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西東輝きわたる惑星よ [2011年10月31日(Mon)]

久しぶりに金星がお目見えした。
夕方の西空低くに、宵の明星として。
少し生暖かい空気、空も湿気が多そうだ。
飛行機雲が二本交差し、太く発達しつつある。
何種もの橙色に染まる夕焼け空と雲。
金星は負けずに光を放つ。

松江大橋から目を東に転ずれば低い位置に木星が輝く。
これから一晩中輝く。
両者をやじろべいの支点で結べば軸は天頂となる。

南西には三日月が存在を主張する。
毎夜毎晩育つ私を見てよと。
夜長の秋に道行く人を導いてくれるだろう。

明日から11月。
また夏日が来るかもしれないと。
今年もあと2ヶ月。
いったいどうなっていることやら、トホホ。
斐伊川を越えて就職狭き門 [2011年10月30日(Sun)]

今日10月30日は、出雲市議会議員の斐川選挙区増員選挙の投票であった。6人の枠にたいし現職ほか12人が立候補するという極めて厳しい選挙であった。争点ははっきり言って、ない。

積年の争議の焦点となっていた合併するか否かは、この10月に決着した。農業などの産業をいかに展開していくか、住民サービスの質をいかに担保するかを候補者は訴えていたが、基本的には斐川が大出雲市に埋もれてしまわないようにすることが中心だ。しかし、候補者ごとにそれほどの違いがあるわけではない。

住民の目から見れば、議員という仕事を確保できるかどうかという就職活動のように思える。倍率2倍の大競争だ。新議員の任期が2013年4月までであるうえ、次回からは特例なく全市が一つの選挙区になるだけに議員たちには真剣勝負である。

わたしはどう判断したかというと、誰に頼まれたとか候補者の演説を聞いたとかは一切材料とせず、選挙公報のみで選んだ。経歴しか記さない者、たどたどしいボールペン自筆で書く者、ワープロの書体や構成などテクニックを駆使する者などいろいろだったが、唯一「議会だよりを発行する」という現職議員に投票した。

活動ブログやホームページなどぜいたくは言わない。自分の目と耳で感じた出雲市議会の様子を伝え、自分の主張を訴えつつ執行部を動かしていかなければ、議会だよりは発行できない。彼の目に期待しようと思う。今の段階で某候補者が当選するかどうかはわからないが、行く末を見届けることとしよう。
太陽の放射のごとき花なれば [2011年10月29日(Sat)]

セイタカアワダチソウの季節になった。今や秋盛りの花の代表格となった。戦後に貨物船経由でアメリカから入ってきたといわれ、一時は秋の花粉症の元凶と言われた(のちに濡れ衣とわかったが)。鉄道沿線は黄色の花でおおわれ、秋の風物ススキを駆逐するとも言われた。幸いに今は両者は共存して秋の風景をつくっている。

その名のとおり、「背が高く」「泡立った」草である。黄色い粉砂糖をたっぷりまぶしたケーキのような、アルプスの峰々に黄色い新雪が降り積もったような風情を感じる。

花を観察してみると、花びらのごく細い小菊を数千も集めた作りになっている。中心の丸いところに放射状に花びらが広がるのは太陽の形だ。セイタカアワダチソウは太陽を無数に集めた花なのだ。

山陰本線沿線も休耕田も川べりもどこもかしこも、アワダチソウの黄色がある。菜の花の色よりは濃く、ひまわりの色よりは薄いこの黄色いミニ太陽。太陽が染める秋を楽しもう。
おでかけで深呼吸なり気をかえて [2011年10月28日(Fri)]

仕事を終わり職場を出るときに、
「深呼吸をして出る」という人がいた。
疲れた体と気持ちに空気を注入し、
すこし鬱々とした気分を変える。
仕事の後に出かけるどこか。
人と会う。コンサートに行く。飲みに行く。
仕事の後にまっすぐうちに帰る。
晩酌をする、会話を楽しむ、本を読む。
深呼吸をするということは、異なる環境に移動し、
充実した活動をするためのまじないのようなものかもしれない。

(コメント)
坐禅では息をゆっくり吐いたり吸ったりしてコントロールし、心を静めることを「調息」といいます。
まず、口を結んで腹式呼吸=鼻から息を吐きす。(体中の空気を全部吐き出すつもりで・・)
そのとき、心の中にあるものも吐き出すよう想念します。できるだけ長く、もう限界というところまで吐き出します。そして同じく鼻でゆっくり息を吸います。(腹の中まで空気が入るのがわかると思います。)
次に臍下丹田を意識します。(医学的に丹田という臓器があるわけでもありませんが、臍下3センチくらいのところに気持ちを集中させて・・)胸や腹の空気を出します。全部出しきったら丹田に入れていた力を抜いて息を吸います。これを何回か繰り返します。
イライラしたり、カッカしているときは呼吸が早くなっています。これは肺だけの浅い呼吸をしているからです。ゆっくり呼吸することで、新鮮な空気が体のすみずみまで届き、心を落ち着けることができます。
投稿者 せいちゅうかん   : 2011/10/28 (金) 22:16

追記
佑○さんの著書、「円○投○」の中で、投げるときに声を出して投げるのと黙って投げるのとでは、声を出して投げる方が飛距離は伸びる。と書いていますね。
力を出すには息を止めるか息を吐くしかありません。声を出すことは息を吐くこと・・・理にかなっていますよね。
投稿者 せいちゅうかん : 2011/10/28 (金) 22:36

なるほど! 息を吐けば瞬間的に力がでる。一方で息をゆっくり吸ったり吐いたりすると落ち着けるのですね。むしろ戦う職場に入るときに深呼吸をするといいのかもしれません。
投稿者 house21 : 2011/10/30 (日) 21:28
人間になりたい彼らは人として [2011年10月27日(Thu)]

土曜夜9時から実写・CGの『妖怪人間ベム』が始まった。人造人間をつくる過程で妖怪人間になってしまったベム、ベラ、ベロ。どんなに正義で温かい心を持とうとも、彼らは実質妖怪だ。人間には気味悪がられるが、人間になる術はあるはず、と夢を叶えるために旅する。

彼らには、つねに悲しみがある。心を許した人間に本性を知られ、逃げ出されるとき。心の醜い人間の姿を見たとき。何度人間に裏切られたとしても、彼らの善性は困っている人間を助けようとする。自分たちが危険を冒したとしても。

