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新しいパラダイスなりシチリア島 [2019年08月25日(Sun)]

fumihouse-2019-08-25T21_18_42-1-thumbnail2.jpgこの世はキスでできている。何年かぶりで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』を見てそう思った。

いろいろなキスがある。親しき仲の抱擁と頬ずり、寝入った子供の足裏をすりすりする。これらも含めて身体接触の先にキスがある。

キスの集合体があった。アルフレードがトトに残した形見。かつて自主検閲によって切られたフィルムをつなぎ合わせたものだった。愛のクライマックスシーンが集められている。躊躇しながらの口づけ、磁石のN極とS極が一瞬で吸い付くようなキス。軽いタッチのキス、待ち焦がれた末のキス。愛する二人が交わす唇と唇、口と口・・。

トトは子供の頃、アルフレッドと一緒に観た映画を思い出しただけでなく、美少女エレナと重ねた愛の軌跡を思い出し、今の自分があることを改めて思う。生活に疲れたトトに気力が蘇る。

この世はキスでできている、とまでは言えないが、ひとに生きるエネルギーを与えてくれるものなのだ。

(優しく語りかけキスをするようにロマンチックな演奏をする・・・そう簡単にできることではない)
天才が一夜に見積り数式で [2019年08月15日(Thu)]

fumihouse-2019-08-15T12_53_14-1-thumbnail2.jpg『アルキメデスの大戦』では、菅田将暉の怪演が見られた。怪しいというか、迫真の議論場面、そして一心不乱に複雑な数式を黒板に書き記して居並ぶ海軍幹部たちの鼻をあかす。人を説得するとはこれだけの力量が必要なのかと思う。それは数学に限らない。並外れた何らかの技量に加えて、相手や国家を思う真心が合わさった時に人は感動し、納得してくれるものだからだ。

東京帝大の中退学生から、いきなり尉官を超えて海軍の佐官(小佐)になった櫂(かい/菅田将暉)。配下となった少尉(柄本佑)にとっては、軍隊経験もない若造が上官となる屈辱であったが、やがて櫂の姿に魅せられていく。二人の掛け合いに笑った。

美しいと思うものを何でも測らずにはおられない天才数学者・櫂。変人である。そのことを公言してはばからない。戦艦だろうが、芸者や美女だろうがサイズを測り、美しさの由縁たる比率を導き出そうとする。雅な遊び・投扇興をするにあたっても数学的に解明しようと試みる。その櫂が海軍に入って櫂で船を漕ぐことはないにしても、櫂君と呼ばれると海軍が連想されてシャレになる。

自己の利益を最大限得ていこうとする我欲、組織の深謀遠慮が渦巻いていた。議論に勝ったはずの技術の造船中将に櫂が最終的には屈してしまうのも、議論の力であった。アメリカとの戦争を避けようと論陣を張っていたはずの山下少将一派にも腹に一物があった。「数字はウソをつかない」と数学の力を信じた櫂だったが、人間の力というものに最後は丸め込まれてしまったようだ。

(オミナエシの季節。74年前のあの日にも、小さな五角形の花弁を咲かせていたことだろう。今日は敗戦の日。日本の再出航であった)
ひとは皆空と宇宙とつながって [2019年08月12日(Mon)]

fumihouse-2019-08-12T14_54_34-1-thumbnail2.jpg「ひとは誰もが空とつながっている」、帆高が発したそんなセリフが印象に残る。天気が気分に与える影響は計り知れない。太陽が燦々と照りつける春の朝と激しい雨音に目覚めた朝とでは、比べるべくもない。

映画『天気の子』は陽菜を「天気の御子」とした。すなわち天気という神につながる「巫女」。人柱と表現したが、むしろ生贄である。晴れる願いを天が聞きいれる代償として、陽菜は自分を差し出さなくてはならなかったが、帆高は諦めなかった。

新海誠監督の前作『君の名は。』では、三葉と瀧は逢魔時を媒介にして運命を開きあったが、最後には相手の名前ばかりか、相手の存在すらも認識できなくなる。今回は穂高と陽菜はハッピーエンドになりそうだ。最初の映画、『言の葉の庭』を見たくなってきた。

高校生や中学生がたくさんいた。なかでも男の子が多いのが印象的だ。あんなふうに告白したいのだろうなあ、と思う。彼らにとっては地球環境が危機的に変化している現状を憂う社会派ドラマではなくて、甘酸っぱい青春映画として見えたのかもしれない(巨大プール何十杯もの雨水が一度に落ちてくる豪雨の形容。あれは彼らにも響いただろう)。

ひとは誰もが空とつながり、天気は地球と一体、そして宇宙ともつながる。恋愛模様も含めて人間の営みは地球だけでなく、宇宙をも動かす。なんせ、天気は天の気分なのだから。

(熱帯夜が昨晩はましになったとはいえ、今日も酷暑が続く。台風10号が秋の空気を運ぶという観測に期待したい、被害は無しにして)
夜明け前今も昔も夜は続く [2019年08月06日(Tue)]

fumihouse-2019-08-06T18_40_07-1-thumbnail2.jpg映画『夜明け前/呉秀三と無名の精神障害者の100年』を見ると百年という歳月の速さに感じ入る。精神科医・呉秀三の物語である。

1世紀ほど前の1918年に『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』を呉医師は著した。そこには精神障がい者が置かれた悲しい「監護」実態があった。看護ではなく、監禁保護である。

当時の法律(精神病者監護法)では私宅監置、通称「座敷牢」に閉じ込められて外界との接触を断たれた患者に人権はなかった。社会にとって危険な精神病者を監禁するという発想から生まれた法律である。その差別の実態は長く残り、今でも偏見はつづいている。

狐や狢(むじな)の憑きものが発したり、祟りからくるという前近代的な認識は変わりつつあったものの、解明されない脳の病気であることは同じだ。医者にとっても治療は暗中模索。薬もない時代である。その中で、呉秀三は患者を人として遇し、座敷牢と身体拘束廃止を目指した。

呉医師は述べる。精神病者が不幸なのは病を受けたことだけではない、日本という国に生れたことなのだ、と。「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」

