CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

« 2011年12月 | Main | 2012年02月»
<< 2012年01月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
検索
検索語句
月別アーカイブ
カテゴリアーカイブ
最新コメント
ふみハウス
心地よし父の胸にて寝入る子よ (02/05)
心地よし父の胸にて寝入る子よ (01/27) ふみハウス
冷たくて濡れそぼる雨陽気待つ (01/26)
冷たくて濡れそぼる雨陽気待つ (01/23) 駅伝ワクワクをとこ
元旦の賀状楽しみ友を知る (01/02)
元旦の賀状楽しみ友を知る (01/02) 食欲のをとこ
食べ過ぎを防ぐためなりよく噛んで (11/02) 正中館道場
食べ過ぎを防ぐためなりよく噛んで (10/28) 計算苦手をとこ
筋力と宇宙の闘い空間で (06/29) 計算する者
筋力と宇宙の闘い空間で (05/15)
http://blog.canpan.info/fumihouse/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/fumihouse/index2_0.xml
最新トラックバック
近代の日本文学救いたし [2012年01月31日(Tue)]

今日も正岡子規の『歌よみに与ふる書』から。

≪ 月見れば千々に物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど

といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理窟なり蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。この歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申、もしわが身一つの秋と思ふと詠むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前の事をいはば理窟に陥り申候。箇様な歌を善しと思ふはその人が理窟を得離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今のいはゆる歌よみどもは多く理窟を並べて楽みをり候。厳格に言はばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候。≫
 (正岡子規『四たび歌よみに与ふる書』明治31年2月21日)

大江千里がうたったこの和歌。百人一首に選定され、有名な歌だ。それを、「理窟を並べて楽みをり」と手厳しく非難する。

≪生は客観的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。(中略)詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、もし感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。(中略)理窟が文学に非ずとは古今の人、東西の人尽く一致したる定義にて、もし理窟をも文学なりと申す人あらば、それは大方日本の歌よみならんと存候。(中略)

全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢(ま)たず。例へば橋の袂(たもと)に柳が一本風に吹かれてゐるといふことを、そのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、元とこの歌を作るといふはこの客観的景色を美なりと思ひし結果なれば、感情に本づく事は勿論にて、ただうつくしいとか、綺麗とか、うれしいとか、楽しいとかいふ語を著(つ)くると著けぬとの相違に候。

また主観的と申す内にも感情と理窟との区別有之、生が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比して、この主客両観の相違の点より優劣をいふべきにあらず、されば生は客観に重きを置く者にても無之候。但和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり候へば、客観に重きを置くといふも此処の事を意味すると見れば差支無之候。≫

子規は写実的に客観的に歌や俳句をよむと言ったが、理屈だけが先走った歌を好まなかった。子規が行った強い非難は功名心からなるものではない。愛国の衷心から発せられたものであることは、次の文からもわかる。

≪従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と為さんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を購(あがな)ひ、大砲を購ひ、巨額の金を外国に出すも、畢竟日本国を固むるに外ならず、されば僅少の金額にて購ひ得べき外国の文学思想抔(など)は、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候。≫

引用はここまでにしておくが、子規は古今和歌集以来、進歩の跡のない和歌に抜本的な改革をしなければ、外国の思考や文学が入ってきたときに日本文学は跡形もなく消滅すると危機感をもったのだろう。和歌も俳諧も、日本の美を代表するにふさわしい革袋であるが、その中に入れる酒が旧態なまま陳腐化してしまっていたことを嘆いた。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』で代の礎を築くために奮闘した明治人の代表として、秋山好古・秋山真之兄弟を描いた理由はわかっていた。好古は日本騎馬軍団の完成者であり、真之はロシア・バルチック艦隊に歴史的完勝をあげたことである。「歌よみに与ふる書」を読むと正岡子規のすごさが少しわかったような気がした。

(写真は積雪5センチ、1月30日朝の松江城)
梅香る嘘か真か子規に解 [2012年01月30日(Mon)]

梅香るとか、早春の梅の匂いとよく言われるが、実は私にはわからなかった。梅林に入っても、香りなどただよってはいない。花に鼻をくっつけるようにしてはじめて、ほのかに匂う程度であった。嗅覚が悪いのだろうかと心配していたのだが、この文章を読んで安心した。

≪「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて楽む歌よみが多く候へども、これらも面白からぬ嘘に候。総て嘘といふものは、一、二度は善けれど、たびたび詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。まして面白からぬ嘘はいふまでもなく候。「露の音」「月の匂」「風の色」などは最早十分なれば、今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、桜などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。≫
 (正岡子規『五たび歌よみに与ふる書』明治31年2月23日)

そうだったんだ!と納得した。風が吹いてない穏やかな日でも梅が香ってはいなくても、決してそれは私の鼻が悪いせいではないのだとわかった。過去の詩人たちの魔術に絡めとられていたことを知った。正岡子規よ、ありがとう(^0^)/

写真は我が家の蝋梅(ロウバイ)の花。これは感じる。道ばたにあっても甘い匂いがただよってくる。室内に生けると匂いが充満して酔ってきそうだ(酔う?これこそ子規の言う「面白からぬ嘘」かなあ)。

雪中の四花のうち梅以外は出そろった。このブログにも写真を紹介した(山茶花/12月19日・20日、水仙/1月11日)。さあ、次は梅よ、春よ。早くこい。匂わなくてもいいから。
小公女誇り高きよプリンセス [2012年01月29日(Sun)]

少女趣味だと言われるかもしれないが、『小公女』(原題:A Little Princess、作:フランシス・ホジソン・バーネット、訳:高楼方子)を読んだ。

舞台は、19世紀のイギリス。セーラ・クルーは、資産家で軍人の父と二人だけの家族。英領インドで7歳まで暮らしたが、父と離れてセレクト女子寄宿学園に入学した。極めて聡明であっただけでなく、よりすぐりの温かさをもっていた。しかし、11歳になったとき父が死去。しかも事業の破綻で無一文になり生活は一転。セーラは屋根裏部屋の使用人となって、虐げられながら腹をすかせて働いた。その不幸のなかでも彼女は、心優しい王女のつもりで毎日を耐えた。ところが、父の親友であり、事業を復活させた共同経営者が偶然にも隣に引っ越してきており、数々の顛末の末にその「インドの紳士」は探し求めていたセーラに出会う。ハッピーエンドとなる。

≪「与える人」として生まれついた人間というものは、手も心も外に向かって開いているのです。手の中は、ときにはからっぽになるけれども、心はいつでもいっぱいですから、そこから、暖かいこと、やさしいこと、安らぐこと―つまり、手助けや、慰めや、笑いを、人に与えることができるのです。中でも、心からの愉快な笑いこそが、何よりすばらしい救いになることだってあるのです。≫

≪たぶん、心からの思いって、不思議と人に届くと思うんです。窓があってもドアがあっても壁があっても。私が寒さの中で、こうしてここに立って、どうかもう一度よくなって、幸せになられますようにってお願いしていたら、たぶん、ほんの少し、温かい気持ちになって、痛みが和らぐと思うんです。≫と面識のなくても、お隣の「インドの紳士」に思いを語りかける。

