ。
春は楽しい。野に宅地に四方山に花が咲き若芽が伸びてくるからだ。
春は苦しい(人もいる)。涙ひまなし、鼻水とろとろ、目がかゆい花粉症があるからだ。
春は薄ぼんやり。黄砂と春霞で視界が狭まるからだ。
春は眠たい。車に乗れば暖かく家中で日ざしを受ければトロトロと眠たくなるからだ。
春は雪山が峻烈だ。伯耆大山(出雲富士)は朝日のシルエットで美しく真昼の陽光を浴びて青白いからだ。
春は寂しい。卒業、転勤、引っ越しで別れざるを得ないときもあるからだ。
春は力強い。新しい季節、新しい環境となって力湧き出る時節であるからだ。
春は怖い。気圧の深い谷で暴風雨が吹き荒 れるときがあるからだ(とくにこの春は)。
春は鳴く。雲雀が涼やかに鳴き、イソヒヨドリが清冽に鳴き、雀が懐かしく鳴くからだ。
春は大きい。空は青く高い、雲は広く淡い、山は深く笑うからだ。
春はニッポンだ。ソメイヨシノがあたりをうす桃色に染め上げ、富士をバックに新ダイヤの新幹線が走り抜けるからだ。
春だ春だ、春だよ。いまは春。春を求めて人は喜びうれしがる。つらい花粉症はあったとしても春は息吹の塊だ。

(夕日に向かって咲き誇るハクモクレンが映えている)

(コメント)
春は???・・・あけぼの。
「やはり、春は夜が明けた朝が一番気持ちがいい。
春を身体で感じ、思わず深呼吸をしている今日この頃。
これこそ、自らの息吹(武道では丹田呼吸)なり。」
昨日、仕事のルートで斐川公園を通りましたが桜も五分咲きでした。思わずキャンデーズの春一番を口ずさみながら・・・。
何やかんや言っても春は確実に訪れますね。わが人生にあと何回春が訪れて来るものなのか?季節の春もだが幸福の春が訪れてくれるのが一番歓迎なんですけどね。
作成者 好司 : 2013/3/24 (日) 11:51

春は深呼吸ですね。それは真の呼吸につながる?
芯ある呼吸になるのかも。人を信じて、新生活を始める呼吸となって、幸福の春にしていきたいですね。
作成者 呼吸をとこ : 2013/3/25 (月) 22:28
注意せよ乾燥の肌だいなしに [2013年03月22日(Fri)]

__tn_20130322173715.jpg春先は島根ではひんぱんに乾燥注意報が出ている。冬場に乾燥注意報はまずない。昨年11月11日に「湿潤に美肌のひとよ島根びと」で島根の女性の肌が潤っているという話を書いたとおり、山陰の湿潤な冬は肌にとって好条件である。冬型の西高東低の気圧配置で、この時季だけ太陽が顔を見せる時間が少ないからなのだ。

だが、せっかく冬季に女性の肌を守ってくれた気候なのに、春先に空気が乾燥し黄砂や花粉、PM2.5にまで晒されてしまうと、せっかくきれいな肌は害される。島根の女性にとって春は油断大敵。適度な湿り気と「油分」を「断っては」ならないのである。綺麗にとって「敵」となる。

「なんだい、こん頃、乾燥注意報が、よお出ちょーが?」
「あげだの−」
「去年ポーラ化粧品が調査してごいたが? 島根のおんなの人がキレイだ、いって」
「だども、こーほど乾燥しちょーとせっかくの綺麗がいけんやんなってしまーかもしれんの?」
「そげそげ! 島根の女のひとには、今んごろの乾燥を乗り切って、ますぅます美人になってほしのぉ」
あれまあとわかっちゃいるけどやめられない [2013年03月21日(Thu)]

__tn_20130321210201.jpgわかっちゃいるけど、やめられないもの・・・・・・いっぱいあるなぁ。

本を読む、新聞を読む。いつの間にか瞼が寄ってくる。もう止めた、思いきって寝てやるぞ。そう思ったならばいいけれど、まだまだと我慢するうち目は泥のように交わっていく。眠ることは気持ちいい。私の得意技は眠ること。いつでもどこでも眠れる得意。目を閉じて数分以内にイビキをかけるその技で、疲れはたちまち取れて回復。それでもやっぱり寝るときは寝る。そのけじめがほしいのさ。

うたた寝。どこでも眠れる得意技。裏をかえせば不用意な入眠でからだが冷えて風邪をひく。いかんいかん、うたた寝はいかん。とくに炬燵で眠るといかんいかん。必要以上のその熱でからだが乾燥して風邪をひく。わかっちゃいるけど、うたた寝気持ちいい。

酒飲みながら食べるたべるはツマミをつまむ、膳のものを食べつくす。私の食卓なんにも残らぬ。意地汚いのか、エコなのか。あげくの果てに二次会水割りのみながらアタリメ、チョコに柿の種。何でも食べて腹がふくれる。いい加減やめたらと思うのに口がさびしく手が伸びる。タバコぷかぷかするよりはまだましかとは思うけど。

わかっちゃいるけど、できないもの・・・・・・もっとありそうだなぁ。

年初の決意でやろうと決めたこと。今まだ着手をしていない。早くやろうと気を張って、週末こんどやりましょう。ところが急用できてまた、次の機会にお預けだ。

「いいね!」にあこがれ、「いいね!」を求め、フェースブックに手が伸びる。スマホにパソコンいつの間に、いいね!を確認、いいね!押す。これではまるで依存症。一日二回にしましょうか。

ご無沙汰、世話になった人。訪ねて挨拶すべき人。行こう行こうと思いきや、ずるずる長らくほおったままよ。どうせ行くなら早いうち、思ううちにや時過ぎて。

時おり列車で出会う人。声をかけたら友だちになると思っているけれど、なかなか勇気が出ませんね。背中を押すのは何のその。年度がかわれば転勤で出会うことなどなくなるかもよ。いまのうちだぞ、声をかけれや。
山や家ひかりの地球に彩られ [2013年03月20日(Wed)]

