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日常か平時かいまを考えて [2011年08月21日(Sun)]

今回の大震災は千年に一度の巨大地震と言われる。原発災害も含めると二千年に一度と言えるのかもしれない。百年、二百年に一度の災害に備えるためには、あらゆる不便や不自由はやむを得ないとする考えがある。確かに、この大震災で私たちは惨劇を目の当たりにした。いざ災害!との思いが強くなるのはよくわかる。

しかし、もし仮に海岸が十数メートルの高さをもつ巨大城壁のような護岸に囲まれたとしたら、あるいは川下の両岸10kmは高い堤防を築くことによって川に親しめなくなってしまったとしたら、どうだろう。白砂青松の向こうの穏やかな海に夕日が沈むのを見つめる風流は消え去る。不便すぎる平常、強いられすぎる我慢はいやだ。

そして天竜川の川下り船転覆死亡事故があった。その他の船遊びでもライフジャケット着用義務化、より安全な操船をするような規制がかかってくると思う。涼やかさや爽快さを求めて川下りをするのに、ごわごわと暑くなることは耐え難い。スリルを求めて船に乗るものなのに、ぞくぞく感を封印されれば間違いなくアトラクションの人気を落とす。

安全・安心のためのリスクマネジメントとは、「万が一」に備えることである。字のとおり、一万分の一、めったなことではないが一万回やって九千九百九拾九回はおこらない代わりに、一回はおこるかもしれない可能性に対処するということだ。ただし、中(あた)れば百発百中は不幸に見まわれる。中らないときだけが「万が一」なのである。

医療にも同じことが言える。医療行為には手術や新薬の使用といった侵襲行為が伴う。体を傷つける代わりに処置や薬によってそれ以上のメリットはあるのだが、失敗の可能性はある。手術の成功率は九割と聞けば安心するかもしれないが、百のうち十回は確率的には失敗する。こんなとき人は楽観主義者になって自分が九十に入るのが当然とする。だが、十に入ってしまえば、「想定外」だと叫んでも現実は現実だ。どんなに完璧に事故や災害、失敗に備えたつもりでも、一定の確率で不幸に見舞われることは、いたしかたない事実である。

≪今回のボランティア活動が(注:阪神淡路大震災のこと)、日常的な市民のつながりの中で、いまという時代をよりよく生きるためのネットワークによって幅広く支えられているという事実から考えると、私たちは有事でなく平時の生き方、暮らし方や人と人とのつながり方が大事だということではないか。何か遠い未来の有事に備えて、いまというときを費やすのではなく、「今日、私たちは何をなすべきか?」を日々自らに問い続ける道が、震災を他人事ではなく自分のこととして引き受け、真に未来に備えることになるのだ。≫
 (加藤哲夫『市民のネットワーキング 市民の仕事術T』1995年5月執筆分)

加藤氏の文章にもあらわれているように、有事にばかり目を向けてしまうと、「いまというとき」―平時を忘れてしまいかねない。建物や構造物、規制といったハード的な面の備えだけでなく、「暮らし方や人と人とのつながり方」という面をもっと考えていくチャンスなのだと思う。