呉医師は医療者が患者と向き合うことを望んだ。今や患者さんを一人の人間として尊重する考え方に変わった。それでも映画の解説者は、座敷牢から病院監護へ替わっただけであり、心の中にある見えない檻や壁を取り去らなければならないと警告していた。長期の社会的入院が実態としてある。課題は大きい。
燃え尽きて天の国にて会えるのか [2019年07月16日(Tue)]

fumihouse-2019-07-16T21_04_23-1-thumbnail2.jpg『天国でまた会おう』は美しくも残酷、そして少し笑えもするフランス映画だ。舞台は第一次大戦で独仏が対峙した塹壕の中。そして戦いに勝って繁栄するパリ市内。

年配の元仏兵士アルデールは、同じ部隊だった若いエドゥアールと大博打を打った。エドゥアールに宿った類いまれな絵の才能。戦没者記念碑の建設巨費をだまし取る計画を二人は成功させた。騙した相手はエドゥアールの父だった。

戦死を偽装していたエドゥアールは、確執して別れた父を二重に騙した。エドゥアールが絵の道に進むことを許さなかった父と彼は相容れない。袂を分かった父子だったが、父は息子が生きていると知る。二人は抱き合い和解した。しかし、息子は「天国で会おう」と言い残して命を絶った。

傷痍軍人となったエドゥアールには鼻から下の顔がない。言葉も失った。身体と精神がそろっていない彼にとって、自分は自分でなくなった。どんなに絵の才能が際立っていても彼は彼として完結しなかったのではないか。顔がないことがどれだけの悲惨をもたらすか、私には想像できないのだが、エドゥアールには生きる希望が残されていなかったのだと思う。

彼はアルデールと少女と三人で暮らした。二人がいたからエドゥアールは生きた。大きな存在だったと思う。でも、それは自分の喪失感を埋め合わせるのには足らなかったのだろう。そこに、父との相克でぽっかり空いていた穴が埋まった。父と和解して最上の幸福感を得てしまったエドゥアールには、もう喪失は考えられなかった。だからそこで、ジ・エンドとしてしまったのだろうか。幸せでお腹いっぱいになったようにも思う。生きよ!生きて喜びを絵で表現せよ!という声が聞こえたのかもしれないが、彼は燃え尽きた。

(エドゥアールは燃えて真っ白になってしまった。カスミソウは燃えて灰になったわけではないが)
タラレバで爆弾並みの低気圧 [2019年07月02日(Tue)]

fumihouse-2019-07-02T18_57_16-1-thumbnail2.jpgシナノ企画が1977年に製作した映画『八甲田山』は、同作の『砂の器』に次ぐ名画と言ってもいい。軍隊というもの、日本における組織のあり方について考えさせてくれる。心構えを万全にして事前の準備がいかに大切かを思い知らされる。八甲田山雪中行軍で二百人近くの軍人を失った実話に基づく事件を、新田次郎が小説に描いた。

東北とはいっても雪の怖さを知らない太平洋側に生れた青森連隊の将兵たち。兵卒によっては遠足気分だった。それを率いる将校も一部は軽い気持ちで厳冬期の山岳に入ろうと考えていた。一方で弘前連隊の徳島中隊長(高倉健)は二十数名の少数精鋭主義をとった。遭難することもあり得ると悲壮な覚悟をもって双肩に責任を担った。将兵は日本海側に生れた者ばかりで雪には多少慣れているが、冬の八甲田山は決して人を寄せつけない(犠牲者はゼロ)。

青森連隊の指揮命令は神田中隊長(北大路欣也)に執らせるといいつつも、日露戦争の開戦を控え(実際2年後)監察と称して山田大隊長(三國連太郎)が伴っていた。彼は気まぐれな命令を連発し、結局はほとんどを死地に追いやった。指揮官としての神田中隊長は有能であったが、不運が重なり過ぎた。小回りのきかない大人数、上司への遠慮、引き返す勇気を持てなかった悲劇、複数回の判断ミス、超弩級の低気圧帯が通過したこと。タラレバを考えたらきりがないが、残念でたまらない。

(今朝松江駅でもらった、自衛官募集キャンペーンのティッシュ。現代の軍隊・自衛隊は隊員の命を大切にしてくれよ)
無常でも明日はまた来る信じてる [2019年06月11日(Tue)]

fumihouse-2019-06-11T21_41_35-1-thumbnail2.jpg2週ほど前のことだが、名画『風と共に去りぬ』の長丁場を乗りきった。我慢しての上映4時間ではない。あれよという間に中休みが来て、退屈する間もないほどの4時間だった。

お馴染みの主題曲がオーケストラの変奏となって続いていく。あるときは短調に悲しくスカーレットの絶望を表し、別の場面では明るく転じて彼女の喜びと一体となる。場面転換に応じた登場人物の心理を表し、運命の行く末を暗示してくれる。

南北戦争の動乱で大切なものすべてを無くしたスカーレット。でも私にはサラがある。南部ジョージア州のここサラで生きると決めた彼女は強かった。スカーレットは強くても、戦争は悲惨な爪痕を残し、アメリカが第一次世界大戦のヨーロッパ戦線に参加しなかったのもわかる気がする。国際連盟にすら紛争との関わりを恐れて参加しなかった。強国アメリカは第二次世界大戦を経て出来上がったのだ。

ジョージアの大地に今やスカーレットも淑女も農夫も奴隷たちも、全ては亡くなって存在しない。儚い思い出となって風と共に去りぬ・・。そんな詩がうたわれる。諸行無常の響きは儚いけれども、明日はまた必ず来る。

(スカーレットのドレスになりそうな明るいオレンジ色、ザクロの花が咲いている)
真実を求めてコナンそこにあり [2019年06月03日(Mon)]

fumihouse-2019-06-03T18_26_37-1-thumbnail2.jpg『名探偵コナン/紺青の拳(フィスト)』では、コナンが初めて海外に出た。変身状態でパスポートも使えない身だから、特殊スーツケースに忍んでの違法出国だ。かわいそうなコナン。ともあれシンガポールで大事件は起こり、コナンはアクション付きの大活躍をした。

伝説の宝石・ブルーサファイア紺青の拳を狙うのは怪盗キッド。今回はその悪党と組んだコナンが多くの命を救う。しかもキッドは銃で撃たれるケガを負うのだが、奇術のように治してしまったのが驚きだ。マリーナベイを舞台に近代海賊の一派とコナン・警察組が激突する。そこに思わぬ伏兵がいて座を混乱させるが、コナンは先刻承知。鮮やかな推理で事件は解決となる。

工藤新一が江戸川コナンになって既に四半世紀。物語ではまだ数年しかたっていない。未だに結末は見えないのに、人気は高い。今回も楽しめた。映画館の画面からはみ出しそうなほど迫力がありますよ!

