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日中の絆を絶やしてなるものか [2012年09月30日(Sun)]

__tn_20120930225147.jpg昨日9月29日は日中国交正常化40周年の佳節であった。日本は敗戦でガタガタ、中国は戦勝国とはいえ革命戦争と朝鮮戦争、さらに大躍進運動や文化大革命でヘトヘト。両国は長らく国交が断絶していた。当時日本には共産主義へのアレルギーが強く、中国との国交を回復させようという動きに対しては極めて強い反発があった。困難な状況を乗り越え心血を注いできた人びとの努力によって、今や経済や文化を中心とする相互協力はなくてはならないものに育ってきた。

しかし今、たかが小島のことでもって、それらが無に帰するかもしれない心配が生じてきた。なんと残念なことだろう。たかが小島といっても領土は国家主権にかかわるだけに、国の沽券にかかってくる。政治的な場で中国が嘘を百編言えば、こちらは真実を二百編言い返さないといけないから対立は避けられない(今日本は真実の反撃をやっていないから押しまくられるばかりだ)。領土問題は存在しないなどと高飛車に出ないで、日本は国際司法裁判所での調停を申し込むべきである。その上で、小島の土地そのものより重要な漁業資源や海底資源のことをしっかり交渉して、ウィンウィンの関係にもっていくことが大切だ。(よもやならないとは思うが)領土戦争でも勃発してしまったら取り返しがつかな い。

日本はここ一月、あれよという間に右傾化してきた。それでなくても日本人は振幅幅の大きい国民だ。
≪三年前までは、日本人は「世界でいちばん優秀な性格」をもっていた。三年後の今日では、日本人は「世界でいちばん劣等な性格」をもっていることが明らかにされた。≫  (羽仁五郎「日本人の性格について/VAN第3巻1948年1月)

中国も同じようなことが言える。古代から政権が弱くなり天変地異などで人民が食えなくなり物情騒然となると大動乱が起こってきた。人間が流動化し秩序はなくなり、何百万何千万という人々が塵芥のように死んで路傍に投げ捨てられているという状況だ。そうした騒ぎを防ぐために中国当局は必死に人民をコントロールしようとしている。経済的な格差が極度に大きくなって、くすぶった国内の不満の矛先を、尖閣諸島と日本憎しへの感情をあおり立てていることは否定できない。

尖閣諸島問題で日中の対立が深刻になる中、中国当局が日本関係書籍の出版規制をはじめたことを憂慮して、村上春樹が朝日新聞に寄稿した(2012年9月28日)。

≪国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。(中略)領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。(中略)安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。≫
そして村上は「国境を越えて魂が行き来する道筋」を塞いではならないと強調している。

そうだ「魂が行き来する道筋」だ。モノやサービスが貿易によって行き来するときに、人の心も同時に接近し交流する。その「道筋」を細くすることも途切れさすこともあってはならないことだ。これは韓国との関係にもいえる。魂をモノとサービスに乗せて、三国は東アジアだけでなく、世界の平和と幸福に寄与しなければならないと思う。
麗しのサブリナパンツに魅せられて [2012年09月29日(Sat)]

__tn_20120929110202.jpg麗しのサブリナ』が終わるころになって、私は映画館で気がついた。カラーのような気がしていたのである。1954年「ローマの休日」と同じ年に封切られたこの映画は、白黒だ。オードリーの若々しさ、艶やかさ、すくみのない美しさ、キリリとした挙措に可愛らしい動作。そうしたものと、ハンフリー・ボガートが黒づくめのスーツや帽子、渋く抑えた演技をしたことが対照となって、サブリナことオードリーの華やかさが際立ち、わたしはカラー映画だと錯覚していたのだろう。

サブリナ・パンツとして一世を風靡したファッション。今もその名を残す名デザイン。とてもかっこいい。ヒールのないぺた靴で軽やかに歩けば、誰でも涼しげで美しく見える。オードリーのように、全体として細身ながら長い筋肉質の足、引き締まったウエストに、適度な大きさのバストをもった人の着こなしにかかれば、さらに言うことなしだ。

「去る者は日々に疎し」という言葉がある。接することがなくなると親しい間柄であっても、やがて疎遠になるというものだ。

子供の頃からサブリナが恋い焦がれたララビー家の弟デイビッド。歯牙にもかけてもらえなかったサブリナであったが、2年間のパリ生活は彼女を見違えるほどエレガントに変えた。デイビッドは夢中になった。しかし、彼は婚約していたのである。

富豪の運転手の父をもつサブリナと、釣り合いのとれないデイビッドの恋。しかも先約あり。大きなコンツェルンを経営するララビー家の兄ライナスは、引退していた父と謀って二人を遠ざけようとする。スキャンダラスな事件は避けたい。ライナスは仕事一筋で家族もおらず、ララビー家の繁栄を願っていたからだ。

弟の代理だといってサブリナと付き合うライナス。数日で彼は彼女を愛しはじめていた。サブリナも同じだったが、心に秘し沈める。観る者は、遊び人で仕事もしない(できない?)デイビッドなどにどうして惹かれるのだ、とサブリナに言いたい。やめてしまえ、と思ううちにライナスの存在が大きくなる。観る者の期待どおりに二人は結ばれた。ハンフリー・ボガートは演技とは別に、「君の瞳に乾杯(Here's looking at you, kid.)」と言いたかったかもしれないぞ。

物理的に離れてしまうことは、精神的にも別離の可能性が出てくる。去る者は日々に疎しとは、それを言っている。世の男女、友人、家族、あらゆる人と人とのつながりに言える理であろう。人付き合いにはケアが必要だ。
インタビュー野球選手を見ならって [2012年09月28日(Fri)]

__tn_20120928221058.jpgセ・リーグは巨人が早々と優勝を決めてしまって興味が薄れるかと思いきや、パ・リーグでは優勝争いが混沌として楽しませてくれる。さらにクライマックスシリーズもあるから、プロ野球人気はそれなりに安定したものといえる。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)参加も決まり、いやがおうでも注目を集める。

今夜のプロ野球ナイターでは、パ・リーグの首位決戦で、現在一位の日本ハムファイターズが西武ライオンズに5対0で勝って、マジックナンバーを4とした。勝ち投手となった吉川がヒーローインタビューの最後を「優勝まで突っ走っていきましょう!」で締めくくっていた。札幌ドームは大いに湧いた。躍動する栗山新監督を盛り立てる吉川はこれで今期14勝、優勝への原動力となっている。また、中田も22号、23号とホームランを量産し、球界のトップスラッガーとして成長を遂げた。

さて、吉川投手は地元札幌ドームの観客から大きな歓声を浴びながら、誇らしげに楽しげにインタビューに応えていた。目の前の観衆と喜びを分かち合い、ファイターズファンでなくても、野球ファン全体に対して敬意を示す態度であったと思う。プロ野球選手に共通する好ましい態度である。型にはまってつまらない、他人行儀だという声もあるが、球場にいるファン、テレビで観ている観衆などさまざまな層に対する紳士的な態度だと思う。

一方でサッカーの日本選手のインタビューは、野球選手ほどこなれていない。どこかぎこちなく、言葉足らずで幼い印象がある(それほど聞いたわけではないが)。またかつてのプロゴルフはひどかった。尾崎や青木、中島といったところが代わりばんこに優勝していた頃は、インタビュアーとの親しさをそのままタメ口で表し、ギャラリーもテレビの向こうにいる聴衆も一緒くたにして、無教養な態度を露わにしていたのが不快だった。それにひきかえ、野球選手や監督たちが洗練された、ある面気品ある言葉で応える様子はなかなか見ものである(例外はあるが)。
月明かり恐怖の元は闇の夜 [2012年09月27日(Thu)]