「はやく人間になりたい」という切なる願いをいつか叶えるために、人間になる方法がわからなくても、生まれたときから歳を重ねることがなくても、自分の楽しい歴史が築けなくても、また人間に裏切られても。3人は、悲しく前に進み続ける。

にもかかわらず彼らの唯一の喜びは、困った状況にある人間を助けることであり、ときに温かい目を向けられることだ。それでもやっぱり、裏切られて悲しい思いを抱えてばかりだ。

亀梨和也のベムがいい。悲しみを横顔に表す。しかし夢を信じている。懐疑的に人間を見るベラ-杏は奇麗だ。抜群のプロポーションに冷厳さの表情をのせ、まっしょうがないかと、ベムを助けに行くのがいい。ベロ役の天才子役・福くん。ホントの人間のように可愛らしい。

人間は多種多様だ。冷たいのも温かいのも、怖がりも度胸持ちも、小心も大胆も、回転の速いのも遅いのも様々だ。両極端にならずとも、中間どころに無数の人がいる。

3人が人間になるとき、最も人間らしい温かい気持ちを持った3人は、あるときは平凡で、またあるときは愚かで、さらに冷酷な人になることだろう。そして、人間になりたいと思い焦がれた頃があったなど忘れてしまうにちがいない。それも彼らの悲しみに含まれているのかもしれない。
自転車を回す毎日怠らず [2011年10月26日(Wed)]

Web大辞林は、【自転車操業】のことを次のとおり定義している。

≪〔自転車は走るのをやめると倒れることから〕資金の借り入れと返済を繰り返しながら、かろうじて倒産を免れ操業を継続すること。また、そういった経営状態。≫

いざというときのために蓄えるなどという余裕はなく、収入のすべてを支出に費やす場合も自転車操業という言葉を使うこともある。さらに、経営や経済状態のことを形容するだけでなく、苦しい状態がずっと続いていることを、自転車操業と言う場合がある。世の中の多くのことは、いわば自転車操業と言えるのだと思う。貯蓄として蓄えておくことは難しいのだ。

親子や恋人、あるいは大切にしたい人間関係。それらは後退するか、前進するかしかない。過去の成功に胡座をかいたままであれば、疎遠になる、疑いが起こり、互いの気持ちがわからなくなる。仕事だってそうだ。事務処理が停滞すれば、実績は過去のものとなる。地域社会の役割も放り投げたままにしておけば、止まった自転車のように倒れてしまう。

自転車操業は決して悪いことではない。弛まず怠らず負けない姿勢を貫くことの証明なのだ。さあ、今日も明日も自転車操業を続けよう。
引き込まれ道をひらくよファンタジー [2011年10月25日(Tue)]

わたしたちはファンタジーを読むとき、説話として作家からのメッセージを読み取ろうとして想像する。しかし次の文を読むと、ファンタジーとは単に作者の言いたいことをなぞらえる道具ではないことがわかる。

≪フィクションの書き手であるわたしは、メッセージを語ることはしない。わたしは物語を語る。たしかに、わたしの物語は何かを意味している。でも、それが何を意味するか知りたいなら、物語にふさわしい言語で、その問いをなげかけなくてはならない。メッセージなどという用語は、解説書や説明文、訓話にふさわしいものだ≫
 (アーシュラ・K・ル=グウィン「いまファンタジーにできること」谷垣暁美訳)

そして、心理療法家の故河合隼雄氏が「良質のファンタジーは心の扉を開く」という意味合いのことをよく言っていたことと同じことがこの本に述べられていた。

≪ティーンエイジャーたちが自分たちの役に立つ真実を―世界の暗い森の中にひとりではいっていく道を探しはじめるとき、ファンタジーの中に、それを見つけることが多い。年長者、教師、説教師からの出来合いの指示に従うことに甘んじず、自分自身の道を求める場合はなおさらだ。想像力をきたえ、選択肢をもたらすことによって、ファンタジーは彼らに自分で自分を導く機会を与える。一級のファンタジーは一級の導きを提供する。≫(同上)

ハリー・ポッターシリーズは極めておもしろい物語ではあるが、勧善懲悪がくっきりとしすぎて心理面では単調だ。「一級の導きを提供」してくれるファンタジーに出会いたいものである。
独裁者死なすは惜しいリビアかな [2011年10月24日(Mon)]

先週のことだが、リビアのカダフィが殺された。かの国にとっては大きな損失だと、私は思う。

彼は汚れきった旧体制の刷新者として登場した軍人革命家だった。青年らしい清々しい笑顔、颯爽と振る舞う姿、年寄りたちを温かく気遣う模範生として国民の憧れをつかんだ。

しかし、それをいいことに、独裁者として自分と親族、取り巻きに権力が集中する体制を築いた。議会は作らず、行政機構は中途半端。国民に考えることをさせずに、国民国家として伸びる機会を摘み取った。裁判制度すらない。石油で儲けるノウハウも、国民を掌(たなごころ)にして思いのままに操縦するやり方もすべての学習成果を、あの頭のなかに残したまま死んだ。

カダフィ体制を打ち負かすという目標を達成した今、リビアは混乱の極みに達しそうな気配がある。彼を生かしておいて独房に拘束したまま、終身刑アドバイザーとしていたならば、少しはかの国に秩序をもたらす知恵が得られたかもしれない。

しかし彼は裁判を受ける機会すら得られぬまま、私刑として頭に銃弾を撃ち込まれて殺されてしまった。当然の報いかもしれないが、国民は恨み骨髄に達していても、法でもって裁くという理知的なやり方があることを学ぶ機会もなく、新たな地獄の淵に立たされている。

(写真は、毒々しい感じもする石榴の実)
温かきときは過ぎても母は母 [2011年10月23日(Sun)]

母は老いた。白髪が増えて薄くなった。視力が落ちて膂力(りょりょく)も落ちて外出には頼りなげだ。手元がおぼつかなくなり、常に医者に通っている。思うにまかせない体の不如意をなげく。だれにとっても大なり小なり、老いた母の姿が目に映れば悲しくもなる。

  母よ あなたは
  なんと不思議な 豊富(ゆたか)な力を
  もっているのか
  もしも この世に
  あなたがいなければ
  還るべき大地を失い
  かれらは永遠に 放浪(さすら)う
    『母』(作詞:山本伸一/作曲:松原真美・松本真理子)

それでも母が若く強かったころの思い出はめぐり、今も子に対する温かく熱い思いは変わっていない。ありがたい存在。希有の存在。並々ならぬ歴史を歩んできた存在。感謝しても意を尽くせない存在・・・・・・。