(金魚草は英語名はスナップドラゴン。群がる蜜蜂を呑み込むドラゴンのイメージ。マーライオンはドラゴンではないが、伝説の獅子ということで竜に近いかも)
守り神ゴジラとモスラに唄がある [2019年06月01日(Sat)]

fumihouse-2019-06-01T17_04_02-1-thumbnail2.jpgゴジラには歌がある。モスラにも唄がある。その2体がタッグを組んだ。エンドロールでモスラの唄が流れ、笛の二重奏に目頭が熱くなった。メドレーは次いでゴジラ・ソング。伊福部昭の原曲に忠実な編曲に、背中がゾクゾクし涙がこぼれそうになった。低音の管楽器と男性コーラスの掛け声が加わって迫力満点である。

『ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ』には、日本版ゴジラへの尊崇が感じられた。昔のゴジラ映画にあった怪獣の組み合わせ、モスラが鱗粉でゴジラを癒すところ、モスラの哀愁を帯びた甲高い声、1954年初代ゴジラに登場したオキシジェンデストロイアー、初代からずっとゴジラの演技を続けた故中島氏への哀悼などオマージュの要素がたくさんあった。

『アベンジャーズ』に通じるテーマもあった。サノスが全宇宙の生命のうち半分を消滅させたのは、人間をはじめとして力を持ったものたちが宇宙のバランスを崩したから正常に戻すという理屈だった。

『ゴジラ』では人間が覇権の王となって自然の摂理を乱したから、太古の地球で覇権を争った怪獣たちが再びよみがえってきたという設定であった。幸いにゴジラとモスラは人間の味方だが、地球環境がさらに危機に陥ったときに、地球人を守ってくれるだろうか、と。ゴジラよ!どうか私たちを助けてくれたまえ。

(青い熱線を噴射するゴジラ。一方で赤いのはキングギドラ。両者の対決は如何なる結末になったのか)
キングから皇帝への道長い道 [2019年05月19日(Sun)]

fumihouse-2019-05-19T22_05_37-1-thumbnail2.jpg映画『キングダム』、素晴らしかった。終演時間がくるのが惜しかった。

吉沢亮(秦王・政)の美少年ぶり、かつ凛凛しく逞しい。朝ドラ「あおぞら」の柔らかで凛とした、たたずまいに加えて戦う気性がみなぎっていた。山崎賢人(信)が破天荒に演じて目力でも魅了される。ワイヤーアクションもすごい。大沢たかお(王騎)の戦闘シーンやおネエ言葉もなかなかだ。本郷奏多(成蟜)は怪演である。その横暴さ、嫌らしさに心から憎しみを感じた。

戦争に夢なんてクソくらえ、とどめを差そうとした強敵に対し、夢を持って悪いかと反撃した信。夢に託して戦闘力を蘇らせる信は、生真面目にかつ豪放にロマンを語り行動する。真っ直ぐに突き進む。それがこの物語の骨格の一つである。

この映画には、「ロードオブザリング」における集団戦闘の迫力に似て、強い軍隊がぶつかる時の質感を感じることができる。「るろうに剣心」に似て、個人の戦闘能力が極まった超美技と剣先の重さを感じた。2つを合わせた魅力を感じるのだ。

政が「耐え凌げば俺たちの勝ちだ!」と叫ぶシーンには魂を揺さぶられる。ピンチはある。しかしピンチは敵にとっても苦しいところ。ピンチはチャンス。逆転の形勢は必ずやってくる。敵とは人だけにあらず。自分すら自らの敵になりうる。環境だって時には敵となる。一方で味方となって助けてもくれる。日々は敵と戦い、味方を増やしていく毎日なのだ。

(春秋戦国の頃、中原の沃野にもこんな麦が実って、朝日に照らされていたことだろう)
勝ち負けに不条理な生死伴いて [2019年05月01日(Wed)]

fumihouse-2019-05-01T20_56_40-1-thumbnail2.jpg『アベンジャーズ/エンドゲーム』はアメリカンコミックのヒーローがてんこ盛り。ヒーローだけではない。描かれる世界観も同様に派手さ満開であった。アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソー、ハルク、ナターシャ、スパイダーマン・・・すべてのキャラクターを覚えてはいないが、シリーズ完結というにふさわしい。

前作「インフィニティ・ウォー」では、サノスが全宇宙の生命のうち半分を殺した。ヒーローたちも例外ではなかったが、残りの者が奇想天外な手法で反転攻勢に向かう。

最後のシーンで、キャプテン・アメリカが「自分の人生を歩んでみたかった」と述懐した。ヒーローとしてのものではなく、人として自身の生き方をしたいとの言葉に心が動いた。もし、別の人生を選択することができたらと、たら・ればで考えてみたいことは誰にでもある。激しい戦いを繰り広げるヒーローたちにはもっともな願望であろう。人間も同じだ。しかし、たらればはない。覚悟を決めて今を生きよ!と言われたような気がした。

心ひとつにサノスと戦う絆の強さに胸を打たれる。自己犠牲のもと他のヒーローを救おうとした。皆が同じ気持ちで戦ったからこそ、最強の敵に打ち勝つことができた。

確かに勝った。しかし、どんな勝利にも必ず犠牲者を伴う。不運にも弾丸が体を貫き、爆発に身が裂かれる。そして死んだり重傷を負う。若いスパイダーマンが無邪気にも勝った勝ったと喜ぶ姿にその感を強くした。

(赤系統の色でも噴き出す血の赤はいかん。淡紅色の芝桜は誰をも幸せにする)
埼玉に七百万の人ありて [2019年04月19日(Fri)]

fumihouse-2019-04-19T18_46_18-1-thumbnail2.jpg『翔んで埼玉』で笑った。自虐のギャグに大笑いした。ケラケラと笑わされ過ぎて、中盤以降は強烈過ぎて飽きがきた。眠たくもなったが、こんな映画もたまにはいい。

昔々、埼玉県民は東京都民から迫害を受けていた(いったい何時のこと? 時代考証など無視)。畜生のような扱いを受けて泣く埼玉県民がどんなに多かったことか。東京の探知機が【サ】を察知するや捕物が始まり、埼玉へ強制送還となる。地下に潜った埼玉県民の総意はともかく東京から認めてもらいたいのだ。劣等感に裏打ちされた独立意識の願望である。埼玉県民は、通行手形を発行してもらわなくても東京に行けることを夢見る。ダハハ、超のつくバカ話に笑うのだ。

