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快と楽貫きとおせ嘘ならば [2012年03月31日(Sat)]

20120331144310.jpgビリー・ワイルダー監督の『情婦』(今やワープロでは変換されない死語。原題はWitness for the Prosecution=訴訟の証人)は一流のミステリー法廷映画だ。二者択一のせめぎ合いにドキドキし、どんでん返しにアッと驚く。エンドロールのテロップで「まだ観ていないお客様のために結末を言わないで」と流れる。50年以上も前の映画だが、監督に敬意を表してネタバレにならないように書こうと思う。

やり手検事と老弁護士とのせめぎ合い。
心臓発作で闘病中の老弁護士と口うるさい看護婦とのせめぎ合い。
状況証拠から殺人犯にされた男と追及激しい検事とのせめぎ合い。
無実の罪を着せられた夫とその夫の罪を真っ向から認める証言を始める妻(マレーネ・ディートリッヒ)とのせめぎ合い。
場末の巣窟のようなバーで進駐アメリカ兵相手に商売するドイツ人の女と一兵士とのせめぎ合い。
古い情婦と新しい情婦とのせめぎ合い。
腑に落ちない勝利に首を傾げる弁護士と夫妻とのせめぎ合い。。。。。

人間どうしの緊張感に満ちたせめぎ合いがスクリーンを埋めていた。白黒にもかかわらず。

実はわたしもせめぎ合っていた。眠気とである。映画館に入って席に深く腰掛けたときの期待感に併せて押し寄せる安堵感。わかる人にはわかってもらえると思う。しかもわたしは焦っていた。間に合わないのではないかと心配しながらハンドルを握っていた。ギリギリ駆け込んで座ったら眠くなってきた。弁護士と被告人とのやりとりが同じ場面でもって長々と続いたものだから、ふと気がつくと裁判が始まるところだったのは残念だ。被告人とドイツ人の妻が面会したであろうシーンを見逃した。

それはいつものご愛嬌として、婦人を殺したのか無罪か、婦人から遺産分割を受けられるのを知っていたか否か、愛しているか否か、ゆきずりの遊びか真剣な恋か、演技か実際か、善か悪か、嫌悪感をもっているか否か、貫くか見破るか、信じるか信じないか、策をろうするか正攻法か、、、、様々な二者択一が人間模様の機微にのせられて、ウイットを交えた丁々発止のやりとりを楽しむことができた。眠ったのは何分だろう。もったいないことをした。
見てみてとわたしは今やここにいる [2012年03月30日(Fri)]

20120330222126.jpgわたしは今ここにいる 春が主張し暖かに
梅が咲いたよ咲きほこり 去る三月を惜しむかな
思いもかけぬ出会いあり なじんだ人との別れあり
ひとたび語りはじめれば いくつも思い出浮かびくる
拍手で去る人送りだし ふっと芽生える寂しいこころ
道ゆく人は華やかに 送別会への道すがら
甘さも酸いも味わって 未来の鼓動感じゆく
繰り返されて別れと出会い 歳をとるほど寂しさが
それでも出会いは楽しくて
新たな生活始まって さあさ4月だ新年度
軍人は人気商売そのむかし [2012年03月29日(Thu)]

20120329213612.jpg数か月に一度マスコミ各社が世論調査を行う。そのたびに内閣支持率が話題になり、内閣の命運を占う。20パーセントを切ると死に体だとは言われるところだ。政治が人気商売となったのは戦後のことだと思っていたが、この本を読むとそうでもないと思わせられる。

≪昭和天皇がべつに好戦的だったわけではなく、むしろ軍部の暴走にハラハラしていたらしいにもかかわらず、二・二六事件(1936年)のときと敗戦の決定のとき以外、それを言明できなかったばかりか、公式にはつねに、軍部のその暴走の結果を公認し、名誉ある忠勇なる行為として保証するような態度をなぜとりつづけなければならなかったか、ということである。制度上、立場上、そうする以外になかったととりあえず納得しているが、じつは別の説明も可能かもしれない。
 軍はじつは国民に非常に人気があったのだ。軍はそのことを十分に意識しており、だからこそ大いに強気であることができ、政治家の抵抗も天皇の意向もたいして意に介することなく暴走できたのではないか。天皇もそのことはよく知っていて、軍部を抑えたらクーデターを起こす可能性があるし、国民は自分よりむしろ彼らを支持するかもしれないと怖れていたのではないか。日中戦争が始まった一九三七年に小学校に入学して、戦争の時代を少年期に経験した私の実感ではそう思える。≫
 (佐藤忠男『映画の真実』中公新書,2001年)

この文章には文献による論証はされていないが、確かにありそうだと思える説得力がある。日清戦争でかつては頭が上がらなかった中国に勝ち、日露戦争では世界の一等国ロシアを負かし、朝鮮や台湾を手中におさめ、15年戦争初期には中国に連戦連勝、太平洋では初期だけだったとはいえ破竹の勢いで国民の誇りを呼び覚ました。

その当事者たる「軍人さん」に人気が集まらないわけはない。農村漁村部の次男三男坊にとっても出世の可能性を平等に与えられる存在として、軍隊の価値は高かったであろう。軍事力をもち有無を言わせぬ圧力で軍人が迫ってくれば、だれもが震えあがったろうし、天皇とてやむを得ずという気持ちになったのにちがいない。
積んどいて出会う本あり至福かな [2012年03月28日(Wed)]

20120328222358.jpg長らく積ん読状態にあって開きもしなかった本を読みにかかったとき、その本がとてもためになり楽しいことに気がついたときのことを、この筆者は述べる。

≪こんなに面白いものを、どうして今まで読まなかったのか。―以前ならそう思ったものだったが、今は少しちがっている。食べごろというものがあるように、人それぞれにとっての読みどきというものがあり、自分にとっては、この本の読みどきが今だったのか…。≫
  (今江祥智「読むこと―読みどき」2012年3月27日付け日本海新聞)

確かにそうかもしれない。積ん読ではなかったが私にとって、「赤毛のアン」も「小公子」、「小公女」もそんな存在なのかもしれない。きのう読み終わった『キーワード3つでわかる民法』(荘司雅彦著,朝日新聞出版,2012年)もそうだ。学生時代にこれだけズバッとわかりやすく説明された概説書に出会っていたら、法律を勉強することが苦にならなかったかもしれない。あの頃は難しいことを難しく、わかりにくいことを複雑に書くことが一種の権威である時代であった。むろん私の理解力がいたらないということもある。ともかく難しかった。地図なしに細かい道順を説明されているようで、いつも五里霧中。全体像が見えなくて頭が沸騰しそうだった。

この「―民法」の第1章は「民法のトリセツ」ときた。敷居の高い民法のトリセツ? このくらい軽いタッチで気分も軽く民法に向かうことがかつてできていたらなあ、とタラレバを言っても今さらしようがない。権利の主体は人と法人(プラス代理人や代表者)。権利の客体は動産と不動産、債権、金銭。権利関係が生じるもとになるのは契約、事務管理、不当利得、不法行為。というふうに全体の骨格を示す。