それが母だ。大切にせねばならぬ。仮に故人であったとしても、母と同じだけ我が身を大切に、豊かなときを過ごさねばならぬ。

(コメント)
ふみハウスさん、今では気持ちが痛いほどわかります。
私は残念ですが母が生きているときにその心に気づくことがありませんでした。ほんとうに申し訳なかったと思っています・・・。何十年ぶりのはずなのに、おばさんに「○○さん」と声かけられました。私の顔に母の顔が重なったみたいでね。あの時はほんとにビックリしましたよ。「より」大切にしてあげてください。
投稿者 幸示 : 2011/10/23 (日) 21:04

声をかけられる、気にとめてもらうこと。やはりうれしいものですよね。
はい。母へ親孝行に努めたいとおもいます。
投稿者 house21 : 2011/10/26 (水) 21:57
活動は当事者あらねば動かしえぬ [2011年10月22日(Sat)]

松江市市民活動センターが主催する市民活動フェスタ2011講演会に参加してきた。基調講演は、社会福祉法人大阪ボランティア協会の常務理事である早瀬昇氏による『「新しい公共」が目指すもの〜みんなが「当事者」となれる元気な街を創るために〜』。

「市民」の位置は、行政や企業と3角形の位置にあるのではないと。非営利活動の【NPO】と【行政】と【企業】は、≪市民≫を含めて4者が混じり合う関係にある。

      【NPO】
     役員・寄附者
     ボランティア

      ≪市民≫

  有権者      消費者
  納税者      労働者
【行政】          【企業】

市民活動としてのボランティアはフレキシブルに対応できるのに対し、行政はそのようにはできない。なぜならば、役所は公平であることが第一の原則であり、災害時であっても全体を掌握するまでは迅速に動けないからだ。反対に、ボランティアは自発的であるが故に「私」の判断でやれ、不公平であっても問題はない。不公平でOKであることは、自分にだけという優先感をもてるし、それが温かさにもつながる。公平は一律であり一面冷たさにつながる。しかも「私」は多彩であることがメリットとなる。

多彩な「私」は行政の穴埋めではない。「当事者」となることである。例えば震災のボランティアに○○市に出かけたことによって、行為による当事者となる。それまでは関係がなかった一般市民が当事者になり、その地の人に共感し、その地域のひいきになっていく。当事者という概念がとても重要であることを知った。

他分野の関係者がパートナーシップを組んでいくためには、自分だけで完璧にできるわけではないという弱みの自覚が必要だという。不十分な部分を補い合うことでより高いレベルを実現することが、新しい公共が目指す協働のまちづくりにつながっていくのである。そこで必要なのがネットワーク。「百面相でネットワーク。ネットワークはフットワークの足し算」という印象的な言葉もあった。いろいろな立場・姿で多くの面識をつくる、面識は絆につながると。

阪神大震災のボランティアセンターで「何かすることはありませんか」と御用聞きすると見物に来たんかと拒否された。それはMay I help you?という「私」が主語になるからだ。「近くで困っておられる方を知りませんか。教えてください」と聞くと「実は私が・・・」となる。「あなた」が主語になるからだそうだ。ここにも「当事者」の重要性がある。相手を当事者として引き込めば、自覚が生まれ、気持ちが動く。
凛として遥かかなたに美の人が [2011年10月21日(Fri)]

美女がいた。ビルの5階から見るとお堀の水辺にたたずむ美女がいた。距離は約80mほど向こうに美女がいた。ハイヒールの足を交差させて水面を眺めている美女だ。髪は長く軽いウエーブがどこかしらなまめかしい美女だ。黒か濃い灰色のスカートをなびかせながら美女は歩き始めた。掘に沿ってボーイフレンドと時折手を重ねて美女は行く。

80mも離れてよく顔が見えるものかと不審の人もいるかもしれない。なぜ美女なのかと。むろん顔がはっきりと見えるはずはない。ただ凛とした立ち姿が美しい。歩幅が優雅に大股で美しい。後ろ姿を見せればそれもまた優美だ。微笑みをたたえた(であろう)頬のラインが美しい。

だから彼女は顔は見えずとも極めつけの美女なのだ。一挙手一投足に美女を感じるのだ。美女は顔だけにあらず。美女は全体のたたずまいで美女であり、生きる姿がきっと美しい。生き生きと日々の課題や目標をかなえるがゆえに一層美女となる。

美女は顔の美醜にて決まるものならず。

(コメント)
>美女は全体のたたずまいで美女であり、生きる姿
 がきっと美しい。  ↓
 美男もしかり。
 で、
 意外と範たる「美男」は少なくないかも・・・

*本日は、早朝より食材を調達いただきありがとう
 ございました。堪能しました!
投稿者 きゃど : 2011/10/21 (金) 22:11

どんな美人でも死ねば骸骨。
>美女は顔の美醜にて決まるものならず。
美醜を決定するは、人の「こころ」にあり。・・・。

「色は空に異ならず」
自我意識は時にはとても大切なことだと思いますが、自分を正しいと思い込むことが時として自我意識を誤らせてしまいますね。(*先日は失礼しました)
自我を解体してゆくとどうなるのか?
自我を空じ、空じつくしたあとに果たして何が残るのでしょうか?
投稿者 こーじ : 2011/10/21 (金) 22:21

きゃどさん (⌒ー⌒)
全体のたたずまいで美女を演じようとしたら、さぞ疲れるでしょうね。男もしかり。われわれがどうかはさておいて、自然体でいきましょうぞ

こーじさん ヽ(´ー`)┌
自我を解体していけば色相は姿形はなくなっていくのでしょうが、その人の命の本質=宿業として生命に積み重ねたものは、たぶんそのまま残るのでしょうね。またそんな話でもしましょうね
投稿者 ふみ : 2011/10/23 (日) 12:08
高層に松江の夜が更けるとき [2011年10月20日(Thu)]

松江20万都市
とあるホテルの15階
チェックインして
最上階の浴場へ
松江の真ん中
繁華街を見下ろして
ゆったり湯舟に浸かるとき
ぼんやり頭を空にして
高層からの景観を楽しむ
たかだか15階でも
松江随一の高さ
サウナに少し入り込み
玉の汗をかくもよし
終わって体を拭いたなら
初老の男が脱衣所に
狭いところで気詰まりで
こんばんは、と声かけた
ところがさらりと無視をされ
いまどきならば仕方ない
エレベーターに乗って降り
6階わが部屋入る前
非常扉を開けたなら
鳩の住人、目が合って
慌てて元へ戻ったよ
部屋に戻ればごくふつう
明日の準備を整えて
ベッドに横になるだけさ
おやすみなさいとメールして
ぐっすり寝れるといいけれど
明日は未明に境港へ出発だ
大股はたるみ防止に気持ちにも [2011年10月19日(Wed)]