現実に気分としてあるのは、千葉県とのライバル意識。千葉にあって埼玉にない海やディズニーランドへの憧れと嫉妬。埼玉県民は大変なのだ。しかも副都心の都会地とその他の地域との対立的な感情もあるらしい。一方で、後背地である群馬や栃木の存在。そちらからは埼玉に対して実際応援が寄せられる。複雑な埼玉感情に島根県民は笑ったのであった。

(朝露に濡れるウマノアシガタ。透明で光沢のある春の装いだ。もちろんきょうも黄色)
満開の桜の森に狂う夜 [2019年04月18日(Thu)]

fumihouse-2019-04-18T20_48_28-1-thumbnail2.jpgシネマ歌舞伎『野田秀樹版 桜の森の満開の下』を見た。坂口安吾の同名小説と、これも奇譚「夜長姫と耳男」をモチーフとしている。中村勘九郎主演で、ダジャレにボケ満載の笑える歌舞伎である。歌舞伎という古典文芸に囚われず、自由な発想で脚本がつくられ演出されている。

≪どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、森のまんなかに近づくと怖ろしさに盲滅法たまらなくなる≫

と、坂口安吾は記した。満開の桜の魔力に操られて人間は穏やかではいられない。桜花が持つ抗いがたい魔の力を、鬼の化身の夜長姫に織り込んだ。無明なる人間一般が持つおどろおどろしい欲と合わせて、幽玄な狂気として表現した。

ソメイヨシノの季節は今終わった。木々は来年の春、狂気乱舞するときのために力を蓄えていくこととなる。

(カタバミか咲いている。黄のやつは早春から咲いている)
未知ゆえに遭遇すれば創造す [2019年04月17日(Wed)]

fumihouse-2019-04-17T18_49_17-1-thumbnail2.jpg『未知との遭遇』、古い映画(1977年)ではあるが、蒼然と古びておらず輝いている。スピルバーグが放った渾身のSFを面白く見た。冴えない主人公ロイがUFOに取り憑かれていくのが執拗に描かれて飽きそうになったのだが、伏線がちゃんと張ってある。

宇宙人は地球人に軽いコンタクトだけとって帰っていった。続編を期待する向きもあろう。そもそも一体だけ出てきた火星人のお化けのようなのがボスなのか。何十体も出てきた幼児形態の宇宙人たちは、のちの『E・T』の伏線か、単に借用しただけなのか。

宇宙人は用意周到である。ロイが取り憑かれてデビルズ・タワーを造形するよう仕向ける → 家族が見捨てる → 現地に到着し米軍の監視をくぐり抜けて母船にたどり着く → 心置きなく乗り込んで連れ去られる・・周到に巧まずしては出来ない宇宙人の細工である。

かくてロイはどうなるのだろうか。研究し尽くされて地球侵略の片棒をかつぐのか? そうは思えない。彼らの科学力があれば侵略などたやすいことだ。単なる学究的嗜好だろうか。でもない。

わたしは思うのである。彼らは宇宙に侵略地を広げるなどと非効率的なことは考えない。征服された側がどれだけ強く抵抗するかは、地球の歴史が示すとおりだ。広い宇宙においても同じであろう。

きっと彼らはロイに教育を施して地球に帰す。そして、人びとが暴力抗争を避けて意見を擦り合わせ、仲良く語り合う方法を教える伝道師にロイはなるのだ。彼らが宇宙に連帯の輪を広げることを使命としていたとしたら、嬉しいな・・・。

ともあれ、あの音階が耳について離れない。光と音がハーモニーを奏でる。ソ・ラ・ファ・ファ(オクターブ低)・ドの5つの音階は神々しくもある。

第二次大戦中に行方不明となっていた戦闘機や船舶の乗組員が巨大母船の光に包まれて出てきた。アインシュタインの相対性原理で彼らは年をとらなかったことを示す。救出はされたものの彼らには時代から置いてきぼりになった寂しさだけが残る。どんなに神業を使っても、すべてが丸くおさまることはあり得ない。

(美しい花束も宇宙の造形である。もちろん宇宙によって造られた人類という英知によって間接的に施された造形ではある)
陰謀と欲がひしめく米政治 [2019年03月28日(Thu)]

fumihouse-2019-03-28T21_48_05-1-thumbnail2.jpg3年前の米大統領選挙でロシアとトランプ陣営が結託したのかどうか。特別検察官の捜査報告書を受けて、バー司法長官はロシアと共謀した証拠はないと議会に報告した。民主党は報告書の全文提出を求めて反発しているが、トランプ大統領は完全勝利を宣言した。

映画『大統領の陰謀』ではニクソンのウォーターゲート事件を描いた。古い話だが、共和党大統領が民主党の対立候補を追い落とすために、民主党本部があったウォーターゲート・ビルに盗聴機を仕掛けた事件である。

国家を揺るがした陰謀もワシントン・ポストの若手記者が執拗に追い、綿密に検証したからこそ表に出た。若い記者に扮するロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンがカッコいい。そして大統領弾劾へ、辞任となった。

一方でロシア疑惑。民主党には分が悪い。トランプの腹心だったコーエンの証言と暴露本はあったが、身内の憎み合いの範疇を出ていない。弾劾の動きが広がらないのは、上院では共和党が多数派であることのほかに、かつてのワシントン・ポストのように公器が汗をかいていないように見えるからだ。

トランプはしぶとい。相変わらず強気だ。このままでは楽々と再選されてしまうではないか。トランプのフォロワーたちは脅威であり、SNSの力でトランプを熱く応援する。

幸いに民主党に新星が登場した。46歳元下院議員のオルーク氏である。弁舌よし、集金力も抜群だという。ケネディの再来かもしれない。期待しておこう。

(ニセ物だが稲妻が走る。トランプの味方か、民主党の仲間か)
ピアニスト南部旅して覚醒す [2019年03月14日(Thu)]

fumihouse-2019-03-14T21_50_56-1-thumbnail2.jpgテーマは、覚醒ですね。映画『グリーンブック』を見ました。半世紀以上も前のアメリカの実話です。黒人の天才ピアニスト・シャーリーは、イタリア系移民のトニーを運転手兼ボディーガードとして雇い、アメリカ南部へ演奏ツアーに出かけます。トニーは腕っぷしが強くて短気、教養はなくても硬軟織りまぜたトラブル解決の名人で頼りになります。

