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朝霞忘れてしまってあああもう [2013年01月31日(Thu)]

__tn_20130131124935.jpg忘れていた。すっかり忘れていた。
その人から予定変更が知らされていたのにもかかわらず、忘れていた。
その人が来ないので心配した。周囲にも確認してみたが理由がわからない。
不慮の事故か、急病か、それとも家族に危急の事態が生じたのか・・・・。
ケータイはつながらず、固定電話も留守番電話だ。

さて次はどんな手を打とうかと思案した。
ひと息つこうと、珈琲をいれようと思った。
すると思い出した。今日は来ないと連絡を受けていたことを・・・・あっっぁあああ。

ふつうは手帳にメモをとる。備忘録を残す。
しかし今回はしていなかった。不覚をとったことを後悔する。
メモはすぐする。手帳を常に持ち歩く。
心していこうと思いつつ、赤面して上気した上半身の汗は当分修まらない。

ちなみに私はスマホに予定は入れない主義だ。すぐに開けないし、一覧性がないので不便だと思っている。スマホであろうが、手帳であろうが、各人にとって大切なライフラインである。なくすと片腕をもがれたような気になるにちがいない。

(今朝の松江大橋から見た東方向。この霞は単なる靄か、それとも大陸からの大気汚染なのか)
国宝の城郭目指せや松江にて [2013年01月30日(Wed)]

__tn_20130130192434.jpg姫路城を観たあとに松江に帰ると、松江城がいとおしく思えてくる。背景に山地を擁し古都の雰囲気をもつたたずまいは似ている。だが、姫路・白鷺城は雄大で豪勢でまっ白で物語性にも富んでいる。姫路城は比類のない城であり、残念だが松江城とは比較のしようもない。

重要文化財たる松江城を国宝に指定しようという運動が進んでいる。国宝指定には次の条件が必要だという。
(1)意匠性が高く、美術的にすぐれている
(2)つくられた時代が古く、建造当初の姿がよく保存されている
(3)後世の様式の先駆となるなど歴史的重要性が高い

松本城は16世紀終盤、彦根城は17世紀初頭の築城当時の姿を留めており、犬山城は初期望楼型天守の形式が残っていて貴重なものらしい。そして姫路城は比類のない城郭の姿を留めていることによって国宝となっている。さらに世界遺産のおまけまでついている。

松江城は大きな天守閣はあるが、周りの建物は壊されて当時の面影を残していない。重要文化財にランクが落ちているのはある面仕方のないことだが、調査委員会によって現在調査が進められている。いい答申がされるよう期待したい。だが仮に国宝指定がならなかったとしても、松江城の魅力は変わらない。周辺の落ち着いた景観やお堀の静寂さも含めて、とてもいとおしい存在である。

(写真は松江城の横にある島根県庁。掘に今夕の光彩を映して美しい。戦後のモダニズム建築として国宝並みだと推薦する建築家もいるくらいだ)
思いやり加減乗除の算数で [2013年01月29日(Tue)]

__tn_20130129071856.jpg   たすけあう +
   ひきうける −
   声をかける ×
   わけあう  ÷

   やさしいでしょ、おもいやり算。
   困っていたり、悩んでいたり、心の中は見えにくいけれど、
   たす、ひく、かける、わる。
   小さなやさしさで、きっと気持ちは通じ合う。
   それは人を笑顔にする算数、「おもいやり算」。

以上、昨日の新聞広告に載った公益社団法人ACジャパン(旧:公共広告機構)の新聞広告である。なかなかステキなアイデアだ。自身の半径2mに気を配り少しの勇気で行動すれば、きっとひとには笑顔が増える。

写真は島根県庁一階壁にある大タイル。キツツキはひたすら突くから+、フクロウはほんわかした鳴き声で緊張を解いてくれるから−、右上は知らない鳥だが腹にある×、キジは森を分け入るから÷かな。
雪の音じわりと耳をすましたら [2013年01月28日(Mon)]

__tn_20130128080725.jpg雪つもる
サクサクザクザクっと踏み込んで
雪に通りをつけましょう
音がする
かかと踏み込むその時に
ザギュルルウゥって音がする
キュルキュゥ音を楽しみましょう
傘にあたるはサラサラ雪で
チッチと細かな音がする
贈られ気持ちがいいな
空は鉛の色だけど
日の出は早くなっている
雪の白さに照らされる
太陽の光かんじましょう
国道の車ノロノロで
雪のクッション音吸って
辺りは静かに呼吸する
雀がチュンチュとさえずれば
違う世界に迷いこむ
今朝はこの冬いちばんの
朝に起きたら十センチ
ハスラーの悲恋ハードに闘って [2013年01月27日(Sun)]

__tn_20130127075648.jpgエディとサラの純情恋物語になるはずであった。悪辣なブローカーがいなければの話ではあるが、映画『ハスラー』は男たちの闘いのなかで未熟な若者が成長していく物語である。若くて腕のいいプロのギャンブラー、エディは仲間と小銭を稼ぐ旅をしていたが、彼は大きな賭けがしたくてたまらない。あげくに無敵のポケットの突き手、ファッツに大負けを喫する。途中まで18000ドルも勝っていたが、彼は酒に飲まれて相手の体力と気分転換の巧みさに完敗した。

いつの間にかエディと同棲するようになったサラは幾度も、「愛してる」と目を見据えて言う。だがエディは、愛には形がないと不確実なことを理由にして、愛を口に出さない。エディがサラの唇を求める姿は単に肉欲だけのものではなかったから、サラには彼の愛を感じられていたと思う。それでも彼は言葉を信じていなかった。

悪辣なブローカーは、やがて調子を取り戻したエディをうまく使って儲けようとたくらんだ。間隙を縫ってひと芝居うつブローカー。エディから手切れ金を渡すように頼まれたとサラに伝える。サラはわかっていた。ブローカーはエディを骨の髄までしゃぶっては棄ててしまうことを、そのためには手段は選ばないと。その嘘を見破っていたにもかかわらず、今までエディの口から「愛している」の一言はなかった。それがために、エディの不確実な愛にすべてを賭けることもできなかったであろう。彼女には一世一代の恋だったのだから。そのうえブローカーから凌辱されたサラは自ら命を絶つ。

ハスラー(hustler)とは、賭博場のプロの玉突き。やり手の実業家という意味もあるが、ペテン師、裏街道の詐欺師のことである。エディはサラの死を乗り越えて、孤高の勝負師として立ち上がった。そしてファッツに勝つ。