__tn_20130320230423.jpg宍道湖畔・島根県立美術館で『須田国太郎展 没後50年に顧みる』にひたってきた。茶と緑を主軸にしたアースカラーをベースにした絵の数々。人が暮らす原風景を表現した山々と家々。夕日や朝日に照らされた季節ごとの風景、穏やかな色に抱かれた動植物の絵を観ていると、疲れた目が癒えて安らぎを感じることができる。

『犬』はこの展覧会のポスターにも使われているテーマ絵である。30号の比較的大きな絵だ。全身黒い犬。耳は大きく広がりポニーテールのように可愛らしい。ところが目だけは赤茶で小さい、どこか不思議な感じを醸し出す。バックには古い家並みが続き、屋根は緑に塗られている。骨太の木製の額に囲まれたこの絵。目も屋根も額もアースカラーに彩られている。

植物、なかでも赤い花が登場するのが面白い。『紅薔薇』や『庭花』も使われているのは、紅ではなく茶に近い赤。すべての絵に赤茶が使われているのではないかと思う。信濃の山々を描いた一連の絵が好きだ。特に『夏の夕』は、夕方の柔らかい光が映えてアースカラーで安らぐ絵である。どの絵にも共通するが、近づいて目を皿のようにして鑑賞するよりは、離れたところから眺めるほうが絵に明るさと力強さを感じることができる。

≪前景から中景を深い影で覆い、遠近の境界を闇に溶かすように描く反面、遠景の山並みを光の中に露出させる方法をとる。遠景の山は幻影の現出のように感じられ、絵を見る我々を須田独自の絵画空間へと誘う≫ そのように須田の風景画の特長を説明書きは述べていた。

『アーヴィラ』はスペインの田舎町の光景だ。残照の丘の教会から斜面に石造りの家並み。夕日に照らされた明るい茶。日の差さない影には濃い茶が塗り込められている。須田画伯は28才のときにスペインに渡りマドリードのプラド美術館で模写修行。スペイン各地では風景を描き、そこを起点にヨーロッパ各地で学ぶなかで、スペイン各地で風景を描いたということだから、アーヴィラはその頃の絵であろう。若々しい絵でもある。『カスティリアの山村』も同様に私のお気に入りとなった。壮年期の後期には、隠岐や浜田、鳥取の村々を同じような明るい茶や緑で豊かに描いた。

≪不安定な政治情勢や経済的な行き詰まりのなかにあって、自然や人間の本質を真摯に追求した須田国太郎の絵画は、ますます多くの人びとの心にしみわたり、ときに安らぎを与え、いよいよその芸術的な価値を現していく≫ 「自然や人間の本質を真摯に追求」する須田が、描き出すアースカラーが「人びとの心にしみわたり、ときに安らぎを与え」る。まさにそのとおりだと思う。この人の絵を室内に飾ったならば、決して飽きることはないだろう。安らぎと挑戦の息吹を与えてくれる宝ものとなるのではなかろうか。
海なれば人を包んで好きなよに [2013年03月19日(Tue)]

__tn_20130319225345.jpg  海は広いな 大きいな 月がのぼるし 日が沈む
  海は大波 青い波 ゆれてどこまで続くやら
  海にお舟を浮かばして 行ってみたいな よその国
    (唱歌『海』)

海は広い。果てしなく思えるほど広い。ひとの姿に比べればあまりに広いその広がり。海は恐い。海に気ままに体を浮かべてゆったりしているつもりでも顔を沈めて海の底に目を向けたなら。そこは漆を混ぜたような黒、緑、紺。恐い恐い。何が飛び出してくるものやらわからない。

やがて低気圧が近づいて躯体も折れよとばかりの強い風。波浪は悪魔となって船を攻める。死ねとばかりに人を責める。恐い恐い。海は恐い。いったいいつまで恐いのか。この責め苦、早く終わってくれよと祈るのみ。

窮地を脱して穏やかな海を取り戻したときに、あの地獄はどこへいったのか。母のように優しく穏やかに我が身を包む。母よ、いとしの人よ。私を包んで温めよ。辛い我が身をたすけてよ。

(写真はボケの花。淡い桃色と白色のコントラストが上品だ)
ひとは皆死んでもひとであり続け [2013年03月18日(Mon)]

__tn_20130318201336.jpg映画のエンドロールが始まると、たいていは客の三分の一から半分くらいが席を立って退場する。エンドの途中や終わりにおまけが付いて嬉しいときがあるし、内容をふりかえり主人公の気持ちを想像するにはいい時間だ。途中で退席するのはもったいないと私は思う。映画『遺体〜明日への十日間』では、一人として立ち上がる人がいなかった。それだけ重い感慨を残した映画であるということであろう。

大震災に遭った多くの死者。瓦礫にぐちゃぐちゃにされ泥水に満たされたそれを、苦労しながら回収する。コンクリートのようになったそれは、何人もの男が抱えて運ばなければならないほど重い。死後硬直で手や足があさってを向き、苦悶の表情のままのそれも多い。生きていたときの痕跡を留めないその姿。それは忌むべきものだという観念をひとは持ってしまいがちだ。だからそれを恐る恐る取り扱い、かえって状態をひどくしてしまうのも無理はない。まして作業者は泥のように疲れ切っている。遺体安置所に集められたそれは死体でしかなかった。

安置所に相葉(西田敏行)が現れ、ボランティアとして動き始める。以前葬儀の仕事に就いていた相葉は遺体の扱いを知り、遺族への接し方も思いやりにあふれている。死んで硬直して何ら反応は示さなくても、尊厳をもって丁寧に扱い、生者のごとく話しかけていくうちに、死体は遺体となる。泥だらけの床を何度も拭き清め、ありあわせであっても祭壇で線香を手向けるうちに、死体は人間としての尊厳を取り戻し遺体となる。

