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とらわれて油断あげくに滅びゆく [2012年05月31日(Thu)]

__tn_20120531210920.jpg永遠の命を求めて彼らはミイラとなった。ミイラを祀ろうために永遠に輝きを失わない金を装飾して。

大阪・天保山で『ツタンカーメン展〜黄金の秘宝と少年王の真実』を観覧した。トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)とは、「アメン神の生ける似姿」という意味。つまりファラオはエジプトにあっては神の分身なのである。エジプトの神たちは自由に交わる。ローマ神のように浮気で交わるのではなく、親兄弟といった近親とも結婚し夫婦となる。それが尊い神の姿で自然なあり方なのだ。

神の分身たる王族は近親交配を繰り返し、結果として遺伝的な病気が多くなる。ツタンカーメンも華奢で虚弱であったようだ。なにせ19歳で死んでしまったのだ。隣に埋葬されていた実の子供二人も死産か、流産で死んでいた模様。

そこで思い出すのがフーテンの寅さん。家族や親族がいわゆる煮詰まった状態になり、抜き差しならぬ緊張感をもつ。そこで現れるのがトリックスターたる寅さんで、しっちゃかめっちゃかで掻き回す。すったもんだのあげくに、場は収拾し寅さんは再び旅に出る。いつもの親族関係、特に親と子だけの人間模様がつづくと無理がでるものなのだ。

さて展覧会では、ツタンカーメンのひいおばあちゃんの「チュウヤの人形棺」、ツタンカーメンの「王笏」と「殼竿」のセット、「上エジプトの王冠を被った像」、「下エジプトの王冠を被った像」が心に残る。なかでも「棺形カノボス容器」(内臓を納める)は、すべてが金に宝石類を細工した世界随一の至宝といえるものだった。

これほど栄えたエジプト文明はどうして衰亡してしまったのだろう。象形文字ヒエログリフは伝承されず、ナポレオンのロゼッタ石の解読を待つまで闇の底にあった。三千年の繁栄はローマ帝国によって滅ぼされ、エジプトの文化・文明は遺跡に長らく眠った。

人間は死んでも文化は代々継承されると私たちは思っている。だが、伝えられるべき人を欠いたときに文化は死ぬ。この歴史的な事実を忘れてはならない。

(コメント)
だけど、黄金のマスクは今回来なかった。がっかり。ザヒさんの企画には落とし穴があった。
作成者 ゲシェまるこ : 2012/6/1 (金) 12:51

写真の「棺形カノボス容器」、40センチ弱の黄金の容器。これだけでもすごいですよね。黄金のマスクがもし日本に来ていたら、エジプトに行った人が失望してしまいます。ぜひ本物は現地エジプトで観たいものです。
作成者 house21 : 2012/6/2 (土) 08:00
植民のかつての夢よ米若人 [2012年05月30日(Wed)]

__tn_20120530195928.jpg沖縄に駐留しているアメリカ軍人の息子たち(中学生)が道路にボウリングのピンを置くという非道ないたずらをして県警に書類送検された。ピン6本を高速道路に置き、車がぶつかるのを楽しんだようだ。これを単に愚かな少年二人が引き起こした事件ととらえるべきではない。

アメリカという国は世界一の大国で、自由民主の価値観や市場経済の利便性を流布し世界の警察官として秩序を保つ役割があるという夜郎自大的な独善はいまだに残っている。ベトナム戦争、イラク・アフガン戦争を経てその功力には衰えが見られるにしても、彼らはその正統性を信じ、威光にすがる人びとも多い。

ペリーの黒船以来、日本は力づくで押し込めばいうことをきくと信じる彼らにとって、太平洋戦争でこれも夜郎自大だった戦前日本を完膚なきまで粉砕し、以降日本にもアメリカ一辺倒の追随者がたくさんいたことは、ますます日本は与し易いとの確信をアメリカに持たせた。

ベトナムやイラク、アフガンで米軍が枯れ葉剤使用や無差別虐殺に手を染めたのは、言葉が通じない、習慣が違うことによる怖さもあっただろうが、欧米系以外の民族は“人間”とは違う、人権の及ぶところではないと考えていたからだろう。日本への原爆投下も同じ発想だと思う。

人それぞれに個性があり容姿や性格、能力に違いがあるということは「差異」。彼らの価値観はそれとは違い「差別」に基づいている。そうした発想を無意識にも体現したのが、かの沖縄の米軍少年であると考えるのは飛躍にすぎるだろうか。植民地を蹂躙するような発想を許してはならない。

ともあれ、こうした事件が起きるたびに沖縄県をはじめとした自治体と市民たちは声をあげなければならない。中央政府に丸投げしてはならない。広島市がすべての核実験に対しその不当性を訴える抗議文を送るように、米軍基地にたいし直談判を繰り返すべきなのだ。普天間基地の問題はもとはといえば、基地が起こした事件や事故が沖縄の人びとに大きな苦しみや屈辱を引き起こしたことからだった。沖縄の苦しみは座しているだけでは解決できるものではない。
三点で支えて安心移り行く [2012年05月29日(Tue)]

__tn_20120529184055.jpg三点で支える。

椅子の足は三本あれば十分に支えられる。むしろ四本あると不安定になるときがある。逆立ちも頭を地面に当てれば安定する。手指で物を持つとき三本の指、力の強い親指、人差し指、中指の三本で支えれば安定する。体が不自由になったとき杖を用いれば三本目の足として立つのに安心できる。階段を上がり下りするとき手すりを使えば楽チンだ。

だのに、なぜ物を持つとき四本の指を、さらに小指も使って五本を使うのか。安定して抜けて落ちたりしないようにという理由もあるが、持ち換えるときに安定させるという意味があるのだろう。

片手でスマホを操作する。指先を伸ばすとき持ち換えが必要なときがある。そのとき三本しか指がなければ持ち換えに不便だ。そもそも大きなスマホを二本で支えて操作することは無理だ。持ち替えるときに一時的に二本で支えるとなると落とすかもしれない。だから妖怪人間ベムには片手でスマホはいじれない。

梯子の上がり下りにも手足合わせて四本が必要だ。片足を離して体を移動させるとき手を二本添えるようにしておけば、もう一本の足と合わせて三本となって安定する。いつも三点で支えるようにすれば、誤って転落する確率は相当低くなる。

まっ、ゆっくりと何ごとも慎重にやるようにすれば転んだり落ちたりはしない。だがなかなか余裕をなくしてしまって急いでしまうのが油断の元なのだ。
帰ってきて勧善懲悪白日に [2012年05月28日(Mon)]

__tn_DSC_0040.jpg名画『シェーン』は「水戸黄門」の西部劇版といえる。「七人の侍」にも似ている。反戦反核映画でもあり、個人が銃で武装する社会にも反対する立場をとっている。生身の格闘シーンも多いが、やむを得ない最後の手段としており手ばなしで戦闘することを肯定しているわけではない。

シェーンは笑顔を見せない。せいぜい微笑みだけで、影があり苦味ばしったダンディズムの表情だ。まして銃の腕をひけらかすことなどしない。楽天気分の黄門一行とは違うが、待ったなしの最後で万能の印籠に相当する射撃の腕を示すことは似ている。

