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呻吟し音のありかを探しけり [2019年06月09日(Sun)]

fumihouse-2019-06-09T08_36_58-1-thumbnail2.jpgギターに呻吟している。弦楽器は高低を受け持つ複数の弦を使うだけに、同じ高さの音であっても異なる弦で表現できる。そこがピアノや管楽器と違うところだ。弦ごとの音色の違いやポジション移動のしやすさを求めて、奏者は工夫する。

ギターは左右の4本ずつの指を駆使して和音を奏でるだけに、押さえるべきフレットの組み合わせが多い。3オクターブあまりの音域に2つか3つの同音があるのだから難しい。楽譜に記してない場合も多い。

弦を移るのか、同じ弦でポジション移動するのか、彷徨する気分で楽譜を読んでいる。手に負えないと思うこともしばしばだ。レッスンの時に教わったはずなのに、忘れることもあってもどかしい。

それでもやり方がわかって(記録しておかないと忘れて元の木阿弥)、定着して弾けるようになって、暗譜して、難しいパッセージも高い確率で弾けると嬉しくなる。楽しい、そしてそれなりに美しい。ギターは小さなオーケストラ、とベートーベンが言ったとおりになる。

(まつ毛は美女の必要条件ではないが、美女柳はまつ毛の長い美女なのか。金糸梅と似ていても、雄しべの長さは圧倒的に違う)
練習しギター斜めに傾いて [2019年05月04日(Sat)]

fumihouse-2019-05-04T23_21_41-1-thumbnail2.jpg山陰ギターコンクールの運営を手伝った。きのう3日は出場者を控室から送り出す係、きょうは会場の騒音監視役だ。米子市文化ホールで行われたコンクールでは、ジュニア、シニア、中級、上級、プロフェッショナル部門に分かれて競う。1983年にスタートした伝統ある競技会である。

舞台で演奏者を支えるのは足台だ。15から20センチの伸縮式足台が昔から使われている。左足を足台に上げて高くし、太ももをギターのくびれに乗せて安定させる。

近頃多いのは、ギターサポートやギターレストと呼ばれる吸盤や三角支持具でギターを固定し、左足を上げなくてもすむようにするものだ。確かに足台を長時間使っていると足が疲れる。しびれてしまうこともある。普通にイスに座った状態を保つことによって、骨盤の歪みが減って長時間のギター練習が可能との触れ込みだ。

確かに疲れにくいかもしれないが、ギターサポートやギターレストはいま一つさまにならないと感じた。なぜだろう。ロダンの名彫刻「考える人」を考えてみよう。

右肘が左足に乗って前傾した体が左側にねじれて、「考える人」の完成だ。哲学する思考者はねじれていなくてはならない。まっ、カッコいいだけではあるが・・・。ギターレストを使って左右の足が均衡に広がっていると、考える人のイメージは湧いてこない。

ギターは小さなオーケストラ、とはベートーベンの言葉らしいが、弦楽器、金管、木管、打楽器もこなせるギターはカッコいい、でも難しい。ならば、せめて美しく見えるように努めたい。

(ギターのようなくびれを持つ赤いハナミズキ)
二回目の発表会が無事終わり [2019年04月29日(Mon)]

fumihouse-2019-04-29T21_09_59-1-thumbnail2.jpg門脇康一ギター教室のスプリングコンサートに参加した。要するに半年に一度の発表会である。わたしが演奏したのは、ホアン・ペルナンブコが作曲した『鐘の響き』。ブラジルのポプュラー音楽であるショーロで、明るくて楽しい曲だ。曲は楽しくても演奏は難しい。

わたしがこの2か月の練習で重視したのは、いい感じにリズムを出すこと、そして流れである。間違えたとしても止まってはいけない。止まるな、流れを崩すな、ラテン的な楽しさを貫け! 毎回の練習で心がけてきた。

小さくてもステージはステージ。観客の目を意識してか、本番を迎えた故か、とても緊張する。ふだんはしないミスが出る。それでも、途切れさすことなく曲を続けていった。

音が通りきれいだと言ってくださった方がある。ありがたい評ではあるが、自己評価はベストの10分の6。まだまだ練習が足りぬ。飽きずに練習を重ねて得意曲にしていきたいと思う。

鳥取・島根両県にまたがる門脇教室に貫かれるのは、生徒各々をありのままに受け入れてギターを楽しもうと教えられていることだ(わたしはそう思う)。とても良い先生に恵まれて、わたしのギター生活も来月で1年となる。

(アフリカ原産というスパラキシス。いま見ごろを迎えている。「鐘の響き」のような情感をかもし出している)
弾き切れて替えどき聴きどき楽しけれ [2019年02月02日(Sat)]

fumihouse-2019-02-02T22_42_43-1-thumbnail2.jpgギターの練習をしていたら第4弦がピチッと切れた。フレットに当たる部分は変色していたし、前回の交換から2か月。替え時だとは思いつつそのままでいた。とうとう切れた。細いスチールでコイル巻きにしてある、100本は越えるであろうマイクロナイロンの束が露出している。ネックの張力に耐え、わたしの打撃に耐えてきた、可愛いやつだ。

すべて新しい弦に替えた。音が違う。張りがある、伸びがある、よく響く。トレモロの粒がそろった。名曲・アルバンバラ宮殿の思い出が上手になったように思える。ひと前ではまだまだだが、クラシックギターって楽しいと思う。美しさにじんとくる。
あきこさんタブー切り込む新表現 [2018年12月17日(Mon)]

fumihouse-2018-12-17T19_11_37-1-thumbnail2.jpg与謝野晶子はうたった。

  明日といふよき日を人は夢に見よ
   今日のあたひはわれのみぞ知る

ひとは明日という日を夢にみて、未来に期待していくんでしょうね。私はどうかって? 今が全てなんだ。今日一日の価値は私だけが知っている。無駄にはしない。是も非もなく、私はわたしなんだから・・・。