ギブギブギブ、ひたすらギブ、ときどきテイクの姿勢が福をもたらすこと、祈りは届くということ、多くのことを感じることができる児童文学である。日本語訳が自然でなめらか、工夫が随所に織り交ぜてありすばらしい。「赤毛のアン」も含め、児童文学侮るなかれ、である。
いろはうた夢に津和野を思ほえば [2012年01月28日(Sat)]

1月19日読売新聞一面の「編集手帳」に「新いろは歌」のことが掲載された。津和野出身の画家であり教育者でもある安野光雅氏の作である。安野氏が郷土愛をこめて作られたものだ。これが編集手帳に紹介されていたことは、メーリングリストのaunで教えていただいた。

  夢に津和野を思ほえば (ゆめにつわのをおもほえば) 
  見よ城跡へうすけむり (みよしろあとへうすけむり)
  泣く子寝入るや鷺舞ふ日 (なくこねいるやさぎまふひ) 
  遠雷それて風立ちぬ (えんらいそれてかぜたちぬ)

津和野の夏の叙事であるとともに、なつかしさと人びとへの愛情のこもった叙情詩でもある。平安の昔からある「いろは歌」をしのぐのではなかろうか。移りゆく世の無情と諦観を歌ったいろは歌にくらべて、「新いろは歌」は円らかで穏やかな気分になってくる。

  色は匂へど 散りぬるを (いろはにほへと ちりぬるを)
  我が世誰ぞ 常ならむ (わかよたれそ つねならむ)
  有為の奥山 今日越えて (うゐのおくやま けふこえて)
  浅き夢見じ 酔ひもせず (あさきゆめみし ゑひもせす)
創造し連携するぞ新公共 [2012年01月27日(Fri)]

ふるさと島根定住財団と島根県が主催する『新しい公共を創造する連携フォーラム』に参加してきた。(1月26日/於くにびきメッセ)

新しい公共とは、県民、NPO、企業、行政など様々な担い手が地域課題解決のために連携し、充実した公共的な財・サービスの提供を行うことが期待されている。寄附税制やNPO制度の大幅改正など環境整備が進む中で、新しい公共を創造する担い手の育成と連携を促すためのフォーラムという呼び込みである。

NPO法人シーズ・市民活動を支える制度をつくる会の松原明副代表の基調講演「NPO法の改正と新しい公共支援事業から見えてくるもの」をはじめ、「東日本大震災を風化させないために」として、報告をされた大震災地における子ども支援や津波遺児への支援活動に目を開かされた。

また、島根県立大井上定彦教授による特別講演では、「井上文明論」とも言えるほどの切り口で論じられた。分け合い助け合うという資質をもったホモサピエンスが飢餓の時代を乗り越えてのち空前の発展を遂げた意味合いから始まって、島根のNPO支援の流れを丹念に解説いただいた。施策を展開したという単に一つの文化にとどまらず、新しい公共の先駈けとしてステップを踏んできたことが聞く者にもより理解できた。さらにNPOという存在が、日本の復興(大震災、原発事故、経済と誇りの衰退)を支える重大な意義をもつことを改めて感じることがができた。

有志があつまった交流会も熱気で沸騰しそうであった。新しい公共でのマルチ・ステークホルダーというキーワード。重要な用語ではあるが、今はそのまま「多様な利害関係者」と訳されている。経済的な儲けばかりを考えて冷たい打算という印象を受けてしまうのであるが、そうではないと思う。

会場の熱気(特に懇親会での)からすれば、協働の場でしのぎ合いつつも事業の実りを喜んで享受する「成果共有者」、あるいは「喜び共有体」と言えるのかもしれない。今、新しい公共支援事業が創設されただけでなく、行政が税という財源をNPOサイドに振り分けていくという奇想天外な新税制の考えが適用される時代を考えれば、これは大きなチャンスだ(最後のチャンスかもしれない)。
否応なく音しみじみと聞こえてる [2012年01月26日(Thu)]

いろいろな音があふれている
あちらこちらにあふれている
車の走行音 けたたましいクラクション カーオーディオの音楽 ブレーキ音
信号機の誘導音 道を急ぐ歩行者の靴音 子どもたちの話し声
列車のアナウンス 高校生のおしゃべり 規則正しい振動
穏やかな調べ 耳慣れない異国情緒の音楽 耳をつんざく大音響
商店街のBGMやアナウンス レジをうつ音 お客と店の人とのあいさつ
街の喧噪の中で音は交錯している
吹き下ろす木枯らし 耳元をかすめる寒風 恐怖の暴風雪
屋内ではテレビやオーディオ パソコンや冷蔵庫の運転音
朝を告げる鳥の声 屋根から落ちる雪ずりの音
未明に見えた火星や土星でも音が聞こえるだろう
スケートリンクのようにつるつるの路面で今朝滑って尻餅をついた音
信号待ちの車中ではクスッと笑い声がもれたかもしれない
知らしめて成員の力引き出して [2012年01月25日(Wed)]

先日、107人が死亡した尼崎JR脱線事故に関し、山崎前社長に無罪判決が出た。JR改組後最悪となった事故をめぐり、経営幹部に過失があったかどうかが問われたが、民事責任はともかく刑事責任については、自動列車停止装置(ATS)を整備する必要があるかどうかの危険性は認識できなかったと、裁判所は認定した。

裁判後に遺族たちは、「不当判決だ」として不満と強い怒りを表明した。そしてなぜ肉親が死ななくてはならなかったかという「真相の究明」のうえ、再発防止に役立てるべきだと訴えた。

オウムの地下鉄サリン裁判でも、弁護士一家殺害事件でも真相究明が遺族の願いである。その他のひどい犯罪裁判においても、肉親を殺した憎っくき犯罪者がたとえ極刑になったとしても、なぜ殺されねばならなかったのか、犯人の心の当時と今現在を知らされないことには、遺族の心は晴れない。

真相の究明、真実の姿を求める姿が多く見られるようになった。所属する組織や集団の全体像、財務や意志決定のありかたなど、情報公開を含めて人々の知りたい願望に、今や火がついているように思える。

組織の側も求められて情報を出す姿勢ではなく、進んで開示する態度が世の中の大勢を占めるのも遠い将来ではない。怠る組織、寄らしむべし知らしむべからずという姿勢の団体は、いずれ構成員からもそっぽを向かれることになるだろう。そんな時代がやってきた。
踏ん張って自死のゲートに立つまいと [2012年01月24日(Tue)]

2011年の自殺者が暫定値で30,584人となった。再び3万人を超えてしまい、残念に思う。政府(政策統括官・共生社会政策担当)は、『大切な人の悩みに、気づいてください。』というキャンペーンを始めている。その中では、ゲートキーパーによる周りからの支援を訴える。「悩んでいる人に気づき、声をかけ、話を聞いて、必要な支援につなげ、見守る人」を増やしていこうという考えである。

内閣府は昨日自殺対策推進会議を開き、3月の自殺対策強化月間のキャッチフレーズを『あなたもGKB47宣言!』とした模様であるが、AKB48をもじったフレーズであるため、苦言を呈す委員があったようだ。同時にネット上ではぼろくそに非難されている。