この映画は3・11から10日ばかりの岩手・釜石の遺体安置所として使われた廃校を舞台としている。次から次へと運ばれてくる死体に市の職員は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。運び込まれてくる遺体ひとり一人に生者に対するように優しく語りかけていく相葉。それまでは死体としてしか見れなかった職員たちは相葉の姿を眼にするうちに変わっていく。

火葬場が動かない、遺体の損傷も激しくなっていく、不安定な遺族への対処、食糧は避難所に優先されて安置所にはわずかしか届かないなど多くの困難を乗り越えて、安置所は死者たちの尊厳を取り戻し、遺族が少しでも安らげるようにという雰囲気ができてきた。

情けは人のためならず、の言葉のとおりである。情けをかければそれは巡って自分に返ってきて潤す。市の職員や安置所の人たちは相葉に触発されて死者と遺族のために懸命になった。結果として自分をも生かし、再生への取っかかりとなった。他人のために動くこと、悩むこと。まさに自身が蘇生するための近道であることをこの映画は教えてくれる。
アレルギー知ってか知らずか食べた運 [2013年03月17日(Sun)]

__tn_20130317212001.jpg東京・調布の市立小学校で女の子が、給食のチジミに入っていた粉チーズにアナフィラキシーショックを起こして亡くなった事件があった。市の教育委員会は先日調査報告を出した。報道によれば、今回の事件は学校教職員の情報共有が不十分で危機管理意識が欠如しており、今後大学病院と連携して再発防止に対処するとのことである。

わたしは疑問に思う。死に至る可能性が高いアレルギー反応があるにもかかわらず、給食を食べ続ける本人は恐れを感じなかったのか。親は大切な子どもが危ない物を口に入れるかもしれないと恐怖を感じなかったのか。多くの人間が給食に関わるならばどこかでほころびが生じヒューマンエラーが起こる可能性があることを学校関係者は考えなかったのだろうか。

そうした恐れを上回るメリットが「給食を食べること」にはあるのかもしれない。みんなが同じ物を同じ場所で食べるという平等感を与え、児童が一律に行う食教育を受ける・・・・たいした利点には思えない。

すると、「給食を食べないこと(=家庭弁当)」のデメリットが大きいかもしれない。クラスメイトと違うことをやっているという罪悪感、疎外感。アレルギー反応を理由にイジメられることの恐怖感。ランドセルに重い弁当を入れて通学する煩わしさ。親が毎日弁当を作ることのやっかいさ・・・・こちらが大きいように思える。だから危険を冒してでも給食を食べさせ続けてきたのかもしれない。わが子の命がかかっていると知って、ないがしろにできる親がいるだろうか。だのにどうして、リスクを冒し続けてきたのだろう。親の気持ちに迫ることができないものか。

給食の提供には多くの過程がありたくさんの人を経由する。献立作成→材料調達→材料提供→材料チェック→調理→栄養士チェック→担任含む各教師→本人へ配膳。どんなに注意したとしても、ヒューマンエラーは確率として必ず起こる。そんな危険な環境にわが子をさらしてしまう親の気持ちはどんなだったろうか。学校から給食を勧められたとしても、命を他人任せにするような恐ろしいことを平気でできたとは思いたくない。みんなと同じがいいという平等主義が招いた悲劇にも思える。

再発防止に必要なことは、関わる人や機関をさらに増やして連携を強化することではなく、危ない生徒には給食を食べさせないことに尽きる。その結果イジメが発生したとすれば、担任教師が芽のうちに摘み取り厳正に対処することだ。献立とアレルギーとの対比に神経をすりつぶすような配慮から解放して、教師本来の仕事を全うできる環境を作ってあげるべきだと思う。

(春の花が次々と咲き始めた。タンポポがゲンキいい)
忘れまい思うほどなく風化して [2013年03月16日(Sat)]

__tn_20130316110121.jpg≪「これからは忘却との闘いになる」と話すのは、津波研究の第一人者と知られる東北大学の今村文彦口授。これまでは「伝承、教訓はあってもリアリティーがなかった」ために、一昨年の大震災では逃げ遅れる人が多く発生してしまったとの分析だ。研究者としても歯がゆい思いをしたという。今後に必要なことは、被災地にとどまらず全国的な経験の共有化と普遍化と断言。さらに「災害は起こるものという『災害文化』の醸成が大事だ」と、意識改革の必要性に言及する≫
  (『記者席』3月14日付け日刊水産経済新聞)

たしかにそのとおりだ。3月11日の前後には大震災の体験を風化させず、復興と新時代への飛躍を決意する言葉が多く流れた。だが、私は思ってしまうのである。「意識改革」は世代をまたがないどころか、数年して別の場所で津波に襲われたときに、「逃げ遅れる人が多く発生してしま」うと思うのである。

津波に飲み込まれ流され破壊される車。流されてあれよという間に濁流の波間に消えた命。自然発火した炎の山。巨大な波に漂う車から鳴り響くクラクションの音。自然に発した車の断末魔の声なのか、それとも閉じ込められた人が為すすべなく鳴らしていた最期の火なのか。遺骸が累累と積み重なるようにして残る海辺。屍臭漂うのが見えるかのような遺体集積所。。。。。

大震災二日後にはマスコミが流す映像には死者の姿、死にゆく人びとの姿が映った映像は完璧に登場しなくなった。それを報じたのはエログロ大好きな週刊誌の類と2ちゃんねる的なネットサイトだけだったかもしれない。人の死を見世物にしてはならない、死者や遺族の人権を守らなければならないという配慮が働いたことは間違いない。