トニーは黒人へ差別意識を持っていました。おそらくイタリア系移民として蔑まれた経験もあるのでしょう。黒人より自分はマシという自負があったのではないでしょうか。まさに差別する者が陥りがちな心理構造ですね。

シャーリーは多くの博士号を持つインテリで一流のピアニストです。差別意識を持っていたトニーでしたが、シャーリーの芸術家としての才能に惚れます。差別の心から覚醒していくのです。

シャーリーはどう覚醒するのか。彼は幼いときから恵まれて豊かでした。ケンタッキーフライドチキンなど食べたこともありません。手づかみでなんて下品で恥ずべきことだったのです。トニーの手引きでチキンの美味しさを知ります。手づかみの自由を体験します。覚醒したんです。

シャーリーは性善説の考えだったようです。人間とは信ずべき存在だと思う彼は、南部を旅してもニューヨークにいるのと同じように夜の街に出て酒を飲もうとします。差別主義の連中がたくさんいて、彼を叩きのめします。危ういところでトニーに助けられるのですが、差別の現実を知ります。

奴隷時代そのままに農園で働く黒人たちがいました。高級車に白人運転手付きのシャーリーを見て、彼らは感情のない表情で珍しいものを見る目つきでいました。シャーリーは奴隷根性に凝り固まった黒人にも受けいれられないことを知ります。かといって白人からは差別される。どちらにも属していないことに覚醒したのです。でも、アメリカ社会をなんとかしたいと目を覚ましたのです。グリーンブックなどというものが無くなる時代を目指したのではないでしょうか。

(グリーン・アスパラガスは翡翠色、そしてグリーンブックの色。黒人を受け入れる宿泊施設等のガイドブックは、もちろん今はないんだろうね)
パルプとはどろどろ低俗いうことよ [2019年03月07日(Thu)]

fumihouse-2019-03-07T18_23_56-1-thumbnail2.jpg『パルプ・フィクション』は、名監督タランティーノの映画だが、私にはわけがわからない。チンピラのジュールスと相棒ヴィンセントはボスの命令に従って黒いアタッシュケースを運んでいる。入っている大切なものは何だろう。開けたヴィンセントの顔は金色に輝いていた。金の延べ棒か宝石か? あのこだわりようから考えると単に財物ではない。何だろう?

ジュールスは追い詰めた敵を銃で撃って殺すとき、聖書の一節を暗誦する。何度かそのシーンがあったのだが、緊迫感がありすぎて古文調ということもあって、字幕の内容が頭に残らない。心正しき我は怒りに満ちて汝に懲罰を課し制裁する・・・そんな身勝手な理屈だったように思う。

しかし、ジュールスは神を信じていることをもって神の加護があった。相手方が突然逆襲してきて、ありったけの拳銃の弾を撃ち込まれた。だが弾はすべて逸れて助かった。ジュールスは喜んで、チンピラ稼業から足を洗った。一方でヴィンセントは信仰心がなかった。次のヤマで彼は無惨に撃ち殺された。

オムニバス形式かと思っていたが、それぞれがつながって、なるほど!とは思ったが、それで何? という感じ。タランティーノ監督随一の名画と評判ではあるが、わたしには何の感慨もなく2時間半が過ぎていった。エロとグロが激しくて、少々気持ちがささくれもした。穏やかな映画がみたいなあ。

(映画の本質はどこにある? 布に覆われて先は見えないのかも)
禁酒法陽気なギャングにワンスアポン [2019年02月16日(Sat)]

fumihouse-2019-02-16T20_36_22-1-thumbnail2.jpg4人のミニギャングが暗黒ビジネスで本物のギャングに育っていく。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は100年ほど前、禁酒法時代のニューヨークの暗黒街を描いている。封切り時に見たものとは全く違う映画だった。そのはず、あのときは1920年代と60年代を描いていたが、このリニューアル版は、年を重ねた80年代の主人公ヌードルス(つまり本当に年取った今のロバート・デ・ニーロ)も追加していたからだ。

傑作映画と言われるが4時間11分。長さに辟易した。トンチ、ユーモア、哀愁も希望が描かれてはいても、基本は凄惨な殺しあいの世界。少年たちはのしあがるが、所詮は綱渡りの犯罪行為で悪党の勢力争いでしかない。かりそめの友情も裏切りによって失われる。

ヌードルスが阿片窟でヤクに陶然とする様子は、死んだ仲間たちを追悼するにふさわしいラストシーンだったのだが、今回加えられた筋書きで哀悼痛惜の感じが吹き飛んだ。銃社会アメリカの狂った歴史を思い知らされたような気がする。

儚い人生をギャングが狂気と抗争で終わらすのも、アメリカ・ファーストで歴史に学ばない狂気を振りかざすのも、大国アメリカの一つの姿だろうか、と考えさせられた。

年老いたヌードルスは幻影を見た。禁酒法時代の若者たちが陽気にどんちゃん騒ぐフォードが走り去った。それを古き良き時代のアメリカの夢、すなわち「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の象徴と見るかどうかは、人それぞれだ。わたしには全く感情移入できない映画だった。

(暗黒時代のアメリカ・ニューヨークの工場群ではない。出雲・ビッグハートの黒のホール天井だ)
ホテルにて仮面で舞踏錯綜す [2019年02月03日(Sun)]

fumihouse-2019-02-03T16_09_38-1-thumbnail2.jpg映画『マスカレード・ホテル』は緊張感を保った。眠たくはならなかった。一つには超一流ホテルスタッフのキリッとしたたたずまい、豪華なエントランスに始まり、居心地のよい客室で厚いもてなしを受けている錯覚があったからであろう。気分が良ければ眠くならない。

二つ目は、ホテルの利用客は非日常の場で仮面を付けている。素性を明らかにせず、本性を隠し、本心を表さない。仮の姿で身を飾り、ある者は悪心に踊り、密会を楽しむ。それぞれの仮面舞踏会(マスカレード)が興味深く描かれていたからだろう。非日常で扮装すれば眠くはならない。

三つ目は、プロ意識に裏打ちされたプロの技がみられたからだろう。出会ったときから丁丁発止と火花を散らし、対立関係にあった刑事・新田とフロントクラーク・山岸だったが、職務精神や洞察力、技能に互いが舌を巻き合う。感銘を受ければ眠くはならない。

ホテル利用客は仮面をかぶっている。そのなかで仮面を被った予告殺人犯を捕まえることができるのか。新田は「客」の仮面を剥がそうとし、山岸は「お客様」の仮面を守ってさしあげたい。立場の違う二人は衝突してばかりだったが、尊敬の念から価値観を共有しあうようになる。