開拓農民に悪玉どもが襲いかかり、共感して農民を守ろうとするのも「侍」に似ている。ただしシェーンは背は高くなく、なで肩のやせっぽちで強い感じはしない(アランラッドは都会的にかっこいい)。紛争解決手段として暴力は最後の最後まで使いたくないというのが、シェーンの気持ちだ。

劇中の設定は南北戦争後でアメリカ東南部のアラバマ州のあたりが舞台。アパラチア山脈だろうか。常に画面の背景には雪をたたえた山嶺、広がる空がまぶしい。法秩序が行き渡り、土地取得権も安定的に与えられる頃だったようだ。フロンティアがなくなってガンマンの時代は終わり人々は安心して暮らしたかった。物騒な拳銃持ちはきっと嫌われたのだろう。「早く銃などなくなればいい」とマリアンがつぶやくところは、当時の女性たちの本音であった。残念ながら今でもまだアメリカは市民が武装する銃社会。非武装は実現しそうにない。

物語は一貫して少年ジョーイの目から描かれる。銃のおもちゃを持ち歩き、早く実際に撃ち方を教わりたくてウズウズしている。しかし母マリアンにとっては危なっかしくてしょうがない。農民の中心として指揮をとる夫ジョーが血気にはやるのもマリアンの心配のタネだ。映画公開は1953年、朝鮮戦争後核開発競争、東西冷戦が激しいその頃。人類の不穏な未来を当時の制作者たちも憂えていたのではなかろうか。

殺されるとわかっている戦いの場にジョーが向かっていくとき、シェーンは力づくで阻止する。倒れたジョーを介抱するジョーイの横で、マリアンとシェーンは向かい合う。握手で別れるが、たぶん二人はキスしたかったのだろう。「私はジョーの妻。そうでなければシェーンとともに行きたい」 シェーンも心が揺れた。「戦いに勝っても流れ者が定住して生きる場はない。ましてマリアンと・・・」とシェーンは見定めていた。二人はもとより結ばれる可能性はなかったのだが、好きになった同士が触れあえたのは、せいぜいぎこちない握手であった。

ジョーイの有名な台詞「シェーン! カムバック!」には少年の深い共感と憧れが込められている。しかし話の冒頭で「ドント.カムバック!」とシェーンが酒場から追い出されるシーンがある。さすらいのガンマンに行くところはもはやない。そう見切っていたシェーン自身にはきっと「キャント.カムバック!」と聞こえたに違いない。

音楽や効果音が実にわかりやすい。悪党どもが登場すると不穏に低く、開拓民が楽しく過ごし作物にや家畜に向かうときは軽快に高めだ。勧善懲悪をくっきりと描く、ディズニーのアニメを見ているようなわかりやすさを感じた。

松江サティのシネコンで「午前10時の映画祭」と入口で注文すると係の女の子は、「シェーンですね?」と応える。「そう、シェンエンで」と言うオヤジギャグに受付嬢は笑顔で「はい、ありがとうございます!」と千円札を受け取った。ああ、とてもいい娘だと思う。そういうオヤジもわかりやすい。
何のため努力するかと自答する [2012年05月27日(Sun)]

__tn_20120528180319.jpg再び内田樹は言う。私利私欲によってパフォーマンスが大きくなると信じるひとは多いが、違うと。他の人のため考え動き努力したほうが、自分の力を発揮できるということだ。

≪人間は「自分のため」では力が出ないものなんです。「人間は私利私欲を追求するときに潜在能力を最大化する」とほとんどの人が信じている。だから、努力した人間には報償を与え、努力しなかった人間に処罰を与えるというシンプルな賞罰システムを導入すれば、すべての人間は潜在能力を開花させると思っている人がたくさんいます。
(中略)
人間というのは自己利益のためにはそんなに努力しないんです。だって、どんなに努力しても、それで喜ぶのが自分ひとりだったら、そもそも努力する張り合いがないじゃないですか。「面倒くさいから努力するのを止めよう」と思っても、それで迷惑をこうむるのが自分ひとりだったら、踏ん張る気力が湧かない。そんなこと誰が考えてもわかる 。知性のパフォーマンスを向上させようと思ったら、自分以外の「何か」を背負った方が効果的であるに決まっています。自分の成功をともに喜び、自分の失敗でともに苦しむ人たちの人数が多ければ多いほど、人間は努力する。背負うものが多ければ、自分の努力の限界を突破することだって可能になる≫
 (内田樹『最終講義/生き延びるための六講』2011年,芸術評論社)

何のために勉強するのか、何のために仕事をするのか、それを通して何を達成しようとするのか。それらのを含めて面倒と感じることもある他人との深い関わりは、つまるところ人の役にたつことによって自分の能力を開き、人の喜ぶ顔を見ることによって自分も喜びにひたることが嬉しいから関わるのだ。小さな自分のエゴのためだけではない。エゴだけであれば淋しい。同じやるなら「努力する張り合い」がもてる大きな目的でありたい。
上機嫌ひとの力を湧きあげて [2012年05月26日(Sat)]

__tn_20120526091154.jpg内田樹氏はこう言う。知的パフォーマンスを最大にするだけでなく、このことは人間関係を良好にする良薬だと思う。

≪判断力や理解力を最大化するためには方法は一つしかないんです。それは「上機嫌でいる」ということです。にこやかに微笑んでいる状態が、目の前にある現実をオープンマインドでありのままに受け容れる開放的な状態、それが一番頭の回転がよくなるときなんです。(中略)悲しんだり、怒ったり、恨んだり、焦ったり、というような精神状態では知的なパフォーマンスは向上しない。(中略)
 真に危機的な状況に投じられ、自分の知的ポテンシャルを総動員しなければ生き延びられないということころまで追い詰められたら、人間はにっこり笑うはずなんです。それが一番頭の回転がよくなる状態だから。上機嫌になる、オープンマインドになるというのは精神論的な教訓じゃないん です。追い詰められた生物が採用する、生き延びるための必死の戦略なんです。≫
 (内田樹『最終講義/生き延びるための六講』2011年,芸術評論社)

そのとおりだと思う。上機嫌でありたいと思う。ぐっとこらえて下を見るときもあるだろう。かちんときても、そんなことしか考えられない相手をかわいそうだと思って我慢するときもあるだろう。困ってパニックになりそうなときには口角を上げてにっこりしてみよう。同じやるなら、より成果が上がる内容で、張り合いをもって生きたい。

【追記 5月26日夜】
今年初めての蛍を見た。ゲンジボタルが、つー・つー・つー(音は出さない)と長めの間隔で飛んでいくのを見た。いつもより1,2週間早い。緑がかった黄のランプだ。
柔らかに夕刻のとき目を閉じて [2012年05月25日(Fri)]

__tn_20120525183437.jpg今は夕刻 宍道湖の今は穏やかだ
どんよりと曇っているわけではない
くっきり晴れているわけでもない
やさしい夕日があたりを柔らかに照らす
薄い雲が空一面を覆っている
均等ではなく厚薄があるから太陽がところどころ顔を出す
山並みは霞んでぼんやりしている
湖面のマスアミの足がよく見える
潮目もくっきりと見える
一畑電車はキシミをあげながら走る
ゆったりと急がずに通勤客を運ぶ
警報機の音がドップラー効果でぼよーんと伸びる
宍道湖を過ぎると田植えが終わったばかりの田んぼ
水を張って湖の面のように空を映す
まだ夕焼けのころには早い
牧歌的で眠りをもよおす初夏の夕べだ
明日はゆっくりと休みたい
移ろって茜色なり星浴びて [2012年05月24日(Thu)]

