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汽水湖はヤマトタケルとツコシジよ [2012年06月30日(Sat)]

__tn_20120630094154.jpg2011年8月28日に「宍道湖が翡翠の色に染まるわけ」でアオコの起源を書いたのお。今日は「ヤマトシジミ」のことを書こうぞ。

雲州の深山から流れ出る斐伊川は、洪水のたびに流れを東に西にと変えてきたが、江戸のころは西の大社湾に注いでおった。寛永年間の洪水を機に東へ向き、それ以来宍道湖に注いでおる。氾濫のたびに被害をうけて昔の人は暴れる斐伊川を恐れていたのじゃな。それが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説につながったんじゃ。

ヤマトタケルノミコトを知っておるかのお。九州を平定し東征も盛んに行った有名な神じゃ。九州から大和に帰る途中で出雲に寄ったとき、襲いかかる斐伊川と氾濫する宍道湖に人々は苦しめられておった。そこでヤマトタケルはツコシジノミコトを助っ人にして、今の大橋川あたりの土砂をすくい取ったんじゃな。ツコシジというのは実に大男で200尺を超えていたというから、なんと60mじゃ。初期のゴジラよりも大きい。怪力で砂をかき出して山にして、それが今の枕木山になったということじゃよ。おかげで斐伊川は氾濫しなくなって、土地の人から感謝された。

川底が低くなったもので、中海から潮が逆流するようになった。その結果真水だった宍道湖に海水が混じり汽水湖となったんじゃ。そうしたら貝が湧くように増えてきて、人々は労せずして毎日貝を食べられるようになった。ふたりの神に感謝して土地の人は貝に名前をつけた。ヤマトタケルのヤマトとツコシジのシジに実をつけて、ヤマトシジミじゃよ。

そんなのウソだ、じゃと? 確かにそうじゃ。わしの頭に湧いてきたお話じゃよ。だがの、日本神話とて壮大なウソじゃ。出来事の一部を針小棒大にあらわし、つなげるために事実無根の話をでっちあげるばかりか、筋が通っていないところもあるじゃろ? ウソで固めたようなもんだな。そんな神話なら価値がないと? いやいや、そんなことはない。日本人の魂の遍歴がここに表現されていると思えば、楽しくはならないかのお。

ということで、ヤマトシジミの物語はここまでじゃ。1920年代に大橋川の浚渫工事をした結果、シジミがぐんぐん増えたというのが本当のところだの。日本一の産地として宍道湖は有名じゃな。なに?日本一の座を青森に譲り渡したと? そうだそうじゃった。だがのお、わしが近ごろ松江大橋を散歩すると磯の香りがするんじゃ。ここ数年あまりなかったことだ。潮が匂うということは塩分濃度が高くなってきたということ。ヤマトシジミは高めの塩分を好む(海水の十分の一程度)。平成18年の洪水や高水温がきっかけでシジミが大幅に減ったんじゃが、はやく日本一の座を奪還するよう願っておるよ。

(写真はシジミとは全く関係のないブルーベリーの実)

(コメント)
とてもすばらしい「新話」ですね。

「なんばぎん」・・・子供のころから聞き慣れた言葉でもちろん意味も解っているのだけど、自らは使わない出雲弁です。
そこで最近のエピソードをひとつ
(親父を連れてスーパーに行ったときの話)
親父「なんばぎんのはっさかしたやつは何処にあーかね」
店員「・・・・・???」
親父「なんばぎんの菓子のことだわね!」
店員「・・・ちょっと聞いて来ますのでしばらくお待ちください」
私「定員さん。ポップコーンはどこに置いてありますか?」
作成者 工事中 : 2012/6/30 (土) 10:15

神話ならぬ新話。なるほどなるほど納得です。ありがとうございます。
「南蛮」から来た不思議な作物だったんでしょう、昔トウモロコシは。「ぎん」ってなんでしょうね。ああ〜ナンバギンの焼いたやつにかぶりつきたいなあ。
作成者 歩巳 : 2012/6/30 (土) 18:13

『なんばぎん』の「なんば」は「南蛮」であることは間違いないと思います。
これは推測ですが「ぎん」については「黄身」ではないか?と思っています。南蛮から来た黄色なもの・・・違うかな〜
作成者 工事中 : 2012/6/30 (土) 20:10

とうもろこしをウキで調べたら「南蛮キビ」と出ていた。なんだ、「なんばきび」を出雲弁で言えば「なんばぎん」となるよね。
作成者 工事中 : 2012/6/30 (土) 20:20

なんばきびが出雲では「なんばぎん」。なるほど。
しかし、「南蛮から来た黄色な実をもったもの」のほうが、見た目黄金色のきれいな輝きと、かぶりついたときのしたたる甘い汁がよく現れていて、いい洞察です。
作成者 歩巳 : 2012/7/1 (日) 11:58
腹の虫くだもの野菜食べてゴー [2012年06月29日(Fri)]

__tn_20120629075155.jpg花の季節は続く。
果物の季節もやってきた。
写真は言わずと知れた「枇杷(びわ)」。

「ブルーベリー」「木いちご」(ラズベリー)「無花果(いちじく)」「桑の実」「スモモ」「さくらんぼ」「ぶどう」「メロン」「スイカ」「桃」。もっとたくさんあることだろう。

野菜の実りの季節でもある。みずみずしい野菜がいっぱいだ。「茄子(なす)」「キュウリ」「オクラ」「トマト」「ズッキーニ」「とうもろこし」(出雲弁でナンバギン)「ピーマン」、それに各種豆類。

美味しいものばかりだ。
いくらでも食べられる。
ウサギのように食べてやる。
腹がへってきた。
さあ雨よ降れふれもっと降るなもう [2012年06月28日(Thu)]

__tn_20120628193555.jpg雨よ 降れふれ もっと降れ
乾いた大地 潤せよ
作物渇え しなしなだ
木々は水欲し 元気なく
青いお空は まぶしいぞ
一天にわかに かき曇り
道路を打って にぎやかだ
雫が地下まで 染みとおり
ここぞと生きもの 生き生きす

雨よ 止めやめ もう降るな
天の扉を開けて落つ
豪雨はいやだ 御免だぞ
同じ打つなら 数十分
過度の恵みは 災いだ
地上のものは 水浮かび
ノアの方舟 いつかきた
南海の舌 伸びてきて
恐れおののく 雲を連れ
世界を濡らし 沈めるな

雨よ 降れふれ もう降るな 同じ降るなら 喜ばれ
ロマンにひたる 恋人に 詩人の筆を 進ませよ
席譲り意を決したはまたいずれ [2012年06月27日(Wed)]