強い言葉である。女性は自立せよ、女性は自由であれ・・・情熱をもって歌に詠み続けた歌人・与謝野晶子らしい。

情感を秘めて表に出さないのは当たりまえ、行動も慎ましやかにして当然! これが美徳とされていた時代にあって晶子は心情をありのままに込めて、和歌の世界を変えた。タブーとされてきた身体や出産を斬新に表し、現在の目からみてもエロチックな表現を使っている(発禁処分も受けた)。

晶子が生まれたのは1878年。大阪という風土も彼女の実直さに寄与したことだろう。晶子が1942年に亡くなってから76年。そう大昔のことでもない。今年は生誕140年。

(今夕出雲工業高校から見えた天使の梯子。晶子ならどう表現したろうか)
輝いて青春まっただなか楽し [2018年12月12日(Wed)]

fumihouse-2018-12-12T20_40_01-1-thumbnail2.jpg出工高の吹奏楽部諸君が図書委員会主催のクリスマス会で(ちと早いが)、何曲かのポピュラー曲を演奏してくれた。うちの一つがカーペンターズの『青春の輝き』。サワリの I know I need to be in love しか知らないが、好きなメロディで、気持ちよく彼らのハーモニーに耳を傾けた。甘酸っぱい感情が押しよせてくる。サワリの歌詞はこうなっている。

 わかってるの、私っていつも恋してなくちゃいけないって( I know I need to be in love )

 十分わかってる、あまりに時間をムダにしてきたことを( I know I've wasted too much time )

 自分は欠点だらけなのに、完璧な相手を望んでいたなんて、もちろん今はわかるよ( I know I ask perfection of a quite imperfect world )

 そしていつか理想の相手に巡りあえると思っていたなんて、おバカさんだよね( And fool enough to think that's what I'll find )

なんと題名は『 I know I need to be in love 』ではないか。意訳して『青春の輝き』と邦題をつけるとは恐れ入った。

近頃の青年は恋をしなくなったというが、恋はアドレナリンでやる気がみなぎる。何げない風物に心が動く。一方で恋は盲目。つんのめり過ぎると重傷になることに、よくよく注意。でもそれこそ青春の輝きなり!

(恋すれば薔薇の一輪だって極上の美と喜びになる)
11月の善き日が過ぎて大山の [2018年11月24日(Sat)]

fumihouse-2018-11-24T21_08_18-1-thumbnail2.jpg『11月のある日』は、作曲家の連想した秋であろうか。草木が色づき落葉がすすむと肌寒い。色が失われる冬に向かって寂しさもある。出会いや別れ、多くの思いを秘めて静かに秋は深まる・・・。

キューバ出身のレオ・ブローウェルが作曲したこの曲。アレクサンダー・ガラガノフ演奏会(安来アルテピア小ホール)でアンコールで弾かれた一曲が『11月のある日』。CDで聞くのとは違う生演奏の迫力。静謐にしてダイナミック、最上のギターの音色を聴かせてくれた。

「すぐれたギターほど美しいものはほかに考えられない」(ショパン)

演奏会に先だって、門脇康一ギター教室の発表会が行われた。わたしが演奏したのが『11月のある日』。アレクサンダーさんの演奏とは比較にならない出来ばえ。美しいとはお世辞にも言えなくてお恥ずかしい限りであるが、数十年ぶりにクラシックギターの音色に惹かれている。アルテピアから見えた極上の冠雪した大山が、わたしを祝福してくれた。

(わたしが11月のある日に撮影したムカゴの生る山芋の葉と蔓)
似ていても不昧と不味は大違い [2018年11月05日(Mon)]

fumihouse-2018-11-05T21_38_50-1-thumbnail2.jpg不昧(ふまい)の字を見ると、不味いと読んでいけないのだが、松平不昧公は島根にとって、美味しい人だ。『没後200年 大名茶人 松平不昧』展へ行ってきた。

18世紀末の出雲藩・松平治郷は、古今に伝わる茶道の名品を熟知し磨かれた鑑識眼で選び、贅を尽くして蒐集した。むろん、財政改革を成し遂げたからこその贅沢である。

不昧と称し、優れた感性と知性で禅と茶を極めた。地元の陶芸を育てもした。そのコレクションが「雲州蔵帳」として結実している。いわば不昧流茶道具ランキング帳である。

国宝・大井戸茶碗。鈍い光沢をたたえてアクリルケースの真ん中で鎮座している。轆轤回しで製作されたものだろうが、対称ではなく歪みがある。釉薬をかけてできた貫入(釉のひび模様)や欠け目に使い込んだであろう茶渋があって、わび・さびを感じる。

今や美術品として飾られるだけの名品となった。使われるうちは生きているが、一部の人が独占する。一方、美術館だと公開されて誰もが眺められる代わりに死んでいく。普遍性と独占性は相いれない。

不昧公お手製の豆腐の墨絵が掛け軸になってあり、歌が詠まれている。
  世の中は まめで四角で和らかで
   とうふのやうにあきられもせず

なかなか茶目っ気たっぷりの人のようだ。「昧」は暗くてよく見えない意。転じて愚かで考えが足りないとなる。「不昧」はその反対で、自信過剰の人なのか、それとも戒めとしての号なのか。江戸の昔とはいえ、まだ没後200年。意外と不昧公は近いところにいる。

(犬蓼の花。食用にはならない。別名は、ツブツブ状から赤まんま。赤飯に見えなくはない)
神々が集うこのつき神が在る [2018年11月04日(Sun)]

fumihouse-2018-11-04T21_39_45-1-thumbnail2.jpg歴博(古代出雲歴史博物館の通称)で企画展『神々が集う〜神在月と島根の神像彫刻』が開催中です。旧暦神在月の由来を文献で示し、出雲で造られた神像の数々を展示しています。

平安末12世紀の歌人・藤原清輔による『清輔奥義抄』にはこうありました。少なくとも900年前には貴族の間では出雲に神々が結集することが常識となっていたわけです。

≪十月 天下のもろもろの神 出雲国へゆきてこと国に神なきかゆへにかミなし月といふ≫

室町時代15世紀の辞書『下学集』には出雲大社の文字が見えます。そして神有月と。

≪十月ニ諸神皆出雲ノ大社ニ集ル故ニ神無月ト云也 出雲ノ国ニハ神有月ト云也≫

イザナミの神が10月に死んだのが神在月の起源となったとも言われています。イザナギとともに日本列島を産んだイザナミですが、火の神を産んだため焼死。黄泉の国へ迎えに行ったイザナギ。イザナミは腐敗してウジ虫だらけの姿を見られて鬼となりました。