__tn_20120524174058.jpg東京天文台副台長の渡部潤一氏がこのように語っている。とても興味深い言葉だ。

≪天文学は「世の中の役に立たない学問」といわれることがありますが、確かにそれは否定できない面もあります。(中略)
 星が人の心身によい影響を与えることを、私は森林浴や日光浴にならって「星空浴」という言葉で説明しています。金環日食や金星食をきっかけに天文学に関心を持ったら、次はぜひ「何でもない日」にも空を見上げてみてください。(中略)
 目が暗闇に慣れるにつれて、さまざまな星の姿が浮かび上がってきます。そしてその間に、心にはいろいろな思いが湧き上がってくるはずです。星空を見上げるとき、私たちは自分の心のなかをのぞき込んでいるのかもしれません≫
 (朝日新聞4月29日付け広告特集「今年は天文のゴールデンイヤー」)

昨日はいい夕焼けが見られそうだったので、日の入り直前に宍道湖岸に出た。島根県立美術館の前にはたくさんの人がいて、夕日の入りを待っている。7時12分に太陽が沈むまで人々は茜色の夕日に目をこらしていた。静かに語り合い、一人で眺め、写真を撮ったりとさまざまであった。その場はワクワク感に満ちていたように思えた。

ところが太陽が北山の影に隠れてしまうと、潮が引くように人々は引き上げていく。実はそれからが面白いのに残念だ。微細なグラデーションで湖畔の空は彩られ、刻々と茜色の夕焼けは移ろい、空のブルーが次第に濃くなっていく。日の入りから15分ほどすると、針のように細長い月が見えてきた。二日前の新月の日に大仕事を終えたあの月である。その隣には宵の明星たる金星が煌々と輝いた。

(コメント)
昨日の帰宅時、本当に針のように細い月を、私も眺めていました。2日前の朝のあの丸い黒い影が、今見ているこの月と同じものだったのだと思うと、なんだか不思議な気がしました。
作成者 ゴルフィー : 2012/5/25 (金) 12:56

そうそう「なんだか不思議」です。月も星も太陽も、不変のようでいて、実は刻々と変わっていくのですね。無常なる宇宙、人間の無常さにもつながります。
作成者 不未 : 2012/5/25 (金) 22:26
ソラカクに爽やかに風が吹く夕べ [2012年05月23日(Wed)]

__tn_20120523192454.jpg朝から初夏を思わせる陽気。職場近くまで来ると警察官が交通整理をしていた。そばにはボランティアとして年配の壮年が緑色のジャンパーを着て立っていた。わたしは「おはようございます」と挨拶した。彼は当惑気味にぼそっとつぶやいて返した。当番としてイヤイヤ立っているという風情が感じられる。彼の受け身の姿勢では、今日一日を楽しんでいくことはむずかしかろうと思った。

その十秒後、新鮮で爽快なエネルギーを感じた。自転車に颯爽と乗った知り合いがわたしに声をかけてくれたのだ。しかも枕にわたしの名前を載せて、軽快で明るい挨拶だ。

彼女に幸多かれと願う。わたしが願わなくともイキイキと清新な息吹きを周りに振りまきながら、彼女は価値ある一日を過ごしたことであろう。上機嫌こそ最高のクスリである。多少の憂鬱はニッコリ笑顔と張りのある声で涼風のごとく周囲と自分を変えていくことができる。

写真は島根県農業技術センターが開発した新型の紫陽花。名前はまだない。菱形の花びらが中央から均等に三枚、外側に相似形でひと回り大きな三枚が間をつなげる。さらに外にはまた三枚が。120度へだたった角い青空の色の花弁が放射状に60度ずつズレながらキレイに円周を作っていく形だ。

わたしは名付けて『スカイダイヤモンド』。もしくは日本的に『空にカク』、略して『ソラカク』。澄んだスカイブルーと美しい相似形で、見るひとを爽やかな気分にしていくにちがいない。淡いピンクのがあるとすれば『ムーンダイヤモンド』。日本名を『月よカク』、『ツキカク』。柔らかな色合いの月と角の取り合わせだ。まんざら悪くないと自画自賛。
天空の世界一なり技術の粋 [2012年05月22日(Tue)]

__tn_20120522214529.jpg高さ634メートル。武蔵(むさし)の国名にちなんだ世界一の電波塔、東京スカイツリーが開業した。あいにくの天気。昨日の東京は曇りの予報をくつがえし金環日食を見ることができたが、一転して今日は世界一の高さからのパノラマビューを楽しむことはできなかった模様である。悪天候だけでなく強風もあり展望台へ上るエレベータの運転が停止されたとのこと。

それでも新しい名所は人々の歓声に湧いたことだろう。単に電波塔というだけでなく、巨大な商業施設「東京スカイツリータウン」とセットで、墨田区ほか下町を押上の地名のとおり押し上げていくことになる。

BSプレミアムで設計・建設技術者たちの奮闘ぶりを観た。総重量4万1千トンを支える「そり」と「むくり」の構造。丈夫な基礎を造り強固な新柱で強固な耐震設計とし、3万7千本の鉄骨をミリ単位に接続する技術。さらに共振を抑える強風対策など、日本がもつ土木建築技術の粋を集めたものがスカイツリーなのだ。

地元では年間800億円を超える経済効果が見込まれる一方で、犯罪の増加が懸念されている。防犯カメラが新たに66台も設置されたとか。ゴミのポイ捨て、夜中の奇声や集団示威行為、立ち小便。道路の混雑もあり、交通事故や違法駐車など下町の暮らしが脅かされるというマイナス面にも対応していかなければならない。

ともあれ、わたしも早く眺めたい。
青い空にそびえるスカイツリーを下から眺め回し、
夕日を浴びて高層ビル群を圧する遠景のツリーを、
目に焼き付けに東京へ行きたい。
日は欠けて天下万端気をひそむ [2012年05月21日(Mon)]

__tn_20120521082758.jpg子供の頃、誰が一番長く太陽を直視できるかという競争を何度かやったことがある。あれが遠因でわたしは眼鏡をかけることになったのかもしれない。

世紀の天体ショーは終わった。出雲の天気は幸いに晴れ。雲に太陽が隠されることはなく、6時18分の欠け始めから9割方部分蝕がすすむ7時29分、再び元に戻るときまで完全な天気に恵まれた。風はなく、日食グラスで観測するにも快適だった。完璧でないのは金環食でなかったことだけだが、木漏れ日が三日月型にキラキラするのを見て満足した。アニメで描かれる三日月。不自然なほど湾曲した月の端。あれは日蝕のときの形なのだなあ、となぜか納得した。得難い体験だった。

空気感が違う。太陽は高い位置にあるのに、日が昇ったばかりのような明るさ。どことなく清らかで澄んだ雰囲気が辺りに満ちる。鳥のさえずりがふだんと違うと思ったのは錯覚だろうか。

今朝は多くの人が、二度とこないこの一瞬を大切に思ったであろう。世紀の天体ショー、特に金環日食が見られた地域の人たちには格別な時間であったと思う。この時間だけが特別なものではない。すべて時間は一方向、未来に流れ過去に戻ることはない。すべての人にとって二度と経験できない貴重なひとときだ。