GKBとは「ゲートキーパー・ベーシック」の頭文字とのことで(KGBを思い出す?)、専門家以外の一般のひとも自殺問題に関心を持って、身近な人に心を配り47都道府県で自殺予防をしていこうという意図だという。

たしかに軽薄なネーミングだと私も思う。しかし、話題になることは悪いことではない。なんであろうと、悩み苦しむ人に自殺を思いとどまってほしい。見守ってくれるひとはどこかにいるんです。
試したら世界標準秋入学 [2012年01月23日(Mon)]

≪日本の新卒一括採用のシステムは本当に恥ずべき愚行だと思います。多様な人材を育む経済のイノベーションの原理にも反するし、学問をしたいときにできないことによる機会費用や見逃されたチャンスは膨大ですよ(中略)
 僕も新卒一括採用についてはツイッターや雑誌の執筆などでずっと批判してきました。でも、採用側の大企業の人からは何の反応も出てこない。既得権益のなかにいる人間は黙って見過ごすだけなんです。≫

 (茂木健一郎『日本を変えるヒントを語る』第三文明2012年2月号)

先日引用した日本生産性本部の調査結果には、新卒の春一括採用がもたらす弊害が現れているように思う。多様な時期に様々な年齢層で経験も分散した被採用者が会社で働くようになっていたとしたら、すぐに愛想をつかすこともなく、わずか半年で転職を考えることなく、働くことを楽しめる若者が増えたかもしれない。

早稲田大学では2005年に始まった秋入学、夏卒業が5年ほどで頓挫したと聞く。企業が春採用にこだわり、他の大学も追随しなかったからである。東大が秋入学を始めると報じられた。国内外の多彩な人材が世界をマタにかけて活躍できるきっかけになるとよい。
湖畔にてワークショップに花咲いて [2012年01月22日(Sun)]

島根県青少年育成アドバイザー養成基礎講座の運営を、その一員として携わってきた。私が担当したことがらから、いくつかの手法を備忘録として掲げておく。講義4「ワークショップの手法や発想法」と演習3「ワールドカフェ体験」である(1月21日〜21日 於サンレイク)。

■ワークショップとは?
・ワークショップとは、本来「作業場」を意味するが、現在は参加者が経験を披露したり議論しながら、発想を広げ技能を伸ばす講座の場を意味している。
・参加者が自発的に作業や発言をおこなえる環境が整った場において、ファシリテーター(進行促進役)を中心に運営される。
・発想法=個人や集団による発案の手法  ワークショップ=集団で発想しまとめる手法
・子どもや若者への関わり方、仕事や地域活動に関するアイディアなど何でも、考えをまとめ、協力しながら実際に計画的に動かしていくためにワークショップを行う。

■主な発想法とワークショップ
【KJ法】
カードにアイデアを書き、分類することによってアイデアを発想するもので日本発の発想法+ワークショップ
 1.テーマに関するアイデアをカードに書き出す
 2.似たものを集めてグループ化しタイトルをつける
 3.さらにグループ化しタイトルをつけ分類
 4.グループごとに線で囲み、線を結ぶなどして関連性がわかるようにして見える化(図解化)
 5.文章でまとめて表現し、議論しながらテーマの本質を見極める

【ワールドカフェ】
リラックスしたカフェ的空間によってテーマを深めるもので、1995年にアメリカで開発された発想法+ワークショップ
 1.4,5人のグループを作り、1ラウンド20分でテーマにそってカフェ的に会話を楽しむ
 2.出たアイデアや言葉を模造紙に自由に書く
 3.1ラウンドが終わるとホストを残し、それ以外は旅人として別のテーブルへ移動
 4.ホストが前ラウンドの内容を説明。さらに会話を深める
 5.3ラウンドまで繰り返す

【ブレイン・ストーミング】
脳みそ(ブレイン)に嵐を起こす(ストーミング)ように、無秩序にアイデアを出し合う発想法
 1.テーマを具体的に設定しアイデアを発言。書記がホワイトボードに書き、全員が確認しながら進む
 2.発言、板書を要約
  4つのルール/自由奔放、批判禁止、質より量、アイディアに便乗し発展

【マインド・マップ】
テーマとなるキーワードやイメージを中央に書き、そこから放射状に展開していく発想法
 1.真ん中の囲いに検討テーマを記入
 2.テーマから枝を伸ばして、アイデア(キーワード)を記入
 3.そこから思いついたアイデアをさらに枝を伸ばして記入

【マンダラート】
3×3のマトリックスを利用し、強制的にアイデアを出す発想法
 1.3x3のマトリックスを準備し、真ん中にテーマを記入
 2.真ん中のテーマから思いつくことを周囲の8つのマスに記入
 3.さらに8つのマスに書いたアイデアをテーマとして新たにマンダラートを作る
 4.アイデアが詰まるまで繰り返す
夢はある仕事を通して夢を見る [2012年01月21日(Sat)]

日本生産性本部が「2011年度新入社員秋の意識調査」を発表した。郵送による調査で回答数は315。毎年春と秋に実施しているものだ。

「自分には仕事を通じてかなえたい夢がある」とする回答が、春と秋でどれだけ落差があるかというと過去最高(18.9ポイント)であったとのこと。落差というのは、ピカピカの一年生の頃、希望に胸ふくらんだ春から半年後には、現実の社会にもまれ、夢や希望がしぼんでしまったということを意味する。しかも今調査の数値は1999年以来最低の52.4%だという。
     春   秋
2011年 71.3% 52.4%(落差18.9ポイント)
2010年 72.9% 58.3%
2009年 71.6% 57.6%
2005年 64.3% 55.4%
2000年 63.5% 54.8%
1995年 63.6% 61.4%

「若いうちならフリーアルバイターの生活を送るのも悪くない」とする設問に「そう思う」としたのが35.9%と増加。減少傾向にあった数値から増加に転じた。安易な方向に転じているのだろうか。自分さがしがブームとなっていた頃ならともかく、この就職難のときにここまで数値があがるとは…。
     春   秋
2011年 24.3% 35.9%
2010年 20.6% 24.6%
2009年 21.1% 30.5%
2005年 33.1% 37.8%
2000年 47.1% 46.2%
1995年 42.4% 50.5%

「条件の良い会社があれば、さっさと移る方が得だ」とする回答が前年比12.4ポイントも増加して40.7%となった。秋になれば、就職した自分の会社に愛想がつくのかもしれないが、もちろん実際にやるかどうかは別にしても、転職率が高くなるはずだ。
     春   秋
2011年 24.0% 40.7%
2010年 21.6% 28.3%
2009年 21.1% 37.7%
2005年 30.4% 42.5%
2000年 38.0% 43.3%
1995年 28.8% 41.7%

「基準や慣習に反しても、法律に反しないことであれば、どんな強引な手段や方法をとっても問題はない」に対し、「そう思う」とする回答が春、秋を通して過去最高で28.8%となった。企業はコンプライアンスを学ばせているのだろうか。それともなりふり構わない業績主義が、倫理観を蝕んでいるのかもしれない。
     春   秋
2011年 22.0% 28.8%
2010年 19.8% 21.2%
2009年 22.2% 26.6%
2005年 調査なし
はや千年始祖の願いは屈折し [2012年01月20日(Fri)]