勉強していたころは、リーガルマインドを獲得しようといって、条文や学説、判例を難しげに駆使しなければならないと考えていたものだが、この本を読むと、生じてしまった損害をどちらに負担させたほうが公平か、多様な価値観をもった人どうしの不満をいかに最小限の方法で解決するか、というのがそれであることがよくわかる。

ともあれ、限られた時間、しかも膨大な著作物やネット情報。いいものを選んで読んでいきたいものだ。
人生の色や苦渋を取り戻せ [2012年03月27日(Tue)]

20120327061003.jpg不安な11歳、主人公ジョーナスは12歳を迎える節目で、特別な「記憶を受け継ぐ者」に指名される。養育係、道路清掃係、環境美化係、食事配達係、インストラクター、法務部長、労働係、エンジニア、アナウンス係、整備係などいろいろな職業がある中で、彼だけがそれに指名された。他の12歳たちは、性格や実績を考慮して「コミュニティ」から一般の職業を与えられる。

『ザ・ギバー記憶を伝える者』(ロイス・ローリー著掛川恭子訳)を読んだ。この世界で、彼らは必要か否かという基準でのみ生きることを許され、しかも反骨の気持ちは持たないように生かされている。12歳の儀式で長老はこう演説した。

≪あなたがた<十一歳>は、生まれてからこれまでの年月、適応することを、行動を標準化することを、グループ内でめだちたいという衝動を抑制することを、学んできました。しかし、本日ここであなたがたの個人差をみとめることにいたします。あなたがたの将来が決定されたのです≫

「記憶を受け継ぐ者」に託されるのは「全世界の記憶」である。「コミュニティ」に関する基礎情報は物語では与えられていない。ともあれジョーナスの教育をする年取った「記憶を伝える者」が述懐するとおり、≪ここでの暮らしは整然と組織化され、つぎにどうなるかわかりきっている――なんの悩みもない。そういうものをみずから選びとったのだ≫と危険はない代わりに面白みはこの世界にはない。

ひとは苦痛を感じることはなく、飢えることもない。もちろん戦争だってない。その代わりに選択の自由は認められず、なにか苦労して爽快な体験をすることもない。風を切ったり、雨に濡れたり、雪がしんしんと降るようすを感じることもできない。そもそも、雪や雨は降らないし移動に非効率な坂はないし日差しもない。色もなく、おそらく匂いもないのに違いない。ただそれらはイメージの中にしかなく、しかも「記憶を受けつぐ者」だけに密やかに伝承されて蓄積されていく記憶なのである。彼らは危険な記憶だと考えているのだ。

なんとつまらない世界だろうか。しかし、それが当たり前の彼らは諄々とシステムに従っておとなしく暮らす。あらゆることが分担・分業化され、効率化を徹底的に推し進め、完全なリスク管理のもと人々はひたすら安全に暮らす。性の衝動に翻弄されることもない代わりに、「出産母」が提供する赤ちゃんを配給されて「家族ユニット」が形成される。つまり実の両親も祖父母もいない。疑似家族のなかで穏やかに暮らしはしても、儀式的に日々を繰り返す毎日、何ごともないことが幸福だと感じるように飼い慣らされている。

愛という概念はなく、音楽も知らない世界など生きるに値しようか。太古の記憶は隠され、経験を大きく制限され、知覚可能な感覚も限られる社会。苦しみや悲しみを極力なくそうとすることは、醤油のない刺身、塩を入れないお汁粉のように味気なく底が浅い。

記憶を受け継ぐ者・ジョーナスと年老いた「記憶を伝える者」は、こんな社会を変えようと行動を始めた。さあ、その結末やいかに。残念ながら続きは描かれないが、コミュニティを離れて新世界を目指すジョーナスが、色のついた光や遠い彼方から聞こえてきた音楽を聞いたところで、この逃避行を描く旅は終わる。

わたしたち人類が当たり前にもっている感情や感覚、希望や欲望、醜さや崇高さ。純粋培養したものは清らかさにはほど遠いが、彼ら人類はかつての人類と同様に生き生きした人生を取り戻すことができるだろうか。
やわらかく朝はさんさん雪のあと [2012年03月26日(Mon)]

20120326231012.jpg昨夜のうちに雪が降り
朝はさんさん日が照って
屋根から雪解け滝のよう
晴れた曇った晴れてまた
雪が突然荒れ出して
ミゾレがざんざん地をたたく
あれよという間に雪は溶け
晴れ間出でれば暖かに
犀星詠う「ふるさと」を
雪あたたかくとけにけり/しとしとしとと融けゆけり/ひとりつつしみふかく/やはらかく/木の芽に息をふきかけり/もえよ/木の芽のうすみどり/もえよ/木の芽のうすみどり
木の芽はやわく木の芽は白く
春の芽吹きは始まって
春の花咲くぞんぞんと
夕方空は天気にと
三日月 下に木星と上に金星従えて
もひとつ伸ばせば上には昴
オリオン棍棒振り上げて
子犬と大犬を引き連れて
向かう先には東の獅子座
赤い火星が獅子の心臓強そうだ
北斗 の柄杓立って垂直
向かう軸には北極星
いつでも北を指ししめす
必ず冬は終わってね
きっと春はとそこにある
家族にはなったいく末あり続け [2012年03月25日(Sun)]

20120325134221.jpg先日福山雅治のヒットソング『家族になろうよ』(作詞作曲とも:福山)をカラオケで歌った。難しい歌だが、メロディも歌詞もいい。

家族とは何か。結婚すると家族が新しくでき、出産や養子縁組で構成員が増えると家族はつくり直される、すなわち家族に「なる」ものであるが、いったん家族になってしまえば死や勘当も含めた縁切りによって構成員がいなくなるまで家族であり続けるのが普通だ。しかし家族とはある面、家族「になる」努力を続けなければ家族「である」ことは難しいと思う。

福山は『家族に―』でこう歌う。

  どれほど深く信じ合っても
  わからないこともあるでしょう
  その孤独と寄り添い生きることが
  「愛する」ということかもしれないから

この歌は近ごろの結婚披露宴定番ソングとなっていることでわかるとおり、結婚という「になる」ことを配偶者の一方から相手方へ(性別は不明)、捧げ決意を表明する内容だ。だが、わからないことの孤独と寄り添いつつ愛するとは意味深だ。「である」に終着点はない。「になる」というわかりあう相互交流なくしては家族は破綻する。世間の耳目を驚かす事件には、「である」ことが破綻した家族がよく登場する。「になった」あとも「になり続ける」ことを放棄した途端に、「である」ことは難しいのである。

  一歩ずつ 与えられる人から
  与える人へ かわってゆけたなら
  (中略)
  あなたとなら 生きてゆける
  しあわせになろうよ

こんな福山の詩のとおりに生きていきたい。
統合し幸せ編んで八日目の蝉 [2012年03月24日(Sat)]

20120324193222.jpg角田光代原作の映画『八日目の蝉』を観た。2011年度の日本アカデミー賞をはじめ、日本映画賞22冠という快挙を達成した映画である。

自分とはなに? 自分はどんなひと? というアイデンティティに関する問いをふだん発することはない。だが、この物語では幼いころの誘拐体験が元となって、アイデンティティを引き裂かれてしまった若い恵理菜(井上真央)が苦しみの末に、それを統合していく過程を丁寧に描いている。