__tn_20120627225356.jpg夕刻のJR山陰本線は込んでいた。もちろんたいしたことはない。松江の次の駅で十数人が乗り込んだ車両では、4人掛けボックス席がいっぱいになって十人ほど立っていた。二人の年輩の女性が座れなくて残念そうな様子だった。60歳代の半ばだろうか。わたしは席を譲る必要はないと判断した。一人分の席では相手は恐縮するだろうし、そもそも二人は元気旺盛に話をしていたからである。

さらに次の駅に着いたとき、通路側に座っていた20代半ばの男性が立ち上がり、「どうぞ座ってください」と女性たちに言った。意を決して声を掛けたようにわたしには見えた。対して一人が「いや、けっこうですからね」と断る。一駅分の時間逡巡しながら考えて、思いきって声をだしたのに、彼は断られて残念だったであろう。おもむろにケータイをポケットから取り出していじりだした。おそらく身の置きどころがない気がしたのだろう。せっかく勇気を絞って席を譲ろうとしたのに………。

だが彼はまたどこかで、お年寄りに声を掛けて席を譲るだろうと思う。女性はその場でこのように付け加えたのだった。「ありがとうね。その気持ちだけもらうから」と。彼の自尊心を大事にする言葉だった。絶妙なその声にわたしもホッとするところがあった。だから、彼は懲りずに席を譲るに違いないとわたしは思った。

(写真はネジ花。スクリュー状態に咲くかわいらしい花だ)
縁あって広げて深めそーえもん [2012年06月26日(Tue)]

__tn_20120626182402.jpg2009年9月29日にこの欄でこう書いている。

≪私たちは『絆』という字をふつうは「きずな」と読む。人と人とが離れがたく結びついていることをいう。夫婦の絆とか、親子の絆というふうに使う。 『絆』には動物や家畜をつなぐ綱の意味もある。その場合は「ほだし」と読む。行動の自由を妨げ、足かせになることだ。(中略)絆が「きずな」であるうちはよいけれど、度が過ぎると「ほだし」となる。過ぎたるは及ばざるがごとし、とはこのことだ。≫

昨年世を席巻した「絆」という言葉。今は手垢にまみれて使われなくなってしまったような印象を受ける。

昨年まで「まつえ若武者隊」の塩見惣ヱ門として武者姿で頑張っていた人―松江開府400年祭を「舞姫隊」とともに盛り上げた。活動中のブログをまとめて本を出版された。じんとくる観光客とのエピソードがちりばめられている。

≪「彼」がよく使っていた言葉に「縁」があります。「えん」とも「えにし」とも「ゆかり」とも読めるこの文字。二〇一一年は「絆」という言葉が持て囃された一年でしたが、「彼」はあえて「縁」という言葉を使い続けます。そいう天邪鬼(あまのじゃく)なところが「彼」にはありました。しかし、単なる天邪鬼からこの言葉を使い続けたわけではないようです。(中略)これらの言葉は「今、出会う人」だけではない、もっと広い意味がある。そのことを「彼」は知ってか知らずか、この言葉を使い続けていました。≫
 (『左様ならば、そう”ゑ”もん』木之家京羅著,青山ライフ出版)

縁は異なもの乙なものというとおり、「きづな」ほどのものにはならなくとも、出会いという「えにし」を大切にして慈しんでいくことで、励ましや友愛の「えん」を広げていく。すばらしいことだと思う。

(追記)「縁は異なもの味なもの」が正しかった。男女の縁は不思議に結ばれるという、限定された意味だった。

(コメント)
なるほどね。
「絆」は二つの意味を持っているんだね。知らなかった。結びつけることが根本にあるようだけど、度が過ぎれば「束縛」だもんな〜。

カラス・・・子供のころ飼ってましたよ。散歩には付いて来るし、オウムまでとはいかないにしても人の真似して喋るから頭の良いヤツなんだ。
黒くて縁起の悪い鳥とされているけど、太陽信仰のあった大昔は確か太陽の使いとされていたんじゃないかな?そんな意味合いで「三羽ガラス」???
そんな
投稿者 麹 : 2012/6/26 (火) 23:49

なるほど。散歩についてくる、人のマネをするほどカラスは賢いのですねえ。二羽の烏が一羽を攻撃していたのを見たことをあります。あれはイジメでした。イジメもある面高等な証拠なのでしょう
投稿者 符三 : 2012/6/27 (水) 06:35

 ご挨拶がおそくなり大変失礼しました。本を紹介して下さり、ありがとうござりまする。師匠、塩見惣ヱ門も、きっと喜んでおられることと思います。
 ところで、この記事、我々の武録(ブログ)でご紹介させていただいてもよろしいでしょうか?
 突然で不躾なお願いとは承知しておりますが、ご検討いただければ何よりです。
投稿者 塩味葱 [URL] : 2012/9/20 (木) 11:52

塩味葱さん どうぞどうぞ、いやぜひともお願いいたしまする。「我々の武録」のこと、不躾ながらまだ拝見したことがござらむ。検索してみるでござる(緋村剣心みたいになってしまった)
投稿者 符三 : 2012/9/20 (木) 21:01

 ありがとうござりまする。早速ですが、URLのところに記事を掲載されたものが載っておりまする。
投稿者 塩味葱 [http://blogs.yahoo.co.jp/kucsswaka/7098821.html] : 2012/9/21 (金) 02:02
カラスには真黒い業がすりついて [2012年06月25日(Mon)]

__tn_20120625211053.jpgカラスがいる。鳴いている。ふつう日本語では「カー・カー」と表現する。二回三回鳴くか、「カカー」と一音目を短音節で鳴く。ほかに違う表現ができないか。母音は「あ」。せいぜい「お」だ。子音は「K」「H」という感じか。

「アアー」「アオー」「アカー」「アコー」「アハー」「アホー」
「カアー」「カオー」「カカー」「カコー」「カハー」「カホー」

特にテンポをゆっくりと周囲が静かなところで鳴かれると、「アッホ〜〜」と言われているようで、カチンとくる。二度ほど電線にとまったカラスが、わたしを狙いすまして糞を落としてきたことがある(幸い不穏な空気を察して避けたが)。そんなイタズラをする知能ある連中からすると、きっと『阿呆〜』と言いたいのにちがいない。

そういえば、『三羽烏』という言葉がある。三本の指に入る優秀さや有名さを表す。なぜ、カラスなんだ。なぜ、カラスにこんな栄誉な名前を与えてしまうんだ。
麗しの絹の地肌に青き春 [2012年06月24日(Sun)]

__tn_20120624210017_1.jpg島根県立美術館で『麗しき女性の美〜京都市美術館日本画名品展』を鑑賞してきた。さまざまな女性美(醜も含めて)を描いた作家44人の作品。すべてを丹念に眺めたわけではないが、私が気に入ったのが2点あった。

