偽物と本物の境どこにある [2018年07月24日(Tue)]
島根県立美術館で開催中の「東京藝術大学クローン文化財展〜甦る世界の文化財」。法隆寺の釈迦三尊像を鋳物で複製した富山・高岡の職人の映像に見入った。完成お披露目でのこと、釈迦像に手を合わせる見学者がいた。その映像を見て思った。なぜ人間は神仏の偶像を造るのだろうと。
そもそもクローンとして造った美術品や仏像は偽物。偽物に価値はないと初めは思っていた。しかし、匠の魂魄が留められた仏像には手を合わせたくなる力があったのだ。本物も偽物もない、良き物の不思議な本物感。 イスラム原理主義タリバンはバーミヤンの大仏群を爆破した。偶像崇拝は許さないイスラムの教えを他宗に強制する。神の足下にひれ伏す人間が神の姿に似せて像を造るなんて、とんでもないという発想だ。 一方でキリスト教は認めている。数々の絵画、彫刻、鋳物、音楽、工芸、書に至るまで。だからキリスト教文化では、芸術が花開いた。神に対して畏怖や祈願の気持ちをいだいて具体的なモノに向かって礼拝したいという発想。美しく神々しいものを求めた結果、至高の芸術が産まれた。人間の想像力には限りがある。偶像もある面必要なのではないかと感じた。 敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)などを再現した壁画も印象深い。1500年以上も前、像法の時代に仏道修行として造営された石窟。東西交易の要衝として栄え、様々な文化、宗教が融合した仏教芸術のひとつだが、すでに仏法はない。シルクロードの栄華を感じるために敦煌へ行ってみたくなった。 ゴッホの自画像クローンは照明の新技術によって揺れた。ゴッホの揺れ動く自画を表象するかのように。写楽や広重の浮世絵は匂いをかいだり、アニメ化されて、当時絵師が見た原像を想像して楽しむこともできた。偽物クローンだってまんざら悪いものではないと思った。 会場から出ると山陰中央新報の2年目記者にインタビューを受けた。写真も撮られた。わたしのしゃべったことがどこまで文章化されるかはわからないが、楽しみにしておこう。 |