太陽と月の実際の大きさが400対1、地球・太陽間の距離が月間の距離に比べて400倍。地球も月も楕円軌道をえがくことでできる微妙なズレ。それらの偶然で現れる今回の金環日食。その不思議さに心打たれ、時間を大切にしたいと思った。

太陽がいつもの姿を取り戻し明るくなった。いつもの日常が始まる。
砂と水はかなき材料それ魅力 [2012年05月20日(Sun)]

20120520223356.jpg鳥取砂丘にある砂の美術館で『砂で世界旅行〜イギリス/語り継がれる大英帝国の繁栄と王室の誇り』を見てきた。この四月半ばに恒久的な展示施設としてオープンしたところだが、青空展示から始まってすでに丸6年。今回5期目の展示となって多くの人がリピーターとなっていることと思う。

正面奥上には壮麗なウェストミンスター宮殿。ビッグベンや国会議事堂が堂々とそびえている。すぐ下にはエリザベス一世。16世紀に絶対王政を確立し世界の覇権をスペインから奪取。パックス・ブリタニカの基礎を築いた。その周囲の家来たちがその性格まで表現するように描かれており感心した。

大航海時代の帆船や街のにぎわい。軍事力をバックに世界を股にかけて商人たちは活躍し儲けた。シェークスピアの文学、特に戯曲は全世界に広まり、ロミオやジュリエット、ハムレットを今や知らない者はいない。

万有引力の法則と進化論でもって、ニュートンとダーウィンは革命的に科学を進歩させた。19世紀の産業革命はエネルギー革命であり、人が働くということの革命であった。一方で児童の虐待的過重労働といった負の歴史もある。

建物類ではウィンザー城、大英博物館、バッキンガム宮殿、タワーブリッジ、ロンドン塔などがあり、精緻な砂使い(砂削り?)に驚く。雨の多いロンドンで傘を片手にタクシーを待つ群像の中にさりげなくハリーポッターを潜ませていたのは驚きだった。その隣はハーマイーニーだろう。ロンはどこへ? バッキンガムで警備を行う衛兵のパレードも旗や毛皮帽の質感がなんともすばらしい。

≪その姿を/永遠に留める事が/出来ない、/そんな儚さが/砂像の大きな/魅力なのです。≫

入口にある案内掲示板にはこうに書いてあった。そのとおりだと思う。砂像と同様に人間にも永遠はない。何事も限りがあり全ては転変する。刻々と変わり限りがあるからこそ、輝いていく。終わりがあるからこそ、今を得難い時として大切に慈しむことができる。
荒野には偉大な七人戦って [2012年05月19日(Sat)]

__tn_20120519214226.jpg映画『荒野の七人』を観た。『七人の侍』を西部劇へ置き換えたものだと思っていたが、大枠がなぞられているだけで意外なほど展開は違うことがわかった。原題は『The magnificent seven』。偉大なる七人、崇高な強き人たちという感じか。武士道精神を体現した侍の語のイメージをなぞる。

「侍」では報酬が目当てでなく善意で百姓の窮状を助けたいと彼ら侍は考えた。「荒野」では20ドルと少額だが賞金報償金が目的だった。後で皆が善意に目覚めるが…。天下無双のガンマンが見せる銃やナイフさばきには胸がすく。

「侍」では7人は初対面だったが、「荒野」は初めからクリスと縁がある。盗賊ガンマン集団は40人。したたかであり、農民を懐柔したり、仲間割れを起こさす知恵もある。最終的には盗賊は全滅するが、定住し作物を産する農民、そして銃の扱いは一流だが無産のガンマンとは住む世界が違うことを示して物語は終わる。

目がものをいう。特にリーダーのクリス(ユル・ブリンナー)、ショーン・コネリー、スティーブ・マックイーンの演技が、ニヒルでかつ恩情もあり深みがある目をしている。髭のないチャールズ・ブロンソンもカッコいい。

「侍」は激しく降るウェットな雨が印象深い。一方で「荒野」は乾いた砂塵がドライに舞う。気候の乾湿だけでなく、物語の乾湿にも、銃と刀という武器の乾湿にもつながっている。さらに日米の文化差を象徴しているのかもしれない。
感傷に春夜のおぼろほのぼのと [2012年05月18日(Fri)]

__tn_20120518223413.jpg蘇軾の有名な詩『春夜』。

春宵一刻値千金 しゅんしょういっこく あたいせんきん
花有清香月有陰 はなにせいこうあり つきにかげあり
歌管楼台声寂寂 かかんろうだい こえせきせき
鞦韆院落夜沈沈 しゅうせんいんらく よるちんちん


春の夜はふけていく。友と過ごす時間は貴重だ。値は千金。なにものにも代えがたい。
花の季節、通りは甘い匂いに満ちる。夕暮れの道も酔いざましの道も満腔に春が充逸す。来週は月が太陽に陰をつくる。
語り語り合い、歌うように。威勢はよくとも一抹の寂しいさ。
鞦韆(ブランコ)は落ちつ上がりつ、渡世の日々は暗くなるころ陰鬱となる。

はや五月も下旬。楽しいことも悲しいことも感傷に過ぎていく。今夜は山陰本線、置き石でダイヤが乱れた模様。
ゴビウスにボラの口パク恋を知り [2012年05月17日(Thu)]

__tn_20120517183853.jpg松江や出雲にはハート印のパワースポットがたくさんある。女性が二人連れで探索したり写真に納める光景を見かけることがある。

@島根県立美術館の外にある宍道湖ウサギ。湖岸から2番目のウサギをやさしく触る。
@京店商店街中の小路にあるハートが浮き彫りになった石畳を踏む。
@その近くに埋め込まれているピンクのハートを探す。
@カラコロ工房の中庭にあるピンクポストで写真を撮る。
@松江城内の柱にあるハート型の木模様。
@松江レイクラインバスで縁結びシートでカップルへ秘密のプレゼントがある。
@松江フォーゲルパークのハート型花の門の下には幸せの椅子がある。
@来待ストーンにある石のタヌキ「真実の口」に手を入れる。
@宍道湖上のはくちょう号で縁結びの鐘を鳴らす。
@鏡の池で恋愛占い恋愛を占う八重垣神社。
@縁結びの本家本元。遷宮準備中の出雲大社。

@宍道湖自然館ゴビウス。ジオラマ水槽には『ボラの口はハート型』と張り紙がしてあり、ボラが口を開けて歓迎してくれる。餌を求めて集まってくるだけだが横っ面についた目は愛らしい。口をパクつくときはハート型になる。

ボラに向かって願えば恋が実るだろうか? かなうかもしれないし、かなわないかもしれない。いずれにせよ百聞は一見にしかず。写真ではいいショットは撮れないので、実物を見て無理やりにでもそんな気分になるに限る。ボラの口はハートが逆向きだ。逆境の恋になるだろうか。それはわからない。逆向きでも逆風が吹いてもものともせず、知恵と力で相手のハートを正すのがよいだろう。
誉めるとは他はみな師なりと認めれば [2012年05月16日(Wed)]

__tn_20120516061606.jpg(一般社団法人)日本ほめる達人協会という団体がある。協会では『ほめ達』という言葉が将来辞書に載せられることを目指している。お世辞ではなく、目の前にある人や物、サービスがもっている良い価値を発見できる人、ほめることの素晴らしさを伝える達人のことを「ほめ達」と。

ほめ達人のスリーSは次の3つの言葉。簡潔だ。すべてに感嘆符「!」がポイントだろう。

  すごい!
  さすが!
  素晴らしい!