ほうほうの体で地上界に逃げ戻ったイザナギ。二人は別離した・・・ならば出雲大社の主神はイザナミかと思いきや、オオクニヌシになったのは何故? つじつまの合わないところは神話によくあることです。追及するのはやめましょう。神在月というイリュージョンが文章化され、既成事実となります。神楽や謡曲を通じて世の中に広まっていきます。

有名な仏像に比べれば稚拙な神像が、展示場にはあまたあります。神の画は僧形であったり、女神であったり、龍や蛇の姿をしています。でも多いのは仏像や仏画に連なる造形です。かつては神仏習合であり、神も仏もごっちゃにしていたのです。

それは置いて、こうした習作のような造形がたくさん残っているということは、出雲の民衆に神を敬う文化が浸透し、裾野が広がっていた証拠。豊かだったのでしょう。出雲は大したものですね。さて、もうすぐ神在月が始まります。

(出雲大社参道入り口にある菊花展の小菊。菊は平安朝のころに中国から伝わってきたという。つまり神話の時代には無かった。神無菊、なーんてね)
善悪ともカーテンコールに喜びて [2018年09月17日(Mon)]

fumihouse-2018-09-17T21_11_34-1-thumbnail2.jpg終演後のカーテンコール。全出演者のお出ましです。主役はむろんのこと、ついさっきまで主役を苦しめた悪漢どもまで、満面の笑みでステップを踏み客席に手をふっています。満足と感謝を全身にあらわして会場は熱い。演劇は実にいいですね。

ミュージカル『あいと地球と競売人』で、妖怪たちは地球人にもっと地球を汚せとけしかけます。汚染されるほど悪の世界では高く売れると。そして妖怪は地球人を哀れむかのように歌うのです。

 愛をどこかに捨てた人
  夢をどこかに捨てた人

妖怪とは地球人自身のこと。地球の環境を破壊し、人類の未来を台無しにする。この青い地球を守りたい、美しい水の星を栄え続けさせたい、愛ちゃんの思いに観客は引き込まれていきます。

暗闇の世界に取り囲まれてしまえば、君の悩む顔も燃える瞳も泣き顔も優しさにだって触れることはできません。悪を退けるエネルギーとなるのは、友の笑顔と連帯です。主題歌の力によって子供たちは妖怪の強力な暗闇に抵抗し勝利を納めるのでした。

 ♪ 好きさ 君の笑い顔が ♪

きょうは3日間公演の最終日。5か月間よくガンバった、娘よ。さぞ妖怪づいているかと思いきや、きのうの公演のカーテンコールでは笑顔爆発、喜び全身!の姿を見ることができました。

その他キャスト、スタッフ、ボランティアの皆さん、お疲れさまでした。島根の至宝、坪田愛華さんが残した絵本『地球の秘密』。それをモチーフにしたミュージカル『あいと地球と競売人』。素晴らしいリバイバル公演です。

ただ私は思うのです。ゴミを捨て、汚水を垂れ流し、動植物を殺し踏みにじることで地球の価値を上げようとした妖怪たち。そんな面倒なことなど止めて、核兵器発射のボタンを押し一発の水爆を打ち込ませるだけでいいのです。報復の応酬が始まって地球の汚染など数日で完了です。妖怪に気づかれないよう、早く核兵器廃絶を進めなければなりません。
偽物と本物の境どこにある [2018年07月24日(Tue)]

fumihouse-2018-07-24T18_08_09-1-thumbnail2.jpg島根県立美術館で開催中の「東京藝術大学クローン文化財展〜甦る世界の文化財」。法隆寺の釈迦三尊像を鋳物で複製した富山・高岡の職人の映像に見入った。完成お披露目でのこと、釈迦像に手を合わせる見学者がいた。その映像を見て思った。なぜ人間は神仏の偶像を造るのだろうと。

そもそもクローンとして造った美術品や仏像は偽物。偽物に価値はないと初めは思っていた。しかし、匠の魂魄が留められた仏像には手を合わせたくなる力があったのだ。本物も偽物もない、良き物の不思議な本物感。

イスラム原理主義タリバンはバーミヤンの大仏群を爆破した。偶像崇拝は許さないイスラムの教えを他宗に強制する。神の足下にひれ伏す人間が神の姿に似せて像を造るなんて、とんでもないという発想だ。

一方でキリスト教は認めている。数々の絵画、彫刻、鋳物、音楽、工芸、書に至るまで。だからキリスト教文化では、芸術が花開いた。神に対して畏怖や祈願の気持ちをいだいて具体的なモノに向かって礼拝したいという発想。美しく神々しいものを求めた結果、至高の芸術が産まれた。人間の想像力には限りがある。偶像もある面必要なのではないかと感じた。

敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)などを再現した壁画も印象深い。1500年以上も前、像法の時代に仏道修行として造営された石窟。東西交易の要衝として栄え、様々な文化、宗教が融合した仏教芸術のひとつだが、すでに仏法はない。シルクロードの栄華を感じるために敦煌へ行ってみたくなった。

ゴッホの自画像クローンは照明の新技術によって揺れた。ゴッホの揺れ動く自画を表象するかのように。写楽や広重の浮世絵は匂いをかいだり、アニメ化されて、当時絵師が見た原像を想像して楽しむこともできた。偽物クローンだってまんざら悪いものではないと思った。