■菊池隆志の『爽夏』
若く端正な青春がある。若菜色に染められた振り袖の地。二枚貝、巻貝、ヒトデなど海のものが図案化されている。膝まである長い黒髪。昼顔を長い茎ごとつかんで花二輪、つぼみ一つが着物に溶けこんだよう。猫背で白すぎる柔肌は不健康に見える。深窓の令嬢は端正な横顔を見せている。鼻筋は通り、目は大きい。形のよい口で現代的な美人なのだが、華奢すぎるお嬢さまだ。表情は硬い。温室育ちの箱入り娘は人前に出つけていなくて不如意さをあらわにしている。裾からのぞく足はハの字に閉じており、歩みは遅々として進まず。他人の手を借りなければ歩けないほど、か弱い。その弱々しさが細い線、直線の美に表現されている。

アンデルセンの「人魚姫」を思い出した。深く恋した王子にあうために声と引き換えに人間の足を得た人魚姫。一歩ごとにえぐられるような痛みを感じても、恋する人を求めて人間界に入っていった人魚姫。痛みをこらえて笑顔を浮かべようとしても思うにまかせない。難破船から王子を救ったことを彼は思い出してくれないことの残念さ。北欧の世界を日本に置き換えて、この娘を描いたかのような妄想がわいてきた。

■広田多津の『裸婦』
はちきれんばかりの青春がある。体が若い、背景の青は青春。小柄の体に、茶色く染めた髪、大きな乳房、太い足首、ウエストは三角にくびれている。重ねた手と腕がつくる三角形によって画面が安定している。下を向いたまだあどけない表情。イスに座っている体の黒い輪郭からはみ出す肌色。油絵のようなこの日本画のタッチ、これも青春だ。はちきれる丸みと奔放な色が気に入った。
時空超え見通すところ幸せか [2012年06月23日(Sat)]

__tn_20120623224122.jpg不思議な少年』でマーク・トウェインは、16世紀オーストリアの村に美少年サタンを登場させる。おつきあいの相手は村の純真な少年たちだった。

サタンは万能だ。数時間先の未来も数百年、数千年先の未来も、しばらくまえの村のことも、数千年前の歴史も見通せるばかりか、地球の隅々どころか宇宙空間を超えて一瞬で移動できる。フィッシャーをはじめとした少年たちを時空の旅に連れて飛んでいく。しかも他人の心を気ままに動かし、人の気を引いて常に人気の的。人の運命を知るだけでなく、頭の中でイメージをひとひねりするだけでその運命を変えてしまうことも出来る。欲しいものは直ちに奇術のように目の前に差しだして与える。愛があるかというとそうではない、サタンは冷淡だ。人間などとるに足らないちっぽけなものと認識し、心の底からバカにしている。

美少年サタンは少年たちにこう語る。

≪そうだ、君たちのあそびにこんなのがあったね。煉瓦をずっと数インチおきに並べる。そして、誰かが端の一つを倒すと、ついでの隣の煉瓦も倒れる。そんなふうにして、次々と倒れていって、最後には全部が倒れてしまうというやつだよ。これが人生ってものなんだな。
 (中略)
(人間の一生を)前もって決めるかって? いや、そうじゃない。それを決めるのは、人間の境遇と環境、これさ。つまり、まず最初の行為が、次の行為を決定し、さらにそのあと、すべての行為を決定してしまうわけだな。そうだ、こう言えば、もっとわかりやすくなるだろうか。かりにある人間が、こうした一連の行為の中の、ある一つを抜かしてしまったとするね。ほんのつまらないような行為だが、たとえば、あ る日の何時何分何秒の、そのまた何分の一かに、本来ならば彼は井戸へ行くはずだった。ところが、それをやらなかったとするね。おそらくその人の一生は、その瞬間から、まったくちがってしまうはずだ。そのときから、死んで墓に入るまで、彼の一生は、彼が赤ん坊として最初にやった行為によって決められた一生とは、まるでちがったものになってしまうだろうと思うな。≫
  (『不思議な少年』マーク・トウェイン作,中野好夫訳,岩波文庫)

一生があらかじめ決められた運命どおりに進んでいくとは思わない。すべてを知り、見通していることが幸せなこととは思わない。しかしドミノ倒しのとおり、行為AがBの原因となり、Bが原因となって結果Cが現れる。次々と因果が重なっていくことは間違いない。いま一瞬わたしが抱いた思いや、他へ語ったひと言や、ひとつ一つの行動が未来を決していくことは確かだ。いまをおろそかにはできない。
使い終え日食メガネどうするの [2012年06月22日(Fri)]

__tn_20120622222826.jpg金環日食崩れの大部分日食、金星の太陽面通過でもって活躍してくれた我が家の日食グラス。眼鏡屋で1500円近くかけて買ったしろものだ。太陽に向ける面は銀色の鏡、内側は黒い遮光面。今や使い道がない。表面は薄いオレンジ色のベースにたくさんの花が散らしてあるデザインでなかなか見目よい。このまま捨ててしまうのも悔しいので、使い方を考えてみよう。

・太陽を見る⇒見えるには見えるが、当たり前の太陽では珍しくない。癒されもしない
・ギラつく太陽の日の運転にサングラスとして使う⇒事故になるから絶対無理
・溶接用のメガネとして使う⇒耳当てをつければ大丈夫

・思い出として飾っておく⇒思い出は心の中に、写真にのみ残るもの
・ネットオークションに出す⇒誰が買ってくれるものか
・分解して遮光グラスを観察する⇒破壊して捨てることになる

・誰か子供にくれてやる⇒どこかに喜ぶ子もいるだろう
・ブーメランにして遊ぶ⇒投げても帰ってこないだろう
・護身用に使う⇒投げても当たらない、刃物を受けても防げない

・巨大超新星が現れたときに観察する⇒いつのことやら・・・
・大きなぬいぐるみ(パンダでも象でも)の顔につけてやる⇒どんな意味がある?
・明るいところで眠るときのアイマスクとして使う⇒布ではないから固くて安眠できない
・イヤな人と同席したときに会話拒否の意味合いで⇒なんたる非常識!

