回想をハリーに注いで移し替え [2017年08月21日(Mon)]
ドラマでよくある回想シーン。主人公は回想を語り終わり、相手方はその記憶を寸分の狂いもなく理解する。視聴者は以前の場面を再確認し、そこにいる者すべてが認識を一致させて、ドラマは滞りなく進む。わたしはいつも憧れてしまうのだ。
まるで記憶データがダウンロードされたかのように、ダンブルドア校長が憂いの篩(ふるい)で記憶の糸をハリー・ポッターに注いだように、ある出来事や周りの状況が精確に伝わっていく。なんて素晴らしいんだ。 そんなことは決して有りえない。記憶は曖昧模糊として頼りない。記憶は脳に押し沈められて容易に現れてこない。勘違いもある。強烈な印象によって記憶が曲げられてしまうことすらある。その結果が「真相は藪の中」になるのである。 しかも記憶の中身を説明するのは本当に難儀だ。時系列で順を追って説明するのか、それとも核心部分に絞るのか。それによっても相手の受け取り方と理解度は違ってくる。記憶と事実。両者は永久に一致することなど有りえないのだ。 (この百日紅(サルスベリ)をどれほど長らく観察しても、記憶に頼って細部の色形を説明するなんて不可能だ) |