生まれたばかりの恵理菜は父の不倫相手である希和子(永作博美)によって誘拐略取され、3歳まで関西や小豆島で逃亡生活をおくる。小豆島の祭りで希和子と薫(恵理菜ではなく薫として育てた)は偶然にも全国紙の被写体になってしまい、島からの脱出をしようとした矢先に希和子は逮捕された。その後、恵理菜に戻ったものの、いったん引き裂かれてしまった実母との関係は不安定なまま、恵理菜は大学生となっていた。そこに登場するライターと称する女に連れられて逃亡の来し方をたどる。このライターが小池栄子。いい感じだった。

逃亡生活の長いエピソード。縁ある人びとに見守られての足取りを長々と追う。ここでの主演は永作。それと交差させて恵理菜の今を追う。その主演は井上。両主演女優がいい味を出す。薫の子役で新人賞をとった渡邊このみが深い目をしていたのが印象的だ。

不実な浮気の当事者・父はいつまでも頼りないまま、恋人ともつかない男も無責任で逃げてばかりだ。恵理菜は自身、男はもちろん人との距離感をつかめないこと、母や父を実の家族として実感できないこと、その他いろいろな不幸の原因が希和子に誘拐されたことにあると信じており、見も知らぬ(記憶の底に沈んだ)誘拐犯を憎んでいた。そして自分には楽しんだり喜んだり行事を祝ったりしたよき思い出は幼いころから何もないと感じていた。それも犯人に原因があると。

しかし、小豆島で記憶が蘇った。希和子が逮捕され、薫が「母」と引き離された現場である船着き場で記憶がまざまざと蘇った。さらに近くの写真店で二人で撮った写真を店主に見せられて記憶の細かいひだが表れ、犯人ではなく「母」の細やかで深い愛情を思い出した。心に染みこんでいたものが現像されてあぶり出されるようにして蘇ったのである。

彼女はそれまで、幼い過去のあの頃自分は確かに生きていたはずなのにすっぽり無為の時間となっている、憎しみだけを感じる過去を振り返ることなど意味がないと考えていた。しかし、そこにたくさんの愛情があふれていたことに気がついたのである。そのことは同時に、薫と恵理菜という二つに引き裂かれていたアイデンティティが統合されたのであり、育ての母と実の母両方への思いがあふれだしてきたのだ。そしてもう一人の母親、お腹には赤ちゃんがいる自分自身という三人目の母親にも思いをはせてエンドロールとなった。
沈丁花しとしと降るよ雨の日に [2012年03月23日(Fri)]

20120323225543.jpg待ちに待ったわけではないが
毎日のように通勤途中に目をかけていた沈丁花が咲いた
もう寒くもない雨の中
シャキッと咲いている
鼻を近づけて匂うとレモングラスのような感じ
小手毬状に外を向いたたくさんの小さな蕾が
濃い赤紫の殻を破って薄赤紫の花が飛び出した
黄砂で霞んだ日には
山が笑い出す
芽吹いた枝を集めて遠くから見れば
ほんわかと薄茶に染まり
少しばかりこんもりと盛り上がっているようだ
鳥がさえずる
雲雀が鳴き始めた
鶯の初鳴きも聞いた
渡り鳥は北帰行を始めている
三月ももうあと一週間で終わる
年度の終わりと始めのこのころ
生命の息吹が芽を出してくる
顔を出していく
よしよし春だぞ
暮らしとは生きる中核反戦の [2012年03月22日(Thu)]

20120322202440.jpg『「暮しの手帖」花森安治の世界』を先日島根県立美術館で観覧した。暮しの手帖というのは読んだことがない。けれどここまで徹底したこだわりの作業をしらない。その基礎となったのが、花森のこの思想である。

≪本をつくるなら、二度と戦争をしない世の中にしていくための本をつくりたい。今度の戦争にだれもがなだれをうっていったのは、一人ひとりが自分のくらしを大切にしていなかったからだ≫

1946年にスタイルブックを創刊。48年に「美しい暮しの手帖」と刷新し、第22号からは「暮しの手帖」と改めた。美しいというのは編集サイドからのものの見方であり、読者それぞれが自分の目と感性を信じて生活をつくってほしいと、花森は信じていたにちがいない。

暮しの手帖には広告を掲載しない。花森は、≪せっかく編集者が苦労した企画も原稿も写真も、無遠慮にズカズカと土足でふみこんでくる広告のために、台なしになってしまっている≫と考えていたからだった。暮しの手帖は、読者と編集者、装丁者の全部が関わって暮らしを創造していくものだという考えがあったのだと思う。

花森はすべてを賭けて創造した。表紙は生前の153号全部を手がけ、日常用具、家具、家、家並み、風景、写真、顔、群像、デッサンなど多種多様な表紙で読者を魅了した。題字も挿絵も自分で書いた。エッセイまでも。旧制松江高等学校を卒業し、奥さんも松江の才媛をめとった縁から一畑百貨店の包装紙デザインも手がけた。すごい感性である。おそろしいまでの手仕事の人である。花森はこう述べる。

≪ほんとに美しいものを見わける感覚をやしなうためには、できるだけ数多くの美しいものに実際に触れるより外には方法がない≫
≪どんないい構想なり主張なり思想なりがアタマの中にあっても、それを表現する技術がなければ、あってもまずかったら、これは意味のない話である≫

なにごとかを感受するのは感性のなせる技。漠然と感じたなにごとかを感覚として呼び覚まし、言葉に近いものにしていくのも感性か。さらに言語化し、彫像や音や絵のかたちに紡ぐのも感性に裏付けられた手や体の仕事である。花森は天才だ。しかしその才能にもこう言わしめる。

   美しいものは、いつの世でも
   お金やヒマとは関係がない
   みがかれた感覚と、
   まいにちの暮しへの、しっかりした眼と、
   そして絶えず努力する手だけが、
   一番美しいものを、いつも作り上げる
海広し陣取りゲーム狭き門 [2012年03月21日(Wed)]

20120321222815.jpg陣地取りゲームを思い出させてくれる。大きな四角を空き地に書く。角にそれぞれが陣地を取り、親指の先をコンパスの支点にして角の内側に扇形を描く。そこがあらかじめ与えられた陣地だ。手が大きいほど初発の陣地は広くて、幼い私には不公平で気にくわなかった。

指で小石を弾いて直線でつなげて、3回で扇の内側に石が入れば陣地が広がる。うまくいかないと次の順番を待つ。広げて広げて大きな四角を取り切って面積が広い者が勝ちとなる。

囲碁の初心者講習を思い出す。どうしたら石を取れるのか。中央ならば周囲に4個石が必要。辺ならば3個ですみ、隅だったら2個で石を取れる。いってみれば、海を周囲にたくさん持っていれば有利となるのだ。

日本は周りすべてが海。韓国、北朝鮮は中国と国境を接し、思うにまかせない。中国は海岸線は長いもののロシアやベトナムとも国境問題があり、自由に魚を取れない。不自由で不便だからこそ尖閣諸島に乗り出して、日本に圧力をかけているのだ。韓国も竹島の利権を必死に確保しようと血道をあげている。両国とも傍目で見ればみっともないほどの破廉恥行為である。