会場から出ると山陰中央新報の2年目記者にインタビューを受けた。写真も撮られた。わたしのしゃべったことがどこまで文章化されるかはわからないが、楽しみにしておこう。
不協和も協和もあるぞ小宇宙 [2018年06月09日(Sat)]

fumihouse-2018-06-09T16_02_33-1-thumbnail2.jpgぼやっと起きた休日の朝。太陽がまぶしい。まどろんで昨日のことを思い出す。一晩たてばイヤな思いもまろやかに、良かったことはそれなりに。母さんの声が聞こえる。起きてる? 「はいっ!」 さあ、起きよっ! わたしはコスモス、小さな宇宙。わたしは私。不協和音もあるけれど、憂鬱な時もあるけれど、わたしは私でいくんだわ。おやっ父さんピリピリしてる。どうしたの?って聞きたいけれどそんな空気じゃあないね。何ごともうまくはいかないよ。まっいいか。これもミクロコスモス。わたしは一人でひとつの宇宙。かけがえのないこのわたしの毎日。それは誰にとっても同じこと。みんな違うがみんないい・・。

小さなアンサンブルが出雲地区吹奏楽祭の冒頭を飾った。出雲工業高校の吹奏楽部、7名は白いブレザー、濃紺のパンツがキリッとしたたたずまい。

初めて聴いたバルトークの『ミクロコスモス』。もとはピアノのための練習曲集。短調でも長調でもない無調な感じ、まさに現代音楽。不定愁訴のようなぼんやりとした不協和音。揺れ動いていくリズム。不安や戸惑いが漠然と表されているが淡々と曲は進んでいく。朝の光景をイメージしながら聴いた。生徒諸君、お疲れさま!

(会場となった大社文化プレイスうらら館には爽やかな色合いの紫陽花が飾られていた)
プラバにて小さなオケを楽しみて [2018年05月04日(Fri)]

fumihouse-2018-05-04T17_34_31-1-thumbnail2.jpg松江・プラバホール(松江市総合文化センター)に来ている。500人ほどの小規模ホールで楕円形。前三分の一を広くとってあり、巨大なパイプオルガンが鎮座した本格的な舞台で、音響はすこぶるよろしい。マイクなしでもギターの演奏がよく響く。

今日は山陰ギターコンクールを聞きにきた。今回で26回目を数えており、米子と松江で毎年交互に開かれている模様。初級から中級、上級、プロフェッショナル部門の他に、55歳以上のシニアもある。

わたしのクラシックギターは、もう30年も弾かないままにしてある。かつてはあんな熱心に練習していたのに今は過去のこと。ソル作曲の魔笛の主題による変奏曲などよく練習した曲も演奏された。少しかじっただけの曲もある。懐かしい。ほとんど白紙状態に戻ってしまったが、「ギターは小さなオーケストラ」。誰か先生に習ってみようかなと思う。

(小さな宇宙を感じる、田植え前の斐川平野の朝)
ドーナツとレモンはドレミ楽しかろ [2018年05月03日(Thu)]

fumihouse-2018-05-03T13_19_12-1-thumbnail2.jpg曲『ドレミの歌』。映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、マリアがトラップ家の子供たちが音楽に親しむきっかけを与える歌である。原曲を元にリズムに合わせて訳してみたらこうなった。

♪ドはメスの鹿/レは陽が満ちる/ミはミーのこと/ファは遠い道/ソは針で縫う/ラはソのあとよ/ティーはジャムパン合う/ドに戻りましょう♪

それがどうだ。ペギー葉山さんにかかるとなんて素晴らしい。歌が生まれ変わってみんなの応援歌になる。あの明るさに励まされたひとは多かろう。

♪ドはドーナツのド  レはレモンのレ
 ミはみんなのミ  ファはファイトのファ
 ソは青い空  ラはラッパのラ
 シは幸せよ  さあ歌いましょう♪

アメリカの家庭で祝祭に合わせて作られる〈ド〉ーナツ。戦後十数年の頃には夢の国アメリカの幸せ家族の象徴だったのかもしれない。〈レ〉モンは不思議な紡錘形。この頃アメリカから輸入が自由化されて、家庭でもお目見えするようになる。高級感があって酸っぱい大人の味。

仕事も学校も忙しいが戦中の苦しさは去り、〈み〉んなは豊かになっていく実感が日々あったにちがいない。日本人が応援する時いつから〈ファ〉イトと言うようになったのだろう。将来のためにガンバロー。

青い〈そ〉らは澄みきって輝かしい。家族や日本の未来をつくるために前進を重ねよう。〈ラ〉ッパは鳴り響く。人生の戦いの場に臨むひとの背中を押す。しかも、空とラッパは、しりとり関係。語呂が良い。

君は〈し〉あわせかい? そうだよ幸せさ。20世紀は我らの世紀だ。さあ、家族で歌おう、みんなで高らかに歌おうよ。

(倉吉・白壁土蔵の街並みの一角に咲くクレマチス。まるで太陽のよう)
ゴーリーの不思議なヒミツ楽しんで [2018年01月20日(Sat)]

fumihouse-2018-01-20T22_00_10-1-thumbnail2.jpgシュールだとは思わない。非現実的ではあるけれど、イラストや挿し絵とはそんなもの。ユーモアだとも思わない。ひとをほっこりさせて、いいね!とうなずかせる絵ではないからだ。謎めいて、不思議いっぱいで、陰惨にそこまでなにも描かなくても・・・と思わせるのがゴーリーの世界。益田のグラントワ(石見美術館)で『エドワード・ゴーリーの優雅な世界』に浸ってきた。

極細のペンで緻密なモノクロームの線。幾重にも重ね合わせて重く暗いタッチの絵ができあがっていく。「うろんな客(Doubtful Guest)」が気になった。うろん(胡乱)とは、胡散(うさん)くさくて怪しいこと。そして、不確実で乱雑なさま。白いスニーカーを履き、縞々のマフラーを二重に巻き、鼻と口は尖って恐竜ヴェロキラプトルのようだ。手は長く指先は先細になっている。その客が家に居着いている。

 ふと見れば 壺の上にぞ 何か立つ
  珍奇な姿に 一家仰天(訳:柴田元幸)