二人が真に信頼以上のもので結ばれるのは、事件の核心に至ったときだったが、ここまでにしておこう。原作小説とは違う設定に替えてあったが、その良さを十分引き出した映画であった。

(高級ホテルの日本庭園に設えられた石灯籠もまた高級な素材を使っていることだろう)
無二の歌アリーとジャック永遠に [2019年01月27日(Sun)]

fumihouse-2019-01-27T16_17_57-1-thumbnail2.jpg映画『アリー/スター誕生』ではレディ・ガガの、存在感も含めた圧倒的な演技力を知った。彼女が全霊を注いで表現したのは、歌に思いを込めること。そして愛する人にいかに愛ある言葉を注ぐかということ。

二人を死が分かつ、別れのときがくる。最後の言葉をどうかけるのか。そもそも最後だなんてわかるわけはない。だから「じゃまた」と別れる。結果として最後になった言葉が不誠実なものであったとき、お座なりの言葉であったとき、後悔する。ましてや自殺だったとしたら悔悟は限りなく深い。今この時は二度とない、大切にせよと理性は命じても、感情が許さないときがある。

「君の歌は奇跡だ」と称賛するジャックと出会ったことは、アリーが破竹のスターダムに上るきっかけとなった。二人がかけがえのない関係になる始まりでもある。一方でジャックはアルコールや薬物依存に病んでいく。アリーへの嫉妬の感情も多分にあった。身を持ち崩すうちに、アリーへの負担が大きくなっていくが、複雑な思いを抱えつつもアリーは見捨てず励まし続ける。

だがジャックは死んだ。追悼コンサートでアリーが歌ったのは、彼が依存性の治療中に、ノートに残した歌詞を曲にしたものであった。「もう君しか愛すことはできない。君としかキスできない」と歌姫の歌声は悲しくも美しく聴衆の心を奪ったのであったた。

(砂岩のレリーフに描かれた神童たちは、どこかもの悲しい)
願いたしボールを集め背を高く [2019年01月14日(Mon)]

fumihouse-2019-01-14T20_34_54-1-thumbnail2.jpgひとというものは、どこまで闘う衝動を持っているものかと思い知らされた。むろん、サイヤ人など人類ではない架空のアニメ世界のものであるのだが。映画をうみ出したのは人間の理性と本能だ。

孫悟空はスーパーサイヤ人にして孤児。幼名はカカロットなのだそうだ。ドラゴンボールの基礎知識はあまりないが、『ドラゴンボール超ブロリー』を見た。その孫悟空を上回るサイヤ人がブロリー。孫悟空もブロリーも出自は不幸ではあるが、傑出した闘争力を持っている。

どんなにぶちのめされても倒れず反撃していく。とどめを差したと思っても相手は蘇ってくる。その応酬を見るうちに慣れっこになって眠くなるのが玉にキズではあるが、迫力ある戦闘シーンであった。

この物語の主題の一つが7つのドラゴンボールを集めること。7揃うとどんな願いも叶うという。ただし一つだけ。笑ったのは、女ブルマの願いは5歳ほど若返ること。10歳や20歳では目立っていけないのだそうだ。宿敵フリーザの願いは5センチ身長を伸ばすこと。巨大な身体になると周りに笑われるからと。

宇宙を滅ぼすほどの戦いを繰り広げて、詰まるところの願望がその程度のものだとは恐れ入った。笑った。ひとというものの境涯は、狭い範囲にしか及ばないのだと感じたところだ。

(遠い遠い星間宇宙の編み目ではない。牛久大仏のそば、アミ・プレミアム・アウトレットの店舗照明装飾)
知性派はパリの恋人つかみとる [2019年01月03日(Thu)]

fumihouse-2019-01-03T21_55_59-1-thumbnail2.jpgオードリー・ヘプバーンの『パリの恋人』。原題は「Funny Face」。おかしな顔とはなんと! 妖精オードリーの顔をこき下ろすとは、おかしな話。生意気という意味もあるようで、書店員ジョー(オードリー)の理屈っぽさが始めに非難されたことにも関係があるのかもしれない。

製作は1957年。「ローマの休日」が1953年で大ヒットしたのでなぞらえて「パリの」、永遠の妖精のイメージで「恋人」を邦題に入れた意訳であろう。

名所がこれでもか、と出てくるミュージカルだ。凱旋門、シャンゼリゼ、セーヌ河、ノートルダム聖堂、ルーブル、エッフェル塔。ジョーとカメラマンのディック(フレッド・アステア)がラブストーリーを演ずる。ダンスの名手アステアに合わせてオードリーが優美にして可憐に踊る。そしてジョーがトップモデルへと変身するシンデレラストーリーとなる。

知性がにじみ出る粋なセリフがある。
(ジョー)Why am I so happy?
    なんで私そんなに幸せなの?
(ディック)Because I say you are.
    僕がそう言っているからだよ

女たらしが発する単発の言葉ではない。ポーズをとる際にディックは、ジョーの魅力を引き出すために的確な言葉で指示を出す。年上ということもあるけれど、実に知的でかっこいいのだ。ジョーが恋に落ちるのは当然と思わせる。

当時最新のカラフルな映像と、ゴージャスな衣装に理知と可憐が合わさったオードリーの容姿。正月に見るにふさわしい映画であった。
戦争の世紀幾度も大悲哀 [2018年12月29日(Sat)]

fumihouse-2018-12-29T15_04_39-1-thumbnail2.jpg『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』は、ハリー・ポッターシリーズのエピソード2で、20世紀初頭の魔法界を描く。ホグワーツでハーマイオニーが熟読した教科書「幻の動物とその生息地」の著者が主人公である。前回の主舞台はニューヨークだったが、今回はパリ。

ニュート・スキャマンダー役のエディ・レッドメインがキュートである。対人関係に臆病でおずおずしているのだが、戦うときは決然と勇敢で頼もしい。ティナ役のキャサリン・ウオーターストーンが、これまたキュートな美貌だ。9等身のプロポーションでありながら、ショートカットのおかげもあって温かさを醸して好ましい。

東洋の美形クローディア・キムが魅力的だが、役はナギニ。後にヴォルデモートの忠実なペットの巨大蛇になるというのが悲しい。偉大な魔法使いではあるが一教師に過ぎない若きアルバス・ダンブルドアは、渋くジュード・ロウが演じている。