かといって、冷静に話し合いをしようと言っているうちに、実効的な支配権をふるわれては日本は立つ瀬がない。とかく領土問題は難しい。酔った頭でそんなことを考えている。
監察が鑑札だして観察を [2012年03月20日(Tue)]

20120320221913.jpg警察官の不祥事がたびたび報道される。近ごろ報道されたものだけでもいくつもある。

・強盗強姦事件の証拠品だったタバコの吸い殻が紛失したため、路上で別の吸い殻を拾って証拠とした事件【大阪】
・バイクでパトロール中に民家に侵入して女性の下着を盗もうとして逮捕された事件【岡山】
・拳銃保管庫で管理すべき拳銃を署内の個人ロッカーに保管していたため訓戒を受けた事象【長崎】
・平成22年に3人の署員が盗撮や窃盗事件などを起こしていたにもかかわらず隠蔽し、一身上の都合として依願退職させていたという不祥事【静岡】
・落とし物として届けられた現金計168万円を盗んだとして逮捕された事件【東京】
・飲酒検問でアルコール数値を捏造した事件【大阪】

2011年に懲戒処分を受けた警察官と警察職員は367人だそうだ。これでも前年より減少したとのこと。現行犯で逮捕されるケースもあるが、監察官の監査で判明するケースがけっこうある模様だ。警察の監察制度は2000年に開始されており、警察庁組織令でもって各警察本部に首席監察官以下、監察官が設置されている。内部の不祥事を警察内部の組織が摘発し事件化しているという点で、十分評価できると私は思う。

≪企業の不祥事、重大な事故。それらが起きた後には、問題を傍観してきた関係者が、しばしば非難される▼だが、そうした報道に接して「けしからん」と怒るだけでは生産的とはいえない。「見て見ぬふり」は、人間に本来備わる特質から来ており、その意味で、自分自身の問題だからだ▼「選択的知覚」という言葉がある。人間は、情報をそのまま受け取るのではなく、自身の信条・関心・経験に添うものだけを都合よく選択して認識する。「見たくない」ものは「見えない」のだ。あらゆる組織が馴れ合い、先送り、事なかれ主義と無縁でない理由がここにある▼問題はあるが、取りあえず組織は動いている。問題を指摘すると孤立するかもしれないし、人間関係など、自分の生活にストレスがかかる。そ うして重大な問題も見過ごされ、限界点で“破裂”するわけだ≫
  (「名字の言」12年1月27日付け聖教新聞)

「選択的知覚」とは確かにそのとおりだ。目の前で起こった出来事であって見ていたはずなのに、頭には残っていないことがよくある。自分の興味がないことは、存在していなかったことと同じなのだ。その程度ならまだよい。不祥事が地下深く潜るときには、「めんどうだから」「嫌な表情をされたくないから」といった程度の理由であっても、自分を納得させてなかったことのように扱ってしまうことが、選択的知覚なのであろう。警察の観察制度は、内部でありながら外部の目で批判的に見ていくという態度は大切なことだと教えてくれる。
小糠雨水玉湛え牡丹の芽 [2012年03月19日(Mon)]

20120319214922.jpg松江市八束町、中海に浮かぶ大根島。朝鮮人参と牡丹の栽培で有名な島だ。そこに由志園というよく手入れされた回遊式の日本庭園がある。牡丹と池を中心に配し、種々の花と木々が美しい。花の王と言われる牡丹。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と凛として美しい女性を形容する言葉があるとおり、「王」には違和感がある。風格ただよう「女王」と言えるのではないだろうか。

『牡丹コラボレーション假屋崎省吾展』に行ってきた。ヤマタノオロチと牡丹の組み合わせで展示されている。この7月に古事記編纂1300年神話の国しまねイベントが始まる前哨として、コラボレーションとする意味もあろうかと思う。目を見張る大輪の花、一株から咲く花数の多さに惹かれる。ひと花ごとに匂ってみればやさしい香り、花によって微妙に違う。群舞するように咲き乱れる室内に入ると、隠秘な匂いと強烈な存在感がただよってくる。まるで男女が絡みあっているような淫靡な気配。

天井には八岐大蛇。実際に神楽で使われた大蛇が7体。牡丹と流水、他の艶やかな花を絡めながら絢爛豪華に仕上がっている。流木は鮮やかな原色に染め上げて組み、色は7色。ずばり大蛇の炎だろうか。スサノオとクシナダヒメのロマンスもイメージしていることと思う。鮮烈な假屋崎ワールドにたっぷりと浸った。

牡丹は卑猥に見える。何十にも折り重なる花びら。数え切れないほどの花のヒダ。深紅、赤紫、桃色、淡いピンク、白、レモン色、白と紫のまだらなど多くの色合い。蕾の微妙な曲線。無数のおしべに取り付いた黄色い花粉。奥にあるめしべの存在感。おとなしく手を前に伸べて艶やかな肌合いの葉っぱ。葉には霧雨を丸く乗せて水玉。今寒い時期に所狭しと咲かせる幻惑の技術。奇異な外見と仕草をもち、おねえ言葉でしゃべるあの假屋崎氏を思い浮かべるとますます不可思議だ。

倒錯的、情欲的、官能的、情欲、偏執、媚態、艶美、嬌態、小悪魔的、色香、可愛げ、エレガント、送る秋波・・・・・。華のある牡丹には匂い立つエロスや艶を感じる。むんむんと色っぽい言葉をふんだんに使ってみたくなるほどのムードを濃厚に醸し出す。幻惑される空気に悩殺されて外へ出ると、落ち着いた日本庭園のたたずまいに正気となる。霧雨が降りしっとりとした静寂感。興奮と泰然がバランスよく同じ空間に同居しているのがなんとも不思議。一見(一感か?)の価値あり。お奨めする。
湖畔にて美術散策豊かなる [2012年03月18日(Sun)]

20120318173824.jpg山陰中央新報で島根県立美術館の蔦谷学芸グループ課長はこのように述べる(『心の豊かさを育む一助に』3月17日付け「談論風発」)。

≪美術を楽しむということは、何と豊かなことでしょう。目の前の美術作品から、それを生み出した作家の個性に触れ、その作家の生きた時代を思い、その背後に広がる風土を感じ、私たち個人の感性を越えて、さらに時代や地域を越えて、実体験のできない道の感覚を感得する。それは言葉にならずとも、その手触りや色や形から、一瞬にして、そこに封じこめられた異空間に誘われる。美術を見る楽しみの一つではないでしょうか≫

旅行クチコミサイト・トリップアドバイザーが、投稿された口コミ評価をもとにして「行ってよかった美術館&博物館ランキング2011」を発表している(昨年11月)。2010年10月から2011年9月に投稿された国内の美術館・博物館に対する口コミに関して、5段階評価の平均や口コミの投稿数などをもとに独自のアルゴリズムで分析したものだそうだ。全国には五千を超える美術館などが点在しているが、実際に訪れたユーザーの満足度を指標化したものとなっている。