__tn_DSC_0969.jpg今夜は月が明るい。上弦の月から数日、月齢十一日くらいだろうか。空は漆黒。真っ黒ではない。漆を塗ったように輝く黒さというか、濃紺だ。ポツポツ浮かぶ秋の雲は月を照り返し白っぽく、裏から光を浴びた雲は灰色に浮かんでいる。

街中で家の光がたくさんあり、街路灯も多い場所では、月光は何てことはない。空を見上げればたまたま白面の月面が輝いているだけのことだ。いなか道ではどうか。今どきどこにでも外灯はある。防犯の意味でもたいていはある。

それでも時折、外灯がない道を歩くときがある。月光が急に表情を変えるのである。色は付いていなくても、煌々ときらびやかに輝くのだ。月をバックにして山の稜線が黒々とシルエットを伸ばし、斜めに射し込む月の光で休耕田に生えた草々に凹凸が見えて別世界が現出する。静寂な月世界を思わすように、あたり一帯が厳粛な雰囲気に満たされる。

人工には行灯くらいしか照明のない昔には、月光は辺りをくまなく照らす月はありがたいものであったことだろう。夜に出歩くのは、半月以上の明るい夜で、雲が厚かったり雨の夜は出歩くのを控えるというのが常識的な生き方だったのだと思う。無理して夜間外出すれば、道を踏み外したり、何者かに襲われる恐れを感じて怖かったに違いない。

今や夜は明るくなった。照明機具も便利になったけれども、夜はやはり怖い。太古の昔から先祖たちが怖れていた夜というものは、今の私たちにとっても同様に恐怖を催す。だから、お化け屋敷や肝だめしが流行るのである。
ああそうだあの人誰かに似ているぞ [2012年09月26日(Wed)]

__tn_20120926191023.jpg他人を認識する際に、私たちは何を目印にするであろうか。顔のつくり、肌の色つや、髪型や色つや、体形、仕草、歩き方、ファッションセンスなど考えればキリがない。そのひとつに、「自分の知っている誰かに似ている」というのがあると思う。

芸能界の誰かによく似ていれば、周囲の人にとってみれば周知のこととなるが、有名ではない学生時代の同級生だったり、近所のおばさんに似ているとなれば、自分だけが了解して、その人を見るたびに「○○さんだ」と思い出したりして、何か不思議な気分を味わうことがある。

少年期、青年期を経て仕事をするようになり、数えきれない多くの人と接して経験を積み重ねる。歳月とともに接点がなくなり、音信不通となり、すっかり意識から遠のいてしまっている知人もいるであろう。知人といってもつきあいの深さはさまざまで、記憶に残るその人の面影にも浅い深いがある。同窓会をしたり、雑踏で多くの人を見るときに、「似ている」という記憶がよみがえるのである。

先日土曜日の同期生会がまさしくそうであった。あの彼は、数年前職場で一緒だった別の彼に似ているなあ。この人はそうそう、あの人に雰囲気が似ている。彼女は、友だちの妹みたいに見える。何度も繰り返しそんな感慨をいだいた。

小中学校の同級生なのか、仕事関係なのか、プライベートの会だったのか、区別がつかないケースもある。そもそも学生時代に顔は知っていても接点がなかったあの人の過去の面影を、単に二重になぞっているだけかもしれない。ひょっとしたら、私の脳が勝手に作り上げた妄想の可能性だってある。

脳や記憶の不思議な一面を感じるのは、わたしだけだろうか。不思議と思ううちはいい。やあ元気?と言って、名前が出ずに息を飲むときがあった。これはいただけない。かなしいことだ。
欲しい物ほしい自分をなぞらえて [2012年09月25日(Tue)]

__tn_20120925202655.jpgフリーライターの金子由希子さんが朝日新聞土曜版beの『お金のミカタ』で、「欲しいものノート」を提唱している。「自分の物欲を一覧表にする」というものだ。ともかく欲しいものを紙に書き出していく。

≪今欲しいものは全部書き出した状態になったら、なんだかスッキリしました。何一つ手に入っていないのに不思議ですが、つきものが落ちたような気分でした。そして今度は、書き出した「欲しいもの」の中から、「どうしても手にいれたいもの」を選んで丸で囲んでいきました。≫

すると、≪ドロドロと煮えたぎっていた物欲が鎮ま≫ったという。丸で囲んだ物について次は丁寧に一つひとつ、≪「どんな形で、どんな色で、どんな素材が欲しいのか」「買うならどの店で買いたいか」「予算はいくらまでか」≫を書きつづっていく。

それを定期的に見直すことによって、
≪いつの間にか、欲しいものがきちんと手に入るようになりました。買うためには、限られた収入を集中させなければなりませんから、無駄な買い物が減りました。≫と。

なるほど、すごい方法だ。実践しようという気になってきた(こうしてブログに書くとやったような気がして良くないのだが…)。

さらに応用ができると思う。物欲以外の望みを書き上げるのだ。こうありたい、ああいうふうになりたい、そんな自分をイメージして目標を達成するのである。毎日毎晩忘れないようにイメージをなぞり、実際の自分との差を擦り合わせる。

気がかりな人や事柄について書き上げて、忘れないようにする、案件に対するよい方策を考えていくこともできそうだ。それも全ては実践してはじめて意味があるのである。観念の遊戯から卒業しないとなあ…。
出発だやってみてから力出せ [2012年09月24日(Mon)]

__tn_20120924181212.jpg人が持っているはずの可能性を閉じてしまう限界にはいろいろある。体力的な限界、もって生まれた才能、知力、財産、ネームバリュー、ネットワーク力、包容力、聞き取り力、判断力、人心掌握力、国力の限界など数えればきりがない。だが、最も人のやる気をそいでしまうのは、「自分にはどうせダメだという諦めの気持ち」であろう。それを裏付ける話がある。

≪脳科学者の池谷裕二氏の講演で、興味深い話を聞いた。20歳前後の若者と、60代から70代の高齢者に、それぞれ単語のリストを見せ、記憶力を比較する実験。事前に「これは心理学のテストです」と伝えて行うと、年配者と若者の正解数に、ほとんど差はなかった▼ところが「これは記憶のテストです」と説明して同じ実験をすると、年配者の方だけ正解数が約3分の2に落ちた。「年だから覚えられない」との自己暗示が能力を抑えてしまうという≫ (聖教新聞2012年9月20日付け「名字の言」)

なるほど、と思う。記憶力は確実に落ちる。あれだそれだと指事語が増えて、人の名前が思い出せないことはしょっちゅうだ。前はそれほどひどくなかったのに、と気が萎える。加齢による衰えは隠せない。

しかし上の話は、自分が潜在的にもつ力を引き出せないというような高度なことではなく、気持ちひとつで現に持つ力ですら発揮できないということだ。まずはやってみよう、まず着手してみよう。面白さに気がつけば記憶力ばかりか、思わぬ力が引き出されてくるかもしれない。諦めるのは、やってみてからでも遅くない。

(写真は明るい紫色の紫式部。才女・紫式部だって記憶の衰えに悩んだに違いない)
笑顔にて負けじ魂ここにあり [2012年09月23日(Sun)]

__tn_20120923223955.jpgかつて高層ビルの一室で仕事をした時期があった。楽しいことも多かったが、苦しい経験をたくさんした。長時間勤務でもあった。辛い思いをしたり悩んだときには26階の最上階に上った。広い窓から暗くなった東京の街を眺めた。深夜のビル群のどの窓にも、こうこうと明かりが点いていた。道路は車のヘッドライトやテールランプが連なっていた。ビルや車の灯りの一つひとつに人の生活がある。喜びがあり悲しみがあり怒りがあり楽しみがある。名を知らぬ多くの人が生きている。

人間はちっぽけだ。巨大な社会にあっては微々たる存在でしかない。高いところから俯瞰して眺めていると、人間というものの小ささがわかる。小さくはあっても、決して価値のないつまらないものではない。かけがえのないものであることも同時に感じられる。わたし自身が悩んでいる事柄が相対して小さなものに思えてくる。頑張ろうと思って再び執務に戻る。高いところに立って思索したとき、人は口角を上げて顔晴っていこうと決意することができる。

昨日は創価大学九期生大会でもって多くの同期生に再会した。当然ながら皆老いていた。髪が白くなり薄くなる。腹回りが大きくなり、シミやシワが増える。幾星霜の経過によって外見は変わっても、青春の誓いを胸に旅立った八王子のキャンパスに集い、再び実社会での闘争に向かっていこうと意気軒昂に決意する。

創立者のメッセージが伝言された。
 「九」という数には、古来「無尽」、すなわち尽きることのないという意味があります。わが愛する九期生たちよ、決して尽きることなく、大勝利の人生を飾りゆけ! 健康と御多幸を祈ります。仲良く明るく前進を!