韻を踏んだゴーリーの詩を全編にわたって五七五七七の短歌形にした柴田氏の詩心&遊び心が楽しい。

遊び心といえば、キャプションの文字に時折黒地に白抜きにされた文字があった。それをつなげると学芸員の遊び心が見えてきた。

【ゴ】【ー】【リ】【ー】【の】【ユ】【う】【が】【な】【ヒ】【ミ】【ツ】

(ゴーリーがハーバード大在学中に母宛てに送った手紙の封筒。ゴーリーの自筆絵。一番のお気に入りをスケッチしてみた)
湖畔にて美術の質感楽しんで [2018年01月08日(Mon)]

fumihouse-2018-01-08T21_42_15-1-thumbnail2.jpg 「点」が「線」をつくり
 「線」が「面」をつくり、
 「面」が「量」をつくります。
 (「かたちの冒険」島根県立美術館『みんなの美術室』)

島根県立美術館の所蔵品を中心にコレクション展が開催されている。版画や油彩、彫刻などさまざまな技法で見せる美術の造形を楽しんだ。美術家が形、色、材料、構成といった多くの要素を組み合わせることで千差万別の楽しみが生じる(??という反応もあるが)。

数学的に言えば点には面積がない。面積がないものを長くつなげても線はできないはずなのだが不思議だ。同様に線を重ねていっても面になってしまう。面が三次元の立体(量)になるときもこの不思議は残る。

理論と実際は違うということでよいだろう。点にも線にも面にも立体にも、質感がある。柔らかそう、硬そう、つるつるしている、ごつごつしている、重そう、軽そう、温かそう、冷たそう、遠そう、近そうなど。時間が経てば、周囲の状況が変われば美術品の質感は変化するのも面白い。そんなことを考えながら楽しい展覧会を時間をかけて楽しんだ。

(出雲工業高校の管理・特別教室棟は時折ゆらゆらと妙な質感になっていく)
馬と驢馬ちっとも似てはいないけど [2017年11月26日(Sun)]

fumihouse-2017-11-26T14_18_56-1-thumbnail2.jpgロバを彷彿とさせるといったら変かもしれないが、見た目は地味でも豊潤さを感じさせ、歌声は温和で静か、弾きながら踊る様子は正直者のロバのイメージだった。楽団『ロバの音楽座』の演奏会を聴いた(おやこ劇場松江センター主催/松江市・プラバホールにて)。

森を歩く、空気をいっぱい吸う、野を駆ける、坂を上る、空を見上げる、海が見たい、耳をすまして風の音をきく、鳥の声をきく、そして誰かに出会いたい、と思う。

中世の古楽器や創作楽器から奏でられる音楽を伴奏にして歌う。リュート、古オルガン、パンフレート、バグパイプ、リコーダー、フルート、空瓶、さらに口笛、手拍子、タップを伴奏にして、さらには会場の子供と大人も巻き込んで楽しみの渦を創作していく。お手玉まで使って雪がしんしん積もった感じを出していたのに驚いた。

背景にはプラバホールのパイプオルガンが鎮座している。ルネッサンス期のヨーロッパ、もしくはケルト人の教会に紛れ込んだ旅芸人を思わせる雰囲気が漂う中で、4人の演者たちの演奏とパフォーマンスを堪能した。

(プラバホール入口にあったデコレーション。クリスマスのムードが高まりつつある)
情念の強い歌声ファドを聴く [2017年11月06日(Mon)]

fumihouse-2017-11-06T22_37_59-1-thumbnail2.jpg 君の腹はなだらかな丘
 青い糸で刺繍して、海の刺繍に糸はいらない
 あなたとともに飛翔する、街角で馬に飛び乗って
 行こうよ、私をもう迷わせないで
 身体がうずく、ギターの音にうずくんだ
 愛は蜜、愛はレモンの味なのよ
 甘くとろけて、酸っぱくて後悔してる
 北風が甲板に口づけをした
 西の空に頬の赤みが乗り移る

情念が滔々と歌われる。別れ、悲恋、涙…。しかし暗く沈まず、明るいのはなんでだろう。大航海時代に繁栄したポルトガル。以降時代に取り残されて、他の列強から置き忘れられた。その悲哀がファドには表されているのだろうか。それでも誰かを恨んで呪うような陰湿さがない。明るくてからりと人生を楽しんでいる感がある。ラテンのリズムなのだ。

ポルトガルの叙情歌、ファド。民音コンサートでカルラ・ピレスの歌を楽しんできた。カルラの甘美な歌声はもちろんのこと、歩きが美しいのが気に入った。前半が哀愁や傷心に満ちたリスボンのファド。後半はコインブラのファド。詩心、郷愁や風情を感じる歌だった。日本の演歌とは異質の歌を感じることができた。
買い付けて私のものだと美術館 [2017年10月23日(Mon)]

fumihouse-2017-10-23T17_48_22-1-thumbnail2.jpg美術館で鑑賞して気に入った絵画や彫刻を買い付けるなんて思いもしなかった。むろん空想であるが、エア買い付けと称して筆者は、買うという視点で主体的に作品に向き合うと見方が違ってくると述べる(藤田令伊氏『美術館・アートの楽しみ方』聖教新聞10月23日付け)。

そのほか氏が紹介される、ディスクリプション(作品の情景を説明する)、引っ掛かり鑑賞(ざっくり全体を見て気になった作品を中心にじっくり見る)、五感をフル回転鑑賞(香りや温度、音、匂いをイメージする)も参考になる。

わが家ではどの部屋に飾るのか、友に贈るとすれば誰それにはあれがいいとか考えるのも楽しいと。作品にタイトルをつけたり、作中人物にセリフをしゃべらせてみることで鑑賞を深める方法も紹介された。

静かで薄暗い館内で見続けるのは、思いのほか緊張を要し疲れる。時間切れになると終わりのほうはサラッと終わらせてしまうこともある。こんな方法を実践すれば、入場料の元が取れるかもしれないね(そもそもその発想が不純かも)。