美術館のトップ10は次のとおり。

1位 大塚国際美術館(徳島) 2位 安曇野ちひろ美術館(長野) 3位 三鷹の森ジブリ美術館(東京) 4位 信濃美術館(長野) 5位 青森県立美術館 6位 東京都現代美術館 7位 熊本市現代美術館 8位 国立西洋美術館(東京) 9位 国立新美術館(東京) 10位 大原美術館(岡山)

なんと12位には島根県立美術館がランクインしているのだ。景勝地宍道湖の湖畔にあり、絶景といわれる夕景を眺めることができ、冬季以外の閉館は日の入りから30分後と乙な配慮。予算は潤沢ではないものの工夫あふれる展示で入館者をうならせる。

心地よいロビーで本読みしてもよし。イタリアレストランで気軽なランチを楽しむもよし。大人お一人さまで家族連れで恋人どうしで豊かな時間を過ごすもよし。わずか数センチの積雪でも巨大な屋根からずり落ちた雪がうず高く積もったのを見て驚くもよし。湖畔のうさぎオブジェクトの2番目に恋愛成就を祈るのもよし。いい美術館である。
苦戦して新たな動きを模索して [2012年03月17日(Sat)]

20120317220217.jpg人材開発メールニュースのワンポイント・アドバイスで吉次潤氏は次のようにいう。

≪苦戦している企業(組織)では、指標を変えずにさらに細かく分析しようとする傾向があります。苦戦している現場ほど、市場の切り口が少なくかつ固定化しています。例えば、新規−既存という指標だけで市場を見ていると、いつも営業会議で出てくる発言は、「新規は難しい」「既存は伸びない」というお決まりの話題だったりします。切り口が固定観念?となり、それ以上の対策が出ないケースも多いのではないでしょうか。
 むしろ、これまでの指標は思い切って捨て、「新規−既存で市場を語るのは禁止」と宿題を出すと、結構面白い回答(アイデア)が出てくることもあります。それが、新たな営業展開につながるケースもあります。≫

そのとおりだと思う。民間だろうが、行政体であろうと、半官半民組織であっても、どんな業種であろうとも、過去の成功体験に裏打ちされてしまうと、旧態依然としたやり方を貫いてしまいがちである。初志貫徹という言い方をすれば立派であるが、猪突猛進・視野狭窄に陥ってしまい坂道を転がり落ちる。市場や意識が変化していることを感じつつも、過去の成長期にやっていたやり方を踏襲することを繰り返しジリ貧となる。

やがて組織構成員は上部からのノルマの重さに悲鳴を上げ、必死にがんばっている面々にも疲れがみえてしまうとやがて組織はガタガタになる。管理者がさらにハッパをかけ、さらに目標を高めようものなら組織的な謀反やサボタージュが起きてしまう可能性がある。戦意喪失の悪循環がもっとも怖ろしいことだ。今の日本にはそんな組織が増えているのかもしれない。イノベーションが必要なのだ。
カラカラと破顔爆笑うら返り [2012年03月16日(Fri)]

20120316201321.jpgエッセイ集『ツチヤの口車』(土屋賢二著,文春文庫,2008年)は危険な本だ。決して読んではいけない。わたしの警告にもかかわらず内容を知りたいひとのために、そのわけを説明しておこう。

数ページごとに完結するこのエッセイを通勤電車に乗って読んだならば、数分ごとに必ずぷっーと吹き出す。ケラケラと笑い声を抑えきれずに肩を揺らして笑うことになる。ニタッと笑う程度ではすまないのだ。周囲の乗客からは絶対に不審の目で見られる。車掌に通報されて、「お医者さまがいらっしゃいましたら至急○○号車までお願いします。できましたら精神科の医師を・・・」と放送されてしまうだろう。救急車を呼ばれたらもっと大変なことになる。マスクで隠しても効はない。5枚重ねて口には厚いガーゼをかぶせても無理だろう。肩が大きく揺れて隠せない。

家に帰って読んだならば、これも危険だ。ヘラヘラ、ガハハと一人笑いころげれば頭がおかしくなったとして、あるいは家族をかえりみないとして十分な離婚原因となる。そんな悲劇に巻き込まれたくなかったら、この本を絶対に読んではいけない。

≪【問】何となく自信がもてません。どうしたらいいでしょうか。

【答】何となく自信がない状態は非常に悪い状態です。それより悪いといったら、自信満々の状態しかありません。万一、自信満々の状態になったら大変です。手遅れにならないうちに、一日も早く「完全に自信がない」と自信をもって言えるようになりたいものです。そもそもふつうに生活していたら、とっくの昔に能力、容姿、判断力、人間関係、どれをとっても完全に自信を失っているはずです。人間として十年以上生きているのに自信を失わない人は、もう打つ手はありません。≫

ふつう笑いは「ズレる」ことにより起こる。そのズレがひっくり返るほど大きくて、しかも論理的な文章なものだから、たまらず大笑いという具合なのだ。ともかく破顔一笑ならぬ破顔万笑、抱腹絶倒の連続で窮地におちいることになるのは間違いない。いっそのこと、知り合いの国会議員と県議会議員、市議会議員ぜんぶに働きかけて、市長や知事や首相にもツテをたよって働きかけて、この本を禁書にしてもらおうと思う。

そういえば、この本は島根県立図書館から借りているんだった。貸出停止になる前にアマゾンで買っておくことにしよっと。
ああたいへん今やチャンスだここを掘れ [2012年03月15日(Thu)]

20120315182055.jpgたいへんたいへん ああ大変
大変はたいへんだ
とってもとっても大変だ
大きな障害 行く手をはばむ
あんなに順調よかったが
突然変わり ああ大変
大変は「大きく」「変わる」と書くのだぞ
変われる大きなチャンス来た
前を向いて歩こうよ
上を向いたら春の空
青が目に染む 楽しみよ
ほら見えてくる青い空
白い雲が浮いている
椿に山茶花 冬の花
白梅紅梅 クロッカス
花屋に黄色いチューリップ
春だ春だと楽しかろ
大変大変 大きく変わろ
妖艶で人を狂わす桜かな [2012年03月14日(Wed)]

20120314074621.jpg今日も桜の話題を。花見は、江戸時代・享保の頃に将軍吉宗が各地に桜を植えさせて庶民に奨励したことをきっかけに一大行楽となったと聞く。まだ寒い時季だから酒を飲んで暖まろうとする、大声で歌う、議論する。やがて乱痴気騒ぎが起きる。そうしたことから今でも満開の桜はひとを狂わす妖気があるとも言われる。ひとを狂わせるのは酒のせいばかりではなさそうだ。

坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読んだ。満開の桜の下は怖ろしく気が変になることがモチーフとなっている。怪力無双の山賊が夢のように美しい女を略奪し妻とした(むろん夫を殺した上で)。女に望まれるままに他人の財と命を奪いつづける。多くの生首コレクションを並べて、女は首遊びを楽しむという怖ろしい物語である。

≪目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。けれども男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分からぬのです。女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。
 なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。アア、そうだ、あれだ。気がつくと彼はびっくりしました。桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。≫

≪どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、森のまんなかに近づくと怖ろしさに盲滅法たまらなくなる≫という山賊の気分、大昔のひとが共有していたかもしれない気持ちがどことなく分かるような気がしてきた。花冷えの風が肌を刺すときはもちろん、風がなくしんしんと花が舞い散るときも、どこか穏やかではいられない。それは春が来たという喜びだけではないのだ。満開の桜花には魔力がある。そのときが、あと三週間ほどでやってくる。
有限に生命のひかり幽玄よ [2012年03月13日(Tue)]