・次の金環日食や皆既日食がくるまでとっておく⇒2095年に中国地方で見られる金環食にはもう生きていられない。ならば2030年の金環食を北海道へ、2035年の皆既食を北陸方面まで見に行くという手がある。一番現実的な使い方かもしれない。ただし20年近くも保存しておく自信はない。どこに置いたか分からなくなってしまうだろう。
脱帽しダッダッダダッと新世界 [2012年06月21日(Thu)]

__tn_20120621204016.jpg脱○○という言葉をさがしたら近頃、【脱原発】が筆頭に上がるだろう。ただちに原発をやめる<脱>と、徐々に依存割合を低くしていく<脱>。いま声高なのは即・脱原発派だ。徐々に派は<縮原発>とも<卒原発>とも表現できる。<転原発>と言えるかも。太陽光・風力発電、地熱発電、潮力発電など再生可能エネルギーの手法も使って、<超原発>をめざす考えだが、今の技術ではまだ時間がかかりそうだ。

ふたたび【脱○○】に戻る。

【脱税】【脱線】【脱会】【脱退】【脱臼】【脱肛】【脱藩】【脱糞】【脱北】【脱腸】【脱力】【脱輪】【脱獄】【脱落】【脱走】
おっと、マイナスイメージの語ばかりになってしまった。

【脱衣】【脱塩】【脱皮】【脱稿】【脱穀】【脱サラ】【脱脂】【脱水】【脱臭】【脱出】【脱色】【脱兎】【脱毛】
「脱」の字ばかり見ていたら、感覚がおかしくなってくる。人間が身を尽くして神へのみつぎ物を捧げもつ、という象形文字だと思う。だからしんどい字だ。

そして【脱法】。法律の裏をかき、法に定めがないことをいいことに利を貪ること。違法ではないから抜け道となる。【脱法ハーブ】が世間をにぎわす。タバコのように吸引して幻覚作用などを起こすドラッグだ。嗜好目的で出回っているとはいえ危険である。

吸った本人が意識障害、死亡に至るのは自己責任の範囲だが、無意識のまま交通事故を起こした近頃の例は目もあてられない。ハーブは健全に、匂って楽しむ、煎じて茶として飲む程度にしてほしいものだ。『ダメ。ゼッタイ。』運動の対象として、覚醒剤やマリファナ、MDMA、向精神薬の乱用と同列にあつかうべきであろう。

(追記)漢和辞書で調べたら【脱】はこうだった。「八」(左右に離す)と「兄」(頭の大きい子供)で子供の衣服を離してぬがせるさま。体(月偏)の骨と肉を離すこと
宵の口オヤジと男子の珍会話 [2012年06月20日(Wed)]

__tn_20120620223951.jpg残業を終えて帰る道すがら。台風一過、くっきりと雲がなびき、西空は夕焼けに染まっていた。まるで梅雨が明けたかのような爽やかさ。松江駅から気分よく列車に乗り込んだ。

次の乃木駅からは高校生が入ってきて、ボックス席の向側に二人が座り一人が横に立ったので、私は窓側に体をつめてやった。立っていた彼は「すわります」と言って私の横に座って三人は楽しげにはしゃいでいた。「しまった」と思った。高校生が乗る時間帯であれば、四人掛けのボックス席が空いていてもあえて座らずに、誰か一人が座っている席に乗ったほうが三人目、四人目が座ってくる確率は低いだろうと思ったけれど、もう遅い。同級生二人にもう一人は後輩。三人は体を揺らしながら楽しく愉快に会話を弾ませる。その隅で本を読んでいるオヤジにとっては、たまらない。

はしゃぐ一人が「公共の場だから騒いじゃだめだ云々」と言ったのを逆手にとって私は思い切って「席を揺らして騒がないでくれる? 公共の場所だから」と言った。彼らは「すいません」と。私は物好きにも、続けて彼らと会話を始めた。一人はケータイだが、二人はスマホを持っていたので、高校生もスマホが当たり前になったのかと聞いた。学割があって、むしろケータイよりスマホが安いとか。私は「高校生がスマホか、ぜいたくだなあ」と思っていたが口には出さず、会話や質問を続けていった。

部活のこと、勉強のこと、就職のことなど聞いていくと、主導する一人が中心となり彼らはいろいろとお話をしてくれて楽しかった。悩みもいろいろあるようである。ことに就職戦線は厳しいとのこと。二人の三年生に県外へ出たいかどうかと聞いてみると、一人は「県内はつまらない。島根でくすぶりたくない」というようなことを言った。もう一人は「どちらかというと島根がいいが、一度は出てみたい」と。私は体験も交えながら、「いずれにせよ、島根のよさをわかるのはいったんは外に出てみること。進学や就職で出ないまでも、旅に出ることでも故郷のよさは感じられる云々」と話をしたら、三人は納得したような表情だった。到着後、彼らと笑顔で別れた。おもしろい夜だった。オヤジと男子高生三人の会話は周りにはどう響いていたのだろう。
ひとごとい順を待つ人それぞれに [2012年06月19日(Tue)]

__tn_20120620223406.jpg待つ人がいる。待つときがある。
他人を待つ
ピアノの発表会で出番を待つ
電話を待つ
人事異動を控えて内示を待つ
買物の列で順番を待つ
タクシー乗場で車を待つ
ディズニーランドのアトラクションを待つ
大事な顧客プレゼンテーションの順を待つ

死を目前にした人もいるかもしれない
生まれくる新たな命を待つ人もいる
悲運を嘆く不遇の人もあり
幸せに陶酔する姿もある
うまくいくとき時間は速く
失意のときは時間は遠くに過ぎる
人生それぞれ、ときにそれぞれ
同じ待つなら上機嫌で待ちたい
だがいつもそうではありえない
眠りたし淡き扇にそよがれて [2012年06月18日(Mon)]

__tn_20120618203022.jpgああ眠い
湿気があって不快でも眠い
ああ眠い
列車の揺れにおのずと目が閉じる
ああ眠い
歩いたあとで涼やかな風に吹かれると気がゆるむ
ああ眠い
梅雨空を見上げたらやわらかに心落ちつく
ああ眠い
長々とパソコンに向かっていると疲れ目になる
ああ眠い
ゆるりと恋を語らう蛍のしらべを楽しんで
ああ眠い
一度起きても布団の上でまどろむ幸せ感じて
合歓木(ネムノキ)の扇にゆるりとあおがれて心ゆくまで眠りたい
あーあ眠い
ドクターとポエット兼ねて雪の原 [2012年06月17日(Sun)]

__tn_20120617151659.jpg映画『ドクトル・ジバゴ』(米伊合作)を観た。ここにもおなじみの映画音楽があった―「ラーラのテーマ」。冒頭のクレジットが始まって、白樺林の変わりゆく季節が描かれたときに、民族楽器バラライカで奏でられるのを聞いて、なるほどと思う。悲哀と軽快さが同居する名曲だ。ウラルの雄大な雪原を馬ぞりで行くラーラと娘―見送るジバゴとの永遠の別れにこのテーマはふさわしい。

