それぞれに物語っては信じ合う [2015年09月18日(Fri)]
ひとは【物語】を創作して生きています。小説家じゃあるまいし、生きるとは【事実】を積み重ねることじゃないの?と思われるかもしれませんが、意外と違うんですね。物語でもって毎日はできています。
物語を別の言葉に代えると想像です。例えば恋人同士。どんなに好きあっても24時間一緒には過ごしません。同棲してもそうですね。離れている時間がむしろ長い。その間彼(彼女)が何をしているかはわかりません。ごく普通に仕事をして、アフター5はスイミング教室に通ったり買い物したり。夜は普通に寝て、その繰り返しだと説明されていても、監視などしないですから信じるのみです。自分が信じる彼(彼女)の姿を想像して物語化しているんです。 ましてや彼が何を考えていたのか、何に目を引かれたのか、思考の痕跡をたどろうとしても無理な相談です。ほとんどは想像にまかせるしかありません。ふつうはそんなこと、考えるのも面倒くさいと思うでしょうけどね。少しの事実の周辺をコッテリとした想像で補っているんです。 彼はこうしているはずだ、こんな思いを抱いているんだと、知らず知らず物語をつくるといういうことなんです。実際が物語の範囲内であればいいのですが、物語と実際が乖離してしまうと二人は破綻するかもしれないし、自分が知らなかった彼のことを知って改めて惚れ直すかもしれません。相手も同じなんですよ。 では二人が同じ時間を過ごし語り合っているときは、すべて事実でできているんでしょうか。これも違うんですね。彼が今どう感じて何をしたいと思っているのか。どんな感覚でおしゃべりをし、スマホに向かっているのか。さらに今後の彼にどんな運が開いていくのか。それとも不運にさいなまれることになるのか? そんなこと他人はもちろんですが、当の本人にもわかるわけないじゃないですか。言葉に表現などできません。他人はもちろん本人だって自分のことを、こうあってほしいという願望も含めた物語でしか、完結できないのですよ。実のところはですね。 恋人だけではありません。夫婦も親子も、友人関係も職場も趣味活動も、すべて人間関係には物語があります。物語で動いています。物語を別の言葉で補えば【哲学】です。私たちは実は哲学者なんですね。 (おどろおどろしいハクモクレンの実。形は一様ではなく異形で多岐にわたる。まるでエイリアンの巣窟) |