(小菊は蕾ではピンク色。開くにしたがって淡くなる。開ききると象牙色とピンクが混ざって品よく散らばる。中央部の黄色い雌しべ部分も開くにつれて薄くなり、同心円状の突起が不思議に幾何学だ。背景の闇もコントラストがあってよろしい。そんなふうに小菊も美しい)
夢がある九州2つの美術展 [2017年10月09日(Mon)]

fumihouse-2017-10-09T21_20_51-1-thumbnail2.jpgエドガー・ドガ『マネとマネ夫人像』(1868年作)
赤茶の髭をたくわえたマネは横になって宙を見ている。ソファに横たわり右足を乗せリラックスしているようだが、どこかムリしている感じがある。ベージュ色のベストに合わせて薄茶色の靴下をはいている。靴は白で、上着とズボンは黒だが上下は釣り合っておらず、くたびれている。実に弛緩した雰囲気で夫人の後ろにいる。夫人はといえば、ピアノを弾いているらしい。グレーベースの黒い大きなストライプのあるドレス。演奏を披露するため予行演習を夫の前でやっているのかもしれない。残念ながら、右4分の1がハサミで切ってあって夫人の顔や容姿は見ることができない。

マネは気に入らず絵を切り取ったという。ドガは怒った。持ち帰り放置したという。夫人の背は丸まっているのはやむを得まい。鍵盤に集中するのだから。それでも背中に肉がついているのがわかる。マネは見たところ50才。今で言えば70才相当だ。となると奥方もそれなりの年を重ねている。老いていない方が不自然だ。でも自意識過剰?の夫人は自尊心を傷つけられた。マネも同調したのかもしれない。

部屋の壁は薄汚れている。ソファの白シーツも綺麗ではない。目立つ色合いは丸いクッションの赤のみ。ピアノも黒だとすれば全体の配色の地味さにも耐えられなかったのだろうか。ともあれ、絵を切り取るとはなかなかの豪傑だ。

松本竣介『彫刻と女』(1948年作)
36歳夭折の画家が死ぬ直前に描いた絵だ。島根県立美術館で開催中の「夢の美術館〜福岡市美術館・北九州市立美術館名品コレクション」で、私が一番気に入った絵。

透けたネグリジェのような幅広のドレスを着た童顔の女。茶か黒か、頭部の像に触れている。ダースベイダーのようにいかめしい像だ。女の白い息がかかるのか。手や胴体、足から白光を発している。霧なのか霞か、地上にあって地底の者であるかのような風情。地面に接していながらも宙に浮いているかのような軽さ。女は厳然と存在しているが淡い。あれは竣介の命がもはや儚い灯火であることを意味したのだろうか。

(ドガの絵に石榴の赤色が入っていたなら、様相が違っていたかもしれないな)
青に灰写実の青樹ここにあり [2017年07月17日(Mon)]

fumihouse-2017-07-17T22_25_48-1-thumbnail2.jpg『小茂田青樹』展を島根県立美術館で鑑賞した。小茂田青樹は日本画の大家だが、昭和8年(1933年)に41歳で亡くなっただけに、長生きしていたら違う作風も楽しめただろう。旧来の枠にとらわれない日本画の制作に取り組んだ人だそうだ。前半は堅牢で写実的、後半はデザイン装飾的な作品が多いように思う。

私のお気に入りは、松江滞在時代に恵曇漁港を描いた「出雲江角港」である。今は東京国立近代美術館に所蔵されている。

おそらく早朝の港町。曇った空ではあるが、雲間から光が注いでおり冬は過ぎたようだ。草木の緑はまだ浅く、朝靄がかかっている。家々の瓦は石州産で多くは鮮やかな赤瓦。家屋は立派なものばかりで、白壁と土壁が重厚だ。屋根の向こうには湾が見える。対岸の山裾と接する海面はエメラルドグリーン(翡翠色)に輝き、見事な対比をなしている。北山の稜線は薄緑と土色のアースカラーで柔らかだ。暗い冬は終わった、希望の春だ。帆掛け船も沖に向かっている。そんな漁村の喜びが伝わってくる。左には急斜面の段々畑。何かがすでに植えられている。右手には松の巨木。画の構成は三角形が基調となって安定感に満ちている。

今や写真とコンピュータ作画全盛の時代ではあるが、人間の観察眼をもとに、身体を用いた絵画というものの魅力は衰えない。展覧会に行った人たちは、情趣が豊かで透明感のある色彩に惹かれ、繊細な描線から対象に向けられた作者の内面までも感じ取るに違いない。

(野の花の野趣もなかなかのもの。さりげない美がある)
アメリカへ黄金ウィーク砂を見る [2017年05月04日(Thu)]

fumihouse-2017-05-04T18_53_38-1-thumbnail2.jpgゴールデンウイーク真っ盛り。黄金の春を楽しんでいる。私も米国へ旅立った。

ナイアガラの大瀑布がさらさらと流れ、目を転ずるとラシュモア山に刻まれた4人の米国大統領の顔が見える。大きい顔だ。1mはあるだろうか。数メートル足を運べばニューヨーク摩天楼と自由の女神像が被写体となって観光客が記念写真に興じていた。

米国の歴史も一望した。独立宣言を起草したジェファーソン、英国と戦うワシントン将軍、南北戦争に勝って合衆国分裂を阻止したリンカーンもいる。音楽や映画、スポーツ、美術界の先端としてアメリカンライフを世界に発信し、世界の憧憬の的となった米国。ネイティブアメリカンや黒人への差別の歴史もあるが、それらの反省を元に人権大国として世界をリードする米国。偉大なアメリカを作ってきた先人たちの偉業を振り返ってほしい、現大統領には。

かくて私の日帰りアメリカ旅行は終わった。砂の美術館、今年もたくさんの人出で賑やかだった。世界各国20人もの砂像彫刻家が技術の粋を尽くして製作した砂の像。今年も楽しんだ。JAF割引が新設されたことが目新しい。また山陰自動車道で渋滞のため停車したのも初体験だった(僅かな時間だったが)。

(ジャズの巨星ボーカリストのフィッツジェラルドは肝っ玉かあさんのようだ。至高の歌声は今も輝いている)
西洋のルネッサンスなり油絵で [2017年03月19日(Sun)]

fumihouse-2017-03-19T21_37_23-1-thumbnail2.jpg東京富士美術館に行ってきた。『とことん見せます!富士美の西洋絵画〜日本最大級の西洋絵画コレクション、全貌公開!〜』。おっと、このキッパリしたストレートな表現。お高くとまることなく親しみやすさ満載だ。