だが結果として、「リアリティー」が見事に欠落してしまった。建物が破壊され、無人と思われる自動車や漁船が陸を滑るように移動し他の物体も次々と壊していく様を見れば、地球という暴君の恐怖、人間の営みの儚さを感じる映像にはなる。しかし「リアリティー」は弱い。

目を隠し個人が特定されないようにした上で、あの映像群を残していく、公開していくことが、あの悲惨な事実に「リアリティー」を与える。生きた教訓として、日本中の人びとが二度と逃げ遅れないようにするための方策となる。

もうひとつ気になるのは、近ごろ自殺を自死と言い替える流れが加速していることだ。そこには遺族への配慮があるが、自死と言い替えることによって、自分を殺したという冷厳な事実を覆い隠し、かわいそう、自ら命にピリオドを打ったと詩的な美にすり替えてしまう恐れを感じるのである。自殺防止のためには、目を背けずに、悲惨な「リアリティー」を残しておかなければならない。
その背中すがり付いたら縛られて [2013年03月15日(Fri)]

__tn_20130315212757.jpg「すがる」という漢字を初めて知った。「すがり付く」という形で使うことも多いが、漢字では『縋る』と書く。こんな難しい漢字だなんて、と思うと同時に、糸編に追うだなんてやけに湿った叙情だと感じた。

縋るとは、物理的に綱や手すりなど、頼りとするものにつかまることであり、心理的には助けを求めて他人を頼ることだ。相手を追う、執念をもって追う、拠り所が少なくても相手から離れないように追う、服の袖口を掴んででも追う、ほつれた糸があればそれを掴んで離さないように追う、そんなイメージだ。縋り付くとなると、さらに振りほどかれないように必死に付き従っていくという強い意思を感じる。

古い大字典を調べてみた。字源/縄を懸下すること。故に糸偏。轉じて下せる縄に寄りすがる義とし更に身を寄せ託する義とす。と書いてある。

昨年この欄で映画『風とともに去りぬ』の感想を書いた(2012年6月9日)。奴隷制度とは牛馬を鞭でたたいて従わせるようなものではない。北軍がタラの屋敷を蹂躙して過ぎ去ったとき、黒人使用人が「外回りを世話する者が誰もいない」と言った。オハラ家にとっては危急存亡のとき、皆が飢え死にするかどうかのときに発せられた信じがたいその言葉。あらかじめ命じられたことの範囲でしか動けない受け身の姿。指示待ちの雇われ根性を奴隷状態というのだと書いた。

男に縋る、女に縋る、親に縋る、子に縋る、仕事に縋る、嗜好品に縋る、麻薬に縋る、スピードに縋る、パソコンに縋る、「いいね!」に縋る、地位に縋る、カネに縋る、過去の栄光に縋る、昔ながらの慣習に縋る、、、、、縋る、縋がり付くものはまだまだたくさんありそうだ。縋るという行為そのものが私には中毒的に逃れがたく当人を縛り付ける絆(これは牛馬を縛る「ほだし」と読む)に思えてくるのだ。言い換えれば奴隷根性だ。「縛り付ける」という字も出た。これもやけに腐った叙情に思えてきてしまった。

(写真は沈丁花。今年もきつめの芳香を漂わせている)
体罰かいや懲戒か悩みつつ [2013年03月14日(Thu)]

__tn_20130314215530.jpgわが家には『出雲市/ごみの分け方・出し方ガイドブック』がおいてある。燃えるごみ、破砕ごみなどを十数項目に分類し、市で収集しないごみ、施設への直接搬入などを説明した上で、50音順で品目分類してゴミの分別を間違わないようにしてある。市民はガイドブックに首っ引きで決められた収集日を利用する。

「体罰禁止通知」が文部科学省から出された。私はこのガイドブックをイメージするのである。やがて全教員は、その行為ごとに体罰ではなく正当な懲戒だ、いや体罰の疑いがあるとチェックして申告する仕組みになるのではないかと怖れる。

今回3月13日付けの通知は学校教育法第11条の範囲を定めるものである。「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは(中略)児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」。どこまでが懲戒で体罰なのかというガイドとしようとしたもので、初等中等教育局長とスポーツ・青少年局長名で出された。むろん、大阪での部活動中の体罰が原因となった高校生の自殺、大津の中学生いじめ自殺が教育委員会で隠蔽された事件などを背景としている。従来からなんども行われている実態把握と称する詳細調査もあわせて、教職員の負担はますます増えていくことになりそうだ。

さて、今回の通知は懲戒と体罰の事例を参考に示すとしているが、基準となっていくのは間違いないだろう。この行為はどうなのか、仮に○○ならばどう判断したらいいのか、とおそらくマスコミを含めて全国から問い合わせが相次ぎ、それを真面目に判断して字面にあらわしてQ&Aができる。いずれ「体罰一覧教員必携」として、厚みのある冊子になっていくのであろう。

(1)体罰
【身体に対する侵害】
 ・体育の授業中、危険な行為をした児童の背中を足で踏みつける。
 ・帰りの会で足をぶらぶらさせて座り、前の席の児童に足を当てた児童を、突き飛ばして転倒させる。
 ・授業態度について指導したが反抗的な言動をした複数の生徒らの頬を平手打ちする。
 ・立ち歩きの多い生徒を叱ったが聞かず、席につかないため、頬をつねって席につかせる。(以下略)

【肉体的苦痛】
 ・放課後に児童を教室に残留させ、児童がトイレに行きたいと訴えたが、一切、室外に出ることを許さない。
 ・別室指導のため、給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない。(以下略)