ファッツ役の俳優もポール・ニューマンも撮影では自らキューを突いたという。見事なプロ根性である。ファッツは賭場で荒稼ぎするワルどもの一味であり、その名のとおり太っちょだが、ファッツは目が澄んで潔く堂々たる勝負師であった(ポール・ニューマンよりもカッコいい)。不思議とこの映画には汚い裏社会のアコギさは感じなかったのは、ファッツのおかげである。

(写真は今朝のまだ暗い雪道。エディとサラの道のように交わらないワダチがある)
炒り豆をガリガリぽりぽり美味しかろ [2013年01月26日(Sat)]

__tn_20130126215345.jpg煎った豆を食べる。今の時季は節分にまく炒り豆を袋詰めにして売っている。鬼の目=魔目(まめ)をめがけて豆を投げつければ、魔滅(まめ)となって災難が退散するという意味があるという。鬼を追い散らしたあとは、年の数だけ豆を食べて無病息災を願うという可愛らしい趣旨だ。

その目的であればひと袋あれば十分に足りるのであるが、わが家ではいつも炒り豆を大量に買っている。おやつにして、昼となく夜となく美味しくいただいく。まとめて口に放り込むと香ばしさが口中に広がる。甘くなってくる。唾と混じり合ってペースト状になるとさらに甘くなる。歯の前後全体を使ってじっくり噛むのは健康によさそうだ。そのまま飲み込むのもよし、緑茶と一 緒に食べればお茶の味が引き立つ。珈琲とともに飲み込めば豆同士で相性がいいのだろう、いくらでもボリボリと噛み砕いて食べることができる。癖になってしまう。

昨日から寒い。今はうっすらと雪が積もっている。寒気が大陸からやってきて日本列島を冷やし雪を降らせる。「節分荒れ」という言葉があるとおり、1月の末から2月の始めにかけて最も寒くなる頃だ。植物性タンパク質をたっぷり摂って、何十回と噛んでアゴに刺激を与えれば、風邪もひかないようになるのではないだろうか。元気に厳冬期を過ごしたいものだ。

(写真は炒り豆ではない。白い南天である)
決然と嗚咽をこらえ父は行く [2013年01月25日(Fri)]

__tn_20130125173316.jpg山田監督の『東京物語』で「のお、ショウジ。母さん、死んだぞ」と、父役の橋爪功が静かに決然と昌次役の妻夫木聡に言い放ち病室に帰っていった。妻夫木は嗚咽をこらえる。私は胸をつかれた。

小津の東京物語では、父役の笠智衆にも同じセリフがあったと記憶する。テレビで見たときには、母さんが死んだのは皆知っているのに、じいさんショックでボケたか?と思った。笠智衆のテンポはゆるかった。だが今回は胸に込み上げるものがあった。

夜明け前に亡くなった妻。夫は亡骸の側を離れ、屋上へ。そこで見たものはおそらく、漆黒から徐々に色をつけ紫から茜色へと変わっていくグラデーション。曙光がきらめき、辺りを染めていく姿は地球の新生のもの。そこにはもはや妻はいない。が、私は生きていくぞ、という決意があのセリフには込められていた。空しさや諦め、無念さであったかもしれない。いや、すべてを心に納めてあのセリフが観る者の心を揺さぶる。

配役の妙である。妻夫木聡。すでに名優の域に入った彼の名前が絶妙にいい。「妻夫木」とは、妻と夫が支え合って木となり枝を広げて葉を繁らす。やがて花を咲かせ実をならす。それを一言で表している。聡明さでもって表す。

人類が生まれてからこのかた、延々と連綿と続けられてきた家族の営み。生まれて生き延び、病気や怪我に苦しみ死ぬ。その間家族は係累を増やし子々孫々が血を伝える。他部族や民族との争いにあって、血を流し涙に暮れて、また立ち上がって、喜怒哀楽を繰り返す。この映画で描かれたのは、平凡な一家族のエピソードであるが、底流には人類すべてを貫く普遍性がある。だから、小津映画は高く評価されるのだろうと感じた。

(追記/2013.1.26)映画の題名は『東京家族』だった。山田監督が東京家族、小津監督が『東京物語』である。
東京に物語あり家族あり [2013年01月24日(Thu)]

__tn_20130124224927.jpgなにげなしに見た映画だった。たいして期待はしていなかった。しかし満足して映画館を出た。王道をいく日本映画の大関だと思った。

瀬戸内海の小島に住む老いた父と母が、東京に移住した長男の家族、長女の家族、独身の次男を訪ねて出てくる。都会に慣れない父母と、日常をかき乱されてしまった息子たち。かといって疎んじているわけではなく、大切に思っているのではあるが、生活のベースが違いすぎるのである。たとえ家族であっても、離れて平常を過ごせば、おのずと不協和音は出てくる。それをやりくりしながら普段は時間が過ぎていくものであるが、ここでは母の死によって修羅場はやってくる。その中にも、仕事のこと、人間同士のおつきあい、兄弟の一時的な反目、思いだし笑いなど、修羅場にあっても人間らしい彩りが登場する。

映画『東京物語』は小津安二郎の「東京物語」のリメイクではあるが、設定も登場人物も現代に置き換えてある。俳優の個性が光る。長男の西村雅彦はまるで笠智宗のような味を出していたのが印象的だった。それだからだろうか、家族の崩壊を冷厳に描いた小津映画の印象とは違って救いがあった。次男の恋人役をやった蒼井優がきっぱりと明るいのもいい。小津映画の原節子は戦争未亡人の設定で湿っぽかった。小津監督に捧げるとして山田洋次監督が撮った映画である。場面ごとにの間合いのとり方、会話の間が小津映画であった。静寂な光景に心が安らぎ、静謐感といってもいいたたずまいで沈黙の間合いが効果を上げる。ただし現代的な感覚で間合いの時間は短い。

静と動。動といっても微細な感情の起伏や揺らぎをしっとりと描く。緩と急。急といっても荒々しい場面はなく、人物たちは怒りの感情を「まあまぁ」と言って理性と世間智で穏やかにくるんでいく。観る者は誰もが日常で経験する喜怒哀楽を呼び起こして、いつの間にか登場人物に自分自身が同化してしまうのだ。この映画を観ると、親孝行がしたくなる、人と対話したくなる、懐かしい人を訪ねてみたくなる、本を読んだり新しい体験をしてみたくなる。自分と周囲の人を取り巻く時間と空間が、愛おしくなってくるステキな映画である。

(追記/2013.1.26)映画名をずっと新「東京物語」だと思っていたが、山田監督が撮った今回の映画が『東京家族』、小津監督の分が『東京物語』であることに気がついた。
千姫と白鷺が舞う播州に [2013年01月23日(Wed)]

