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捏造かありのままかと反芻し [2015年04月29日(Wed)]

fumihouse-2015-04-29T20_39_54-1-thumbnail2.jpg「やらせ」と「ありのまま」とは紙一重。「事前に打ち合わせて自然な振舞いらしく行わせること」だと、広辞苑ではやらせ【遣らせ】を定義する。マスコミの記者たちが特ダネを求めて血眼になる。なかでもテレビは映像が必要なだけに、やらせがおきやすい。

NHKのクローズアップ現代のやらせ問題について調査委員会は、過剰な演出や編集はあったものの「事実の捏造につながるやらせはなかった」と結論づけた。借金を逃れるため多重債務者が出家しようとするのを、ブローカーが食い物にする詐欺の手口を紹介したらしい。やらせばかりか、捏造までして番組を作っていたという疑いだ。調査委員会は苦し紛れに説明しているが、わたしには過剰な演出と捏造との間にほとんど距離はないように思える。

同じような状況を再現して関係者に演技させたところを撮影し、あたかも実際の場面であるかのように放映することも架空の演出となる。決定的シーンとして放送すれば視聴率がかせげる。テレビ人には魅惑的となろう。彼らこうち多くは常に被写体を演出しつつ、ギリギリのところで捏造することを自制していることと思う。

捏造←→過剰演出←→作為←→ありのままの現実

やらせ(捏造と過剰演出を包含する)の対極は、ありのままの現実だとすると、両極の間には無数の状態がある。他人に良く見せようとしてシナをつくる作為があり、着飾ったり偉そうに見せるのも作為だ。その作為を繰り返すうちにそれが身につけば、あるがままの姿となるだろう。

いわゆるキャラを作るのも作為のうちだ。集団の中で自分に期待される人格を演ずるうちに新しい自分を演出できなくて苦しむ若い人が多くなっていると聞く。芸人があられもない姿をカメラの前にさらして視聴者を喜ばせるのも作為だが、当人がカメラの前から離れればいつもの顔に戻るのが当然だ。ディレクターが過剰に演出して芸人本来のキャラを逸脱させた結果ウケれば新たな笑いの創出として誉められる。マンネリ化した日々にいつもと違うシチュエーションを持ちこめば、素敵な演出として家族や恋人を喜ばし張りが生まれる。

人は誰もが百面相だ。ルパン三世や怪人二十面相のように変装しなくても、時と場合と気分によって自在とは言わないが、顔や態度、服装やメイクによっても変幻する。素粒子を観測しようとして光を当てると、素粒子に光子がぶつかって動きが変わるという。人間も同じで他人との関係によっては百面相どころか何千何万もの姿を見せていく。あるがままの姿など実はないのかもしれない。実はわたしたちの毎日は、作為と演出と、時には捏造の繰り返しなのだ。

(ガザニアをどこに植えて他の花といかに組み合わせるかというのも演出。園芸家の腕の見せどころといえる。これは過剰が過ぎても何ら問題はない)