20120313204423.jpg脳科学者の茂木健一郎氏は、「夕日を見ると何ともいえない気分になり癒されるのはなぜか」という質問に答える(第三文明2012年4月号「茂木健一郎の人生問答/大樹のように」)。

≪それが見られる時間が限られている、ということがあるかもしれません。(中略)西にかかって、赤く染まってきたと思ったら、みるみるうちに姿を変えていって、やがて地平線に落ちていってしまう。
 私たちは、ある限られた時だけに存在する何ものかを見ると、そこに「生命」そのものの姿を見ます。(中略)時間というものは、すべての人に平等に経っていきます。誰でも、やがて老いて、死ぬ時が来ます。生命の本質は、「変化」。夕日を見て癒されるのは、そこに私たちの命の似姿を見るからでしょう≫

命は有限。私の命も限りがある。限りあるものがその限界ゆえに今ある姿を最大限に輝かそうとつとめている。それは命を削っていく作業でもあるのだ。そこに美が生まれ、活力が満ち、ひとに勇気を与える。映画『TIME』で主人公が、25歳で老いが止まり無限に近い安穏な生活を保障された身分を脱し、有限を意識して行動したときに大きく飛躍した。それと同じことなのかもしれない。

茂木氏はさらに桜花についても言及する。私たちが桜に美と幽玄さを感じるのは、こういうことだったんだと思う。もうすぐ桜の季節。今年は寒すぎて咲くのが少々遅いから、余計に楽しみの度合いが増してくる。

≪春になって桜が咲くのを見ると胸がいっぱいになるのも、そこに私たちの生命と同質の何かを感じるからです。つぼみがふくらみ、やがてほころびる。満開になった時には、すでに散り始めています。桜の花の盛りは短い。だからこそ、私たちはそこにかけがえのない生命の鏡を見るのです≫
爛漫の凱歌をうたえその時を [2012年03月12日(Mon)]

20120312225721.jpg関満博氏(明星大教授・一橋大名誉教授)は震災復興と豊かさについて語る。

≪今後、日本が社会的・経済的な行き詰まりを打開していくとすれば、その象徴が東北の地域産業の復興であると考えます。また、東北が震災から立ち直ることを通じて、社会の行き詰まりに日本全体が気づかされていくことになると信じます。(中略)
 そもそも、豊かさとは何でしょう。それは本質的には数値で計れるものではありません。本当の豊かさとは、人々が将来に向けて「希望」を持ち続けていることではないかと、私は考えます。その希望とは、人々と喜びを分かち合いながら自分という存在の意味を確認していけるということです。
 東北の地には、その豊かさがそなわっています。後に続く若い人材も育っています。東北の復興こそが日本の将来を決定づける。そう信じてやみません 。≫
  (「東北福光/日本の未来を開く東北の潜在力」,3月11日付け聖教新聞)

 東北と東北人がもつ潜在力。
 歯を食いしばり。復興に賭け再び開拓の日をおくる彼の地の人びと。
 あの日の誓いを忘れまい。強き誇りを亡くすまい。悔いを繰り返すな。
 厳冬は必ず終わり爛漫の春となる。
 冷たい雪は溶けて大地を潤す水となる。
 落日は雄渾の旭日となってふたたび蘇る。
 凱歌をうたおう。今は歯を食いしばりその時を待つ。
エクレアと甘いお菓子に目がなくて [2012年03月11日(Sun)]

20120311214751.jpg宮城・石巻がロケ地となった映画『エクレール お菓子放浪記』。主演の男の子・アキオは、奇跡の歌声を聞かせてくれた。透きとおって輝きがあって音程は正しく艶まである。よく通る声で心地よいボーイソプラノだ。芯のある強さが、アキオのまっすぐな目に表れていた。

孤児院を飛び出し空腹の中で金平糖を盗んで必死に逃げるシーンから始まる。暗がりに浮き出す走る少年の輪郭。目に焼き付く冒頭だった。アキオの生活の場は転々とする。少年感化院、ばあちゃんの養子、遠山刑事、映画館の小僧、旅芸人一座、大空襲後の上野で小さい孤児たちとの窮乏、ずっと続いていた洋子先生との文通など、新生活へどのようにうまく適応していったのかという説明はほとんどなく、アキオの強さと順応力をスクリーンに写しテンポよく物語が進んでいた。

が、のど自慢大会で「お菓子と娘」(西条八十作詞)を歌い、恩師洋子先生と再会する場面で長々と顛末を語らせ過ぎたところは少々蛇足だったように思う。

ロケ地は大震災前の石巻。エキストラとしてこの映画に参加した方で命を落とした人も多かったと聞く。奇跡の歌声を聞いているときにエキストラ観客は満足げにカメラに映し出されていた。思わず涙がこぼれ落ちそうになった。

今日は「3・11」。悪夢からまる一年。マスコミや各地のイベント、鎮魂と復興への強い思いがつまった一日であった。今日の上映会場島根県民会館中ホールは主催者の呼びかけで黙祷から始まった。3・11を忘れまい。
一日はあつという間に永遠に [2012年03月10日(Sat)]

20120310223025.jpg映画『永遠と一日』は大切なひとへの向き合い方を考えるに、いいテキストになるものだった。小説家、詩人の主人公は、美しい妻、生まれたばかりのかわいい娘、面倒見のいい母と暮らす。仕事も順調で、時折ふれあう妻の親族たちはにぎやかで多彩にして人情深い人たちばかりだ。なんて幸せなひとだろうか。

だが彼は自分を「よそ者」だと感じ、家族や親族との時間を楽しめない。なぜならば、小説や詩の創作に余念がなく、つねに体は旅をさすらい、体は家族のもとにあっても心はそこになく、より深く高い言葉を探し求めていた。妻は夫の気持ちをつなぎ止めようと腐心したのであるが、いつも悲しい結果に終わっていた。

創作家として功なり名をとげてしまった今、主人公は重い病におかされ明日は入院を控えている。しかも妻はいない。死んだのか、愛想をつかして去ってしまったのかはわからない。母は認知症を患い、娘の夫とは感情的に相容れない関係のようで、世間的な知名度はあっても幸せな生活とはいえない。

彼の満たされない魂は今と過去の記憶を行き来し、夢とうつつを繰り返す。そこに介在するのが隣国アルバニアから脱出した不思議な難民少年であった。

名手・アンゲロプロス監督の映像は詩想が豊かで、街中のなにげないシーンも詩情たっぷりに描かれている。ギリシャの歴史や詩人のことを知らないわたしには理解不能なところが多かったが、ともあれスクリーンに見入りながら、家族にしっかり向き合う態度を示さなければいけないなと反省することしきりであった。パソコンに向いたまま、「うん」「はー」と言ってはいてもからっきし頭に残っていないことがあって責められることがよくあるからだ。