__tn_DSC_1508.jpg播州の姫山に築かれた姫路城、別名白鷺城(はくろじょうと読むと知った)。池田家に西国防衛の要をまかされる前までは、本多氏が姫路城の城主であった。その息子忠刻(ただとき)に一目惚れしたという千姫。徳川秀忠とお江との娘である千姫はそれ以前、政略結婚により豊臣秀頼の幼い頃から妻となっていた。千姫は炎上する大阪城にあって秀頼と命をともにする覚悟を決めていた。心から愛していたのであろう。しかし、徳川方の計らいによって命を助けられた。

≪恋する人間の目に映る「愛する人」の相貌がどのようなものであるか、周囲にいる人間は決して知ることができません。それは「愛する」という強く深い関係の中で造形された一種の作品だからです。私たちが自分自身の恋愛関係の中で経験している愉悦や幻滅や快楽や絶望は 、まわりにいる人間には決して同一のリアリティをもって経験されることがありません。≫
  (内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書,2011年)

千姫にはどんなリアリティをもって秀頼が目に映っていたのであろうか。その後恋愛結婚となった忠刻との幸せな結婚生活。一男一女ができて幸せの絶頂にあったに違いない。しかし、嫡男幸千代が死に、喜びから絶望へ、千姫の心は大きく揺れ動いたであろう。彼女は姫路城の西の丸にある化粧櫓へ毎日上り、城の西北にある天満宮を拝礼し亡くなった嫡男を弔ったという。しかし最愛の忠刻も若くして死んでしまい、千姫は再び実家の江戸城へと返されることになる。

西の丸の居住部分は今はないが、千姫に仕えた多 くの侍女たちが住んだ長屋(長局/ながつぼね)が化粧櫓には連なり、外の仕上げは天守閣と同じ漆喰の白壁で、屋根瓦も白い漆喰に塗り込められて美しい。そして今は、国宝にして世界遺産たる姫路城。千姫の愛と苦衷を今に伝えている。

(写真は西の丸長局から眺めた「天空の白鷺」。平成の大改修に合わせて工事の様子を観覧することができる)
白と黒ところかまわずアルジェリア [2013年01月22日(Tue)]

__tn_20130122210551.jpg囲碁の勝負が終わると碁石を白黒に分ける。黒が多そうなところからガサッと取って白をより分けて器に入れる。白が多い部分を大まかにつかんでから黒を分ける。アルジェリアの天然ガスプラントでの捕虜虐殺事件。アルジェリア政府は碁石をザクッとより分けるようなつもりで、テロ集団と人質とをごっちゃにして攻撃したようにしか思えなかった。テロ組織の掃討作戦とはいえ、ひどいことをするものだ。人の命がここまで軽くあつかわれるとは、あの地の未来は暗いと言わざるをえない。

日本政府は日揮と呼応して、7人の死亡者はもちろん生存者も名前を発表しなかったし、自社社員か関連企業かも一切はっきりさせなかった。このことは大いに評価できる。

こうした事件があるたびに残された家族はマスコミの取材攻勢にさらされる。家族は十分な情報を持たないなかで気持ちの整理はもちろんついていないにもかかわらず、執拗で無遠慮な酷い攻撃を受ける。飢えた野獣たちに襲われるようなものだ。これが二次的な被害として家族たちを苦しめる。あらかじめ予防線を張ったということたろう。賢明な対処であると思う。

もちろん彼らは探しだす。写真をほじくり出して、あることないことプライバシーを白日のもとにさらすことになるだろう。それでも時間的な猶予ができることは人道的にみて適切な措置であると思う。
死出の旅ひとり寂しく行かせまい [2013年01月21日(Mon)]

__tn_20130121223516.jpg昨年の自殺者が3万人を切ったと先日報じられた。実数は2万7766人で、1997年以来実に15年ぶりの快挙であるといえるだろう。一昨年より9.4%減少している。

自殺対策基本法に基づく自殺総合対策大綱。各県レベル、国家レベルの対策が功を奏したことがあるだろう。ゲートキーパーというのも昨年話題になった。鉄道の線路へ飛び込みにくい施設改良がされているのもその要因の一つだろうし、景気の落ち込みが底を打ったようにみえることも大きいだろう。

快挙とは書いたが、平均すると1日に月76人もの人が自ら命を絶っている。大変な悲劇であることは間違いない。生き抜こう! 何はともあれ明日まで命をつないでいこう! 声をかけていこう! 活路はひらけていくに違いない。
両親と別れて北へ移り住み [2013年01月20日(Sun)]

__tn_20130120222020.jpg久しぶりに児童文学を読んだ。ナチスからの弾圧から逃れた子どもの物語『海の島〜ステフィとネッリの物語』である(アニカ・トール著,菱木晃子訳,新宿書房)。北国スウェーデンの灰色な空と海、岩。ステフィが「この世の果て」と名付けた彼女の新しい家では、生活そのものも灰色にくすんでしまった。オーストリアのウィーンから北の国に疎開したのは500人の子どもたち。ステフィは12歳、妹のネッリは7歳だった。華やかな都会からスウェーデンの僻地、しかも小島に移住した彼女ら。ステフィはメルタの家に預けられ、ネッリはアルマの家に。幼い妹はたちまち生活に順応する一方で、ステフィは慣れない。彼女はホームシックに泣いた。

ステフィは母の愛がい かに深かったかを知り、母の強さを感じたであろう。娘はだれでも一度は母に反発する。ふてくされて母を傷つける。離れてはじめて母のありがたさを思い知り、同時に、刻々と年をとっている母を見て悲しく思い、かつて母に辛く当たったことを後悔するようになる。もちろん息子たちも同じことかもしれない。

慣れない生活、厳しいメルタ。幸いにその夫エヴェルトは優しい。ステフィは戦争によって両親とともに暮らすことができなくなっただけでなく、異境の地でもユダヤ人への人種差別に傷つく。いじめや嫌がらせに傷つき、母と父からの手紙を心から待つ。ステフィは手紙では両親を心配させまいと「すべてが順調、いい人ばかり」と書き連ねる。その嘘に耐えきれなくて一人寂しく泣き崩れる ステフィ。

ところが、厳しいばかりで女の子の心を理解しないと思っていたメルタが意外にも、ウィーンでひどい迫害を受ける両親を助けるためにエヴェルトとともに動いてくれたことの意外さ。ステフィに差別的いじめをしたときに対応した毅然としたメルタの姿。しかも「うちの娘」と呼んでかばってくれたことの感激。同級生ヴェーラとも和解し親友となった。幸運なことに、メルタの家に滞在していたバカンス客がステフィをイェーテボリの中学に入れてくれることになった。坂を自転車で一気に下るように、ステフィは開けたところで本は終わる。続編が楽しみである。
体罰に染まればあとには引けないぞ [2013年01月19日(Sat)]