ホイットマンの詩の一節を思い出した。
さあ出発しよう。悪戦苦闘を突き抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないからだ(詩集「草の葉」) 

過去からの延長線上に現在がある。その来し方を俯瞰して思い遣ることによって、朗らかに高らかに行く末に向かって顔晴っていくことができる。魂の故郷に帰った一日。笑顔あふれる一日であった。
シャレードは車でなくて言葉あや [2012年09月22日(Sat)]

__tn_20120922094129.jpg冒頭のクレジットから迷路をデザインした枠に登場人物と俳優の名前があらわれる。幾度も聞いたことがある映画音楽。これが『シャレード』なのか、なるほど。いかにもスリリングな感じ、スパイが出てきそうな雰囲気がある。フランスのスキーリゾート地。黒いサングラスをかけたオードリー・ヘップバーン。片隅から狙う短銃。気がつかずにもりもり食べ続けるオードリー。引き金が引かれた。危ない! と、銃口から・・・なんだ水鉄砲か、と観客をギャフンといわせる。

シャレード(charade)とは、偽装とか見え透いた見せかけという意味がある。殺された夫チャールズにはいくつもの顔があった。パスポートだけでも四つ。夫の友好関係はもちろん、どんな仕事をしているかも知らなかったレジーナ(オードリー)はノー天気だ。ただ富豪としての夫だけを利用価値とし、夫は妻の美貌だけを好んでいたようだ。レジーナは真実を探ろうとするやいなや、周りのほうから事件が降りかかってくる。彼女は軽妙でロマンチストなオチャメぶりを存分に発揮する。

シャレードには、言葉当て遊びという意味もある。ジェスチャーで相手を当惑させ、ウィットに富んだ掛け合いで、身に危険が迫ったたときですら、ゲーム感覚で観客をニヤリとさせてくれる。特にレジーナと謎の男ピーター(ケーリー・グラント)とのやり取りが楽しい、かつロマンスに心躍らせてくれる。

途中で誰が犯人かはわかりそうになるが、どんでん返しがある。最後にもう一つの意外な展開がくる。軽快で幸せなラブコメディであり、ロマンチックサスペンスであった。そして苦しいときであっても、口角を上げてにっこりジョークを忘れるなと教えられたような気がした。
好きなもの天地輝き明察に [2012年09月21日(Fri)]

__tn_20120921213501.jpg映画『天地明察』を観ると、好きこそものの上手なれ、という言葉をズバリ現していることがわかる。岡田准一がはまり役で、神社に掲げられた算術絵馬の問題を解こうと安井算哲が、頭をかきむしりながら夢中になっている姿。実に微笑ましい。算木という計算用具を初めて見た。算盤のように機能的でコンパクトではないが、すごろくで遊ぶような雰囲気があって楽しそうに見える。算哲という名前がすばらしい。算術を楽しみ極め哲学する、などと想像してみる。

一方で保科正之や水戸光圀に命じられてのち、誤差が目立ってきた古い暦宣明暦を修整するまでの道のりが苦しいこと、険しいこと。天体観測と数理解析に明け暮れ、あと一歩で完成という段になって挫折する。不遇な算哲が苦境を乗り越えられたのは、妻のえんがいたからこそだった。明るく笑いころげ、ときに凛として使命の道を指し示す。宮崎あおい、これもはまり役だった。

艱難辛苦の末にできあがった暦。名付けて大和暦。使命は果たしたが、算哲はヘロヘロだった。その対比が著しい。つまり「好き」でやるのと「仕事」でやる、この違いである。

仕事というものの強制力がひとの自主性を奪う例として、御城碁があった。将軍の前で行われる儀式で、あらかじめ対局した棋譜を単に再現するというものだった。真剣勝負を願った算哲は、天才棋士本因坊道策と計略してその伝統をぶち壊す。しかも初手天元。宇宙的で可能性に満ちた第一手。しかしボロ負けの怖れもある。

囲碁の世界での宇宙、観測して天体の動きを予測する宇宙、数理が法則を表現する宇宙。時間と空間が膨大に広がるこの大宇宙の縁に立った人間の英知。その始まりの江戸時代初期に闘った人びとのロマンを記した小説と映画であると思う。そして同じ「仕事」をするならば、自分の工夫で「好き」な感情をもって取り組むべしと教えられる映画であった。
散策と歩きに好しか城周り [2012年09月20日(Thu)]

__tn_20120920195046.jpg松江城は堀で囲まれている。宍道湖や大橋川とあわせて「水の都」といわれる由縁であるが、堀の内側を周回して散策路がある。特に椿谷の辺りがいい。椿の花がその季節は楽しめる。夏になれば深い緑に癒される。

まだ蝉が夏の名残りを伝える今の頃(今年は名残どころではなかったが(>.<)、朝方の木漏れ日を浴びながら歩くのは楽しい。舗装はされておらず、泥をたたいて固めて砂と砂利でぬかるまないよう補強してある道だ。さあ今日もやるか!と意欲が湧いてくる。夏の基調となってきた蝉の声。それも間もなく聞かれなくなるかとと思うと、いくぶん寂しい。

秋の日が早く落ちて暗くなった頃に歩くのは少し怪しい。高さ50cmほどの灯りが10mごとに品よく照らし、歩みを助けてくれる。向こうから来る人の顔は見えないが、松江は治安がいいから大丈夫(たぶん(((^_^;)。

リ〜ー〜ー〜ンリ〜ー〜ンと虫の声が響き渡る。あれはコオロギの一種だ(たぶん)。秋はここにある。食欲の秋、文化の秋、スポーツの秋、読書の秋、思索の秋。秋はいいことがたくさんあるような気がしてきた((*^.^*あってほしい)。
智と情と巡りめぐって顔晴れば [2012年09月19日(Wed)]

__tn_20120919195510.jpg『草枕』で漱石はこう表した。

≪山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。≫

ひとが心を動かしたり、行動するきっかけとなるのは知、情、利である。知とは理性や理屈。論理的に考えてやるべきことは義務であることも多い。でも気がすすまないことはよくある。

情とは感情である。好きだとか嫌いだとか、思いやりにほだされて感性で行動する。意地や義理人情も情にかかわる。奥底から心に響くから根が深い。

利とは利益や利害である 。行動することが自分のためにつながれば、楽しいし張り合いがある。人間がやる気を起こすには、こうした三つの条件が必要だ。

漱石の『草枕』の表現を借りれば、「智」を働かせてきっちりと納得させ、「情」に棹さして気持ちよく安心して動いてもらう。智とは、知識や情報を得て判断する理性を指す。 情とは好悪の感情や思いやりであり、意地や義理人情も含まれる。智と情をコントロールすることは難しいと漱石は表現した。

ひとを動かすためには論理と感性、ともに欠けてはならず、科学的根拠に基づいた説得に併せて、温かい励ましの言葉が必要となる。仕事でもプライベートでもそうであるが、どれだけ高いモチベーションを持ち続けられるかは、事の成否を決する。