歩くスピード、そして歩幅には元気が現れる。感情が高まっているときは歩幅が広く弾む。反対に不活発で気持ちが沈んでいるときには、力ない歩きとなっていく。

したがって少々元気がでないときには、大股で早く歩けば、体でもって心を元気にしていくこともできる。歩幅を大きく、まっすぐ前を向いて、堂々と歩くようにすれば、おのずと生命力が充溢してくるはずだ。

今夜のNHK『ためしてガッテン』は「夢に見た!たるみ解消 美ボディー実現の科学技」だった。下着メーカーの研究によってわかったことは、1年間意識して大股歩きを続けるとヒップの高さが3センチあがり、ポコッとしたお腹がまっすぐになるという。

歩幅を広げると、筋肉の伸縮が大きくなり、鍛えられることが証明された。早く大股に歩くことは、美容にもいいのである。
刻まれて心残るは宝なりけり [2011年10月18日(Tue)]

愛することの反対語は憎しみでなく、無視や無関心であるという。あいつなんか嫌いだ!という言葉には、強いマイナスの感情があるとはいえ、相手への感心がある。憎しむとしても同じ天の下に生きているという自覚があれば、和合への糸口をつかむことはできる。しかし、無関心には悲しいかな、きっかけすら見いだせない。

≪作家サン=テグジュペリは言う。「ともに生きた多くの困難な時間、多くの仲たがい、和解、感動、これらの宝物に及ぶものはなにもない」(『人間の大地』山崎庸一郎訳)≫

(聖教新聞10月18日付「名字の言」)

家族や恋人、親友や同志、そうした関係にあっては常に順風満帆であるとはかぎらない。困難をともに乗り越え、対立があり、再び理解しあう。なにげない景色に一緒に感動したことも、まさに宝として残る。仮に死や別れによって関係が途切れたとしても、その宝物は自身の生命に刻み込まれて消え去ることはない。

だから毎日を大切にしなければなあ、とは思うのではあるが、障害は外からも私の心のなかからも押し寄せることをやめない。
働いて仕遂げた先にあるものは [2011年10月17日(Mon)]

10月13日付中國新聞の『天風録』欄は、啄木の「一握の砂」にある歌

  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なむと思ふ

を引いて、

≪仕遂げたつもりでも、その先にまた仕事が待っているような時代がやって来るのかもしれない。厚生労働省の審議会が、年金の支給開始を68〜70歳に引き上げることまで検討し始めた▲早く老後を楽しみたいのにと、ため息は禁じ得ない≫

と述べている。ホントかなあと思う。筆者は、仕事が老後の生活と対立するものととらえている。老後とは、余生であり枯れた人格からあくせくしないで悠々自適に暮らすというイメージをもっているようだ。年金という生活減資をもらって仕事という苦役から逃れたいと思っている。

確かに、喰うために先立つものは現金収入や預金であり、仕事には現金をもたらす重要な働きはある。しかし、それにも増して喜ぶ相手の顔を見て、目標を達成しようと奮闘し、他人に影響力を及ぼし、社会に貢献するという効果は計り知れない。

むろん私とて、「仕遂げて死なむと思ふ」と言い切る強い覚悟はないが、適度な収入を得続けて、年金支給年齢を待つことはそれほど悪いことではない。かといって、制度設計を失敗した為政者への怒りはなくなるわけではないが・・・。
空間に野獣の美をば想像し [2011年10月16日(Sun)]

島根県立美術館の企画展「ふらんす物語」を鑑賞してきた。アンリ マティスの絵『待つ』(制作年1921〜1922)に目がとまった。説明書きにパリに学んだ川島理一郎の言葉が紹介してある。

≪マチスは人と話ながらでも、あるいは煙草を喫いながらでも決して鉛筆を離さない。カジノのカフェでお茶を馳走になったときなどでも、そどんな時にでも鉛筆を離さず、あたりの人を写生している。そうして寸時も自然から教えらるる事を忘れない。≫

マティスは鉛筆と紙に託して何を書き残していたのだろう。対象のさりげない美しさであり、変化し揺れ動く造形の一瞬の美であったのかもしれない。その人の瞳がもつ陰りをとどめたかったのだろうか。あるいは感化されて得たインスピレーションを対象になぞらえて表示したものだったのかもしれない。

「待つ」という作品はいたって大人しい。だが、学芸員によるギャラリートークでの説明によれば、フォービズム(野獣派)という荒々しいなまえを付けられている。フォービズムは強烈な色彩や激しいタッチが特徴であるというが、今の感覚からすれば大人しい印象だ。当時は顔色や線に肌色を使わないことひとつとってみても革命的で破天荒であったとのこと。

絵は、南仏の保養地にある別荘だろうか、窓際に立ち遠い目をした左側の女性、レースの透き通ったカーテン越しに伏し目がちに頼りなげにたたずむ女性が気になる。派手なペイズリーの壁絵、窓枠は灰色ながら陽光が部屋に入り込んで明るい色合いだ。2人は何を誰を待つのだろうか、答えは与えられなくても自身の想像は広がる。だから美術館はおもしろい。

(写真は紅葉した柿の葉。これもいっぱしの美術品。この赤や茶、虫食いの周囲だけ緑が残るのがなんともいえずよろしい。そして艶やかさも絶品だ)
愛憎にゴッドファーザー名づけ親 [2011年10月15日(Sat)]

20111015200702.jpg家族をつくり、家族の絆を守り、家族を失い、一族のために徹底して復讐する物語であった。20世紀初頭の前後にイタリア・シチリア島から移民してきた人々は、ファミリーとして第2次世界大戦以降も強い結束を保っていた。WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)が実権を握るアメリカにあって、少数派のイタリア系は差別される存在であったかもしれない。コルレオーネはその一部を束ねるマフィアのドンであった。あまりにも有名な『ゴッドファーザー』(フランシス・コッポラ監督)を初めて観た。god fatherには首領という意味のほかに、「名づけ親」という意味もあることを知った。