__tn_20130119191511.jpg興南高校野球部の我喜屋監督が、朝日新聞のシリーズ「スポーツと体罰」でこう語っている。

≪子供たちに手を出したくなる時は、よくあります。何度言っても部のルールを守れなかったり、練習での態度が悪かったり。でも、そんな時は両手で後ろをぎゅっと結び、我慢します。感情が先走ってはいけない。「言い聞かせる」ことが大切。「殴り聞かせる」という言葉はありません。≫

殴られることが常態化すれば、仮にそれが愛の鞭だったとしても、暴力は次の世代に引き継がれる。殴られて育った者は反射的に殴る、叩く、つねる、押し倒す。冷静ではいられない衝動が教師や親を押し包む。教育といらだちは渾然となってしまうのだ。この監督はそのことをよくわかっていらっしゃる。

また同シリーズで前橋育英高校サッカー部の山田監督がこう語っている。

≪暴力をしてはいけないが、大阪の桜宮高の体罰問題をきっかけに腫れ物に触るような指導になってしまうことを危惧する。子供と向き合って根気強く何度も話しかけ、正直にぶつかる。指導者にとっては大変なことかもしれないが、決して逃げてはいけない≫

子供は純真で染まらずよい方向へ伸びようとする、という意見もあるしそうした子供も多い。しかしワルはいる。「よおー、あんた暴力ふるったらクビになるんだろ?オレがなに言っても怒ったらいけないぜ。手が出たらおしまいだよな」などと言い放って教師を手玉にとる奴らも出てくるにちがいない。そんな心配をしている。
雪道に吉報待つぞと健闘を [2013年01月18日(Fri)]

__tn_20130118073628.jpgサクサクザクザク雪踏んで
粉雪淡雪5センチあまり
昨日の雪が溶けて今
夜中の冷え込み凍った上に
粉雪つもってガーリガリ
凍った雪道あぶないぞ
歳をとったぞ30歳
そのつもりでそーろそろ
歩幅を3割少なめて
猫背で下をゆっくりながめ
滑らぬようにケガせぬように
凍った雪道歩きましょう
雪の景色はいいもんだ
白い霞でおおわれて全てが清く美しく
それでもバランス注意せよ

明日はいよいよセンターの
試験が迫り焦りぎみ
受験生諸氏あわてずに
雪の小道を学校へ
急いで転べば元も子もない
足下ながめじっくりと
人事を尽くせよ賢明に
受け身で待つは過去のもの
天命動かせ使命あるならばと
健闘祈る吉報待つぞ顔晴れや

(写真は雪とは関係ない。黒大豆が日に照らされている)
バカのもと言われ続けてテレビかな [2013年01月17日(Thu)]

__tn_20130117181305.jpg「どこまで馬鹿になりたいの―テレビ」で、池田晶子氏は次のように書く(新潮社『41歳からの哲学』)。

≪ちょっと考えればわかることではないか。(中略)次々に変わっていく映像は、人に考える暇を与えない。人は、考えるためには、一度は必ず映像を離れる必要がある。一方的に映像を受けとる習慣は、考えるという人間を人間たらしめている根幹の部分を、気づかずに磨滅させるのである。≫

たしかにおっしゃるとおりだ。なんの反論もできない。テレビの映像に見入ると、いつの間にか虜にされてしまう。離れようと思っても数々の趣向のまえに、私たちはテレビにひれ伏すかのようだ。テレビが魔力を持っているのは間違いない。

最新の流行(と信じさせられた)情報を知る。芸能人のきらびやかな去就に目を奪われる。スポーツや政治のニュースをキャスターの意のままに受け入れる。ドラマの時間を楽しみにする。音楽家や小説家の伝記を紹介するときもある。BSの旅番組に心引かれるときもある。かつて観た映画をやっている。美術展の紹介に思わず現地に行ってみたくなるときもある。データ放送も便利なときがある。

なんだかんだとテレビは日常を厚くおおい尽くしているかのようだ。15年ほどまえに1カ月ほどテレビを見なかったことがある。壊れてしまったのを幸い、止めてみようと家族で話しあった。話ができる、本が読める、子どもと遊ぶ時間が増える。お酒もおいしかった。いいことづくしのように思っていたが、教育番組など見たいものがあった。テレビを買った、前より大きくなった。見ていないときの禁断症状か、とてつもなくキレイに見えた。画面に見入られて初日は何時間でも見た。

テレビは馬鹿のもと。確かだ、しかしそれなしにはやっていけない。ネットやパソコンで代行はできない。テレビには全くもって完敗だ。

(写真は今夕の松江城。6センチくらいの雪帽子をかぶった杭を前景にライトアップされていた)
空は落ちスコットランドに火を噴いて [2013年01月16日(Wed)]

__tn_20130116220530.jpg007スカイフォール』は世界の多くの国で初登場No.1動員数を記録したという。本場英国では「ハリー・ポッターと死の秘宝」を抜いて公開7日間の歴代1位の記録を達成したということだったが、私にはハリーポッターがモチーフになっているように思えた。

・美しいけれど荒涼たるスコットランドの荒れ地。
  ⇔ ハリーとロン、ハーマイオニーが分霊箱を求めてさまよい歩いたのを思い出す。
・荒れ地に建つ一軒家がボンドの育ったところで両親が惨殺された場所。
  ⇔ ハリーがナギニや敵方と戦ったのは、ハリーが育ち両親が殺された家だった。
・ボンドが決戦を前に到着した一軒家の近くには両親の墓標がある。
  ⇔ 映画でも両親の墓標に 淡雪が降りかかっていた。
・凍った池で宿敵シルヴァらと格闘した。
  ⇔ ロンが凍った池に沈んだハリーを助け、グリフィンドールの剣を見つける。
・市井隠れる宿敵シルヴァの仲間が多数。
  ⇔ ヴォルデモートのスパイが魔法界にはたくさん潜んでいた。
・宿敵は元はボンドの仲間として訓練を受けていたが、英国諜報部への逆怨みがあった。
  ⇔ ヴォルデモートはホグワーツ魔法学校で成長していた。
・ボンドは事実上死んでいたが復活した。
  ⇔ ハリーは敵に一度は殺されたが、そのことによりヴォルデモートを超えた。

その他オープニングのアニメーションが魔法のイメージで、ドクロのマークも頻出したし、宿敵の不敵な自信たっぷりの笑いもあって、ハリーポッターのドキドキ感を思い出させてくれた。