東京富士美術館は開館から33年。イタリア・ルネサンス絵画以降、西洋の絢爛たる美術史をたどる収蔵品を誇る。その西洋絵画コレクション275点を一気に見せるのが今回の展覧会。1点1点綿密に見ていたら何日も通い詰めなくてはならない。気が向いた肖像画だけをじっくりと鑑賞した。

肖像の目に惹かれた。シュールレアリスムや現代ポップアートまでいくと違うのだが、西洋画には目の力がある。強靭さ、鋭さ、たくましさ、風格、雄大な夢、慈母の優しさなど様々に想像することが可能だ。制作者の魂魄を留めた描写が目にあらわれている。

どの絵を見ても、周囲の景色や光、調度品、衣服や顔の細部を稠密に描いてある。しかし眼の光や表情がしっかりと描かれなかったならば、それぞれの絵は完成しないのだろうと感じた。西洋絵画の人物画において、目の肥えた注文主を満足させるのは「目」なのだと思う。目は口ほどにものを言うのだから。もちろんその絵は眼が飛び出るほど高価なものだったに違いない。

(何ものにも動じない強さを感じさせる『クロザ夫人の肖像』。ジャック・アヴェとその工房により18世紀に制作されたもの)
絵を描くディランは今も整理する [2017年01月11日(Wed)]

fumihouse-2017-01-11T18_04_53-1-thumbnail2.jpgボブ・ディランは絵を描く。彫刻もしかり。混沌とした状態を自分の中で整理できるから好んで描くという。

確かにスケッチをするとき、目の前にある物のすべてを描くわけではない。完璧に写し取ることができてしまえば写真と同じ。自分の目で見て、頭でイメージをつくり、巧拙はあるにしてもラインや面をスケッチブックに落としていく。そこには、混沌右向き三角2選択右向き三角2整理という過程ができる。ディランはそこに魅力を感じるのだろう。昨年のノーベル文学賞受賞のスピーチで彼はこう言っている。

≪私は自分がやりたかったことを長い間続けてきました。多くのレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを開きました。しかし私のしてきたほとんど全てのことの中核にあるのは歌です。(中略)これまで、自分の歌は「文学」なのだろうかと自問した時は一度もありませんでした≫

歌を作り、歌うために格闘を続けてきた彼。音楽を創造するために、混沌右向き三角2選択右向き三角2整理の図式をたゆまず継続してきたからこそ、今の巨匠ボブ・ディランがある。まさに、継続は力なり。

(ディランのノーベル文学賞を寿いで、めでタイ猫ちゃんも祝福している)
オルガンの音色が深く染みとおり [2016年12月18日(Sun)]

fumihouse-2016-12-18T22_41_11-1-thumbnail2.jpgキリスト教は「化儀」の面では宗教界の王者である。多種な音色と圧倒的な音量で厳かな気分になるパイプオルガンの演奏会で感じた。

化儀とは、指導する側(牧師や僧侶)が儀式的な面から民衆を教化していく方法をいう。一方で教義を弘めることを化法という。演劇で例えれば、化法は台本と演技であり、化儀は演出や舞台装置、衣装のことである。化法と化儀のどちらが欠けても宗教は広まらない。キリスト教の教義には愛という良い面もあるが、惨殺の血塗られた歴史を重ねてきたことは確かだ。だが、化儀の面では世界を大きくリードしてきた。

文化の力でキリスト教は飛躍した。建築、美術、音楽、文学、科学、服装、装飾など世界に与えた影響は計り知れない。日常的に季節の商戦でみてもバレンタインデー、ハロウィン、クリスマスなどキリスト教起源のものが、私たちの憧れの存在となってきたことは間違いない。

開館30周年を迎えたプラバホールではオルガンリサイタルが行われた。テーマは「つなぐ〜プラバホールのオルガンが紡ぐもの〜」。

小泉八雲作品を曾孫の小泉凡さんが朗読し、八雲の世界をオルガンとともに現代に蘇らせてくれた。松江・秋の風物詩・鼕行列との共演で、パイプオルガンの思いがけない多彩さを知った。ストップというつまみを調整して33種の音色が出せるという。マリンバとの共演では、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」に聞き惚れた。残響2秒と言われる緞帳のない豪華な舞台が無限に広がった。

(プラバホールのクリスマス飾り。こうした小物にも十分配慮したいいコンサートだった)
あれれまあ過ぎていくのがお楽しみ [2016年12月14日(Wed)]

fumihouse-2016-12-14T18_05_01-1-thumbnail2.jpg師走も早半ば。たくさんの楽しみが目前にある。唱歌『お正月』(東くめ作詞・滝廉太郎作曲)はこう歌う。

 ♪もういくつねるとお正月八分音符

待ちきれない子供の気持ちがよくあらわれている。気ぜわしいが大人も同じであろう。ユーミンの『14番目の月』ではこうも歌う。

 ♪つぎの夜から欠ける満月より
  14番目の月がいちばん好き八分音符

そう、そうなのだ。心待ちにしているその本番を待ちわびる、それが楽しみなのだ。いよいよ明日がその日ならば、今日は一日がんばろうという気持ちにもなれる。ところが意外とその本番はあれよという間に過ぎていく。愉快だな、面白いなと思う余裕もなく過ぎていくことが多い。お楽しみの前の日を存分に楽しもう。
見上げたら宇宙のかなた星乱舞 [2016年11月25日(Fri)]

fumihouse-2016-11-25T20_35_24-1-thumbnail2.jpg勤労感謝の日は第33回出雲市民合唱祭「みんなで歌う コーラスコンサート」で楽しんだ。時間の都合上、どの市民合唱団も親しみやすい曲を選んでいる。なかでも私の印象に残ったのは、『見上げてごらん夜の星を』(作詞:永六輔)である。

 見上げてごらん 夜の星を
 小さな星の 小さな光りが
 ささやかな幸せを うたってる

 見上げてごらん 夜の星を
 ぼくらのように 名もない星が
 ささやかな幸せを 祈ってる

作曲は、いずみたく。ゆったりしたバラードだが、YouTubeで聞いてみると、坂本九は朗々と天真爛漫に歌っている。日光ジャンボ機墜落事故で亡くなったのが40代の前半。坂本九といえばオジサンのイメージがあるが、青年期の充溢した歌声で日本を元気にしてきた人だった。