(2)認められる懲戒の例
(3)正当な行為として、【教員への暴力行為に対する防衛】や【児童生徒への暴力行為を制止・危険回避】の例

ほとんど省略したが、実に、具体的でわかりやすい実例をあげて教員の理解を助けてくれる有り難い通知である。文部科学省としてはあとは類推して判断せよと考えているだろうが、マスコミが重箱の隅をつついて問題提起をするたびに、もっと具体的に実例を出せという要望が強くなって官庁はそれに応えることになるであろう。悪賢い生徒がいれば、この実例を逆手にとって教員に苦痛を与えたりすることにもなるだろう。教員たちの受難はますます高じていく。
満面のありがとうって嬉しいな [2013年03月13日(Wed)]

__tn_20130313212448.jpg「ありがとう」って言われたい。
感謝されると気持ちがいい。
満面の笑みでそう言われるととても嬉しい。
何でもしてあげたくなる。
おためごかしでなく、心から礼を言われるとそう思う。

こんな広告があった。

≪『ありがとう』の一言が幸せにするのは2人です。言われた人と言った人≫

ホント、そう思う。
あるときは厚意に甘えて恩に着て、またあるときは感謝を捧げられる。
感謝されると思いきや、うんともすんとも反応がないとカチンとくる。
そんなうちはまだまだ修行が足りぬのだ。
ギブギブギブギブギブ、でいくんだぞと思い切ろう。
多面的機能かんがえ交渉す [2013年03月12日(Tue)]

__tn_20130312220424.jpgもう十年以上前に、ヨーロッパを先生にして中山間地域等直接支払制度が始まった。急傾斜地や条件不利地で作物を育て地域を守るために、所得を保障しようとする制度である。そこでキーになったのが、農業がもつ多面的機能だ。

いよいよ太平洋に面した各国がこぞって貿易自由化しようというTPP交渉に、日本も参加する。パートナーシップというフレンドリーな名前とは裏腹に、ひとは金で動く、安くて便利なものやサービスを必ず選ぶという米国式のグローバリズムを前面に出した協定である。日本の一次産業を丸裸にされてはたまらないと、完全自由化の阻止を目指す陣営が拠り所にするのが、多面的機能である。そこには農業にとどまらず、林業や漁業にもある多面的機能がいくつもあげられている。

【農業の有する多面的機能】
国土の保全、水源の涵養、自然環境の保全、集落等の地域社会の維持、良好な景観の形成、文化の伝承等農業生産活動が行われることにより、生ずる食料その他の農産物の供給の機能以外の多面にわたる機能

【森林の有する多面的機能】
森林の有する国土の保全、水源の涵養、自然環境の保全、公衆の保健、地球温暖化の防止等の多面にわたる機能

【水産業及び漁村の有する多面的機能】
自然環境の保全、海難救助、国境の監視等による国民の生命及び財産の保全、集落等の地域社会の維持、文化の伝承、健全なレクリエーションの場の提供等漁業生産活動が行われることにより生ずる水産物の供給の機能以外の多面にわたる機能

以上は、「農業等の有する多面的機能の発揮を図るための交付金の交付に関する法律案」第2条で定める定義であるが、何でもこい!といった風情がある。食料生産以外に農林水産業がもつ機能を、抽象的ではあるが並べたててある。

農山村、漁村の対抗軸としての都市。そこにはどんな多面的機能があるのだろうか。思いつくままにあげてみる。

工業生産、サービス産業からなる膨大な雇用。多くの人口を擁することからくる多大なエネルギーと交流。新たなファッションやデザインを産む創造性。人工的な新趣向の都市景観。集積された頭脳や裕福さ。富を産み出す新たな仕組み。政治や企業体の中枢が世界と互して交渉を繰り広げる場など数えればきりがない。カネという面で言えば、農林水産業が主体となる田舎に勝ち目はない。しかし、都市の後背地としての田舎に活力がなくなれば、いずれ国力も都会のエネルギーも削がれていくことだろう。

農林漁業がもっている重要な役割。その多面的機能を維持・増進していくことは、単に一部の事柄ではない。日本の「生きる力」そのものに関わる問題である。
強慾を意欲に換えて復活へ [2013年03月11日(Mon)]

__tn_20130311081235.jpg「欲」という字は谷が欠ける、窪んだところを満たしたいという望みを表現する。心を付け加えて「慾」とすると、欲望を貪る心中がさらに表現できる。Yahoo辞書大辞泉で【欲】【慾】を逆引きしてみた。

思いのほか性慾と類語が多いことがわかる。愛慾、色慾、情慾、肉慾、淫慾、獣慾、邪慾など、人間は色恋沙汰に悩みつつもその魅力から逃れられないらしい。

仏教では五慾を説くということだ。財慾、色欲、飲食(おんじき)慾(食慾)、名欲(名誉欲)、睡眠慾の五つである。慾には多くの人が苦しめられ、制御することが生きるテーマであったのかもしれない。自分一人の利益を求めようとする我慾や私慾に対し強慾であり欲情することは恥とされ、禁慾し無慾・寡欲であることが望ましいとされてきたにもかかわらず、ひとは欲望の虜にされてきた。

物慾や色慾といった飢餓が高じた餓鬼状態を表現しがちではあり、マイナスのイメージが強い。かといって欲は悪いことばかりではない。貪欲に知識を吸収する知識欲、それを社会貢献につなげたい貢献欲、新たな社会を創り出そうとする勤労欲や建設欲、絆をつなぎたいという連結欲、震災を乗り越えて復活欲・復興欲などなど、多くの意味でひとの意欲が試されるときである。

今日は鎮魂の一日であると同時に、復活への意欲を沸き上がらせる一日だ。
捨てるなよタンス預金を大切に [2013年03月10日(Sun)]

__tn_20130310200515.jpg先月読んだ新聞で面白かった記事。

広島市のゴミ処理施設で昨年12月に1500万円分の紙幣が見つかった。持ち主として返還された男性の亡父が貯めていたもののようで、廃棄物として出された箪笥にしまわれていた。