かつてのボンドが愛用してきた拳銃や名車の登場など、ボンド大好きの人を魅了するポイントが満載されていたと思う。私にはボンドガールがいなくて寂しく思ったが(そうとおぼしき女もすぐに殺されてしまった)、ハリーポッターを思い出しつつ派手なアクションを楽しんだ。
見送られ宇宙にいのち遍満し [2013年01月15日(Tue)]

__tn_20130115214924.jpgある方の葬儀に参加してきた。霊山へ旅立たれた御尊顔は安らかに眠るが如く、直ちに目を覚まされても自然に思えるほどのお姿であった。重い障碍をお持ちであったが、ハンディを感じさせず知的に自由闊達に語る人であった。数々の技能の習得や社会的活動に積極的に取り組む方であった。また天駆ける精神で死の直前までユーモアを忘れない人でもあった。

もちろん、まだやり残したこともあるだろう。家族や友人たちの力になりたいと強く思っておられたことだろう。後悔も何もなくすべてをやりきったとは言えないかもしれない。だがあの方の顔は所願満足の思いに満ちていたようにも思える。

小説『宮本武蔵』で吉川英治は、武蔵に「我、事において後悔せず」と言わせる。理想ではあるが難しい。局面ごとに考えると、ああすればよかった、やっぱりやらなきゃよかった、と後悔しがちなのは日常茶飯の事だ。あとで振り返ってみて、マイナスをさっ引いて結果としてこれでよかったんだと思うのが関の山だと言える。それでも黒字を増やしたい。

人間は必ず死ぬ。100%の確率で死ぬ。遅かれ早かれ死ぬ。それでも今を生きる。終わりがあることを知りながら、それでも明日のために生きる。終わりがあるからこそ生きることは尊い。生きることは喜びであり、そのこと自体が歓喜に輝いていくことなのだ。

あの方は今を生ききった。わたしも生ききったと言えるように、生きることを大切にして暮らしたいと感じた。合掌
鹿撃ちの若さ従軍空しかり [2013年01月14日(Mon)]

__tn_20130114164727.jpg映画『ディア・ハンター』は冒頭から有名なギターのテーマ曲。英国のクラシックギター名手のジョン・ウィリアムズによる美しい曲だ。甘く繊細な曲に、甘い恋愛映画が始まりそうな気配すらした。だが劇中では緊張感がただよった。3時間の上映中ずっと怖くてドキドキしっぱなしだった。

反戦映画『ディア』になぜ緊張が続くのか。銃声や爆発音が多いから、北ベトナム軍の陰惨な捕虜生活が描かれるから、ロシアン・ルーレットのシーンが3回も出てくるから、バカ騒ぎの宴会シーンから急にベトナム戦争の地獄絵に転換するから・・・いろいろあろうが、ロバート・デ・ニーロ(マイケル役)が怖いのである。

「タクシードライバー」でも「ゴッドファ ーザー」でも若いデ・ニーロは、静かな表情から何をしでかすか分からない狂気を演じている。ここでもそうだから、静かににらんだだけでゾクッとする怖さや緊張を醸し出すのである。それが効を奏して鳥の羽音、車のクラクション、病院内で医療器具が床に落ちる音にさえ、ドキリと硬くなり、画面が明るい戸外から暗い室内に換わるだけで私は身構えてしまう始末である。

ディアとはdeer。鹿のことだ。原題もそのまま『The Deer Hunter』ではあるが、日本語題には親愛なる「dear」の意味も含ませているのではないかと私には感じられた。1970年代、凋落するアメリカの物作りが象徴する製鉄工場。そこに勤める気のおけない仲間たち。なかでも鹿撃ちを通して無二の親友であった6人。うち3人が戦争に従軍し、ニックは記憶喪失の上どさくさの中でベトナム戦争終結直前に死んだ。スティーブンは下肢を切断し傷心の姿で帰国した。マイケルは無事には戻ったが、残された仲間たちとともに(特にニックにたいして)贈る鎮魂の言葉が、「親愛なる鹿撃ち」の意に込められているのではないかという勘ぐりである。

たかだか国家の威信のために、将来ある青年たちを戦争で死なす馬鹿馬鹿しさ、仲間同士が離散せざるを得な い空しさが映画全体に漂っている。その虚無感が、私には緊張となって伝わってきたのではないかと感じる。スティーブンの結婚式と3人の従軍壮行会を兼ねた街の大宴会。ダンスを踊る老若男女。社交ダンスではなく、もっぱらフォークダンスとして集団で踊っていた。その掉尾を飾ったのがカチューシャであった。ロシア民謡である。米ソ冷戦の代理として戦われたベトナム戦争を象徴的に皮肉ったような気がしたが、うがち過ぎだろうか。
車間距離ひとには者間愛のゆえ [2013年01月13日(Sun)]

__tn_20130113214913.jpg≪車には車間距離が必要なように、人にも“者”間距離が必要なのよ。離れているからこそ、愛せるの≫
(沖藤典子「大晩年の底時力」聖教新聞1月8日付け)

さらに氏は、介護は専門家に任せ、家族は愛を担当する、つまり頻繁に会いに行くことが親孝行なのだと説く。

なるほど!と思う。昔から「スープの冷めない距離」と言うが、べったり貼りついた近すぎる関係よりも、すこしだけ離れていたほうが良好な関係を保ち続けられることの証拠だと言える。

介護は、家族の醜さも楽しい思い出も、虚栄も謙虚さも、すべてをほじくり出すように露にしてしまう。人生の終末期を後悔や怒りにいっぱいにして過ごしたいと思う者はいないと思う。福祉の専門家がたくさん必要だ。その活躍の場、福祉施設がもっと必要だ。

(コメント)
「者間距離」ですか。なるほどね。
もっと、追求すれば「間合い」だね。「心の間合い」とでも言おうか???
間合いには一定の距離があるわけでもなく、自分には自分の間合いがあり、相手には相手の間合いがある。
武道でいえば各人の体格、技量、武具の長短によって決まるもので自分は相手を制しやすく、相手は我をとられがたい空間的、物理的、時間的、心理的な間合い・・・しかし、心の間合いは愛に一定される。
ありゃりゃ。うまく、まとめることができませんでしたね。
遅くなりましたが「今年もよろしくお願いします。」
作成者 正中「間」 : 2013/1/13 (日) 23:25

×相手は我をとられがたい
○相手は我を捉えがたい
作成者 訂正 : 2013/1/13 (日) 23:28

本年もどうぞよろしくお願いします。
「者間距離」は「間合い」ですか。なるほど、さすが武道家です。いいまとめではないですか。「心の間合いは限定されたものではなく、愛によって育まれ自己の世界を拡大していく」のような意味合いでしょ?
作成者 間合いをとこ : 2013/1/14 (月) 13:33
ときめいて美とはわくわく宇宙なり [2013年01月12日(Sat)]