ラーラは主人公ジバゴの愛人。強い目が印象的で一途、男好きのするタイプだ。ソフィア・ローレン似の美女である。ユーリ・ジバゴは医師にして詩人としても知られていた。二人が知り合うのは、ブルジョアと労働者との階級闘争が始まりかけたモスクワ。二人が愛し合うようになるのは、第一次世界大戦下のウクライナ。野戦病院でジバゴは看護婦ラーラに惹かれていくが、ラーラは押しとどめ二人は別れた。

やがてロシア革命による大混乱期。偶然に再会した二人を止めるものはなく、生活面でも濃密に愛し合う。とくにジバゴはラーラの虜になった状態だった(そういえば「虜」の字は男が捕えられて数珠つなぎにされた象形)。ラーラの娘に父のように接し、本妻トーニャには二人目の子供を授かっているという二重生活を送る。トーニャもそれを受け容れているように見えたが、突然終わりがきた。赤軍の馬賊パルチザンに拉致されて医師として2年も働かされたのだ。

脱走してラーラと愛の巣を再びもうけるものの長くは続かなかった。別れのシーンがウラルの雪原だ。何年も経ってジバゴはモスクワの市街電車の中からラーラを見かけ必死に追ったが、心臓発作で死ぬ。

ジバゴが詩作する姿はあったが、詩そのものは登場しなかった。ソ連政府からは、叙情的に過ぎ個人が主の反革命的なものと非難されていた。それは原作者パステルナークの置かれていた立場を象徴している。原作小説『ドクトル・ジバゴ』はソ連で出版を許されず、イタリアで日の目を浴びてノーベル文学賞の候補ともなったそうだ(当局の指示で辞退させられたが)。

パステルナークの晩年の詩に、「わが心よ/おまえは生きながら責め殺された人々の墓地となった」とあるとのこと。ソ連も中国も他の共産国も然り。共産主義という壮大な実験の元、莫大な悲劇と無惨を招き寄せて、20世紀は戦争と対立の時代となった。本来は幸福になるために編み出した思想や宗教であったのに、人間がさらに不幸になったという重い十字架をこの映画は表現したいのかもしれない。ラーラのテーマが心に残る。
つながってナーヤとサルヴァの物語 [2012年06月16日(Sat)]

__tn_20120616162950.jpg物語はナーヤの話とサルヴァの話が交互に登場する。『魔法の泉への道』(リンダ・スー・パーク著、金利光訳)はオムニバス形式で進行し、一見関係のない二人のスーダン人少女と少年の物語である。

内戦が続くスーダン南部。北のイスラム勢力は主流派で南に住む部族を追いつめていた。反発して内戦がひどくなったものであるが、戦争で最も悲惨な体験をしてしまうのは子供たちであるのは、世界共通だ。ナーヤはヌアー族、サルヴァはディンカ族。両族は内戦の基本構造である、スーダン北のイスラム勢力と土族宗教の勢力との対立とは違うところで対決していた。表題ごとに交互に登場するマークは両部族の印なのだろう。ナーヤの物語は2008年から始まり2009年へと少しずつ進む。少し年長のサルヴァのは1985年から始まり経過が早い。

長い逃避行で歩けなくなっていたサルヴァに叔父さんが目標を与えるところが心に残る。道は遠いようでも目に見える目標をいつも持っていなくちゃいけないな、と思わせてくれる。

(最初の目あてとしていた茂みにたどり着いてから)
≪二人が茂みまでたどり着くと、叔父さんは前に見える石の固まりを指さして、あそこまで歩こうと言った。そこまでいくと、こんどは少し先のアカシアの木まで‥‥その次はまた石の固まりまで‥‥その次はただの砂地のあの場所までというように、叔父さんは次から次へと目標を定めていった。こうしてサルヴァは少しずつ前進した。≫

努力の甲斐ありサルヴァはアメリカの里親に引き取られ教育を受けることになる。夜郎自大で傍若無人のアメリカのやり方にさまざま批判があるのは確かだが、アメリカという国の懐の深さをこうしたボランティアの実践に感じる。

プロジェクトをたくさんの応援をうけて軌道にのせたサルヴァ。最終ページで部族の違いを超えてナーヤとサルヴァはつながる。目頭が熱くなった。
梅雨時は重い気配やくちなしや [2012年06月15日(Fri)]

__tn_20120615181617.jpg空気が重い。午後から曇って空気が鈍重。
風はある。湿り気含んで風が蒸す。
道路の植え込みくちなしが。
道の両側長い帯。豪華な植え込み目を引いた。
数日前に咲き始め。盛りをむかえ早いもの。
色は象牙で。クリーム加え温かな白。
重い空気で香りが逃げず。
あたりを一帯を温かく爽やかに。
品よく甘く朗らかに。匂いのもとはわかってる。
一輪を摘んで鼻香る。
芳し匂い、王女がたたずむ。
くちなしの字は朽ちないかと思いきや。
咲いたはしから茶色にくすむ。
くすんだ花でも匂い増し。
王女の典雅連想す。
水に浮かべて回してみれば。
しばし暑さを忘るるか。
幸せは家族仲間と完遂し [2012年06月14日(Thu)]

__tn_20120614222543.jpg映画『幸せへのキセキ』を観た。「キセキ」は「軌跡」と「奇跡」を掛けたものであろう。マット・デイモン扮する父ベンジャミン。反抗期の息子と乙女ざかりの娘。妻を亡くして数ヶ月。敏腕ルポライターとしてならした彼も、思うにまかせぬ家庭のやりくりに疲れ果てようとしていた。仕事を辞めた彼は一念発起、郊外に家を求めた。なんと娘が気に入った家は動物園つきの家だったのだ。

原題は『We Bought a Zoo』。動物園を買ったとは、分かりやすくシンプルだ。家族の再生に賭けたベンジャミン、そのきっかけは娘ロージーが動物たちと交流し始めたこと。閉園していた動物園の復活、父と確執をもつ息子との再生、娘や新しい母を加えるであろう家族の幸福を、奇跡と軌跡に言い表すという日本語題に比べ、意味にふくらみがあるような気がする。

動物に癒されても、動物は金を喰い、病気をし、人を襲い、いずれは死ぬ。冷厳な事実を園主となって父は知り、学び、仲間とともに目標を完遂する。開園の7月7日、客が寄せてくるとわたしも歓声を思わず上げてしまった。悪人が一人として出てこない、安心して見られる映画でもあった。
猛々し穏やかにひねる海の面 [2012年06月13日(Wed)]

__tn_20120613221942.jpg 海よ 猛々しく荒れ狂う海よ
 凶暴なエネルギーはたいがいにしろ ひとを引き込むな

 海よ 穏やかにたゆたう海よ
 輝け光れよ ひとを愛せ癒せよ

 海よ エメラルドにきらめく海よ
 空と底から艶を集めよ この世の美を代表せよ

 海よ かけがえのない海よ
 慈しむ母なるよう峻厳なる父のように 万物を育てよ

 海よ 潮騒ざわめく紫黒の海よ
 磯の香りに漁り火そえて 鈍色(にびいろ)の空を映せよ

 海よ 藍白(あいじろ)の夜光虫を光らす海よ
 海のホタルは見えねども 光るゲンジを点滅させよ
するしない白黒反対結果見て [2012年06月12日(Tue)]