映画『薔薇の名前』を観た。人間は何のために生きるのか、と聞かれれば「幸せになるため」と答えることができる。幸せを実現する手段として宗教があり、組織があり、科学や経済があるというのに、そのシステムが恒常化してくると人間の幸福という本来の目的が忘れられてしまう。

当時はキリスト教が国教化されて約千年。人々の幸せを実現するはずだった教会は農奴から富を収奪し、聖職者は豊かな暮らしを貪っていた。まさに本末転倒である。

この映画に教会関係者以外、一般民衆として出てくるのは農奴、あるいはそれ以下の土民の群れであったが、そのうちの一人が「薔薇」なのである。この映画の語り手である若い助手は薔薇の虜になるが、情事はその1回だけに終わり、彼は「その薔薇の名前」すら知らずに終わる。汚れにまみれ無教養ながらも、澄んだ瞳と若い肉体をもった娘であった。

舞台は14世紀、北イタリアの山岳地帯にある修道院。そこに展開されたミステリー殺人。実行犯はいるが、僧院全体が教会の権威と富を守るために共同化して暗い陰謀の巣窟となっている。当時は犯罪という認識はなかったのかもしれない。身分が低い者は人間としても認められることがない暗黒中世社会を描いていた。ウィリアム修道士が弟子と一緒に推理を広げ事件解決に奮闘するものの、横溝正史作品のように後味の悪さが残る。

「悪魔を恐れよ、神にすがれ。神の代弁者たる神父を敬い、疑問を持ってはならぬ」。そうした価値観に支配された、陰鬱で救いがたい閉鎖社会の代表たる修道院の様子。常に曇って太陽が顔を見せず、雪に閉ざされた冷たい地形が全体の暗雲を象徴していた。

だが、権威との闘争を終えたウィリアム修道士が教会と袂を分かった夜明けは、わずかではあるが間もなくやってくる人間性回復の世紀、ルネッサンスの時代を象徴しているように思えた。まだ見ぬ新しい時代こそ、名付けられるべき「薔薇の名前」にふさわしい時代なのかもしれない。
二十億ときは隔てて孤独かな [2012年01月19日(Thu)]

  人類は小さな球の上で
  眠り起きそして働き
  ときどき火星に仲間を欲しがったりする

  火星人は小さな球の上で
  何をしているか 僕は知らない
  (あるいはネリリし キルルし ハララしているか)
  しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
  それはまったくたしかなことだ

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

  二十億光年の孤独に
  僕は思わずくしゃみをした
  (『二十億光年の孤独』谷川俊太郎)

駅のホームで飲み友達と別れた。ひとりになったらくしゃみが出た。しかし孤独ではない。男三人で飲んで語って、思って語り、存分に気持ちをはきだした。この4時間ほどの時間は、短いようではあるが価値ある時間だ。列車に乗っている。思い起こせば、あれやこれや、なんか思いだせないこともあるけれど、満足した時間だ。列車は暖かくて気分がいい。眠り込んではならぬ。後悔せぬように、しっかり目を開けておくことにしよう。外は暗い。点々とした窓の明かり。今日は19日。明日は20日。1月は去り、2月は行き、3月は逃げる? たちまち4月の花の季節がやってくる。うれしい春だ。
白銀に冬の陽浴びて大山や [2012年01月18日(Wed)]

今日昼に松江大橋近くに事務所をかまえるNPOに寄る機会があった。遅ればせながら新年のあいさつを交わした際、私が大橋から見えた大山の様子を話すと、「ここから大山が見えるんですか?」と皆さんから意外な返答。美しきものは眼前にあり。絶景を間近に鑑賞できる位置にいたとしても、そのチャンスを逃してしまうことはありがちだ。いかにももったいない。

昨夜は久方ぶりに見た冬の夜空。オリオン座を中心にした冬の大三角が雄大だ。今朝は放射冷却で冷え込んで、朝から伯耆大山は白銀に神々しく陽光を浴びていた。澄んだ空を背景にして辺りを圧倒するようにそびえ立っている。ケータイで写真を撮ってみたが、肉眼で見た迫力には遠くおよばない。代わりに、松江大橋から見た昨日の夕景色を掲載しておこう。

(コメント)
そー言えば、斐川の坂田からは三瓶と大山が同時に見えるよね。
たぶん、くにびき神話の構想はこの辺りで思いついたのかも知れん?遠いようで二本の杭は眼前にあり。
作成者 麹 : 2012/1/19 (木) 22:21

訂正:三瓶と大山の両方が見えるよね。
「同時」という表現はふさわしくないね。たぶん。
角度的にも同時に見るのは無理。
いや?いいのか?時同じだから・・・えっ!よーわからん。
作成者 麹 : 2012/1/19 (木) 22:41

いいのいいの、同時で。物理的に一目で見ることはできなくても、あっちを見てこっちを見たら両方見える。だから気持ちは高まって心では両方が同時に見えるんじゃないかなあ。弓ヶ浜の太い綱と大山の杭。引佐の浜から続く外園の綱と三瓶の杭。この4つを構想した古代人はすごいね!
作成者 ふみはうす : 2012/1/19 (木) 22:55
傷つけて軽いいたずら我知らぬ [2012年01月17日(Tue)]

昨日はイタズラをしたという話を書いたので、今日も「いたずら」をテーマにしようと思う。

「それいけ!アンパンマン」は言わずとしれたアニメ。やなせたかし原作の絵本からテレビ化されて四半世紀も続く。ジャムおじさんが作ったあんパンの種に、降りてきた命の星が宿ってアンパンマンは誕生した。バタコさんがつくってくれた服やマントを着用して自由に空を飛ぶ。かわいい顔に似合わず怪力無双で向かうところ敵なしだが、顔が濡れたり欠けると力がなくなる。新しい顔に交換すると元気100倍になって、アンパンチやアンキックでばいきんまんをやっつける。

アンパンマンが子どもたちに与えてきたメッセージはとても有益なものだと思う。大人になってからも、このヒーローにまつわる勇気や正義、忘れ得ぬ友情、感謝の笑顔、不屈の闘志といった価値観を思い起こすであろう。テーマ曲『アンパンマンのマーチ』とともに。

  なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ
  わからないまま おわる そんなのは いやだ!
  忘れないで 夢を こぼさないで 涙
  だから 君は とぶんだ どこまでも
  そうだ おそれないで みんなのために
  愛と 勇気だけが ともだちさ
  ああ アンパンマン やさしい君は
  いけ! みんなの夢 まもるため

ところで、「いたずら」だ。ばいきんまんがアンパンマンや町の人々にもたらす厄災は酷く醜い。暴行、傷害(殺そうと思っているとしか思えない殺人未遂だって多い)。さらに、放火や爆発での破壊、窃盗や強盗はもちろん誘拐にいたるまで、超弩級の犯罪者である。ドキンちゃんも同罪だ。ばいきんまんの共犯であり、犯罪を教唆し幇助する罪には限りがない。