さらに、今日の一日を大切にしたいと思った。今を大事にすることの延長線上に明日はある。突然の死や別れのせいで明日が来ないことがあるかもしれない。ならば明日は永遠の彼方に行ってしまう。また、毎日を大切にして闘争した結果として幸ある生を生き切ったひとにとって、昨日は永遠に輝くのだと思う。

P.S. ギリシャの財政危機、債務不履行からくるユーロの混乱。EUが大枚の支援を行う代わりに、緊縮財政を求めるとギリシャの国民は大いに怒って、後先かまわずデモをして混乱に拍車をかける。多くの人人が、映画の主人公のように内省する力があればいいのに、と思う。
読み書きはひとの来し方感じられ [2012年03月09日(Fri)]

20120309224543.jpg齋藤孝著『読み上手 書き上手』より。活字中毒、久しぶりに聞くような気がする。この言葉を。わたしも実はそのたぐいだ。

≪"活字中毒"になると、活字がないと落ちつきません。アルコール中毒の人が、お酒なら何でも飲むのと同じで、"活字中毒"の人も新聞から雑誌、新書のような学問や情報を扱ったものから小説まで、手当たり次第にいろいろなものを読んでいたいという欲求にかられます。≫

映画監督・小栗康平氏と対談をしたときの経験を通し、著者は「映画の文法」についてこのように書く。

≪このとき小栗さんの言葉で印象的だったのが、「この10年で日本の映画の観客がかなり壊れてしまったという実感を持った」ということでした。(中略)映画の見方の文法をまったく知らない人が大量に出現し、映画がテレビのようになってしまった、というのです。ストーリーがわかりやすく、登場人物が説明的であり、誰が見てもわかる単純なものが求められるようになり、映画を見慣れている人には通じる見方の文法が一般の観客には通用しなくなった、とおっしゃっていました。
 映画は100年以上かけて、複雑な文法を発展させてきました。それがわかる人にとっては、いわば謎解きのような楽しみもあるので、語り合う内容も必然的に知的なものになります。≫

「映画の文法」。わたしにとって初めて聞く言葉であるが、どちらかというと難解で、もってまわったようにして観る者を困惑させる映画は好かない。「私は知的レベルが高こうございます。さすがでしょ」といったインテリ臭さが濃厚で、さらにしたり顔で映画に解釈を加える人を見るのも好かないということもあろうか。

ただ、著者がいうように映画の文法という手法で、世界を切り取り、新たな枠組みでもって世界を解釈することは、まんざら悪いことではないような気がしてきた。確かにものごとを単純に位置づけていくことは小気味いいともいえるが、反対に単純すぎると深みはない。反対に意味づけを複雑にしすぎると解釈不能に陥るけれども、単純さに飽き飽きしたときには複雑さもまたいい。要は、映画を観る人がそのときどきの感情や知的レベルに応じて解釈し、その人なりに生きるエネルギーを得ていくことができれば、その映画は価値あるものであったといえるのだろう。
危ないを口にださねば守られぬ [2012年03月08日(Thu)]

20120308174829.jpg3月6日の夜中、東武東上線川越駅で、視覚障碍の方がホームから転落し、進入して来た電車にひかれて死亡したという。点字ブロックの線路側を白杖を使って歩いているうちに足を踏み外したようだ。新聞記事では、同駅には転落防止ホームドアがなく、当時駅員もホームにいなかったことを問題にしている。

確かに視覚障碍者のホーム転落事故は、比較的ひんぱんに記事になる。事故があるたびに、再発防止策として点字ブロックの改善やホームドアの設置がうったえられる。現在全国に1万近くある駅のうち5%にしかホームドアがないわけであり、すべてにドアを設置してから視覚障碍者が公共交通機関を利用しようとすれば、社会参加はままならなず大きな障害となる。

事故のそのとき、周りの健常者はどうしていたのだろう。声をかけてあげなかったのだろうか。心配をして見つめていたひともいたろうに。また障碍者も、「危ない」「状況がわからない」と感じれば直ちに周囲に助けを求めなければ命は守れない。障碍をもつ、もたないにかかわらず、すべての人が恥ずかしがらず対応していくべきことだと思う。
春が来た風が吹くよと弾みつき [2012年03月07日(Wed)]

20120307073815.jpg 春が来た 春が来た どこに来た
 山に来た 里に来た 野にも来た

 梅が咲く クロッカスも あちこちに
 椿咲く 水仙満開 春息吹く

 春一番(かぜ)が吹く 雨が降る 傘が飛ぶ
 南の風 魔法の風 メリーポピンズ

 鳥が啼く 高く啼く 大空に
 山に啼く 丘に啼く 恋をして

 空が高く 月はおぼろ しっとりと
 桜花のとき そこに来た 朗らかに
少年の無邪気は彼我を分け隔て [2012年03月06日(Tue)]

20120306072851.jpg『縞模様のパジャマの少年』(ジョン・ボイン作,千葉茂樹訳)と『小公子』(フランシス・ホジソン・バーネット作,脇明子訳)を続けて読んだ。

どちらも少年らしい純で無邪気な主人公であるが、「縞模様」では主人公ブルーノは相手方とこちらの彼我が巨大な割れ目と軋みで隔てられているのに気がつかず、自らその割れ目に足を踏み入れて不幸な最期を迎える(本人は友を得て幸福ではあったが)。一方で、「小公子」セドリックは米国近代期の庶民生活と英国伝統の貴族生活の違いを無知ゆえに想像できない。けれどたくましく新生活を吸収するばかりか無邪気さと好意いっぱいの態度で周囲の大人をぐんぐんと惹きつけて幸福になっていく。

両方とも7歳だから当然といえるかもしれないが、子供の無邪気や無知はときに不幸をもたらし、ときに微笑ましい幸福を本人にも周囲にももたらす。どう転ぶかは子供の責任ではなく、大人が温かい目で子供を見て養育しているかにかかる。その対比を二つの物語にみた。

この二冊はともに島根県立図書館の司書さんから紹介をうけたものである。図書館で本がみつからなくて司書に探してもらうことはあった。だが「深い児童書を紹介してほしい」というリクエストに応えてもらったのは初めてである。本が好きでそれを仕事とし、本の魅力をつねに感じながら暮らしておられる(同時に本への怖れももっておられることだろう)司書の面々。その力畏るべしである。もっと私の力になってもらいたいと思うようになった。

(写真は今朝のクロッカス蕾)
雨落ちて春の目覚めと去る三月 [2012年03月05日(Mon)]

20120305214722.jpgつんつんツンと雨が落ち
昨日に続いて今日も雨
朝から雨は春近し
ずんずんズンと梅咲いて
とんとんトトンと桜の蕾膨らんで
今日は月曜 休みぼけ
がんがんガガンと一日雨
けれども幸いよき一日
るんるんルンと明日も目覚めよ
このわたし
涙して信じ一路にもの語り [2012年03月04日(Sun)]

20120304220746.jpg冒頭で不覚にも涙した。鈴木オートにカラーテレビがやってきて、オリンピック3ヶ月前の東京は大いに盛り上がっている。子どもたちの飛ばしたゴム動力の模型飛行機が電車道を飛ぶ。カメラはぐんぐん上がり街を俯瞰し、東京タワーの先端が突き刺さらんばかりに浮き出す3D。カメラが少し左に寄って開くオープニングタイトル『ALWAYS 三丁目の夕日'64』。バックに流れるテーマ曲にも心が動く。涙がにじんだ。