だが思うのである。自分自身を動かすのがときには一番難しいと。自分の心のひだに分け入って意欲を高めて、「頑張る」ことが辛く感じることがある。そんなときは、せめて口角を広げて頬の筋肉に力を入れて、「顔晴る」ことにしてみよう。少し大股で歩いてみよう。形だけでも顔晴れば、心は変化をみせてくれるだろう。
瓦礫とは大切なものの代名詞 [2012年09月18日(Tue)]

__tn_20120918205621.jpg瓦礫(がれき)とは文字どおり、瓦と小石。破壊された建造物の破片などを意味し、さらに、値うちのないもの、つまらないものの例えでもある(web大辞泉)。

数千万トンといわれる大震災被災地にある瓦礫。当地に処理施設の建設が進み、他の地域でも広域的な協力が少しずつ進行する。放射性物質に対する極度の不安から強硬に反対する人びともいるようであるが、北九州市でも焼却処理が始まった。

「瓦礫」とはなんとも無機質で冷たくて人間味を感じない物言いだが、瓦礫になる前をよく考えてみたい。長いローンを組んでお父さんが必死に働いた家も瓦礫となった。ホームセンターで買ってきた材料で一段一段家族が積んだ花壇の煉瓦も瓦礫。お母さんが子供と楽しんだオセロゲームも、父と子がキャッチボールで心を通わせたグローブも、心のこもった挨拶状もラブレターも瓦礫となった。津波に飲まれて海水と泥にまみれて、跡形もなく大切なものが形を失ってしまったのだ。

もう再生はできない。同じものを買い替えても作り直しても、思い出の詰まった「瓦礫」は元に戻らない。経済的には価値はないかもしれないが、特に亡くなられた方の品々であれば、瓦礫状態であっても遺族は取り戻したいと考えていることだろう。大切な人が大事にして魂魄をとどめた「その品」を瓦礫と呼んでたまるか、という気持ちであるにちがいない。

大震災で亡くなられた遺族のことばかりではない。愛するひとが亡くなられて遺された人びと。残された遺品の数々は、物故者を知らない者にとってはただの「つまらない物」であるかもしれないが、彼や彼女のことを大切に思う人びとにとっては、かけがえのない品々だと思う。

ただの物品、汚れた瓦礫だと思うなかれ。物には使った人の思い出と過去と気持ちが詰まっている。
綿と棉もめん街道栄枯なり [2012年09月17日(Mon)]

__tn_20120917224646.jpg出雲・平田の木綿街道に行ってきた。宍道湖から中海、日本海と水運の動脈。そこにつながる平田の船川は便利な水路であった。江戸末から明治にかけて良質の平田木綿が関西で高く評価されており、船川周辺が木綿の集積地となった。今も酒蔵や醤油蔵があり、豊かな町家が軒を連ねていた風情が残っている。

木綿製品を買いに立ち寄った京呉服たかはしのご主人が案内をしてくださって、思いがけなくも深い歴史の一端を知ることができた。お店は洋画をたしなむご主人によって、木綿製品や絵はがきなどオリジナルな品がステキな演出で彩りを街に添えていた。

本石橋邸(石橋本家)は250年前の建物で、白壁の下には黒地の平瓦にしっくいで斜めにクロスさせた格子模様。奥座敷の欄間には白黒の水墨画や色ずりの画題が丹念に描かれている。庭園とあわせて心安らぐ書院造りとなっている。明治の頃の当主は県内でも初となる小学校を創設したという篤志家であり、石橋家が代々平田地域に貢献してきた歴史は街の人々の記憶に刻まれているようだ。残念ながら造り酒屋は今はなく、「世界の花」は幻の酒となった。

本石橋邸を案内していただいた。管財人から出雲市が買い上げて、今は「木綿街道振興会」の努力で荒れていた屋敷が整えられた(タヌキが住み込んでいたとか)。屋根も瓦も相当痛んでおり大改修したいところだが、左流れの瓦は特注のため一枚三千円もかかる(一般の瓦はすべて右流れ)。大きな屋敷全体では瓦の経費だけで二千万円もかかるとか。かといって右流れの瓦に変えてしまっては伝統が途切れてしまうジレンマに、振興会の方々は悩んでおられる。出雲市の補助金も限られており、寄附や建物の貸出しなどの工夫で経営に努めておられるようだ。

酒蔵内は厚い壁で土間が広いため、ひんやりした空気におおわれている。外は台風16号がもたらしたフェーン現象で暑い南風が吹いているにもかかわらず、建物内は涼しい。かつて酒造タンクがたくさん置かれていた場所は、振興会の事務局が置かれており、地域の集会所としても利用されている。さらに防音効果が高く静かな環境であることから各種コンサートの場、演劇団の練習場所としても貸し出されているとのことだ。

街道の各戸軒先には棉の鉢植えか、枝についた状態の棉花が置いてある。木綿街道にふさわしい所作であると思う。この和棉は近くの畑で栽培もされているようであるが、今や和棉はほとんど栽培されていないとブログに書いてあった。初めて棉と綿の違いを知った。「綿」は種を取って加工後の状態をいうらしい。

醤油ソフトクリームを食べた。醤油の香ばしさと軽い塩味が心地よい。なめらかに口の中で溶けて、この界隈のかつての繁栄がどことなく感じられたような気がした。神話博しまねの波及効果でお客さんは増えているとのこと。かといってわんさと訪問者が増えてしまっては、古き良き静かなたたずまいが崩れてしまう。木綿街道が適度に賑わうよう願っている。

(写真は本石橋邸の玄関付近)
極点の変化知らせよしらせ艦 [2012年09月16日(Sun)]

__tn_DSC_0890.jpg南極観測船『しらせ』を昨日土曜日に見学してきた。湿った空気が大量に流れ込んでゲリラ豪雨が降る最中ではあったが、いい経験となった。海上自衛隊の砕氷艦しらせが、11月上旬に南極への航海を始めるに際し境港で一般公開されたものである。ピストンバスに乗せられて行くと、艦へ上がる階段の側面に「海上自衛隊 砕氷艦 しらせ」と書いてあった。

しらせが海上自衛隊の所属であることを、私はそれまで知らなかった。極地という壮絶な環境、海賊の出現もあるかもしれないことからすると、自衛隊の出動があって当然と納得。

長さ138m、幅28m、1万2500トンの朱色の巨体は平成21年に就役した。初代「宗谷」から「ふじ」→「しらせ」を経て、この新「しらせ」である。ちょうど百年前の1912年に白瀬矗(しらせのぶ)中尉が使った開南丸が200トンほどの木造帆船であったことを思えば、まさに世紀を隔絶している。

居住部屋は二人ひと組で機能的にできている。艦内随所で案内をしている自衛官に取材した結果によれば、乗組員は240人で観測隊員が40人ほどで、残りはすべて海上自衛隊の隊員。この冬が初の南極航海という若い隊員に、「オーロラが見れますね」とわたし。彼は「はい楽しみです」と目を輝かした。また別の隊員はこの冬が二回目の任務であると。「自衛官にとってしらせに乗艦するのは憧れ」と言った。「なるほど」と納得。

地球環境が変動する時世にあって、南極での観測はいっそう重要なものとなっていくであろう。観測隊員を無事に昭和基地まで運び、必要な物資を輸送する任務をこの冬も無事に果たしてくれるよう願っている。
昼に咲き輝く顔に悲劇あり [2012年09月15日(Sat)]

__tn_20120915085235.jpg「まいった!」というのが率直な感想。カトリーヌ・ドヌーブ主演の映画『昼顔』に満足した。

カトリーヌの研ぎ澄まされて綺麗なこと、上品で少女のように可憐なこと。もちろん昼の顔は妖艶な娼婦であった。若々しくエレガントな身のこなし。楚々として恥じらいを見せながらも、一度覚悟を決めると身じろぎしない堂々たる目力。シーンごとに魅せられたファッション。服も靴もバッグも、下着姿も含めて人を魅了せずにはいられない。今現在にもってきても遜色のない美貌とお洒落であったような気がする。部屋の調度品、晩秋のパリや郊外のたたずまい、大西洋に面した岸辺も、スクリーンが飾りけなしの清楚な美しさにあふれていた。