にもかかわらず、アンパンマンは「ばいきんまん!いたずらは許さないぞ!」なのである。悪戯という言葉だと、単にやんちゃであったり、調子にのって悪ふざけをしたり、からかったりする程度のニュアンスしかない。子どもたちに有益な価値観を与えたのと同様に、少々非道な「いたずら」をしたとしても、「所詮はいたずらだ」と軽くすましてしまう感覚を養ってしまうことがないだろうか、と私は心配している。杞憂だろうか?
ファミレスで名を語るひとエリザベス [2012年01月16日(Mon)]

ときおりファミリーレストランに入る。席がつまっていて順番待ちをするときに、なまえと人数を書くことがある。慣習的に誰もが代表者の姓だけを記入する。これは単に、待つ人を判別する記号でしかないわけで、イニシャルを書いても、「A」や「AKB48好き男」であってもかまわないはずだ。ただ、「野田佳彦」とか「浅田真央」「トム・クルーズ」ではまずいかもしれないなと思う。

前からそんなことを考えていて、先月半ばにそのイタズラを実現する機会を得た。「エリザベス/3名」と書いたのである。

妻と娘は、パパのそばにはいたくないねえと苦笑いした。我々の次にきた客は、オッという顔をした。順番がきて店の人が、「3名さまでお待ちの、エリザベス・・さま?」、すかさず「はい」とこちら。店の人は笑いを抑えることができない感じで、メニューを案内する間中、クスクスと笑顔だった。

もくろみは成功した。罪のないイタズラをして、私はほくほくと楽しんだ。
新時代みんなちがつてみんないい [2012年01月15日(Sun)]

≪人間には、「同化圧力」というものがあります。人と同じかっこうをして、同じようなことを言って、同じように振る舞っていれば安心。日本の社会は、特にこの「同化圧力」が大きいというところがあります。昔、漫才で「赤信号、みんなで渡ればこわくない」というのがありましたが、客観的に見ればどうかな、と思えることでも、みんなでやってしまうとできてしまう、というようなところがあるのです。
 みんなが同じであることが好きだということは、日本の社会の強みでもあります。力を合わせて何かをやるときには、他人と同じにすることが役に立ちます。戦後、日本が外国から原材料を輸入して工業品を輸出するという加工貿易で復興していくなかでは、日本の社会の均質性が貢献しました。≫

『茂木健一郎の人生問答』(第三文明2012年2月号)で茂木氏は、鳥を観察することを好む少年に対し好奇の目を向け笑いの種にする周りの人たちの心理を、このように解説する。締めはこうである。この回答を読んだであろう少年は、きっと勇気百倍笑顔になって、鳥を観る目をさらに研ぎすますにちがいない。

≪むしろ、「普通だったらつまらないぞ」。そんなさわやかな競争こそが、これからの日本を元気にしてくれるはずなのです≫

ひとは一人ひとり違うからおもしろい。群れて楽しむことは確かに楽しいし、考えなくてもよいという安心感はあるが、孤高を楽しむ時間も有益だ。群れなければ生きていけないとしたらそれは悲しいことであり、自分をなくすことにつながりかねない。

すずと、小鳥と、それからわたし/みんなちがって、みんないい。と歌った金子みすずのような存在よ。もっと出でよ。
和の美人肌のごときよ深き水 [2012年01月14日(Sat)]

島根県立美術館で『伊東深水展』を観てきた。大正昭和期の美人画といえばこの人をおいて外にない。美人とは肌なり、と感じさせられた。肌と同様に着物の肌合いもなめらかで丁寧に描かれる。翁の絵であっても美人肌のように羽織に端正さが現れていた。洋服も和服的に平坦で単調に輪郭が描かれる。深水の美はまさしく健康でなめらかな肌にあると思った。

深水の写真を見ると、剛直で謹厳、役人的風貌である。このひとのどこに、女性へのねっとりとした耽美なる目が宿っているのであろうか。深川生まれで深、師匠鏑木清方の清のサンズイをとって水なのだそうだ。

「色彩のリズムから來る一種甘い官能、そして春とは、其處に醸される明るい氣分の象徴です」とは、大正6年19歳のときに描いた『春』を自ら解説したものである。あどけなさのまだ残る遊女だろうか、赤い着崩した着物に隠された健康そうな身体の線がほのかに連想させられ、なまめかしく、甘くやさしい。早熟な青年画家の境地をかいま見ることができる。

代表作『指』。シースルーの黒い着物。短い白の襦袢が着物を透かして見え、健康的な太ももが男心をそそる。黒い下駄に鼻緒が明るい瑠璃色。帯からのぞいた紅い下帯が鮮やかだ。のぞいた足の白く美しいこと、肌は色白で頬は軽く紅潮し、唇にはおちょぼ口の紅がはいる。長く白い指には指輪をつけている。邂逅するような幸せな表情。背景には薄暮の中でぼんやりした夕顔か。金色の髪櫛が見事だ。美人が直接身につけている物はくっきりと描かれ、その他の物は薄暮に浮かび上がるタッチである。静かなたたずまいにうっとりとしてくる。これもデッサン力と観察力の賜物であろう。これを描いたのが大正11年、まだ24歳のときだ。

「女性を見るねっとりした目」と書いたが、後期に至るさまざまな美人画を観れば、助平な男心ではなく、人物のひととなりを愛情ある視点で描いたと言えまいか。たまたま対象として多く女性を描いたのだ。伏し目で受け身であるだけの存在であった典型的伝統的美人画も継承しつつ、ピカソのタッチを想像させるような女性群像『宋磁』など、楽しませてくれる絵も多い。必見である。
武者震い試験前夜に希望あり [2012年01月13日(Fri)]

明日1月14日と15日は大学入試センター試験(正式名を知らない)。何十万人という受験生たちがそのときを武者震いしながら待っている。楽しみにルンルンと待ち望む者はいまい。

実力が発揮できるかどうかを心配し、そもそも全範囲を勉強できていないことを悔やみ、先週の模試結果に一喜一憂し、今まさに寸暇を惜しんで、君は勉強していることだろう。

固定化された学力などない。数ヶ月にわたる継続が明日実を結ぶかもしれないし、今瞬間の記憶が明日の君を助けるかもしれない。受験でつちかった学力は、新しいことを記憶し組み合わせて考え、想像や創造の基礎力となる。

リップサービスとしてよく使われる「無限の可能性」など凡人にはない。どんなに努力を重ね、最高の条件を整えたとしても、私たちはイチローにはなれないし、澤穂希のようにメッシと並んで栄誉を受ける可能性などない。

だが「無限の希望」は誰もが平等にもっている。いかに物事を感じ、言葉にあらわし、いかに行動し、他との関係をとり結んでいくか。運命や宿命はあろう。しかし意志の力で負けずにすすむところに、希望は尽きない。生きることの総体で幸福をつかみとっていくことができるはずだ。無限の希望の可能性は無窮の広がりをもっている。

その一歩として、明日は全力で戦ってくれたまえ。
戸口開け調子はどうと寒見舞 [2012年01月12日(Thu)]