相手の行いや結果によっては誉められない場合はある。その際相手の間違いを示しながらも相手を元気にする言葉があるという。それは【惜しい】である。さあ明日から、いや今日から、笑顔とともにほめ達になろうではないか。

写真は出雲おろち大根の花。島根大学で開発された新種。ヤマタノオロチのように辛い。とくにオロチて食べると劇的に辛くオロチが火を噴きそうになる。そばの薬味としてぴったり。首から下が分かれ、太いひげ根が何十本と広がる様子も八岐大蛇を連想させる。
寒暖がなんだかんだと駈け足に [2012年05月15日(Tue)]

__tn_20120515184705.jpg春は駈け足で過ぎていく。つつじの盛りが終わると、山の中腹で照り輝く木が目立つ。シイやカシなどの照葉樹である。萌え出ずる春の光色と言おうか。近くにスダジイを眺めると、細長い髭のような花があの輝きの元であることがわかる。

匂いがする。濃厚な初夏の匂いだ。髭の花はむせかえる匂いを辺りに撒き散らす。甘い匂いだ。濃いみどりの匂い。タケノコを収穫したときの春の匂い。春だ、わが世と喜ぶシイやカシの匂いだ。

松江城を散策してみれば満開のなんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)。離れてみると淡い花の香り。広げた木の花は温かい雪の小山のようで、薄暗くなっても光を放つ。

今日は雨が降った、久方ぶりに。今の時期の雨は濡れたアスファルトから春の匂いが立ちのぼる。薄暗い空に春の匂いはふさわしい。今日は暖かい。明日は? 寒暖が交互にやってくる。

(写真は松江城のなんじゃもんじゃの花)
いざという危機の間際を考えて [2012年05月14日(Mon)]

__tn_20120514231435.jpg福山のビジネス兼ラブホテルの火災では7人が死亡した。一酸化炭素中毒だとみられる。火災報知器や避難経路に不備があるばかりか、窓を内側からベニア板でふさいでいる部屋もあったという。消防や市の建築当局の再三にわたる是正指導にも応じていなかった模様。不運にも犠牲になった方々に追悼の意を表したい。

ところで私はホテルや旅館に泊まるときには、非常口からフロントや外へ出てみることにしている。いざというときの避難経路を確認する意味もあるが、非常口や非常階段をどのように扱っているかを見ると、経営者の質がわかるような気がするからである。

そもそも非常口に出るためのドアが開かないところは論外だ。単なる一重の鍵がかかっているだけであっても、緊急のパニック時にはドアを開けられないこともあろうから。踊り場がリネン類や掃除用具の置き場となっていたり、立錐の余地がないほど洗濯物の干し場として使われている場合もある。とんでもないことだ。階段の途中にあれやこれやと道具類を置いているところもあるが、非難の際に障壁になることを考えていない証拠だ。

豪華な感じのエントランスやフロント、共有部分をもっているホテルであっても、非常口に目がゆき届いていないところがある。反対に客室の調度品や内装は質素であっても、非常経路が整えられているホテルには信頼をおくことができる。いざという時は来てほしくないものだけれども、生きている限りはどこかに危機はやってくるのだ。

実践はできていないが、レストランやホール、スーパーなど人が多く集まる場所に入ったときには、いざというときの逃げ道をあらかじめ予測しておけるようにしたら、なおよいと思うのだが現実は難しい。
大海にことばを渡る胸躍る [2012年05月13日(Sun)]

20120513132937.jpg三浦しをん著『舟を編む』(光文社,2011年/2012年本屋大賞第1位)を読んだ。想像上のものだが、玄武書房刊『大渡海』が欲しくなってきた。

主格が移動していく。最初は定年退職間近の荒木公平の目。日本語の泰斗たる松本先生から、不世出の辞書編集者とたたえられた男であり、退職後も嘱託社員として編纂に力を尽くした。荒木は語る。≪ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために≫、私たちは≪海を渡るにふさわしい舟を編む≫と。

次に玄武書房の辞書編集部に配属になったばかりの馬締(まじめ)光也の目。二十代後半で風変わりな男だが、類いまれな言語感覚をもちあわせていた。性格は木訥だが、一世一代のラブレターで料理人・林香具矢の心を射貫いた。

続いて、会社が辞書部門の業務縮小をもくろむ中で辞書編集部から宣伝広告部に異動せざるを得なくなった西岡正志の目。意外にも自分は辞書編纂が好きだったことに気がつき、馬締とまだ見ぬ担当者のために、軽薄だが役に立つ詳細な引継書を残した。

それから十数年後、「大渡海」の編纂は馬締が少しずつ進めはしていたが、この大事業は社を挙げて取り組まなければ完成しない。他の仕事でそれなりの利益をもたらしていた辞書編集部には新人が配置された。それが岸辺みどりである。始めはなじめなかった彼女も、次第に辞書の魅力に取りつかれていく。

辞書を編むひとたちを象徴するような言葉がある。岸辺はこう思った。

≪人間関係がうまくいくか不安で、辞書をちゃんと編纂できるのか不安で、だからこそ必死であがく。言葉ではなかなか伝わらない、通じあえないことに焦れて、だけど結局は、心を映した不器用な言葉を、勇気をもって差しだすしかない。相手が受け止めてくれるよう願って。言葉にまつわる不安と希望を実感するからこそ、言葉がいっぱい詰まった辞書を、まじめさんは熱心に作ろうとしているんじゃないだろうか。≫

最後は「大渡海」編纂の最終局面で見せたリーダーシップや獅子奮迅の戦いを進める馬締光也の目で再び描かれた。

≪なにかを生みだすためには、言葉がいる。岸辺はふと、はるか昔に地球上を覆っていたという、生命が誕生するまえの海を想像した。混沌とし、ただ蠢(うごめ)くばかりだった濃厚な液体を。ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。愛も、心も。言葉によって象(かたど)られ、昏(くら)い海から浮かびあがってくる。≫

じんわりと温かくなるこの小説。言葉の海は深く広い。辞書編纂の仕事だけではなく、言葉を使うすべての人間はこの本を読むと、言葉を大切にしたいと思えるようになるはずだ。
五輪にはギリシャのひかり集めてEU [2012年05月12日(Sat)]

__tn_20120512223146.jpg先日ギリシャでオリンピック聖火の採火式があった。選りすぐられた美形の女性たちが(横顔の線はハリウッドライン)、古代ギリシャの巫女の装束でもって太陽光線を集めた。ロンドン五輪がもうじき始まる。

ギリシャ総選挙後で与党が破れてのちの連立交渉は頓挫しそうであり、再び財政緊縮策支持か、反緊縮かで総選挙が戦われそうな気配が濃厚となっている。 ギリシャ国民がどんな選択をするかによって、ギリシャはユーロ圏から離脱する可能性がある。離脱せず、ユーロ圏に残る選択はできるのか。ギリシャ国民はこれ以上引き締められて生活が苦しくなるのはゴメンだと言っている。一方でEUからは巨額の資金援助を受けてきたし、これからも受けなければやっていけそうにない。ギリシャがユーロ圏から抜けてしまうと、ユーロの信用が暴落しヨーロッパ全体が地盤沈下してしまうかもしれない。当分は駆け引きが続きそうな公算である。