テーマを想像すると「扉を開ける」かな? エリート医師を夫に持ち経済的には豊かで夫の愛に包まれて、何不自由のない生活をおくるセビリーヌ(カトリーヌ)。しかし心は満たされていない。凌辱されて苦しさに顔をしかめる妄想にさいなまれる。それはむしろ快感であり、夢とうつつを往き来していた。

変身願望というのは誰でも持っているものだか、セビリーヌには生活を破壊的に変え、はずかしめられて危ない自分を感じたいという願望があった。セビリーヌは順風満帆な生活を楽しみつつも、異質などろどろも感じていたい。苦痛もむしろ快楽と感じる倒錯的なところがあった。

そこへさりげなく、突然開かれた扉。チャンスだ。入るかどうかは彼女の意志次第。何度もためらったのち彼女は扉をこじ「開けた」。開けた向こうには違う地平があった。彼女の人生が「明けた」のだ。

代わり映えのしない日々から、刺激的なスリルに富んだ毎日へ。つんと澄ました冷たい印象だった彼女がいきいきと輝いた。夫への愛も深まっていくのがわかる。源氏名「昼顔」もいい。昼だけ開いて、夜はなに食わぬ顔で貞淑で元気な妻を演じる。演じるのではない。両方とも彼女にとっては真実なのだ。

 わたし開いていくのが感じられる
 わたしは輝いている
 わたしが輝けるのは陰と陽に開いた生活のおかげ
 どちらが真実か、虚か実かはどうでもいいこと、倒錯した妄想の数々、わたしだけのものではないわ
 見てご覧なさい、妄想的に生活のリズムを刻むのはわたしだけではないの

セビリーヌは「空ける」。心も体も空けて待てば、さまざまな感情が湧き上がり、多くの人間模様が見えてくる。彼女は満たされいく。余裕ができて夫への愛も強まる。生まれかわった彼女。

だが、世の中は倒錯的なゲームを楽しむ人ばかりではなく、夢をうつつと勘違いするバカもいる。虚々実々の恋の駆け引きをして性愛で満足するのが全てと考える向きもいる。彼女がいだいていた幸せな妄想は途絶えてしまった。とうとう破綻するときがやってきた。

セビリーヌは「飽ける」。撃たれて半身不随、意識は十分覚醒しない夫の介護に献身する毎日に飽きる。悲劇の極みに陥り華やかな生活から隔てられて可哀想な境遇に端からは見える。だがセビリーヌは幸せだった、飽いてはいなかった。最後の妄想は映画冒頭のシーンに似ていた。

空の馬車がやってきた。二頭の馬と御者二人に引かれた馬車だった。最初にセビリーヌを妄想の世界に連れていった馬車だ。ピエールは目を開き車椅子から立ち上がって、セビリーヌにキスをする。彼女は夢の中で幸せいっぱいだった。

 さあピエール、馬車に乗りましょ!
 わたしたちの明るい未来に向かって
 わたし、もうこれからは変な夢など見ないと思うの
 あなたにつくす幸せでいっぱいだから・・・・
戦して夏と秋とがせめぎ合い [2012年09月14日(Fri)]

__tn_20120914181908.jpgはや14日。9月も半ばと相なった。秋の空気はひたひたと押し寄せて秋分を迎えるばかりかと思っていた。わたしの思いに反して夏が反転攻勢に出た。昼間が暑い。夜は冷房がほしい。熱中症の危険は去ったとはいえ、蒸し暑さが身にこたえる。猛暑日が続いたころは、毎日毎時ジットリと暑苦しいのに耐えるかとが当たり前だった。いったん朝夕が涼しくなっただけにモヤモヤとした空気の熱に負けてしまいそうだ。

秋の軍勢は夏との戦いに勝利をおさめるかと思いきや、強大だった夏の勢力は簡単には引き下がらない。敵ながら天晴れと言っておこう。一進一退の季節のせめぎ合い。このあとどこまで続くのやら、もういいかげんにしてほしいと思う一方で、セミの鳴き声が聞こえなくなったら寂しいという気持ちもある。入道雲の見ごたえある立体感がなくなるのも懐かしいという感じもある。

入道雲は健在だが秋の雲が漂っている。ひつじ雲がぽかりと浮いて、上にむけてはいわし雲、うろこ雲。夜空の主役は夏の大三角形から、もの静かな秋の星座に交代している。プレヤデス星団、、うお座、おひつじ座。草むらは賑やかさを増してきた。クツワムシ、キリギリス、コオロギ、マツムシらが相棒求めて鳴いて舞う。

秋よ来い。秋が来た。 秋が行く。秋は去る。冬が来てしまうと嘆くのはまだ早すぎるが、季節は巡る。
アンケート教師の仕事は事務作業 [2012年09月13日(Thu)]

__tn_20120913175908.jpgいじめは減ったが実態わからず、と文部科学省が発表した。小中高の問題行動調査によると、2011年に学校がいじめを把握した件数は約7万件。前年より1割減ったが「インターネットや携帯電話を使う、昔と異なるいじめもあり、実態として減ったかは分からない」という。

学年別で中1が最多であることは、何を示しているのだろうか。調査では「学校の仕組みや環境が変わり、いじめが起きやすい」と記述している。確かに、6年間の長い小学校時代が終わり、中学ではメンバーがシャッフルされる。小規模校の子は人数の多さにたじろぎ、成績がそこそこ良かった者もライバルの出現に驚き、私立学校と公立の違いも大きい。女の子は心身の成長を加速し、男の子も大人への階段を昇り始める。学業成績もスポーツも自己主張の度合いまで差が出始める年頃で、当人たちはそれを自分の個性だと認識して思い切るにはまだ幼い頃だ。

文科省は、いじめを早く発見して対応するために、アンケートをさらに徹底して実態把握に努めるとしているが、それでいいのだろうか。

教員の仕事は加速度的に増えてきているという。学級は少人数化し、学業関係は外部委託にまわることも多く、少子化の時代でもある。にもかかわらず仕事が増えているのは、事務仕事が多くなっているのであろう。

・研修への出席と自習準備
・環境教育やIT・メディアリテラシー教育、国際理解教育、個人情報保護など新しい業務
・不審者対応
・調査実施と報告書作成
・非常勤教員や職員の増加によって校務分掌が増えるなどのしわ寄せ
・子供への個別指導や保護者への対応
・部活動の指導

それらはコンプライアンスが重視されるご時世であるため、失敗が許されない性質ももつ。となると、時間をかけて対応しなければならない。当然、会議の回数もかける時間も増えてくる。

報道では、いじめアンケートについては精緻に回数も増やしていくという。アンケートでは本音が出にくいということで、心理テストをとりいれるようと検討している東京の区もあるということだ。教員たちにもっと時間を与えてほしい。事務仕事ではなく、子供たちに直接ふれる時間を。
書いてみるそこから力湧いてくる [2012年09月12日(Wed)]

__tn_20120912182302.jpgアグネス・チャン氏が、こんなに素敵な含蓄を披露してくれている(聖教新聞9月12日付け「読む=生きる力」)。

≪「読む」のは、誰かが書いたものと思いがちですが、「自分が書いたものを読む」ことをお勧めします。(中略)何でもいいんです。日記でも俳句でも、自己流のフィクションでも。ノート、携帯電話のメモ機能でも短くていいので(中略)。後で読んだとき、色鮮やかによみがえります。自分で書いたものを読み返すと、さまざまな感情が湧き上がってきます。(中略)何かに悩んだときも、書くといいんですよね。(中略)考えているときや書いているときには見えなかった“出口”に、読んで気付く。読むときにしか働かない脳の力があるのでしょう。その読む力が、生きる力にもなるのだと思います≫