芯のある視線が揺るがない強い目力をもつ末っ子マイケル(アルパチーノ)。スクリーンを圧していた。大戦で軍功を挙げ英雄視されるマイケルであったが、マフィアの世界は性に合わず市井のひとりとして穏やかな家庭生活を夢見ていた。しかし、父が襲撃され生死の境をさまよい、跡を継いだ兄が殺され、シチリアの妻が爆死させられた。家族を失うなかでマフィアの世界で生きていくことを誓う。

その強い目力が一度だけ揺らいだのは、悪徳警察署長と麻薬ディーラーを殺す直前。そこだけはさすがに眼が泳いだ。しかし、病院に襲撃されそうになったパパを守ったときも、冷静沈着そのもので将来につながる器の大きさを示した。

マイケルという名前は神の軍団を率いる天使ミカエルに由来する。天使の名を持つその男が、偉大な父の死後、息子の洗礼式の日に対立するボスたちを一斉に葬った。神父が、「神を信じるか?」「悪魔を除くか?」と問うときに、まっすぐ「はい」と応えるマイケル。自分とファミリーに害となり逆らう者は悪魔と断定する信念は揺るがない。家族を無惨に失うなかで、揺るがぬ信念は徐々に形成された。最初は陰のある堅気の若者が、冷酷非道なゴッドファーザーへ変容していくところは見せ場だった。

愛情が強すぎると、反面憎しみも強い。そこから悲惨な事件が生じ、悲しみを増やし、ふたたび復讐の報復合戦となる。愛と暴力、善と悪、感謝と復讐、迷いと断定、喜びと悲しみ、ファミリーと敵など、相反する価値を矛盾なく抱えて生きるゴッドファーザー軍団。残酷なマフィア社会にあって迷いなく自己の正当性を暴力に訴えてでも追求できることは強みだ。しかし、どんなにファミリーを心の底から愛し慈しむ強さに裏打ちされていたとしても、暴力の連鎖は不幸である。

血がつながる血族に、強い信頼関係でつながる一家意識。日本の暴力団はイタリアマフィアと出自は違うが、似たところもある。このほど「暴力団排除条例」が全都道府県で制定された。暴力団を社会から排除し一切の交際を絶つというのが主旨だ。情愛の対象には愛情は深くても、反面敵となった集団に対する憎しみも強い。抗争と暴力の連鎖はいまだに続いている。戦時下の暴力はもちろんだが、平時の暴力はあまりに残虐だ。
渡り終えはっと気づくは自動車か [2011年10月14日(Fri)]

通勤時間、松江駅近くの交差点で歩行者用信号機は赤だった。車道の信号は黄色から赤に変わり、右折矢印が点灯した。急いでいた私は歩行者用信号が変わるのを待たずに、矢印が変わると同時に横断歩道を速足で渡った。

が、そのとき気配が違うことに気がついた。すぐ後ろを車が音をあげて発進していったからだ。横を見れば車が、私が渡り終わったばかりの横断歩道を駆け抜けていく。当然ながら歩行者用信号は赤のままだ。

つまり、私が確かめたはずの車道右折矢印は、私自身の進行方向のものだったのだ。なんという錯誤、何たる危険な行為! 事故にならなくて、よかった。

無謀な信号無視であろうと、こんなほうけた無視であろうとも、信号の仕組みを知らないでする無視であっても、結果は同じ。自動車に当てられれば悲惨な結果となる。

認知症のお年寄りがふらふらと信号無視をしてしまっても同様だ。今日の新聞に、松江市内でもって深夜、お年寄りが車にはねられて死亡したというニュースがあった。夜間に徘徊していたひとではないかと想像する。車に乗るときは、どんなにふだんはありえないようでも、そんな想定をして運転するほうがよさそうだ。
ステージで若いかいなかは対になり [2011年10月13日(Thu)]

若造りしていたとしても、老いは意外なところに見えてくる。歩く姿勢と歩幅である。上質な服を着て高価な靴を履き、肌の色つやはよく、髪はツヤツヤと輝き、作曲家としてテレビタレントとしても功なり名をあげているひとで、いろんなところがカッコイイ。

残念なことに、舞台を上げ下げするとき歩幅が小さく、少し猫背で首が前に出る。楽しいトークなのだが、語尾が緩んでいて話しぶりにシャープさがない。ピアノの連弾を披露してミスタッチが多かったのも珠にきずというものだ。

以上、昨夜聴く機会に恵まれた『愛と平和のチャリティーコンサート2011〜三枝成彰クラシックライブinMATSUE』(明治安田生命提供)での感慨である。

チェロとピアノのソリストが、ロマン派から現代曲にいたるまで。ロマンチックな曲調から幾何学模様の緊張をもたらすような不思議な曲想までを奏でた。わたしは一人だったので、一曲ごとに感嘆し、終わってから感想を述べ合う相棒はいなかったが、島根県民会館大ホールを埋めた観衆とともに二時間余りを堪能した。

三枝氏に老いを感じるのも無理はない。氏はもうじき古稀を迎え、二人の演奏家は若く美しい女性であったから、無理はないというものだ。
萩コスモス季節のつくり漢字読む [2011年10月12日(Wed)]

「冬」に木偏をつけると「柊(ひいらぎ)」。冬木立をすり抜けて木枯らしが吹く。その先にある白い花は芳香を発し、鋭い葉はチクチク痛む柊。この字にはどこか安定感がある。

「春」に木偏をつけると「椿(つばき)」。陽光を浴びて紅や白に絢爛と、黄砂が空間を乳白色に染めるころ椿は咲く。華やかに咲いてドッと一度に落ちる。長かった寒い時期を超えて、陽光の春を迎える。

「夏」に木偏をつけると「榎(えのき)」。高く伸びる榎木。高い木には何頭もの象の足が林立したような逞しさがある。

『秋』に木偏、これは難しい。『楸(ひさぎ)』。万葉集に出てくるというカシワ類の古名だという。

木々は黄色や橙、茶、オレンジ色に彩られ、やがて落ちていく。だが単に落ちるのではない。木本体を守り、遠い将来の養分となって再び木にエネルギーを与える。枯れ葉とはいってもまだまだ真に枯れはしない。木の秋は、人生の秋でもある。たくましく実りの楽しみで我が身と周囲を飾っていく。実りは誇らしい。

草冠をつけたら『萩』。キングオブ秋。いや、クイーンオブ秋か。細身でたおやかな感じが楚々とした女王のような印象をもつ。紫色よりも白萩がふさわしい。

秋はいい季節だ。今日は秋晴れ、爽やかだ。
グラナダを臨んで楽しフラメンコ [2011年10月11日(Tue)]