最強の悪魔法使いグリンデルバルトは人間(ノーマジ)を配下に収めたい。人間と魔法使いはともに共存してきたのだが、第一次世界大戦の惨禍と痛みが残っていることを利用して、支援者たちが人間どもを憎むよう煽動する。

「人間の傲慢さ、権力への欲、暴力を知るがいい」と嫌悪を向け、集会の場に同じ魔法使いながら人間に味方する闇払いがいる、奴らへの憎しみを募らせよと。魔法界での大戦争が始まった。続編に期待したい。

(魔法で宙に浮かんだかのような灯火。大根島・由志園にて)
クリスマスキャロルとストーリー復活に [2018年12月16日(Sun)]

fumihouse-2018-12-16T16_45_58-1-thumbnail2.jpgもうすぐクリスマス。クリスマスメロディをあちこちで耳にし、クリスマスの飾りつけがきらびやかだ。映画『Merry Christmas! ロンドンに奇跡を起こした男』は、チャールズ・ディケンズが19世紀半ばに「クリスマスキャロル」を上梓したときの物語だ。

小説家ディケンズが登場人物と語り合う。筋をすすめ互いに合意したかと思うと、反目して不機嫌になる。現実生活と物語が渾然となって妄想がつのり、家族は小説家の言動に戦々恐々となる。世間は変り者だと陰口をたたく。常に葛藤をかかえ、摩擦の大きさゆえにひどく消耗していく。

葛藤はもっとある。暗闇だった幼少期、父や母との確執、理解しあえない妻・・・。一方で経済的には破産が目の前にある。小説家はやっとこさ、ファンタジー『クリスマス・キャロル』を書き上げた。

スクルージは冷酷な守銭奴。究極のエゴイストで愛には縁がない。だが、彼はクリスマス・イヴに精霊の力によって自分の悲惨な来世を知り改心する。物語を通して人々のキリスト教への信仰を呼び覚ましたわけだ。讃美歌のクリスマスキャロルがハッピーエンドを祝う。

20世紀に多くの歌ができた。「ホワイトクリスマス 」「赤鼻のトナカイ」「ジングル・ベル」などは20世紀版のクリスマス讃美歌と言えるだろう。作中でディケンズはドイツから伝わったクリスマスツリーが英国にも広まると予見する。クリスマスソングとクリスマスツリー、この二つがなかったらクリスマスは味気ない。そもそもこれだけ一大行事にはなっていなかっただろう。

純粋な信仰とは異質だが、一時廃れていたクリスマスはキャロルとストーリーによって、すなわち世俗的な魅力によって復活したと言ってもよい。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」も大いに貢献した。

わたしはディケンズを読んだことがない。さっそく図書館に走った。村岡花子訳『クリスマス・カロル』、感想はいずれ後日。
ボヘミアン私は負けない進み行く [2018年12月05日(Wed)]

fumihouse-2018-12-05T17_29_49-1-thumbnail2.jpg 私はチャンピオン 私たちは王者だ
 困難を数々乗り越えて ここにいる
 悪戦苦闘するのは昔も今も同んなじさ
 それでも俺はチャンピオン
 負けじ魂ここにあり

そんなふうに不屈の魂が、クイーンの音楽から響いてくるように感じた。クイーンのことはあまり知らないが、ボーカルのフレディ・マーキュリーの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』に胸が熱くなった。

究極のロックンロール。アップテンポで体制を批判し、情感を歌い上げ、強者より弱者の目で世の中を見ている。言葉はきついが優しさにあふれている。クイーンの音楽、なかでもマーキュリーの熱唱は生半可な情緒や詩的表現など捨てて、熱く篤く気持ちを語る、叫ぶ、訴える。

作中では欲や金に色気が出たり、仲間割れや恋人との別れもあった。バイセクシャルであることを自覚するときは、LGBTがマイノリティだった当時は(今もそうだが少しはまし)、どれだけの苦痛であったことか。ましてやエイズの治療薬がない30年前にはマーキュリーは後悔にもさいなまれ続けたことであろう。

しかし彼は止まらなかった。苦しんでも俺はチャンピオン、負けるものかと。見る人すべてに応援歌となるこの映画はただいま大ヒット中。ゆめタウン出雲の上映館でもこれまた異例の大入り。一見の価値あり、素晴らしい映画だ。

(クイーンとは対極にある落葉の詩的美。出雲高校久徴園下のアスファルト通路に落ちた錦繍の数々)
日日になお重ねて好きよ日よりかな [2018年11月25日(Sun)]

fumihouse-2018-11-25T18_00_39-1-thumbnail2.jpg『日日是好日』は美しい映画であった。茶道という作法は形式から入り、やがて内実に心を込めて、もてなし、励まし、未来の希望をわき立たす。20歳の典子(黒木華)が暦が二巡するうちに成長し、困難を乗り越えていく基礎にお茶がある。この世にはすぐ分かるものと、長年かけてじっくり育んでいくものの二つがあると。即答ばかりを求める現代に、長期の視野で身体で覚えさす納得の生き方を提示してくれるかのようだ。

『日日是好日』は美しい映画であった。典子が幼さの残る学生から一人前の女性として美しくなっていく様子を描く。おねんねから大人へ。好奇心に満ちた目の輝きを保ったまま、素敵に年を重ねたのが好ましい。多くの場面で主人公に共感して涙をもよおす。

『日日是好日』は美しい映画であった。格別に絶景が広がるわけではない。舞台の多くが武田先生(亡くなった樹木希林)宅の庭に面した座敷である。掛け軸、茶器、茶菓子、和服、庭、暑さ寒さなど季節の彩りが静かに豊かに描かれた。派手ではないが日本の美に目を見開く。日日は即ち是れ悲しみも喜びもすべて堆積なり。好い映画が見られて嬉しく思う。

(季節の彩り、日が当たれば紅葉は鮮やかに光り、雨が降ればしっとり落ち着く)
選択を許されざるを許すまじ [2018年11月17日(Sat)]

fumihouse-2018-11-17T22_18_22-1-thumbnail2.jpg毎日は選択の連続である。やる・やらない、行く・行かない・・・私たちには選択肢がたくさんあり、より良き選択をすることによって人生が開くと思っているし、現実にそうだ。しかし、過酷な運命に翻弄される人にとってみれば選択肢はない。運命に導かれるようにして悲劇的結末に飛び込んで、不幸せが連鎖していく。