平行して描かれる家族の群像。鈴木オートの夫妻は愉快な愛で結ばれ、子供は青年期を迎え、新しい弟子も入った。六ちゃんは自動車修理の屋台骨を支えるばかりかすっかり美しくなった。近所のおっちゃんやおばちゃんとの交流は濃厚で人情深い。まもなく赤ちゃんが生まれる茶川。東大受験と小説執筆の両立に悩む高校生淳之介。人情話のいいところにいつも出てくる宅間医師。六ちゃんと菊地医師の信念に貫かれた恋物語・・・・。

みんな何かを信じている。自分の才能と可能性、家族の将来と安穏、技術の進歩、社会の前進、必ず勝てる、いつかは勝てる、不器用な親の愛情でも子供に伝わる、不作法な愛情表現でも妻はわかってくれる、自分が感じた喜びを人にも味わってもらいたいという好意・・・・。さまざまな信ずるに値する何ものかをみんなが信じている。

物語の始まりは夏の初め、オリンピックが始まって世間が騒然と喜び、やがて晩秋のころ物語は終わる。錦秋のころの澄んだ空気に東京タワーがひときわ輝く。エンドロールで登場人物たちが、上を見ている。上を向いて生きている。落日の残照は凋落のイメージがあるが、登場人物たちが上を向いていたのは、まさに皆が信じている時代を象徴するかのようだった。シリーズもののマンネリ感はない。笑いと涙が渾然として、熱いものをじっくりと味わうことのできる映画だった。
卒業に天晴れ諸天祝福す [2012年03月03日(Sat)]

20120303142021.jpg出雲高校の卒業式に出席した。寒さ和らぎ、数日前に比べると暖かい日ざし、穏やかな桃の節句。天が祝福するかのようであった。

入場のとき三百数十人の顔を全部見た。はにかむ笑顔、恥ずかしそうにした顔、ポーカーフェース、誇らしげな顔やニコニコ顔があるし、仏頂面もある。楽しげだったり、悲しそうに見える生徒もいる。胸をはり堂々と肩をいからし、またある子は首を傾げたり、猫背で自信なさげだ。すでに込み上げるものがあるようで、ウルウルとしている生徒もいた。しずしずと、ずんずんと、トボトボと、楚々として、ぐんぐんと、顔つきに各自の個性があるように、歩く姿も千差万別だ。

堅苦しい式典を終え、クラスメイトとともに担任の先生から証書をもらう。それぞれのスピーチに味があって、かわいらしくかつ頼もしい。彼ら彼女らなりに苦楽をともにし、笑顔でいられたことを謝す。かけがえのない3年間、日常的なふれあいに楽しみとくつろぎを見出だしてきた幸せな諸君である。そして受験も団体戦とした同志の関係だ。

大学生となり、さらには社会人となる。この珠玉の思い出が彼らの原点となっていくにちがいない。諸君の健闘を祈る。挫折も栄光もいずれ経験する。負けてくさらず、そして勝って兜の緒を締めてくれたまえ。

(追伸 3月4日)
さあ、わたしも高校のクラス同窓会をしよう!
そして、「翆色濃き鷹の沢 久徴園に鳥啼きて・・」と友と校歌を歌うんだ!

(コメント)
ご卒業おめでとうございます。
卒業シーズン・・・ 勤めていたころは何かとこの時期、賑わった記憶懐かしく思います。
若いっていいですね!夢があって、希望があって。
最近はそれがなくなりましたね〜。 なにか見つけよっと!!
投稿者 まい・らいふ [URL] : 2012/3/3 (土) 18:07

ありがとうございます。いまの時期はケータイショップがたいへん賑わっているようですね。娘と一緒に機種変更してスマホにしようと思っていましたが、夏休みまでがまんすることにしました。それも楽しみです
投稿者 風実 : 2012/3/4 (日) 22:14

仕事柄、3つの高校の卒業式に来賓として参加しました。厳粛な堅苦しい式典が多いなか、平田高校のものは少し違っていました。送辞は、人の心に迫るものでしたし、答辞は朴訥としていたのですが、最後に、保護者席を振り返り、「お父さん、ありがとう!」と父親に育ててもらたことに心の底から感謝の気持ちを伝えていました。壇上の校長先生もホロリ。参加者も涙する人がたくさんいました。また、校歌も卒業生全員が精一杯の声で涙ながらに歌う。退場の際には担任がそれぞれのクラスの前に並びます。卒業生はそれぞれクラスが一つになって担任に感謝の言葉を述べて去っていく。普通の退場は中央を向いて動きだすのですが、全員が来賓席を向いて動き出す。エンターティメント性を感じるとともに、卒業式に皆の気持ちをぶつけるような感動的な式でした。
投稿者 scorpion : 2012/3/5 (月) 13:34

平田高校、なかなかの革新者ですねえ。お見事です。作りものの「所作」だと非難するむきもあるかもしれませんが、その所作の良し悪しで感動の度合いは違います。何事もおなじするなら、楽しくて、感慨無量で、忘れ得なくて、心も体も動くものにしたいものですね。
投稿者 風味 : 2012/3/5 (月) 21:51
幽霊も優美に痛み感じるか [2012年03月02日(Fri)]

20120302180249.jpgゴーストペイン、訳せば幽霊痛、幻の痛みである。ベトナム帰還兵が戦闘で切断したにもかかわらず、なくしたはずの手や足が痛むと訴えがあったことから研究が始まったと聞いたことがある。事故や病気で不幸にも手足をなくしてしまった人の多くが感じるということだ。実際はあるはずのない痛みを、脳が勝手に作り出しているわけだが不思議なことだ。

ときおり私も感じることがある。幸い私には手足はちゃんとついているので、意味合いは違う。車を運転中に左の前輪が水たまりを弾くと、左足にヒヤッとした冷たさを感じるのである。ゴーストペインならぬ、私のゴーストフィーリング。なぜだろう。
六次まで地元産業かけ算で [2012年03月01日(Thu)]

20120301212500.jpg日刊水産経済新聞2月16日付けの『記者席』の記事を読んで目から鱗の思いがした。

≪六次産業化とは、「一次」「二次」「三次」の産業を足し合わせたものなのか、掛け合わせたものなのか―渡辺好明北海道大客員教授(東京穀物商品取引所社長)は「3分の1くらいの人が足し算だと言って間違っている」と指摘する。足し算だと「最初の『一次』が輸入品に変わってなくなったとしても、五次産業になるが、これでは日本の社会はよくならない。掛け算だと『一次』がゼロであれば、2を掛けても、3を掛けても、4を掛けてもゼロにしかならないことを認識してほしい」という。地元産品の付加価値を高めることで、地域と国民全体がともに利益を得ていく重要性を訴える。≫

なるほどと思う。足し算でも掛け算でもどちらでもいいと思っていた。だが、地域をなんとかしたい、日本の底力を信じたいというひとにとっては、掛けるか足すかは大違いなのだ。

足し算は着実だ。しかし掛け算には逆転ホームランのような可能性がある。地域も会社も個人も、ときには掛け算で飛躍したい。