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肖像を見つめて見られ古人や [2015年01月23日(Fri)]

fumihouse-2015-01-23T18_38_41-1-thumbnail2.jpg不思議なる絵画、肖像画をたくさん観た。島根県立美術館で『ポートレイト・イン・ミュージアム展』を鑑賞した。一部の借用品を除きほとんどは県立美術館収蔵の作品であるが、「肖像」に限定した体系的な見せ方でもって奥深い。

写実的に描く対象物は自分の目で客観視ができる。心も含めて対象をとくと眺めることができる。対象物に映った自分の主観的な投影を描く場合でも、その自己投影と対象物は、描く自分から客観的に認識されていく関係にある。抽象画を描く際にあっても、心中を客観視しながらキャンバスを染めていく(絵を描かない私が想像した)。

ところが自画像は違う。自分の姿は一部を除いて眺められない。鏡を使ったとしても限定的だし、左右が逆になる。カメラの画像や映像を撮ってみても、今の自分ではなく過去のものだ。「想像」以上に自己を客観視することは難しく、自画像を描く作業には「創造」的な絵心が必要なのではないかと想像する。

展覧会には自画像も含めた肖像画がたくさんあった。たくさんのモデルたちの視線に射すくめられるような怖さも感じた。肖像のモデルも自画像の主も、ほとんどは存命していないことを考えるとそれも当然のことかもしれない。

学芸員が書いたコラム5「ナルキッソスたちの自己表現」から引用する。

≪画家は少なからずナルシストであると言えるのかもしれません。自分自身を描く自画像は一見その極致のように思われますが、しかしそれは単なる自己愛の次元を超えて、おのれの姿を外に向かっていかに表現するかという「自己成型」という概念で捉えられる創造的行為でもあります。自らの姿を率直に捉えるにせよ、何かになろうとする姿を描くにせよ、それが他者の目に触れる自画像という形式をとっている限り、画家自身がこうありたいと願う理想が込められた表現≫

なるほど、「自己成型」、「こうありたいと願う理想」。それらを創造していくのが肖像画なのだなあ。実に興味深い。

(写真は肖像画が埋め込まれているかのような土壁。割れ目も藁も色合いも味わいがある。仁摩にある廃業した醤油蔵の古い壁)