__tn_20130112223748.jpg≪「そうか、美というものは、いつでもどこにでもみつけられるんだ」と教えられます。「美」はとくべつな世界ではありません。画家だけがとりあつかえるというような特権ではありません。みんなのものです。みんながわくわくできる宇宙です。でもなかなかそのことが見えてこない。≫
 (森村泰昌著『「美しい」ってなんだろう?〜美術のすすめ』)

「美」は溢れている。家の中にはもちろん、この我が身にも、屋外にも、空にも、海や川にも、外国にも、南極北極にも、宇宙にも。美の定義は三者三様、十人十色、百家争鳴だが、人間一般が美しいと思うものは意外と同じようなものになるものだ。だからオークションが成立し、 ものの値段がつき、人が持っているものを欲しがり、嫉妬も生まれる。

人が見つけなかった美を自分が発見した気分を味わうときは満足度が高い。気分が高揚し、いろいろなものを見て楽しんでやろうという気になってくる。惜しげなく他人に教えてあげればいいさ。自分の「特権」にしようと思えば軋轢が生じる。「画家」のように上手な絵が描けなくてもかまわない。「わくわくできる宇宙」とは、ときには期せずして手に入り、思いがけなく近くにあるもんだ。

写真は、枯れて往時の面影をとどめないセイタカアワダチソウ。ここにも美がある。
ドワーフとホビット冒険息を飲む [2013年01月11日(Fri)]

__tn_20130111180659.jpg不格好でずんぐりした短躯が特徴のはずのドワーフに、なぜあんなイケメンたちがいるのか、というのが、映画『ホビット〜思いがけない冒険』が始まったときの率直な感想だった。そんなことはどうでもいい、ドワーフたちとビルボが危機を脱するたびにホッとため息が漏れるスリリングな展開に引き込まれた。

『ロード・オブ・ザ・リング』の3部作「旅の仲間」「二つの塔」「王の帰還」を、「スター・ウォーズ」のエピソード3,4,5に対応させるとすれば、この「思いがけない冒険」は、「ロード・オブ・ザ・リング/エピソード1」と言える。

ホビット族のビルボ・バギンズは魔法使いのガンダルフに誘われ旅に出る。13人のドワーフとともに凶暴なドラゴン「スマウグ」に奪われたドワーフ王国を取り戻すという冒険だ。彼らは危険な荒野や地底の国を抜けていかなければ目的地には着かない。最初、ビルボはドワーフたちから臆病で邪魔者扱いされるが、勇気を奮い起こしドワーフたちを助けた。そして仲間として旅を続けていく。運命の指輪を手に入れたことも大きい。それはサウロンが手に入れたい巨大な力を持つ指輪だった。さあ、ビルボの行く末や如何? というところで映画は終わった。

ロケ地のニュージーランドは『ロード』のとき以上に壮大で息を飲む美しさだ。第2部は1年後。もっと早く上映してほしい。
ワクワクと出逢いを求め外へ出よ [2013年01月10日(Thu)]

__tn_20130110215827.jpgリクルート・ブライダル総研が20、30代の独身男女2000人に調査を行っている(2011年)。内容は恋人の有無と出逢いについて。

「現在付き合っている人がいる」と答えた割合は男女平均で29%。裏を返せば、7割の人に恋人がいない。男が77%、女が66%だから、草食系の男子が増えたというのもわからないではない。

恋人がいない者に「恋人がほしいか」と聞くと、「はい」という者はたった57%。恋愛とは若者にとって今や重要な位置を占めないのだなと思う。「どちらとも言えない」が23%。はっきりしろよ、と言ってやりたくなる。

それでも恋人がほしい者は過半数を超える。そこでこの調査では、恋人の有無を分けた違いを分析した。結論は「異性との出会いがない」から。日常的に話をする異性との接点を6割以上の男女が持っていないという。

恋人がいる者は出会いのきっかけが、「同じ会社や職場、仕事を通じて」「サークルや趣味・習い事の活動を通じて」「友人の紹介」「同じ学校やクラス」となっており、ごく当たり前のことに思える。

では、出会うきっかけを増やせば、いい相手に巡り会えるかというと、どうだろう。別の調査で20〜40代の夫婦は、結婚相手を選ぶ際のポイントとして9割以上が「価値観が似ていること」を挙げたという。年齢や年収、見た目ではなく、ものの考え方によって結婚へ思い切り、結婚したことへの満足度が高くなるようだ。

まずは出会うのが先。若者よ、外へ出て活動し人に声をかけ自分を語り相手の話に耳を傾けよ! 心の障壁はそこから越えられる。ワクワクする出逢いはそこから始まる!
通勤のバスが来ぬかと冬木立 [2013年01月09日(Wed)]

__tn_20130109183124.jpg松江駅で通勤のバスを待っていた。
ちょうどタイミング悪く、数台のバスが行ってしまった。
空を見上げた。
欅の木立は冬枯れて青空がよく見える。
空には雲が半分ほどかかっていて、遠慮がちな青色がバックにあった。
木立の横には松江テルサのビル。
空を映して朝の日を浴びて新築のようにキラキラしていた。
バスを待つか、どうするか。
歩こう、と決めた。
冷たい空気を切って歩き出した。
通勤の人とすれ違う。
颯爽と歩く人、寒そうに背を丸めて歩く人、信号を待つ人、いろいろだ。
雀が鳴いている。
雲は白くて清々しい。
冬木立の下を歩くのは、気持ちがよかった。
心が弾んだ。
七草になくて七癖習いかな [2013年01月08日(Tue)]

__tn_20130108175333.jpg昨日は七草粥の日。我が家では作らなかったが、大根(スズシロ)、かぶ(スズナ)は葉っぱも含めて毎日のように食べている。ホトケノザは庭に這いつくばるように生えているのを見る。お粥は大好きだ。汁気がたっぷりのとろとろがなかでも好きだ。たぶん毎食でも飽きないだろう(やったことはないが)。何事も初ものが好きな日本人。七草粥もその一環であり、初競り築地で1億5千万円の大澗産クロマグロというのもその類いだ。

その代わりといってはなんだが、昨夜は今年初となる温泉に入ってきた。美人の湯「湯の川温泉」。肌がすべすべになったかどうかは、よくわからない。露天風呂でもっぱら過ごし、冷えた空気を浴びながら半身浴で体はよく温まった。

天頂には木星が輝き、隣には牡牛座の1等星アークトウルス。牡牛の頭を象ったVの字が浮き出ていた。少し離れてプレヤデス星団、古名は昴。雲があって満天の星というわけにはいかなかったが、澄んだ夜空に心洗われる。