昨日ギリシャの失業率が過去最高の21.7%となったと報じられた。若い世代にいたっては5割を超えているという惨状である。確かに失業が当たり前という状況は尋常ではない。国民皆が苦しい思いをしているのはEUがギリシャをイジメるからだと、ギリシャの人々は考えて今回の投票結果をもたらしたのだろうか。あの美女たちはどこに投票したのだろう。
ミッションに水もしたたる男に女 [2012年05月11日(Fri)]

20120511224638.jpg私たちのミッションは、秩序や安全を維持しつつ水産資源の枯渇を防ぎ漁業栽培を行うなどの方法で資源を保持し、島根の水産業を振興させることである。さらに漁業者から流通事業者、販売事業者をへて消費者に届けられる海産物や加工品を安心して食べてもらえる環境をつくることである。

別な言葉でいえば、漁業者や水産事業者を介して、日本海の幸を思い、島根の漁村がよりよい地域を作り、地場産の水産物でもって日本の明日を創造するお手伝いを間接的に行う集団とでも言えるかもしれない。

しまねの水産業を普及し漁業調整を行う立場の面々が一同に会し、今日は会議を行った。事務方は直接水産振興にたずさわることはないにしても、面々が的確でかつルールに則って業務を行えるよう財政や人事、庶務の分野から補佐することになる。

会議の後は会費制でささやかな懇親会。自己紹介も併せ、それぞれが思いの丈を披露しあう貴重な体験となった。過去を振り返りつつも未来を語る姿、新採2年目の思いを語りもっと勉強せねばと決意をする姿、体調が悪かった同僚を思いやり今は回復したその様子を喜ぶ姿、明日には底引き網漁船に乗り込んで実地体験と調査をしてくると武者震いする姿などなど。

全員と話をする時間は残念ながらなかったが、いい会合であった。ほのぼのと楽しみ、あちこちに笑いの輪が広がり、話を酒の肴にして、弾む談笑のひとときを皆が過ごすことができた。外に出ると思いのほか風が冷たかった。上着のボタンをとめた。だが胸の内は暖かだった。
苦闘して自分を探すか幸みつけるか [2012年05月10日(Thu)]

1336028569247.jpg「自分探し」という言葉が以前ほど氾濫しなくなってきた。自分の適正や才能、好みを見いだし自身を認識し、まずは最も自分にあった職に就こうというときに使われる。高じてしまうと「今は自分らしさが出せていない」「もっと私の才能を生かせる場があるはず」とないものねだりをしてしまって、現実逃避(具体的にいえば、転職を繰り返したり、無職状態に甘んじる)になりがちだ。そのマイナス部分に多くの人が気がついたのか、それとも話題とならないほど当たり前の概念となってしまったのか。

「自分探し」というのと「ルーツを探る」というのとは違う。「ルーツ」は自分が生まれ育った地域環境や家庭の真実、さらには先祖の歩いて来た道を客観的に見つけ出そうとするものである。綿密に調べれば調べるほど「ルーツ」は明らかになる。しかし、「自分探し」はたいていは成功しない。人間が一人で行動し、根無し状態で考える限り、自分らしさは見えてこない。自分の立ち位置はここだ、と覚悟を決めてそこを起点に他人との関係性のなかで自分を広げ深めていってはじめて、才能も開花していくからだ。

≪「いまの仕事では自分がいかされない」とか「もっと本来の自分に正直に生きたい」とか、そんなことで「自分探し」に走るのは、それこそ物事がうまくいかないときの言いわけであることが多い。自分なんてどれほどのものでもないんだというところから、若いモンは走りださなくっちゃ。≫
 (天野祐吉「CM天気図」朝日新聞2012.4.18付け)

「若いモン」だけではない。中年も老年も、どこか今の場とは違うところに幸せがあると考えているうちは、永久に幸せはめぐってこない。愚痴だらけの毎日だ。もちろん今の場で分相応に満足せよという意味ではない。現実の場で苦闘しつつ、楽しみを見いだすことから幸せが始まることを忘れまい。
美しくなれよなれよと手を入れて [2012年05月09日(Wed)]

__tn_20120509193233.jpg百田尚樹著『モンスター』を読んだ。美しいことは素晴らしい。しかし美しいことは悲しい。「私」は何を整形したのだろう。絶世の美女であることは幸せな人生につながるのかと著者は問題提起しているように思えた。

「私」は謎めいて他を寄せつけない美しさをもつと同時に、高貴さも知性も可愛らしさも醸し出す。眉目秀麗、明眸皓歯、容姿端麗を絵に描いたような「私」(そんな美女を筆者も一度は見てみたい)。新装開店したプチ高級レストランのマダムとして人口4万の町の人たちの注目を集める。いったい何が目的なのか。

教師玉井の美人論がおもしろい。「美人レース」は現代資本主義社会において消費競争に参加させるための目論見。多様な美人観がでてきた豊かな時代の趨勢では美人の価値が高まったことを論じた。

美容における定説を知ることもできた。
■エステティックライン(Eライン)。横から見て、鼻の先端から顎の先端のラインに唇が接して一直線になるラインである。さらに唇が内側にあるのが最上級のハリウッドライン
■日本人が美しく見えるバランス
 ・目/目尻から目頭までの長さを1とすると、左右の目の間は1.2
 ・鼻の位置/鼻根部が目の中心ライン

実は「私」はこの町の出身ではあるが、もとはブルドッグと呼ばれて嫌われた。度重なる美容整形で顔を作ったのである。二重まぶたから始めて、目、鼻、口、歯、顎と手を入れる、体も鍛える。物語は、美しくなって以降とそれ以前を交互に対比しながら、今の「私」の視点で際だって美しいとはどんなことかを語る。

≪私はこれからいろんな男に選ばれる。多くの男が私の美しさに惹かれ、近づいてくる。嬉しい、嬉しい、嬉しい!≫
≪地位も名誉もある男たちがたとえひとときではあっても私に夢中になるということが、どれほど素晴らしいことか! この快感は何物にも代えがたい。美しさを賛美され、崇められ、熱烈に恋されることは、女として生まれた至高の歓びだ≫

アブラハム・マズローが唱えた欲求五段階説。美女が人々から賞賛を受けて喜ぶのは、第四段階・自我の欲求であるが、「私」は最終段階の自己実現の欲求にまでそれを高め、それを究極の目的として完璧を目指した(これはわたしの感想)。均整のとれたプロポーション、いつまでもきめ細かく衰えぬ肌を武器にして美を追求した。

クライマックスで私・美帆は、過去の私・和子にもどり、英介に愛されたいと願う。捨てたはずの醜い和子のアイデンティティはやはり残っていたのである。そこに「私」の苦しみが新たに生じた。別人になることは困難であることを、「私」は証明したのだろうと筆者は思う。心と体と顔は一元化していたほうが、長い幸せにつながることを。

だが、「私」の価値観は、老いて美しさを失っておばあちゃんになったら幸せは存在せず、美こそすべてであったのだ。だから壮絶な結末は、「私」にふさわしい幸せのあり方だったのだろう。
物語世界の果てもものがたる [2012年05月08日(Tue)]