見上げてごらん。外へ出てみようよ。今夜は星がいっぱい見える。小さい光だねえ。細かな星々がささやかに幸せを感じていると感じないかな? 僕には豊かな宇宙の幸せを謳歌しているように見えるよ。見上げてごらん。あの星を。僕らのように名もない、、、いやいや僕らにも名前があるように、あの星にだって名前があるはずだよ。周りの惑星に住む宇宙人が恒星に名前をつけて日々営みを続けていると思わない? そして太陽と地球に向かって、幸せであれ、と祈りを捧げてくれている。そんな気がしてならないんだよ。
日毎夜毎君を思うと名を書いて [2016年11月20日(Sun)]

fumihouse-2016-11-20T22_16_22-1-thumbnail2.jpgポール・エリュアールのこの詩(安藤元雄訳)。4行のまとまりごとに「君の名を書く」と。片思いに悩むのか、それとも愛し合う女性を思うのか。誰でも恋歌だと思う。

  学校のノートの上
  勉強机や木立の上
  砂の上 雪の上に
  君の名を書く

  読んだページの上
  まだ白いページ全部の上に
  石 血 紙 または灰に
  君の名を書く

三段目から様相が変わる。締めくくりの修辞は同じだが、「兵士たちの武器」や「国王たちの冠」が出てくる。いったい全体何なんだ、この硬質感は。

それでも再び甘酸っぱいに題材になる。「白いパン」「切れ切れの青空」「湖のきらめく月」「鳥たちの翼」「途方もない山」「嵐ににじむ汗」「色彩の鐘の響き」「伸びひろがった街道」「いま消えるランプ」「心のこもる唇」の上に、君の名を書く。

  立ち戻った健康の上
  消え失せた危険の上
  思い出のない希望の上に
  君の名を書く

こうして恋を憧憬する言葉のゆく宛先が示された。作者が恋い焦がれるのは、単なる恋患いとは違う大きな普遍的価値だったのだ。

  一つの言葉の力によって
  僕の人生は再び始まる
  僕の生まれたのは 君と知り合うため
  君を名ざすためだった

  自由と。

エリュアールが愛慕するのは「自由」と明かすのだ。詩の題名は『自由(リベルテ)』。ナチスと命がけで闘争し求めた「君」だった。
ハーモニー仲間と我が身未来へと [2016年11月12日(Sat)]

fumihouse-2016-11-12T21_50_13-1-thumbnail2.jpgドイツの詩人ツェーザル・フライシュレンの『心に太陽を持て』は、山本有三の訳で名高い。

心に太陽を持て。/あらしが ふこうと、/ふぶきが こようと、/天には黒くも、/地には争いが絶えなかろうと、/いつも、心に太陽を持て。/唇に歌を持て、/軽く、ほがらかに。/自分のつとめ、/自分のくらしに、/よしや苦労が絶えなかろうと、/いつも、くちびるに歌を持て。

信長貴富氏が詩を再構成して作曲した男女混声合唱『くちびるに歌を』を、出雲市立斐川西中学校の合唱部員たちが聞かせてくれた。全日本合唱コンクール全国大会の報告演奏会での印象深いステージだった。男子たちの多くは体育部や吹奏楽部との掛け持ちだという。女子も含め、仲間とのハーモニーを楽しみ、がっぷり四つに組む若者たちの姿を見た。頼もしい。

フランスのポール・エリュアールの詩『わたしは孤独ではない』も心に残る。これも信長貴富氏の作曲だ。レジスタンス下のフランスで祖国のため仲間と懸命に戦ったポール・エリュアールの心情があらわれている。ナチスなどに拘束されない、命をかけて自由に生きるという心情だ。

『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞)を若い彼女らが歌うのも新鮮だった。黒沢映画「生きる」で志村喬が演ずる市民課長のあの歌だ。

いのち短し恋せよ少女(おとめ)/朱き唇褪せぬ間に/熱き血潮の冷えぬ間に/明日の月日はないものを
いのち短し恋せよ少女/黒髪の色褪せぬ間に/心のほのお消えぬ間に/今日はふたたび来ぬものを

恋せよ乙女たちよ。恋して告白せよ、少年たちよ。君たちに未来はかかっている。恋することを恐れるな。恋するたびに君たちの心は開き、一歩上の地平から人生を眺める。「くちびるに歌を持て/心に太陽を持て/ひとのためにも言葉をもて」と歌った君たちだ。仲間との絆をさらに深め、もっともっと大きくなってくれたまえ。

(大文字草という名前の草花。京の送り火、大文字に似ている)
三千年漢字とともに生きていく [2016年11月06日(Sun)]

fumihouse-2016-11-06T22_47_52-1-thumbnail2.jpg展覧会『漢字三千年 ─ 漢字の歴史と美』を見てきた(八王子の東京富士美術館で開催中)。漢字は今や現存する唯一の表意文字だという。古代エジプト文字などの象形文字が滅びてしまった現在では、他に表意文字はない。ひらがな、カタカナを含めて全ては表音文字である。

清国最後の最高権力者であった西太后の朱筆が心に残る。『福禄寿』と書いてある。「福」とは、神に酒を供えることによって神から与えられる幸せを意味するという。酒を入れた壺を神に供え祭るため手で支えている象形だ。300年の長きに渡って栄えた大清国。漢人を征服した満州の女真族でありながら、漢族以上に中華文明を深めた。

末期には西欧列強に蚕食され、新興国日本にすら戦争に負けた。最後の舵取りを任された西太后が配下に与えた書である。決して美しい文字とは思わないが、豪気に大清国の誇りを体現しようとした西太后の心意気を感じられる。

商(殷)の甲骨文字に始まり、全土で篆書体に統一した秦代、兵馬俑に刻まれた作者名「不」の文字、漢字が芸術となった王羲之や顔真卿の拓本も見応えがあった。今や中国、台湾、日本でしか使わない漢字だが、大切にしていきたいものである。
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