湯あたりするほどの長湯は避けて家路についた。雲に隠れて冬の大三角は見えなかったが、その一角オリオン座のペテルギウスが赤かった。年末に比べて明るいような気がする。赤色巨星のペテルギウスは不安定な変光星につき、明るめの時だったのかもしれない。この星、いつ超新星爆発を起こしても不思議ではないとのこと。昼間も輝く明星を見たい気もするけれど、宇宙線(要するに放射線)が降り注ぐことになったら大変だ。
人が住む故郷の土地に時効なし [2013年01月07日(Mon)]

__tn_20130107185620.jpg取得時効とは、所有の意思を持って公然と他人の不動産を支配下に置いた場合、20年経つと所有権が移転するというものだ。その際、過失なく自分のものだと信じきっていた場合は10年に短縮される。この年数は日本の民法によるものだが、物事の法律関係を安定させるため世界中で採用される考え方である。

イスラエル建国から60年あまり。国連決議を根拠として国家が創られて以来、イスラエルは国際社会から認められている。が、ちょっと待った!と叫ぶ人たちがいる。イスラム教徒のパレスチナの人びとが二千年以上にわたって住み続けていたからだ。

パレスチナは一部自治権を認められているが、さらに国家として認めることを要求している。アメリカとイスラエル連合は反対するし、他の国連加盟諸国も関係が複雑化することを嫌がって難色を示している。

考えてみると、ユダヤ人が二千年もの間そこに住まずに各地に分散していたことで、イスラム教徒の取得時効は成立している。それを無効にしてのイスラエル建国である。パレスチナ難民たちが納得するはずがない。だから紛争は続き、イスラム連合体とイスラエルとの戦争状態は継続中だ。

古代イスラエルはサウル王が建国し、後継者ダビデ王のもと最盛期をむかえた。しかし、後継のソロモン王の死後王国は分裂し、アッシリア帝国に滅ぼされた。以降ローマ帝国などによって蹂躙され、不幸な経過をたどった。キリスト殉教の原因を作ったことでも差別は続き、ドイツ帝国によるホロコーストで悲惨の一字を体験した。同情すべき余地はたくさんあるが、パレスチナのイスラムの人びとの人権上の問題を同列には考えにくい。どちらも正義を主張して譲らない。はたしてこのことは、解決不能な問題なのか。
トレンドは何を考え何思う [2013年01月06日(Sun)]

__tn_20130106155153.jpg服飾研究家の高村是州氏が、男性ファッションのトレンドから若者を解説していた(聖教新聞2012.12.22付け)。

≪時代の気分・空気感を現しているのが、ファッションです。若者は、ファッションによって、社会への抵抗感を表し、大人に自分たちの思いを伝えようとしてきました。では今、何が行われているか。それは端的に言えば、男性服の女性服化です。肌の露出は極端に進み、究極的には男性がミニスカートをはくと考えられます。≫

毛ずねを剃り上げて筋肉を細く搾り上げ黒タイツでも履いて、細身スカートの男を見る日がくるのかもしれない。それはともかく、ファッションで自分をいかに表現するかという点で参考になる解説だった。

≪自分はどういう人間か。それを伝える手段の入り口を、私はファッションだと考えています。もちろん、最も大切なのは内面です。でも、これだけ物があふれ、豊かになった時代です。幼い頃から、かっこいい物・かわいい物に触れてきた若い人は、まず外見で人を判断する傾向を、ますます強めていくことでしょう。
 だから私はファッションが大切だと思うのです。(中略)身の回りの物に目を配り続け、好奇心を刺激し続けることは、社会で成功するためにも大切なことではないでしょうか。ちなみに、常に変化するファッションを楽しむ簡単な方法は、服全体のたった20%でいいので、最新の服装を取り入れることです。これなら、自分らしさを失うことなく、"今"という時代も楽しむことができま す≫

なるほど。では私も2割を目指していこうかなあ。メガネ?細身のパンツ?一部ド派手なセーター?
渾身に体をぶつけ再生を [2013年01月05日(Sat)]

__tn_20130105214557.jpg丁寧に作り込んだ作品である。登場人物の心情、刻々と変化する人間同士の関係、島後・都万や島前の摩天崖、赤はげ山の景観、20年に一度の遷宮を前にした水若酢神社(島後・五箇)の静寂、一番一番の隠岐古典相撲の取り組み、地元の熟練した行司や呼出しの迫力、勝負に沸き一喜一憂する場内、正三大関同士の大一番・・・・そうしたシーンが丹念にバランスよく遠近感をもって画面に配置されている。過去と現在の時間を交互に並べつつ物語の核心に近づいていく手法も、時間の遠近感を感じさせて観る者を飽きさせない。

錦織良成監督(脚本兼)が持てる力を出し尽くして造り上げた感をもつ。まさに「渾身」である。隠岐古典相撲の醍醐味、家族の再生と船出を計算尽くで描ききった。出演者やスタッフ、エキストラとして関わった隠岐の人々の気持ちが合わさって、あらかじめ意図した計算を超えて、映画『渾身は見事に仕上がった。神事(かみごと)であるかのようだ。

どの画面もムダがなく美しい。かつユニバーサルな映画である。悲しくて涙が出るのではない。嬉しい思いが湧き上がって涙がにじむ。漫画家のやくみつる氏がコメントしている文章があった。≪「抑制」と「躍動」の劇的なコントラストこそ相撲の美学。その意味では「渾身」は全編がひとつの大一番であるかのようだ。≫

隠岐諸島の自然と生きる人々が発する価値を歌い上げた映画であった。ミュージカルではないが、筋書きのドラマを超えて、画面からリズムが響いてくる。隠岐の自然が織りなす緑と青、茶色のアースカラーが人間劇の幅を広げた。使われていた隠岐弁は最小限にして、あえて使わず(「○○だけど…」を隠岐弁で「○○だいどぉ」という台詞が目立った程度)、標準語的なアクセントに統一してあった。日本中、さらに世界に通じるユニバーサルな映画としようとしたのではないかと私は勘ぐっている。

「隠岐には島根には日本の心がある。そしてこの日本がいい」という監督の言葉が心に残る。幸い今日は出雲、松江、米子での先行上映初日で、上映後T・ジョイ出雲で行われた舞台挨拶に参加することができた。錦織監督と多美子役の伊藤歩と英明役の青柳翔の3人が隠岐での撮影体験を話してくれ、隠岐の人々との交流が宝物となったことを実のある言葉で紹介してくれたのは嬉しい。

もちろん突っ込みどころはいくつかある。だがステキな映画だ。たくさんの人に観てほしい。脇役の名演技も光る。エキストラに知り合いの顔を見つけるのも楽しい。何度でも観たい映画に出会えて嬉しい一日だった。
本を読む本能のまま本を読む [2013年01月04日(Fri)]