__tn_20120508192728.jpg≪これは思いのほか役に立つと感ずるのは、やはり小説であろう。しかも徹底的に無責任な、夢物語であればあるほど有益であると思える。
 つまり、想像力の開拓である。われわれを囲繞する現実は、見たままの真実というひとつしかないのだが、幸い人間には想像力という卓越した能力があって、そこに他の動物には許されぬ「希望」を見出すことができる。すなわち想像力の多寡は、人間の幸不幸そのものである。
 小説はその大切な想像力を、われらのうちに知らず培ってくれる。具体的な強制力のある映像とちがって、言葉という不可視の媒体を依代(よりしろ)としていればこそ、読者な自由な想像をめぐらし、十人十色の異なった感動を獲得する。それが小説のもたらす福音である。≫
   (浅田次郎著『ありがたきかな』「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい/2011年,文藝春秋」に収録)

長い引用になったが、近ごろ小説や児童文学といった物語を読むことが以前より増えた。先日上の文章に出会った。今の気持ちにピタリと当てはまっている。

「想像力の開拓」 忘れがちで、ないがしろにしがちなものだ。映像ばかり眺めているような毎日にあって、強制ではなく自由に自在に思いをめぐらすことのできる物語読みには力がある。ハウツーものでは具体的すぎる。マンガは映像そのものだ。映画もよいが、製作者に左右される度合いが高い。

詩や俳句も含めて言葉を大切にし、自分の頭で言葉をつむぎ、映像がないぶん想像の限りに頭を使っていかなければならないと感じる。「小説のもたらす福音」を味わい尽くさずして人生に楽しみはない、とまでは言いきれないが、物語の世界を楽しんでいる。
充電にスマホはスマートならざれど [2012年05月07日(Mon)]

__tn_20120507072708.jpg株式会社マクロミルとインモビジャパン株式会社が共同で「旅行・レジャーにおけるスマートフォン利用調査」を実施した。対象はもちろんスマートフォンの利用者で、10代から50代以上までの500人をサンプルとした。

「旅行・レジャーでスマートフォンはどのように使うか?」という質問に対して(複数可)。
 写真撮影・加工/78% 観光情報/62% グルメ情報/60% 宿泊施設情報/57%
 音楽・ラジオ/47% GPSで店探し/44% ゲーム/40% SNS投稿/37% 交通情報/29%

旅行中は「スマホを介したネットサイトの利用が増える」と回答したのが74%、「長時間移動の暇つぶしになる」が88%、「渋滞のイライラが減った」のが60%にのぼる。交通情報によって渋滞を避けてイライラが減るのはいいことだ。さすが、スマホと言いたいところだが、電池の容量が少ないことが玉に瑕である。充電できる場所を探して右往左往する姿が見えそうな気がする。

私も先日ドコモのスマートフォンに換えた。ずっしりと手に重くコンピュータという感じがする。従来のケータイに比べまだ慣れないとはいえ、操作性はよくネットに簡単につながるところは便利ではある。しかし電池のもちが悪いことは欠点だ。使い続ければ一日、いや半日しかもたない。従来の三分の一である。料金が高くなることも含めて悩みのタネが増えることになった。
不幸せ運ぶ人なりああキャリー [2012年05月06日(Sun)]

__tn_20120506210625.jpg学園ものホラー映画『キャリー』を観た。最後のシーンで顔が蒼白になったような気がする。怖かったが近頃のホラーと違って、母との相克、いじめと裏切りを通して人間の残酷なさまをえぐり出すように描く名作である。

極めつけのキリスト教原理主義の母に育てられてきたキャリー。常に抑圧されつつ育った彼女と母との物語であり、母離れをする儀式のそのときに全ての悲劇が起こった。

母は殉教してイエスのように死に、キャリーはサイコキネシス(超能力)を完成させ、卒業パーティーで多くの学友が死に(キャリーにとって極めつけの裏切り者)、キャリーの幸せを願った唯一の友はPTSDで苦しみ、キャリーの家は崩れ焼け落ちた。

帰宅して家中がろうそくの炎に満たされたのを見たキャリーはどう思ったのだろう。あれは母がキャリーを悪魔と信じ悪魔祓いを完成させたものだ。キャリーは誰も味方になってくれないことに絶望し孤立無援に戦った。結果があの大量殺人となったのだと思う。

キャリーを守っていたはずの体育教師は変節したのか。キャリーにはモザイク状に見えた群衆のなかで女教師はへらへら笑っていた。キャリーを心配するのではなく、バケツが落ちた事故で気を失ったボーイフレンドのことしか気にかけてはいなかった。どこで変わったのか、それともキャリーは皆を呪うなかで、いっしょくたになってしまったのかはわからない。サイコなキャリーは血をかぶるとパニックに陥るからだ。

こんなとき、もう一度観たいと思う。画面の隅々まで目を配って観たい。一度目には見えなかったことがわかるだろう。キャリー(carrier)とは運搬者とか、病原菌のキャリアの意味がある。彼女のファミリーネームはホワイト。純で白無垢のようだったキャリーは、裏切りと冷酷さにさらされることよって、酷くも赤い血と不幸せを運ぶ人となってしまった。ああ可哀想なキャリー。
塗り込めて腐臭はまんざら悪くなき [2012年05月05日(Sat)]

__tn_20120505225943.jpg昨日行った日展でも静物画があった。静物画の魅力ってなんだろうと考えたことがあったが、よくわからなかった。次の文にはその回答の一部があるような気がする。

≪静物画って、造形的には静止しているんだけれど、そこには死に向かう時間が塗り込められている。だから、そこから屍臭がしてくるのは当然なんです。(中略)
 青々としたりんごみたいなものは原理的に静物画には描けないんです。描いているうちに必ず腐っていくから、どこかで取り替えられている。目の前で腐っているものを描いているわけだから、造形的には「青々としたりんご」であっても、何かが腐敗して、崩壊している感じがそこには透けて見える。(内田)≫
 (「現代人の祈り」内田樹+釈徹宗+名越康文,サンガ新書,2011年)

写真は一瞬のその時間を切り取る。静物画に限らず、絵画は「時間を塗り込め」ているのだ。時間は百人百様のものだから、画家なりの時間がキャンバスには塗られている。テクニックの違いだけではないのだなと思う。日本画も油絵も、彫刻も蒔絵も膨大な時間を費やして作家はそこに塗り込める。小説家が本を上梓したり、連載を続けるのも同じことだ。作家にとっても主人公にとっても、さらに読者にとっても貴重な時間がたっぷり塗り込められている。
人混みに美術の粋を集めてよし [2012年05月04日(Fri)]

1336028576531.jpg日展の松江展に行ってきた。島根県立美術館で大々的に行われており、会場は人混みで賑わいをみせていた。まずは日本画から。

『黒川能(杜若)』能島和明氏■緑系と赤系の色が画面いっぱい多彩に使ってあり、能の仕手を中央にして周囲を情念の嵐が吹き荒れているようにも見える。松明のように大きな蝋燭、白足袋までも色に染まるほどの情念の高まり。しかも絵全体が静謐感に満ちている。

『朝の霧』鈴木竹柏氏■桜と新緑、針葉樹が配されている(たぶん)。霧に満たされた谷間の風景だろうか。朝の陽光が雨上がりの木々にかかって、幻影に溶け込んだような日本の春。

『徭光』中路融人氏■水は美しい。静かに、夕景か?朝か?太陽は画面の外にあり、反射光が静かな水面にきらめく。杭のようなものが水から出ている。洪水が襲ったあとのように思えてならない。

『暁雲』福本達雄氏■仙人の目だ。雲に乗り朝焼けに染まる低層雲と霧雲を見る。雲の下には人間界か?それとも動物植物のみの世界か?