映画『ソフィーの選択』は、選択がひとつのテーマ。それに併せて、アウシュビッツをはじめとした強制収容所で亡くなった人々への鎮魂の物語であった。

天才的な闊達さで対人関係を如才なく切り盛りし、その博識に周囲が舌を巻くネイサン。一方で彼は病的に躁鬱の浮沈が激しく(のちに病気であることが明かされた)、狂暴な愛憎表現がソフィーと友人スティンゴの二人を心配させ、恐れさせ、振り回す。

ソフィーの美しさ(若いメリル・ストリープははかないほど美しい)が際立つ。悲劇的な美である。運命に抗うことをしなかった。なぜなら、ふつうのポーランド人でユダヤ人ではないのに、強制収容所に収監され、二人の子供を助けられなかったからである。生き残ってしまったがゆえに、自分が幸せになることを許せなかった。ソフィーに恋心をもった年若いスティンゴ。不安定な三角関係も観る者を不安に陥れる。

選択肢はある、希望は残っている、あなたの命を繋ぐために努める人はどこかにいる。そんな人生観を、諦めきって目の光を無くした人々に届けたいと思える映画であった。

(情の深い人々の赤い血潮ではない。わたしの赤いスマホケース)
億万の長者になって不幸せ [2018年11月09日(Fri)]

fumihouse-2018-11-09T17_18_52-1-thumbnail2.jpg映画『億男』は笑えない。高橋一生(九十九)と佐藤健(一男)、このコンビが学生時代からの親友同士を演じ、大学落研の高座で場内を沸かせたが、わたしには笑えない。10年たって、九十九は一男の3億円を持ち逃げしていたからである。

カネを持つことの意味、カネという人間界にのみ通じる記号が主人たる人間をいかに苦しめるかを矢継ぎ早に描いて、観る者にのし掛かる。妻役の黒木華も、あの優しいほころびた笑顔を見せてくれなかった(最終シーンの笑顔でやっと救われた)。

カネは人を変える。カネ持ちが過ぎるのはもちろんのこと、カネがなくても愚かしく振り回されて、人は自分らしさを失う。自分らしさというけれど、醜い本性が見えて崩れていくだけ。

一男は兄に背負わされた3千万円の借金を抱えて苦しんでいた。そのせいで妻(黒木華)と小学生の娘と一緒に暮らせなくなったと嘆く。妻は、カネに翻弄されて人格が変わってしまった一男に、嫌気がさしていたのだ。カネが手に入って借金を返しさえすれば元の幸せが戻ってくると、一男は信じていたのが愚かしい。

しかし、一男は自分のバカさ加減に気がついた。悔し涙を流して途端にどんでん返し。一男は再び3億円を取り戻した。親友・九十九の滋味あふれる行動の意味を知ったのだった。

九十九は、人生を豊かにするために必要なだけのお金があればいい、そんな意味合いのことを言った。お金は欲しい、でも必要なだけ。昔のひとは言いました。少欲知足・・・欲は少なく、足りることを知れと。飽満な贅沢は人間をダメにする。

(暖かい光を投げかける温かいデザインのランプシェードの元で読書をする、お茶を飲む、語らうとはなんて幸せなこと)
柿食えば鐘が鳴るなり様式美 [2018年10月19日(Fri)]

fumihouse-2018-10-19T23_18_52-1-thumbnail2.jpg様式美を追求した映画であった。『散り椿』はキャメラマンとして大成した木村大作監督の作品だ。画面のひとつ一つが綿密に計算されたものであろう。それぞれの場面が美とともに、緊迫感をもって見る者に迫ってくる。

江戸中期の物語。藩首脳の不正を訴えたがために藩を追われた剣豪・新兵衛(岡田准一)。離れてなお刺客が襲ってくる環境。連れ添った妻(麻生久美子)が病没。死の床で託した最期の願い。故郷に舞い戻り因縁の者たちと対峙。争いが表面化し多くの人を巻き込む。姉を宿したかのように新兵衛を慕う里美(黒木華)・・・。

緊張感いっぱいのストーリーにあって、花も風景も建物も雪の京の街角も故郷の緑も人々も、全てがきりっとした輪郭をもって画面が展開していく。「ゴッドファーザー」のテーマに似たメロディもまた叙情と緊張を高める。

ナレーションは豪華にも豊川悦司。それでいて、物語の説明をセリフで表そうとするから少々無理がある。もったいないと思う。脚本に難があるように思った。刺客たちが人の顔貌(かおかたち)をしていないのも不満があった。小さな藩である。知り合いもいようし、新兵衛に立ち向かうのは恐怖をもつ者もいるはずなのに、ためらいもなく斬りかかり、いとも簡単に殺されていく。まるで仮面ライダーのショッカーのように平板で人間味がない。が、画面の美で補って余りある。

クレジットタイトルの出演者やスタッフの名前は全て自筆だったのに驚いた。自筆は一期一会。活字のように同じ字にはならない。だからこそかけがえのない存在である。武士の生き方の美も一度だけ、二度同じことはない。人生全てが同じこと。凛として覚悟をもって動いていこう。

(椿に似ているが、山茶花が咲く季節となった。これから数ヶ月は目を楽しませてくれる淡いピンクのかわいいヤツ)
繰り返し食べて結んで命なぐ [2018年10月01日(Mon)]

fumihouse-2018-10-01T21_51_44-1-thumbnail2.jpg『食べる女』は生命力あふれた映画だ。エンディングで、8人の女性たちが卵かけご飯を食べる。ある者は飯茶碗を手に持って掻きこみ、またある者は上品に箸ですくう。いずれも美味しそうに、食べることを楽しむ。食事を大切にすることは、自身を愛おしむこととイコールなのだ。もうひとつのテーマは愛しい人とのセックス。

8人の独身女性をそうそうたる女優陣が演ずる。小泉今日子、沢尻エリカ、前田敦子、広瀬アリス、山田優、壇蜜、シャーロット・ケイト・フォックス(朝ドラ「まっさん」の妻役)、鈴木京香である。

食べるという営みは生きる上で無くてはならないもの。仕事をする、人と会う、セックスをする、ゆったり過ごす、眠る。人間にとっていずれも欠くべからざる営みであるが、なかでも食事と睡眠は健康であるための大きな要素だ。ないがしろにはできない。しかし時間がないという理由でぞんざいに扱ってしまいがちなもの。美味しく食べようと思った。美味しそうな所作で食べようと思った。食べることは真剣に生きることだ。
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