まさしく「タンス預金」。男性は亡父の遺品整理の際に、中身を確認せずに粗大ゴミとして廃棄していたという。

面白いのは、現金が見つかったと発表された後に、17人もの人が「自分のものではないか」と問い合わせていたこと。遺品の箪笥を捨てたはいいが、ひょっとしたらあの中にタンス預金があったかもしれないと真剣に思った者もいたかもしれない。

だがほとんどは、「あわよくば分け前にあずかりたい」と考えた輩であろうと想像する。人の欲には限りがない。
文化的最低基準の生活よ [2013年03月09日(Sat)]

__tn_20130309222712.jpg生活保護の受給者数が過去最高に達しており、低所得でも保護を受けていない人や一部の年金生活者に比べれば生活保護水準が高すぎるとして、基準額を抑制する検討が進められている。生活保護法は憲法第25条に基づいている。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というあれである。国はその責任で「困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的と」して、生活保護の制度を守ってきた。

このたびの検討では、教育扶助や住宅、医療、介護、葬祭などを除く生活扶助(月々の日常生活費)の基準を適正にすること、不正受給対策を 徹底すること、自立・就労支援を強化すること、その上で、生活保護全般を適正化することが意図されている。

最低限度の生活を国民の目線で適正化すること。これが行き過ぎると限界まで困窮して飢え死にする一歩手前の人まで追いつめることは以前から心配されている。餓死事件が起きるたびにマスコミは、行政はなにをやっていたのかと叩く。一方で不正受給が発覚すると鬼の首を取ったようにして騒ぎ立てる。これをマッチポンプという。

資力調査(ミーンズテスト)で預金などを調べ上げられて、生命保険は解約、不動産は売却、血縁者からの援助も最大限に提示させられ、他に生活の糧を得られないことが確認されてはじめて保護を受けることができる。丸裸にされるようなものだ。最後の拠りどころというだけあって、厳しすぎる生保への道。いったん生保が始まると自立更生への道は相当困難となる。

もちろん不正受給を許してはならないが、困窮者のふりをして裏では高級車を乗り回していたなどという悪辣な輩は、215万人のうちの数えるほどにしかすぎない。多くの生保受給者はいったん陥ってしまった貧困の渦から逃れられないで苦しい思いをしている。

≪そもそも「人に迷惑をかけてはいけない」とは誰に向かって言う意味のあることばなのだろう。(中略)はじめから人に迷惑をかけてはいけないように気をつけている人には言う必要がない。迷惑をかけても平気な人には言っても意味がない。悪くすると、迷惑をかけまいと思いながら人の世話を受けなければいけない状態にいる人たちを追いつめる。「人に迷惑をかけてはいけない」と言う人は、自分は人に迷惑をかけていないつもりなのだろうか。だとしたら、それこそ傲慢というものではないか。
 「人に迷惑をかけてはいけない」ということを真剣に考えるなら、このことばが無神経に発せられたときの迷惑に思いを致すべきなのではないかと思う≫
  (小林和之『「おろかもの」の正義論』ちくま新書,2004年)

条件を厳しくすれば本来必要な人が受けられなくなる。緩くすれば不正の輩が増える。極論を言えば、少々不正受給をする連中がいたとしても、生活困窮者が安心して生保を受けられる社会が望ましい。それに反対する人が多くなったということは(多分)、社会全体に余裕が失われているということを示している。
はるばると黄砂散りゆく春松江 [2013年03月08日(Fri)]

__tn_20130308181204.jpg黄砂に霞む松江なり PM2.5をともなって
大陸かなたやってきた 夕陽はオレンジぼんやりと
宍道湖白く雲降りて 今夜はきっと薄曇り
花粉もいっしょ飛び散って どうしたこの風つよい風
二度目なんだぞ春一番 それなら名前をかえましょう
これぞまさしく春二番
今年も嬉しまた逢えた 春の息吹に力沸く
素晴らし元気源か コートを脱いで颯爽と
風に負けずに歩こうよ
明日は週末三月よ 何から何まで楽しむぞ
予定なくとも春を呼ぶ あたらし季節に身をよじる
やがて四月よ春本番 出会いが増えて楽しかろう
日ごと夕陽が遅く落ち 春とひととは一心に
盛り栄えて春うらら そんな気持ちで暮らしたら
少しは苦労も薄まろう
ある男むかしむかしのことなれば [2013年03月07日(Thu)]