__tn_20120612182837.jpg人材開発メールニュースで吉次潤氏は説く(2012年06月11日付けワンポイント・アドバイス)。

≪(組織や職場全体で)約束事・ルールが守られているケースでは、どちらかと言えば「○○しよう」「○○やろう」という表現をされていることが多いようです。たかが表現と思われるかもしれませんが、例えば上司から指示される場面でも「××しないように」と「○○しよう」では、似たような意味合いでも、受け止め方が異なるのではないでしょうか。
(中略)
 「××しない」ではなく「○○する」に置き換えることで、新たなアイデアやイメージが出てくることもたくさんあります。また最低ラインを超えたところに目標を置くと、最低ラインがより手前に、よりリアルに手が届く感じに見えてきます。人が能動的に動くためには、高い目標よりも「手が届く感」が大切です。≫

コンプライアンス全盛の世の中、××してはならないと禁止ばかりが増えるものだ。だが、いけないと言われると、ついついしたくなるのが人の常。××しないイメージをなぞることを続けると、××するようイメージトレーニングをしてしまうことになる。センターラインを越えないように運転するより、左側のラインに合わせハンドルを切るのがやり易いようなものだ。だから、かなりがんばれば手が届く範囲に目標を設定し、「○○する」ポジティブなものを忘れないようにしよう。
ゆったりと宍道湖岸に朝と夜 [2012年06月11日(Mon)]

__tn_20120611211640.jpg宍道湖岸を歩いた。宍道湖から大橋川に結ばれる辺りを歩いた。

午前八時。
入梅から四日目。空気は湿気っているが、真夏のそれではなく心地よい。松江大橋からはシジミかきの舟がいくつも見える。ジョレンで湖底の砂や泥ごと掻き上げて、水面近くで撹拌して土砂を落とす。静かな辺りにザクザクしたその音がコダマするように響いて風情をかもしだす。川べりには柳の木。そよぐことなく静かに影をなげかけた。天気は薄曇り、ときどき太陽が顔を出す。民家の軒先には植木鉢で咲かせる初夏の花。春の盛りを過ぎた花。濃い緑の葉と葉が元気だ。

午後八時。
松江温泉街から湖畔を歩く。遊歩道にはジョギングする人、歩く人、カップルで語らう人とそれぞれだ。釣りする人はエビをタモですくおうとするのだろうか。松江は小さな街だ。それでも県庁所在地。通勤の車で四車線の湖岸はヘッドライトがひきもきらず続く。通勤通学の自転車が多い。宍道湖大橋を渡ると松江大橋に埋め込まれたライトが優しい感じをだしている。湖面は闇、闇に突き出た航路灯、人工のホタルが点滅している。空には星。乙女座に火星。遠くには厚い雲。地上の明かりを映しだし、オレンジ色に輝いていた。今日からドクターヘリの運航が始まった松江日赤。警戒灯が赤く点滅して存在を主張していた。

(写真は煙っているようなスモークツリー)

(コメント)
うわー送ってさしあげるべきでしたね。
申し訳ない! 本日はご参加いただきありがとうございました。
作成者 naonao [URL] : 2012/6/11 (月) 23:04

申し訳ない、なんてとんでもない! いい夜でした。会合も、湖畔の風情も。
作成者 富味 : 2012/6/12 (火) 06:34
ドラマ見て大河ひもとく心地なし [2012年06月10日(Sun)]

__tn_20120610220137.jpg「梁塵秘抄」の有名な今様歌謡。編者は怪物・後白河法皇である。大河ドラマ「平清盛」に何度も節付きで登場する。

  遊びをせんとや 生まれけむ
  戯(たわぶ)れせんとや 生まれけむ
  遊ぶ子どもの声聞けば
  我が身さへこそ ゆるがるれ

ひとは遊ぶために生まれてきたのか。戯れて愉快に笑いあい楽しむために生まれてきたのだろうか。キャッキャと無邪気に遊ぶ子供の声を聞くと、わたしも楽しみたいと気持ちが動きだし、自然と体を揺すりだす。ああ遊びたい、もっと自由に遊びたい、子供の時分のように気ままに遊んで暮らしたい....と作者が考えていたかどうかは知らないが、ドラマ「清盛」で創作されたメロディが口をついて出てくる。

今夜の「清盛」、視聴率はどうだったろうか。平家の本場関西で先週10%を割ったということで、大河ドラマ始まって以来の低さであったという。

先週日曜日はサッカーW杯アジア最終予選で、日本対オマーン戦を放送していたこともあるだろう。初回放送後に兵庫県知事が「画面が汚い」と苦言を呈して人気が落ちたということもあるだろう。何よりも平清盛の死後、平家は滅びた敗者であることも大きいかもしれない。保元の乱、平治の乱と武家と公家が敵味方入り乱れて内戦を繰り返し、その内実がわかりにくいということも大きな原因だと思う。佐幕と勤皇、攘夷と開国の陣営が複雑に絡みあう幕末のわかりにくさと共通する。

ただ、民放のドラマも不調の様子だ。多くの人が連続ドラマを見なくなったのかもしれない。録画してあとで見るのも面倒だ、話題に富んだものはないと考えるのか。では一話完結であればいいのかというとそうでもない。2,3時間辛抱強くテレビの前に座らなければならないので、少しその場を離れても話がわかるお笑いやバラエティに人の目が向いてきているのかもしれない。またネット、ゲームなどテレビドラマ以外のお楽しみは多い。読書が少しずつ復権していることもあるかもしれない。ドラマをつくる人々が苦悩する時代がきたようだ。
内戦の風と共にと南部かな [2012年06月09日(Sat)]

__tn_DSC_0288.jpg風とともに去りぬ』をこれから観る。原題は『Gone with the wind』。アメリカの内戦南北戦争を舞台にした大叙事詩にして、スカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)とレット・バトラー(クラーク・ゲーブル)との大恋愛劇、という知識はあるが、実は観たことがない。勇壮にしてロマンチックなテーマ曲はおなじみだ。4時間近い巨編、楽しみにしている。

