齋藤孝著『読み上手 書き上手』より。活字中毒、久しぶりに聞くような気がする。この言葉を。わたしも実はそのたぐいだ。
≪"活字中毒"になると、活字がないと落ちつきません。アルコール中毒の人が、お酒なら何でも飲むのと同じで、"活字中毒"の人も新聞から雑誌、新書のような学問や情報を扱ったものから小説まで、手当たり次第にいろいろなものを読んでいたいという欲求にかられます。≫
映画監督・小栗康平氏と対談をしたときの経験を通し、著者は「映画の文法」についてこのように書く。
≪このとき小栗さんの言葉で印象的だったのが、「この10年で日本の映画の観客がかなり壊れてしまったという実感を持った」ということでした。(中略)映画の見方の文法をまったく知らない人が大量に出現し、映画がテレビのようになってしまった、というのです。ストーリーがわかりやすく、登場人物が説明的であり、誰が見てもわかる単純なものが求められるようになり、映画を見慣れている人には通じる見方の文法が一般の観客には通用しなくなった、とおっしゃっていました。
映画は100年以上かけて、複雑な文法を発展させてきました。それがわかる人にとっては、いわば謎解きのような楽しみもあるので、語り合う内容も必然的に知的なものになります。≫
「映画の文法」。わたしにとって初めて聞く言葉であるが、どちらかというと難解で、もってまわったようにして観る者を困惑させる映画は好かない。「私は知的レベルが高こうございます。さすがでしょ」といったインテリ臭さが濃厚で、さらにしたり顔で映画に解釈を加える人を見るのも好かないということもあろうか。
ただ、著者がいうように映画の文法という手法で、世界を切り取り、新たな枠組みでもって世界を解釈することは、まんざら悪いことではないような気がしてきた。確かにものごとを単純に位置づけていくことは小気味いいともいえるが、反対に単純すぎると深みはない。反対に意味づけを複雑にしすぎると解釈不能に陥るけれども、単純さに飽き飽きしたときには複雑さもまたいい。要は、映画を観る人がそのときどきの感情や知的レベルに応じて解釈し、その人なりに生きるエネルギーを得ていくことができれば、その映画は価値あるものであったといえるのだろう。