__tn_20130307221357.jpgむかしむかしのこと。それはそれはたいそう商売上手な男がいた。とてもとてもいい男で、困った人がおればよしよしと腕まくりをしてお世話をしたそうだ。いやいやとか泣く泣くではない。心からタンタンと喜んで動いたから誰もが感謝して、男の店はいつも繁盛していた。男はますます豊かになった。男には美しい娘と賢い息子がいた。二人とも親孝行で男はうれしくて、いよいよ働いてどんどんお金を儲けたそうだ。お金があるからといってぐすぐすとケチになることはない。立派な男だった。そうだ、連れ合いのことを忘れていた。これがまたしずしずと落ち着いた女房で、男はいつも楽しげであった。いつもるんるんと商売をして何をあつかってもトントン拍子に軌道にのっていた。どんなにドタドタと忙しくしてもバタバタと余裕がないときがあっても、男は女房のゆるゆると穏やかに笑う顔を見るだけで、ふらふらした気持ちも落ち着いたものだ。末の娘が病にふせったときには男はおろおろと心を乱したものだ。この薬がいいと聞けばはるばる遠くへ買いにでかけ、評判のいい医者がいれば娘をその頃珍しかったハイヤーに乗せて遠くまで行ったものだ。運転手を長長と待たせてさぞ高い料金を払ったことだろうが、娘のためなら金など惜しまない使いっぷりだった。娘の病気も幸い完治し親子四人は仲よく暮らした。男はいつもいつも家にいたわけではない。旅が好きだった。商売の仕入れに各地を旅行することはもちろん多かったが、フラフラッと出ていって一晩も二晩も帰らないことがあった。携帯電話もないころだから家のものたちはたいそう心配したものだが、数日後には店の引き戸ががらがら開いてなに食わぬ顔で男はいつもの生活に戻った。ズルズル行方不明になるよりはいいかと女房もカリカリせずに黙って耐えた。男は酒癖がわるいわけではなかったが、不機嫌になるとピリピリと緊張がただよった。おずおずと小さくなるのは家族のほうであったから、女房は今のままならまずまずよと折り合いをつけたものだ。息子に嫁がきていい家庭を築いてくれてかわいい孫も大きくなった。娘も幸せな結婚をしていきいきと暮らしていた。男はニコニコと笑顔が絶えなくて幸せを満喫していた。商売も息子にまかせて男は悠悠自適の毎日だった。ある夜に猫がギャンギャン鳴く夜に、男はぞくぞくと寒気を感じて倒れこんだ。その日から男は入退院を繰り返すようになり、だんだんと体が衰えていった。男を慕って多くの友や知り合いが見舞いにやってきた。男は、だんだんだんだんとベッドの上から感謝のあいさつをしていたものだ。いまも男は平均寿命をはるかに越えて生きている。介護をされているから元気ではないが、ゆるゆるとささやかに生きている。ときおり男は考える。幸せな人生だったなあと。ときおり男は祈る。大震災、大事故、殺人事件で死んだり大ケガをした人にむけて祈りを捧げる。一人でも多くの人が平和に暮らして一生を終わってくれるように。そして男は感謝する。自分の人生に。
超越が二年たちたり黙祷す [2013年03月06日(Wed)]

__tn_20130306191910.jpg黙祷することがある。無言で、たいていは目を閉じて、心に祈る。何を祈念するのか。目前の人の病気が癒え、ケガに苦しむ人の痛みが和らぎ、一家や団体が平穏であるように祈る。世界の平和を祈る場合もあるかもしれない。

日本で一斉に黙祷することが普及したのは、1923年(大正12年)の関東大震災がきっかけらしい。大震災の1年後、1924年の9月1日に東京で行われた慰霊祭において、地震が発生した午前11時58分にあわせて1分間の黙祷を行った。これ以降大きな事件や事故、災害が起こった時刻に集団で黙祷するようになったという。

そして3・11がやってきた。東日本大震災から来週で2年。午後2時46分には各地で黙祷が捧げられることであろう。津波の到達時刻には各海岸でも、死者に対し、死んだペットに対し、今なお不明の方々に対して花を手向け祈りが捧げられる。あるいは強い喪失感やPTSDで苦しむ人の快癒を祈ることも入るかもしれない。

あの超越的な自然災害からもう2年。自分自身はどうだ。よりよく生きているか、他人に共感し善意の輪を広げる心を育てているか・・・・・・そうした様々なことをふり返りつつ、全力で祈る11日としたいものだ。
聞こえてる春がざわざわ聞こえるよ [2013年03月05日(Tue)]

__tn_20130305193628.jpg春が聞こえてる
小鳥のさえずり
さあさ春を楽しもうと聞こえてくる
北へ帰る道筋に重い羽音を響かすコハクチョウ
華やいだ女性たちが興じるおしゃべり
デパ地下の喧騒はどこか賑やか楽しそう
春が匂ってる
満開の梅に顔を寄せて
沈丁花のつぼみは未だ固いかも
春の霞は匂いそう
花粉とともに匂いそう
春が見えてくる
桜餅 イチゴ大福ほおばって春の甘さに目を細む
春だ 春です 春がきた
爽やかルンルン手が進んでく
朝夕冷えても 今日は啓蟄
春は誰にも平等に
そしてこの春 松江にスタバがやってくる
たゆたってフラに想うは大地の恵み [2013年03月04日(Mon)]

__tn_20130304221450.jpgフラを見る機会があった。フラダンスである。ひかわスポーツ夢クラブのハワイアンフラ教室Uluの発表会で、ゆったりしたリズムとステップ、腰を静かに右に左に揺らす動きと、ぐるりと回る動きをこの目に納めた。手は肩より上に位置し波がたゆたうような仕草が印象的である。穏やかな海の波、川のせせらぎを感じた。優雅である。大気のエネルギーを取り込んで、大地の生命力を借りながら、いわば宇宙と一体化しながら踊るイメージが沸いてくる。同時に自然は驚異である。その恐怖を鎮めながら踊るダンスでもあるような気がする。いわば宗教的な鎮魂歌でもあるのだろう。

映画『フラガール』で蒼井優が魅せたタヒチアン。ダイナミックでエネルギッシュ、蠱惑的で目を釘付けにするあの踊りと柔らかいフラは違うけれども、同じ南洋のエキゾチックな踊りだ。炭鉱の町・常磐において開園までのドラマが描かれた「常磐ハワイアンセンター」。物語の感動に併せて、フラダン スとタヒチアンダンスのエネルギーが観る者を圧倒した。あれ以来行きたいと思っていたハワイアンセンター。あの大震災で大被害を受けるも見事復活を果たした。ぜひとも一度は訪れたいと思っている。
ポロポロと涙の効用多種多様 [2013年03月03日(Sun)]

__tn_20130303141610.jpg今朝のテレビ『健康カプセル!ゲンキの時間』によると、涙には次の4つの役割があるそうだ。

[1]汚れを洗い流す
[2]殺菌する
[3]栄養を与える
[4]見やすくする

目をパチリと開いて10秒以上開き続けることができなければ、ドライアイの疑いがあるという。涙が不足して目が乾いているということだ。さらに眼精疲労も重なると悪影響は目だけにはとどまらず、体全体が不調になっていく。人間が得る情報の8割が目から入ることを考えると、もっと目をいたわっていかねばならないと反省した。