カクテル光線に舞台は照らされ、軽くスモークがかかった中で男性舞踊手の髪からミストのように汗が飛び散る。恍惚のフェロモンとともに。悲恋にわんわと泣き叫んでいたかと思うと、媚びを売り新しい恋に燃え、目と目で火花を散らし、楽天と官能を露わに表現する女性舞踏団。民音の『パッション・デル・フラメンコ』(小松原庸子スペイン舞踊団主演)を観てきた。

男性歌手の歌(カンテ)には驚いた。魂の奥から強烈に響く声は情熱的であるとともに、クルアーンを読誦するかのような響き。まるでイスラム圏の映画を観るような異国情緒を感じる。その場で紹介されたフラメンコの歴史を聞けば、なるほどと思う。フラメンコはスペイン南部のアンダルシア地方の民族音楽に、流浪の民ヒターノやイスラム教徒モーロ人の歌や踊りを加えて今から600年ほど前に生まれたものであるという。長らくイスラム国のウマイヤ朝の勢力下にあったセビリアやコルドバ、グラナダを旅してみたいものだ。グラナダには有名なアルハンブラ宮殿がある。

リズムを形作る三本柱はカスタネット、サパテアード(足踏み/タップダンス)、パルマス(手拍子)。スペインを代表するサパテアードの名手も登場し、観客はみな拍手喝采した。手拍子は難しく単純なものではなさそうだ。

そして掛け声を教わった。合いの手で「オーレ!」と叫ぶと、踊り手は喜び燃えてくると。間隙を縫い私も「オーレ」を連発した。かつて市川猿之助(香川照之の父)の「ヤマトタケル」を観たときに、観客席から「おもだかや!」と、盛んに声が上がっていたのを思い出した。

そしてフラメンコギター。弦を激しくかき鳴らすラスゲアード、表板を指先で叩くゴルペ、そして正確な美しいタッチ。見事な調べ、体が反応する音楽と踊りを堪能した。
リスクみて感覚あげて遅刻せず [2011年10月10日(Mon)]

≪なるべくリスクの所在を明らかにし、可視化すると共に、市民にも、もう少し高いレベルでのリスク・リテラシーを持ってもらい、自分たちでそのリスクを管理するという発想を強く持つべきだというものです。
 これは、決して自己責任論ではありません。リスクの管理は市民と日本でいう「お上」が共同で行うべきですが、それをお上だけに頼るのはやめようということです。
 たとえば、振り込め詐欺や資格商法詐欺などがその典型です。このような商取引のような場面において何か心に引っかかるものがあった場合、「これって、ちょっと危険な匂いがするから、やめておいた方がいいんじゃない?」と気づいてその商取引をストップできるか否かということです。あるいは、組織内においてグレーなコンプライアンス違反を命じられた場合、すぐにそれに気づき、論拠立てながら拒否できるかどうかが重要です。
 すなわち、これがリスク・リテラシーです。そして、ここでのリスク・リテラシーとは、これまで私たちが「お上がやってくれる、政治家がやってくれる、上司がやってくれる」と外発的なリスク管理をしていたことを改め、もう少し内発的なリスク管理に上げていこうではないかという発想のことです。
 おそらく、現代に生きる私たちは、リスクに対する感覚が鈍っている状態にあると思うのです。たとえば、食品偽装の問題にしても、その原因を注意深く見ていくと、リスクに関して過保護の状態になり過ぎたこともその一つだと思います。
 賞味期限は厳密に計算してぜんぶ書き出すようにとか、入っている成分は全部書き出せとか、ISOの基準をつくれとか、安全マークを入れろとか、そうした状態にあると、あかえって作る側が束縛され、結果的に問題を誘発する事態を招くのではないでしょうか。
 一方、そうした過保護な状態にあると、消費者である私たちは、いわばお上に対して何の疑念も抱かなくなり、たとえば「前沢牛」とか「米沢牛」といったラベルが書いてあるとすぐにそれを信用し、自分の目や口を信じないことにつながるのではないかと思います。五感が鈍っているといっても同じことです。あるいは、自分の経験の中でリスクを管理する力が鈍っているといってもいいかもしれません。≫

 (勝間和代『会社に人生を預けるな リスク・リテラシーを磨く』光文社新書)

今日は昼前の飛行機に搭乗する予定が、こともあろうに乗り遅れてしまった。幸い次の便をとることができて事なきを得たが、余裕を持って時間に間に合うように準備して電車を乗り継ぐ。そうした当たり前のことができていなかった。まっ、これはリスク・リテラシー以前のことであろうが…。
秋色に学びに学べ粘り抜き [2011年10月09日(Sun)]

≪「学ぶ」という命の構えが確立した人は、どんなに苦しい現実に直面しても、その苦労に引きずられてしまうことはありません。一切を、自らの向上と創造と勝利のバネに転じられるからです。
 「英知を磨くは何のため」‐ この青春の原点を胸に、使命の現場に勇んで飛び込みながら、たくましく働き、生き生きと学び続けていってください。
 小才や要領では長続きしない。労苦を惜しまず、誠実に努力を貫き通す人が、最後には必ず勝つのであります。≫

以上、大震災の影響で卒業式ができなかった創価大学37期生と保護者のために開催された集いでも紹介された創立者メッセージの一節である。これは建学の精神のひとつ、『英知を磨くは何のため、君よそれを忘るるな』につながる重要な指針であり、乱世の今だからこそ学びに学び抜くと卒業生たちは誓ったことであろう。むろん、すべてのひとに通じる時代の要請だ。

丹木の山には萩が咲いて、暖かな秋の八王子。再会と新たな出会いにあふれた八王子。武蔵野の緑は茶色に変わりつつある八王子。有意義な一日を過ごした。
青に蒼おおくのブルーに囲まれて [2011年10月08日(Sat)]

多くの青、ブルー、薄青、ライトブルーを空間に敷き詰めて飛行機は動く。空も水平線も富士山も、海はもちろん雲さえもどこかしら青い気配に染められてただよう。緑や茶の陸地や山もどことなしか青に染まっている。青は機中までじりじり忍びこんできた。

宍道湖上に映る機影。あれだけ大きな飛行機がちっぽけなことよ。田園地帯にもビル群の都会にも数えきれないたくさんのひとが暮らす。わたし自身は、小さな存在ではあるが萎縮することはない。思うがままに思いきり思いをこめて動くがいいさ。
柔らかなひざし蒔いてよ秋は来ぬ [2011年10月07日(Fri)]