書くとは、分かること。書くとは、実は分からいことが分かること。書くとは、分かっていた以上に気付くこと。書くと同じような効果が、語り合うことにもある。相互に語ることで、新しい気付きに直面する。残念ながら語ることでは、記録には残らない。記憶には残っても、脳の奥底に沈んでしまいがちだ。

書いてみよう。それは自分にとって、千金の宝となることは間違いない。来し方の礎石となり、行く末の羅針盤となることだろう。
働きのモデルは自分で稼ぎだせ [2012年09月11日(Tue)]

__tn_20120911182700.jpg『土井英司の「超」ビジネス書講義』(土井英司著,ディスカバー21,2012年)で著者は、情報系のビジネスマンをタイプ分けして、ロールモデルを体系化する。

【情報クリエイター系】(全体の1〜5%と少数派)

1 情報を得る、あるいは分析・研究して情報をつくるクリエイター
 *ジャーナリスト、アナリスト、コンサルタント、研究者、学者

2 情報を組み合わせ、他にはないかたちで表現するコンセプター、キュレーター、プロデューサー
 *デザイナー、WEBプロデューサー、編集者、作詞家、作曲家、エンタテインメント・ロイヤー、美容師、華道家

3 情報と人とマーケットをマッチングし、情報の新しい価値を創出するマーケター
 *マーケター、事業家、トレーダー、アクチュアリー、仲介業

4 地震が情報(商品)であり、カリスマ性や魅力を持つタレント
 *アーティスト、俳優、芸人、著者

5 ITテクノロジーを駆使し情報を獲得する海賊
 *IT事業家、プログラマー、エンジニア

【情報ディストリビューター系】(残りの99〜95%)

6 新しい情報の意味や価値を相手に応じてわかりやすく伝えられる教える人
 *教師、評論家、営業マン

7 専門性と高度なスキルを身につけ、知的サービスを極める知識プロフェッショナル
 *弁護士、公認会計士、税理士、社会保険労務士、司法書士、弁理士などの士業、特定のジャンルに詳しい専門家

8 専門性と高度なスキルを身につけ、情緒的サービスを極めるおもてなしの達人
 *進化したサービス、接客業系のビジネスパーソン

いずれも旧来からの慣習と枠組みに守られた業種ではなく、こじ開けるようにして技能と情報を習得し(拾得といえるかも)、自分の食い扶持を稼ぎだす厳しさがある。果報は寝て待て、などと甘いことなど言ってはいられない。

(コメント)
4 地震が情報(商品)・・・
「自身」だよね?さすがに大きな漢字ミスだと思うので指摘させていただきます(笑)
投稿者 息子です。 : 2012/9/12 (水) 08:01

大変失礼した。ありがとう。「侍臣」をもつ身分でないだけに「時針」が正確な時を刻み「磁針」が北を指し示すように、「自身」がチェックして「自信」をもってアップしなければね。 
投稿者 地震をとこ : 2012/9/12 (水) 19:47
さあ眠れ命の洗濯夜のうちに [2012年09月10日(Mon)]

__tn_20120910213838.jpg
今朝JR松江駅では二つのアピールがあった(単にチラシとティッシュペーパーをもらっただけであるが)。

ひとつは、9月10日の世界自殺予防デーを機に「働く人の電話相談室」を今日から三日間フリーダイヤルで受け付けるというものだ。社団法人日本産業カウンセラー協会(労働組合の連合が協力)が主催している。

キャッチは『疲れ切っているのに眠れない、将来の生活が不安・・・・そんな悩みを抱えているなら、思いきって電話してみてください。』

もうひとつは、心の健康相談(保健所による無料相談)/島根いのちの電話/眠れないのは「うつ」のせいかも/100文字で「ありがとう」を伝えませんか作品募集。それらがボールペンとセットにして袋に入っているものだ。ボールペンには『ひとりで悩まないで!一人ひとりの大切ないのち』と記してある。

身体が疲れて眠りたいのは、むしろ心地よい。精神的にまいって眠りたい、どこかへ行ってしまいたいというときは危ない。悩みを明らかにできる関係の友だちがほしいものだ。

かといって悩むな、とはいえない。人は悩んで大きくなるものだから。人は混沌の精神状態を乗り越えて一皮むけるものだから。それでも自殺者が三万人を超えるのが10年を超えて続いているというのは異常すぎる。

早まるな!まだ打つ手はある!
待て待て!頼りになる人はいる!
と訴えるために今日のチラシはあったことだろう。生き続ければいいことはある。明日はになにかいいことがある、と楽観主義を訴えたい。
歴史には恨み集まり尖と竹 [2012年09月09日(Sun)]

__tn_20120909211447.jpg尖閣諸島と竹島の領有問題には「怨み」がある。中国人民、韓国国民のDNAにまで刷り込まれた怨恨を考えないことには、解決の糸口はつかめないだろう。

尖閣諸島を国有化する交渉は合意に達した模様だ。東京都が購入計画に先鞭をつけ、国が刺激されてあとから動き出した。国境がからむ問題だから国が買うほうが適切であるという判断であるが、国はなるべく中国を刺激したくない。漁船待避や灯台といった施設は作りたくないようだ。これまでどおりに内外ともに上陸を阻むだけの管理を続けるだけならば、中国側の活動家は強硬な運動を繰り返すだろう。そのたびに彼らは英雄となる。

なぜ彼らは尖閣に血道をあげ、反日デモを繰り返すのか。日中戦争の時代に日本軍が内陸深く侵攻し中国人民を苦しめた。農村部にゲリラ部隊が隠れ待ち、農民の格好をした兵士がいたことは、国際法上の違反であるから日本軍にとって充分な弁解の理由にはなる。しかし、各地で人民に塗炭の苦しみを与えたことは間違いない。

その侵略行為の延長上に尖閣諸島問題は位置しているのである。尖閣は中国のものという主張は事実無根ではあるが、誤解や曲解を中国人民から取り去らなければ問題は決着しない。

竹島領有問題についても似たようなものだ。日本人は同胞として朝鮮人を同じ環境に“おいてあげたかった”のだと思う。創氏改名も神社参拝もおそらく、よかれと思ってしたことなのだ。それは半島の人々の誇りをいたく傷つけた。彼らは植民地支配の同根として竹島を位置づけている。

「恨み骨髄に徹す」かの地の人々に対し、暴力的言辞で対抗してはならない。さらに反発を生むだけだ。「恨みに報ゆるに徳を以てす」ることが大切なことだと思う。中国との国交回復から40年、韓国とは47年。なによりも、それ以降に築いてきた民間相互と経済的交流といった金の橋を崩してはならない。
殺さずにるろうに勝つは恋心 [2012年09月08日(Sat)]

__tn_20120908162950.jpg先週末映画の日の9月1日に若い子らがやたらと向かっていた先が『るろうに剣心』。そのスクリーンで、緋村剣心こと佐藤健の人気のほどを知った気がする。緋色の羽織を着た剣心がかわいらしいこと。髪はばさついているものの、頬に十字の刀傷がある以外肌はきれい。なで肩のきゃしゃな美青年から「・・でござる」と優しい物腰で語りかけられたら、女性たちはうっとりするだろうと想像した。

『るろうに』は、専守防衛を超えて非武装中立を永遠の夢として描いたファンタジーである。自分から攻めはしないが、こちらから攻撃すれば手ひどいしっぺ返しをうけるに違いない、といじめっ子が警戒すれば手は出せない。腕力、目力、言論力、まわりからの支援などを総合してひとは他人からの攻撃を撃退できる。同様に、堅い守りを示す専守防衛国を侵略しようとしても、大きな痛手をこうむると考えれば、少々軍事力が勝る覇権国も侵略に手を染めることは簡単にできないものだ。