__tn_20130104170144.jpg≪芸術というのは、作品に触れた人々の心の中で結晶化するものだ。なぜ感動するか、どこに心を打たれたかということは、本人にすらも説明できない。だからこそ尊く、人々の心を豊かにしていく。≫
   (東野圭吾「プラチナデータ」平成24年、幻冬舎文庫)

ひまつぶしに本を読む。教科書として本を読む。教養として我慢して読む。ふと手にとって面白くなって読み進める。流行のベストセラーだから読む。いろんな本の読み方がある。

  読書は、本能。
  いつでも、どんな場所でも、人は本を読む。
  読むことで、先人たちの歩みを知り、未来の自分と対話する。
  それは、今を生き抜く私たちにとって、必要な「本能」なのかも知れません。
   (集英社/2013年元旦新聞全面広告)

そうだ。本能のようにして活字に向かっていくのかもしれない。どんなにガムシャラに活字を拾っても、すべての出版物を読むことはできない。有限な時間にあって、わたし自身にとって悔いのない本に出会えるよう願っている。
憧れと誉れを胸に二千年 [2013年01月03日(Thu)]

__tn_20130103225920.jpg最後の台詞は「明日は来る(Tomorrow Come)」。「過去は過去、そして現在があり、明日は来る、未来を信じよう。神の御前にて」というメッセージが、ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』から発せられていた。ジャン・バルジャンは司教に救われ神を信じて更生の道を歩んだ。ジャベール警部は法は正義であり神がその根幹を作ったと信じた。マリウスとコゼットも神に導かれて互いが一目惚れしたと信じていたことと思う。罪により裁く者も裁かれる者も、生まれついての富者も極貧者も、定住者も放浪者も、さまざまな価値がキリストの名の下に一体感を持って描かれていると感じた。

キリスト教が世界宗教として広がり今も力を持つのはなぜだろう。一つは「愛」という精神のエネルギーを教義の柱としたことだろう。神の福音を説き、人がもつ原罪を救済するということを主眼とした教の力そのものである。二つ目に布教の手法である。迷える民をどのように教化し、愛の精神を普及していくのかという側面である。演劇に譬えれば、「教義」は原作や台本であり、「教化」は舞台装置や衣装、演技といった演出を施すことだ。宗教全般にいえることだが、教義と教化のどちらが欠けても宗教は広まらない。

『レ・ミゼラブル』は、オーケストラをバックにソロやデュエット、合唱によって19世紀初頭のパリを舞台に人間像を現した。恩讐や憎しみ、貧困や負けの見える戦いを描いており辛いシーンもありはしたが、歌に引き込まれる映画だった。歌の最後は「明日は来る(Tomorrow Come)」。死んで神の元に召されても目指す社会を後継の人々が実現してくれるという期待を込めた歌詞だ。そうした世界観を多岐に表現できるキリスト教の力を感じた。

キリスト教の教化は3世紀から急速に進み、ヨーロッパ諸国が中世以降、政治的にも軍事的にも世界を力で席巻してきた。19世紀アメリカの台頭もあって欧米の影響力で世界は動き、キリスト教は広まった。そうしたパワーだけでなく、文化も教化の力となっている。服装(例えば王宮の姫のドレス、ウェディングドレス)、建築(例えばゴシックの建築様式)、美術(最後の晩餐やイコン)、音楽(パイプオルガンやバッハ、モーツアルト)、文学(神曲、罪と罰、レ・ミゼラブル)、哲学(スコラ哲学や大学制度)、習俗(クリスマスやバレンタインデー)など、私たちの憧れの存在として影響力を持ち続けた。

その一つとして映画があると『レ・ミゼラブル』を観て感じた。「ベンハー」「パッション」「ダヴィンチ・コード」「エクソシスト」「薔薇の名前」「禁じられた遊び」「汚れなき悪戯」など数え切れない映画がキリスト教を描き、神は死んだと説く反キリスト的な価値観も含めて、キリスト教が背景となっている映画は多い。世界中の人々にロマンと憧憬の思いを沸き立たせて(反発することも一面キリスト教の影響の大きさを意味する)、教化という点ではキリスト教は大いに成功を収めてきたと言える。その強さを感じた映画であった。

映画そのものはといえば、マリウスとコゼットとの情愛はともかくエポニーヌの恋心を感じないマリウスにじれったさを感じた。エポニーヌの恋の詰まった歌声にじんとなる。宿屋のかみさん役をやったヘレナ・ボナム・カーター。ハリーポッターのベラトリックス役でもそうだが、キャンキャンした敵役がぴったりとはまっている。ジャン・バルジャン役のヒュージャックマンやジャベール役のラッセル・クロウをを引き立てた。
スポーツに郷土の期待背に受けて [2013年01月02日(Wed)]

__tn_20130102164214.jpg誇らしいことである。郷土愛が目覚めてくる。

今日は第89回の箱根駅伝の往路。各チームを紹介する際に、昨年の箱根○位、出雲駅伝○位、全日本学生駅伝で○位と、アナウンサーが言うだけでなく画面の左上に掲示される。学生日本の3大駅伝の一翼であることが誇らしい。「出雲」の名が全国に流れていく。かつての出雲市長岩国哲人氏の功績を称えたい。出雲工業高校出身の学生が走るときには少しだが出雲の文字が出るのもグーである。

誇らしいことである。郷土の高校が活躍してくれると嬉しい。

今日は高校サッカーの2回戦。立正大淞南が千葉・八千代との対戦であった。立正大淞南高が松江市にあることは、最初の学校紹介映像にあっただけで、中継中もアナウンサーも解説者も、相手校の千葉県立八千代高校の選手や監督を中心に紹介しており、心情的にも応援団の一翼という放送だった。開催地が千葉・フクダ電子アリーナであることを差っ引いても依怙贔屓であった。結果は立正大淞南が7対1で八千代に大勝。それでもアナウンサーは八千代の健闘を称える。ともあれ見事な勝ちっぷりであった。明日は同じ会場で北海道・旭川実業との対戦。堂々たる攻撃サッカーを明日も立正大淞南に期待したい。
元朝にほかほか朝日がまぶしくて [2013年01月01日(Tue)]

__tn_20130101230035.jpg元朝は青空が広がった。
涼やかな空に雲がぽつぽつ浮かぶ。
きりっとした冬空に気持ちが引き締まる。
陽光がまぶしい、車の中はポカポカだ。
西暦2013年、平成25年巳年の始まりだ。
ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』、
最後の台詞は「明日は来る(Tomorrow Come)」
過去は過去、そして現在があり、明日は来る、未来を信じよう。