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帰ってきて勧善懲悪白日に [2012年05月28日(Mon)]

__tn_DSC_0040.jpg名画『シェーン』は「水戸黄門」の西部劇版といえる。「七人の侍」にも似ている。反戦反核映画でもあり、個人が銃で武装する社会にも反対する立場をとっている。生身の格闘シーンも多いが、やむを得ない最後の手段としており手ばなしで戦闘することを肯定しているわけではない。

シェーンは笑顔を見せない。せいぜい微笑みだけで、影があり苦味ばしったダンディズムの表情だ。まして銃の腕をひけらかすことなどしない。楽天気分の黄門一行とは違うが、待ったなしの最後で万能の印籠に相当する射撃の腕を示すことは似ている。

開拓農民に悪玉どもが襲いかかり、共感して農民を守ろうとするのも「侍」に似ている。ただしシェーンは背は高くなく、なで肩のやせっぽちで強い感じはしない(アランラッドは都会的にかっこいい)。紛争解決手段として暴力は最後の最後まで使いたくないというのが、シェーンの気持ちだ。

劇中の設定は南北戦争後でアメリカ東南部のアラバマ州のあたりが舞台。アパラチア山脈だろうか。常に画面の背景には雪をたたえた山嶺、広がる空がまぶしい。法秩序が行き渡り、土地取得権も安定的に与えられる頃だったようだ。フロンティアがなくなってガンマンの時代は終わり人々は安心して暮らしたかった。物騒な拳銃持ちはきっと嫌われたのだろう。「早く銃などなくなればいい」とマリアンがつぶやくところは、当時の女性たちの本音であった。残念ながら今でもまだアメリカは市民が武装する銃社会。非武装は実現しそうにない。

物語は一貫して少年ジョーイの目から描かれる。銃のおもちゃを持ち歩き、早く実際に撃ち方を教わりたくてウズウズしている。しかし母マリアンにとっては危なっかしくてしょうがない。農民の中心として指揮をとる夫ジョーが血気にはやるのもマリアンの心配のタネだ。映画公開は1953年、朝鮮戦争後核開発競争、東西冷戦が激しいその頃。人類の不穏な未来を当時の制作者たちも憂えていたのではなかろうか。

殺されるとわかっている戦いの場にジョーが向かっていくとき、シェーンは力づくで阻止する。倒れたジョーを介抱するジョーイの横で、マリアンとシェーンは向かい合う。握手で別れるが、たぶん二人はキスしたかったのだろう。「私はジョーの妻。そうでなければシェーンとともに行きたい」 シェーンも心が揺れた。「戦いに勝っても流れ者が定住して生きる場はない。ましてマリアンと・・・」とシェーンは見定めていた。二人はもとより結ばれる可能性はなかったのだが、好きになった同士が触れあえたのは、せいぜいぎこちない握手であった。

ジョーイの有名な台詞「シェーン! カムバック!」には少年の深い共感と憧れが込められている。しかし話の冒頭で「ドント.カムバック!」とシェーンが酒場から追い出されるシーンがある。さすらいのガンマンに行くところはもはやない。そう見切っていたシェーン自身にはきっと「キャント.カムバック!」と聞こえたに違いない。

音楽や効果音が実にわかりやすい。悪党どもが登場すると不穏に低く、開拓民が楽しく過ごし作物にや家畜に向かうときは軽快に高めだ。勧善懲悪をくっきりと描く、ディズニーのアニメを見ているようなわかりやすさを感じた。

松江サティのシネコンで「午前10時の映画祭」と入口で注文すると係の女の子は、「シェーンですね?」と応える。「そう、シェンエンで」と言うオヤジギャグに受付嬢は笑顔で「はい、ありがとうございます!」と千円札を受け取った。ああ、とてもいい娘だと思う。そういうオヤジもわかりやすい。