一月前までは影を縫うように通りを歩いた。ひなたを避け、木々や建物のわずかな影を探し歩いてジグザグに進んだ。陽射しはまぶし過ぎ、日よけ用に手をかざさないと遠くが見えにくかった。陽射しを受けるたびに射る熱さが痛く感じられ、まるで体を両脇から捕まれて押し上げられるように感じたものだった。

ところが今はどうだ。日の光を燦燦と浴びることが喜びであり、日ざしは甘露に柔らかい。影を求めずとも真っすぐに歩みを進め、澄んだ空気の色を感じるもよし、浮かぶ綿雲の流れに目を凝らすのもよい。秋の涼しげな花がたくさん咲き、目を涼ませてくれる。

雲に陽光が遮られ、日だまりの光ですら寒さに震える晩秋から冬になるまでに、秋のひざしをたっぷり浴びて、豊かな気分を堪能したいものだ。

(コメント)
秋のイメージは「紅葉」、「すすき」、「赤とんぼ」・・・これは個人的ですが、なぜかしら子供のころからの【秋】なんです。ところが、赤とんぼを見かけない。「誰が、赤とんぼを多く捕まえるか」、、、なんて遊びもして誰もの虫籠がいっぱいになったものです。赤とんぼと出逢いたいと思うこの頃。
     久々のくだらんコメントでした。
投稿者 kouji : 2011/10/7 (金) 19:52

いやいやとんでもない。いいコメントです。紅葉とススキ原が目立つ頃には、もう寒くなるので、まずは赤とんぼに期待しましょう。確かに今年はまだ見てないなあ
投稿者 ふみ : 2011/10/7 (金) 22:17
生産と消費をくりかえ新聞は [2011年10月06日(Thu)]

新聞を読み進める。
めくれないことがある。
角がきっちり取れなくて。
裁断の具合で微細な段差のために。
紙がたぷんたぷんして。
頭にくる。
小さいけれど不快の源泉だ。
大き過ぎる新聞紙も癪のタネ。
横になって読みたいときがある。
隅まで目が届かない。
増え続ける新聞紙の山。
これも邪魔者だ。
国際情勢、金融に財政、社会の動き。
なんとなくわかるようでも全ては理解できていないもどかしさ。
実に腹が立つ。
論説委員が粋な文章を書くときもある。
我賢しと論陣を張るのは小憎たらしい。
新聞は毎日読まなければならない。
面倒なときもある。
ああ、むかつく。
めんどくさいのなら読むのをやめようか。
いやいやそれでは自分の気に触る。
いまいましいところは確かにある。
が、電子媒体の情報とは違う。
直感的に記事の軽重が感じられる。
自分の感覚で読み進めることができる。
時間がなければ見出しだけでもなんとかなる。
やっぱり新聞はやめられない。
遠足に前夜眠れね秋なれば [2011年10月05日(Wed)]

遠足
単に遠出にとどまらない
単なる気晴らしではない
おやつは何にしようか
誰と弁当を食べようか
何をして遊ぼうか
歩きながらバスに乗って何を話そうか
期待であり、当惑であり、交遊の広がりでもある
夜は期待に胸が躍り
夜は何度も目が覚めた
今日は娘の遠足
あいにくの雨だが楽しんでいることと思う
両耳を塞いで命危うしと [2011年10月04日(Tue)]

踏切にある警報機と遮断機。両方ともあるのが第1種踏切、警報機だけあるのが第3種、両方ともないのが第4種というのだそうだ(JAFMate2011年10月号)。第2種は警報機に一部手動の遮断機がある場合だが、今日本にはないとのこと。3種踏切は全体の3%、1種が9割弱、そしてもっとも危険な第4種は1割、数にして3千カ所もあるということだ。たいていは車止めの鉄柱が立ち、自転車か歩行者しか通れなくなっている。

昨年埼玉県内の第4種踏切で高校生が事故を起こし、一人が死亡、もう一人は重体という悲惨な結果となった。両名とも自転車に乗り、携帯音楽プレーヤーで電車の接近にまったく気がつかなかったようだ。自転車は風を切る。耳元は風音でじゃまされ、しかも両耳にはヘッドホンとなれば、電車の音が聞こえるわけはない。

目から入る情報は人間が感知するうちの8割という。百聞は一見にしかずの諺からすれば、視覚情報は聴覚の百倍ということになろうが、耳からの情報はそれほどまでに軽いものではない。2割は十分ありそうだ。ものごとの気配や動きを感じ取るために聴覚情報は大切であり、「全身を耳にして」とは言うが、「全身を目にして」というのは聞いたことがない。

耳からの情報が遮断されると、たぶん不安になる。風の音、人が遠くでしゃべる声、クラクション音、車がスピードを上げる音、船の汽笛、線路を走る列車の音、踏切・・・・・数え切れない音が私たちの周りで起こされて、私たちはそれをなんとはなしに聞いている。そして情報として得ているわけだが、遮断してみれば世界が違ってくる。水に潜ったときに泡の音だけになると不安になるがごとく。いわば聴覚情報は、生き死ににかかわる重要な感覚を私たちに与えてくれるのかもしれない。

そういった耳からの情報を意識的に遮断するのが、街中でのヘッドホンである。自転車に乗る若者、足早に歩く人。多くがヘッドホンやイヤホンをつけている。しかも両耳を塞いでいる。命が惜しければ、両耳は塞ぐべからずである。
異世界の合ってはならぬ人なれば [2011年10月03日(Mon)]

もう十年以上前、メルボルンに行く機会があった。メルボルン大丸で買物をしたときに便意を催した。大きいやつだ。男性用が空いておらず、身障者用トイレのドアを開けた。何とそこにはお尻をむき出しにして立っている中年女性がいたではないか。幸いに彼女は反対側を向いていたので顔を合わせることはなかった。「ソーリ」と慌てて閉めた。

なぜ鍵を掛けていなかったのかと考える余裕もなく、足早に別の階のトイレを探した。便器に腰掛けていると、だんだんそのときの女性の「ヒャッ」という甲高い声が思い出されて、何度も笑っていたことがある。トイレのドアは、中の人にも外の人にも神聖な扉だ。両者とも決して出合ってはならぬ関係なのである。