『春』三谷青子氏■埴輪の目をもつ三つ編みの女の子。麦わら帽子には虹色の花飾り。白いドレスに白い大編みのショール。手にはピンクの薔薇一輪。落葉松林の上には春の空、雲。彩雨雲となって三ヵ所に色染めがある。全体は春の暮色に染まる。桜が満開になるのも見える。

洋画の部にうつると展示場は格段に華やかさを増す。

『朝英』桐生照子氏●南欧の漁港だろうか。明るい黄、茶色、赤と、華やかさな彩りにワクワクしてくる。夕景のようにも思えるが、石英のように輝く朝の煌めきなのだという表題だ。

『それでも大地は甦る』伊勢崎勝人氏●静物が被災地の残骸や瓦礫、未だ燃える煙をバックに描かれている。作者は宮城県の方。

絵はおもしろい。自由に自在に眺めていけばよい。
旅に出て旅情にひたり出会うたび [2012年05月03日(Thu)]

1336028556852.jpg旅には楽しいこともある。旅には面倒なこともある。旅には警戒することもある。旅には得難い経験がある。旅には不運も幸運もある。むろん日常にも同じことはいえるが、非日常である旅で経験したことは深く心に刻まれる。

≪環境や自分の立ち位置を自分の力で変えるのが難しくなっている。そんな閉塞感を感じたら、旅に出よう。未知の人に会い、新しい自分に出会おう≫
  (小林禮子「旅と本」Skyword2012年5月号)

≪列車の旅はロマンチックである。
 飛行機は速すぎる。車は緊張感を伴う。旅情にひたるのであれば、やはり旅は列車に限る。
 車窓に移ろいゆく風景を見ながらぼんやりと夢想し、それにも倦(う)んじ果てれば書物を読む。≫
  (浅田次郎「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい」2011年,文藝春秋)

先日は横浜、仙台への旅に行って帰ったばかりだ。ゆったりとした列車旅ではなかった。飛行機で、東北新幹線はやて号で速い旅ではあった。日常に戻った今また旅をしてみたくなった。旅には不思議な魅力がある。

(コメント)
おつかれさまでした。
ゆっくりと旅してみたくなった。

【急ぐ】谷川俊太郎
こんなに急いでいいのだろうか
田植えする人々の上を
時速200キロで通りすぎ
私には彼らの手が見えない
心を思いやる暇がない
この速度は早すぎて間が抜けている
苦しみも怒りも不公平も絶望も
すべて流れてゆく風景
こんなに急いでいいのだろうか
私の体は速達小包
私の心は消印された切手
しかもなお間にあわない
急いでも急いでも間にあわない

この詩のように毎日がまたたく間に流れ去っていくんだよね。「今日」という二度と返ってこない日付のスタンプが心に押されて一生を多忙のうちに終わってしまうのはもったいないことかも・・・。ゆっくりと歩めば、田植えする手も見ることが出来るね。鈍行列車で「間」をもつことにしょう。
作成者 好司 : 2012/5/4 (金) 00:00

鈍行には毎日乗っていますが、それは通勤のもの。長くたっぷりと考える旅がしたいですね。確かに毎日急ぎ過ぎていますね
作成者 腐美 : 2012/5/6 (日) 08:22
似ていても呪いと祈り正反対 [2012年05月02日(Wed)]

20120502230504.jpg(加藤の乱は失敗したが一日10万件もの応援メールがきて)≪ネットには世論のマグマがあふれているよう見えましたが、「永田町」とはほとんど関係がなかったのです。(中略)
 私が一番問題だと思ったのは、自分の中に鬱屈する不満のはけ口として匿名でネットを使うケースです。そこからは何も生まれない。政治に使ってはいけないと思いました。≫ (加藤紘一「双方向で本音を聞きたい」朝日新聞4.27付け)

かつては黙っているしか手のなかった人が、ネットのおかげで今や自由に言説に参加する。ところが匿名での発信は恐ろしい。だんだんとエスカレートして人や地域を小馬鹿にして傍若無人となる。たとえば、「島根県って必要ないよな」という呪いのテーマで2ちゃんねるは盛り上がる(抜粋/鳥取と島根の区別がついてない発言も)。

  >島根にパソコンなんてあるわけない
  >取鳥県は無くなっても半年くらい誰にも気づかれない
  >兵庫県の隣ですとか地味に関西寄りアピールしてる奴がいたときは盛大に笑ったw
  >地元に残ってる若者は働き口もロクにないしマジヤバいよな パチンコとセックスしかやることねえのかってくらいヤバい
  >うんww けど廃れても構わんと原住民も思ってるから、どうもならんよね
  >韓国にあげようぜ 反対する奴はネトウヨ
  >どっちが最底辺なの 
  >というか何も無いような県が島根馬鹿にしてたり 売国県が島根馬鹿にしてるの見ると失笑しかでないわw

まさに呪いの言葉のオンパレードである。漢和辞典によれば、呪うは口+兄で大きい頭の人。祝うも元は同じ意味で、人が神前で長く尾を引く祝詞(のりと)を唱えること。祝うの「示」は祭壇の意なのだそうだ。

≪社会的正義の実現は不正からの受益者を血祭りに上げることであるという思考(というより思考停止)は、今の日本にあまりに広く瀰漫(びまん)しています。(中略)
 ネット上に氾濫している攻撃的な言説のほとんどは僕の目には「呪い」に見えます。言葉によって、その言葉を向けられた人々の自由を奪い、活力を損ない、生命力を減殺することを目的としているのであれいば、その言葉はどれほど現代的な意匠をまとっていても、古代的な「呪詛」と機能は少しも変わらない。われわれは今深々の「呪いの時代」に踏み込んでいる。このことの恐ろしさにほとんどの人々はまだ気づいていない。≫
 (内田樹×釈徹宗『現代人の祈り』2011年,サンガ新書)

クレーマーと言われる人も、不機嫌をあからさまに周囲にぶつける人も呪いの毒素をまき散らす。「呪いの時代」にあって、人を呪わば穴二つにならないように気をつけなければならない。呪いに対し呪詛で応えることは自身が墓穴を掘ることになる。
山は燃えクールな春よ深緑 [2012年05月01日(Tue)]

20120501221236.jpg今日から5月・皐月。
各地でクールビズが始まった。
それに合わせたかのように気温が上がる。
仙台で歩き回ると暑く感じた。
東京へ移動するとムッとするような熱気があった。
出雲縁結び空港では生暖かい空気がただよっていた。
数日あけていただけなのに春から夏へ、季節がとって替わったようだ。
新緑が急激に濃くなった山はこんもりと盛り上がってきている。
一方で去ったばかりの仙台では急に気温が下がったという。
ケヤキ並木が新緑に萌えるまでにはあと1週間はかかるだろう。
季節は行きつ戻りつ進んでいく。
体調を崩さないようにしなければ。
縁ある多くの人にも健康でいてほしい。

(青葉城趾に咲くスミレの花)