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屋根に弾くバイオリンソロ悲しくて [2014年01月04日(Sat)]

__tn_20140104165124.jpg1971年の映画『屋根の上のバイオリン弾き』を観た。森繁久弥のロングラン・ミュージカルで有名だったが、中身を知らなかったことを恥じる。帝政ロシアの末期、革命の息吹が寄せる小さな村が舞台だ。ユダヤの村人が権力者によって住み慣れた故郷アナテフカから追放され、放浪の旅に出て悲しく終わる。有名な歌『サンライズ・サンセット』がバイオリン弾きが歌うのではなく、長女の結婚式での祝い歌であることを知った。哀愁ただようあの歌にはユダヤ教の受難の意味があったのだ。

内田樹氏が哲学者レヴィナスの神論を紹介する中でこのように述べている(『私家版・ユダヤ文化論』文春新書,2006年)。

≪幼い人々は善行が報われず、罪なき人が苦しむのを見ると、「神はいない」と判断する。人間の善性の最終的な保証者は神だと思う人は、人々が善良ではないのを見るとき、神を信じることを簡単に止めてしまう。(中略)第二次世界大戦を生き延びたユダヤ人たちは、当然ながら深い信仰上のつまずきに遭遇した。「なぜ、私たちの神はみずから選んだ民をこれほどの苦しみのうちに見捨てたのか」という恨めしげな問いを多くのユダヤ人は自制することができなかった。中には信仰を棄てるものもいたし、権謀術数や軍事力でしか正義は実現できないというシニスムに走るものもいた。そのような同時代人に向けて、レヴィナスはユダヤ教正系の立場から、それは幼児のふるまいに等しいと諭している。(中略)受難はユダヤ人にとって 信仰の頂点をなす根源的な状況なのであり、受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすことになる。(中略)
 ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟をこそ求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不在である」という当の事実が「神の遍在」を証明する≫

屋根に上って曲を奏でるバイオリン弾きは気楽さの象徴ではない。足場が不安定でいつ転落するかもしれない中で音楽を奏で、生活にいそしむ困難さの象徴であったのだ。ユダヤ教を信奉する人びとの気の持ちようは「サンライズ、サンセット」なのだ。

 日は昇り、日は沈み/日は昇り、日は沈み
 慌しく日々は流れ去り/季節は移り変わっていく
 喜びと涙を幾重にも湛えて

日が上る、明るくなる、居心地よくなる、しかし日は落ちる、暗くなる、つらい境遇になる、また日は上り、当たり前にまた日は落ちる。禍福はあざなえる縄のごとしで、幸せと不幸せは同等にやってくる。むしろ不幸を感じることが多くても、神に選ばれた民として神から与えられた試練に甘んじる。それは決して信仰の是非にかかわることではなく、単なる経過にしかすぎない。最後の審判で神からの祝福を 受けつつ天国にいたるまで当たり前に辛抱する…。それまでの困難や受難は創造神が託した自分たちの英知でもって何とかするという意志を示すのかもしれない。

(ブリの眼は悲しげだ。宇宙空間を思わすかような、その深く紺色の眼に、死の直前に感じた悲しみがつまっている)