日本の自動販売機普及率や精度は世界に冠たるものであるという。その代わり、相対で買物をし、会話を楽しむという習慣を私たちはなくしてしまったような気がする。スーパーマーケット、コンビニ、ファストフードなど、マニュアル化された店員の言葉は発せられても「会話」はなり立ちにくい。影響されて、一般の商店すらもコンビニ化してしまったような傾向がある。場合によってはひと言もしゃべらなくても買物をすることができるし、ネットショッピングをすれば外に出る必要すらない。

≪生活に必要な品物の売り買いというものは本来、両者が対面してこれを行うという常識と道徳とがなければならぬ。もしや日本人はその世界的な常識と道徳とを無視して、単純に物と金とを交換するという合理主義に走ったのではなかろうか。(中略)
 たぶん私たちはめくるめく高度成長期に、アメリカの合理主義を超越してしまったのであろう。自販機がかくも増殖した本当の理由は、日本人の機械好きでも日本社会の治安のよさでもなく、われわれが物の売り買いにまつわる人間のコミュニケーションすらも、不要なものだと考えた結果ではあるまいか。≫
 (浅田次郎『EVER VENDING STORY』つばさよつばさ)

3.11後、絆を求めてこのような買物風景も少しは変わっていくといいがなあ、と思っている。スーパーでもさりげない会話ができるとうれしい。
月満ちて暦不可思議換算し [2012年01月11日(Wed)]

暦とは、宇宙開闢以来、刻々と淡々と流れる時間を年・月・日として数える体系である。いまやカレンダーなくして私たちは生活ができない。現在使われているグレオリオ暦、その前身のユリウス歴、中国で王朝の代々使われてきた暦、それをベースに日本で使われた天保暦などがある。

そもそも根本としては、地球の公転周期を元とした太陽暦、月の満ち欠けを基礎にした太陰暦、太陰暦に閏月を挿入する太陰太陽暦がある。現在では超精密な原子時計で閏秒まで添えられている。それらを精密にするために人類は月や太陽、天体を観測し、天の変化に注意をはらい、さまざまな工夫の結果、今の暦がある。まさに人類の英知を結集したのが暦だと言える。

NHKラジオ第一では毎日数回、「今日は何の日」が放送される。何年か何十年前、あるいは何百年前の「その日」には何があったのかを知らせる番組だ。ネットでもそうしたサイトは多く見られる。日々の暦に私たちがいかに関心を持っているかの証明となろう。

ふつうは旧暦(太陰太陽暦)を使っていた時代の日付けはそのまま旧暦で表示する。たとえば、赤穂浪士討ち入りの日である元禄15年12月14日は旧暦である。あえて現在の新暦(グレゴリオ暦)に換算して翌年1月30日を記念日とはしない。となると、まだ旧暦を使っていた明治2年(1869年)2月30日にあったことは、存在しないことになるなあ、などと今朝の放送を聞きながら考えていた。イスラム暦や北朝鮮の暦など世界観が違えば暦も違い、見えてくる風景も違うものになるのだと思う。不思議なことだ。

旧暦から新暦に換算するサイトはたくさんあるが、ふたつほど紹介しておこう。

こよみのページhttp://koyomi.vis.ne.jp/mainindex.htmは、新暦→旧暦換算だけでなく、二十四節気など季節のページ、日付の電卓ではバイオリズム計算、天体の動きまで多彩。
かんれき【換暦】http://maechan.net/kanreki/は、グレゴリオ暦、ユリウス暦、和暦、干支(年・日)、六曜、曜日にいたるまでひと目でわかる。

『神々の国しまね』観光キャンペーンで目玉となる神在月十月は旧暦で数える。日付けを旧暦に換算する作業は不可欠なのである。
愛される日々を待ちつつ待たせつつ [2012年01月10日(Tue)]

今年は最古の歴史書「古事記」から編纂1300年。2013年には出雲大社が60年に一度の大遷宮を迎える折り、島根県では『神々の国しまね』と題して観光キャンペーンを始めた。その公式メッセージソングが谷村新司により完成した『はじまりの物語』である。

  愛される日々を 待ちながら 暮らしていた
  気付かないうちに 自分を閉じ込めてた
  私の心の 素直な声 聴きたいから
  旅を決めた時が 私のはじまり

  私は変わる 予感の中 トキメく胸
  私は変わる いにしへの街から

  私は変わる 時をこえた 出逢いの旅
  私は変わる はじまりの街から

   (『はじまりの物語』(谷村新司作詞作曲)より抜粋)

「私は変わる」のか? 当然のことながら変わる。体が成長し、やがて老い、太ったり痩せたり、シワができて、感動したり絶望したり、そのくりかえしで日々変わる。

「私は変える」だろう。新しい服に身を包み、思索して何かにひらめき、他者に働きかけ、意志の力で刻々と変える。

この歌で島根も変わる、変える。「時をこえた 出逢いの旅」を演出し、旅人の自発をうながしながら、島根は変わる、変える。
不安あれど変えていきたし将来を [2012年01月09日(Mon)]

このほどネットリサーチマクロミルが「2012年新成人に関する調査」を発表した。自分たちの世代で日本を変えていきたいとする者が約8割、政治や経済に関心を持つ者が7割超と頼もしい。一方で希望する職業は第一位が公務員で、将来年金がもらえるかどうかが不安とする者が9割もあり、安定志向や寄らば大樹の陰的な発想も強い様子だ。500名からの回答である。

【あなたは、自分たちの世代が日本の将来を変えてゆきたいと思いますか】という質問に、76%が「そう思う」か「ややそう思う」と答えており、特に男性の32%は「そう思う」と予想をはるかに超えている。あの一見やさしいだけの若者がそう言ってくれているのである。76%という数字は去年の同じ調査が68%だったことからしても、大きな変化である。

【あなたは、「政治」「選挙」「経済」にどの程度、関心がありますか】に対しては、政治に72%、選挙に59%、経済に76%が「関心がある」か「やや関心がある」と回答した。特に男性が政治に関心がある、男性が経済に関心があるとしたのは4割を超えている。

そうした関心が具体化されると【これからの日本が取り組むべきだと思うことは何ですか】という質問の回答にあらわれてくる。1位が雇用政策で70%、2位が景気対策で66%、3位が年金制度の充実・改善で63%となる。4位5位は震災関係が頭を出して、被災地復興54%、放射能問題への対策52%となり、6位に少子化対策47%となった。

将来就きたい職業の第1位は公務員で19%、2位が技術系会社員で15%、3位はサービス系の会社員と続く。一番多いのは「わからない」で29%もあったが、この超のつく就職難が彼らの心理にそうとう影響を与えている。

国民年金制度についてどのように考えているのかというと、30%が「必要な制度だと思う」にもかかわらず、「関心がある」とするのは17%しかおらず、「年金は老後が安心できる制度」だと信頼しているのが13%のみである。さらに「将来自分がもらえるか不安」とするのが7割超もいる。

旧来の社会システムへの信頼感はない、だから社会的なことには関心をもつように努めて将来に向けて頑張っていきたいと思う。にもかかわらず、どうしていいかわからず不安をかかえておろおろしている。そんな若者の姿が浮かんできそうなアンケートであった。
蔑まれ平家と源氏ライバルに [2012年01月08日(Sun)]