わたしなりに上の涙の効用を、心理的な面から解釈し直してみよう。

【1】日常に埋没して垢がたまり純粋さを失った心から汚れを洗い流す。すると、気持ちがスッキリして考えの道筋が見えてきて明るくなる。
【2】いつの間にか心に巣くって繁殖した毒素を殺菌する。すると、涙とともに菌やウイルスが流れ落ち目のクマが取れていく。
【3】水分を失い潤いをなくした心に涙が栄養素を注入してくれる。すると、肌の色艶が良くなってゲンキそうに見えてくる。
【4】曇ってしまった心のブラインドを開け放つ。すると、自分の周囲や世の中がくっきりと見えてくる。この効能は大きい。

なにものかに感動して涙する。悔しくて涙を流す。笑いこけて涙がこぼれ落ちる。いろいろな涙があるが、物理的にも精神面でも涙には意味がある。
草原の椅子に座って見つけたり [2013年03月02日(Sat)]

__tn_20130302195314.jpg小説『草原の椅子』で遠間と富樫はこう語り合う(大阪弁が富樫)。

「日本人は、なんでそないに働かなあかんのや? 人生を楽しむ暇もない経済大国が不景気になったら、どないなるんや?」
「もう、そうなってるよ。不景気になったら、さらに働く。それが日本ていう国だ」
「心根の貧しい国になってしもたなァ」
(宮本輝『草原の椅子』1999年,毎日新聞社)

今の日本に生きる日本人へ著者は問いかける。ゴビ砂漠を歩き、パキスタン・フンザの高原にたたずんだ富樫と藤間、さらにキーとなる人・貴志子。映画『草原の椅子』を観ると、大切なひとと共に深くてゆったりとした旅に出たくなる。草原の椅子とは、勝手な解釈をすれば青い鳥。ひとがそれぞれが幸せを見つけ、満足感をもって生活するための拠り所となるものだ。登場人物たちは、草原の椅子をそれぞれが見つけた。

カメラのトガシ、店頭の壁に掛けられた一枚の写真。海をバックにした草原に置かれた木製の椅子。障碍をもつ人のために富樫の父が丹精込めて作り上げたオーダーメイドの椅子だ。気持ちよく座りたいというひとの要望に応えた力作である。

人は立つ、地に拠って立つ。力強く立つ。だが疲れて立っていられない時がある。体が弱って立てなくなる時も来る。ひとは誰でもゆったりとした草原に置かれた専用の椅子に座って、体と心を癒したい。写真には広々した草原に見えてもフレームの外は意外にせせこましいかもしれない。やりくり算段は大変だということだ。それでも人はひとときでも安らぎを得て、再び決意を五体に満たして明日をがんばる。

遠間と貴志子、富樫の三人は圭輔を連れてフンザを旅し、草原の椅子を探した。圭輔も実の母に虐待されて心に大きな傷を負っていた。4歳と幼くはあったが、彼にとっても草原の椅子を探しあてる旅であった。哀愁を乗り越え(遠間ときしこはフンザの砂漠に埋めてきたと表現した)、今までの絆を改めて磨きなおして、50代の坂を上っていこうと決意する。

絵本『ぼくを探しに』(シルヴァスタイン作)で、何かが足りないと不全感を持つ丸い「ぼく」が足りないぼくのかけらを探しに旅に出る。野で山で海や沼で大変な思いもしつつも、ぴったりのかけらを探しあてる。すると速く転がり目的にもすぐたどり着く。ところが友と話はできない、花の香りもかげない、歌も歌えない。幸せになったと思いきや、そうではないと気がついてかけらを離してまた旅立った。ぼくは求め続けることが幸せなんだと。

映画では、そのような日々の連続に疲れた現代人を代表して3人の大人が登場した。気のおけない親友に加えて、新しい伴侶と子どもを得た遠間は、どんな人生の坂をこれから上っていくのだろうか。幸せを願いたい。
差し出して時間どろぼう蹂躙す [2013年03月01日(Fri)]

__tn_20130301073853.jpg灰色の男たちは陰謀を企てた。時間貯蓄銀行に時間を貯めると見せかけて、すべての人間からゆとりを取り上げてしまうという悪巧みである。うまく口車に乗せられて、人間たちは今まで時間を浪費してきたことを後悔するようになる。そして時間を貯蓄して得をした気になる。時間節約が幸福への道と信じる。やがて楽しみを忘れ、不安だらけになり、社会はギスギスしていく。まさに、時間貧乏という陥穽にはまる現代の私たちを表している。 覚醒の人、勇気の少女モモは時間泥棒との戦いに挑み困難の末勝利する。人間は時間から自由になるのだ。

≪モモは(中略)大きな大きな貯蔵庫に足をふみいれました。ガラスのようにこおりついた無数の時間の花が、はてしなく長い棚にならんでいます。どれもこれもほかのよりうつくしく見え、ひとつとしてほかのとおなじものはありません。――なん十万、なん百万という人間のいのちの時間です。≫
 (ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳,1976年,岩波書店)

パソコンやスマホに向かっているとすぐに時間がたってしまう。感覚的にはほんの30分だったつもりが、時計をみると1時間を遥かに超えていたなどということはざらだ。便利さを享受する代わりに膨大な時間を私たちは差し出し、ネット上の緩いつながりを得て安心する代わりに家族との会話の時間を犠牲にする。そして長時間ディスプレイに向かって目をしょぼつかせ、機械の調子が悪いとイライラして自身の精神をささくれ立たせる。背後で私たちを操っているのは、「灰色の男たち」なのかもしれない。

南の強い風が吹いている。春一番が梢を鳴らし、電線を大きくなびかせる。春そのものの昨日とうって変わって荒れ模様。こんなときは春の気分を楽しむことにしようか。と言いつつも、スマホに向かう人間であった。