何日か前、職場のトイレで遭遇した。鍵をかけずに座っている男と。知り合いではあったが、やはりここではアンタッチャブルな関係だ。二人は出合ってはならなかったのである。

小学生の頃たまらずトイレに駆け込んだことがあった。が、ちり紙がない。やむなくノートの切れ端を使った。いわゆるオツリの返ってくるポットン便所。当たらないように苦心惨憺、大汗をかいていた。すると誰かが駆け込んできた。こともあろうに、私のいる扉をガバッと開けた。形容しがたい悲鳴をあげて彼は慌てて扉を閉めた。「なんで?鍵せんや?」と彼は友人とはしゃいでいた。幼い僕は恥ずかしいとも屈辱とも放心とも、なんとも言えない感情のまま、外に飛び出した。二つ上の先輩だった。僕はあのとき彼に出合ってはいけなかったのだ。
ジュリエット悲恋の五日ものがたり [2011年10月02日(Sun)]

20111002204015.jpg副題をつけるとすれば「沸騰悲恋の五日間物語」。『ロミオとジュリエット』を観てきた。モンタギュー家とキャピュレット家の骨肉の争いに2人の愛が翻弄されたというよりは、争いがあったからこそ極限まで燃え上がり、後世に語り伝えられ、世界中の人から惜しまれた悲恋になったと言える。

日曜朝に恋に胸を焦がしていた青年は、日曜夜には一目惚れで新しい恋をし、一晩中バルコニー越しに互いの思いのたけを激情のままに確かめ合い、月曜朝に2人だけの結婚の儀を結んだ。月曜昼には親友が宿敵との争いで殺され、ただちに青年は仇を討ち、悲運の渦中に投じられた運命を呪う。火曜日朝にはヴェローナの町から追放処分を受け、慟哭の別離を経験する。その夜には神父の策略で少女は42時間仮死薬を飲み、翌水曜昼には一族の葬列が悲しみに暮れた。その夜にはせっかちで忠実な召使いから愛しい人の死を知らされた青年が遺体と信じたその前で後を追う。愛夫の体温が冷めないうちに愛しい妻は覚醒し、行き違いを知って、これも直ちに死出に旅立つ。最後の五日目には2人の亡骸を前に両家が関係を修復する。なんという急展開、なんという若者の激情、破天荒なる悲劇か。まさに劇的なる二人の短き人生だった。

テーマは運命の行き違い。そして一瞬に点火し燃え尽きる恋と憎しみ。身も蓋もない言い方をすれば、感情をむき出しにするのが青年だけでなく、時代そのものも若々しくむき出しのままの激しい昔の頃。野蛮とも言えようが、人間が人間らしく生き生きと輝いていた頃かもしれない。

オリビア・ハッセーの可憐で純真で、かつ豊満なこと。非の打ち所のない若いエネルギーと美しさで物語の悲運を盛り上げる。かつて見た学生の頃にはこんなうがった見方ではなく、もっと純朴に涙を溢れさせて見たものだった。それにしても、ロミオはもちろん、ジュリエットもすべての登場人物がよく詩を奏で、口から先に生まれてきたかのように言葉をあやつるのに驚嘆する。

◇ロミオ
 では、動かないで下さい。祈りの劫(しる)しだけをいただく間。(接吻する)
 さあ、これで私の唇の罪は浄められました。あなたの唇のおかげで。
◇ジュリエット
 では、その拭(ぬぐ)われた罪とやらは、私の唇が背負うわけね。
◇ロミオ
 私の唇からの罪? ああ、なんというやさしいお咎(とが)めだ。それは!
 もう一度その罪をお返し下さい。(再び接吻する)
星座見て秋の夜空にぶるぶると [2011年10月01日(Sat)]

備忘録として黄道十二星座のことを書いておく。ウィキペディアを参照した。

おひつじ座(3月21日〜)
 *地味。怪物の出現に驚いた大神ゼウスが逃げたときの羊の姿(最高神でありながら、この神はたいそう臆病)。

おうし座(4月21日〜)
 *α星(アルデバラン)ゼウスが恋したエウロペに近づくため化けた牡牛(この神、実に浮気ばかり)

ふたご座(5月21日〜)
 *カストルとポルックスが並ぶ。二人はゼウスの息子だが、弟ボルックスは神にして不死、兄カストールは人なので死ぬ運命。ボルックスは兄に不死の力を分けて、そろって天に昇った。

かに座(6月21日〜)
 *ヘラクレスはゼウスの愛人の子。嫉妬深いゼウスの妻ヘラはヘラクレスを殺害しようと巨大な化け蟹を遣わしたが、ヘラクレスは気付きもしないうちに蟹を踏み潰した。暗くて目立たない星座。

しし座(7月22日〜)
 *ヘラクレスが最初の冒険で倒した化け物ライオン。へラクレスに殺された者はすべて星座になる決まりがあった。古代の南東ヨーロッパにはライオンが生息。心臓部には一等星レグルス。

おとめ座(8月23日〜)
 *ペルセポネーは冥神ハーデースに略奪され妻となり、天界に戻れたが、冥界のザクロを口にしたため、冬のうちは冥界で過ごすこととなった。一等星スピカは「麦の穂」。

てんびん座(9月23日〜)
 *女神アストライアーが持つ正義を計る天秤。暗くて目立たない星座。

さそり座(10月23日〜)
 *乱暴な巨人オリオンを毒針で刺し殺したサソリ。オリオン座はさそり座が上るころには見えない。主星は赤い心臓、アンタレス。中国人は青龍にたとえた。

いて座(11月22日〜)
 *ヘラクレスの放った毒矢が中ったケンタウロスが天にあげられた。南斗六星。銀河系の中心付近。

やぎ座(12月22日〜)
 *神々が宴会中に怪物テュポンが現れ、驚いたヤギ神は下半身だけを魚に化けて川に飛び込んだ。暗い星が逆三角形に並んでいる。

みずがめ座(1月21日〜)
 *ガニュメデスがひっくり返した水瓶を持っている。大きいが個性はない星座。

うお座(2月20日〜)
 *美の女神アプロディーテと子エロスがエリダヌス川の辺を歩いていたところ、、怪物テュポンが現れ、驚いた2人は魚の形になって逃げた。

今の季節はやぎ座やみずがめ座が見やすい季節だ。清涼な秋の空気を楽しもう。それにしても、星座を知らないと全く星は「無分別に」散らばっているように見えるが、星座を知ると形をイメージし、星の地図が頭の中にできあがってくる。天文はなかなか面白く、ロマンがある。