【観劇後】
私の想像となんとかけ離れていたことか。スカーレットとレットは最後にめでたく結ばれるのだと思っていた。

スカーレットの永遠の憧れ・アシュレー。その妻メラニーは聖母である。常に他人のよいところを見て、悪い面もいいように解釈し、励ましと温かい笑顔を忘れない。まさにマリアである。物語の根底には「神」がいる。アイルランド移民の父は実務のすべてを妻(スカーレットの母)にまかせ、馬に乗るだけの道楽者。だがスカーレットに土地こそ価値の源泉だと教える。死んだのちも彼女の耳元で神となって故郷タラの土地の価値は永遠だとささやく。

奴隷制度とは牛馬を鞭でたたいて従わせるようなイメージを私はもっていたが、違った。北軍がタラの屋敷を蹂躙して過ぎ去ったとき、黒人使用人が「外回りを世話する者が誰もいない」と言った。オハラ家にとっては危急存亡のとき、皆が飢え死にするかどうかのときにその言葉である。あらかじめ命じられたことの範囲でしか動けない受け身の姿。指示待ちの雇われ根性を奴隷状態というのだと感じた。

スカーレットは奔放で気まぐれで美貌と社交力で男を周りに引きつけ、激しい恋をする。気ままな姫のような自在な愛で男を籠絡したいと思うのか、場内は観客でいっぱいだった。そんなスカーレットに対し、レットは自由な愛を楽しむ一方でスカーレットの魅力にとことん惚れぬいた。彼女の感情が浮き沈みするのも似た者同士と心に収めていたが、最後は諦めた。そして彼女の元から去った。

スカーレットは同時に3つの愛を失った。アシュレーが実は自分を愛していないことを知ったとき、メラニーが死んだとき、レットが去ってはじめて彼を真に愛していたことに気がついたとき。しかし、もとには戻らない。その悲劇を描くのに長いエピソードを積み上げて長い長い上映となったが、今の感覚ではあまりに冗長であり、前半部に比べて退屈した。観客はどう思って観ていたのだろう。

すべてを失ったように見えたが、「明日はある」と素早く気持ちを切り替えていくたくましいスカーレットには舌を巻く。故郷タラの農場の夕焼けが重要な局面では使われていた(合成映像だったのは残念だが)。落日の残照は「凋落」のイメージがあるが(まさしく南部の凋落)、日はまた昇るのメッセージでもある。

何が「風とともに去ってしまった」のか。冒頭の説明書きでは、A civilizationを主語にしていた。圧倒的な近代兵器の物量を背景に北軍が勝ち、牧歌的でヨーロッパ貴族的な伝統、騎士道精神をもととしていた南部の市民社会が追いやられたという意味なのかもしれない。近世社会の終焉とともに、個々の力が露わとなり弱肉強食の近代が始まる。あわせてアメリカを中心とする世界観の始まりでもあろう。
自立とは頼るだれかと共々に [2012年06月08日(Fri)]

__tn_20120608170725.jpg東京大学の安冨歩教授がこう言っている。

≪大半の人が誰にも頼らずに生きることが自立することだ、との認識を持っていると思いますが、実際に誰にも頼らずに生きることはできません。自立しようと思って、依存先をどんどん減らしていくと、最終的にどうしても頼らざるを得ない相手が残ってしまいます。その人にはどうしても従わざるを得ません。(中略)少数の他者に依存するほうが従属している状態だといえるでしょう。そう考えると"誰にも頼らない"という考えこそが、結局は人に従属する原因だ、ということになります。
 自立した人というのは、自分で何でもする人ではなく、自分が困ったらいつでも誰かに助けてもらえる人のことをさすと考えます。「自立とは依存すること」。こう考えるとこれまでのすべての議論や政策がひっ くり返ってしまいます。≫
  (月刊第三文明2012年6月号)

さあ、もっと頼ろ。頼みにしよ。やせ我慢せずに。仕事の面でも、レクレーションでも、家庭でも、友人関係でも、近隣でも。頼ればいいのだ。ただし世話になったことを忘れたり、口にだして表現しなかったりしたら、次は助けてもらえなくなる。それと、ギブアンドテイク、というよりもギブアンドギブの気持ちが大切なのだろう。難しいけれども。
ふりかえり胸をよぎるは悔いの念 [2012年06月07日(Thu)]

__tn_20120607184150.jpg時折後悔の念がよぎるときがある。

10年前、あの日なぜ腐ってどうにでもなれと、席を立ってしまったのか。ガマンしていれば違う展開になったのに.....。
20年前、電話をかけてきたあの人と話さなかったのか。話せば気分も違っていたろうに.....。
30年前、ささいなことで口論してしまったのか。その後かれとは音信不通だ.....。
40年前、悪い条件ではないのに人事異動の打診を断ったのか。職業人生は変わったことだろう.....。
50年前、金を貸してと頼まれた彼にうやむやな返事でごまかしていなかったら、彼は更生していたかもしれない.....。
60年前、辛抱してあきらめずにあのことを続けていたら技能が高まって今頃は.....。
そして70年前、大勢に流されずきちんと反対意見を言ったら、大政翼賛の時代に一石を投じられたかもしれない。

なんであのようにしてしまったのかとか、ああ考えていたのにどうしてそうしなかったのかといった悔い。いくつになっても、ひとは誰しもさいなまれることがある。
櫛けずりもう来ぬ時よ髪留めて [2012年06月06日(Wed)]

__tn_20120606205908.jpg朝の列車に乗るとそばに女子中学生。長い髪を手ぐしで整える。たっぷりとくしけずりポニーテールの髪留めが終わった。次は日焼け止めクリームを手に塗って顔にまんべんなく広げる。腕には白くなるほど塗りたくってじっくり刷り込む。松江に着いた。テニスラケットと鞄を座席の下から取り上げて、彼女はいざ出陣。5年後、公衆の面前で臆面もなく化粧にいそしむレディの姿が目に見えるようだ。なにげない一日に出合ったヒトコマの光景だ。

仕事を始める。メールをチェックして対処する方法を考え、必要ならば人と相談する。来客があり対応して笑顔で送り出す。試行錯誤しながら書類をつくり一段落したらお茶を飲む。これも毎日繰返している一日のヒトコマだ。

今日は再び太陽に注目する日。金星が地球に内合して重なった。朝7時30分、太陽の9時の位置に黒い円(肉眼ではホクロにしか見えない)が見えた。数時間にわたって金星の点は位置を変え続けた。次は百年以上もたたないと同じ現象は地球から見られないという。地球より少々小さい金星が、地球の前を点となって横切る。

これは日常のヒトコマというわけにはいかないが、同じ時間はもう戻らない。繰返しだと思うのは錯覚だ。かけがえのない貴重な時は刻刻と過ぎていく。
釜石に奇跡はあった教育の [2012年06月05日(Tue)]

