ああ無情炎狂いて人を追う [2016年03月17日(Thu)]
火事見舞いにうかがった。火災の余韻どころか、全焼した家屋からはくすぶった煙がなおも立ち上っていた。屋根の一部を突き破って家を破壊した炎は、すすけた壁だけを残して家中を焼き尽くした。
消防車やパトカーが何台も留まり、ホースがからまるようにしてあまた伸びている。消防署員や警察官、なかでも銀色の消防マントを羽織った消防団員が多数任務について、総勢7,80人の姿が見えた。鎮火して片付け段階に入ったとはいえ、民家一棟を焼いた火の大きさがほど知れる。 幸いに風は吹いておらず類焼はなかった。近所の人に聞いてみると、火柱が渦になって恐ろしかったという。竜がとぐろを巻いて何者かを襲おうとしている姿に見えたのかもしれない。その竜は星空をバックに非情にも暴れまわった。 幸いにご家族全ては無事だったが、気がついたときには火の海で為すすべもなく、着の身着のままで避難されている。ご主人は淡々と悔やみの客に応対しておられた。隠された苦衷たるや、いかばかりであろうか。ご婦人は気丈にふる舞っておられた。火事の様子を話してくださるうちに痛恨の念が体を貫いたのか、嗚咽が漏れる。子どもたちは元気にしてはいたが、あれも燃えた、これも無くなったと気がつくたびに喪失感にさいなまれるであろう。 慰めの言葉をかけることができなかった。かける言葉がない。火事の原因に関し慚愧の念で自分を責められたので、言葉を選んで発してはみたものの空疎である。心には届かない。再び黙って話を聞いてさしあげるしかなかった。 火災保険はおりても、持ち物や家という空間にあったかけがえのない思い出を無くされてしまった。大きな痛手だ。悔やんでも悔やみきれなくて何度も涙をこぼされるであろう。 あのご家族の立ち直りを願い、雄々しく立ち上がっていかれることを祈る。祈りとは空疎な観念ではない。言葉や行動、ましてや金銭では補えない間隙を埋めていく作業である。ひとを成長させる偉大な精神活動だ。 (美味しい苺。今はまだないが、いずれ邇摩高校ではイチゴ栽培を模索している。地域の方々に喜んでいただけますように願う。そしてあの家族がイチゴを囲んで団欒を楽しまれるときが来ることを祈る) |