NHK大河ドラマ『平清盛』が始まった。「皇家の犬」であることに屈辱感を押さえられない忠盛が出生の秘密をもつ清盛を強く育て、やがて源氏の棟梁となる源義朝(今回は出なかったが)とのライバル関係となる、そうしたことを軸にして物語はすすんでいく模様だ。壇ノ浦で平家が滅びたニュースを鎌倉で聞いた頼朝が清盛を評し、「平清盛なくして武士の世は来なかった」と言ったところがドラマの冒頭であったが、まさに清盛は控えでしかなかった武士を世の中心にすえた改革者であった。

平安貴族たちは忌み仕事としての軍隊をなくし、治安や党争で穢れる役目を武士に外注した。政情不安で力がものをいう当時の世にあって、武力をもった武士がやがて権力を得ていくのは当然であるが、忠盛、清盛、義朝のころはまだ唾棄すべき卑しい存在でしかなかった。武士政権を実現したのが清盛であった。

その改革者たる清盛が病死して、なぜ平家はあっさり滅びてしまったのか。頼りにしていた重盛が早世してしまったこともあるが、平家も貴族化して武士の力強さをなくしてしまったことが一番の原因だと思う。さらに、政権運営のイノベーションが起きなかったからである。なぜ源氏と北条氏によって武家政権が定着したかといえば、政権の中心を京都に置かないというコペルニクス的転回の改革を起こしたからだと思う。

清盛のころの平家は強くなったとはいえ、基本的には貴族から蔑まれる存在である。京の貴族社会の細かい作法にしばられて、武士はその牙を抜かれてしまう。武力を行使することは汚らわしいという価値観にも毒されてしまう。だが京から遠く離れれてしまえば、武士が武士らしくいられることは間違いない。

清盛は海洋国家をつくるべく福原(神戸)に遷都したが、すでに平家は貴族化してしまって遅かった。早いうちに神戸や厳島を政権拠点にしてしまっていたら平家の世は長く続いたかもしれない。清盛には当時の動かしがたい常識として、政権は京にあるべきという固定観念があったために、そうしたイノベーションは考えつかなったのだ。という点で頼朝はすごい改革者だ。

忠盛役の中井貴一の名演もある、音楽もいい、カメラワークもエネルギッシュだ。松山ケンイチの清盛も力がはいっている。骨太のNHK大河ドラマが帰ってきて、毎週日曜日が楽しみになった。
佳き年に腹が調う七草よ [2012年01月07日(Sat)]

今日1月7日は七草粥の日だ。わが家でも朝食に春の七草を炊きこんだお粥を食べた(フリーズドライのものだが)。お粥は大好物につき、汁がたっぷりのかゆをふーふー言いながらすすった。七草がゆは、正月の食べ過ぎと不規則生活に疲れた胃を休め、栄養素を補う。中国から風習が入ってきた際には、邪気を払い万病を除く呪術的な意味もあったようである。日本では江戸時代から定着したという。

 セリ(芹)
 ナズナ(薺=ぺんぺん草,ハート型の可愛らしい実)
 ゴギョウ(御形)
 ハコベラ(繁縷=はこべ)
 ホトケノザ(仏の座)
 スズナ(蕪)
 スズシロ(蘿蔔=大根)

「よい年をお迎えください」と年末の挨拶でしめ、年始は「明けましておめでとうございます。新しい年が幸多き佳き年となりますよう・・・」と挨拶を交わしてきた。

よい年の定義があるわけではない。それぞれがこの言葉に違う思いをもち、想像も解釈も違う。他人に向ける言葉であれば、聞こえのよいリップサービスであってもかまわない。自身が歳末になって振り返ったときに、よい年であったかどうかを判断する際には、自分なりの基準が必要である。やはり目標は明確にしておかなければなるまい。

(写真は庭に生えていた仏の座)
暖かき雪がちらつくブランコや [2012年01月06日(Fri)]

 いのち短し 恋せよ乙女
 紅き唇 あせぬ間に
 熱き血潮の 冷えぬ間に
 明日の月日は ないものを

 いのち短し 恋せよ乙女
 黒髪の色 あせぬ間に
 心のほのお 消えぬ間に
 今日はふたたび 来ぬものを
  (吉井勇/ゴンドラの唄)

かつて観た黒澤映画『生きる』で名優・志村喬は、余命短い市役所の課長として「いのち短し 恋せよ乙女」と歌った。だからといって、若い乙女との燃える恋に身をやつしたわけではない。「今日はふたたび 来ぬものを」と思い切って、人々に念願されていた市民公園を造ることに全力をあげる。人に役立ってから最期を迎えることができた達成感に満たされて、あの有名なブランコのシーンがある(確か雪がちらついていたような気がする)。

『脳科学からみた「祈り」』(中野信子著,2011年,潮出版社)で著者はいう。≪利己的な人ほど、自分は幸福でないと思ったり、周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い≫と。すなわち、利他的な人ほど幸福感を得られているということになる。

≪利己的で自分のことしか考えず、目先の損得にしか関心がない人は、配慮範囲が狭い人です。逆に、他人や遠い将来のことまで思いを馳せることができる人は、配慮範囲が広くなります。≫
配慮範囲が広いと運もよくなるそうだ。
≪利他的な志向を持つ人は、よい人間関係を持続的に築けるため、自分の周囲に盤石なネットワークをつくることができます。言いかえれば、周囲のみんながこぞってその人を助けてくれるわけです。≫

他人の喜びをわが喜びとして心を躍らせる。わが感動を他の人にも分かち合う。ステキな人生だと思う。
決闘に不気味ただよい顔見えず [2012年01月05日(Thu)]

子供のころ、テレビで見て印象深い映画があった。不気味なトラック、運転手の顔が見えず、巨大トラックが命をもったかのように主人公を追いかけて殺そうとする怖い映画だった。あれは何だったのかとネットで調べてみたこともあるが、わからなかった。結末では、崖から落ちて破壊したトラックの車輪がカラカラと回って止まることでトラックの命は絶えた。それが子供心にもわかった。

今回その謎がとけた。原題は『duel』、日本語題『激突!』であった。顔の見えない狂気のトラックが凶器となって主人公の赤い乗用車を追い詰める。やっと逃げることができた、どこかへ行ってしまった、とうとううまくまいた、と観客を安心させては、不気味な巨体は虎視眈々と主人公をつけ狙った。

主人公はいらだっていた。妻と派手なケンカをし翌朝顔も見ずに出かけた(おそらく、強烈なDVで妻は離婚を考えていた)。顧客と約束した時間は迫っている。前を行くディーゼルトラックはのろのろと行く手をふさぐばかりか、排気が煙たくうっとうしい。そのトラックを抜いたばかりに、不幸にも「決闘/duel」の相手に選ばれてしまった主人公。

果たし状を突き付けられたわけではなく、静かにかつ通り魔的に決闘の相手にされてしまったのだ。通り魔事件がときおり起こるが、その極めつけだと感じ、理不尽さに恐怖した。犯人にとってはなんらかの理由があろう、どんなに些細な事柄であったとしても。しかし選ばれたほうにとってはわけがわからない。殺気や不穏な気配を感じたら、対抗などせずその場から離れることがいかに大事かを知ったような気がする。もちろん危ない場所には近づかないのが一番だ。