__tn_20120605184256.jpgあの『釜石の奇跡』について、群馬大学の片田教授は語る。小中学生にほとんど犠牲がでなかったというあの奇跡に関して、市当局と協力しあいながら防災教育に努めた人である。

市の防災担当、教育委員会も困っていたという。何にかというと、釜石には海底から70mにもなる巨大防潮堤があるから大丈夫だ、だから地震がきても逃げない、父さんもじいちゃんも逃げなくていいと言っていると、子供たちが自信をもって言い切るという環境下で防災教育を進めなければならなかったことにだ。

片田さんはどう教えたか。

想定にとらわれるな。ハザードマップを無闇に信じれば逃げる行動は止まる。かつて石垣島で85mという巨大津波の記録があることからも、自然は人間の想定を軽々と超えることに気がついてほしい。相手は自然。その時点で最善を尽くすこと。大きいか小さいかはわからない。最善を尽くして動いた結果、自然が最善を超えたら仕方がないと諦められると。

自分に向かいあえ。率先避難でまっ先に君の命を主体的に守り抜け。自分だけ逃げるのは倫理に反するという気持ちがあるかもしれない。けれども命があってはじめて他人をも助けることができる。君が勇気をもって逃げることによって、不安ななかで慰め合うように様子をうかがっていた人が、君の行動を見て体が動く。それが人を助けることになる。行動によって守られる命があると。

わが子が必ず逃げてくれると信じていれば父も母も学校に迎えに来ることもなく、自身がちゃんと逃げられる。東北で昔から言われる言い伝えが「津波テンデンコ」。津波がくる前にてんででバラバラに逃げよという教えが生きる。一見すると絆が裁ち切れるように思えても、信頼がつながれば皆が生き残る可能性が高くなると。

片田教授は、敵は自然、だが実は自分自身が敵なのだと結ばれた。
疲れ果て隠れ続けて18年 [2012年06月04日(Mon)]

__tn_20120604223029.jpg隠れる
身をくらます
潜伏する
紛れ込む
人を避ける
息をひそめて暮らす
逃げる
見られる
偽る
秘かに暮らす
偽名で介護の仕事をする
秘めやかな恋をする
打ち明ける
同棲する
痩せる
髪を短くする
見つけられる
「もう逃げなくてもよいと思うとホッとする」と取調官に話す
金環日食にも心躍らなかっただろう
留置場から眺める今夜の部分月食には心動いたかもしれない
青空に偉大なるかな広き土地 [2012年06月03日(Sun)]

__tn_DSC_0235.jpg西部劇映画『大いなる西部』の原題は、『The Big Country』である。広大であるだけでなく、人間を大きく成長させてもくれる偉大なる田舎、北アメリカの西部地域。熱狂する多くの開拓者が荒野を切り開き(原住民を蹴散らして虐殺したという要素もあるが)、世界に冠たる偉大で強いアメリカ合衆国をつくりあげてきたフロンティア精神の権化であり、西部に開拓する土地がなくなって以降も太平洋へ、宇宙へとアメリカ人を駆り立ててきたシンボル、アメリカ人にとって永遠の祖国が大いなる西部。1958年、名監督ウィリアム・ワイラーの作品である。

マッケイ(グレゴリー・ペック)はパットと結婚するために西部にやってきた。その父テリル少佐は牧場に不可欠な水源地をめぐってヘネシー一家と対立しており、一触即発の状態であった。

非暴力主義者マッケイは両者の間に立ち、対立を回避しようと試みる。最後はやむを得ず、一対一の殴り合いで強弱を定め、銃を使った決闘にも応じる(このありようは映画『シェーン』に似る)。結果として、暴力による全面的な争いは無益であると、テリル派もヘネシー派も多くの者が感じるようになったとき、テリルとヘネシーは頭目としてこの争いを個人間のものとして決着させようと決闘した。二人のボスは死んだ。

パットの親友であり水源地の所有者である教師ジュリーが、マッケイの平和主義を理解し、二人の意図を一致させながら、人に幸せをもたらす地域となるよう努力する。その過程で愛を高めていく様子が印象深い。

テーマ曲に聞き覚えがある、この映画を初めて観たにもかかわらず。多くの名画に使われている音楽はいろいろな場で広く使われている。映画を観ていなくても、自然に耳から入って身についているものなのだ。映画という文化が日常生活に密着し、私たちの頭にいつの間にか入り込んでいることを改めて感じた。

(写真は、西部の青空のような色のラベンダー)
蹴散らして白地に染まる道路あり [2012年06月02日(Sat)]

__tn_20120602184315.jpg殺してしまった。轢き殺した。恨んでいたわけではない。恋敵でもない。ただの行きずりの関係だ。だが殺してしまった。

恋にうつつを抜かすと命を失う。カップルのうち死んだのはどちらの性だったのだろう。ともあれ可哀想なことをした。

今朝がた国道9号線を運転しているとカップルが道路の真ん中で並んで歩いている。車が近づいても逃げる気配がないので、わたしはアクセルから足を離してスピードを緩めた。しかし数秒後車の下部に鈍い衝撃があり音がした。これから家庭をつくり、子育てをしたであろうに、可哀想なことをした。

恋に惑溺し、周りに目がゆき届かないと視野狭窄になり不幸な運命が待ち構えている。恋は甘く恋には未来があるのに残念だ。轢き殺したあとバックミラーには白い羽が一面に舞い散るのが映って見えた。ともあれ殺してしまった鳩くんの冥福を祈る。

(写真はS氏宅で撮影したジャスミンの花。見た目はシャイな感じの花だが、香しく匂っている。)
お笑いに大阪以上あらへんで [2012年06月01日(Fri)]

__tn_20120601222821.jpg大阪みやげに『面白い恋人』を買ってきて話題をさらった。一審で敗れはしたものの、二審で訴訟を継続している吉本興業が送り出した、ご存知札幌の「白い恋人」のパロディ菓子である。濃いめの味のゴーフレットだ。中入れの説明書きには、『東京カブレ〜東京土産の新しいカタチ』と、「東京サブレ」のパロディ。東京に対抗する関西お笑いの心意気のようなものを表現している。

箱の面にはローマ字で文句がある。読みやすいよう、ひらがなで書く。

≪わらい あふれる おおさか の まち.
 わらわし わらわされ おおさか の まち.
 ひと を わらわすのが だいすき な おおさか の ひと.
 あなたにも えがお の おもいで を おすそわけ.≫

そんな殊勝な文句が大阪城と紳士淑女の画とが一緒に白地に青いインクで品よく表される。実に面白い、実に楽しく人を喰っている。店の売り場でポップには、「裁判には負けへんで!」と、商魂たくましい。隣には、白い恋人とほとんど同じ菓子がある。ラング・ド・シャクッキーの『道頓堀の恋人』。ここには「裁判とは関係ないで!」。

大阪は楽しい、大阪は頼もしい、大阪は愉快だ。