【るろう】とは「流浪」。定住せずにさまよい歩く男が剣心である。身体だけ流浪しているのではなく、かつて「人斬り抜刀斎」として数え切れない暗殺に身を捧げた男が、その後悔から心の安定を求めて迷い続ける姿を表している。さらに【るろうに】という造語がおもしろい。「流浪人」につながるだけでなく、「流浪に生きる」「流浪にならざるを得ない」という意味が隠されているのだろう。

敵役・吉川晃司の殺陣が激しく重いこと。軽い剣者の切っ先など軽くいなしてしまう速さと強さを合わせ持つ剣だ。架空とはいえ、超一流の人斬り剣術士である(『必死剣鳥刺し』で見せた雨中の壮絶な刃傷を思い出す。相手は豊川悦司)。同じく敵役の外印も、警視となった斎藤一も含め、強い剣客というものは覇権国の立場である。元老・山県有朋もそうだった。武力にはさらに強い武力をもって相手を圧する攻撃の思考。典型が「殺さずに戦いが終わるものか」という敵役の言葉だ。

一方で剣心は、逆刃で相手を打ちのめす程度で維新後は収めている。今はまだ専守防衛の段階であっても、いずれは非武装中立、すべての人が武器を持たずに平和に暮らすことを彼は夢見ている(多分)。「人を斬ればそこに恨みが生まれる。恨みはまた人を斬らせる。その連なりを絶つ」という台詞が剣心の思想である。それは、全人類が求めて達せられるべき非武装中立という理想を体現している。彼の、誇りや体面は命を賭けるに値しない、という言葉も印象的だった。

超絶的な剣を繰り出す敵たち。剣心は危うくなる。だが絶体絶命のピンチで再び暗殺者の「殺しの心」が復活しそうになる。それを止めるのが神谷活心流の薫(武井咲)。最後に剣心は、超が三つも四つもつく美技でもって剣心は相手を殺さずして倒す。その原動力となったのがキュートで純な薫。恋は戦いよりも強し、であった。
赤とんぼ負われているよ頬の赤 [2012年09月07日(Fri)]

__tn_20120907192543.jpg『赤とんぼ』は不思議な歌だ。そして郷愁くすぐる歌だ。舞台は東京・八王子。作詞は三木露風、作曲は山田耕筰からなる不朽の名曲、文部省唱歌である。

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

*秋がきた。炎熱に焼かれた夏は終わったが、私はいくぶん疲れている。都会の雑踏にまみれて働き始めて幾年月。今日はとても夕焼けが赤い。茜色を超えて緋色に燃える空の赤さよ。小さなシルエットだ。それもたくさん、数えきれないほどの。やってきたなあ。いつものように群をなして。トンボの飛ぶのを背中におぶわれて見た、子供の頃に帰ったような気がする。夕焼けに染まって姐やの頬は赤かった。私は何歳だったのだろうか。姐やに負われていたのは、遠い遠い昔のことだ。

山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは まぼろしか

*あれは春だったのだろうか。山のふもとから少々歩いて桑の実を籠に入れた。入れるより前に食べた食べた。貪って食べた。姐やは笑っていたよ。私の手も口のまわりも紫に染まっていたのを見て、笑ったわらった。大笑いだった。砂糖を使った菓子などない明治の昔よ。桑の実はごちそうだったものだよ。あれ?桑の実がなるのは春。赤とんぼは秋だな。私の記憶はごしゃぐちゃになったのか? ともあれ、姐やと一緒で楽しかった。毎日毎日なにかしら笑ったものだよ。遠い昔のことだなあ。

十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

*あとで聞いたことだが、姐やは15歳で嫁にいったとな。八王子の郊外にあった私の家に小さい頃から奉公に来ていた姐や。私の世話をもっぱらやってくれていたんだろう。名前で呼ぶことはなく、姐やとしか口に出さなかった。名前は何といったのだろう。彼女はある日いなくなった。私の前から去るときに、便りを書くからね、と約束してくれた。確かに一度は手紙が届いたけれど、それからずっと私は寂しかった。

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

*竿竹の先にトンボがとまっている。昔を思っているうちに、いつの間にか辺りは暗くなった。あの大群はどこへ行ったものやら。単に闇にまみれて見えなくなったものか、それとも寝ぐらに帰ったか。明日はまた忙し一日になりそうだ。明日もこんな夕焼けが見られたらいいなあ。ああ、姐やは今ごろどうしているだろう。元気に暮らしているだろうか。孫だっていてもいい年頃かもなあ。幸せであってほしい。さあ、帰ろうか、わが家へ。安らかなよき夕べでありますように。
さすらって海は広いか大きいか [2012年09月06日(Thu)]

__tn_20120906222858.jpg誰もが知っている文部省唱歌『海』をじっくりと聴く機会があった。明治の時代のロマンをよーく表す歌だと思う。

海は広いな 大きいな
*確かに大きい、べらぼうに大きい。ただ宇宙大の眼を持つようになった現代人には物足りないかも。が、眼前に広がる海はやはり広すぎる存在だ。

月がのぼるし 日が沈む
*月が東に上るのを見るとは、作詞者は太平洋側に住むな。日が沈むのを日常的に見られるのは日本海側。日本海沿岸の出身者なのか、それとも旅でもってあちこちを移動する人なのか。

海は大波 青い波
*大きな波がやってくる。空の青さを写して蒼い波もある。揺れる揺れる波は揺れる。人をさらって行く波は狂暴な力を見せつける。

ゆれてどこまで続くやら
*揺れて揺られていつの間に、遠く離れて恐ろしや。その先無事に着いたなら、違う暮らしが見られるぞ。

海にお舟を浮かばして
*飛行機のない明治の昔、荒れたら酔って気持ち悪る。大きな船に乗ったならきっと知らない世界に出会えるぞ。

行ってみたいな よその国
*今なら月へ行く気分、よその国とはファンタジー。行ってみたいな、違う目の色肌の色。長い長い航海できっとわたしはひと皮むける。きっと見たいよ、違う自分に。
雨上がり秋よ来いこいここに来い [2012年09月05日(Wed)]

__tn_20120905183232.jpg雨が降る。大粒の雨が地面を叩きつける。雷とともに稲妻とともに。雨は風を呼んで時折突風が吹く。雨跡は見る間にアスファルトを黒々と染めた。地面に吸いきれないほどの雨水を道路は弾き出す。道路は水水水。排水路からは溢れだしジョワーザャワーとかまびすしい。

木からは雨垂れがひっきりなしに落ちる。雨宿りしたつもりが頭も肩も濡れていく。ビルの下までひと走り。その間にシャツはびしょびしょだ。雨宿りでひと安心。雨傘さしてる人だって足元は雨のしずくでビッショビショ。

雨足は強い。ますます強い。上を見ると大きく丸く黒い雲。バスに乗って移動するとあの雨はどこへ行った。雨音聞こえず雨霧消えて空の雨雲は薄い色。それでも遅れて雨はやってきた。雨の景色のかの九月。

しばらく前まで雨はなく雨乞いしたい気分だった。ここ数日間は雨戸を閉めて朝に家を出なければ。雨靄が出たら涼しくなるか。なってほしいぞ秋よ来い。雨垂れ石を穿つ、雨晴れて笠を忘るな、雨降って地固まるの秋でありたいな。

(写真は、しばらく前の虹。とても弧が大きかった)
アベンジとリベンジの違いわきまえて [2012年09月04日(Tue)]

__tn_20120904173345.jpgアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソー、ハルクといったアメリカンコミックのヒーローたちが地球のために異星人を撃退するという物語『アベンジャーズ』を観た(私が見たことがあるのはアイアンマンだけ)。

アベンジ=復讐、報復である。よく日本語として使う[revenge]は個人的に憎悪を抱いた相手に報復することだが、[avenge]は悪と戦う正義の報復を意味する(合法的ではないが)。