まさに二人の決闘が始まることを象徴するシーンがあった。自車の性能では逃げおおせることはできないと覚悟を決めた主人公が決然とシートベルトを締め、トラック運転手が前へ出ろと手招きするところだ。警察の助けも得られない、顔の見えない相手はあくまで執拗だ、ならば戦うのみと腹を据えた。まるで、西部のガンマンと卑劣な悪党との決闘だ。

テーマ音楽はなく、甲高い擦りガラスを爪で引っかくようなバイオリンの高い音、それと東南アジア的な打楽器が打たれ、不安を高める。観ていてお尻が浮き上がるような緊張を感じるのに、じっと観つづけることができるのはなぜか。結末を知っていることもある。それ以上に、舞台がアメリカ中西部の都市から離れたカラッと晴れた砂漠地帯だったからかもしれない。雨や夜中が舞台だったら、怖いオカルト映画のように最後まで目を向けることができなかっただろう。

トラックが死んだとき、主人公は会心の笑みともホッとした涙ともつかない表情を浮かべた。しかもその場から離れようとせず、好敵手を倒して目標をなくしたような虚無感を漂わせた。おそらく、主人公は自身にもむき出しの凶暴性があることを意識したのではないだろうか。「平凡そうに見える主人公ですら凶悪さを持つ。ましてやあなたも持っている」というメッセージで、観る者に自分への疑問を生じさせる映画だったように思う。
年一度きずな信じて賀状書く [2012年01月04日(Wed)]

年末に年賀状を投函した。元旦、二日、三日、そして仕事始めの今日、賀状が届いた。直接会ったり、メールをしばしばやりとりする人もいるが、むしろ少ない。多くは年に一度の年賀状だけのおつきあいになってしまっている。それでもいい。そこにつながりが継続しているからだ。絆があるからだ。

  年一度 絆信じて 賀状書く

年賀状にもいろいろなパターンがある。印刷会社に定型的なプリントを頼んでいるもの(面白みはない)。自前で作成した写真や絵画の自信作(これは見応えがある)。家族一人一人の近況を一筆ずつ語るもの。プリントゴッコを使う人はもういなくなった。独創的で楽しいものもかつては多かった。家族の集合写真は見ていて楽しみだ。一方で、子どもだけの写真を毎年送ってくれる人も結構多い。だがその子どもたちには会ったことすらない。

  見も知らぬ 子どもの写真 送られて

近況や今の想いが書かれたものには、その筆跡も含めて愛着を感じる。せっかく一言が書けるように欄を空けておきながら何も書かれていない賀状は無味乾燥に思える。

  肉声の 聞こえぬ賀状 肩すかし

「あて所に尋ねあたりません」と赤いスタンプを押して返送されてくるときがある。住所の転記ミスの場合もあるが、去年と同じなのに返ってきたハガキを見るのは寂しい。

  三が日 届かぬ想い 舞い戻り

いずれにせよ年賀状は、年のはじめのお楽しみである。
終わりなき利他のふれあい我がために [2012年01月03日(Tue)]

コミュニケーションには終わりがない。人間の感情も汲み尽くすことはできない。もっともっと相手に関心を持ち互いの言葉を聞きあえば、絆は広がり深まっていくにちがいない。

≪「もう、わかったよ」とか「だから、その話は、もう聞いたってば」というのは、「私はあなたの言いたいことをたいへんよく理解しました。ピース」というような友好的なメッセージではありません。どちらかというと「わかったから、黙れ」というコミュニケーションの打ち切りを意図する信号ですね。
 私たちが会話においていちばんうれしく感じるのは、「もっと話を聞かせて。あなたのことが知りたいから」という促しです。でも、これって要するに、「あなたが何を言っているのか、まだよくわからない」ということでしょう?
 私たちが話をしている相手からいちばん聞きたいことばは「もうわかった(から黙っていいよ)」じゃなくて、「まだわからない(からもっと言って)」なんですね。≫
 (内田樹「先生はえらい」ちくまプリマー新書,2011年)

情けをもって人のために活動できたときの充実感、エネルギーの充填度といったら、自分だけの活動をしただけのときと比べると、確かに比べようがない。

≪「不思議だね……困った時こそ『人のために』って動けたのよ」。ある婦人は、震災当時を振り返った。「人のために生きられることが幸せです」。自らも被災しながら、被災者支援の仕事に携わる青年は語った。「人に尽くす」ことは、「人のため」だけでなく「自分のため」であることを、私たちは学んだのである▼最新の脳科学の研究でも、恋愛などより、「利他の行動」から得る快感の方がずっと大きいことが分かりつつあり、その快感は、他者の評価の有無によっても変わらないとする見方がある≫
 (聖教新聞「名字の言」2012年1月1日付け)

利他の行動と会話のキャッチボールをつづけていきたいと思う。
ひきしめて油断するなと事態みて [2012年01月02日(Mon)]

元旦の朝、≪見えずとも/太陽はこの地球を照らす/幸あれと/不幸を乗り越えよと≫と書いたが、さっそくトラブルが発生。

帰省してきたペーパードライバーの息子に運転させて、ここ数日調子よく練習がすすんでいたように思っていた。昨日も買物や食事を終えて帰ってきて、あと十数メートルほどで自宅の駐車場というとき、最後の狭いカーブを曲がったときに事態は急変した。生け垣に斜めにつっこんでしまったのだ。助手席に座っていたわたしはなんとなく安心していた、油断があった。ケータイで調べものをしていてカーブを曲がったところでふと前を見ると、車がまさに垣根に入り込む直前であった。なすすべなく、2mほど進んで止まった。運転ミスだった。バックした。生け垣の中にあった庭石に角をぶつけて車は中破した。元旦早々なんのこっちゃ!! 保険会社に連絡したり、販売店に電話して代車を用意してもらうようお願いした。事故証明が必要ということで出雲警察へも電話した。夕方現場検証にパトカーが来て二人の警察官に事故の状況を話した。

「引き締めよ」「油断すな!」という声を聞いたような気がした。幸いに車だけの外傷ですんだ。自分たちに怪我があったり人身事故につながらなくて、よかった。一年の計は、気を抜いて警戒を怠ってはならない、安住し事態を甘く見てはならない、過信し慢心してはいけない、気が緩めば不覚をとり思わぬ落とし穴にはまるぞ、で始まった。
元朝や心事あらたに日がさすや [2012年01月01日(Sun)]

2012年元朝
曇っている
見えずとも
太陽はこの地球を照らす
幸あれと
不幸を乗り越えよと
そして今9時
雲間を抜けて日がさしはじめた
穏やかな辰年の始まり
一年の計は元旦にあり
大切な節目の一日である

(コメント)
「新玉の年を迎え、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。」
本年もよろしくお願いいたします。
作成者 正中館道場 : 2012/1/2 (月) 21:58

今年もどうぞよろしくお願いいたします
雪のない正月は寂しいような気もしますが、やはりホッとしますね
さあて、箱根駅伝を見ることにしましょうかね
作成者 house21 : 2012/1/3 (火) 07:34