恋に落ちシェークスピアは創造す [2015年08月01日(Sat)]
映画『恋に落ちたシェイクスピア』(原題:Shakespeare in Love)は邦題にも工夫が凝らされたステキな映画だ。「恋する」ではなく「恋に落ちた」というのがいい。墜落したり、散る、没する、衰える、逃げるといった状態に陥るのではなく、突如ブラックホールに吸い込まれるように気持ちがなびく、愛に心の城が乗っ取られるイメージか。恋はするというよりは、落ちるものなり。
ヒロイン・ヴァイオラ役のグウィネス・パルトロウが珠玉に輝いている。真実の愛を一度でも得られたら、厳しい荒波にも勇気凛々と進むことができる、未知の新大陸に移住する貴族の妻として運命を甘受できる、たとえ夫には愛がなくても。「あの方」との愛の軌跡を肥やしにして羽ばたける。そんな覚悟を示したエンドロールであった。ヴァイオラが白砂の海岸を陸地の森に向かって堂々と歩む。その後ろ姿の凛々しさに心が震える。グウィネスがアカデミー主演女優賞をとった理由がわかる気がする。 なぜシェークスピアは、民衆にはもちろんエリザベス女王にまで受け入れられたのか。演劇とは偽ごとであるが、そこに真実の愛を示し得たからである。観劇した者が、その中から本物の愛を感じられたら大きなエネルギーを得て、日常の困難に向かっていけたからであろう。 糞尿が街路にばらまかれるシーンが2回あったのが印象深い。ペストやコレラが流行する中世時代であった。医学や科学は発展途上だ。社会保障なんてない、生活環境は劣悪で、人々は生きることに精一杯。 だから民衆が娯楽を求めることも必死だったはずだ。劇中で心の底から笑い涙することを糧にする。生きるか死ぬかの生活闘争に必死だった庶民は劇場ですら必死であったのかもしれない。貴族や王族も豊かな生活にあぐらをかいていたわけではなく、いつ病魔に冒されるか知れず、民衆の動乱が起きてしまって身の破滅とないように綱渡りの毎日だった。 役者は劇場で演技だけで評価され、脚本家も演出家も音楽家も、劇の出来不出来だけで評価される。テレビやネットで有名になってギャラが入って別口で儲け話があるわけではない。手すさびに書いた作品秘話が大増刷されて大きなマネーで懐を潤すことはない。ましてや演芸を催す者の社会的身分は低い。演劇の関係者が命がけで己の才能を開花させ、日銭の売上を稼ごうと必死になった時代なのだ。 シェークスピアが恋に落ち、愛する心が燃えるほどに創作は進む。恋人をたたえる愛の詩が泉のように溢れ落ち、見つめ合う目と目で愛の間合いがはかられる。ペンはぐんぐんと速度を増すが、湧き出す言葉に追いつかない。言葉の魔術師の真骨頂である。 ロミオとジュリエットなど名作をオマージュし、激しい決闘のシーンは厳しく、野獣的な性の噴出もエロチックで(特にシェークスピアとヴァイオラの愛する毎夜の絡み合い)、数多くのユーモアにも笑えた映画であった。 最後にシェークスピアの名言からひとつを。 備えよ たとえ今ではなくとも チャンスはいつかやって来る |