国際平和維持組織の基地では、超強力兵器・四次元キューブの研究が極秘に行われていたが制御不能となり、地球を支配しようとするロキがきた。ロキはキューブを強奪して闘いを優位に進める。平和維持組織は、最強ヒーローたちを説得し集め、アベンジャーズを結成した。だがアクの強い彼らは団結しようとしない。地球外の軍勢に攻められ絶大絶命のピンチに立った彼らは、ようやくチーム一丸となって世界を救うことができた、という単純明快な物語である。

女スパイのロマノフ役のスカーレット・ヨハンソン。大向こうを唸らせる素早く強いアクションに惚れ惚れした。アイアンマンのメカニックなところもいい。ハルクの狂暴性にドキドキし、キャプテンアメリカの生身感が信じがたい(むろん空想だ)。

ハリウッド映画の力を見たと思う。ハリウッドの起源は、大恐慌の経済対策として行われたルーズベルトのニューディール政策にあるという。テネシー川巨大ダム建設など公共事業が有名だが、それに併せて芸術文化支援事業がスタートしている。その政策は美術、音楽、劇場、作家など分野で才能ある者を発掘し育てることを目的とした。その結果としてオーソン・ウェルズやアーサー・ミラーなど逸材が登場し、ブロードウェイのミュージカルやハリウッド映画といったアメリカ大衆文化はそこから生まれた。それらは今やアメリカを代表し世界の人々を魅了する。今もコンピュータソフトや航空機、軍事、宇宙開発とともにアメリカの稼ぎ頭となっている。

ハリウッド映画というと莫大な予算をかけて、やたらと派手だという印象が強い。芸術性がないと酷評する論者も多い。だが、それまで映画というと、純文学の一分野であり日常の片言隻句から万物を推し量るような思想性が強かった傾向がある。映画の技法を熟知した映画制作者が創造する敷居の高いものだ。だから観客にも高い思想性が求められたし、名画と言われるものはたいていは大衆受けしなかった。

ところが、ハリウッドはド派手なドンパチや大きな舞台構成でもって観客を魅了し、正義は勝つというアメリカ的民主主義を喧伝した。その結果アメリカの生活様式や若者文化は世界のあこがれとなった。アメリカ映画は程度が低いという人がいるが、肩肘張って眉間にしわを寄せて観る映画よりは、笑い泣き、ときには考えさせ最後はハッピーエンドになる映画のほうが印象に残る。新しい技術を出し惜しみせず駆使して世の注目を集め、儲けた金を再投資して新しい技術を生みだす。ソフトが足りなくなれば、世界各国から昔話でも焼き直したコピーでも持ってきて、新しい革袋に入れて提供する。これも知恵である。

そうした知恵の真骨頂を、この『アベンジャーズ』に見たような気がする。
象徴よハルカ遠くにノッポビル [2012年09月03日(Mon)]

__tn_20120903180442.jpg大阪・阿倍野にノッポビル・ハルカスの骨組みができた模様だ。地上300mで60階。横浜ランドマークタワーの296mを抜いて日本一になるという。近鉄の手になるもので、百貨店、展望台、メディカルセンターなどの複合ビルだ。開業は再来年の春。東京スカイツリーに次いで、関西地区の観光スポットになることは間違いない。

高みに立ってハルカ遠くを望みやる。
ハルカ明日を見据えて進み行く。
春よ来い、遥か高きに雲乗せて。
一か八、張るか意地でも勝ってやる。
関西は悠(はるか)悠久、スゴイとこ。
思うさま貼るか地球に、素の人を。
日本の春を再びに、日本はカスになんか、ならへんで!!

などと気ままに想像して、シャレにもならない駄洒落を連発したが、大阪市内の林立するビル群を遥かに見下ろしてハルカスの骨組みは三段重ねでそびえ立っている。関西復権の象徴として、日本復活の狼煙としてこの巨体が活躍してくれるよう願っている。
ロスへ行く困難越えるは何のため [2012年09月02日(Sun)]

__tn_20120902125959.jpg『ロス、きみを送る旅』(キース・グレイ著野沢佳織訳,徳間書店,2012年)を読んだ。15歳の少年四人が友情をかけてイングランドからスコットランドまではるばる旅をする冒険小説である。ただし、そのうち1人は骨壺に入った状態ではあったが。

「ぼく」ことブレイクとシム、ケニー、そしてロスの親友四人組は大の仲良しだった。ところがロスは交通事故で死んでしまった。残された三人はロスの死を未だに信じがたい。ロスの葬式は彼のことをよく知らない人たちによってされた形だけの心のこもらないものに思えて仕方がない。ブレイクの提案で、ロスが生前行きたがっていたスコットランドのロスという小さな街に行こう決める。三人だけで、本当のロスの葬式をやるというもくろみである。それは秘密理に執り行われなければならない。しかも骨になったロスを連れて。ロスの骨壺を盗みだした三人は列車でロスへ向かう。ケータイの電源は切った。ロスの家族や警察の目、自分の家族のことも気になる。しかし、三人は意気揚々と旅立った。

≪この旅はどうやら、思いどおりにはいかない運命らしい。巨大なヘビの背中に乗ってるようなものだ。ヘビはくねくねとのたうち、こっちの思うようには進んでくれない。予測不能だし、あぶなくてしょうがない。ぼくにできるのは、そいつにしっかりしがみつき、人指し指と中指をクロスさせて、無事に目的地に着いて、そのあと家まで帰れますように、と祈ることだけだ。≫

予期せぬアクシデントが、これでもかこれでもかと三人を襲う。悪いことばかりではないが、運と才覚の限りを尽くすようにして三人は進む。

だが、困難に晒されるうちに心には変化が起こる。あれだけ強固だと思っていた互いの信頼感がバラけ、ロスとの関係性についても互いにスレ違う部分があることがわかり、ロスの死に自分たちの行いが関連していたであろうことが判明した。さらに第三者との関わりのなかで、友情にヒビが入っていく。微妙な気持ちや対立感情空腹、金欠、が彼らをむしばむ。なんとか三人をつなぎ止めていたロスと本当の葬式をするという目的まで忘れそうになってしまう。シムは言った。

≪おれたちがやっていることには、どんな意味があるんだ?≫
≪そもそもあいつが生きていた意味ってなんだ? 死んだら何も残らないっていうなら、生きている意味がどこにあるんだよ?≫

と、根源的な心が分裂しそうな問いを発するところがクライマックスだ。四人の友情は終わった(少なくとも形は変わる)。しかしわずか二日間の旅でもって彼らは、それぞれの思いを何度でも反芻し、互いを思いやり、自己の人生の意味を考えた。新しい出会いを生んだ。そして、何が起こるかわからないこれからの人生に覚悟を固め、ある面楽しみにしながら少年たちは物語を終えたことであろう。三人は次のステージ、青年期の物語を書くためのスタートラインに立ったのである。
夏は上秋は下からやってきて [2012年09月01日(Sat)]

__tn_20120901213225.jpg夏の音は上から降ってくる
我が世の夏を満喫してパートナーを探すセミたちが我が世の夏を満喫する蝉時雨
夏休みの子どもたちや若い女性たちがあげる黄色い歓声
一転にわかにかき曇り暗くなったら雷鳴がくる、豪雨がきて轟き渡る

秋の音は下から湧いてくる
コオロギ、マツムシ、クツワムシ草場をかき分けて鳴く虫の音
やわらかい秋の風が吹き上げて耳元で聞こえてくるさざめく音
流れるせせらぎが微かに響いてくる音

夏でも秋でも見境なく地鳴りを轟かすのは地震の音
津波がきそうだと思ったら直ちに遠くへ高台へ
巨大な津波は上からでもない下からでもない
あらゆる世界を席巻し体の周りが恐ろしい音だらけ
さあさ逃げようどこまでも
今日9月1日は、防災の日